開いた扉の向こうを覗き込むと、獣魔兵団の隊長たちが、揃ってこちらを見返した。『大顎』隊長、ムッサ・ヴォル、『飛翼』隊長アルバストロ、『幻獣』部隊長ドラゴニス、いずれ劣らぬ猛者たち。ラニングはやや気圧されつつ質問する。 「お、おれ後にした方がいいですか?」 「構わん、一言で終わる」  獣魔兵団参謀、コングロード。彼は凶暴な真紅の目を向けて答え、その一瞬後に、部屋全体が震えるほどの大声で吠えた。 「我が獣魔兵団は、子供を前線で戦わせるほど、兵に困窮してはおらん!」  ラニングは全身の毛を、はりねずみのように逆立てて跳び上がる。 「私も同じ意見だ、若き紳士よ。君の年頃の少年を、戦場に送るのには反対する。君にはまだ、学ぶべきことがある」  アルバストロが柔らかな低音で同意した。 「そうだ、もっと体ができてからでも遅くはない」  ドラゴニスも同様に首肯する。 「……」  ムッサ・ヴォルだけは巨大な口をつぐみ、黙っていた。無視しているのではない、こちらの様子を伺っているのだが、声をかけてこない。 「……」  ラニングも黙って彼の様子を伺った。彼はこの魔物が苦手だった。以前出陣前の様子を覗きに行った際、魔豚の丸齧りを目の前で見て、おしっこをちびってしまった過去があるのだ。 「何度来ても同じだ!子供は勉強をしていろ!帰れ!」  廊下に追い出されたラニングの背の後ろで、扉が音を立てて閉まった。扉の内から、コングロードの咆哮が漏れ聞こえてくる。 「やはり全軍突撃しかない……」  ラニングは鼻をこすった。なぜかチョコレートの、甘い香りを嗅いだような気がした。 「そりゃコング様ならそう言うよなァ!」  身長3m近いブラッディオーガの声は、ラニングからすれば、頭の真上から降ってくるようである。 「あの人大卒だもんよォ、自分が勉強して出世したからな。他所の子にも勉強させたくなるんだろ」 「それで、G・C・レックスにひどい目に遭わされるの?」 「そういうこたァ言っちゃいけねえよ。誰も遭いたくてひどい目に遭う訳じゃねえ」  猫々ヨモギの声に、ブラッディオーガは困った顔をした。 「……そう……まっすぐ振って。……いい」  久しぶりにゴッカンから本部に帰ってきている、"ブリリアント"ブリザードウルフの指導を受けながら、ラニングは少し考える。 「でもおれ、戦えるようになりたい」 「勉強しながら訓練すればいいじゃん?」  テネブルが顔いっぱいに、朗らかな笑みを浮かべる。そうやって笑うと、本来いささか近づきがたい顔立ちの彼は、とても陽気に見えた。 「もう、気軽に言ってえ」 「我学歴皆無、助言不可能、謝罪……」  ブリザードウルフが、声を出さずにふっと笑う。 「……模擬戦、やってみよう」 「うん!」  ブリザードウルフが、訓練用の刀を構える。ラニングもさっき教わった通りに構え、ブリザードウルフの打ち込みに備える。 「……動きを、よく見てね」  ブリザードウルフの言葉と同時に、北風のように剣が渦巻いた。ラニングは彼に言われた通り、目を見開いて剣の動きを見た。 「……剣だけ見ちゃ、だめ」  右から左から剣が飛んでくる。ブリザードウルフにしてみれば、ゆっくり振っているのだろうが、目で追うだけで精一杯だ。対応したくても、体がついていかない。鼻先を掠めた剣に、ラニングはひゃあと声を上げる。 「……急ぎすぎたかな……?」  ブリザードウルフは困ったように、少し微笑んだ。 「……ラニングは小柄だから、相手の意表を突く戦術がいいかも」 「意表をつく……?」 「かんたんかんたん。こうやるじゃん?」  傍らで見ていたテネブルが、突然ぐにゃりと脱力する。 「ええ……?」 「でこう!」  テネブルの片腕が、蠍の尾のように、背の後ろから振り下ろされる。 「予想外の場所から打つのね。スキをねらーう」 「スキ?」 「相手が考えてないことするのさ」 「相手が何考えてるかって、どうしたらわかるの?」  ラニングの問いに、今度は虎丸が応じた。 「みせて あげる。ヨモギ、あいてを」 「あたし〜?」  虎丸の指名に、ヨモギはちょっと不服そうな様子を見せたが、前に進み出た。 「きみの 武器を つかいなさい」 「怪我させちゃうかもよ?」 「心配不要。君的武器、一筋足共、我的肉体接触不能」 「あんた、都合の悪いこと言う時、東方語になるの、どうにかならないの?」  虎丸が心持ち腰を落とした姿勢を取った。ヨモギはゆらりと袖を宙に漂わせる。 「きなさい」  虎丸の声と同時に、ヨモギの左袖が素早く振られた。ジャッ、と金属が擦れる音。 「えっ」  袖から鎖が伸びていた。出るところは見えなかった、伸びてから鎖だとわかった。なのに、虎丸はそれを躱して距離を詰め、ヨモギの懐に入り込んでいる。 「あいての 手では なく 目や 体を みる」  虎丸がヨモギを打とうとする、ヨモギの右袖が振りあげられる。きらりと光る何かが見える、虎丸はそれが現れる前に、攻撃を回避している。 「なにをするか みえてから では おそい」  ヨモギの手に、鉄の鉤爪が装着されていた。虎丸は鉤爪の二撃目を、鎖の側の袖に回り込んで避けた。確かにその距離では、鎖は役立たない。 「あいてが なにを したいか 自分が なにを したいか 考える」  ヨモギの袖が再び振られ、鎖は手品のように曲剣に入れ替わる。刃が優雅に回転した。虎丸は身を沈めて剣を回避し、至近距離を離れぬままに、ヨモギの脛を狙う。 「……そこまで」  ブリザードウルフの声がかかる。二人は動きを止めた。 「まだ ほんき じゃない」 「本気になる気だったの?」  ヨモギが鼻に皺を寄せる。 「みていて どうだった?」 「難しいよ……二人共、何考えてるかわかんない」 「あせらないで。きみには さいのう が ある」  虎丸の声を頭の上に聞きながら、ラニングは下を向いた。 「おれ、ずっと訓練ばっかりだ。おれだって獣魔兵団だし、早くみんなみたいに戦場に出たい」 「それは……」 「その……」  獣魔兵団の大人たちは、視線を交わし合い、発言のタイミングを探った。 「君非常可愛……」  虎丸は東方語で言った。 「え?」 「ラニングは かわいい……」  虎丸は噛みしめるように言葉を紡いだ。 「うぶげ など ぱやぱや してて……」 「うん……なでなでしたい感じ」 「……わかる」  ヨモギの声に、ブリザードウルフも頷く。 「小さいのにがんばってて……すごくえらい」 「なんで!?おれかわいくないし!そういう話じゃなかったじゃん!」 「オレらこれでもオトナじゃん?ラニングくんくらいの子はすっ……ごいかわいく見えるの。あ、変な意味じゃなくて、守ってあげなきゃーって」  むくれるラニングに、テネブルが慌てて伝える。 「いいじゃねーか、もうちょい大きくなると、誰にもカワイイって言ってもらえなくなるぜ?オレなんかラニングくんぐらいの頃、もうその辺のおっさんぐらいのデカさだったから、全然可愛がられなくてよォ」  ブラッディオーガが鋭い牙を見せて笑う。 「おれは今の話してるの!!」 「小狼所有鋭利的牙……」 「子供扱いされると腹立つの、わかるわ……」 『小僧』  ここまでずっと黙っていたデビルズチェーンソーが、不意に言葉を発した。 『俺を持ってみろ』 「いいの?」 『持ってみろ』  ラニングは言われた通りに、チェーンソーを持ち上げようとする。 「うわっとと」  普段、ブラッディオーガが片手で軽々振り回しているチェーンソーは、驚くほど重い。 『持ち上がらないだろう』 「待って……多分こう……」  ハンドルを両手で掴み、腰を落として重心を低く置く。全身の力で持ち上げる。 「できた!」 『……やるじゃないか』  デビルズチェーンソーは、やや驚いたような雰囲気を示した。 『だが、正しくはこうだ』 「わわっ」  突然自分とは別の意思によって、強制的に体が動かされた。背筋に力が入り、背骨が真っ直ぐに立てられる。両腕ではなく上半身全体の筋肉が、チェーンソーを固定し、しっかりと支持した。 『そして、動く時はこうする』 「わっ!」  自分の体が勝手に動き出す。両手はしっかりとハンドルを握ったまま、全身のバネを駆使して、上半身ごと武器を振り回す。 「よしとけ、明日筋肉痛になっちまうぞ」  デビルズチェーンソーは相棒の声に返事をせず、エンジンを吹かした。金属の牙が高速で回転し、鋼の獣が吼えるような、耳障りな音を上げる。 『斬るぞ。目はつぶるな。逆に危ない』  ラニングは言われた通り、目を見開いて、自分の動きを見た。重量物を振るう反動を利用して、勢いをつけ、一息に刃を振り下ろす。 「わっわっわっわあっ」  刃がキュンと鋭い音を立てる。骨を直接伝わって、猛烈な振動と騒音が響く。チェーンソーの刃は軟らかなクリームでも切るように、ものの数秒で太い丸太を切断してのけた。 「よせって言ってるだろ?」  ブラッディオーガが後ろから手を伸ばし、ひょいとチェーンソーを取り上げる。おそろしく巨大で重かったチェーンソーは、大柄なオーガの手の中で、普通の片手剣くらいのサイズに見えた。 『お前、これ斬ってみろ』 「おう」  ブラッディオーガは片手でチェーンソーをくるりと回し、丸太にちょいと当てた。振動を苦にする様子もなく、刃を押し込み、易易と切断を終える。 『わかるか。お前は若すぎる』  デビルズチェーンソーが言う。 『才能があろうが、その体格では俺を振り回せん。剣だろうが槍だろうが同じだ。あと5年待て』 「いや、ラニングくんは大人になっても、オレのサイズにはならねえよ。ヴォルフガングさんもオレよりは小せえ」 『今俺が話してるだろう。つまらん茶々を入れるな。……とにかく時を待て』 「待って!もう一回!」  ラニングは再びデビルズチェーンソーを手にする。さっき教わった通りに、チェーンソーを上半身で固定し、少しふらつきながらも真っ直ぐに立った。 「……できる!」 『参ったな。大したものだ』  デビルズチェーンソーは素直に称賛した。 「止めるんじゃなかったのか?」 『まあそうだ。振り回してくれるな、絶対に事故になる。だが、とにかくカンがいい』  ラニングはちょっといい気分になった。しかし直後、その程度のいい気分など、吹き飛ばす出来事が起きた。 「レバニラ先輩〜っ!!」 「ラニング〜っ!!」  遠征に出ていたレッドバーニングライオンが、帰ってきたのだ。ラニングはデビルズチェーンソーを返すが早いか、レッドバーニングライオンに飛びついた。たくましい手が、頭をもみくちゃにする。 「おお〜ゴキゲンになっちゃってまあ」 「我彼的思想理解、紅炎獅子先輩非常親切、敬愛」  周囲の声を無視して、ラニングはぶんぶん尻尾を振った。レッドバーニングライオンも満面の笑みで、ラニングの頭をゴシゴシ撫でる。 「元気にしてたか?」 「うんっ!レバニラ先輩も活躍した?」 「勿論さ!俺たちは強いからな」  ラニングの鼻を血の臭いがかすめる。レッドバーニングライオンの後ろにいた、ブラックランサー=ケット・シーは、腕に包帯を巻いていた。 「怪我したの?」  ブラックランサーははにかんだように笑う。 「心配はいらない。私は強い。こんな傷一つ、なんてことはない」 「そうさ、俺たちは大丈夫だ。ラニングは何も心配しなくてもいいんだぜ」  レッドバーニングライオンは笑顔で拳を作ってみせた。ブラックランサーも微笑んで首肯する。 「そうだ。ラニングは、これから強くなることだけ考えればいい」 「みんなそういうんだ。でも……おれもみんなの役に立てたらいいのに」  レッドバーニングライオンの笑顔が、少し困った色を帯びる。 「うーん、ここでできる仕事、たくさんあるだろ?危ないことしてほしくないなあ」  レッドバーニングライオンは、ラニングの頭を撫でながら、しみじみと言った。 「うちの子が戦場についてきたら、泣いちゃうよ俺」  そうかなあ。尊敬する先輩にもたしなめられて、ラニングは一応納得した。でも、やっぱりもっと、胸を張れるような仕事がしたい。 「ランサーさん、一応医療室に行ってきた方がいいんじゃない?今日オズワルド先生いるし、腕は確かなはずだよ」 「そうか……卿か……」  テネブルの言葉を聞いて、ブラックランサーは辛そうな顔をした。  それからもやはり、 「ラニング!いい所に!この書類を届けてきてくれ!」 ラニングの望むような、 「デリバリーありがとッス。末骨さんの配ってるやつで悪いッスけど、小魚アーモンドどうぞッス」 目覚ましい戦果を、 「オホホホ!小さいのにお仕事?偉いわねえ!これ、お菓子とブロマイド。持っていきなさいな」 挙げられる仕事は、 「静かにせよ。……これはな、図書館の外で食べよ」 回ってこないのだった。 「ねえねえ、ラニングくんは、どうして戦いたいの?」  寧寧は、煎餅をかじりながら首を傾げる。どっさり貯まったお菓子を山分けし、子供たちは秘密のパーティに興じる。 「どうしてって……」  ラニングにとっては当然のことで、理由を考えてもみなかった。ラニングはしばし考え、答えを見つける。 「父さんみたいに強くなりたいし、兄ちゃんみたいにかっこよくなりたい。みんな戦ってるのに、おれだけ守ってもらうなんていやだよ。みんなの役に立ちたい」 「じーじが言ってたよ。じーじは一日で機械を作れるけど、本当はその一日でできたわけじゃないって」  エゴロリータが、指についたクリームを舐めながら言った。 「たくさん勉強して失敗したけいけんが、一日にぎょーしゅくされてるって」 「ロリまでおじいちゃんみたいなこと、言わなくていいよ」  ラニングは口をとがらせた。 「ラニングくんは大丈夫」  寧寧が新しいクッキーに手を付けながら言う。 「すぐ大きくなるからね。私と違って」 「そうなの?頑張り屋さんね、ラニングくんは」  ダースリッチ軍魔術師、ノルチア・シクラーサは、目を細めて笑う。 「軍にいるのにずっと役に立ててない気がして、なんだか情けないです。おれもみんなと一緒に戦いたい」  クリューソスとアルギュロス、二人の門番に見送られ、ノルチアと並んで魔王城の門を出る。珍しく魔王城から少し離れた場所に、荷物を届ける仕事を頼まれたのだが、今回もラニングは守られていた。元戦闘職のノルチアと二人で、同じ場所への配達業務。暗くなる前に帰りつける距離だし、危険な目に遭うことはないだろう。 「私も前線にいたけれど、戦っている時の兵士って、それ以外にできることはあまりないの。未来がある子に、選択肢をあげたい気持ちはよくわかるわ」 「戦場、に、は、こわいこと、ばかり」  ノルチアと仲良しの、小さなアンデッド、マミー・マミーも、首を前にかくんと落として頷いた。マミー・マミーの友達、小さな鳥型の魔物トリトリックもついてきて、三人の頭を巡回したり、木から木へと渡ったりと忙しなく飛び回っている。  ふと、獣の臭いがした。ラニングは毛を逆立て、小さな声で警告する。 「何かいる……」  ノルチアが、ほんのわずかに、緊張した表情を浮かべた。 「そのまま歩き続けて。表情も、動きも、変えてはだめよ。何がいるかわかる?」  ノルチアはさり気なく、マミー・マミーを引き寄せた。ラニングは鼻をひくひくさせて、空気の臭いを嗅ぐ。 「動物園の、トラやオオカミの檻みたいな臭い……」  風向きが変わる。突然強い獣臭が、顔に吹きつける。 「……すぐそこにいる!」  シャドーウルフは声もなく飛びかかってきたが、ラニングの警告のために、奇襲には失敗した。魔術が起こす風が、ラニングの頬をなぶった。ノルチアの放ったマジックミサイルが、シャドーウルフを捉える。 「トリトリック!」  ノルチアの声に、怪鳥が鋭く鳴き返す。 「誰か人を呼んできて!」  トリトリックは小さな翼を武者震いさせ、勇ましく飛び立つ。 「私たちの足じゃ逃げ切れないわ。誰かに助けてもらうか、戦って追い払うしかない」  痛手を受けたシャドーウルフが、よろよろと立ち上がる。ノルチアは魅了の魔眼をはじめ、支援の魔術に長けるが、攻撃魔法はやや不得手だ。 「おいて、いって」  マミーマミーが小さな声ながら、決然と言い放つ。 「食べて、るすきに、にげて。しぬ、の、は、なれてる」 「ダメよそんなの!」 「ダメだそんなの!」  二人は声を揃えて叫んだ。 「ノルチアさん!おれは大丈夫、マミーマミーを守って!」 「あなたは!?」 「おれだって獣魔兵団なんだ!」  ラニングは、護身用の短剣を抜き放った。シャドーウルフが飛びかかってくる。思い出されるのは、ブリザードウルフの声。 『……動きを、よく見てね』  シャドーウルフの牙の軌道を予測し、最初の一咬みを回避する。 『相手が考えてないことするのさ』  記憶の中の、テネブルの笑い声を聞いた。相手が考えていないこと。シャドーウルフは、荷物が武器になると考えるだろうか。 『目はつぶるな』 「やああっ!」  デビルズチェーンソーの動きをイメージしながら、力いっぱい荷物を振り回す。荷物は、見事にシャドーウルフの鼻面に命中した。巨獣がキャンと悲鳴を上げる。相手が驚いた隙を狙い、脅かしてやろうと、大声で叫んだ。 「お前たちなんか全然怖くない!」  もちろん嘘だった。同じ狼型の魔物、ヴォルフガングやブリザードウルフにある、優しさや知性が、シャドーウルフの真紅の目には、全く見て取れなかった。 『あいてのしたいことを、かんがえる』  新手のシャドーウルフが牙を剥く。虎丸に言われた通り、相手の考えを想像する。奴らは、ラニングが意外と手強いことを知った。こいつはおれを抑えに来た。本当の狙いはマミーマミーだ。 「このっ……!」  ラニングは一頭目に荷を投げつけ、横から飛び込んできた、二頭目の前に割り込んだ。シャドーウルフが一瞬怯む。ヨモギの動きを真似て振った剣は、命中はしなかったものの、脅威と認識されたようだった。 「無茶をしないで!」  ノルチアが再度魔術を放つ。獣の一頭は肩に傷を負い、二頭目はもろに光の弾丸に撃ち抜かれて倒れる。シャドーウルフたちがざわめく。 「どうだ!今逃げるなら見逃してやるぞ!!」  短剣を振り回し、威嚇するラニングを前に、野獣たちは躊躇し……唸った。その口の中の牙は、ラニングの歯よりもずっと鋭くて、長い。 「こ、怖いもんか……!」  シャドーウルフは長く唸り声を上げた。真っ黒な体の中で、白い牙と赤い目だけが、ぎらぎらと光って見えた。ラニングは短剣を握りしめた。手の中の柄は、情けないほど小さく感じられる。 「怖くなんかないぞ!!」  唸り声を打ち消すように、咆哮が轟いた。シャドーウルフたちが、びくっと反応した。  突風に飛ばされたハンカチのように、トリトリックが飛んできて、マミーマミーの胸に飛び込んだ。マミーマミーは親友を抱きしめる。 「トリトリック!」  小さな鳥を追って駆けてきたムッサ・ヴォルが、再び咆哮した。巨大な顎が開き、びっしりと生えた鋭い歯が、白く閃いた。シャドーウルフたちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。逃げ遅れた一頭が消えた。巨大な顎の中から、ぐしゃっと何かの砕ける音がした。 「無事か!」 「ええ!ありがとう!」  ムッサ・ヴォルの声に、ノルチアが頷く。 「ンッ……!」  ラニングもお礼を言いたかったのだが、ムッサの血まみれの顎を見たとたん、声が詰まってうまく出てこなくなった。ムッサ・ヴォルは突然黙ってしまい、ノルチアの後ろに隠れた。 「どうなさったの?」 「いや……」  ムッサ・ヴォルは後ろを向いて、彼の体躯からは小さすぎるハンカチを取り出し、口元をごしごしと擦った。ラニングは突然気がつく。この人は怖がられているとわかっていて、気を使ってくれているのだ。 「ごめんなさい、ムッサさん」  そうとわかると急に恐怖がなくなり、ラニングは謝罪することができた。ムッサ・ヴォルは、シャドーウルフよりも、ずっと優しい存在だった。ムッサ・ヴォルは、ぱちぱちと目をしばたたく。 「な、なんだ、どうした……」 「それと、ありがとう」 「……うん」  ムッサは居心地悪そうにもぞもぞすると、チョコレートを取り出して、ラニングとマミーマミーに渡した。 「食べなさい。これは貰い物だから気にするな」  ラニングの鼻に届く甘い匂い。その香りに記憶をつつかれ、ラニングは思わず言葉を発する。 「ムッサさん、チョコ食べるんだ……」  ムッサ・ヴォルは、しまったという表情を浮かべ、きょろきょろと周囲を見回した。 「いいか。秘密にしておいてくれ。頼むぞ」  ムッサ・ヴォルが声を落とし、囁いた。 「本当は俺は、生肉なんか食べたくない」 「えっ」  ラニングもつられて、小声で驚いた。 「じゃあなんでいつも、動物丸かじりにしてるんですか?」 「イカれた男だと思われていた方が、都合がいいからだ。敵は俺を見れば恐れ、味方も俺がいれば勢いづく。不都合といえば、フルーツパフェを食えないことぐらいだ」 「パフェが好きなんですか?」 「秘密だぞ」  ムッサ・ヴォルは、強面の顔一杯に真面目な表情を湛え、いかめしく頷いた。ノルチアが横を向いて、小さな笑い声をこぼす。 「ふふ、すみません。ムッサさんを笑ったんじゃないんです。二人とも、あんまり真剣だから……」  ムッサ・ヴォルは頷き、いかめしい顔のままで続ける。 「いいか。仕事というのはな、好きなことばかりはできないし、やりたくないこともやらねばならん。俺が生肉を喰うのも、お前が魔王城に閉じ込められているのも、それが仕事だからだ」  ムッサにそう言われると、納得するしかない。ラニングはしゅんと尻尾を垂らした。 「心配するな。お前は勇気があるし、強い子だ。立派な戦士になる」 「そう、あなたは強くなるわ」  ノルチアも微笑んで同意した。 「今日も私たちを助けてくれたもの」 「ムッサさん」  ラニングは誰もいない隙を見計らい、こっそりムッサ・ヴォルの部屋を訪れる。 「この前はありがとうございました」 「うむ。気にしなくていい」  ムッサ・ヴォルは威厳をもって頷いた。 「それで……」  ラニングは小声になり、ここまで隠してきたお菓子の箱をそっと差し出す。 「これ、お礼です。おれのお小遣いで買いました」  ムッサはお菓子の箱とラニングを見比べ、威厳を崩してちょっと微笑んだ。微笑んだところで、その顔は、ますます恐ろしくなるばかりだったが。 「半分こしよう」 「でも」 「いいから」  ムッサは箱をばりっと開け、中のお菓子の半分をラニングに押し付けると、残りの包みを開け、さっそく一つ自分の口に放り込んだ。 「おいしいですか?」  ラニングはおずおずと問いかける。ムッサ・ヴォルはいかつい顔を綻ばせた。 「うん。ありがとう」