「っ待てやゴラァァァァァッ!!もう逃げられねぇぞォォォォォ!!」 「そこの信号左です。入ってすぐの空き地に逃げ込むと思われますのでリアスライドキメて突入してください」 「全く、逃げる犬の行動を予測しろと言われても、俺は犬じゃなくてデジモンなのだがな……」 「ぎゃああああああ削れる!削れる!ワガハイの殻をターンピックにするのやめてよしてぎゃああああああああ!!!」 ―――飼い犬捕獲完了、依頼達成。 「それで、こちらのゲーム筐体に問題が?」 「そうそう、急にラグくなったり無敵になったりして、チート疑われて炎上したって。どう?」 「案の定だな。昆虫型のデジモンが回線を荒らしているようだ。ノドカはもう出ていいぞ」 「えっえっもう出ちゃうの?もう少し筐体に顔突っ込んでていいのにいや別に長閑ちゃんの尻を見ていたいわけじゃいだだだだだだだ」 ―――ネット回線不具合調査完了、依頼達成。 サイバーゴースト改め浮橋長閑とルガモンを新たな従業員に迎えたくらま霊能探偵事務所は、少しずつだが依頼受諾と達成のペースを早めていった。 原付に乗りながら電話口でナビをしたり、ネット内のトラブルに直接潜り込んで対処したり、単純に異なる世界に住む従業員の存在が業務の幅を広げた。 とはいえリアルワールドへの干渉はからっきしなので、結局りんねが身体を張るケースが多いのだが。 新体制の探偵事務所はあっという間に馴染み、それからさらに1週間が経過した。 「……んだけど、まだまだ家計は火の車だなあ……」 連日の依頼疲れで机に突っ伏し、胸を圧し潰しながらりんねはぼやく。依頼件数は増え、それの達成率も高い。が、そもそもの依頼の質は安値の便利屋稼業に変わりはない。 原付のガソリン代ひとつ取っても高いこの時代、薄利を重ねても割に合わないのが次なる悩みとなっていた。 「本業の方がからっきしなのが大きいのう、舞い込んでくる依頼に悪霊のあの字もない。どうにもならん霊のお悩みというのはええ金の鉱脈なんだが」 「俺たちが拾い上げられるのは、ネット上に転がってる悩みをこちらに誘導したものだ。オカルトに興味のある者を絞り込んでも霊体験の報告は信憑性が乏しい」 「デジタル化した世界では、幽霊というものは話題作りの種にしかならない。というのが実情だろう、リンネ。あのポスター、アナログ情報はあながち間違いじゃなかったな」 「いやー、流石にあのクソポスターを撒き続けるのもどうかと思うけど……」 精彩の欠けた顔を上げる。今でも危険すぎる霊の相手は御免被りたい、が全く来ないのではいずれ事務所は干上がってしまう。それだけは避けたい。 「長閑ちゃんなんかない?こう、デジタルワールドならではの副業とか……」 頼りすぎは良くない、と思ってはいるが、疲れてくると安易な方向に走りがちなのが人間の性だ。そして所長代理のそんな言葉にも真面目に付き合うのが長閑というアルバイトであった。 「仮想通貨のマイニングを行えば多少の収入にはなるかと思います。私はりんねさんのコンピュータのローカルではなくクラウド上の存在ですので、私自身の演算を使えば電気代は不要です」 「ほうほう、流石デジタルワールドはくりえいてぃぶな頭脳労働が豊富ですなぁ……」 「ノーです。デジタルワールドにおいて数字を動かす演算とは基本的に肉体労働を指します。両腕を骨折する勢いで採掘しまくれば10円ぐらいにはなるかと」 「あ、ごめんやっぱいいです……ごめんね無理言って」 10円て。やっぱりデジタルワールドも夢の世界ではないらしい、本当にリアルの制約から解放された理想世界なら、長閑も宿無しで旅をすることもなかったのだろう。 「……デジタルワールドの生活ってどんななの?あたし、そっちに人が入ってるの初めて見たから」 思い立って尋ねてみた。思えばりんねの知る長閑の情報は押しかけ居候以外のものは何もなかったから。 「リアルワールドとの比較、という意味でははっきりとは言えません。私は……」 少し、言い淀んだような違和感を残して。 「いえ、基本は変わりないと思います。情報で構成された世界といっても、情報を情報のまま認知する概念は人には存在しません」 「ですので、草木を表す情報は草木になりますし、移動を示す数式は運動として表される……実際に見るものとしては、多少独自のモノが混じった程度ですね」 「じゃあ、お高い寿司とかラーメンとかも食べれるの?」 「可能です。もっとも美味な食事はデータ量が重く圧縮したら味が落ちてしまうので、いつでも食べれるものではありませんが」 「じゃあ、お店で食べるレベルのじゃなくてもいいからさ。今度いい依頼が来たら一緒に寿司食べようよ。あたしもちょっと高いパック寿司買ってくるし」 「そこで”二人でお店の寿司”とは言えんのかのう。ワガハイは料亭で綺麗なお姉さんとむほほ……」 「うっさいなー、そんな大金一発で入ってこないってさっき話してたでしょ?ね、どう?」 「注文自体は可能だ。まあ、たまにはコストをかけた方が精神衛生にも悪くはない。どうする?ノドカ」 「あ……それは……」 また少し、言葉を詰まらせた。 「いえ、ありがとうございます。それでは次の依頼の後、遠慮なくいただきますね」 長閑はわずかに口元を緩ませて、りんねはあ、初めて笑ったかも。と目を丸くした。 日はすっかり傾き、空は赤く染まっていた。そのはずだった。 その一点を黒い靄が染める。雲のように、墨のように、夕焼を汚しながら円を広げる。 その中から、何かが現れた。最初は黒雲が変形したようにしか見えなかった。 同じ黒色の、羽、翼、だがその躯、明らかに尋常の生命とは思えなくて。 「―――■■■■■■■■■■■■!!!」 黒い烏の鳴き声が、赤い空を割いた。 「りんねさん、緊急の依頼です!SOSです!」 「町の商店街だ、ゲーム屋の店主が馬鹿でかい烏に襲われて、今公園の方へと逃げている。烏とは言うが、恐らくデジモンのリアライズだ」 「すぐ行く!将軍お酒準備して!」 原付に酒瓶を積み込み、将軍を引っ張るようにして走らせる。思いがけない約束の依頼は、思いがけない大物の襲来に上書きされた。 既に人の流れは少ない。全速力で飛ばしながら店主が向かった公園へと原付を滑り込ませた。 「店長!大丈夫ですか!」 「あ、あぁりんねちゃんか!たっ助けてくれ!もう腰が抜けちまって……!」 四つん這いの姿勢で店主が助けを求めてきた。目立った外傷はないが、全身から汗を流して心底狼狽えている。その原因が、直上にあった。 公園の大時計の上に立ち、全身の羽毛は漆黒、両翼に何かの武装と、金色に塗られた嘴……あるいは、顔面を覆う仮面。 「こりゃあ、大分骨の折れそうな相手だのう……あ、ワガハイ骨なかった」 「とりあえず、やるしかなさそうね……長閑ちゃん。店長を安全そうな場所まで誘導して」 持ってきた携帯電話を店主に投げ渡す。まだ膝が笑っているが、店主もなんとか両脚で立てるようになっていた。 「りんねさん、あなたは?」 「追っかけられたら絶対アウト。とにかく、何とかなるまで時間を稼ぐっきゃないってわけで……将軍!!」 原付から取り出したのは酒瓶。無論、デジモンを酒で祓えるわけもない。そのまま将軍に投げ渡すと、景気よく栓を抜いて一気飲みを始めた。 「カブトシャコモン、進化―――!」 デジモンとしての能力の拡張、進化を促す。方法自体は多様だが、将軍の場合は少し高い酒でやる気を出すのが通例となっていた。りんねにとっては痛い出費だが、 かけた金だけの働きは見せる。それが将軍だ。 「センボンオクタモン!!」 八本足と、頭部に頭巾。背中の籠には刀、槍、薙刀。先とは一段階レベルが違う、成熟期への進化を果たす。 「先手必勝!やるわよ将軍!」 「応よ!喰らいやがれ烏野郎がぁぁっ!!」 烏のデジモンは動く様子がない。籠から薙刀と刀を取り出し、将軍が一気呵成に飛び掛かった。 しかし、 「――――――」 烏が羽を広げると、赤い空を漆黒が染める。そのまま広がった空間上の墨が将軍とりんねの視界を奪った。 「目潰しか!猪口才な真似しおって!!」 だが、将軍は突撃の手を緩めない。あれだけのデカブツ、身を隠したところで躱しきれるものでもない。 土台空を飛ぶ鳥というのは繊細なバランスの上で成り立っている。ここで芋を引くよりも、翼に一発でも当てて叩き落す方が勝機ははるかに高い。 「必ッ殺!!”五分裂き”ィィッ!!」 上、下、左、右。全ての腕が武器を掴み、それを縦横無尽に振り回す。滅茶苦茶な攻撃だが、武器の遠心力で腕は想像以上に伸び、一発引っかかれば次の武器、また次の武器が相手を袋叩きにする恐怖の乱舞。 そのはずだった。 黒い靄が空ける。烏のデジモンは―――いない。どこにも。 「は……?何だと……!?」 「将軍!!」 先に気づいたのはりんねの方だった。 閃く黒い羽。突撃の慣性のまま宙を舞う将軍の背後に、烏のデジモンの姿があった。 靄に紛れて回避した?否、その程度の小細工なら五分裂きの餌食になっていたに違いない。烏のデジモンに傷は一つもなく、将軍の腕にも手ごたえは一切なかった。 まるで命中するはずの攻撃がすり抜けたかのように、あるいは。 「―――■■■■!!」 「ぐぉぉぉっ!?」 烏のデジモンが蹴りを放つ。咄嗟に受け止めた薙刀にヒビが入り、ボールのように吹き飛んだ将軍の身体が砂場に落ちた。 「嘘でしょ……将軍!!」 「っつ……あの烏、想像以上にやるわい……!」 砂場までりんねが駆け寄る。将軍の武器は殆どが籠から飛び散り、全身に受けたダメージは明らかであった。明らかに成熟期では太刀打ちできない。 だが、出費を惜しんで酒を一瓶しか持ってこなかったのが仇になった。この場では完全体への進化は不可能、次の攻撃を貰ったら間違いなくお陀仏だ。 りんねが歯噛みしていると、突然甲高い音が公園に鳴り響いた。りんねと将軍、そして烏のデジモンも同時に音の方向に首を向ける。 公園に設置されているスピーカー、本来なら夕方の時刻を伝えるそれが、イレギュラーな言葉を発し始めた。 「店主の避難を完了させました!すぐに離脱してください!」 長閑の声。携帯は店主に預けっぱなしだったので、町内放送に割り込んでこちらに呼びかけたらしい。その内容でハッとりんねは我に帰った。 これ以上戦うことに固執するのは危険だ。ここは、迷わず逃げを選ぶ。将軍を抱えて全力で原付に駆け寄り、そのまま公園から飛び出していった。 意外なことに、烏のデジモンはりんねを追うことは無かった。あるいは、将軍を一撃で倒したことで脅威になり得ないと認識したのか、 再び鳴き声を響かせた大烏は、黒い雲を展開しながら空へと消えていった。 激闘から逃げ切ったりんねは、事務所にたどり着くとそのまま疲れ切った様子で布団に潜り込んだ。ゲーム屋の店主からは十分な報酬が出たが、それで寿司パーティなどと言ってられる状況ではなかった。 何せ、烏のデジモンは姿を隠しただけだ。またこの町に現れて、誰かを襲う可能性がある。そうなる前にケリをつけたいが、今度はあの瞬間移動をどうするかの対策が無かった。 将軍の感触では超スピードとかそういう領域の話ではなかったらしい。それは最早、急にどこかへ消えて、再び現れたような。神出鬼没な理由もこれで説明が付く。 付くが、完全体で相手するとしてもそんな相手にどう戦えと。考えるほど悲観的になってきたのも、りんねが思考を打ち切ってとりあえず寝ることにした理由の一つだった。 既に夜は深く沈み、月明かりだけが事務所を青白く照らしている。 窓からも月光が差し込む部屋の中で、小さな影がパソコンに火を入れた。 「……どうした、将軍。件の作戦会議は明日の予定だが」 「いやいや、ちょっと体の節々が痛くてのう……あワガハイ節ないんだった。長閑ちゃんのかわいらしい寝顔で少しチャージしようかとぐへへ……」 画面に現れたのは長閑……ではなくルガモン。パソコンを点けたのもりんねではなく将軍だった。 「そういう目的なら断る。……話は別にあるだろう?アレと俺たちの関係の」 「……あー、気づいとったんか」 将軍が少しバツの悪そうな顔を浮かべる。元々、彼は長閑とルガモンのことについて、あまり詮索を入れるべきではないと思っていた。 デジタルワールドに入ったままの人間など、聞くまでもなくワケありなのだろう。ならば痛い腹をわざわざ突いてやることもない、そう考えていたが、 今回の烏のデジモンの襲撃が、どうにも将軍の中で引っかかってしまっていた。最近になって急に訪れた居候と、急に訪れた襲撃者。 ―――つまり、アレは長閑達を追いかけてきた追手なのではないか?と。 「先に前提を話しとくがの、ルガモン。おぬしらの問題の全てにワガハイ達は首を突っ込むわけにはいかん、やれることにも限度があるでな」 「勿論だ、助けてもらいたかったら最初からそう言っていた。その上で、お前はどうする、将軍。アレが俺たちを追うのだとしたら、俺たちをここから追い出すか」 「そうまでは言わんわい……やっぱおぬしまだ若いのう。こういうのはなあなあで行くのが大人の小賢しさよ」 「どうにもならん状況なら事情は変わってくる、変わってくるが。今のおぬしらは自分の問題は自分で対処しておるではないか。なら、ワガハイから何も言うことはない」 「ただ、なんというかな。もう少し腹を割って話をしておきたかったのだよ。長閑ちゃんのこと、おぬしのこと、もう少し話してやってもいいと思うがの」 「……」 ルガモンは少しの間返答を保留した。が、次いで口を開いた。 「お前が想像する通り、俺たちは追われる身だ。詳しい理由はわからないし記憶も定かじゃないが、昔、俺たちはある組織に閉じ込められて、そして脱走した」 「あの烏デジモンが組織の追手かどうかは、まず倒さねば判断できんだろう。だが……」 「結果がクロなら、俺たちはここを出ていくよ。将軍、今まで世話になった」 「……本当に、それでいいのだな」 「良いも悪いもない。これ以上お前たちと、この町に迷惑をかけることはできないからな……話は終わりだ」 それを最後に、ルガモンは通信を打ち切った。将軍は深いため息を吐いて、パソコンの電源を落とす。 再び部屋には月光以外に、照らすものが無くなった。 ―――月以外に光るものはあった、布団に包まったまま開いていたりんねの瞳が。 「―――いいのか、ノドカ」 通信を切ったコンソールを離れて、ルガモンが話しかけてきた。りんねのパソコンのクラウドストレージ、雑多にファイルが転がる中の一つの上に長閑は座り込んでいた。 「はい、代わりに伝えてくれてありがとうございます。ルガモン」 「将軍は俺たちを無理に追い出そうとする意図は薄い。それはお前にも理解できるんじゃないのか?それに、無理に拠点を変え続ける方が息を潜めるよりもここでは目立つぞ」 デジタルワールドでは何かをするたびに履歴が残る。転々と居を変えればそれだけ足跡が残り、追跡者を撒くことは難しい。 それならば、完全にこの町のネットに馴染んで痕跡を誤魔化してしまうのも一つの手段だ。何より、物資と安全の面では遥かにリスクを下げることができる。 「確かに、そうです。りんねさんは優しい人です。それに将軍も。こっちは何も言わずに押しかけてきたのに、アルバイトとして雇ってくれて、本当はとても安心しました」 「みんな、本当に優しくて、ここにいるのが楽しくて―――だけど」 体育座りの姿勢で、抱えた両腕が表情を隠す。 「……だからこそ、ダメなんです。優しすぎて、厚意に甘えてしまうから、こんな私が……」 その声は、微かに揺れていた。 彼女に過去は存在しない。組織に追われる理由、組織で行っていたこと、その記憶データは殆ど欠落してしまっていた。 憶えていることは、身体に染みついた行動。人を、デジモンと戦う方法、傷つける方法、そして――― なんで、こんなことばかりを記憶しているのか、過去の自分は一体何だったのか?自分は、誰かに救われてはいけない存在なのではないか? 全ては杞憂でしかない、烏のデジモンの一件も。だが、過去を持たないとは、自分の信じるべき真実を喪失していると同義だ。その環境下では、どんな些細な不安も人を強く縛り付ける。 社の関与が疑われるデジモンの襲撃は、その縄を一層強くするものだった。何もない自分のために、許されない存在かもしれない自分のために、優しい人たちが血を流すなんてことはあってはならない。 だから、 さよならを、告げなくてはならない。 ……つづく