嗚呼!痛恨の東京優駿 ぼくは、昨日から非常に後悔している。二日酔いになったわけではない。溝に足を取られて一張羅を台無しにしたわけでもない。ましてやシショ―の美しく年若い後妻と道ならぬ関係に落ちたわけでもない。(シショ―なんていないけど)だからこそ、この後悔を衆目にさらすことで軽減したいのだ。 「さっきの人怖かったね。出されたかき氷に*『ケチケチするな、もっとシルをかけろっ』て」「付き添っていただいてありがとうございます」「ボロ負けしたんだよきっと。いやいやお付き合いいただきありがとうございました。初めて食いましたがうまいですね、モツ焼き。ただコレのためだけに100円払って入場もなあ」 事故にでも遭ったのだろう、ぼくより一回りは年上の隻腕の紳士はモツ串に舌鼓を打ちながら相好を崩す。彼の娘さん達であろうか、高校生くらいの二人の少女はぼくからかき氷を受け取るとはにかみながら彼の隣の席へと戻っていった。 今日はダービー、ここは東京競馬場。ぼくは前回大負けだった中央競馬の借りを返すべく鼻息荒く乗り込もうとし、彼らに遭った。薄暗い食堂の方をチラチラ見ながら彼は初対面のぼくに人なつっこい笑みを浮かべながらお願いをしてきたのだ。 『買い物に付き合ってください。オヤツ買いたいんですけど、どうにもね…』 紳士が口ごもるのもわかる。競馬場の客層はラクダのシャツに腹巻にチャンチャンコ、ハチマキ締めたオッサンである。彼のような三つ揃いのスーツに身を固めた紳士はそれこそ馬主席でしか見たことない。謝絶しようとしたぼくは後ろで不安げにたたずんでいる2人の少女を確認するや喜び勇んでおやつやツマミを持ち、そのお礼と言っては何だがシートで彼らの遅めの昼食のお相伴に預かっている。 「それにしてもうちの女房もヒドイ。『あんたは大ぐらいだから食堂でいくらかけるか分からない。弁当持ってきなさい』って」「おでんおいしそうだったもんね」「でもお弁当食べ切ったじゃない父ちゃん」 「いやいや素晴らしい奥様ですよ」そんな親子のやりとりをやり取りをほほえましく思いながらぼくは彼からいただいたニギリメシの最後のひとかけらを飲み込んだ。塩鮭の薫り高い風味が鼻腔に登ってくる。 「父ちゃん、馬が出てきたよ」双眼鏡をかわるがわるのぞき込んでいた少女たちの言葉にぼくはパドックに目を向けた。東京優駿、天下のサラブレッド4歳馬、その頂点を決めるレースである。 「おお、あの小さい子がヨコミツですか」ゲートインする馬の中、あまりに小さく、汚れたような毛色の耳目を引く馬を目にした紳士が声を上げた。3つ目のニギリメシを飲み込むと紳士は誰に言うでもなく言葉を続けていく。 「横山先生がぜひ馬主に、って勧めたんですよ、あの子。『一番』が好きなセンセイは先頭切って走るあの子をいたく気に入ってね、横山先生のペンネームから一文字づつ貰ったんですよ」 ぼくも漫画家のはしくれだ、両先生に影響されたところは小さくない。かのトキワ荘に厄介になれていたらひとかどの人物になれていたと夢想しなかったといえばウソになる。だが勝負の世界はヒジョーなのだ。馬主が誰だろうが勝てるとは限らないのだ。所詮はオープン馬なのだ。18番人気が来るわけないのだ。『渡世の義理で買うんですよ。コレだけあったら天丼何杯食えるかな』などとボヤいていた紳士に釣られるように買った単勝100円は紙くずになること請け合いである。 15時35分、ゲートが開きレース開始。 1コーナー、ヨコミツハナを取る。2コーナー、ヨコミツ先頭。3コーナー、ヨコミツ先頭、4コーナー、ヨコミツ先頭(観客ざわついてくる)残り200、ヨコミツ先頭!(観客絶叫、『金返せ』『OO死ね』などの罵詈雑言多し) ぼくは全身から力が抜けていくのを感じた。本命が飛んだからではない、むしろ100円券のお陰で微黒で終わった。歓喜の雄たけびを上げてもよかった。 「いや、強いですね手塚先生のヨコミツ。じゃあ、馬主席にあいさつに行きましょうか『東海林先生』」 そうだ。初対面の人間にあそこまで馴れ馴れしくする人間は居ない。となれば知り合いだと考えるのが筋だ。隻腕の年上の知り合いといえば一人しかいない。なのにどうしてぼくは気づかなかったのだろう。 「レースが終わればサラブレッドは休むんです。種馬だって母馬だってシーズンが終われば休むんです…大ヒットも出した、お子さんもたくさんのお弟子さんもいる、アニメにだって何本も作った。いつ休まれるんですかね手塚先生は」 御弁当の入っていた風呂敷包みを手に、お嬢さんたちを引き連れぽつりとつぶやかれたその言葉が、床にへばりついたガムのように耳に残り続けていた。