飛信子  大部屋に入ると、人が倒れていた。  別にサスペンスドラマの導入というわけではなく、ここでは意外とよく見かける光景だ。  長い金髪を振り乱し、死んだようにぴくりとも動かずソファに体を埋めて眠る彼女を起こしてしまわないように細心の注意をはらって戸を閉め、ゆっくりと私の定位置まで歩き、荷物を脇に置き、腰を下ろす。首をめいっぱい伸ばして恐る恐る覗き見た桜ちゃんはまだ安らかな寝息を立てていて、その様子にほっと安堵の息をつく。最近お決まりのパターン。  近頃の桜ちゃんは傍目にもわかるほど明らかにオーバーワークだ。お芝居に声優に、ラジオに司会にと、国内のみならず海外にまで足を伸ばしていていったいいつ休んでいるのか心配になるくらいで、実際にきちんと休息がとれていないから収録やレッスン前のわずかな時間すらも睡眠の足しに宛てているんだろうと思う。できることなら一歩も部屋の外に出たくない派の私には、とても真似できそうもない。  曰く、「私が売れれば売れるほどナナニジにも注目が集まるからね。私も儲かるしグループも認知されてみんなHAPPY!」ということだけれど、それで身体を壊してしまっては元も子もないだろう。まだ私自身は人前には積極的には立ちたくないものの、もし代わってあげられるものなら代わってあげたいくらいなのに、求められているのは藤間桜であって滝川みうではないのだからそれもきっとかなわない。負荷という現象はどうやらなぜか一点にばかりかかってしまうものらしくて、世の中ままならないものだとため息をつく。  背負ったリュックサックから巾着袋を引っ張り出し、中から姿を現した古びたコンパクトカメラのレンズを向けた。ピントを合わせてボタンを押し込むと、かしゃりと控えめなシャッター音がやけに大きく部屋に響いた気がしてひやりとしながら、眠る彼女がいる一瞬を四角く切り取った。上手く撮れているだろうか。一刻も早く確認したいけれど、フィルムカメラなので現像してみるまでどんな写真画像撮れているかはまだわからない。後のお楽しみというやつだ。  お楽しみ、とは表現したけれど態々店舗まで出向いて現像を頼むという行為は私にとっては途轍もなくハードルが高くて億劫で、撮り終えたはいいものの部屋の引き出しの中にフィルムがまだ何本も眠っているのを思い出して一人苦笑する。スマホを取り出してToDoリストがわりのメモ帳に「現像」と打ち込んだところで静かに扉が開く気配がした。この扉の開け方はきっと蛍ちゃんだ。  果たして開いたドアの隙間から様子を伺うように顔をのぞかせたのは予想の通り一之瀬蛍ちゃんで、目が合うと柔和な笑みを浮かべて「おはようございます」と控えめな挨拶に対して同じように控えめに返し、口元に人差し指を立てた。  視線を桜ちゃんの方へと向けると、蛍ちゃんも爆睡中の彼女に気付いたようで丸く大きく開いた口に手のひらを被せる反応が上品で可愛らしくて思わず頬が緩む。  肩がけのトートバッグを指さして荷物をロッカーに置いてくるといった旨をジェスチャーで示し、蛍ちゃんは来たときと同じように物音をたてないようにゆっくりと扉を閉めていった。  静寂が訪れる。  耳をすませば窓の外や扉の向こうからあいも変わらず人や車の気配は感じられるものの、それは静寂といっても差し支えないものだった。  完全な無音よりも、わずかに他人の生活音が聞こえることに心地良さを感じるようになったのはいつごろからだったろうか。  いびきというほどではないけれどいやに大きく耳に届く彼女の寝息を聞きながら、変化というものはいつだってゆるやかで、気がつけば本来歩きたかった道を大きく逸れているなんてことがたびたびあったのを噛みしめる。けれどそれはきっと私の願望でしかなくて、急激な変化なんて望んではいないのだ。誰だってかさぶたを勢いよく剥がせば痛いし、血が出るものだろう。 『あんな、ウチな』  彼女の、まるで世間話でも始めるかのようなふわふわとした声がいまも鼓膜の奥でこだまする。  ふと、ソファのほうへ視線を向けたけれど、桜ちゃんはまだ夢の中を微睡んでいた。 ◆ 「あー、そらあれやな。卒業秒読みってやつや」  言って向かいに座った都ちゃんはずるる、と気持ちのいい音を立てて勢いよく麺を啜った。 「狡賢いランランのことや、ウチの見立てじゃ実績作って仕事確保して卒業後も食いっぱぐれんように準備しとるんやろ。間違いないで」  もごもごと麺を咀嚼して飲み込んで喋ったあと、間髪入れずにおにぎりにかぶりついた。久しぶりに見る気持ちのいい食べっぷりと喋りっぷりに思わず自分の箸が止まる。 「みゃーこの見立てはともかく、あたしもみゃーこも準備はしてたけど、もっとやっておけばなーって今になって思うもんね」  都ちゃんの隣に腰掛けるジュンちゃんも半分ほど齧ったトッピングの天ぷらを摘まんで掲げながら視線を遠くへと彷徨わせた。グループを卒業し事務所を移籍してから今日まで、私の預かり知らない苦労があったことが察せられる。  ジュンちゃんから連絡があって、都ちゃんと会うからお昼を一緒に食べないかと誘われた。  以前の私なら、誘われたこと自体は嬉しくとも外食という行為に抵抗があって行くかどうかで悩んだところだったけれど、今回はすぐにスケジュールを調べて空いている日を伝えた。後輩メンバーたちに誘われたらできるだけ断らない、という目標をこなしていくうちに、少しづつだけれど人混みへの耐性がついてきたらしい。ただまぁ、テーマパークで一日じゅう、みたいなことはまだ私にはハードルが高いのだけれど。  二人の意見を聞いてなんの変哲もないチェーンのうどん屋さんの天井を見上げて記憶を手繰る。  思い返せば桜ちゃんはアイドル活動の傍ら、様々なオーディションに積極的に応募したり、名指しではないオファーにも手を挙げたりと、グループ外の活動にとても精力的だった。それがアイドルという仕事を終えてのセカンドキャリアへの土台作りだと言われれば、確かに合点のいくところも多い。けれど、なんだかそうではないような気がしてならなかった。 「忙しくしてんのは喜ばしいことやけど、つかちょっとこっちに仕事回してほしいくらいやけど、寝れてないんは感心せえへんな」  ウチらは顔面が商売道具なんやから睡眠時間は確保せな、と都ちゃんは眉をしかめる。それに連動するようにしてジュンちゃんも大きく頷いた。 「そうそう。ちゃんと寝ないとおっきくなれないもんね」 「ジュンが言うと言葉の重みが違うわ〜。というか二十歳過ぎてんのになんでそんな伸びるん?成長ホルモンバグっとんの?」  久しぶりに直接会ったジュンちゃんはまた背が伸びたみたいで、すらっとしていてきれいになった。一緒に活動していた頃はいちばん背が低かったのに、今ではメンバーの中でもいちばん背が高いかもしれない。 「小学生の頃とか体弱かったからそのぶんが今になって一気に来たのかもね〜。服選びが大変ですわ〜、オホホホ」 「自慢か!」  店内ということもあり控えめにどつき合う二人を眺めながら、私もうどんを箸で二、三本摘んでつるんと啜った。  何か、腹の底で考えていることがあるのなら、それについて悩んでいるのなら話してほしいとは思う。けれど私の方からそれを聞いてしまうのはなんだか聖域に踏み込んでしまうみたいで気が引けた。  胸の裡に秘めておきたいものごとの一つや二つ、誰にだってあるだろうから。 ◆  その日も私が楽屋の扉を開くと、先客がすでに居た。  目が合うとみかみちゃんはにっこりと微笑んで手を振って、膝の上で寝息を立てる彼女を指さして口元に人差し指を立てた。 「やっと誰か来たわぁ。さーちゃんはすぐ寝てまうし、暇で暇でしゃーなかったんよ」  ひそひそ声で喋るのに控えめにおはようを返して、部屋の端に荷物を置いてから二人が体を預けるソファに歩み寄った。  桜ちゃんは今日もよく眠っている。お弁当の時間になったら真っ先に起こさないと暴れるのでそれだけは忘れないようにしないとと、心に決めた。 「えぇ〜?美味しいの先に取ってからでええんとちゃう?」  みかみちゃんの悪戯心が首をもたげるけれど、そんなことをしてしまっては後がこわい。得意のヘッドロックで今度こそ頭と体が分かれてしまうかもしれなかった。  ほんならしゃーなしやで、と本当なんだか嘘なんだか雲のように掴みきれないふわふわとした変わらない笑顔で、みかみちゃんは声の音量は控えめに世間話をはじめる。  最近はまっている美容健康食品が高くて手が出にくいだとか、重い腰を上げてようやく現像してきた写真の写りが悪くなかったとか、他愛のない雑談。予想はしていたけれどやっぱりしんどかったから次に現像を頼みに行くときはついてきてほしいと言うと、「それはおひとりでどうぞ」と語尾にハートマークをいっぱいつけた笑顔できっぱりと断られてしまった。手厳しい。 「あんな、ウチな」  ふと、会話が一瞬途切れたとき、みかみちゃんはまるで当たり障りのない天気の話でも振るように話し始めた。 「ウチな、卒業しようと思ってん」  それが本当になんでもないことを言うみたいな口調だったものだから、思わず数秒固まってしまい、ようやく彼女の顔を見ることができたのだけれどそこには変わることのないいつも通りの柔らかな笑顔があって、ますます混乱した。  欠席の知らせのあったメンバー以外が全員顔を出したところで会議室に通され、合田さんの口を通じて改めて神木みかみの卒業がメンバーに伝えられた。 「私もつい先ほど申し出を受けたばかりなので動揺していますが、意志は固いようです」  聞き終わらないうちに泣き出してしまう子、神妙な表情で受け止める子、言葉の理解に時間がかかっている子、慌てたように床の向こうの下の下へと視線を向ける子とメンバーの反応はさまざまだった。  ふと盗み見た桜ちゃんはというと、ショックを受けた風でもなく、至って平然としている。特に仲の良い二人のことだし、以前から話はしていたのかもしれなかった。私も、ついさっきではあるけれど本人の口から聞いていたので、示し合わせたわけではないけれど同じような反応になってしまっていた。 「合田さん、壁はなんか言ってきとる?」 「いえ……まだ何も。今、地下には人を向かわせていますが前日までには今までのような指令の類は出されてはいませんでした」  それを聞いてみかみちゃんは両の拳を握ってかわいらしくガッツポーズをとった。 「ウチの勝ちや!」  何をもって勝ち負けとするのかは定かではなかったけれど、どうやら壁の指令に先んじて卒業の意思を伝えたということが彼女の中での勝利条件らしかった。 「そんな、ゲームかなにかみたいに」  呆れたような、驚いたような声を発したそらちゃんに呼応するみたいに後輩たちの何人かが詰め寄った。口々に叫ばれる「どうして」にみかみちゃんは顎に人差し指を当てて「そうやなぁ」と一考し、 「も〜、メンバーの呼び方のネタ切れなんよ〜。せやから、これ以上メンバーが増える前に辞めよかなって」  と、あっけらかんと言い放つ。数秒間会議室がしんと静まり返ったあと、 「それって塔子のせいですかぁ!?」 「それって私のせいですかぁ!?」  塔子ちゃんとみず姫ちゃんが声を揃えて椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。 「うそ!うそで〜す!お茶目なジョークやで〜」  そんな二人の反応に慌てたように、みかみちゃんは手振りを加えながらおどけてみせる。  嘘が嫌いな私でもみかみちゃんの嘘は少し好きだった。全部が全部とは言わないけれど、その多くは人を笑顔にさせる嘘だったからだ。けど、今のはちょっと笑えない。 「堪忍なぁ。でも、ウチなりに考えて決めたことやから、みんな夢と追いかけっこするウチのこと応援してなぁ」  後輩たちの勢いに困ったような笑顔を浮かべながら、それでもみかみちゃんは宣言を撤回しようとはしなかった。 ◆  ナナニジルームで各々が寛いでいると、ふいに不快な轟音を立てながら部屋全体が振動した。  もはやみんな慣れたもので、少し驚きはしたものの特に動じた様子もなく、立ち上がろうともせずに台本のチェックに勤しんだり、お菓子を摘んだり、読書に耽ったり、音楽を聞いていたり、スマホやタブレットを弄ったりしている。 「リーダーとって」 「えぇ?なんで私が」 「リーダーだからじゃない?」 「そうそう、リーダーリーダー」 「あなたたち、ものを食べながら寝転ばないの」  そんなやりとりを視界の端に収めながら、私もふっと頭に浮かんだフレーズを忘れてしまわないようにメモ帳に打ち込むために画面へと視線を落とした。  どうせどこそこで撮影をせよだの、今猛練習している振りの激しい曲のお披露目日が決まっただとか、そういった業務連絡的なものだろうと高を括っていたのだ。  冷静に考えれば普通ではないおかしなことだというのに、それくらい、壁からの指令の排出は私たちにとって日常に溶け込みかけていた。毎日決まった時間に近所の線路を疾走する電車だとか、どこかの学校のチャイムの音と同じくらいの、「少しうるさいな」と思っても口に出すほどのことじゃない、そういった存在。  これが今の私の世界のすべて。  私がいて、家族がいて、グループのみんながいて、スタッフの方々がいて、ファンの皆さんがいる。デビュー当初は戸惑うこともあったし生きることにとことん向いていないと思ったけれど、ようやく人生というものが案外悪くないものだと思い始めていた頃。  だったというのに、それはあんな鉄板一枚でがらがらと崩れ去っていってしまった。  気が緩んでいたと言われれば、そうかもしれない。実際、グループ結成一周年の際に解散を告げられた時も自分たちで考えることを放棄しかけていた節があった。これから先何があろうとも11人で力を合わせれば越えられないものなどないのだと、夢物語のようなことを思っていた。熱くも冷たくもないぬるま湯に首まで浸かって、揺蕩うみたいに流れに身を任せて。走る速度を緩めたつもりはなくとも、いつの間にか疲れにくい楽な走り方を身に着けてしまっていたのかもしれなかった。  指令のプレートを手に取った麗華ちゃんの表情が一瞬強張ったかと思えば、すべてを理解したかのように破壊の痕などきれいさっぱり見当たらない聳え立つ壁を睨みつける。  終わることは必ずしも終わりではない。終わることで始まるものもきっとあるのだろう。 ◆  大部屋に入ると、先客はこちらを焦点の定まらない眼差しでゆっくりと振り返った。  起こしてしまったかと聞くけれど、ちょうど目が覚めたところだと答えられて、ほっと息をつく。  あくびをしながら大きく伸びをした桜ちゃんは、がさごそと荷物をまさぐってミネラルウォーターのペットボトルを取り出してぐいとあおり、手鏡で寝癖の有無を確認した。 「みうちゃんはなにも聞かないよね」  会話の接続も前触れもなく、桜ちゃんが口を開いた。なんのことを聞いているのかはピンときていたけれど、一応、「何を?」と聞くと、「みかみちゃんのこと」と予想通りの答えが返ってくる。 「見てたと思うけど、みかみちゃんが卒業するって言い出した日に、みんなから質問攻めに遭ったんだよね」  みかみちゃんと一番仲が良いのが桜ちゃんということは、最早改めて確認するでもないメンバー内での周知の事実だ。それならみかみちゃんに聞いて納得のいく返答が得られなかったなら桜ちゃんに標的が向くというのは想像に難くない。  けれど桜ちゃんのコメントは至極あっさりとしたもので、「どうもしない。彼女の人生は彼女のものだから」という、受け取りようによってはとても冷たいものだった。それでいいのかという問いにも、「だって、もう会えなくなるわけじゃないし」とあっけらかんと答える様子が後輩たちが群がる向こう側から聞こえてきたのを思い出す。 「けど、みうちゃんは楽でいいや」  それなら、それでいいかと思った。  正直なところ気にならないと言えば嘘になるけれど、ずっと張り詰めていては疲れてしまう。疲れてしまっていては、勿体ない。なら何も聞かずにいた方が波風は立たないはずだ。なにせ、もう時間は殆ど残されていないのだから。  みかみちゃんが卒業を決めてからも、桜ちゃんは活動の幅を狭めることなく動き続けていた。それどころか前にも増してグループ外での活動に積極的になったようにも思える。残りの僅かな時間くらい、べったりとつきっきりでもバチは当たらないだろうにと思ってしまうのは、傍目からの無責任な意見だろうか。 「会おうと思えばいつでも会えるんだし、今しかできないお仕事を優先するのは当然でしょ」  海を渡ってきた私がそう言うんだから国内なんてすぐだよ、と言ってつくりもののような笑顔を浮かべる桜ちゃんに、私は何も言葉をかけることができなかった。 ◆  結局のところ、壁がみかみちゃんの卒業について言及することはなかった。  先に宣言されてへそを曲げてしまったのか、必要なしと判断したのか、口を噤んだまま気がつけばもう長いことあの鳴動を聞いてはいない。  手揉み洗いの手を止めて、泡がつかないようにいつの間にか額に浮かんでいた汗を拭った。  事務所の屋上に降り注ぐ日差しは既に春のそれで、ぽかぽかと暖かくて絶好の洗濯日和だと感じる。排水溝に泡だらけの水を流してから、タライいっぱいになみなみと水を注いだ。  春先の冷水に手がかじかんだけれど、我慢できないほどでもない。何度かすすぎ洗いをして軽くしぼったのち、事務所内の洗濯機を操作して脱水モードを選択し、スタートボタンを押下する。轟音を響かせながら数分間駆動して、甲高いアラーム音を合図に機械が完全に停止するのをずっと壁際にしゃがんで眺めた。しばらくの無音を味わったのち、立ち上がって何千回転もドラムの中で振り回されて少しくたびれたぬいぐるみを取り出した。  屋上の真ん中にぬいぐるみと一緒に並んで膝を抱えて、はるか向こうに聳える少しぼんやりと霞むビル群を眺めていた。  ポケットに入れたスマホがぶる、と震える。スリープを解除するとRAINの通知が一番上に表示されていて、純佳ちゃんからの業務連絡が届いていた。1時間後にダンスリハとのことで、既読をつけて返信して電源ボタンを一回押した。  ぎぃ、と重い鉄扉が開く音がする。視線を向けると、レッスン着のニコルちゃんが笑うでもなく、怒るでもなく、けれど無表情というわけでもないフラットな表情で私のことを見つめていた。 「聞いてると思うけど、1時間後にリハ、始まるから」  了解と礼を告げると、「別に」と素っ気のない返答を残してニコルちゃんは踵を返そうとする。が、ぴたりと動きを止めてまだ何か言いたげだった。 「……神木さんの卒業、あなたは知ってたの?」  急な会話の広がりに少しだけ面食らったけれど、数秒沈黙してから唇を舌で湿らせて、聞いたのは直前だったと答える。既知かどうかであれば本人の口から聞くまで知らなかったけれど、確信はなかったものの予感めいたものはなんとなく感じていた。数年活動をともにしてきたことによる空気感のような、不確かだけれど確かなそれ。 「そう。道理で驚いた様子がなかったはずだわ」 私は、嫌だと思ったことはすぐに顔に出てしまう。だから逆に、ニコルちゃんに違和感のようなものを抱かせてしまったみたいだった。逆にニコルちゃんはどう思ったかを聞いたけれど、「神木さんが決めたことなら、私からは何も言うことはないわ。黙っていなくなるより何倍もマシね」と返事は至って素っ気ないものだった。ちくちくとした嫌味が彼女らしいといえばらしいと思い、苦笑を浮かべる。 「けど」  曖昧な表情を浮かべている私に、ニコルちゃんは視線を合わせずに補足を付け足した。 「今度はちゃんと見届けられそうで、そこだけは安心した」  ……何か、そのひとことだけは彼女らしさを感じられずに思わず息を呑む。けれどなんだか、そのらしくなさが逆に嬉しく思えた。 「ニ・コ・ル・さん、おはようございます!」  開け放たれた鉄扉を挟んで反対側、事務所ビルと屋上を結ぶ階段の下から甘ったるく弾むような声が聞こえてくる。 「リハまでダンス練付き合ってください〜。あ、みうさんもおはようございます」  ひょっこりと顔を出したのは予想の通りそらちゃんで、ニコルちゃんが休業から復帰してからというもの、ずっとべったりでまるで家で主人の帰りを待つ猫かなにかのよう。  そらちゃんの明朗さと明晰さにはひそかに憧れを抱いていて、私にも構ってくれやしないかと思ってはいる。けれど、どうも彼女の好みのタイプは他ならぬニコルちゃんで、想いはいつまで経っても一方通行のままらしい。まぁ、威嚇されて爪で引っ掻かれるということがないだけましではあるのでそこはよしとした。 「いい心掛けだわ、西浦さん」 「収録のときとかみたいに名前で呼んでくださいよぉ」 「私、公私の区別ははっきり分ける主義なの」  そう突っぱねるニコルちゃんの言動はしかし、刺々しさが以前よりは和らいだような気がする。ほんの少しだけではあるけれど、さっきのひとことといい、何か、彼女の中での変化のようなものがあったのかもしれない。  優しくて、けど変わってしまったことが少しだけ悲しくて、受けとった印象をどう出力していいのかわからずにまた曖昧に笑った。 「みうさんも一緒に行きます?」  そらちゃんはそう声をかけてくれたけれど、あいにくと私は今ぬいぐるみの洗濯の真っ最中だ。春のうららかな日差しとはいえ野ざらしのままというのは忍びない。なにより思い出が色褪せてしまうのだけは避けたくて申し出を断る。  閉まりゆく鉄扉と、その向こうへと消えていく二人を見送ってふたたび膝を抱えた。  ぬいぐるみに手を伸ばしかけて、止まる。少し間をおいて指先で触れたけれど、もう湿り気は感じられなかった。  私の言葉にならないざわついた感情を知ろうともせず、ふてぶてしい薄ら笑いを浮かべながら壁ちゃんは気持ちよさそうに久方ぶりの陽光を浴びていた。 ◆  服に皺が寄ることも厭わずにぶざまに縋り付いていた。  顔中の穴という穴から体液が流れ出て、彼女の服を汚した。触れた肌にどくんどくんという彼女の脈拍が伝わってくる。自分のものではない鼓動を聞いたのはいつ以来だろう。 「滝川さん、話をするにしてもまずは離れましょう。佐藤さんも困っています」 「そうだぞ、みう。気持ちはわかるけど、落ち着こう、な?」  あかねちゃんと悠希ちゃんが肩に手を置いて泣きじゃくる私をなだめようとするけれど、制服を掴む手の力を緩めたが最後、もう二度と麗華ちゃんに会えなくなるような気がして怖くて、ありったけの力を込めてしがみつく。  壁の指令を受け取ってから数日後、佐藤麗華が出した答えは卒業の『提案』を受けるというものだった。 メンバーの多くは麗華ちゃんの決断を応援したい気持ち半分、残って欲しい気持ちが半分というような実に日本人らしい反応だったのに対し、私と桜ちゃんとニコルちゃんだけが強い拒否反応を示した。  22/7の活動を続けていく中で、やってみたい、挑戦してみたいことが別にできたのだと、私たちに語る彼女の瞳に一切の揺らぎはなかったように思う。  けれどその真っ直ぐさが余計に私の絶望感を掻き立てた。  いままでずっと一緒だったのに。  これからもきっと一緒のはずなのに。  誰かひとりでも欠けてしまっては、きっと私の世界はばらばらに壊れてなくなってしまうだろう。  そう思った瞬間に、壁に一人掛けのソファを力まかせに投げつけたときのような信じられないくらいの力が漲って、気付けば麗華ちゃんを床に押し倒し、お腹のあたりに顔を埋めていた。そうやって泣きじゃくり、イヤだと我が儘を言い続けて一時間以上麗華ちゃんのことを抱きしめ続けていた。  彼女は、私の心の片隅にいてもいい、いて欲しいと願った数少ない人間のひとりだ。いや、彼女だけではない。22/7はようやく広がった私の世界そのものだった。  守りたいものができれば人は強くなれるなんて言葉は、フィクションの中だけの話で嘘っぱちだ。大切なものが増えれば増えるほど、それは私の両腕に抱えきれずに端からぽろぽろと零れ落ちてしまう。  広がったと思い込んでいた世界は恐ろしいものから身を隠す背中が増えただけで、仲間と一緒ならなんでもできるという全能感はひとりきりでは何もできやしないことの裏返しに過ぎない。  勝手に私たちを集めておいて勝手に解散しろだなどとほざく壁ならいっそ壊してしまえばいいけれど、大切な人の決断をねじ曲げて考え直させる術なんて、私にはわからなかった。だから、子供みたいに泣き喚いて縋り付くほかなかったのだ。  自分のために平気で嘘をつく大人は大嫌い。自分のために聞き分けのないことを言う子供も大嫌い。大人になんかなりたくなくて、けれど子供のままでもいたくない。そんなどっちつかずの私の髪をそれでも優しく撫でてくれた彼女の指の感触が、今でも鮮明に思い出せる。  さよなら、ささやかな私の世界。  こんにちは、あなたがいない日々。 ◆  彼女が最後と定めたステージが刻一刻と近づいてくる。発表当時は悲しげだった後輩たちも、いつしか普段の元気を取り戻したように振る舞っていたように思えた。  大部屋の扉を開けると、今日は珍しく桜ちゃんはおらず、代わりにみかみちゃんが部屋の中央のソファに腰掛けてぼんやりと中空を眺めていた。 「おはよう、みーちゃん」  朝の挨拶を返して定位置に荷物を置くその間も、みかみちゃんはゆっくりと体を左右に揺らしながら暇そうにしている。 「さーちゃん帰ってくるん、明後日くらいやったっけ」  今回の桜ちゃんのお仕事は海外ということもあり、移動に時間がかかる。出演自体は今日の筈だけれど、オフ日もあるだろうし帰国はみかみちゃんの言うくらいになるだろうか。 「いつでも会えるなんて言うてたけど、そんなん無理やんなぁ」  そう語る彼女は寂しげで、胸の奥がきゅっと縮み上がるような感覚におそわれる。  みかみちゃんの卒業発表前あたりから、桜ちゃんがみかみちゃんと行動する頻度が目に見えて減っていたことには私も気付いていた。  思い返せば、いつもそうだ。卒業していく子がいない日常に感覚を慣れさせるためなのか極端に交流を控えて、むしろ避けている節すらも感じられる。  五年以上もの付き合いを経て私が桜ちゃんに対して抱いたイメージは、「わかるようでまるでわからない」だった。  明け透けにすべてをさらけ出しているように見えて、芯の部分だけは薄いベールにでも包まれているかのようにぼんやりと判別がつかない。  そこまで考えて、辟易した。自分は他人に暴かれたくないくせに、他人の詮索ばかりしてしまう。それはなんだか、フェアじゃない。 「みーちゃん、どないしたん?機嫌悪そうやけど」  怪訝な表情を浮かべて私の顔を覗き込んでくるみかみちゃんの言葉に、また考えていることが顔に出てしまっていたことに気付く。気まずさに渋い顔で桜ちゃんはもっとみかみちゃんとの時間を取れるようにすればいいのに、と取り繕うように不満を口にすると、「ほんまやで。あんまり放っとかれたらウチ、寂しくて死んでまうわ」と頬を膨らませる仕草がなんだか面白くて思わず眉間に寄ったしわが解れた。  不意に、部屋の扉が勢いよく開き、同時に事務所全体に響き渡るくらいの元気な声が入室してくる。 「おっはようございまーす!!」 「ほーちゃんおはよう。今日も元気やねぇ」  22/7は今日も賑やかだ。  騒がしいのは苦手なはずだったのに、それが気にならなくなったのはいつ頃からだったろうか。  昔からそうだったし、きっとこれからもそうなのだろう。そう思うと不思議と胸の奥が温かいのだ。 ◆  開演まで残り10分を切り、観客席にも色とりどりの光の花が咲き乱れていた。風に吹かれるみたいにゆらゆらと、そのひとつひとつが私たちを応援してくれている一個の人間であるということは、初めてこの光たちの前に立ってから何年も経っているというのになんだか不思議で、理解しているつもりではあるけれど気持ちとしてはふわふわと取り留めがない。  モニターに映し出されたライブ配信用の定点カメラの映像をぼんやりと眺めていると、不意に首に腕が回されてがっしりと固定され、背中に重みを感じた。 「みーちゃん」  本番直前で情緒が不安定になった桜ちゃんの襲来かと身構えたけれど、珍しいことに私の背中に体重を預けてきたのはみかみちゃんだった。危なく背負い投げの体勢に入りかけていたので背筋がひやりとする。 「あぁ、緊張するわぁ」  背中に伝わってくるみかみちゃんの体温は、平熱の低い私からしてもひんやりと冷たく、その言葉に嘘偽りがないことが見て取れる。  ちらりと待機中のメンバーのほうを見たけれどそこに桜ちゃんの姿はなく、どこか別の場所で顔を青くしたり赤くしたりしているのかもしれなかった。  ライブは今日が3Daysの千秋楽。普段通りならば日程が進むほどに緊張は解れていくはずなのに、日増しにそれが張り詰めていくのはおそらく、今日が彼女の最後の表舞台だからだろう。そんな日ならばなおさら、桜ちゃんに引っ付きに行けばいいのに、と本音が口に出てしまう。 「みーちゃんは嫌なん?」  私の肩に顎を乗せたみかみちゃんの言葉に「そういうわけじゃないけれど」と、目を伏せる。 「ねーちゃんの気持ち、今ならわかるわぁ。ライブのお稽古楽しかったし、卒業撤回して冬も、来年の夏もまた出たいなぁ」  それは名案だと思う。みかみちゃんの嘘つきは今に始まったことではないし、それをよく理解しているファンの人たちも案外「な〜んだ」で済ましてくれるかもしれない。  首に絡められた腕に手を置いて、続く言葉を待った。 「けど一度決めたことやし、最後にステージに立たれへんまま卒業してったとーちゃんとかーちゃんのぶんも、ウチが立派にやらなあかんねん」  そこまで背負わなくてもいいよ。今夜はあなたのためだけの舞台なのだから、と言えたならどんなに良かったか。心の優しい彼女だからこそ、きっと考えは頑なだろう。 「それに」  接続詞だけを口にして、みかみちゃんは言葉を切った。続く台詞を待ったけれど、それはなかなか発せられることはなく、なにかを躊躇っているような雰囲気を感じとる。 「あ、パパとママって意味やないで」  おどけたような口調の補足に少しだけ笑って、ぐっ、とほんの少しだけ手に力を込めて返事の代わりにする。  開演間際のアナウンスが場内に響き渡った。客席からは歓声があがり、合田さんから舞台袖に集合するようにとの指示が飛んだ。  通用口から姿を現した桜ちゃんは、緊張なんておくびにも感じさせなかった。 ◆  終演まで残りわずかとなり、観客席が淡いピンク色に染まり、夏ももう終わりだというのにまるで満開の桜のよう。風に吹かれるみたいにゆらゆらと、今夜の主役の再登壇を今か今かとその場にいる全員が待ちわび、あるいはこのまま時が止まればいいのにと願いながらその名前を口々に叫んでいた。  夕方から二回回しのステージも終盤だというのに歓声は鳴り止むことを知らず、むしろその声量は1ステ目よりも大きくなっているとすら感じる。  これから一週間声が枯れたままでもいい。声帯が擦り切れて血を吐いてもいいという、鬼気にも似た熱量が会場全体を取り巻いていた。  淡いピンクのドレスを身に纏ったアイドル、神木みかみがメンバーに先んじて登壇していくと、ひときわ大きな拍手と歓声があがる。  舞台裏に設置されたモニターはスポットライトに照らされたみかみちゃんをアップで映しだし、片耳に嵌めたイヤモニからは最後の単独MCに向けて息を呑む彼女の息遣いを私たちに伝えた。  ふらりと、固唾をのんで見守るメンバーたちの輪から抜け出して、舞台袖まで足を運んだ。真正面からではないけれど、最後くらいは彼女自身を目に焼き付けておきたかったから。  不意に、遠慮がちに左手に指が絡められる。  灼けるように熱いその手のひらの主は、桜ちゃんだった。  痛いくらいに私の手を握って、真っ赤な目に涙をいっぱいに溜めて、みかみちゃんの姿を真っ直ぐに見つめていた。 「最後まで、泣かないって決めたのになぁ」  震える声で誰にともなく虚空へと喋りかけるのに、相槌を打って返す。  そんなの、無理に決まっているでしょう。だって優しいあなたはいつも、巣立っていく彼女たちのために涙を流していたのだから。 「MCが終わるまでに、止めておきなさいよ」  桜ちゃんを挟んだ反対側に、いつの間にそこにいたのかニコルちゃんが少しだけ潤んだ瞳で、けれども視線は逸らさずにステージを見据えながら同じように桜ちゃんの手を握っていた。  泣くな、ではなくて今だけは泣いていい、という許可を得て、ようやく彼女の堰が切れる。手の甲に伝わる涙の熱に、火傷をしてしまいそう。 「メイク落とさないように気を付けて泣いて」 「そんな器用なことできないぃ〜……!」  握った私たちの手で顔を覆って、桜ちゃんは顔をくしゃくしゃにして数ヶ月もの間誰にも見せなかった涙をようやく流した。  あの日、彼女に誓った約束は果たされたのだろうか。  少しはメンバーに頼ってもらえるくらいの強さは身につけられただろうか。 『リーダーだからこそ、先陣を切って私は出ていくのよ』  優しく髪を撫でながら紡がれた言葉が脳裏によみがえる。 『だって私も含めてみんな、引っ込み思案の引き籠もりでしょ。放っておいたらいつまで経っても外に出やしない』  誰だって未知の世界は恐ろしい。住み慣れた暖かな場所から一歩でも外に踏み出せば、そこは寒風吹き荒ぶ無人の荒野。頼れるものなど己の身ひとつしかなく、後戻りなどできようもない。  そんな場所に初めて踏み出した勇気はどれほどのものだったか。きっと麗華ちゃんの足跡があったからこそ、彼女もこうして飛び立てる。  舞台の上にひとりきりで立つ彼女を見た。  なんて凛としていて美しいのか。その立ち姿が寂しくて、誇らしくて、悲しくて、愛おしい。  ぼんやりと滲む視界を空いた指先で拭って、握られた手に力を込めた。  何時間も歌って踊ったおかげで疲労困憊だというのに、気付けば全身に活力が満ちている。彼女の始まりに花を添えるために、身体じゅうがわなないていた。  あぁ、早くステージへと駆けていきたい。きっと私は今、世界でいちばん好きな、やりたいことをやるためにここにいる。  今も風は吹いているだろうか。それは追い風か向かい風か、目も開けていられない暴風かそれとも頰を優しく撫でるそよ風か。  わからないけれどたぶんきっとそれは、帆を膨らませ船を前へと進ませる順風なのだろう。 ◆  バラエティ番組の収録の中休みに楽屋で各々が寛いでいると、不意に部屋の中央あたりから悲痛な叫びが上がった。スマホの画面から視線を外してみると、ソファの上で格闘技大会が開催されていた。  桜ちゃん得意のヘッドロックがほぼ完璧に極まり、もはや勝負はここまでと思われた試合は相手の華麗な脱出により形勢が逆転した。そのまま馬乗りになって連打連打、ラッシュラッシュ。 「このこのこの〜!」 「うわー!?ギブギブギブ!!」  たまらず桜ちゃんの口からギブアップが宣言され、本日の大一番はみかみちゃんに軍配があがったようだった。 「どうや!まいったか!」 「参りましたー」  今の今まで割とガチめな取っ組み合いを繰り広げたかと思えば、次の瞬間にはけらけらと笑い合っている。その一部始終をはらはらと見守っていた後輩たちも顔を見合わせて不思議そうな表情を浮かべていた。 五年以上飽きるほど見てきた二人のじゃれ合いだ。 「手が出てるうちは本気で喧嘩してるってわけじゃないんで安心ですよね」  かけられた声に視線を上げると、純佳ちゃんがケータリングのドリンクが注がれた紙コップを片手にこちらに近づいてくるところだった。 「以前お二人の冷戦に板挟みになったことがあって、その時は生きた心地がしなかったです」  当時の感覚を思い出したのか、純佳ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔で身震いをする。コップのドリンクがちゃぷりと音を立てた。 「みうさん、食事は摂りました?休憩時間もうあと30分もないですけど」  おにぎりをひとつ食べたことを伝えると「それならいいです」と答えて紙コップに口をつける。  純佳ちゃんはいろいろと世話を焼いてくれる上に、私の偏食についても比較的寛容だった。もっと野菜を摂れだの好き嫌いをするなだのという言葉は彼女の口からはとんと聞いたことがない。曰く、「元気ならいい」のだそうだ。とても助かる。 「元気といえば、この前佐藤さんにお会いしたんです」  はて、佐藤。それはどの佐藤さんだろうか。私は自慢じゃないが人の顔と名前を一致させるのは苦手なほうだったので、いまいちこれ、という人物が浮かばなかった。 「麗華さんですよ。元メンバーの」  彼女の口からその名前が出てくるとは思いもしなかったから、一瞬固まってしまった。二人の間に面識があったことを知らなかったから、苗字だけを聞いてもすぐにはイコールで繋がらなかったからだ。 「偶然あそこのお二人との食事に同席させてもらっただけなんで、知り合いってほどではないんですけど」  言って純佳ちゃんはソファに並んで座って仲良くお弁当をつつく二人を指差した。なるほど。そういうこともあるらしい。 「で、その時に麗華さんが急にみうさんは元気か?って聞いてきたんで、元気ですって答えたんですけど」  特にまずくなかったですよね?と少し不安げな表情で純佳ちゃんは口元に平手を添えて耳打ちをするようなポーズをとる。  天井に視線を動かして少し考え、問題ない旨を伝えると、ほっとしたように表情が柔らかくなった。 「じゃあ、次に会ったときに伝えて」 「何をです?」 「元気だよ、って」  そう言うと、純佳ちゃんは面食らったように目を丸くした。「RAINとかでいいんじゃないですか?」と言う彼女に「お願い」と念押しすると、納得がいってないように首を傾げながらも「はぁ、わかりました」と了承してくれた。  スマホひとつで世界中誰とでも繋がれる時代に、私は自分からは繋がりを求めようとはしなかった。四六時中誰かと繋がっているだなんて、それは疲れてしまうし、不自然でいびつだ。だからSNSの類からは距離をおくことにして、メンバーから誘われたなら応じはするものの、私の方からは、しない。  だからだろうか。人伝ての伝言というのがなんだか嬉しかった。もしかしたら薄れてしまったかもしれない彼女との繋がりを確かに感じたからだ。  いつか。もしいつか、私が外へ踏み出せるくらいに強くなれたのなら。その時は招待状を送ろう。  そんなことを思いながら鞄から取り出したカメラのレンズを向け、笑う彼女たちがいる一瞬を四角く切り取った。 了