マンションの一室に、私たちはやってきていた。  もう夕暮れだ。春だと言うのにずいぶんと冷え込んでいるのは――時間帯のせいだけではないだろう。 「冷えて……来ましたね」  私はジャージを着込みながら言った。  寒さで眼鏡も白く曇る。 「霊が活発になるとよく起きる現象だ」  私の言葉に、師匠が答える。  師匠。草薙十夜という、20代半ばの男性。正直、中々のイケメンだ。  そして彼は……霊能者である。  ただし、「元」が付く。  厳密には今も霊能者ではあるのだけど、なんというか……一度、大きな除霊の仕事を失敗して、それが理由で失脚したらしい。  それが紆余曲折あって、復帰したのだ。 『東京霊智協会』という……関東有数の心霊業界。霊能者たちの会社……相互扶助組織に所属する、認定霊能者として。 「それくらい知っているはずだが、奏《かなで》なら」  奏とは私の名前だ。  八坂奏《やさか かなで》という。  今年16歳になる、田舎から上京してきたごく普通の女子高生だ。  あえて普通と違う所をあげるとするなら、霊が視える事。  しかしだからといってそれが優れた特別な事であるというわけではない。  いや、本当である。よくいる「こんな力欲しくなかった」ととながら特別である事、悲劇に浸っているような痛い子ではない。  ……無いと思う。 「……一応知ってはいますけど。  感想? 言葉にするのは大事だって、いつも師匠が言ってるじゃないですか」  報告・連絡・相談、合わせてホウレンソウって奴だ。  それはとても大事な事だと、師匠に出逢って痛感した。 「気温の上下ぐらいはいちいちいわなくてもわかる。そもそもそれは感想で、今は必要ないだろう」 「……」  そこまで言わなくてもいいじゃないか、と思うけど。  そんな私たちに、後ろから声がかかる。 「仕事だと言うのに、いちゃつかれては困るのだがね」  声をかけてきたのは、黒いベレー帽と黒いワンピース、長い金髪の人形のような美少女だった。  彼女は八咫姫鈴白《やたひめ すずしろ》。  私たちの雇い主というか、リーダーというか……そんな子だ。東京霊智協会の幹部である。私より年下の11歳だというのにそんな地位にあるのは理由がある。  彼女は15年前に死んだ、八咫姫鏡《やたひめ かがみ》という大物霊能者の生まれ変わり……というのだ。  そのせいかまだ小学生だけど、その言動は大人顔負けにしっかりしていて、そして――なんといえばいいのか、傲慢?  とにかく頼れる、怖い子である。 「いちゃついてなんかいません」  私が抗議すると、 「そうか? 私にはそうにしか見えないがね。とにかく空気を読んで欲しいものだ」  と笑って来る。この人は意地悪だ。 「空気を読めないのは師匠だけです」 「当たり前だ。俺はお前たちと違ってテレパシーで会話できない」  師匠はこんなことを言い出す。  いや、別に私たちは超能力者ではない。だけど師匠は、そう表現する。それがどういうことかというと……。  そう、彼は……一言で言うと、「空気が読めない」のだ。  その場の雰囲気や会話の流れを察することが出来ない。  それが出来る普通の人たちを、師匠は「言外の意思疎通ができる、それはテレパシーだ」とか言っている。  いや、それはいたって普通の事なんですけど。察して動く、なんてたいていの人間は出来る。  朴訥というか朴念仁というか……いや、なんといえばいいのだろう。  冗談が通じない、ともちょっと違う。いや普通に通じない事も多いけど。まぁ要するに……天然なのだ。  本人いわく、理由があってのことなんだけれど……。  師匠って天然ですよね、と言ったら、「俺のテレパシー不全は後天的なものだから天然ではなく人工だ」とか言い出して来る人である。  決してふざけているわけではない。 「さて、本題に入ろう」  そう言うと、鈴白さんは話を始めた。 「今回の依頼内容は簡単だ。私が苦労して確保した依頼人、一之瀬渚《いちのせ なぎさ》の除霊。わかっているだろう、奏」 「……はい」  よくわかっている。  私は――彼女を除霊したくて、助けたくて――この世界に足を踏み入れたも同然なのだから。  そう言うと、とても大切な人――のように聞こえるけど、私と彼女はそれほど面識があるわけではない。  一之瀬渚。  ただのクラスメートというだけの間柄、だけど―― 「どうしても――助けたい……です」  私は、しっかりとその意思を口にする。 「当たり前だ。助けられなければ、お前の未来も、私たちの未来も無い。  わかっているな? これは最初の一歩だ。ここにつまずけは全てが終わるといっていい」 「……はい」  そう、ここを乗り越えなければ、認められなければ、霊能者として組織で働いていく事は出来ない。 「安心しろ」  そんな私に、師匠は肩を叩き、声をかけてくれる。 「お前に除霊も祓いも期待していない」 「は、はい」 「――ただ、視ろ。それだけでいい。  それが、俺には必要だ」  黙って見てろと師匠は言う。  そうだ、それが私の仕事だ。私は――そのためにここにいるんだ。 「……」  私は、眼鏡を外す。レンズ越しにクリアだった視界がぼやける。  別に、眼鏡が霊感を、目を封印しているとかそういうかっこいいものなんかではない。  霊とは、目で見る――可視光線として眼球の機能で見るものではない。   理屈はよくわからないけど、とにかく違う。  そのため、霊は眼鏡をつけようとつけていまいと、同じ精度で視えてしまう。  常にピントがあってしまっている――そんなかんじだ。  だから、眼鏡を外しても、霊はくっきりと視える。霊とそうでないものを区別するには、私は裸眼の方がいい、というわけだ。  眼鏡がないと何も見えないという超ド近眼、というわけでもないし。 「準備は出来ました」 「いくぞ」  そして鈴白さんがドアを開けた。  冷気が部屋から外に漏れる。 「……」  私たちは、部屋に入る。進んでいく。  彼女の両親はいない。今は私たちの仕事場――本部に待機している。 「ふむ、確かに強い冷気だ」 「師匠、私は……」 「わかってる。奏は、そこにいろ」 「はい」  私の役目は、ただ見るだけだ。  私は部屋の中を見る。  そこには、ベッドに座っている少女がいた。  一之瀬さんだ。 「……」  無言でこちらを見つめてくる。  長い黒髪。整った顔立ち。  白い肌。病的なまでに細い手足。 「……ひとまず、話をしましょう」 「その必要ない。私にもわかるぞ、この娘はやばい」  鈴白さんの言葉に、師匠は言う。 「そうなのか。俺にはわからないが」 「……いやお前は空気を読め」 「空気か。確かに冷えているのは感じている」 「……まあ、お前はそれでいいがな、十夜」  呆れたように鈴白さんは言った。 「……前にあった時より、ひどいですね」  私は言う。あの時は、もっとこう……ちゃんと会話も出来ていたのに。  一之瀬さんの視線は……恐ろしいものだった。  隈が出来、落ちくぼみ、ぎらぎらとしている。口元には笑みを浮かべている。それが逆に不気味だ。  まるで……そう、まるで……ゾンビのような。 「あ、あははははっ」  突然、笑い出した。 「え、あ、あははははははっ!  あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」  狂ったかのように笑う。  そして、彼女は立ち上がると、私たちに向かって手を伸ばす。 「っ!!」  私は視た。視えた。  黒いものが、彼女の手から伸びる。  眼鏡を外してぼやけた視界の中、それだけが不自然に鮮明な、墨流しのように――私たちに向かって。 「黒いものが真っすぐ飛んできます!」  私は叫んだ。  師匠は、私の身体を掴み、その場を避ける。 「避けたか?」 「はいっ」  師匠の問いに、私は答える。  そう――師匠には、「それ」が視えていない。  師匠は言う。 「何が視える」 「黒いもの。それが……一之瀬さんにまとわりついています」 「赤子か」  師匠の言葉に、私は首を横に振る。 「いいえ。小さい――けど、それは……大人です。  大人の男性が小さくなって、黒くて、たくさんまとわりついています」  私は視たままを説明する。  ニヤニヤと、ニタニタと笑うそれ――顔はみな、同じ顔の男性のもものだった。 「そうか。やはり水子では無かったな」 「はい」 「俺には視えない。だがお前には視える。  ならば、することはひとつだ」  そう言って師匠は、後ろから私の身体を、抱くように腕を回す。  左腕で私を抱き、そして右腕を伸ばす。 「呼吸を合わせろ。鼓動を合わせろ。視線を合わせろ。  お前は俺の目だ。お前の視界は俺の視界、お前の意思は俺の意思。  お前は何をしたい」 「……彼女を、一之瀬さんを助けたい。彼女にとり憑いた悪霊を祓いたい。  でも私には、できません」  私は、視るだけしかできない、ただ霊感が強いだけの子だから。 「そうだ。だが俺なら出来る。お前が視ている限り――  霊感を喪った俺は、今この時だけ、力を取り戻す」  そう。  師匠は、霊感を喪った。失敗し失脚したというのはそういうことだ。  だけど、私が――霊が視える私が、師匠の、目になる。  そうすれば。そうしたら。 「ルーキーとロートル、二人合わせてなら俺たちは」 「最強の、霊能者……!」  私は叫ぶ。  そうなると、決めたんだ。 「さっさと終わらせる。そして――駆け上がるぞ。  霊智協会のトップを引きずり降ろし、そして――」  私達三人で、心霊業界に君臨する。  私は正直、そういう野望よりも――別の理由だけど、それでも。  戦うと、決めたから。 「さあ、これが――第一歩だ」 「はいっ!」  私は答え、思い出す。  師匠と出会った、あの日の事を――。 ◇  その病棟は、瘴気に包まれていた。  普段からそうではない。むしろ、その清浄さは病院の中でも群を抜いていた。  だが、今は違う。  そこには間違いなく死の翳りがあり、その濃密な空気に、常人ならば数分と耐える事はできなかっただろう。  そんな病棟の一角に、彼女はいた。 『お前たちでは、私を祓えぬ。この娘を救う事などできぬ……』  可憐な少女だった。だが、その花のような唇から紡がれる言葉は、しわがれた身の毛もよだつ男の声だった。  彼女のいる病室には、何人もの男たちが倒れていた。  そして、一人だけ……膝をつき、それでも彼女を睨みつける少年。 「悪霊め……」 『そう。この世の全ては、死へと向かう影法師……それを祓いし所で、何になる? 光など存在せぬのだ。この娘を救う事もできぬ』  少女の姿で、悪霊は笑う。そして、少年の顔を掴み上げる。 「うぐっ……」 『この娘が患っておるは、私の病……いや、呪い。それを祓う術など、お前にはない』  少女はそういいながら、少年の身体を持ち上げる。その細腕で、大人の身体を持ち上げているのだ。 「あ……ぁが……」  苦痛に歪む少年の顔。そこに、少女は手を添える。  そして、少女はその少女の声で、甘く優しく囁いた。 「――愛しいひと。あ な た に、私 は 救 え な い」  そして、少年の身体が燃える。 「あ、あがあああああっ!」  それは物理的な炎ではない。霊障の炎、呪詛の炎。物質を焼かず、ただ人体を、魂を焼き蝕む炎。その痛みは、この世のあらゆる苦痛を合わせた所でまだ足りぬだろう。 「ぐ……あ……」 『そして、これからも……汝には、誰も救えない。もはや汝には、視えず、感じず、繋がれぬのだから……』  少年は倒れる。そしてそれを見届けて嗤った少女も、そのまま倒れ、動くことは無かった。  死者十八名、重傷者二名、そして『協会』よりの追放者一名。それが、指定未解決心霊事件第13号、「閉鎖病棟の眠り姫」事件の顛末であった。  それから、十年の時が過ぎた。  ◇  街を歩いていると、よく「それ」を視る。視てしまう。  しかし、私、八坂奏《やさかかなで》はそれを無視する。  反応してしまうと、大抵はろくなことにならないからだ、いろんな意味で。  それらに、基本的に意思や人格は無い。しかし、あるように動く。  そして人に憑りついて害を成す。  それが、私の視えるもの……霊というモノだ。  しかし、私は視えないフリをする。霊に対しても、そして生きている人間に対してもだ。だって、面倒なのだ。  深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ……という言葉があるがあれは本当だと思う。  触らぬ神に祟りなしとも言う。あるいは、藪をつついて蛇を出す、か。  私は、放課後の校舎を何事もなく歩く。 「どうしたの?」  そんな私を見て、隣にいる友人は聞く。 「別に、なんでもないよ」  私は答える。そう、なんでもないのだ。  学校の窓の外に立っている人間の姿も、なんでもない。ここは二階だけど、だから何だ。  教室で数人でこっくりさんだかキューピッドさんだかエンジェル様だかをやっている女子生徒たちの一人の肩に、何か黒いものが憑いているとしても、知った事ではない。  不義理? 不親切? 違うのだ。そういったものがある、と下手な義侠心を発揮させて首を突っ込むと、悪化することは往々にある。知らない、視えない事は「無い」と同じだ。  だから私は無視をする。  人間社会で生きるということは、面倒事を避けつつ上手く立ち回る事だ。だから私は、関わらない。  関わりたくない。ただただ平凡に普通の青春をする。  それが私、八坂奏の生き方である。 ◇ 「関東スピリチュアルフェスタ?」 「そう、霊能者とかヒーラーとか占い師とか、心霊配信者とかが一堂に集まるイベントだって」  学校の廊下で、友人が一枚のチラシを私に見せる。そこにはデカデカと「関東スピリチュアルフェスタ」の文字が印刷されていた。 「へぇ……」  私は興味なさげに応える。こういうのが好きな奴は、本当に好きだな……と思いながら。しかし友人はそんな私に、やや興奮した様子でこう続けるのだ。 「興味ないの? 奏もそういうの、好きじゃなかったっけ?」 「ああ、うんまあ……嫌いじゃない、かな」  嘘です。大っ嫌いです。  中学の頃にやらかしてしまい、三年間、私は針の筵というか、ぼっちまっしぐらだったというか。みんな霊をエンタメとして楽しむけれど、ガチなものは引くし、一度異端と認定したら排除しようとするものだった。  高校進学を期にわざわざ東京まで上京したのも、そんな過去から解放されて、ごく普通の青春を送るため。  なので、正直そういうのに関わりたくない。  だけど……ああ、この友人たちの盛り上がり。  行かないといけないんだろうな……。 「ね、これ行かない? 奏も……」  そんな私の微妙な気持ちに気付かず、友人は私に言う。私は苦笑しながら……こう答えた。 「……うん、そうだね」  ああ、本当に私ってヤツは……。  そして私は、土曜日曜日に友人たちと東京ビッグサイトで行われる、関東スピリチュアルフェスタへと行くことになったのだった。  ◇  東京ビッグサイト。  りんかい線やゆりかもめの国際展示場駅からすぐの、交通の便の良いこの場所にある、国内最大の展示場だ。  このイベントは、二日間にわたって行われるもので、初日が占い系やパワーストーン系。二日目が霊障相談所とオカルト作家によるトークショーや、ヒーリングのブースなど……といった内容になっていた。  とはいえ、私はあまり興味が無いので、適当に友人に付き合っていればいいと思っていた。  友人たちのお目当ては二日目、日曜日のショーであった。なんでも推しの配信者が出演しているらしい。  私に言わせれば、まあ十中八九偽物、いんちき、詐欺師の類だけど。  私はああいった霊能者たちを全く信じていない。あいつらは、私と同じものが視えていないからだ。  中学の時もそうだった。そしてみんなは、何が視えているかではなく、誰が言っているかで判断するものだった。  有名な霊能者が言っている。テレビに出た心霊研究者が言っている。人気の心霊配信者が言っている。本を出した陰陽師が言っている。クラスの人気者が言っている。  何かの漫画で、人は情報を食べている……というのがあった。まさにそれだ。人は、何を言ったかだはなく、誰が言ったかで判断し、信用する生き物なのだ。  なので、私が視えていて、それを言ったところで、彼らもそして彼らを信じる人たちも私を信じず、否定する。  だからと言って、別にそれに対して今更どうこう言うつもりはない。自分の正当性を主張するつもりもない。  そもそも、私が視ているもの自体、それが正しいという保証はどこにもないのだ。“正しい”の基準が大多数と迎合するか否かで判断されなら、きっと間違っているのは私の方だろう。  そしてそれに対して悲観するつもりも絶望するつもりも、ましてや逆らうつもりも私には無い。黙って合わせていればそれですむだけの話だからだ。 「え、えっと……今日は何時からだっけ?」 「心霊配信者のイベントだっけ?」 「うん、本物のガチ霊能者」  友人たちが話す。彼女らのお目当てらしい。 「あ、ごめん、私トイレ」  私はそう言う。別に、そのイベントが面倒なのでここで立ち去ろうというわけではない。純粋にもよおしただけだ。そして友人たちがイベント会場に入っていくのを見届けてから、私はトイレに向かう。  そして何事もなくトイレから出た時、私は誰かとぶつかってしまった。 「あっ!」  走る人にぶつかってしまった。  私は体勢を崩す。や。このままでは転倒する。  いやそれよりも、人混みにチケットが――  と、思った時。  私の体と、そして宙に舞うチケットが、誰かの手によって受け止められた。 「――え?」  私を抱き留めていたのは、年上の男性だった。  黒いインナーに白いジャケット、長髪を後ろで結んでいる端正な顔の……  ぶっちゃけ、イケメンだった。 「大丈夫か」 「あっ、ありがとう……ございます」  私はお礼を言う。すると、 「僕は大丈夫かと聞いたのであって、礼を要求したわけではないのだが」 「え……?」  帰ってきたのはそんな言葉だった。  何か間違えたのだろうか。いや、私はいたって普通の反応をしただけだが。  私が戸惑っていると、彼は私を地面に下ろすと、手に持っていたチケットを見る。 「これも、君のか?」  男性がチケットを差し出してきたので受け取る。 「あ、はい。ありがとうございます」 「別に大したことじゃない」  男性は私を見て言う。その隣で、女の人がくすくすと笑っている。……なんか、恥ずかしい。  ……ん? 「どうかしたか」 「あ、あの、いえなんでもないです」  彼の隣の人は……生きている人間じゃなかった。  悪い感じはしない。なんだろう。守護霊……っていうやつなのだろうか。   守護霊は誰にでもついている……と言われているけど、私はほとんど見たことが無かったりする。  それにしても、可愛い。可憐だ。私のような不愛想な芋女とは大違いだと思う。 「ところで君、このイベントに参加するのか?」  男性の問いに私はこくりと肯く。 「あ、はい。友達の付き添いで、ですけど」  私が答えると、彼は興味深げに訊ねてくる。 「……君は、この世界がどう見えるんだ?」 「はい?」  質問の意味が分からず首を傾げる。 「ど、どういう……意味でしょうか?」 「どう見えているか、聞いているんだが」  そう言われても……困る。何といえばいいのだろうか。クソみたいな世界ですねとでも言えと? 「……幽霊とかが見えたりはするのか?」  ストレートに言われた。  しかし、ということはこの人も視える人なのだろうか。 「はい、まあ……そこそこ」  私は正直に話した。  何故だろう。こういうことは他人に話しても良い事なんてなかったから、話す気など無かったのだが。不思議だ。 「そうか」  すると彼は納得したように肯く。 「自慢は、しないのだな」 「してどうするんですか。花粉症やアトピーを自慢するようなものでしょう」  自分の霊感を誇れる人たちを見て、すごいな、とは思う。なんで自慢できるのだろう。それに私はただ見えるだけだ。彼らを理解したり、喋ったり、力を借りたり、祓ったり……なんて出来ないし、出来るとも思わない。  私の言葉に男性はふむ……と考え込むような仕草をする。 「そういうものか」 「そういうものだと思います」  私がぶっきらぼうに言うと、彼は小さく笑う。 「面白いな」 「え?」  私が聞き返すと、彼は何でもないと言うかのように首を振る。 「それより、もうすぐ始まるぞ。急いだ方がいいんじゃないか?」  彼が指差す先には、開場を知らせるアナウンスが流れていた。 「あっ、はい。えっと……ありがとうございました」  私はそう言って頭を下げ、慌ててイベントプースへと走った。  会場に着くと、既に人がたくさんいた。  立ち見席まであるので、かなりの人気イベントなんだなあと実感する。  私は入り口でチケットを渡し中に入る。そして人ごみの中へと入っていった。 「あ、奏! こっちこっち!」  入口の近くの席で私を呼ぶ声がする。そこには友人たちがいた。 「ごめん、お待たせ」  友人たちの元へ行くと、彼女らは嬉しそうに迎えてくれる。 「大丈夫、そんなに待ってないから」 「ありがとう……」  そしてしばらくするとブザーが鳴り響き、会場の照明が落とされる。ステージにスポットライトが当たり、司会の女性が現れる。 『みなさーん! お・ひ・さ・し・ぶ・りーっ! 霊能者・占い師・スピリチュアルセラピストの皆さん、そしてオカルト作家さんでお馴染みの大先生の皆様方ッ!! おまたせしました! 関東スピリチュアルフェスタ開幕です!』  司会の女性の言葉に、会場から歓声が上がる。  そんな喧騒の中、トークショーが始まった。  最初は有名どころの心霊動画投稿者が集まって、それぞれの心霊体験を話していく。  中には、本当にあった怖い話のような内容もあって、背筋がぞくりとする場面もあった。  でも、私にはわかる。  これは全て作り物の世界だということを。 「…………」  そう考えると何だか虚しくなってきてしまう。 (ここにも、本物はいないのか)  思えば田舎でもそうだった。  本物を名乗る霊能者、拝み屋は何人もいた。  だけど……。皆、偽物ばかりだった。  私の視える世界をわかってくれる人は、いなかった。彼らに対して反論したら、私が嘘つき呼ばわりされた。  そんなのばかりだったのだ。  私は、溜め息をつく。  そんな中も、心霊YouTuber達のトークは続いていった。 『さーて、では心霊相談のコーナーにいきましょー』  司会役の人が言うと、会場から拍手が巻き起こる。 『はいはーい、それでは早速始めましょうか。相談者はこちらの方でーす』  司会者の人に連れられて、一人の女性がステージに登場する。  彼女の相談に、壇上の心霊YouTuberたちは受け答えをしていく。  そして相談者はその言葉に感動し、喜び、あるいは涙を流していく。  それが、私にとって……とてもうすら寒いものに感じてしまう。  茶番だ。 『いやー、オカえもんさん絶好調ですね〜!』  司会の人が言う。  オカえもんこと岡島武。心霊動画の再生数は100万を超える大御所だそうだ。  霊能力もあるという触れ込みだった。 『いやぁ、こんな機会は滅多に無いからねぇ』  彼は照れた様子で頭を掻く。 『いやいや、凄いですよ! 私なんか、全然霊視できないのに! 流石はプロというか!』 『いやいや、私なんてまだまだだよぉ』 『またまたご謙遜を! では次の相談に行きたいと思いまーす』  その後も次々と相談者が呼ばれ、様々な悩みを解決していった。  私は、それを他人事のように見ていた。 『はいはい〜! ではこちらのお悩みの方どうぞー!』  スタッフが人混みの中から一人の少女を連れてきた。 (彼女は……)  長い黒髪。整った顔立ち  それは、私が知る人物だった。  私と同じ学校の制服を着た女子生徒だ。  名前は……確か、 「あれ、一之瀬さんじゃない」 「本当だ、渚さんだ」  私の友人が口々に言う。 (一之瀬渚……か)  彼女とは交流が特にあるわけじゃないけど、覚えている。  放課後の教室でこっくりさんだか何だかをしていたのを見た。  ……そして、黒いものが彼女に憑いているのも、見た。  まあ、私には関係ないけど。  彼女は俯いたまま、震えた声で相談する。 『あ、あの……最近、変なものが見えるんです……』 『へぇーどんな風に?』 『そ、その……人の形をした小さな黒い影が……私のそばにずっといるんです……! 怖くて……夜も眠れなくて……!』  その告白に、会場がざわつく。  いや……盛り上がる。 『ふぅん……なるほどねぇ……』  オカえもんは顎に手を当て、じっと彼女を見つめている。  なんだろう。  私はその視線が、とても嫌なものに見えた。   『その……それで……おまじないとか教えてもらえたらと思って……!』  彼女が言い終えると、オカえもんはにやりと笑いながら言う。 『よしわかった! 僕に任せてくれ!』 『ほ、本当ですか!』 『ああ! このオカルトの専門家であるこの僕が、君の悩みを解消しよう!』  そう言うと、オカえもんは立ち上がり、一之瀬さんの傍に行った。 『えっ……あの』 『しっ、黙って』  困惑している彼女をよそに、オカえもんは彼女の身体に触る。 『んー、うんうん、なるほどなるほど』  服の上から、全身を撫でまわすように触る。 『ちょっ……何を!』 『大丈夫大丈夫、任せておいて』 『い、いやでも……ちょっと!』  抵抗する一之瀬さんを無視して、彼は手を動かす。  そして、何かを探っているかのように、腰のあたりをまさぐっている。 『あ……あの……そこは……ダメっ』  顔を真っ赤にする一之瀬さん。  その様子を見て、会場にいる観客達はニヤニヤとしている。 『おおっと! これはセクハラではないのかー!?』 『違いますよー。  この子は小さな黒い影って言いましたよね。水子かと思ったんです。  水子はですね、女性の子宮あたりによく憑くからこうして調べないと』 『おっ、なーるほど。  確かに言われてみればそうかもしれませんね。ではそのまま続けてください』 『はいはい。一之瀬さん、我慢してねー、もうすぐ見終わるから』 『……っ』  それから数分後、『ふむ』とオカえもんは手を離した。 『えっと……終わりました?』 『はい、やはり水子でしたねー』  一之瀬さんはごくりと唾を飲み込んだ。 『あの……それってどういう意味なんですか?』 『簡単に言うと生まれる前に亡くなった赤ちゃんの霊のことだよ。  多分、この子は昔、中絶された経験があるんじゃないかな。  それで、君の家にもどってきたんだよ。だから、君に危害を加えようとしていたわけさ』  オカえもんの言葉を聞き、彼女は顔を青ざめさせた。 『う……嘘ですよね。だって、そんな、どうして……』 『残念だけど、こういう霊は一度ターゲットを決めたらずっと付きまとうものなんだよ。  だけど、このまま放っておいたら大変なことになる。  もし仮に、この霊を祓わなかった場合、君はいずれ命を落とすかもしれない。  強い未練を残して亡くなった人は、いつまでも彷徨っているものなんだよ。  特に、赤ん坊の場合は、生まれる事が出来なかったという強い未練が残る。絶望、憎悪といってもいい。  それは母親をとても憎むんだ。  何故産んでくれなかった、と。  心当たり、ある?』 『そ、そんな……な、ないです』 『そうかい?  だけど君に心当たりがなくても、水子にとってそんなことはどうだっていい。  生まれる事が出来た生者への羨望、嫉妬、憎悪。それが君に向いている、君に憑りついているんだ。  生まれたい。生きたい。  そして君の体を乗っ取ろうとしている。そうすれば、自分を産んでもらえると思っているのかもしれない。  ……いずれにせよ、危険な状態に変わりはないよ。  ただひたすら生きている人間を、女性を、母を、そして自分以外の編まれることができた子を妬み、憎み、祟る化け物だ。  この霊は、非常に厄介だ。  並の人間には手に負えない。だけど、僕ならなんとかできると思うよ。僕に任せてくれないか?』  オカえもんは優しく微笑む。一之瀬さんはしばらく考え込むと、意を決したように顔を上げた。 『はい、お願いします! お金なら払いますから、どうか助けてください!』  ……違う。  私はそう思った。  このままじゃいけない。なぜかはわからないけど……このままでは、取りり返しがつかなくなる。  直感的にそう感じた。 『だけどなにしろ強力な悪霊だからねぇ……これは正直、僕も危険かもしれない。  だけど助けを求めている女の子を助けないわけにはいかないね。  この霊だと……相場で五十万はいただくけど……でも特別だ。  十万円でいいよ』 『じゅっ……!?』  その額に一之瀬さんが驚く。 『あはははは! オカえもんさん太っ腹ですねー!』  司会者が茶化すように言う。 『まぁねぇ、困ったときはお互い様だし』 『でも、そんな大金……』 『大丈夫、ある時払いでいいからさ。  ただ、凶悪な水子だからここでぱぱぱっと除霊は難しい。  だから後日ゆっくりと、ね……』 『わ……わかりました。 よろしくお願い……』  私は思わず席から立ち上がる。そして叫んだ。 「待って下さい! 」  その声に会場がまり返る。  私へと視線が集まる。  ……や、やってしまった。 「あの……」 『何だい? まだ君の番じゃないんだけどなぁ?』  オカえもんが私の方を見る。  私はびくりと身体を震わせた。  恐怖でも、気圧されてでもない。  気持ち悪い。  どうにもこの男は気持ち悪いと私は思う。生理的に無理だ。 「あなたは、何をしようとしているんですか?」 『……何って? 除霊だよ。見ればわかるだろ?』  彼は不思議そうに答える。  それが余計に気持ち悪さを加速させるのだ。  私はイラつきながらも、言葉を続ける。 『除霊ですか。《《彼女に水子なんてついていないのに》》』  私の言葉に、オカえもんだけでなく、その場にいる全員が驚きの表情を見せた。  司会の人が慌てる。 『いやいや、何言ってるの? えーと、ごめんなさいね、順番守ってもらわないと困るよ君?』 「失礼。すぐ終わりますから」  私は何を言っているんだろう。  するとオカえもんが口を開く。 『いやいやいやいや、ちょっとちょっとちょっとちょっと! お嬢ちゃん、あんた一体何を言っているんだい?』  彼はずいっと顔を近づけてくる。  気持ち悪さを私は飲み込んで耐える。 「苦しんでいるのは本当だと思います。だけど……違うんです。だって……」  私は言った。 「赤ん坊は、化け物なんかじゃありませんから」 『……は?』  オカえもんは呆気にとられた様子で私を見つめていた。 『何言ってんの? ずっと大昔から言われ続けてるでしょ。 『赤ん坊の霊が憑いている』って。まさか知らないわけないでしょ』 「知ってます。  でもですね、赤ん坊はあなたが言うように、生きてる人を恨んで、妬んで……祟るようなのじゃない。  純真なんですよ、よくも悪くも。  私は、一度も……一度だって、見たことが無い」 『……はあ』  オカえもんは溜息をつくと、「やれやれ」といった感じで頭を掻いた。 『あー、あのね、君がそういうのが好きなのはわかったよ。  でもそれは君の勝手な想像だろう?  実際にいるかどうかも分からないものに怯えている人がいる。それで、僕の出番ってわけだよ。  わかるかな?』 「勝手な想像なんかじゃ……」 『それに君ね、僕はプロなんだよ。その道のね。  僕に頼んできた人たちを今までたくさん見てきたし、その人たちの悩みを解決してきた。  そして彼らはみんな笑顔になったんだ。僕に感謝してね!  ……だからさ、君みたいな素人が邪魔しないでくれる?』  そして彼は一之瀬さんの方を振り向くと訊ねる。 「ねえ君、この子に何か言いたいことがある?」  一之瀬さんは少し怯えたように首を横に振る。しかし、すぐに思い直したように答えた。 『はい……あの、実はわたしにもはっきりした姿が見えているわけではないんですけど、確かに感じるんです。  自分の中に誰かがいるような気がして……。  その子がわたしの中に入ってくるたびにすごく怖い気分になって……  だから、先生に相談したかったんです』 『ふぅーん……』  オカえもんは少しの間考える素振りを見せると、再び一之瀬さんに話しかける。 『あのさぁ君、君自身はこの子のことどう思うの?』 『えっ……』  一之瀬さんは戸惑いの表情を浮かべた。 『どうって……いきなり……で、でも……』  一之瀬さんは私のほうをみる。 『赤ちゃんが化け物じゃない、っていうのは……私も……そうなんじゃないか、って……』 『へえー』  オカえもんは一之瀬さんの言葉を聞くと、なぜか満足げに笑った。  そして聴衆に向かって手広げて言う。 『なるほどね。どうやら君は、いや君たちは水子に憑かれすぎて、思考まで操られているようだねー』 『……え?』  一之瀬さんは戸惑った声を上げるが、オカえもんはそれを無視して続けた。 『もしかして子供は天使とか言い出す頭のユルいこと言っちゃってる?  違うな。ガキほど残酷な生き物はいない。  ガキが純粋無垢な天使ちゃんなら、虫とか生き物を平気で殺すか?  幼稚園や小学校を見ろ、残酷に痛快にいじめの温床だ。躾なきゃガキは動物同然なんだよ』  オカえもんの口調が変わっていた。フレンドリーな仕草はどこへ行ったのか、私への敵意を隠していない。まるで別人のようだ。 『……オカえもんさん?』  一之瀬さんは不安げな声でオカえもんの名を呼ぶ。 『おっと、失礼。  だけどさぁ、そういうのって気持ち悪いよね。  なんで子供が大人より純粋なんだって話だよ。  親に甘やかされて育った奴は、自分が一番偉くて何でもできると思ってるし、他人を思いやるってことをしない。  自分さえ良ければそれでいいと思っている。まさに自己中そのものだ。  いいかい、そんな子供が死んで肉体という枷から解き放たれたら、もう化け物になるのも当たり前だ。  悪霊に理性なんてない。  そして君はそういうものに憑かれている。  水子は自分たちを守るために、思考を操作して君たちにそんなことを言わせているんだ。  もう一度よく考えてみよう……』  そしてオカえもんは再び一之瀬さんの肩に手を置く。 『君はどうしたい? 助かりたいのか、助かりたくないのか……』 『わっ……わたっ……わたしは……ただ……こっ、怖くって……でもっ……』 『うんうん』 『ほっ、ほんとは……い、嫌だけど……でもっ、このままじゃいけないって思ってるんですっ』 『うんうん』 『だから……だから……除霊をっ……お願いしますっ』  一之瀬さんの目からは涙が溢れ出していた。 『そう、わかったよ。それじゃあさっそく話を始めようか』  オカえもんは優しく微笑むと、彼女の肩を抱く。  そして私を見て、言った。 『ねえ、お嬢ちゃん。  お前にはさっきも言ったとおり大量の水子が憑いてる。  俺の霊視では……』  そして、信じられない事を言った。  マイクに向かって、会場に響き渡るように。 『お前が堕ろした子供たちだよ、何人もいるぜ。  ママ、なんで殺したの、次は殺さないでねって。  よーく覚えとけよ、天ヶ崎高校一年三組、八坂奏』 ◇  私は……無力だ。  何をやっているんだろう。  私はそのままスピフェスを追い出された。  私には、あのオカえもんが言っている水子なんて視えなかった。今まで赤ん坊の霊が視えた事なんて無い。  だけど、私の言う事なんて誰も聞いてくれなかった。  それどころか……  あの日から、学校での私の居場所はなくなった。  その場にいた友人たちは私から離れていった。  あの一連のやり取りも、そのまま動画配信されてしまったのだ。  私は、一度だって赤子を堕胎したことなんて無い。なのに……。 「……はあ」  何をやっているのだろう。  私は自分がよくわからない。あんな場面では、無視するのが私の生き方、処世術だったはずだ。私はドライな女だったはず。  なのに、なぜあんなことをしてしまったのか。  そして結局、力も言葉も足りず、何もできなかった。 「おい、あれ見ろよ」 「うっそ、マジ? 本物じゃん!」  私が一人で歩いていると、通りすがりの男子たちが立ち止まった。ニヤついた顔でこちらを見ている。 「あいつ確か……幽霊が視えるとかなんとか……」 「しかもヤリマンだってよ」 「うひゃー、マジで? 俺も相手してもらおうかな」 「でもよぉ、あんなオカルト女じゃあなぁ」 「ああ、それに妊娠してんだろ? 無理だって」  下品な笑い声を上げながら彼らは去っていく。  私は、彼らから顔を背けるようにしてその場を離れた。  しばらく歩くと、そこは駅のホームだった。 「……」  手招きをしている影が視える。  《《こいよ》》、と。声なき声が私に語り掛ける。  飛び込めば楽になれると。  そうだろうか。本当に?  死が終わりではないと私は知っている。  いや、本当にそうなのか? 私の視ているものはただの妄想、幻覚でしかなく、死ねばそれで終わるのかもしれない。  試してみる価値はあるのだろうか。  どうせ私の居場所なんてない。学校での居場所もなくなった。ネットでも私の悪評は広まった。  中学の時に反省して、高校でやり直して上手く世渡りしていたはずなのに、全てが台無しだ。  もう、疲れてしまった。  そうだ、もう私の居場所はない。  現実にも、仮想にも、どこにも。  ……もう、疲れた。どうでもいいとすら思う。  だったら。  このまま一歩を踏み出せば、全てがはっきりするのか――  楽に、なれるのだろうか。  そう思い、私は導かれるままに、一歩を―――― 「多くの宗教で自殺は罪と言われるが、それは案外正鵠を射ている。  自殺した場合、死の瞬間に囚われ、魂はそれを繰り返す――ああ、ある意味事実だ。  君には、それが視えているはずだろうに」  私の靄がかかった頭の中を一気に晴らすように、無慈悲で無遠慮な言葉が響いた。  私は我に返る。  ――私は何をしていた? こんなの、私のキャラではない。《《何か》》に引きずられていた――?  しかし、間に合わない。  私の身体は線路の上に躍り出て、そして電車が――  その瞬間、私の腕が捕まれ、思い切り引っ張られた。  さっき視えていた影ではない。肉の腕だ。誰かの手が、確かな体温と共に私を掴んだ。  この感触を――私は、知っている気がする。  覚えていた、そんな気がする。  特急電車が通り過ぎる。私は、無事だった。 「――っ」  汗が噴き出る。何をしようとしてたんだろう、私は。  そう、確かに……自殺した人たちの残滓の末路を、私は視て知っているののに。 「大丈夫か」  そう私に声がかかる。  私を掴んで引っ張ったのは、歳の頃二十代半ばの男性だった。  整った顔立ちで、長髪を後ろで結んでいる。  どこかで見たことがあるような……。  そうだ。  スピリチュアルフェスタで会った男性だ。 「あ、はい……その、ありが……」  私はお礼を言おうとするが、それより先に男性は言った。 「赤子は化け物ではない――か」 「え……?」  その言葉は。 「水子供養の発祥は、江戸時代の祐天上人と言う僧侶によるものだ。  それまでは赤子が、子供が死ぬのは当たり前であり、「七歳までは神のうち」とも呼ばれ、子供の死を強く悲しむ事は、すくなくとも風習としては無かった。  江戸時代という太平の世になり、赤子の死に親が悼むだけの余裕が生まれ始めたころ、幼子の供養という風習が生まれたという」  彼は、いきなり語り始めた。  何を言っているのだろう。わからない。いや――違う、これは。 「江戸時代に生まれた水子供養の信仰は、亡くなった子の安らぎを祈るもの、ただそれだけだった。  だが、昭和――1970年代に、とある宗教団体が言い出した。  水子は祟る――と。  祟りを鎮めるために供養しなければならない、と。供養代金をむしりとるために、な。  当時のベビーブームの裏には多くの中絶や流産があり、母親たちの罪悪感や後悔がそれと結びつき、爆発的な人気を得た。  それまでは、水子が――赤子が祟るということなど、なかったのに、だ」  彼の目は私に向けられている。  それは――その話は知らなかった。  それが本当なら、水子というのは――水子が母親や親類を祟るというのは――! 「中絶や流産はデリケートな問題だ。  自分に身に覚えがなくとも、自分の兄弟が流産していたかもしれない、それを親や親類が隠しているだけかもしれない。  そう、「水子が祟る」という話は誰にでも当てはまり、罪悪感と後悔に付け込む、最も最低で悪辣な霊感商法――それだけだ。  ほんの数十年前に生まれた、捏造された設定だ。  君は言ったな、赤ん坊は化け物ではない――と。  《《その通りだ》》」 「え――」  今まで、誰も。  誰も肯定してくれなかった、それを。 「死者の魂が化けて出る――いわゆる幽霊と呼ばれるモノになるには、強い未練や後悔、怨念や執着が必要だ。  さて、思考実験をしてみよう。  何も考えずに、誰かを恨んでみろ。何かに執着してみろ。  何も考えずに、その対象を明確にイメージして」  ……。 「そ、そんな……こと」  矛盾している。破綻している。要は考えずに考えろと言っているのだ。 「出来ないだろう。  未練怨み妬み執着憎悪殺意、それらは明確な「言語思考」によって成り立つ。  言葉を使い思考するという知性と精神性を発達させないまま死亡した赤子は、「快」と「不快」しかない赤子は。  《《どうあっても親や誰かを祟ることなど》》――《《出来ないんだ》》」 「――――――――」  それは。  私がずっと思っていて、しかし言語化できなかったこと。  赤ん坊は化け物ではない、という――その明確な回答だった。 「故に、君は正しい。  水子は祟らない。あの少女に憑いていない。もちろん君自身にも憑いていない。  生まれる事が出来なかったという理由で、母を、兄弟姉妹を親類縁者を、生きているという理由で憎み祟る化け物など――この世にもあの世にも、どこにも存在しないんだ」 「……っ!」  涙が溢れた。  ずっと欲しかった言葉。  ずっと共有したかった世界。  嗚呼、認めよう。認めたくないけど認めよう。  私は、ずっと孤独で、そしてそれに対して、ただ強がっていただけだったのだ。  私は今まで、孤独な異端者を気取り、そしてそういうものだと認められる事も諦めてきた。諦観者を気取り、傍観者ぶっていた。  そうやって、自分を鎧で着飾って守っていただけの――ただの臆病者だ。  私は、ずっと前からわかっていたのに。 「あ……」  そして、彼は私の頭を撫でた。あの時と同じように優しく撫でた。  なぜだろう。その感触だけで、涙が止まらなくなったのだ。  私はその場にへたり込んでしまった。安心したのだ。心の底から安堵していた。 「あ……ありが……とう……ござ……っ」  私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頭を下げた。  彼は黙って私を見下ろしていたが、やがて言った。 「泣くな、八坂奏。その涙はとっておけ。君の戦いはこれから始まるのだから」 「たた……かい……?」 「絶望に打ちひしがれていても、腹の中では怒りに煮えたぎっているんだろう? 君はそういう女だ。  世界の真理を知っているような聖人面をしながらくだらぬ詐欺で女の子を、苦しんでいる人々を食い物にしている連中に対して、怒りを覚えた。  だからあの時――あの女の子を助けようと声をあげた。  自身の諦観と絶望すら踏み越えて」 「……」  この人は何だろう。どこまで……私を理解しているのだろう。  私が理解していない私自身を、どこまで。 「だが今の君では無理だ。  力が無い。  知識がない。人脈がない。経験がない。  全てが圧倒的に足りない。  霊能者という外道相手に――その外道たちが巣食う伏魔殿とも言える組織、腐り果てた業界に対して、その瞳ひとつで戦う事など出来ない――  だが、《《無いなら手に入れればいい》》。簡単な事だ」 「あ……あなたは……何なんですか? いったい……」  私の言葉に、彼は笑った。  手を差し伸べながら。 「俺の名は草薙十夜《くさなぎとおや》。  君を霊能者にする男だ」  それが。  私、八坂奏と、草薙十夜の出会いだった。 ◇