ひとつの黒い毛玉が、テレビの画面でよちよちと覚束なく動いている。しかしその毛玉は別の向きから見ると、大きな丸い瞳と小さな赤い舌がついているのがわかる。 身体の凹凸を消してしまうほどの真っ黒な毛並みの中に、耳や目だけが表面に描いたように浮き出ている姿。猫好きな自分が特に黒猫を愛する理由は、その愛くるしさにある。 「ずっと見てるね。そんなに好きなの?」 いつの間にか風呂から上がった彼女──ミスターシービーの声を頭の半分で認識しつつも、もう片方の頭は子猫たちの遊ぶ姿に支配されていた。涼やかな彼女の声には風呂に入る前から番組に釘付けになっているこちらへの呆れが少し含まれているような気がしたが、それが気にならないほど、その時の自分は猫たちに夢中だった。 「うん… あー…いいなぁ、肩に乗ってる…」 画面に映し出される猫たちは目まぐるしく移り変わっていく。その一匹一匹から目が離せなくて、どうしてもおざなりな返事を返してしまった。 「ふーん…」 だから、そのときすっかり拗ねた彼女が新しい悪戯を思いついていたことなど、気づくはずもなかったのだ。 「上がったよー」 さっきの猫たちの可愛い仕草が頭に残りっぱなしで、シャワーの間もそれをずっと反芻していた。鏡に映ったその時の笑顔がひどくにやついていたから流石にその後は控えたが、それでも実に穏やかな気分のまま浴室を出たことには変わりない。 そんな我が家に猫はいないが、可愛らしい同居人は今もベッドの上だろう。さっきは少し袖にしてしまったから、寝る前に果物でも出してあげようかと思いながら部屋に戻った。 「シービー?」 もう一度呼びかけてみるが返事はない。眠ってしまったのだろうかと思って、ベッドの方を見遣ると。 「にゃ」 碧色の瞳をぱっちりと開いた彼女が、丸めた手をこちらに伸ばして、実に楽しそうに微笑んでいたのだった。 上目遣いでじっとこちらを見つめる目は、次は何をするの、と問いかけているようだ。 両の腕は丸めたまま前に出して、四つん這いのまま伸びをする。耳と尻尾の先をぴんと伸ばして、大きな瞳をらんらんと輝かせながら。 あとはひげがあれば完璧といったところだろう。今の彼女の仕草は、まさに猫そのものだった。 「なんで、いきなり猫の真似?」 普段から猫めいた振る舞いの彼女がする猫の真似は実に魅力的ではあるが、なぜ唐突にこんなことをしようと思ったのかは見当もつかなかった。だから思い切って彼女に聞いてみたが、彼女は何も言わないままだ。 本当に動物に話しかけているようだった。自分の興味のあること以外は、そもそも自分に向けられた言葉だと認識さえしていない。何度聞いても彼女は何も答えないまま、ゆったりと尻尾を揺らしていた。 「にゃんっ」 「わ」 何度目かの同じ問いかけをすると、彼女は痺れを切らしたように勢いよく頭突きをしてきた。 もう理由を聞き出すことは諦めたほうがいいのかもしれない。アタシは猫になったんだから、理由なんて聞かないで遊んでよと、その悪戯っぽい笑顔が訴えているような気がした。 「わかったよ。ちょっと遊ぼう」 観念してそう零すと、彼女は嬉しそうに尻尾を一振りして、ごろりとベッドに寝転んだのだった。 寝返りを打つように横になって、ゆったりと手足を伸ばした彼女を見る。さっきのテレビで猫たちが見せていたリラックスしているときの寝方を思い出させる仕草に、つい笑みが溢れた。 だが、唐突に猫になってしまった彼女と何をしたらいいのかが、いきなりのことでなかなか思いつかない。だがそうやってこちらが思案している間にも、彼女は中途半端に近づけた手を鼻先でなぞられて早く早くと催促をしてくる。 猫を飼ったらしてみたいことなんてテレビを見ている間にあれこれと考えていたはずなのに、手の置きどころが見つからない。 「わかったわかった」 だが、その間も彼女の催促は止まなくて、根負けするように手を肩口に乗せた。 「?♪」 彼女が身体を横たえるとともにできた曲線を、上へ上へと登っていく。肩から首へ辿り着くと、彼女は少しくすぐったそうに首を傾げてみせた。 吸血鬼に血を吸われるために首筋を差し出すような仕草は、ただの猫と言うにはあまりにも妖艶に過ぎる。だが、このままあっさりと彼女の虜にされてしまうのは少し癪だったから、もう少し遊ぼうと今度は顎の下に指を寄せた。 猫のつもりで、という安直な思いつきだったが、案外と彼女は気に入ってくれたらしい。本当の猫のように触れてほしいところを指に押し当てるような仕草を見ていると、可愛らしさに自然と頬が綻ぶ。 さっきまでの危険な胸の高鳴りが少しずつ収まっていくことに、素直に安心すればいいはずなのに何故か一抹の寂しさも覚えた。彼女にいいようにされてしまうのは面白くないのに、そんな不敵な彼女のことがどうしようもなく好きで、彼女と愛し合うのはやめたくない。 だが、わがままな自分に呆れていたからか、彼女に寄せていた指がいつの間にか随分と上に登っていたことに気づくのが遅れてしまった。はっとして彼女を見遣ると、自分の指が彼女の顎を持ち上げて、こっちを向かせたような格好になっている。 「…」 彼女の頬が紅く染まって、その表情が拗ねたようなしかめ面に変わっているのを見て、これはまずいと直感する。 指はすぐに離したが、お叱りは免れないらしい。ぺちぺちと手の甲で頬を叩かれて、彼女を宥めるための言葉も出てこなかった。 「ごめんって」 つんとそっぽを向いたまま、彼女は答えてくれない。人間の言葉で謝っても、猫は許してくれないよ、ということなのだろうか。 怒った姿も愛おしいからいくら怒っても畏まってもらえないのは、猫の悩ましいところなのかもなと下らない思考を走らせる。だが、それでも遠慮して触れることはできないでいると、彼女はころりと寝返りを打って、拗ねた顔のままこちらを見つめた。 表情こそさっきと同じだが、その意味は違う。不用意に触れられたことではなく、触れてくれないことを怒っているのだ。 「…かわいいなぁ」 猫のふりをしているから言い返せないのをいいことに、普段は照れくさくて言えないことも口にしてしまう。拗ねたまま少し紅みが差した彼女の顔も、それでもつむじにそっと指を当ててお伺いを立てると、そっと頭を下げて撫でやすいようにしてくれることも、言葉にしないからこそ愛おしく思える。 彼女の髪の滑らかな手触りに心を奪われながら、胸元にそっと身を寄せてくれたことを心から嬉しく思う。猫と触れ合っていて一番幸せな瞬間は、猫が心を許してくれたときなのだから。 とはいえ、思い通りになってくれないのもまた彼女の魅力だろう。しおらしかったのは初めだけで、頭を撫でているうちにすっかり悪戯っぽい笑顔を取り戻してからは、今度は頭をすりすりと擦り寄せて甘えてくる彼女にこちらが照れさせられる番だった。 じゃれてくる彼女とずっと触れ合っていたい欲望をなんとか抑えて、冷蔵庫に入れていた葡萄を取り出しに行く。部屋に戻って再びベッドに腰掛けると、彼女はすかさず伸ばしたこちらの足に頭を乗せて、もうどこにも行かせないと言うように笑っている。 膝の上でころりと丸まったこの大きな猫と、どう付き合っていこうかと思案した。 「みゃお」 「こらこら」 飛びつこうとする彼女の頭を指先でつんと抑えて、テーブルの上に籠を置く。キャットフードを食べるわけにはいかないのはわかっているけれど、ここまで徹底的に猫になりきっていた彼女が葡萄を食べようとするのが、なんだか可笑しくて笑ってしまった。 彼女にも分けてあげようと思ったが、膝の上の彼女は起き上がらない。その目元が笑っているのを見て、いったい何を考えているのかはすぐに分かった。 「…行儀悪いぞ」 一応そう言ってみるが、彼女はどこ吹く風だ。猫に行儀なんてわからないよ、と笑われているような気さえした。ご機嫌な彼女が微笑みながら首を傾げてみせたときには、もう勝負は決していたのだろう。 「…しょうがないな」 房から一粒取った葡萄が、楽しそうに微笑む彼女の口に出迎えられては消えていく様を見送ることが、次の自分の仕事になっていた。 自分と彼女の口に交互に葡萄を運んでいるうちに、房に残った粒はもう半分を切っていた。結局は自分の手で彼女に食べさせるのが楽しくて、口を開けてねだられる度に一粒ずつ取ってやるのも苦労と思わなくなっていた。 「みゃん」 「あっ」 そんなこちらの気の緩みを、彼女は敏感に察知するらしい。自分の分と思って摘んだ葡萄が、唐突に身を乗り出した彼女にぱくりと食べられた。そして悔しいことに、見せつけるように微笑みながら、わざとらしく粒を飲み込む彼女を見ていると、悪戯されたことよりも楽しさが勝ってしまう。 だから、何事もなかったように膝の上に戻って次をねだる彼女にどう仕返ししてやろうかと考えるのも、この上なく心が躍ることだったのだ。 次の一粒を取ると、彼女はさっきのことなど忘れたようにごく自然に口を開けた。 だから、その粒が口に飲み込まれる寸前に手を引いてやると、目を丸くしてこちらを見つめる彼女の表情が余計に可笑しく思えてしまう。 普通の声を出せるのをいいことに遠慮なく笑ってやると、彼女の表情がみるみる悔しそうに変わっていくのが楽しい。彼女が突然に身を起こして指から葡萄を掠め取ろうとしても、実に余裕を持って対応できた。 「だめだめ。いたずらする悪い子にはあげない」 猫の真似をしている今の彼女が取れないように、手を伸ばしてわざと高く掲げる。口の端が吊り上がっているのを自覚しながらも、頬を膨らませて拗ねる彼女が愛おしくて、改める気には到底なれなかった。 いつまでも続けていると本当に拗ねてしまいそうだが、彼女の前で高らかに勝利を誇示したいという気持ちは抑えられそうにない。その時の自分はすっかり意地悪な発想に酔っていて、なんとか葡萄を取ろうとする彼女の手が止まった時を見計らって、彼女の目の前で頬張ってやろうと思っていた。おかげで諦めたように見えた彼女が何をしようとしているかなど、まるで目に入らなかったのだ。 身体を起こした彼女の表情は、もう拗ねても怒ってもいなかった。きっとさっきまでの自分がそうだったように、目を細めて実に楽しそうに微笑んでいた。 さっきは葡萄に一直線に向かっていた彼女の身体が、そっと寄りかかってくる。何をしようとしているのか気にはなったけれど、好いた相手が甘えるように触れてくるのが嫌なはずもなくて、委ねられた彼女の感触に存分に浸る。 慣れ親しんだ重みと温もりに優しく捕まえられると、今まで何度もそうしてきたように、身体と心が自然と愛し合う準備を始めてしまう。まるで食事の合図を覚えさせられているようで、これではどちらが猫なのかわからないな、などと、照れ臭さを誤魔化すための冷やかしを一緒に思い浮かべながら、彼女の潤んだ瞳を見つめた。 微笑む彼女の顔が近づいてくるのが、ひどくゆっくりに感じる。これからすることを、はっきりと意識させるようだった。 どう反応するかを愉しみたくて、本当に彼女がゆっくりと動いているのだろうか。それとも、今起こっていることとこれから起こることに酔いすぎて、時間の感覚がおかしくなってしまっているのだろうか。 まあ、どちらでもいい。たとえどんなに酔っていても、彼女の唇がきっと目を覚まさせてくれるだろう。何度も味わった柔らかくて幸せな温もりが触れるのを、そう思いながら目を閉じて待った。 だが、どれだけ待っても唇に触れるものはなかった。確かに時間の感覚がおかしくなってしまっているのかもしれないけれど、いくらなんでもこれは長すぎる。 目を開くと、さっきまであれほど間近にあった彼女の顔はない。その代わりに彼女は、自分が摘んでいた葡萄の一粒に口を寄せていた。 来もしないキスを一心に待っていたこちらを揶揄うように、彼女はわざとらしく唇をちゅっと触れさせてから、葡萄をゆっくりと飲み込んだ。 さっきまで自分がどんな顔をしていたのか想像すると、それだけで恥ずかしくてのたうち回りそうになる。彼女はただ葡萄を頬張っただけなのに、愛し合うことを期待して待っていた自分はさぞかし滑稽に見えたことだろう。 そんな羞恥に悶える自分を現実に引き戻すように、温かく湿った感触が指先に触れる。驚いて視線をそちらに向けると、彼女の赤い舌の先が、押し当てられるように指先に触れていた。 その光景とさっきの感触をすり合わせることで頭がいっぱいになっていると、彼女は不意打ちのように、今度はこちらの頬をぺろりと舐めた。 「…!」 彼女はやはり、実に愉快そうに微笑んでいた。きっと今の自分の顔と同じように赤い舌をわざとらしく出したまま、からかうように目を細めて。 猫に甘噛みされたり舐められたりしたって、どきどきなんてしないでしょ、とでも言うように。 「…猫はそんな色っぽいことしないぞ」 もう一度膝の上で寝転んだ彼女は、そんな言葉を聞き流すように、にゃん、と可愛らしい鳴き真似をした。 ころり。また、ころり。 撫でて欲しい方を向けて彼女が寝返りを打つたびに、ゆっくり、優しく触れる。さっきまでの悪戯心と色香に満ちた時間とは裏腹に、今度はひたすらに幸せで、安らぎに満ちた空気が部屋を満たしてゆく。 わがままに付き合うのがどうしようもなく幸せと思えてしまうのは、猫も彼女も同じだった。撫でるのではなく、撫でさせてもらっていると形容したほうがいい今の状況も、まさしく猫のそれだろう。 「にゃんっ」 「こらっ」 時々、撫でる手を両手で捕まえようとする彼女を叱るけれど、本心からやめてほしいとは思っていない。むしろまたやってくれないかと思いながら、彼女を撫で続ける。 じゃれて遊びたいくらい喜んでくれていると思うと、また心が幸せで満たされてゆく。 掴まれた手を、今度はあえて何の抵抗もせずに彼女に任せてみる。意外な動きに驚いたのか彼女は少しの間目を丸くしていたが、すぐにこの腕をどうしてやろうかとでも言いたげに微笑みを浮かべて、胸の前にこちらの腕を抱え込んだ。 猫がお気に入りのおもちゃにするように、全身で抱き込んで離さない姿にどうしようもなくときめく。肩口にそっと彼女の頭が預けられたときには、嬉しくて踊り出したくなるという感覚は本当にあるのだなと実感した。 動けない。 腕が痺れても、寝返りを打ちたくなっても、幸せの方が勝ってしまう。 そこにいるだけで、その場所が彼女のものになったように思える。同じ時間を過ごせるだけで、何もしていなくても幸せだと思えてしまう。 本当に、不思議だ。猫も彼女も、どうしてこんなにもそのぜんぶに惹かれてしまうのだろう。 彼女の温もりで意識が微睡みに沈んでいくにつれて、羞恥心もゆっくりと薄れていく。このまま彼女と眠りに落ちたいと思って、彼女をゆったりと抱きしめるのも、今なら何のためらいもなくできる。 だが、彼女をかき抱くために伸ばした手はあっけなく宙を泳いだ。腕に力を込める前に、彼女はするりと腕の中から抜け出していた。 何か気に障ることでもしたかと思って彼女を見つめたが、その表情はさっきまでと同じ、むしろより悪戯心を増した笑顔だった。 猫も彼女もどうしようもなく気分屋で、こちらの気持ちを他愛もなく弄ぶのはよくわかっていたし、そういう思い通りにならないところに惹かれていた。けれど、今はどうしようもなくそんな彼女と愛し合いたくて、その想いを意地悪くかわされてしまった切なさの方がずっと勝ってしまった。 いつもなら恥ずかしくてできないようなことをしてでも、彼女を捕まえておきたいと思うほどに。 にやにやと楽しそうに笑う彼女は、きっとこんなことをされるとは思っていなかったろう。不意打ちのように少しきつく抱きしめたときの表情は、何が起こっているのかわからないと告げているようだった。 「…!」 何が起きたのか分からなくてもいい。その時の自分は、ただ彼女と離れたくないということしか考えられなかった。 一緒に寝るのも、猫だからご法度ということなのだろうか。さっきまであんなに一緒にいたのに。 何度も何度も愛し合う素振りで、さんざん心をかき乱したくせに。 どうしようもないほど、君に触れていたい。 猫のことは大好きだけれど。 猫のような君のことも愛おしいけれど。 君と語らう時間は、何物にも代えられないから。 「ん…!ん…」 名残惜しいけれど、猫とは一度お別れをしよう。 君みたいな猫は素敵だけれど、今は猫みたいな君に会いたい。 俺が恋をしたのは、ひとりの自由なウマ娘なのだから。 抱きしめられるのも、キスをするのも、決して初めてではない。でも、そういうことをするのは大抵アタシからで、彼が顔を赤くして唇を押さえるのを見るのが好きだった。 だから、こんなふうに彼に強く抱きしめられるのも、唇を奪われるのも、ほとんど初めての体験だったのだ。 きみが猫に夢中になっているのが悔しくて、少し意地悪をしたかっただけなのに。こんなにもアタシを蕩かさなくたって、いいじゃないか。 もう、きみのことしか考えられなくなっちゃうよ。 「んっ…ん…ん…!」 息継ぎのために離したはずの唇が、そんな時間も惜しいというようにもう一度触れ合った。きみのほうが息は続かないはずなのに、それにも構わずに唇を求めあっているということがひどく心をかき乱す。 魔法が解けた。 ちょっと意地悪で気まぐれな猫になったことも忘れて、きみのくれたキスに酔いしれた。 もう、当分猫には戻れないだろう。猫が人間にキスをされて、こんなに嬉しいはずはないのだから。 唇を離したあとの、少し不安そうな彼がどうしようもなく愛おしい。いつもならしないような大胆なことに手を染めて、少し怖くなってしまっているのも、それでも腰に回した手には力が籠っていて、アタシを離したくないと言っているのも、ぜんぶ。 「次はどうしてくれるのかな」 久しぶりに発したアタシの言葉に、彼は驚いたような、安堵したような表情を浮かべた。でも、アタシは切ないままだ。あんなに求められたのに、もう何もしてくれないなんて。 せっかくウマ娘に戻ったんだからさ。もっとたくさん愛してよ。 猫のままじゃできないことを、いっぱいしようよ。 優しく、けれどしっかり抱きしめられたまま、彼に導かれるままに一緒にベッドに倒れ込む。 「ふふふっ」 少し、意地悪しすぎてしまっただろうか。猫に浮気した彼に。 普段よりずっと甘えん坊な彼を、もう一度抱きしめ返す。 猫になって甘えた分だけ、今度は彼に甘えさせてあげよう。 「…ごめん」 「なんで?」 「猫ばっかり見て」 肩口に顔を埋めて恥ずかしそうに呟く彼の頭を、ゆっくりと撫でた。さっきまでずっと撫でられた分を返すように遠慮なく手を動かしても、じっと受け入れてくれるのがなんだか可笑しい。 「怒ってないよ、全然。猫になって、きみに可愛がってほしかっただけ」 まだアタシが拗ねていると思っている彼が可愛らしくて、撫でる手が止まりそうにない。猫に夢中になる気持ちがわかるからこそ、猫に勝ってみたかっただけなのに。 「アタシも猫、好きだよ。 犬は犬で好きなんだけどさ。猫の生き方のほうが、なんかしっくりくるんだ」 そのときしたいと思ったことにどこまでも正直な猫の姿に憧れることは少なくなかった。同意するようにくすくすと微笑む彼の声に気をよくして、もう少し強く抱きしめてみたくなる。 「俺も。犬は好きなんだけど、ちょっと苦手なんだ。 あんなに一途に慕ってくれるのが逆に悲しくてさ。可愛いって思うのと同じくらい、その分だけちゃんと幸せにしてあげられてるのかなって考えちゃうんだ」 はっきりとした思い出を話したわけではなかったけれど、そう語る彼は少し寂しそうだった。 「猫は気楽だから。あのくらいぞんざいに扱ってくれたほうが、却って安心する」 別れの匂いがするその言葉が、夜の空気に沁み入る。だが同時に、少しだけ引っかかるところがあって意地悪な気持ちが鎌をもたげた。 例えば、よく行く公園の野良猫がいつの間にかどこかに行ってしまうように。 「じゃあ、猫がいなくなったら悲しくならないの?」 アタシが何も言わずに気まぐれに旅に出て、きみを連れて行かなかったら。 きみはアタシを追いかけてくれないのかな。 「…なる。ひとりになったら、思い出してまたいっぱい泣くんだろうな」 彼には悪いけれど、寂しそうなその声を聞いて、少し安心してしまった。 それだけアタシを想ってくれていると思うと、その声さえ嬉しく思えた。 今度は彼にアタシを撫でてもらいながら、困ったように呟くその声を聞く。 「どうしてあげたらいいんだろうな。そばにいてほしいけど、自由に生きてもほしいんだ。 …わがままかな」 人が猫の気持ちを全てわかることはできないのかもしれない。けれど、わかろうとしてくれていることは無駄じゃないと、アタシは信じていたい。 「いいんじゃないかな。旅をしたいときには自由にさせてくれて、かまってほしいときにはそばにいてくれて。 そうしてほしいわがままな猫が、ここに一匹いるからさ」 どうしようもなくきみと違うアタシのことを、きみはわかってくれようとしていたから。 きみはきみのままでいてほしい。 そんなきみにいつまでも、アタシのそばにいてほしい。 わがままかもしれないけど、どうしようもなく誤魔化せない本心だ。 アタシがきみに抱く想いも、きっとそういうものだから。 「明日は山に行きたいな。紅葉が綺麗に色づく頃だから」 風を感じたいときは、気の向くままに旅に出て。温かいごはんが恋しくなったら、きみのところに帰ってゆく。 心のままに伸び縮みするこの距離が、今はただ心地いい。 「でも、外は寒いよ」 そんな距離を、今は少しだけ短くしておこう。いじわるな猫が、きみに寂しい思いをさせてしまったみたいだから。 「うん。知ってる。 だから、今はここにいたい」 外の世界の美しさも、部屋の中の心地よさも知っている。 知っているから、今はきみのそばがいい。 猫のことは大好きだけれど。 猫になってみたいと思うこともあるけれど。 猫の手じゃ、きみを抱きしめてあげられないから。 「猫の言葉でさ。 好きだよって、何て言うんだろうな」 「ふふふっ。なんだろうね。アタシもわかんないや。 あんまり好きって言ってくれないからさ」 簡単に人に媚びないところも猫の好きなところだけれど、今は少し困る。また猫になりたくなったときに、寂しがりやのきみにどうやって愛を囁けばいいのか、考えておかないといけないから。 もう一度、猫のつもりになって。大好きな相手が目の前にいたら、どうしたいか考えてみる。 両手と両脚を精一杯伸ばして、離れないようにぎゅっと挟み込んで。尻尾もくるりと巻き付けて、頭をすりすりと胸元に擦り当てる。もうこれはアタシのものだと、匂いをつけるように。 そんなアタシを優しく、慈しむように抱き返してくれるのが嬉しくて、思わず鳴いてしまうのだ。 「にゃん」 猫はとってもわがままで、どこまでも自由な生き物なのかもしれないけれど。 そんな猫だって、人を好きになるんだよ。 ほら。きみが笑ってくれると、こんなに嬉しいんだもん。 「こうするんだよ」 猫のやり方で告げた愛を、彼は嬉しそうに受け取ってくれた。お礼のようにゆっくりと優しく耳を撫でられて、くすぐったさと心地よさでつい笑ってしまう。 「覚えとく」 「ふふ」 アタシを撫でる手は止めないまま、彼は少しだけ悔しそうにため息をついた。 「俺にもせめて尻尾があったらな。一緒に猫になれるのに」 可笑しいのと嬉しいのが同時に押し寄せてきて、くすくすと笑うのがやめられない。猫になってでも、きみはアタシを好きだって言ってくれるんだって。 「ふふ。それも素敵だけどさ。 好きって言ってくれるなら、アタシはきみの言葉がいいな」 きみと一緒に猫になって、気ままに旅をするのは確かに素敵だと思う。 それでも、きみが恥じらうように、けれどどうしようもなく伝えてくれる言葉の味には代えられない。 「好きだよ。 どんな姿に変わっても、俺はシービーを好きでいたいよ」 たとえ気ままな猫になったとしても。 好きという言葉の意味は、きっと忘れないだろう。