◆「せっかくいいカモだったのに。どうしてくれンのよ?弁償してくれる?」先ほどまでの怯えた弱々しい態度と一転、ストリートオイランめいた女は大袈裟 に嘆息しふてぶてしい強気でモネにまくしたてた。鮮やかな赤のアイシャドウと唇。年の頃はモネと同年代、2つ程上だろうか。 (関わるんじゃなかった……)げんなりと眉をひそめるモネにズカズカと迫りながら、ふいに女は怪訝な顔で首を傾げた、サクランボめいたピアスが揺れる。 「……まさかあンた、ニンジャ?」◆ ◆「!」女がぽろりと零した一言にモネは目を丸くして硬直。その反応に、言った女自身も「しまった」という顔をした、沈黙が流れる。やがて女は息を吐き、 やれやれと首を振り不機嫌にアイサツした。「……ドーモ、はじめまして。アイデアルです」 ニンジャだ。手を合わせオジギした女に困惑しながら、モネもまたオジギを返した。「ドーモ……スイセンです」もはや名乗らなくなって久しい彼女の本当の 名、モネは仕事用の名前だ。ニンジャがアイサツをされたらアイサツし返さねばならぬ、神聖不可侵の掟である。◆ ◆「うっわ……最悪。稼ぎの邪魔されたうえニンジャだなんて」自分から因縁をつけ名乗っておきながら、アイデアルはハンズアップし首を振った。スイセンが 口を開く前に続けてまくし立てる。「弁償は勘弁したげるから、もう関わらないでよね。わかった?」 アイデアルは早口の捨て台詞と共に、倒れたサラリマンの懐を探り、手早く財布と携帯IRC端末を抜き出し足早に去っていった。「ファック!スッカラカン じゃないのよクソ野郎!」遠くから罵倒が聞こえた。◆ ◆その場にひとり残されたスイセンは唖然と佇み、ぽつりと呟いた。「なに、あの人」◆ 【エヴリィ・フラワー・マスト・グロウ・スルー・ダート】#2【後半】 (死のう)忌まわしきペニシリウムに犯されたあの日。路地裏のゴミ溜めでひとしきり慟哭したスイセンはゆらりと立ち上がり、フラフラと表通りに 向かった。目深にフードを被った朧げな人影。数メートル先の視界さえおぼつかぬ滝めいた大雨の中、誰もスイセンに目を配る者は居なかった。 やがてスイセンは夢遊病者めいてフラフラと車道に出ると、真ん中で立ち止まった。『ザッケンナコラー!』「子持ち昆布」と荒々しくショドーされた トレーラーが大音量のヤクザクラクションを鳴らして迫る。スイセンはギラギラと光るハイビームライトを浴びながらぼんやりと佇んだ。 それはカタナを握ろうにも左腕も右手も使えぬ彼女の咄嗟のセプクだった。いかにニンジャといえど既に満身創痍の身で大質量のトレーラーに撥ねられれば 死ぬ。爆発四散は汚れた肉を跡形もなくこの世から消してくれる。ホワイトアウトする視界の中、スイセンは静かに目を閉じた。 BOOOOOOM!『スッゾコラーッ!』トレーラーは轟音とけたたましいヤクザクラクションを響かせノーブレーキで走り抜けていった。スイセンは撥ねられる 寸前のところで腕を引かれ歩道に引き倒されていた。「何してんだこのバカ!!」息を荒げる細身の中年男性の大声。スイセンの意識はそこで途絶えた。 ◆◆◆ 「……夢」テーブルでうたた寝していたモネ……スイセンは目を開けた、時間は午前0時。今日は珍しく終盤の予約が入っていない。飛び入りの客か予約が 入るまで休憩室で休むつもりがそのまま寝てしまっていた、随分前の記憶だった。 「アァーン!」ドアの向こうから泣き声、先日入ったばかりのたどたどしい新人マイコか。「アイエエッ!何かの間違いです!ちゃんと着けてから挿れたん ですよ!?それがいつの間にか消えてて、これはもはやミステリ―で」「ザッケンナコラーッ!」「アバーッ!?」 女々しい客の言い訳と黒服の恫喝、ズルズルと音を立てて悲鳴は遠ざかっていった。慰謝料が足りねばその場で臓器が質に入るだろう、いつものことだ。 机に頬を着いたままスイセンは欠伸を噛み殺す。「だいぶお疲れネ」鏡台でメイクを直しながらルコウが声をかけた。 「"これでいい"なんて言って、平気な平常運転のつもりでどんどん萎れて低空飛行。第二段階ネ」「いくつまであるんですかそれ」「さぁネ」メイクを 終えたルコウは立ち上がった。女のスイセンから見ても息を呑む程の色香、喉仏は厚いチョーカーで隠れている。 「今日はもう今のうちに上がっちゃいなさい、店にはアタシから言っとくワ。チャを挽かせてるより体調崩して出勤予定に穴開けた方が痛手ってネ」 「そうします。アリガトゴザイマス」一礼したスイセンは素直にルコウの言う通りにし、ロッカーに向かった。実際今日は酷く疲れていた。 モネ……スイセンに入る客には、その態度・性癖共にロクな者が居ない。キョート令嬢めいた眉目秀麗と礼儀作法のうら若いマイコを実際安い価格帯で、 そして自らNG行為なしを標榜する数々の個人オプション。淀んだ欲望のヘンタイ達には垂涎もの、だがそれを差し引いても今日の客は最悪だった。 …………「できた。見てよコレ」墨筆を手に客はニヤニヤと笑った。ベッド横の壁の鏡に映るスイセンの全身。額から頬、バスト、下腹部、太腿、ヒップ…… 全身いたるところに「肉」「簿価1円」「関東平野」「穴子」「正一」「ツヨシのやらかし」などのブッダも顔を背ける猥褻なコトダマが書きこまれている。 「どう?上手でしょ僕?全然自慢じゃないけどショドー初段」当然嘘である。表現としての崩しや躍動感を履き違えた、熱湯をかけられのたうち回るミミズ めいた字。スイセンは努めて無表情の仮面を深く被った。(……汚い字)鏡に映る様を見せつけ上下しながら客の自画自賛は留まらず、そのまま三度達した。 …………「モネチャン、その手袋の下どうなってるの」「古傷があります。お見苦しいので」マイコの詳しい事情にあえて深入りする客はそうはいない。 世間話めいて適当に受け流して終わり、後ろ暗い話なら猶更である。だがこの客はニヤリと笑みを浮かべ、スイセンの嵌めたままの手袋に侵入し前後した。 「アーイイ……ザラザラしてこれは……ウッ!」手袋の中で震え弾けて染み込む熱。「フゥーッ……これ効くから、体にいいからタンパク質。いっぱい擦り 込んであげるから。ン?」「……アリガトゴザイマス」グジュグジュと掌に纏わりつくあの夜と似た生暖かい感触に、俯くスイセンの顔は青褪めていた。 単純な行為の内容で言えばこれら以上に女として、人間としての尊厳を否定されるような、理解不能の倒錯行為を強いられた事は山ほどある。もはや 慣れきったそれらに何を感じる事も既に無かった。むしろそれはスイセン自身が望んでそうしている事だったからだ。 ◆◆◆ あの日セプクに失敗し意識を失ったスイセンは、気付けば狭い診療所のベッドの上に居た、裂けた右手には縫合処置。呆然と天井を見つめるうちに 見舞いにやってきたのは、あの時の細身の中年の男。見ず知らずの汚された女のセプクを見咎め止めた上、怪我の面倒までみたお人好し。 男はスイセンをあえて咎める事も深く事情を問いただす事もしなかった。猥褻な色街、そもそもマッポーの世では毎日のように幾らでも起こるチャメシ・ インシデントだ。いちいち気にしては身が持たない、だが目の前で見過ごしては目覚めが悪い事だった。勝手に止めた理由はそれだけだと言った。 スイセンは男に感謝などしなかった。むしろ己がまだ生きていることに深く失望し、惨めさに泣いた。セプクとは逃避ではなく己の意思で自身に幕を引く、 いわば最期の名誉と誇りを貫く神聖な儀式である。それにさえ失敗したのだ。 もはや己には武家として、ニンジャとして誇りを抱えて死ぬような誉は許されない。泥に塗れたまま腐っていくのが相応しいというブッダの戒めなのだろう。 ベッドの上で泣き崩れるスイセンの反応に、男は思った通りと言わんばかりに後悔を滲ませ嘆息しつつ、ひとまず期限は設けず治療費の請求をした。 退院と共にスイセン……ナデシコ・オウショウはウグイス地区に根を下ろしマイコに、モネになった。かつては考える事も憚られた猥褻の数々に自ら染まる。 その度に恥と尊厳を切り売りし、ドゲザし、卑しい欲望の捌け口になった。それは生きるための手段ではなく目的だった。 忌々しい古傷を新しい傷で上書きしていくようなヤバレカバレ。そうして汚れる度に胸を締め付ける悔恨も未練もプライドも感受性も、ナデシコ・オウショウ だったものが、ザイバツニンジャ・スイセンであったものが、心が壊死していく。何もかもがどうでもよくなっていく。楽な逃避だった。 治療費の返済は早々に終わり、男は苦虫を嚙み潰した顔で受け取った。それからもスイセンは店に留まり、無目的にマイコを続けている。全てを汚してなお ブザマに生き永らえた己に相応しいと言わんばかりに、進んで泥の中に沈み緩慢に窒息していく生き方を彼女は選んだ。 そして月の砕けたあの日……ネオサイタマ上空にキョート城がに突如現れカタストロフを引き起こした悪夢的光景。全てを投げ打ち堕落した己を罰しに来た のだと、スイセンは震え項垂れてドゲザした。だがウグイス地区はその禍を免れ、気付けばキョート城は現れた時と同じように忽然と姿を消していた。 同時に、それまでスイセンの内にしばしば沸き上がり焼けるような煩悶をもたらしていた、ザイバツ・シャドーギルドという組織に対する郷愁或いは後ろめたさ は、淡雪の如く消え失せていた。その奇妙な感覚に、己はついに最低限の誇りの残滓さえ失ったのだと解釈し、スイセンの捨て鉢な在り様は更に深まった。 そして時が過ぎ、今に至る。 ◆◆◆