「こら、まだ髪乾かしてないぞ」 風呂上がりの彼女が楽しそうに鼻唄を歌いながら、お気に入りの写真集を持ってハンモックに向かおうとするところをなんとか捕まえる。できるなら臍の見えるキャミソールとショートパンツという目に毒な格好も改めてもらえるとありがたいのだが、そちらに関しては何度言っても直す気配がないので諦めている。 「えー。だめ?読みかけだったんだよ。 見てよ。この月と草原の写真とかさ、すごく綺麗だよ。今すぐ走り出したくなるくらい」 「風邪引いたら出掛けられないだろ?本は読んでもいいから、ちゃんと乾かしてくれ」 はーい、と返す声さえも彼女の場合はどこか楽しそうで、そんな彼女にねだられて随分色々なことを許してきてしまった。すっかり彼女に毒されている証拠だが、言うべきところは大人の自分がしっかり手綱を握ってやらなくては、と改めて思う。彼女が心から自由を謳歌したいなら、足りないところをこちらが補ってやるのも必要だろう。 そんなことを考えていたせいなのか、彼女の笑顔の中に、何かいいことを思いついたという悪戯っぽい微笑みが混じっていたことに、その時の自分は気づかなかったのだった。 「そうだ。きみがやってよ」 そう微笑みかける彼女の声は、さっきよりもずっと楽しそうに弾んでいた。それは喜ばしいことなのだが、唐突な彼女の提案を呑み込むのには時間がかかる。 「やるって?」 「アタシの髪、乾かして」 目をくりくりと丸くしながら待っている彼女を前にしても、こちらの踏ん切りは当然のことながらつかなかった。 「え…?でも、シービーはいいのか、それで。 女の子の髪なんて触ったことないぞ」 「いいじゃん。アタシはいいよ。 大丈夫だよ。ちゃんと教えてあげるから」 その大きな目で見つめられたまま、だめ?と首を傾げられると、さっきまでの心持ちはどこへやら、足がすごすごとドライヤーを取りに洗面所へ向かってしまう。 本当に、毒されてしまっていると思う。嬉しそうにいっそうくすくすと微笑む彼女の声を聞くと、結局彼女に敵わない自分の甘ささえも、少し楽しくなってしまうのだから。 タオルで丁寧に水気を取りながら、弱めの温風でじっくりと髪を乾かす。腰まである長い髪の全てにこの作業を施すことを思うと気が遠くなりそうなものだが、そのときの自分はすっかりそれに夢中になっていた。 好き放題に野山を駆け回っては、草叢を枕にして眠ることも厭わない彼女が、髪の手入れに特別気を遣っている様子は、今まで見たことがなかった。だというのに、その手触りや櫛通りには少しの引っ掛かりもなく、ずっと触れていたいほどの艶があるのが、不思議で仕方ない。 毛先は彼女らしく奔放に跳ねているというのに、髪そのものには傷みも枝毛もない。それを誇る様子もなく、自分のような素人に髪を触らせて嬉しそうにしているというのは、それに血道を上げる人からすれば鼻持ちならないことだろう。 何もしなくてもただありのままで美しいことが、実に彼女らしかった。 「大体乾いたんじゃないか?」 「ありがと。 せっかくだから、ちょっと梳かしてもらおうかな」 拙い自分の手が動いている間にも、機嫌よく鼻唄を絶やさない彼女を見て、ひとまず粗相はなかったのだろうと安心した。粗めの櫛で軽く髪を整えると、そっと頭を寄せてくれる彼女の仕草を、少し微笑ましく思いながら。 「やっぱり」 「ん?」 何度目かに櫛を通したときに、彼女が目を閉じたままそっと呟いた。 「きみ、上手だね。 なんかそんな気がしてた。きみにやってもらったら、きっと気持ちいいだろうなって」 「…ありがとう」 思った通りだったと言うような彼女の微笑みが照れくさくて、曖昧な返事を絞り出すのが精一杯だった。 その言葉を乗せて遊ぶように、彼女はいっそう穏やかに笑って、ゆったりと尻尾を揺らしていた。 手入れを終えたばかりの彼女の髪が、ぽふりと胸元に当たる。急に背もたれにされて驚いたけれど、彼女のぬくもりと髪から香るほんのりと甘い匂いが、脚を釘付けにして離してくれない。 「あははっ。なんかすごくすっきりしたよ。 久しぶりだな。誰かに髪の面倒見てもらうのなんて」 甘く感じるのは彼女の匂いなのか、こうやって甘えてくれる彼女と過ごす時間なのか、もはやよくわからない。そして、それを気にするよりもその時間に浸ることを優先させてしまうのは、ずっと前から同じだった。 けれどひとつだけ気になることは残っていて、彼女と触れ合うのは止めないまま問いかけてみる。 「よかった。でも、あれで大丈夫なのか?化粧品とかスキンケアとか。 数も少ないし、さっき使ったやつもなくなりかけだったぞ」 元より化粧っ気の少ない彼女だが、改めてその手入れをしてみると、その道具の少なさに驚く。女性の化粧道具にそれほど詳しいわけではないが、棚を開けたときに殆どが空だったことを考えれば、彼女の道具の数が平均よりも大分少ないということは容易に想像できた。 「そうだった? その日の気分で使ったり使わなかったりするからさ。残りの量とか、あんまり気にしないんだよね」 元より興味が薄いものに頓着しない彼女の反応は、概ね予想通りだった。 「買い足しておこうか?同じものでいいなら」 本来ならあまりデリカシーがあるとはいえないことだが、彼女の手を煩わせるくらいなら買い物のついでに足しておくのもいいだろう。だが、興味がないと思って発したその提案には、彼女は意外にも首を横に振った。 「ううん。 そうだ、いい機会だから、新しいの買いに行っちゃおう。 いつもだったらあんまり気にしないんだけど、今はちょっと興味あるな」 彼女の耳と尻尾が、自分でもいいことを言ったと喜ぶようにぴょこぴょこと跳ねている。自分から発したそのアイデアに、彼女自身が一番夢中になっているかのようだった。 「お母さんから教えてもらってそれっきりだったけど、たまにはこういうのもいいかも。 …いいね、なんだか楽しみになってきた。もう明日行っちゃおうよ」 こうなった彼女はもう止まらないことは、自分が一番よく知っている。 結局、彼女に振り回されっ放しだ。それを悔しいと思うこともできないままに。 「俺も行くのか?」 「もちろん! アタシがどんなふうに変わるのか、きみも見たいでしょ?」 あたりまえのようにそう口にする彼女に、言い返す言葉がひとつも思い浮かばないのだから。 彼とそんなやりとりをした次の日の夜のこと。お風呂に入って寝る前のアタシの机には、買ったばかりのヘアケアアイテムが所狭しと並んでいた。 「買うために行ったのはわかるけど…随分買ったなぁ」 そう彼は苦笑しているけれど、改めて買ったものを広げてみると、これから何を使ってどんな自分になるのかと、わくわくが止まらなくなる。 「あははっ!だって、普段は化粧品コーナーになんて行かないからさ。 いっぱいあるの見てたら、なんか楽しくなっちゃった」 本当に必要かどうかというよりも、買って使ったら楽しいかどうかでモノを選んでいたと思う。選んで買い物をすることにすっかり夢中になった結果が今のこの有り様なのだけど、これを見た後でも買ってよかったと改めて感じた。 「だから、きみについてきてもらったんだよ」 一緒に説明書を広げて、買ったときのようにあれがいいこれがいいと、とりとめもない話にまた花が咲く。アタシの髪を優しく取ったきみの手が、ゆったりと丁寧にアタシを癒してくれる。 そんな時間が、楽しみで仕方なかった。 櫛がするりと髪を抜けていく感触が、ひどく心地いい。ヘアバンドでそっと前髪をかき上げられて、慈しむように優しく額を撫でられると、安心してつい眠ってしまいそうになる。 「俺でよければ、いくらでも付き合うよ」 「俺でよければ、じゃないよ。きみがいいの。 きっと、遊びがないと生きていけないんだ。アタシって。きみといると、その時間がぜんぶ楽しくなるんだよ」 まだ、きみと話していたい。でもやっぱり、きみにたくさん甘えて、いっぱい包み込んでほしい。 だから、こうやってきみに寄りかかりたくなるんだ。 「やっぱり、いいね。 きみにやってもらうと、なんか幸せだな。身体と一緒に、心もあったかくなる気がする」 髪で。尻尾で。言葉で。心で。 きみを少しでも感じていたいから。 ヘアオイルを買ったときに書いてあった、キャッチコピーを思い出す。 好きなひとが触れたくなる髪に、とあったそれを心の中で繰り返すと、楽しくて、こそばゆくて、くすくすと微笑むのをやめられない。 いちばん撫でてほしいひとの手で、それを塗ってもらっているんだから。 耳にさっとスプレーが吹かれて、微睡みかけていた意識が浮かび上がってくる。こっち向いて、と促すきみの声に振り向けば、唇に柔らかくリップクリームが引かれて、しっとりとした質感が広がる。 「はい、できた」 少し遅れて眠たい目がピントを合わせると、向かい合って座っているきみの表情がよく見える。少し困ったように、けれどどこまでも優しく、アタシを見つめてくれる瞳が。 そんなきみの手で仕上げてもらったことがなんだか嬉しくて、気づけばきみの胸に飛び込んでいた。 「えいっ」 「わ」 少し慌てるきみの表情も楽しくて、きみに甘えるのがやめられない。 もっともっと、きみを夢中にさせてみたい。 「ふふっ、あははっ。 ねぇ。アタシ、綺麗になった?」 自分を誰がどう見るのかなんて、ちっとも興味なかったのに。きみの瞳に映るアタシが前より綺麗になったと思うと、それがひどくわくわくする。 だから、ちょっとだけ変身がしたい。 「…シービーはいつだって綺麗だよ」 きみが綺麗だよって言ってくれる、そんなアタシになってみたい。 「ありがと。 …ん」 あんなに甘い告白をしてくれたのに、頬に手を添えて目を閉じると、律儀に恥じらうきみが好きだ。切なそうに震える瞼に誘われるようにくちづけをすると、何度もしていることなのに頬を紅く染めてくれる、そんなきみが。 「…リップ取れちゃうぞ」 だから、きみがせいいっぱい考えてくれた言い訳も、一緒に食べてしまいたい。 何度でもきみが、アタシを綺麗にしてくれるように。 「いいじゃん。また塗ってよ。 また、いっぱいキスしてよ」 ひとりがさみしい唇に、ぬくもりを教えてしまったきみへ。 きみがたくさん愛してくれて、アタシは綺麗になりました。 だからちゃんと仕上がりは、きみの唇で確かめて。 もっときみのことを、好きになれるように。