人は今手元にあるものよりも、やがて手に入る形なきものに焦がれ、惑わされる。 だがそれらをも圧して心にじりじりと身を灼くのは、もう得られなくなった過去のもの。 かつては手元にあったもの。かつては隣に立っていたもの。それが今や、どうだ? それのあることを当然と思っていた。よもやいつの間にか幻のごとくに掻き失せて、 決定的に、縁の途切れてしまうとは。消えて初めて気付くのだ。彼女は愚かであったから。 あるいは硬い鋼のように――時には鎖のように、己とを繋いでいた赤い糸。 結ばれてあった小指からは、だらだらと赤い涙の垂れるばかりである。 それの切れることを、かつての彼女は想像すらもしなかった。お互いに。 零落した旧家の出同士の、傷のなめ合いであったかもしれない。 いつか生家を再興させた、その折には――もう、何年前の話であったろうか。 しかし彼らのうちの一方がこうして地に堕ちることのなくば、 初めからこの縁さえ、なかったかもしれない。それがより、運命を強く感じさせたのだ。 肌を重ねることは怖かった。まだ二人は幼く、その意義さえ朧げで。 付き合うといっても仮の形。おままごとの範疇からも、出ること能わぬじゃれ合いだ。 男女の別は、無論知っている。その肉体に、青臭い情の湧いたことも否定せぬ。 それを形とすることが――溺れてしまうことが、二人にとっては恐ろしく。 自分と相手の関係は、そのような並一通りのものではないはずだ―― そんな思い上がりが、義務教育の最中の男女に、一つの首枷として機能していたのである。 実態を持たぬ関係性は、その不確かさ故に容易くほつれる。 最初はほんの、言葉一つのすれ違いであったかもしれない。捉え違いであったやも。 そして膨れ上がっていく不満をそのまま飲み込めるほど、彼らは成熟していなかった。 通るべき喉にまだ、喉仏すらも浮いてはおらぬ時分の話である。 どこの高校に進もうか。私立に通える余裕はお互いにあるか?公立への学力は―― 今思えば、相手を気遣ってこその言葉であったのだろう。そこに憐憫などなかったはずだ。 先にその悩みを経験していたからこそ、彼の言葉は彼女の実情にぐさぐさと刺さり―― 錆びた鎖が、ぶつん、と切られたのは――それから間もなくのことだった。 忘れたことはなかった。いつか、きちんと、心の底から謝りたいと思っていた。 それを許さぬほどには、両者の時間は噛み合わず、一月経ち二月経ち、 開いた心の傷口は、想い出を瘡蓋にゆっくりゆっくり閉じていく。 内側にぐずぐずと、むず痒いような痛みを残しながら――ゆっくり、と。 その痛みに慣れたなら、きっと、ずっと先のいつかに、それは良き過去となるのである。 もはや手の届かぬことへの諦めを、何十年と掛けて準備できるのである。 既に手元で使い古した今と比べても、心を蝕むことがなくなるのである。 けれど――それは余りに早すぎた。傷口の閉じるにはまだ時間が必要だった。 より大人になった彼の顔を見て、内心に火がまた点いたことを咎められようか? ああ、その隣にいるのが――我が親友でなかったならば、どれだけよかったろう。 彼とて、己の家を盛り立てるために余所からの力を借りねばならぬ事情はある。 一緒に頑張ろう、という綺麗事だけでは通じぬ世界であることもわかっている。 最もわかりやすい人と人との連帯が、血縁を基盤にすることも知っている―― ならばこそ、彼が許嫁として東北の名家の次女と縁を結び、 先方からの援助にて身を立てること――それを責められる道理はない。 これはただの、自分の我儘に過ぎないとわかっているのだ。彼女は大人になったから。 彼との縁が途切れた後で、同じことを――心からは好けぬような相手に嫁ぎ、 その支援を受けるような考えも、なかったとは言えない――だけど。 彼はあたかも、そうなることが最初からそう決まっていたかのように、 その空間の中に、己という存在を押し込もうとしているように見受けられた。 許嫁の姉と、妹。そして他にもまた一匹、良からぬ視線を投げかけてくる女たちに、 それでもなお、良い婿になろうと懸命に己を律しているようだった。 言葉にしかねる想いのあるとき、彼のぐっと、奥歯を噛む癖は――昔のままだった。 どれだけ彼を振り回していただろう?どれだけ我儘を押し付けてきただろう。 兄に甘えるかのごとく、彼女は何度も彼にその顔をさせてきたのである。 許嫁の親友として紹介されたとき――久しぶり、という言葉が奥歯にすり潰されるのを、 努めて彼が平静を装うとするのを見て――彼女もまた、それ以上の言葉を紡げなかった。 関係を求めてくるものたちを、彼が拒めない弱さに漬け込んだ――客観的にはそうである。 許嫁の親友が、周りとの交友を目茶苦茶にするぞと脅して迫った――そう見えるだろう。 そのような言い訳さえ拵えてしまえば、彼を責めるものはいなくなる。 ご相伴に預かっている女たち自身も、彼の浮気性を指摘などしたりはしない。 そんなことをすれば、先に絞まるのは己の首の方である―― だから、その一人に。過去のことを隠したまま、しれっと混ざり込んだとしても、 二人の関係性を、第三者がとやかく言える義理はないはずであった。 許嫁の肉体を踏み荒らされている少女自身――姉と妹に強くは言えなかった。 その優しさが同居人や親友にまで広がったとて、大した違いはないのである。 どうせ最後に持っていくのは、自分一人であるのだから。 浴室にて、彼に身体を押し付けて――熱の籠もった目で、じっと見上げて。 ――さん。かつては呼び捨てたその名を、なんとわざとらしく呼ぶことか? 親友への気兼ねはある。それよりも、この胸の中の火を消して欲しかった。 君と僕はもう、こんなことはできない関係なんだ――いっそそう突き放して欲しかった。 彼は奥歯をぎりっと噛んだきり、そのまま彼女に優しく抱き返す。耳許に甘く名前を呼ぶ。 その優しい響きだけは、以前のままで――しかし彼女は理解する。 彼との誓いはもう果たされぬ。こぼれた水がぼたぼたと、二人の肌の上を滑り落ちる。 いつか――そうぼんやりと抱いていた彼との子の姿が、結実してはならぬということを。 あの時できなかったことを、ほんの少し取り返せただけ――彼女は悧発であったから。