【中国地方、ある山中の湖:ヴェスパー】 「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」 中国地方の奥深く、山々に囲まれた美しい湖。都市部に比べれば、遥かに薄い汚染雲も今日は殆ど見られず、静謐な湖面は黄昏時の空の色を写し茜色に染まる。 その畔に建つ、歴史を感じさせる奥ゆかしい邸宅。湖上に突き出すように建てられた離れは、いま轟々と炎上していた。燃え盛る広間では二人のニンジャがカラテを繰り広げる。 一人は焼け焦げた喪服に厳めしいメンポとブレーサーを装着した壮年の男。もう一人は殆ど黒に近い濃紺のタイトな装束を纏う若い女、そのバストは豊満である。傍らの足元には、 うつ伏せに倒れる青年。喪服の背中と周辺のタタミには血が広がっている。 「イヤーッ!」「グワーッ!」応報を制した女ニンジャのヤリめいたサイドキックを受け、喪服のニンジャはタタミ3枚分の距離を後ずさる。血だまりの中でピクリとも動かぬ 青年に目配せしながら、その表情は焦りと憤怒に染まっている。 「ヌゥーッ…!」「随分鼻息が荒いこと。あと少しで先を越されて、そんなに残念?」「おのれ…どこまで知っている!」「ぜんぶお見通し。なんてね」親指と人差し指で、 片眼鏡めいた丸を作りながら、女ニンジャは軽く首を傾げてアルカイックな笑みを浮かべる。その輝くサイバネ・アイは、茜色から群青色にグラデーションする。 ◆◆◆ キジタ・ウトウは、中国地方に居を構える地方豪族の御曹司だ。十三年前、ウトウ家先代当主はその長男夫妻と共に不慮の事故により死亡。先代の遺言状には、自身が亡き後当主の座は長男へ、 長男が死亡していた場合は、孫であるキジタに相続させる事が記載されていた。 ただし、キジタが25歳を迎えるまでは、先代の次男タカミネをその後見人かつ限定的な当主代行とすること。加えてキジタがその前に死亡、或いは相続を拒否した場合。遺産は分配せず、 全て先祖伝来の土地山林の保全事業に用いられるとされた。関係各所への手筈も入念に整えられていた。 タカミネ……事故に見せかけ父親と兄夫婦を殺害し、莫大な遺産を手中に収めようとした男、その目論見はあえなく瓦解した。皮肉にも、纏めて始末する筈だったキジタが偶然禍を逃れたことは、 結果としてサイオーホースであった。 タカミネは憎悪をひたかくしに、祖父と両親を亡くした甥を気遣う、過保護な叔父の仮面を被った。キジタを身動きのとれぬネオサイタマの厳格な全寮制カチグミ・スクールに押し込め、 ネオサイタマ大進学後も常に監視の目をつけた。 大学院を卒業し、中国地方に呼び戻されたキジタは、いよいよ明日25歳の誕生日を迎える。そして今日は先代と長男夫妻の十三回忌。テンプルと霊園で弔辞を済ませ、湖上に築かれた本家邸宅の離れにて、 一族一同の会食が始まろうとしていた。 憤然とした態度で明日の若き当主を睨みつける者。恥も外聞もなく甘い汁を求めて媚びを売る者。それらを横目に、タカミネは悠然とほくそ笑んだ。文字通り最後の晩餐なのだ。 だが日没手前の黄昏時、それは起きた。立ち上がったキジタが開始のアイサツを述べようとした瞬間、シシオドシめいた高い音が広間に響き渡った。呆気に取られたような僅かな静寂の直後、 じわりと腹部から血を滲ませ倒れ込んだキジタ。その身を貫き背後の柱に突き立つ鋼鉄の星、スリケン。同時に爆発、悲鳴、上がった火の手、恐慌。 一心不乱に燃える離れから逃げ出す親族らを押し退け、タカミネはキジタに迫った。欲望の成就まであと僅か数時間という所で、死なれては意味が無い。脳髄だけでも無事確保できれば十分、 形だけでも延命処置を施させ……「イヤーッ!」 その時、背後から鋭いカラテシャウトが響いた!「イヤーッ!」タカミネは紙一重でブリッジ回避運動!カーーーン!タカミネの後頭部を狙ったスリケンは、シシオドシめいた高い音を響かせ、 向かいの壁に突き刺さった。 タカミネは襲撃者の姿を捉えながら、ゆらりと反転し立ち上がる。おお、見よ!一瞬の間にその身には厳めしいメンポとブレーサーが装着されている、ニンジャである!視線の先、 湖上の離れと本宅を繋ぐ橋の上に佇むのは、先日雇い入れた新人の給仕オイランだ。茜色から群青色にグラデーションする特徴的なサイバネ・アイの光。スリケンを投擲した手を、 そのまま奥ゆかしいキモノの襟元に伸ばし、炎に脱ぎ捨てる。濃紺の装束を纏った女ニンジャがアイサツをした。 「ドーモ、マーグレイブ=サン。ヴェスパーです」「…ドーモ、ヴェスパー=サン。マーグレイブです。貴様、誰の回し者だ」ヴェスパーの返答は無言の笑み。マーグレイブは困惑を瞬間的な怒りで焼き払い、 両者は同時に突撃。激しいカラテ応報が始まった! ◆◆◆ ……「イヤーッ!」「グワーッ!」拮抗はほんの僅かな時間だった。マーグレイブの突きを逸らしながら、ヴェスパーの肘がその胸部に突き刺さる。カチグミ・トレーニングに培われたマーグレイブのカラテと、 ニンジャ筋力そのものは実際侮れない。しかしそのワザマエはイクサを知らぬ。己と同等、それ以上の敵を知らぬ。命のやり取りを知らぬ。一打を交わすごとにメッキは剥がれ落ちていった。 ワン・インチ距離で次々繰り出されるヴェスパーの鋭い短打。マーグレイブのカラテの起こりはことごとく潰され、逸らされ、木人拳めいてカラテを叩き込まれるのみ。 「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イ…」KRAAAAAASH!その真上に、梁と天井が大きく燃え落ちた。 瞬間的にバックフリップした両者の間には、再びタタミ四枚程の距離が開く。激しくなる火の手、建物の限界が近い。次で仕留める。ヴェスパーは二振りのダガーを抜き、順手と逆手に構え腰を落とす、 そして跳んだ!「イヤーーッ!」 「イヤーッ!」同時にマーグレイブもシャウトを上げた!その両目は怪しく発光している。レッサー・ヒュプノ・ジツ。視線を交わした対象のごく一時的な催眠・支配に留まるが、イクサにおいては十分すぎる隙。 これを用いてマーグレイブは数々の己の邪魔者を陥れ、殺してきた。そして明日、ジツに陥れたキジタに一族一同の前で、ウトウ家当主の全ての権限と遺産を己に譲渡する証書にハンコを突かせる。 そして仕掛けを施したこの離れごと、焼身セプクさせる腹積もりであった。名家の跡取りの重圧に耐えられずフリークアウトした、アワレな若者の最期として。 両者の視線は完全に重なった、終わりだ。マーグレイブは勝利を確信した。だがヴェスパーは止まらない!茜色と群青色の輝きはいささかも揺らがずマーグレイブを捉え、眼前に迫った!「イヤーッ!」 ヴェスパーのシャウトと共にマーグレイブの視界は暗闇に染まる。(なんだ。これは)(ジツか?)困惑は一瞬。コンマ数秒後、両眼にじわりと走る熱さ。ジツの発動に見開かれたままのマーグレイブの両眼に、 ぷつぷつと赤い点が横一文字に滲む。それは線となった、そして激しく出血! 「アバーッ!?」眼球破壊!シグナルロスト!その痛みに叫んだ時、既にマーグレイブの心臓は、肋骨の間をするりと滑り抜けたダガーに貫かれていた。 マーグレイブに飛び掛かる瞬間、ヴェスパーはサイバネ・アイの発光はそのままに、視覚のみをオフにしていた。事前の調べにより、タカミネの正体と目論みは承知済みだった、カラテで追い詰められれば、 必ず逆転狙いのジツに頼り、最大の隙を晒すのは織り込み済み。この離れの炎上も意趣返しだ。 視覚を再起動したヴェスパーは、アルカイックな笑みと共にダガーの血を払い、ザンシンした。「最後に見たのが私でよかったわね。綺麗でしょう?」「サヨナラ!」マーグレイブは爆発四散した。 やがて炎上する離れは基礎から完全に崩れ落ち、湖へと沈む。黄昏が終わり、「インガオホー」と囁くドクロめいた月が夜闇の濃紺を照らし始めた。 ◆◆◆ 湖を見下ろす山の中腹、林に囲まれたウトウ家菩提寺の霊園。祖父、父母のものと並び立つキジタの墓。濃紺のワンピースにコートを羽織る女、ヴェスパーはそれらにセンコと花を手向け、厳かに手を合わせた。 25歳の誕生日を迎える前に、自らの暗殺を依頼した青年。祖父と父母を殺し、ウトウ家の遺産独占を目論んだ男。先祖と亡き家族が愛したこの土地への、暗黒メガコーポの産廃処理場誘致の計画。 カネ以外頭にない一族の醜い政争。鳥籠に押し込められた飼い殺しの人生。全てへの復讐だった。 「ナムアミダブツ。これで正式に依頼完了かしら」「ありがとうございます。ヴェスパー=サン」背中にかかる声。上等なダブルスーツ姿で瀟洒な傘を手にするキジタがその後ろに立っていた。心なしか以前に比べ、 その体躯と面持ちは精悍だ。 あの夜、キジタに撃ち込まれたスリケンは急所を外していた。炎上する離れからヴェスパーに担ぎ出され、一命を取り留めたキジタは名を変え、ネオサイタマで地下に潜った。捜査に立ち入ったマッポに対して、 火事の直前キジタが何者かの狙撃を受けた証言もあり(一部親族は否定したが、当時現場給仕をしていたオイランがサイバネ・アイの記録映像を提出した)、ほどなく湖底と周辺の捜索も打ち切られた。 そして数か月が経過し、先日キジタ・ウトウには正式に死亡認定が下された。その後は先代の遺言通り、ウトウ家の遺産はこの一帯の土地と山林の保全に用いられることとなった。 ヴェスパーとキジタは霊園の石段を下る。薄い汚染雲の合間から覗く午後の日差しの中、風に運ばれひらひらとモミジが散り、足元を染める。「いい所ね、ここ。前来たときはサクラが咲いてたわ」「ええ、冬の雪化粧も綺麗ですよ。 ……今は、しばらくは大丈夫ですが、どうあれいつかはこの山も湖もメガコーポの手が入ると思います。先の事はわかりません」「けど、あのファック野郎に好きにされるのだけは死んでも御免だった。ね?」キジタは頷いた。 「実際死ぬつもりでした。せめて最後に一つ、盛大にやり返してやろうと」「最初に言ったでしょ?受けるかどうかは仕事次第。私の気分よ。カイシャクどころかセプクの代行なんて御免だもの」そこまで言ったところで、 ヴェスパーは困ったような笑みを浮かべる。 「……まあ、結局殺したようなものだけど。流石に予想外だったわ私も」キジタも苦笑し、首を横に振った「新しい人生を貰ったんです、文字通り。今度はちゃんと、自分の足で最後まで生きて死にます」 「『三日会わなければ子供も大人』か、逞しくなっちゃって。帰ったら早速、次の仕事も頼むわよ」「会計帳簿の調べなら出る前に終わってますよ。睨んだ通りの黒、良い材料です」ふいに、霧雨めいた重金属酸性雨。通り雨だ。 キジタは傘を広げ、ヴェスパーの上に差した。上等なジャケットの肩は雨に濡れる。 「スマートね、うちのナンバースリーは。お酒の方はまるでダメだけど」「けど、嫌いじゃない。ですね」やがて厳かなテンプルの山門をくぐると、麓の景色が視界に広がった。ほんの数秒、二人は静止画めいて足を止め佇んだ。 紅葉に染まる山々と、薄い汚染雲の合間から差し込む天使の梯子。霧雨に拡散する光の下で、湖は煌めいている。