「空に〜憧れて〜、空を〜駆けてゆく〜」 どこまでも高く、どこまでも青いデジタルワールドの空を一人の少女と一体のデジモンが飛んでいた。 気持ちよさそうに風を全身に受け、澄んだ声で歌っているのは浮状希理江。戦闘機と竜を融合したようなデジモンは彼女のパートナーであるジャザードモンだ。 「キリエ、その歌なに?」 「お父さんが好きだった歌!空に〜憧れて〜空を〜駆けてゆく〜」 「ずっと同じところばかり歌ってるよ?」 「ここまでしか覚えてないもん!」 あっけからんと希理江は言う。彼女はデジタルワールドに来る直前の記憶がない。自分が何者なのかは理解しているし、これまでどういう人生を送ってきたのかも分かっている。しかしなぜここに来たのかを彼女は知らず、そのことを全く気に留めることもなかった。 希理江と旅を始めて随分経つ。かつては進化できず空を飛べなかったことにヤキモキすることもあったが、今では希理江の協力によりいつでもこうして自由に空を飛ぶことができる。 あちこちを飛び回って色々な場所を回った。来るたびに燃えている森やのどかな温泉。ある村で行われていたレースでは優勝することができたし、水着コンテストに出たこともあった。 色々な人にも会えた。医師を目指す少女やヒーローみたいなお姉さん。他にもたくさん。 思い出は数えきれないほどできた。しかしパートナーのジャザードモンは希理江のことをまだよく知らない。希理江がどうやってここに来たのか。来る前に何をしていたのか。なぜ記憶がないのか。どうして高いところから飛びたがるのか。聞いても希理江は分からないとしか答えなかった。 「ねえキリエ?キリエのお父さんってどんな人なの?」 ふとそんなことを聞いてみた。空の向こうにいるという希理江の父。いずれ会うかもしれないのなら、知っておきたいというそんな他愛のない好奇心だった。 大好きな父のことを聞かれた希理江の声が弾んだ。ジャザードモンには背中に乗っているので見えないが、きっと満面の笑みを浮かべているだろう。 「えっとね!お父さんすっごく優しいの!お父さんパイロットで、飛行機でたくさんの人を運んでてね、お休みの時にはわたしと遊んでくれたり、お仕事で行った色んなところの写真を見せてくれたり、たまにわたしとお母さんも連れて行ってくれるの!」 「へえ〜すごいね!僕も会ってみたいな。ねえ他には?」 希理江が捲し立てた。覚えている限りの父との思い出を楽しそうに語る。 頭を撫でてくれる父の大きな手。空を見上げる時の子供のように楽しそうな顔。おぶってくれた時の温かな背中。全部覚えている。 一緒によく映画を見ること。飛行機を見に行ったこと。お揃いの帽子を似合ってると言ってくれたこと。全部幸せな思い出だ。 パートナーに大好きな父について教えるために記憶をできる限り詳しく、たくさんのことを思い出していく。 「それでね!それで……」 ふと、希理江が口ごもった。頭の中にノイズが走る。不鮮明な記憶はテレビのニュース映像と、泣きながら怒鳴っている知らない人たちと、ひたすら謝っている母と、薄ら笑いを浮かべるカメラを持った大人たちだった。 ――速報■す。先ほど■■空港を出発した■■便が■落したとの情■が入りま■た。多数■■者が出ているとのことで…… ――返■て!!あの子■■して!!! ――申し訳あ■■せん……申■■ありま■■……申し訳あ■■せん…… ――お父■んがい■■なった今■■持ちを教えてくれる? 「キリエ?」 突然黙りこんだ希理江に心配したジャザードモンが呼び掛ける。気分が悪くなったのかといつでも着陸できるようにゆっくりと高度を下げた。 希理江はうつろな目で何かをぶつぶつと呟いている。 「そらに……あこがれて……そらを……かけてゆく……あのこの……いのちは……ひこうきぐも……お父さんがいない……おとうさんがかえってこない……おとうさんが、しんじゃっ、た………?いや!!お父さん!!!お父さん!!!!」 「キリエ!?キリエ!!?どうしたの!?」 突如金切り声を上げ、頭を抱えた希理江を着陸したジャザードモンが地面に降ろす。 その顔には普段の希理江からは考えられないような恐怖の表情が張り付いている。 記憶のノイズが徐々に鮮明になってくる。全身から汗が吹き出し、目は限りなく見開かれ、お父さんと何度も叫んだ。 ――速報です。先ほど■■空港を出発した〇〇便が墜落したとの情■が入りました。多数の死者が出ているとのことで…… ――返■て!!あの子■返して!!! ――申し訳あ■■せん……申■訳ありません……申し訳あり■せん…… ――お父さんがいなくなった今の気持ちを教えてくれる?                                           「おとうさん!!おかあさん!!しんじゃやだ!!!ひとりにしないで!!!!」 「キリエ!キリエ!!大丈夫!?変なこと言ってごめん!!だからいつものキリエに戻って!!」 ジャザードモンの呼びかけも耳に入らない。髪を振り乱してうずくまり、錯乱したように叫ぶばかりだ。                                 遺書 別の記憶が再生される。布団に横たわり、冷たくなった母。手描きのチケットを書く自分。屋上の縁に立つ裸足のつま先。遠ざかっていくどこまでも青く高い空。 やっと理解した。自分がデジタルワールドに来る前に何があったのか。なぜ裸足だったのか。なぜ無意識に飛び降りようとするのか。 不意に希理江の叫びがピタリと止まり、光のない虚ろな目で空を見上げた。            飛んで 「そっか……わたしまだ墜ちている途中だったんだ……」 そう呟いた希理江の身体が突如地面から浮き上がった。何が起きているのか理解できないジャザードモンを尻目に、空へと引きずり込まれるように希理江の姿が遠ざかっていく。 「キリエ!キリエ!!」 希理江を追いかけるために飛び上がるジャザードモン。デジヴァイスが彼の叫びに応えるように光を放ち、ジャザードモンの身体を更なる進化へと導いた。 翼は風を捕まえるためにより大きく、足はより速く飛ぶために力強く、その身体はより機械の竜として完成されていく。 「ジャザードモン超進化!!――ジャザリッヒモン!!!」 ジャザリッヒモンが足のアフターバーナーを全開する。既に希理江の姿は遥か遠く、その速度は飛んでいるというより、重力に従って墜ちているようだ。 ふと、進化によって強化された視力が遥か空の先に朧気に映る上下逆さまになった世界の姿を捕える。 デジタルワールドと違う、人の手で整然と並べられたビル群は話に聞いていたリアルワールドに酷似していた。 「あそこに向かって墜ちているの?あれはキリエの世界!?」 恐らくあそこに到達すると希理江は『墜ちてしまう』 理屈は分からないがなぜかそう直感した。 全身のエネルギーを翼とバーニアに集中させる。絶対に追いついてみせる。もう空を飛べない自分はいないのだから。キリエが褒めてくれた自慢の翼があるのだから。 「キリエェェェェェェェェェェェェェェェ!!!!!!」 飛行機雲をたなびかせ、音を置き去りにしながら、鉄の竜は墜ちていく少女に向かって飛び立つ。 その姿は少女の瞳には映っていなかった。 ―――――――――――――― 浮状家はどこにでもある幸せな家庭だった。 仕事で忙しいはずなのに、いつも一緒にいてくれた子煩悩で優しい父。そんな父を支え、留守の間家庭を守る気立てのいい母。そんな二人の愛を受けて育った希理江。 希理江は両親が大好きだった。三人が揃うと、家にはいつも笑顔が溢れていた。父が休みの日にはよく空港に連れてきてもらって、一日中飛び立つ飛行機を眺めていることがあった。お父さんはあれに乗って空を飛ぶんだぞと、いつも自慢げに話していた。希理江もそんな父のようにいつか空を飛びたいと幼いころから思っていた。大きくなったらパイロットになりたいと言った日には、父がとても喜んでいたことを覚えている。 父が仕事で家を空けるときは寂しくなったが、そんな時は母がお父さんには内緒よといつもごちそうを作ってくれた。パイロットになりたいと言うと、家事の合間を縫って勉強を教えてくれた。父が帰ってくると二人で父の胸に飛び込むのが浮状家の習慣だった。 そんな生活がいつまでも続いて、いずれ自分も父の横でパイロットになって空を飛び回るんだと、そんな風に思っていた。あの日、悲痛な表情でニュース映像を眺める母の姿を見るまでは。 「――速報です。先ほど〇〇空港を出発した〇〇便が墜落したとの情報が入りました。多数の死者が出ているとのことで……」 頭の中が真っ白になった。原稿を読み上げているアナウンサーが何を言っているのか理解できなかった。 墜落した便は出発前に父が話していたものだ。母はひょっとしたら誤報で、別の便のことかもしれないとわずかばかりもない希望に縋りながらニュースを見ていた。 そんな希望も、母の携帯に掛けられた連絡で打ち砕かれた。機体は大破炎上し、遺体は身元の確認ができたのが奇跡と言えるほど損傷していた。 突然の別れに涙を流すことができなかった。茫然と父だったものに縋りつく母をただ眺めることしかできなかった。 残された二人の心境を余所に、近年稀にみる大事故ということで世間の話題はこの事故一色に染まった。 ――これはメーデー案件。 ――早く原因の究明を。 ――劣悪な職場環境よるヒューマンエラーの可能性が…… ニュースやSNSでは自分勝手な憶測が飛び交った。その中には父に原因があると宣う投稿もあった。専門機関の調査ではその可能性は低いと教えてくれたが、そんなことを知らない世間には父の操縦ミスという根も葉もない噂を信じるものが少ないながら存在した。その中には事故の遺族の姿もあった。 「返して!!あの子を返して!!!」 家に来て母に縋りついて怒鳴っている人が何人も来た。その人たちも母に怒鳴ったところでどうにもならないことは分かっていたはずだ。それでも、大切な人を失ったという憤りを誰かにぶつけずにはいられなかったのだろう。 母は涙を流しながらひたすら頭を下げて謝罪の言葉を繰り返していた。希理江はその姿をドアの隙間から覗くことしかできなかった。 「申し訳ありません……申し訳ありません……申し訳ありません……」 事故から数日後、用事があって外出のために玄関のドアを開けると、カメラを構えた人たちがたくさん待っていた。 母は希理江の手を引きながら、うつむいてカメラをかき分けて歩き出す。そんな母をカメラを持った人たちは遮ってレンズを向けた。 「すみません、今回の飛行機事故の件で何かお言葉を」 「今はちょっと……ごめんなさい……」 「そんなこと言わずに。一言だけでも」 「やめてください……!」 マイクを握った人が母を問い詰めた。母は何度もマイクを押しのけようとした。埒が明かないと思ったのか、その人は希理江にマイクを向けてきた。 「亡くなった浮状さんのお子さんですか?この度はご冥福をお祈りします。お父さんがいなくなっちゃった今の気持ちを教えてくれる?」 何を言ってるんだと思った。言葉ではこちらの不幸に同情しながら、それを発する口の端はいいネタになると喜色が浮かんでいる。 他人に怒りを覚えたのは生れて始めてだ。何か言おうと口を開いたところで、母が強引に腕を引っ張ってその場を離れた。 「気にしないでいいのよ……」 「でも……」 「いいの……」 それから母はみるみる憔悴していった。八つ当たりしてくる事故の遺族に頭を下げ、テレビやSNSには父を責めるような憶測が飛び交い、取材と称した押しかけが何人もやってきた。 母は父がいなくなったことを悲しむ時間すら奪われていた。目の下には隈ができ、みるみる頬は痩せこけていった。食事は喉を通らず、一睡もできない日が続き、毎日涙を流した。希理江はそんな母を支えようとできる限り家のことを自分でこなしていた。そうしないと自分まで悲しみで押しつぶされそうだったから。 父のいなくなった家がやたらと広く感じた。希理江はそのことをできるだけ意識しないようにした。 ある日の朝、希理江が起きると家の中がやけに静かだった。いつもなら母がリビングにいるはずだ。昨日は具合が悪いからと寝室に行ったのを思い出したので、今日は久しぶりにぐっすり眠って寝坊したのだろうと最初はそう思った。 「お母さん?」 何故か胸がざわついた。何となく不安になった希理江は母の寝室を覗いた。ベッドに横たわった母は寝息の一つも立てず、ピクリとも動いていない。 「お母さん?朝だよ?」 母に触れる。その肌は土気色に染まり、既に氷のように冷たい。 身体が引きつり、息を飲んだ。 母の身体を揺するが、何の返事もない。 「お母さん?お母さん!お母さん!!!起きて!!起きてよ!!お母さん!!!いや!ひとりにしないで!!!」 希理江の叫びももう届かない。心労からくる病気だった。 独りになった家の中で希理江は膝を抱えて、虚ろな目で虚空を眺めていた。 どうしてこうなったんだろうと頭の中で考えがぐるぐると駆け回った。しかし原因を考えても何も浮かんでこなかった。 お父さんがいなくなっちゃった今の気持ちを教えてくれる?そんな言葉が頭の中を何度も反響した。 お父さんに会いたい。会って抱きしめてもらいたい。あの大きな手でまた頭を撫でてもらいたい。希理江の頭の中はそれだけでいっぱいになった。 まだ父は生きていて、空の向こうに行ってしまって帰ってこれなくなったのではと、そんなことが思い浮かんだ。そんなおとぎ話みたいな話があるわけがない。 父も母も死んでしまったという現実を、広くなってしまった家が否応なく希理江に突き付けてきた。 独りは嫌だ。そう思った希理江がゆらりと立ち上がった。 「そうだ……お父さんに会いに行こう……」 もう希理江にはそんな現実が見えなくなっていた。嫌なことは全部忘れてしまおう。父は空の向こうへ行って帰ってこれなくなった。だから自分から会いに行こうと、そう自分に言い聞かせた。                            遺書 紙とペンを用意する。航空券を模して、この世から旅立つチケットを書いた。 ――屋上発、空の向こう・お父さんのところ行 書き上げたチケットを大切に封筒に仕舞い、父から貰った機長帽子を被る。これからフライトに旅立つパイロットの気分になった。父もいつもこんな気持ちだったのだろうかと、そんなことを思った。 家から出て、幽霊のような足取りで街を歩く。その光景を不気味に思ったのか、通行人は誰も彼女に声を掛けることはなかった。 やがてこの近くで一番高い建物の屋上に着く。天気は快晴で風も穏やか。絶好のフライト日和だ。 チケットを地面に置き、風で飛ばされないように靴を脱いで重しにする。 落下防止用の柵を乗り越え、屋上の縁に立った。裸足のつま先は宙に投げ出され、風が足の指を撫でる。 帽子が飛ばされないよう手で押さえた。 空を見上げる。どこまでも青く、どこまでも高い。この空の向こうにお父さんがいると希理江は思った。          逝 「お父さん、今から行くね……」 足に力を込め、思いっきり飛んだ。 すぐに重力に捕まり、空が遠ざかっていく。 空を見上げていた希理江には、その下に別の世界の空が広がっていることに気づくことはなかった。        空へと飛んだ そして少女は、空から墜ちた。