天岩戸  翌朝、目が覚めると『私』はどうやらアイドルではなくなっていたらしかった。  正確には、打ち上げやらなんやらで帰宅したのは日付を跨いだ後だったから適切な表現ではないのだけれど、全身に残る疲労感とできる限りのことはやり切ったというわずかながらの満足感が昨夜のステージが夢ではなかったということを物語っていた。  枕元のスマホに手を伸ばし、スリープを解除して時間を確認すると、設定を消し忘れたアラームよりもちゃっかりと早く目を覚ましてしまっていたらしい。染み付いた習慣に苦笑を漏らしつつ、万が一のことを考えて遅刻しないようにと5分おきに設定したそのいくつかを拍子抜けなくらいにあっさりと削除した。思うところがないわけではないけれど、いつまでも残しておくようなものでもないだろう。  明日からはきっとけたたましい電子音に眠りを妨げられることはなく、新年度までは束の間のモラトリアムを享受できるはずだというのに、今朝に限っては寝なおす気がまるで起きなかった。身体はこんなにも疲弊して睡眠を欲しているというのに、心と体はちぐはぐだ。  仕方なく身体を起こす。さっとカーテンを引くと建ち並ぶビルの隙間から朝日のオレンジが容赦なく眼球を突き刺してきて、思わず目を細めてから手元の端末に視線を落としながら窓を開けた。ベランダのサンダルにつま先を差し入れる。氷のような冷たさが足の裏から頭の天辺まで駆け抜けていって、身震いをした。  睡魔に負けてそのすべてに目を通しきれなかったRAINの通知を指先でスクロールしていく。既存メンバーであったり、事務所のスタッフさんであったり、一足先に卒業していったメンバーであったり、親交のあった共演者や関係者であったり。その数はそれなりに膨大で、アイドルという仕事の上でこれだけの人と関わってきたのだなぁと再確認した。  吐き出した真白い息が木枯らしに乗ってまだ完全には動き出していない都会の朝に混ざっていく。メッセージに対する返事を打ち込みかけて、早朝ということを思い出してやめた。幸か不幸かしばらくは時間だけは余るほどあるのだし、昼ごろから返信ラッシュを開始することにして今は内容の確認にとどめておく。  胸のどこかに期待めいたものを抱きながら通知の送り主を見ては少し落胆。そんなことを何度も繰り返しながらそのうちのひとつの文面に思わず「うげ」という潰れた蛙みたいな声が漏れた。 ◆  翌朝、目が覚めると『私』はどうやらアイドルとやらになっていたらしかった。  正確には、突然怪しい手紙で呼び出された先であなたがたは選ばれただのなんだのとフィクションの中だけだと思っていた言葉をいくつもあびせられて困惑してしまい、いったん返事を保留している状態なのだけれど、机の上に放り投げた真っ黒な封筒と事務的な文面の便箋が昨日の出来事は夢ではなかったということを物語っていた。  枕元のスマホに手を伸ばし、スリープを解除して時間を確認すると、本来の起床時間を30分ほど過ぎた時刻が表示されてひやりとする。けれど、よくよく考えてみれば今は年の瀬、冬休み期間中だ。驚き損だとばかりに電源ボタンを単押ししてスマホを軽く放り投げ、まだ暖かな毛布を頭からかぶる。けれど驚きで眠気が吹き飛んでしまい、目を瞑ったところで夢の続きはそう簡単には見られそうになかった。  毛布の隙間から覗き見る窓の向こう側は、カーテンから漏れ差す白っぽい光だけでは晴れているのか曇っているのか判別がつかない。手さぐりにたぐり寄せたスマホのロック画面に表示されていたアイコンは太陽と雲のイラストが重なり合っており、なんともどっちつかずな表現でまったく頼りにならずため息が漏れた。観念して身を起こしてパジャマのボタンに手をかけ、手短に着替えて癖の強い髪を梳いてから誰かしら家族がいるであろうリビングへと向かう。  父はもう仕事に出掛けたらしい。弟も年内はまだあと数日は部活が続くようで日も昇りきらないうちから家を出ていた。  母におはようを告げ、洗い物が終わらないからと急かされながら出してもらった朝食をもそもそと平らげ、部屋に戻る間際に今日は外出してくる旨を申し出た。 「昨日もどっか行ってなかった?」 「うん。東京」  隠すようなことでもなし、正直に白状してみるとあまり遅くならないようにとの条件つきで何事もなくすんなりと送り出してもらえた。  電車に揺られて二時間ほど。隣の県だというのに移動時間だけで見れば、日本の中心から関西や東北にまで足を伸ばせるくらいの時間をかけてつい先日も訪れたばかりの場所を再び目指す。  師走の月曜日ではあるものの通勤ラッシュの時間帯は外れていたので車内は人の姿もまばらで騒がしくなく、線路の継ぎ目で車体が揺れるたびに油断すると今更思い出したかのような睡魔に意識を持っていかれそうになる。  二度の乗り換えを経て目的の駅に辿り着き、自動改札機に問題なく切符が飲み込まれていったことに安堵を覚え、記憶を頼りに駅を出る。景色の開けた公園を横切っていくと、見覚えのあるオレンジがかった外装の建物を見つけて胸を撫で下ろすと同時に、道路を挟んだ向かい側の歩道にちょっとした人だかりができていることに気がついた。 「あっ!昨日の!」  数人いたうちの一人が不必要なくらいに大きな声で私の発見をまわりに報せ、それに呼応するように十四の視線がいっせいに私を射抜いてくる。気分はまるで五条大橋の武蔵坊だ。 「これで全員?」 「だったと思う。確か8人だったし」 「やっぱり考えることはみんな同じですねぇ」 「ええっと、」  口々に声を上げはじめたうちの一人、真っ先に私を見つけた黒髪おさげの少女が言葉を詰まらせながら近づいてきた。トートバッグの紐を肩に掛け直す。 「おりはらすみか」 「純佳ちゃんね。了解」 「八神さんだっけ、マスクしてるのによくわかったね」  果たして予想は当たったらしく、名前を告げると今度は忘れないぞとでも言いたげに、八神叶愛はこめかみを指先で二回ほど小突く。 「目力強い子だなぁって思ったのだけは覚えてるから。いちばんキレイだなって思うのはそらちゃんだけど」 「ちょっと!」  立ち話をする私と八神叶愛から5人を挟んで反対側、ガードレールに体重を預けて居心地が悪そうにしていた西浦そらが、突然の思いも寄らない言葉に抗議の声を発する。照れているのか寒さのせいなのか、顔が少し赤かった。 「誰か出てきた」  件の5人のうちのひとりがハスキーな声音でその場の全員に知らせる。視線を道路の対岸に向けると事務所とされる建物の正面玄関から筋骨隆々としたスーツ姿の巨漢が歩み出てくるのが見えた。背筋をぴんと伸ばした威風堂々とした立ち姿で後ろ手を組み、よく通る声を発する。それは体育祭やスポーツ観戦のときの学ラン姿の応援団長を想起させた。 「中に入らないのですか。期日までは見学は自由、とお伝えしたはずですが」  言葉を受けて、私たちは顔を見合わせる。誰も言葉は発さないが、まだ誰しもが何かを疑っているのだ。  目の前のチーフマネージャーを名乗る男がナナブンノニジュウニなるアイドルグループの関係者であることには先日の件で疑いの余地はない。けれど、なぜ自分が?という一点だけが魚の小骨のように喉の奥に引っかかって二つ返事で首を縦に振るということを妨げ、その扉をくぐることを躊躇わせていた。 「……お返事はどちらにせよ、ここは寒いでしょう。応接室に温かい飲み物をご用意してあります」  それだけ言い残して男は踵を返していく。 「お茶くらいならいいんじゃない」  数秒の沈黙のあと、誰かがそうぽつりと零し、違う誰かが「そうだね」と同意の声をあげ、8人はゆっくりとそぞろに移動を開始した。 ◆  メッセージの返信を済ませ、必要な家事もあらかた終わらせた午後。私はなんの因果かもう顔を出さないと思っていた事務所への道を歩いていた。いや、気まぐれに古巣に顔を見せるくらいのことは今後あるかもしれないけれど、まさかそれが卒業公演の翌日になるとは夢にも思っていなかったから歩を進める足がいくらか重い。まさに、どの面下げて、だ。 「ぷは」  巨大な蓮池を南北に分ける橋の真ん中で、周囲に誰もいないことを確認してからマスクをずらして息を吸い込み、吐き出した。こんなもの嫌いだし、できる限りしたくはない主義だったけれど、世界がそれを許してはくれない。密だ換気だ消毒だと躍起になって確かに風通しはよくなったはずなのに、こんな布切れひとつで世界はこんなにも窮屈で息苦しかった。  向かう先から数人のグループがこちらに歩いてくることに気づいて、慌ててマスクをかけ直す。スマホの画面を確認すると、約束の時間より15分ほど早い時刻が表示された。そこらの店に入るには短いし、かといって散歩で暇を潰すには今日の気温は寒すぎた。別に初めて訪れる場所なわけでなし、事務所内で暖をとりながら時間を潰してもバチは当たらないだろう。  正面玄関を通り過ぎ、路地をひとつ入って建物の裏手に回る。スタッフ向けの勝手口のセンサーにパスを宛てがうと、緑のランプが点灯するとともにガラス戸が解錠された。卒業は昨日でも契約自体は年内いっぱいらしく、パスも生きていて出入りは自由だった。警備員室の顔見知りのおじさんに手を振ると、目を丸くして驚いていたのが少し面白かった。  自販機でホットドリンクを購入し、そばのベンチに腰掛ける。廊下を通り過ぎる事務所スタッフに驚かれたり、卒業おめでとうの言葉にありがとうと返したりしていると、やがて目当ての人物がエレベーターから降りて事務所のメインブースへと向かう場面に遭遇し、声をかけた。 「お待たせしてしまってすみません。連絡を寄越していただければそのまま作業に入っていただいて構わなかったのですが」 「どうせしばらくは暇だし同じことだよ」  同乗していたスタッフになにやら指示を伝えた合田っちは、相も変わらずの慇懃無礼な口調で背筋をぴんと伸ばしてまるで壁のように立ちふさがる。ベンチに座っているから視線を合わせると首が痛くなりそうだ。 「じゃ、終わったらまた顔見せに来るから」  空になったカップを自販機横のゴミ箱に放り込み、合田っちに手を振って扉の閉まりかけたエレベーターに身を滑り込ませる。目当ての階のボタンを押して誰も乗り込んでくる気配がないことを確認してから閉のボタンを押下した。  合田っちからの呼び出しの理由は、事務所内の私物の処分に関するものだった。学業と就活とアイドル活動。それに加えて自身の卒業に向けての準備等、この半年ほどまさに目の回るような忙しさで、ロッカーに詰め込んだままの私物の回収すらままならない状況だった。普段から自宅に持ち帰っていないなら、特段手元に無くても困らないものなわけで、それなら適当に処分してもらっても構わなかったのだけど、「高価なものも見受けられますので、こちらの一存だけでは判断がつきかねます」とのこと。  エレベーターの戸が開き、もはや目をつぶったままでも歩けるほどに往復した廊下を辿る。ロッカールームの扉を開いて手探りで電気のスイッチを入れてほとんど空のバッグをベンチに放り投げ、自分のロッカーに鍵を差し込んで90度回転させ、スチールの扉を開いた。  ……なるほど、確かにこれをどうにかしろと言われても匙を投げるのも無理はない。戸田っちや桜っちほどではないにしろ、我ながらよくここまでものを溜め込んだものだと逆に感心してしまう。これはなかなか骨が折れそうだと上着を脱いで脇に置き、腕まくりをした。  とりあえず仕分けをしやすいように中身を広げるところから始めるかと、第一陣を床に置いたところで見慣れないものが転がっていることに気付く。拾い上げてみると、それはボールチェーンのついた見たことのあるキャラクターの手のひらサイズのぬいぐるみだった。青みがかった白を基調とした丸っこいフォルムが可愛らしい。 「あの、それ」  チェーンの先をつまんでぶら下げたそれをまじまじと眺めていると、不意に声をかけられてびくりと肩を震わせる。顔を向けるといつの間にか見覚えのない少女がロッカールームの扉から顔を覗かせていて、私の手にした拾得物を指差していた。 ◆  先日は軽く施設の案内だけに留めていたけれど、今日は実際に施設を使用させてもらった。  ダンスレッスンルームでは見るからにダンスが得意そうな出で立ちの氷室みず姫や活発そうなイメージを受ける桐生塔子はもちろん、終始大人しそうな印象を抱いていた一之瀬蛍や西浦そらも非凡な才能を見せ、誰になのかは未だ不明ではあるものの「選ばれた」と言われるだけのことはあると納得感があった。あれだけ動ければ体育の授業でも困らないのだろうなと、羨ましい限りだ。  ボイスレッスンスタジオでも見慣れない機材に興奮する何人かを遠巻きに眺めながら、私は少し距離を置いていた。「一緒にやろうよ」と誘われはしたものの、気乗りしないからと断る。 「じゃあなんで来たの」  尤もな疑問だけれど、それは姿勢の問題だ。  先日ゴリラ檻前に集まった私以外の人間は、その誰しもが22/7というグループ、もしくはアイドル活動に少なからず興味を抱いていた。もとからグループやメンバーのファンを公言する者、芸能活動を志していた者。それらと比べて自分はいくらか動機が薄いなと感じたから、踏み込むのに気が引けた。  その日の晩に催された周年ライブにも門限を理由に参加しなかったし、正直言えば誰が所属しているのかもよくは知らない。グループ名くらいは数年前に話題になったから知っていたくらいで、その程度の自分が熱量のある連中と並ぶのは、なんだか相応しくないと思ってしまったからだ。  ここにいる理由は半ば強引に送りつけられた東京までの切符が勿体なかったという点に尽きる。使わなければ往復数千円もの大金が期限切れで泡と消えてしまうともなれば、返事はどちらにせよ貰ったものは使っておいて損はないと思う。 「そう構えるもんでもないと思うけど」  構えもするだろう。自分の進退にかかわることだ。私のようにぎりぎり関東在住ならまだしも、氷室みず姫なんかは地方出身なのだから、なおさらだ。  瀬良穂乃花が楽しげに録音ブースの中で歌っている様子を、どこか現実離れした出来事のように俯瞰しながら答えると、永峰楓は「ふぅん」と退屈そうに息をついて同じ方を向いた。 「じゃ、またね」  見学を終え、昨夜のライブや施設を使ってみての感想で盛り上がる声を遠くに聞きながら、最寄り駅の改札前で解散というところで、それぞれに手を振った。「またね」という挨拶も的確であったかはわからなかったけれど、いちいち物申すのも違うと思ったので何も言わずに手を振った。  時候はいよいよ年末に差し掛かり、各々の家庭にも都合というものがあるだろうし、また訪れる者は来るのだろうが、全員が揃うのは期日とされた年明けまでないだろう。いや、きっともうこの8人が揃うことはないのだ。  別れを惜しむほどの交流はなかったし、再会を待ち望むほどの思い入れもない。長い一生のうちで一瞬だけ歩く道が交わっただけの関係に何も思うところなどなかった。 「あれ、純佳ちゃん、鞄に何かつけてなかった?」  自動改札に切符を滑り込ませようとしたすんでのところで、瀬良穂乃花が声をあげた。  見れば鞄にぶら下げていたはずのキャラクターのぬいぐるみがいつの間にか姿を消していたことに気付く。借りたロッカーから取り出す際に自分でも目視していたことから考えるに、ロッカールームからここまでの道中で落としたということなのだろう。  時刻を確認して空を見上げる。日の入りにはまだだいぶ余裕があったし、高価ではないにしてもお気に入りの品ではあったからダメ元で少し探すと言って上野駅発の面子に別れを告げた。  地面をにらみつけながら来た道を辿り、注意深く探す。当然のことながらそう簡単に見つかるはずもなく、気が付けば私はもう訪れることはないだろうと背中を向けた建物の前まで来てしまっていた。  外に出てから駅までの道中、鞄が何かに引っかかった感触はしなかったし、一番可能性が高いのはロッカーから鞄を取り出した時だろうとあたりをつけて、大きなため息をひとつついて事務所の自動ドアを開いた。  こんなことなら面倒だからとワイヤーチェーンに取り替えるのを先延ばしにしなければよかった。16年という半生は決して長いとは言えないけれど、後悔ばかりがうず高く積み重なっていく。  受付の女性に事情を説明して再入館の許可とゲストパスをもらい、首から提げて地下階行きのエレベーターのボタンを押した。  無駄に広い空間ではあったけれど、どれだけ候補があろうと使用を重ねていくうちに人は使い勝手のいい方向へと流れていくもので、ロッカールームも何部屋かあったものの使用感のあったのはエレベーターから最も近い部屋だけだった。そういうことは設計段階で気付かないものだろうか?  エレベーターを降りて右に曲がって一部屋目。ドアノブに手をかけて開く瞬間に電気が点いていることに気が付いて申し訳程度の声量で「失礼します」と断りを入れた。  室内には女性がひとり。黒を基調としたメンズライクなファッションが短く切りそろえた髪形によく似合っている。床にはなにやら物が散乱していて、まるでフリーマーケットの様相を呈し、しゃがんだ彼女は指で見覚えのある何かをつまんでぶら下げながら凝視してはしきりに首を傾げていた。 「あの、それ」  私の入室に気付かなかったのか、声をかけると驚いたように全身をびくりと震わせてこちらに向き直る女性。 黒いマスクに覆われていて全容はわからなかったけれど、肌が白くて綺麗だって思った。 ◆  まぁ、解散詐欺グループなどと揶揄されたりもしたし、悪評が落ち着いた頃に打って出た大掛かりな全国ツアーも流行り病で流れてしまって、こんなとことんタイミングの悪いグループの知名度などお察しの通りだろう。挙句の果てにメンバーは半減して空中分解の危機だ。  出ていく人間が言えた台詞ではないが、今後大丈夫なのだろうかと思っていた矢先に空気を読まずに壁は淡々と「指令」を吐き出した。新メンバーの加入。聞いた話では私たち三人が加入する直前にも数字こそ違えど同じ指令が吐き出されたのだという。 「はぁ、退職されるから私物の処分ですか」  ライブ直後だからメンバーは誰も来ないと思っていたし、合田っちの話では候補生の見学時間は私を含めて現メンバーと被らないように調整していると聞いていたから声をかけられた時は肝を冷やしたけれど、どうやら彼女は私を知らないようだった。  私たちの時は活動最盛期だったおかげかそれほどアイドルについて明るくなくても何かと名前を目にする機会はあったけれど、結成して5年も経てば業界も新陳代謝が進んで私たちもすっかり古いグループだ。よほどの売れっ子でもなければ多少は検索エンジンを掘らないと出てこない、メジャーマイナーアイドル。 「てっきり空き巣か何かかと思いました」 「普通に利用者だとは思わないの?」 「戦利品を並べて品定めの最中かと」  身分証明のために写真付きの入館パスを見せても無反応。売れていたとはさらさら思っていなかったけれど、ホームである事務所ですらこの有様ではなかなか堪えるものがある。それにしてもこの子、顔に似合わず意外と強い毒を吐く。  知らないならこれ幸いと話の流れでつい昨日卒業したばかりの元アイドルということは伏せ、事務所スタッフということにしてお茶を濁したけれど、特に不審がられてはいないようで心の中で安堵の息をついた。 「暇なら手伝ってよ」 「暇じゃないです。さようなら。お疲れ様でした」  多くは語れない中で捻り出したなけなしの先輩風はどこ吹く風で、手ごたえのないまま織原純佳は立ち上がった。真面目そうな外見的印象に違わず、サバサバしていてあかねっちと気が合いそうだ。いや、性格が近いから逆に水と油という可能性も捨てきれない。 「……楽器、やるんですか」  そのまま物に埋もれる私には目もくれずにこれっきりさようならかと思いきや、開けっ放しにしていたロッカーの中に視線を遣りながら、油断すれば聞き逃してしまいそうなくらいの小さな声でぽつりと彼女は呟いた。見れば、いつだったかのプレゼン用に持ってきたっきり置きっぱなしにしていたギターケースが長方形の中に窮屈そうに収まっていた。 「興味ある?5000円で売ったげる」 「いりませんよ、一本持ってますから。あとお金取るんですか」 「そりゃあ取るよ。つぼ、明日からしばらく無職なんだし」  へらへらと笑いながら冗談を言うと、半目でじろりと白い視線。どうやらジョークの通じないタイプらしく、何を言ってもぷりぷりと怒りそうで、からかうと面白いとみた。 「もっと計画的に……って、あぁ、計画性があったら大量の私物なんて残しませんね。すみません。あと、社会人にもなって一人称が愛称とか、恥ずかしくないんですか」  謝られたんだか怒られたんだか。反論したかったけど耳が痛くて頬を掻く。 「それに、弾いてあげないとかわいそうです。持って帰ってあげてください」  視線はロッカーの中に向けたまま、いや、少しだけ目を逸らしているのかも。私はといえば床に並べた雑多なものたちを淡々といるものといらないものに分けていく。いつ買ったかわからない菓子の袋を裏返して賞味期限が切れていないことを確認し、口の開いた鞄に放り込んだ。 「次は音楽とは関係ない仕事だから、あんまり弾いてあげられないかもね」  それなら未来あるアイドル候補生にくれてやった方がいくらか弾いてもらえる確率も上がるだろう。ずぶの素人ならまだしも、弾ける人間ならなおのことだ。 「置きギターにしなよ。もしかしたらここで弾くこともあるかもだし、そのたび家から持って来るのメンドイでしょ」 「結構です。それに、私はアイドルやるつもりないですから」  きっぱりとした口調で織原純佳はそう言い切った。 ◆  歌うことが好きだった。  部活には所属していなかったけれど、地元のゴスペル合唱団に在籍していたし、弾き語りのために指先がぼろぼろになるくらい必死にギターも練習した。懐に余裕ができたら友達に呆れられるくらいカラオケに足繁く通いもしたし、歌うためだったら大好きな週刊の漫画も単行本が出るまで立ち読みで我慢できた。  中学3年生のとき、修学旅行が中止になった。  うちの学校だけの話ではなく、日本中、いや世界中でそれは起こっていたらしい。凶悪な流行り病の蔓延で、政府が緊急事態宣言を発令するほどの大ごとらしかった。  それは感染者の唾液の飛沫が口に入り込むことで感染が拡がるのだという。さらに厄介なことにたとえ感染したとしても症状が出るまで時間がかかり、健康体だと思い込んでいても実は、のケースが多いのだという。かいつまんで要点だけ言えば、すべての人が喋る、歌うなどの声を出す行為の自粛を余儀なくされるということだ。  合唱団は無期限の活動休止。カラオケ店も換気設備が整うまでの間営業を停止して、道行く人はみな一様にマスクで口を覆って口数も少なく、元々のどかではあった私の住む町はよりいっそう静まり返ってしまった。  大げさな言い方かと思うかもしれないが、確かにあの時世界から一度歌という文化が消えたのだ。もう覚えてはいないし思い出したくもないけれど、きっとその時の私はひどく絶望していたのだろう。  歌っているだけで、ただそれだけで幸せだったのに、神様というやつは相当に意地悪らしい。 「こんな状況でアイドルみたいな仕事を選ぶなんて、馬鹿げてます」  あなたもそう思ったから辞めたんでしょう?と、なんだかひどく苛ついてついさっき出会ったばかりの人に強い口調で当たった。 「……そういうわけじゃないけど」 「同じですよ。そしてたぶんですけど、その判断は正しいです」  消毒やら換気やらディスタンスやら、細心の注意を払うことでなんとか持ちこたえているものの、その対策すらもいつか無駄になるかもしれない。そうなってしまっては食べていけないだろう。だからそんな業界には早々に見切りをつけた方が何倍も賢いというものだ。 「じゃあどうしてきみはここに来たの」  誰かさんと同じようなことを聞かれる。至極もっともな疑問だ。 「貰った切符がもったいなかったからですよ。それ以上でもそれ以下でもないです」 「違う違う、そうじゃなくて」  うんざりとため息をつきながら今日二度目となる返答を述べた。けれど、そんな前もって用意しておいた判で捺したような答えは柊さんの欲しいものとは少し違っていたようで、面倒くさいなと思いながらちら、と横目で彼女の方を見た。 「つぼが聞きたいのはどうして事務所まで来たかってこと」 「どうしてって……」  予想外の返しに対し、言葉に詰まる。 「切符がもったいないだけなら乗るだけ乗って別にここまで来る必要なんてないじゃん」 「……どこに行きたいとか、目的があったわけじゃないので仕方なく」 「遊ぶところなんて東京ならいくらでもあるよ?原宿とか渋谷とか、今度案内してあげよっか?」 「け、結構です!」 「ねぇ、どうして?」  気圧された。まんまるの大きな瞳がふたつ、じっと私を見つめていた。マスクのせいで目のやり場に困る。だって露出しているのは目元しかないのだから、そこを見るしかないじゃないか。笑顔だっていうのに目が笑っていないとはこういうことか。射抜くような視線はまるで私を通り越してもっと先を見ているかのようで、体が全部透明になってしまったような気分だった。 「きみも何かを諦められなかったから、ここに来たんでしょ」  言葉に窮してたまらず目を逸らすと、柊さんは私の心をそれこそまさに見透かしたように続ける。 「……私、何か気に障るようなこと言いましたか」 「アイドルも、アイドルを支えてくれてる人たちの努力も熱意も苦悩も見てきたからね。馬鹿げてるなんて言われてつい温厚なつぼもカチンときちゃったよ」 「……すみません、言い過ぎました」  私の素直な謝罪に対してううん、怖がらせてごめんね、と謝ってくれたものの、恐怖に竦んでいたのか背中に汗がどっと吹き出した。 「……どうしてそう思うんですか」 「ん〜?」 「諦められなかった、って」  聞き返すと、彼女は眉間に寄せた皺を緩めて明後日の方向に視線を遣ると、頬を掻きながら唸った。 「だって、そういう訳アリな子ばっかりだったからね、ナナニジは」 「そんなの」  ただの確率論じゃないか。いままでそうだったからたぶん次もそう、くらいのほとんど当てずっぽうだ。身構えて損した。 「帰ります。ぬいぐるみ、拾っていただいてありがとうございました」  これ以上この人と会話を続けていても疲れるだけだと悟り、踵を返す。義務は果たしたとばかりに礼を告げてドアノブに手をかけた。 「やっぱりギター貰ってよ。お代はいいからさ」 「いりませんって」 「そう言わずにさぁ。ロッカーに入れっぱなしにしとくから、次に来た時確認しといてね」  やらないって言ったのをもう忘れたんだろうか、この人は。もし私が金輪際ここを訪れなかったとしたら、どうするつもりなんだろう。 「ま、その時は処分してもらうよ」  そんな答え方、卑怯にもほどがあるんじゃないか。  後ろ髪を引かれるような思いでドアノブにぐっと力を入れる。 「じゃ、またね」 「さようなら」  もう会うことはないのだからその別れの挨拶はおかしいだろうと、応じはしなかった。  ドアが閉まったのを確認して、大きく息をついた。気づけば心臓がどくどくと早鐘を鳴らしている。壁に手をついてよろけるようにして、エレベーターホールを目指した。  地上階に着く頃には気持ちも落ち着いて、まっすぐに立てるようになっていた。何もなかったと言わんばかりにいつも通りの口調で淡々と入館パスの返却手続きを済ませ、正面玄関に向き直る。全面ガラス張りのそこからは、オレンジの西日が都会のビル群を鮮やかに染め始めているのが見えた。 「あっ、出てきた!」  自動ドアをくぐって冷たい外気を頬に感じた瞬間、どこからか聞き覚えのある声が耳に飛び込んでくる。脇に目を遣ると、七人分の人だかり。 「落とし物、見つかった?」  瀬良穂乃花が首を傾げながら聞いてきたけれど、一瞬状況が飲み込めなくて固まる。 「穂乃花ちゃんが、もし見つからなかったら大変だから探すの手伝おうって」 「でも、無事に見つかったんならめでたしめでたしですねぇ」  私の様子を見かねた氷室みず姫が顛末を説明してくれて、一之瀬蛍がおっとりとした口調で結ぶ。もしかしてそこにいた誰もが、もう会わないかもしれない私のために寒空の下で事務所から出てくるのを待っていたのだろうか。なんの得にもならないのに。意味が分からない。 「なにそれ」  意味が分からなくて、可笑しくてつい、笑ってしまった。 ◆ 「何かを諦められなかった、だってさ」  自分以外誰もいないロッカールームで黙々と仕分け作業を続けながらひとりごちた。  どの口が言っているんだか。  私は結局途中で諦めてしまった。アイドルのことではない。あの子のことだ。  私の中の数ある野望のうちのひとつは、及第点とは言えど達成できていたように思う。進学するに際してなんとなく心に決めていたことだから、アイドルは大学を卒業すると同時に辞めるというのは私の中での予定調和だった。  リーダーが卒業を決めたことで、何人かのメンバーも思うことがあったみたいで、私もそのうちの一人に含まれていた。  私はそこまで頭のいい方ではなかったから、仕事と学業の両立は想像していたよりもキツくて仕事を休んだりもしたけれど、単位を落としたりダブることもなく卒業できたのは周囲の理解とサポートがあってこそだと思う。ありがたいことだ。  けど、自分のことで手一杯で周りを見られていなかったことはうまくなかった。  グループ内の急激な変化についていくことができずに、人知れず苦しんでいた子のことを見過ごしていた。  いつしか部屋に籠もるようになったゆっちに、私は何もしてあげられなかった。だって触れ方を間違えたら粉々に砕けてしまいそうで怖かったから。やっぱり私にとってはゆっちとみかみっちだけは特別で、大好きで、どうか不幸にはなってほしくなかったから。  全員が揃わないままみやっちと戸田っちが卒業した後も、私は無理を言って卒業時期を年内いっぱいまでずらして貰った。もしかしたら何か奇跡が起こって、最後だけは三人が揃ってステージに立てているかもしれないって、馬鹿みたいに信じていたからだ。  結局そんなものは夢まぼろしで、壁はとうとう契約解除という冷たい四文字を吐き出してしまった。そこでようやく私は理解してしまった。壁は万能ではあるけれども全能には程遠いのだと。  だってなんでもできてなんでもお見透しなら、こんな世の中になることも、ゆっちが折れてしまうことも予知できたはずだ。それなのに後手後手に回り、いずれぽっきりと折れてしまう彼女に指を差したということは、きっとそれは人智を超えた何者かなどではなく能力に限界のあるただの誰かであることを意味していた。  嘘つきと、取り消せと、罵りながら壁を殴りつけた拳の痛みがよみがえる。お願いだからせめて形だけでも、卒業ということにしてくれと、ぐしゃぐしゃに泣きながら懇願しても壁は何ひとつ答えてくれやしなかった。  痛くて悲しくて不甲斐なくて、しなだれかかりながら崩れ落ちた次の瞬間に耳に届いた低い声を、多分私は一生忘れないだろう。 「つぼみちゃん、どいて」  腕を引かれて水槽に身を投げだした瞬間に思ったことは、ソファって空を飛ぶんだなぁってことだけだった。  処分するものをまとめたゴミ袋を合田っちに預けて最後の挨拶を済ませた。合田っちは相変わらずだったけど、わずかに声が震えていたことを指摘すると珍しく慌てたように口調を淀ませた。あれはあれでなかなか可愛いところもある。何人か残っていたスタッフたちに手を振って事務所ブースの扉をくぐると、不意に全身に衝撃が走った。 「つーちゃん!」  気付けば昨日ぶりのみかみっちが私の胸に顔を埋めて、背中に手を回してふるふると震えていた。今日はもう会うことはないと思っていただけに、面食らってしまう。 「やっぱり昨日までのことは夢やったんやねぇ。だってつーちゃんは今日も事務所に来とるもん」 「残念ながら……」  現実逃避という名の一縷の希望を砕いてしまうようで申し訳ないけれど、現実は現実だ。今度こそ本当に、明日からはここで顔を合わせることは金輪際ないだろう。背中をぽんぽんと、あやすように叩いてからみかみっちの体を引き剥がした。 「ゆーちゃんもつーちゃんもおらんなったら、ウチ、寂しいわ」 「大丈夫だって。後輩入ってくるんでしょ?いつまでもそんな顔してないでさ」 「でも、ウチが、ウチが油断して病気に罹ってもうたから、ゆーちゃんを不安がらせてしもたんや。今の状況はウチのせいなんや」  そんなことないと即座に否定できれば楽だったのに、できなかった。もしかしたらそれが引き金だったかもしれないし、一因だったかもしれないし、全然関係ないかもしれない。答えはゆっちの中にしか無いのだから。 「全部落ち着いたらさ、ご飯いこ。つぼたち三人で」  励ますように肩を叩いて、髪を撫でた。  浮かない顔は晴れきってはくれなかったけど、最後にはちゃんと「またね」「またなぁ」と再会を約束できた。  事務所を出る。  そうして『私』、柊つぼみのアイドル人生は幕を閉じたのだった。  幕は閉じた。  閉じたのだけれど、まだできることは残っているはずだ。  日も落ちて暗闇に包まれた蓮池の真ん中まで歩いたところでスマホを取り出して、今朝さんざん触ったRAINのアプリを起動する。埋もれたトーク履歴をディグって、ずいぶん前から音沙汰のない個別トーク画面を呼び出した。 「ゆっち!ご飯いこ!」  すぐに既読がつくとは思っていなかったから、スリープ状態にしてポケットにしまい込んだ。  何度も何度も飽きるくらい往復した帰り道を駆け出す。  塞ぎ込んでいる友だちがいるなら、うるさいくらい、しつこいくらいに食らいつこう。やりたいことをやりたいようにやるのがギャルの生き方なんだから、怖気づいて尻込みするなんてちっとも私らしくない。  神様なんかに、神様ですらない何かなんかに全部を決められるなんてまっぴらごめんだから、私は私の道を行くのだ。  走り続けて息苦しくなって、マスクをずらす。 胸いっぱいに吸い込んだ都会の空気は、なんだかいつもよりも美味しく感じられた。 ◆  帰りが遅れて母に小言をもらいながらひとりで食べた晩ごはんは、味がろくにしなかった。  少しだけトラブルがあって電車に乗る時間が遅れたことを何度説明しても納得してくれなくて、喋ればいいのか食べればいいのかてんでわからなかった。  お風呂から上がってパジャマに着替えてベッドに身を投げ出すと、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきてすぐに瞼が重くなる。  母にした言い訳は半分本当だったけれど、半分は嘘だ。落とし物をしてしまうというトラブルは確かにあったけれど、許されるであろうぎりぎりまで電車に乗らなかったのは集まった8人でお茶をしていたからだ。  ここで会ったのも何かの縁と、誰かが言い出したのでなし崩し的に仕方なく。年の瀬の、こんな大人数で予約もなしに押しかけて門戸を開いてくれるお店なんてファミレスくらいしかなくて苦労はしたけど、それはまた別の話だ。  別に断ることだってできたし、現に門限が迫っていたというのに、断ることができなかった。勢いに圧されてというわけではなく、単に断る気が起きなかったからだ。  寝返りをうつ。部屋の壁際のラックに立てかけたアコギが目に入った。  うっすらと埃の積もったそれと数秒間のにらめっこ。部屋の掃除をする時も心理的に避けてしまっていたそれが、ようやく視界に飛び込んできた。  合唱団の活休の連絡を受けた日から、私はギターを触らなくなった。大きな世界のうねりには私ひとりでは到底太刀打ちできなくて、やり続けることが全部無駄に思えてしまったからだ。  それに触ろうと手を伸ばす。ほんのあと数センチ届かなくてもぞもぞと身を寄せた。  私の中にいるとても冷静な自分がそっちの道はやめておけとやかましく騒ぎ立てる。先行きが不透明な現状で貴重な時間を浪費するもんじゃない。安定こそが正解であり、好き好んで不安定な方へと舵を切るべきじゃない。親だってきっとそれを望んでいるはずだ。それにきっとその未来は楽しいことばかりではないはずだ。悔しい思いやつらい別れだって待っているはずだ。  そんなことはわかりきっている。けれど、伸ばした手を引っ込められない。届きそうにもないのに、伸ばしてしまう。頭の中ではこんなにも警鐘が鳴り響いているというのに、心と体はちぐはぐだ。  ぷるぷると震えながらそうやって、ついに指先が触れた。もう長いこと調律もろくにしていない、たわみ、緩んだ弦に指の先が触れた。頼りない張りがまだやれるとでも言いたげに指の腹を弱々しく、けれど確かに押し返してきて皮膚に一筋の痕を残す。  あぁ、そうだった。私はずっと歌いたかった。きっとあの星々に憧れていた。  見ないように、視界に入らないようにと目を逸らし続けていたけれど、私はとっくのとうにアイドルという恒星の煌めきに両の目を灼かれ、シナプスは弾け飛んでいたのだ。  どうせ一生なんてほんの一瞬の出来事で、永遠なんてきっと誰もその全貌を知り得ない。だったらせめて今の刹那くらいはやりたいようにやらせてくれと、わたしたちはこんな世界を睨んでやるのだ。  立ち上がり、机の上に放り出した黒い封筒を手に取った。  部屋を出てリビングへと向かう。眠気も疲れもいつの間にかどこかへ吹き飛んでいて、足取りはしっかりとしていた。 「お母さん、相談があるんだけど」  年明け、私は不忍池の橋を渡っていた。  もうマップアプリに頼らずとも体が道順を覚えている。公園を出て信号を渡る前にふと歩道の先に視線を遣った。そこにはもう七人分の人だかりができていて、私の姿をみとめるとそのうちの一人が手を振って私の名前を呼んだ。どうやら到着は私が最後らしい。駆け寄るようなことはしないけれど、しっかりと前を見据えて歩み寄った。 「お集まりのようですね」  私が合流するのを待ち構えていたようなタイミングで筋骨隆々のスーツ姿の巨漢が建物から出てきて、よく通る声を発する。空気を読んでいるのかもともとこうなのか、車通りは皆無だった。 「誰一人欠けることなくあなた方8人をお迎えできることを心から喜ばしく思います」  欠けるという言い方が少しだけ引っかかった。私のことだろうか。もしかしたら誰か他にも、ここへ来ることを躊躇っていた子がいたのかもしれない。  けれど、結果は見ての通りだ。何者かの手のひらの上で踊らされているというのは少しだけ癪だったけれど、何事もないということは男の言う通り喜ばしいことなのだろう。 「本来は上の者が言うのですが、諸事情がありまして代わりに私が次の言葉を贈らせていただきます」  息を呑む者、期待に目を輝かせる者、唇を引き結んで受け止める者、表情を変えずに次の言葉を待つ者。さまざまだった。私も同じように対岸の男の口が開くのを待った。 「ようこそ、22/7へ」  翌朝、目が覚めると『私』、織原純佳はアイドルになっていた。 了