「なぁ、沙織」 「なぁに? 麻子」 「……眠い」 「そっか」  すぅ、すぅ。  麻子の呼吸に合わせた静かな寝息と、麻子の温かさに包まれていく。 「幸せって、こういうものなのかな」 「……」  そっと麻子を胸元に抱き寄せながら、わたしも目を閉じる。  優しい眠り心地が、じんわりとわたしを包んでいった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  最近、わたしと麻子は同じ屋根の下で暮らしている。  どちらの家に帰るかは、その日の気分や冷蔵庫の中身なんかで決める。  理由は……それがお互いの得になるから。    麻子は夜ふかしがなくなる。  わたしは、麻子に勉強を教えてもらえる。  それだけじゃない。なんとなくだけど、お嫁さんの練習もできるから!  毎夕、麻子と肩を並べて帰るのが、楽しみになってきた。  今日の我が家は、わたしの暮らす寮。  部屋に帰って窓を開けると、暑いけれども少し心地いい汐風が、頬を撫でながら部屋の中に流れ込んだ。  コンタクトを外して眼鏡をかけて、制服は脱がずにエプロンを纏う。  麻子はテーブルに数学の教科書とノートを広げる。  教科書を見る、その目は左右にリズカルに動いて、ノートが数式と回答で埋まっていく。 「ふぅむ、こうやってさっさと宿題を片付けて、夕飯を待つのも悪くないな」 「でしょー? あっ麻子、野菜切るの手伝って」 「うん」  麻子が手を洗って、まな板の上のゴーヤを縦にざくっと切ると、スプーンで種とワタをかき出していく。  フライパンを動かす手を止め、さくさくと薄切りにしていく麻子の隣で、ツナ缶の油を抜いて、ゴーヤと和える支度をする。  今日はあまり手をかけない。  スーパーで安かったマンダイのムニエル、ゴーヤの和え物、夏野菜のスープに、雑穀米。 「これも和えるか?」 「うん」  帰り道、麻子が着替えを取りに行くついでに摘んできた、庭に生えたオオバ。  これも麻子が千切りにして、わたしが手にしたゴーヤの入ったボウルに、ぱっぱと加えていく。 「いいよねー、夫婦で日常的な共同作業、お料理ひとつでその仲が分かるよね!」 「ああ」 「……なんか突っ込んでよ」 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  ジャー、ガチャガチャ……キュッキュッ  夕飯を済ませたあと、麻子が洗い物をしてくれてるあいだに、わたしも宿題を片付ける……もちろん麻子の解答は見ないよ! 「ねぇ麻子ー、4-(2)なんだけどさー、このxとyの」 「ああ、それは引っかけだ」 「あー、ありがと」 「ん」  麻子が出すヒントは本当に最低限。  だけど、ひと言でも効果は絶大。 「そもそも、沙織の学力なら私のヒントなんか要らないだろう」 「そんなことないよ! 麻子の一言で迷いがふっと消えて道が開けるんだもん!」 「褒めても何も出ないぞ」 「飴でいい?」 「ん」  ポイっと麻子の口めがけて飴を放り投げる。 「あ」 「問題な…パクッ」  あさっての方向に飛んだ飴ちゃんを、麻子は皿を放り投げて軽いステップで舞い上がり、あさっての方向に跳んで口でキャッチして……着地の反動でキッチンに跳び戻って、落ちてきた皿をキャッチした。 「よっと」 「麻子! 凄いのは認めるけどお皿割ったら怒るからね!」 「もぐもぐ……飴を放り投げる沙織が悪いぞ」 「そりゃそうだけどさぁ……」 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  そうこうしているうちに夜も更けてきた。  制服を洗濯機に入れて……寝巻きを用意して、 「麻子ーお風呂入るよ」 「そうだな」  狭いユニットバスだし、別に二人で入らなくてもいいんだけど……麻子から一緒に入ると言ってきた。 「なんで?」 「電気代が安くなる」 「それだけ!?」 「それだけだ」  そんな軽い理由で裸どうしのお付き合いをするのもどうかと思う。  でも、最初は恥ずかしがってたわたしもだんだん慣れてきた。 「あのさ、麻子っていいシャンプー使ってるんだね、ちょっと意外だったかな」  あんまり意識してなかったけど、麻子の髪の毛は近くで見るとつやつや、さらさらしてる。 「沙織の作る料理が美味いからな」 「答えになってないよ」 「髪は……いろいろあってな」 麻子の髪を束ねてから、背中を流すわたしに語ってくれたのは……、 「そっか、ごめん、変なこと聞いちゃったね」 「いやいい、沙織だから言えたんだ」  おばあみたいにがみがみと厳しかった麻子のお母さんが、唯一ほめてくれてたのが、その長い黒髪。  だから麻子は、髪を切らなかったんだ……。 「おばあはもう切ってもいいぞと言ってくれるが……髪を切るのはどうしてもできなかった」 「うん」 「切ればあと30分、寝ていられると思うんだが…」 「いいよ、わたしも麻子の髪の毛、大好きだから」  麻子と同じシャンプーにした。みんな気づくかな? 「気づかれたからと言って気にしないが」 「でもでも、同棲してるのがばれちゃうかも!」 「これ同棲というのか」 「シェアハウス、かな?」 「「「「それだ!!!」」」」  ちょっと待って、なにか混線した。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  麻子の髪をマイクロファイバータオルでしっかり水気を切ってから、櫛を入れる。  手櫛もすーっと入っていきそうな滑らかな髪質に、ちょっと嫉妬しちゃう。 「私は自分で乾かすから、沙織も自分の髪の手入れをするんだ」 「んー、もうちょっと」  麻子のつやつやの髪から匂い立つシャンプーとコンディショナーの香りが、ちょっとくすぐったく感じる。  麻子はドライヤーを使わずにこの長い黒髪を乾かしてるんだ。初めて知ったときは大変そうだと思ったけど、もう10年はそうしてるから慣れたって。 「沙織、私が乾かす」 「えっ? 本当?」  ブォォォォと、ドライヤーの熱気が髪と頭皮をじりじりと焦がす。 「わたしもタオルドライしようかなー」 「時間はかかるが髪は痛まない、お勧めする」 「っても、わたし乾かすのに時間かかるから」 「そうだな、私みたいに3時に風呂に入るわけじゃないから、大丈夫だろう」 「まって、ちょっと待って麻子」 「乾くまでの間タオルを何枚か変えながら、水分を吸わせていく……。その間には本が何冊も読める」 「ちょっと」 「髪の毛が乾くうちに周囲が薄明かりになるが、まぁ2時間寝れば学校に……」 「麻子っ!!」  もう、睡眠障害のレベルで眠れないことが、さいきんの麻子の生態を知るうちにわかってきた。  ……知ってる、麻子が寝ない理由は知ってるけど……それじゃあ麻子の身体が壊れちゃうよ! 「いい? わたしの家ではわたしがルールだからね! 夜更かししちゃダメだよ!? 寝床に本を持ち込んでもダメっ!!」 「うるさいな、沙織はそど子にでもなったのか──」  えいっ! ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  ベッドに麻子を押し倒す。 「……今日の沙織はずいぶんと積極的だな」 「ちがう、ちがうよ」  艶めいた黒の髪の毛に指を纏わせながら、ささやく。 「麻子が寝るまで、わたしも寝ない」 「徹夜するってことか? お盛んだな」 「ちがう! ちがうよ!」  押し倒した麻子にぎゅっと抱きつくと、ふわりとしたボディーソープの香りがした。 「寝ないとおかしくなっちゃうよ」 「大丈夫だ、もう6年はこの生活を続けている」 「おばあに怒られなかったの?」 「あきらめた、おばあが」 「でもわたしはあきらめないからね!?」  暴れる猫を押さえるように、体重をかけないようにして、自分のからだで麻子を包み込む。  麻子の吐息と鼓動が、だんだんと緩やかになっていく。 「いい子だね、麻子」 「照れる」  わたしはすうっと息を吸い込んだ。  鼻いっぱいに、麻子のシャンプーの香りがした。