結愛視点 「なあ結愛、『テセウスの船』って知ってるか?」 「…なんの船って?」 大きな大きな山を越えて、その向こうにあった湖を『喰べて』きたある日の夜。 へろへろで極上肉を頬張るわたしを見て、ガンマモンは唐突にこんなことを尋ねてきたのだった。 「テセウスの船だよテーセーウース。アホ結愛にはちょっと文学的過ぎてレベルが高い話だったかー?」 ん~?と煽るようにこちらを見あげてくるガンマモン。人が疲れてるというとのにこやつは… 「そ、そんなことないんですけど!し、知ってるし?」 勿論、そんな言葉は『知らない』。 とはいえこのまま素直にそう認めるのも面白くない。ので、無い知恵を絞って少しばかし考えてみる。 「えーっとえーっと…確か前に深海で見た、くらげの…!」 「それはテティスモン」 「じゃ、じゃあよくガンマモンから話に聞くシリウスモン!」 「…テセウスって言ってるだろ!」 「ぐぐぐ…じゃあ船だからフックモン…?」 「何がじゃあなんだよ何が!ほんっと!アホバカ結愛だな!」 予定調和な問答の応酬は、最後にガンマモンの吐き捨てるような罵倒を浴びせられて仕舞いとなったのだった。ひどい!折角乗ってあげたのに! …折角ここまで道化を演じたのだから、ちゃんと報酬は払ってほしいものである。 そんな思いを込めてじとーっとにらみつけてあげば、やれやれといった表情でガンマモンは語り始めるのだった。 「…テセウスの船っていうのはだなー。ざっくり言うと『物の構成要素すべてを一つ残らず新しい部品へ置き換えた場合、それは以前のものと同一物といえるだろうか、あるいは全くの別物というべきだろうか』という問題のこと」 「…???」 「…つまり今結愛がアホ面で頬張っている極上肉があるだろ?」 「あひょぢゅらふぁふぁいんへすへど」 「それを一口食べてもまだ極上肉だし、二口食べてもまだ極上肉だろ?でもいつの間にかただの骨になっている。その境目はどこだというだな」 「…ごくん、それってちょっとまた違うやつじゃない?」 「ちゃんとわかってんじゃねえかよお前はよぉ!」 とにもかくにも、つまりはそういうことらしい。、 …全く、基本ずっとわたしと一緒にいるはずなのにどこからそんな知識を仕入れてくるのやら。 時折こういうことがあるのだが、もう彼だからという理由で言及することは諦めた。きっと眠れない夜にあちこち放蕩しているのだろう。悪いやつだ! …まあ、それはともかくとして。 ぺろりと、指についた油を舐めとる。いつの間にか右手の極上肉はしゃぶりつくされたつるつるの綺麗な骨になっていた。 …彼の言葉の意味は理解できた。ならばもう一つ、わたしには確認しておかなくちゃいけないことがある。 なぜ彼が突然こんなことを聞いてきたのか、その意図。 「それじゃあガンマモンはこう言いたいわけだ」 つつつと、指で骨をなぞり、弾く。 次の瞬間、骨全体を淡い光が包み込んだ。 「私達の目標。全てのテイマー達が幸せになれる世界。それは、今在るこの間違った世界をぶち壊して…貴方の力で再構築した世界」 失われたデータを転写、結合、復元、再生。 今はまだ、彼の力を借りてもこれくらいのことしかできないけど… 「その世界は本当に、私達が幸せにしたかった世界なのか、と。違う?」 光が晴れたその時、わたしの手にはお腹に収まる以前の、つやつやてかてか極上肉が握られていた。 「大丈夫だよ。ガンマモン」 そう、大事なのは結果だ。たとえ、過程がどんな道筋をたどろうとも。 あの時、そう割り切ったのだ。 だから、今回も同じだ。 「きっとなんとかなるよ」 「おいおい、いいのかよそんな適当で。…『かみのみこころ』のままにってかー?」 「あはは、何それ」 「……運任せってことだよ」 「それでいいんだよ。だって――」 最後の最後に、『テイマーが幸せな世界が実現できる』のなら、そんなことは。 「――別にどっちでもいいことだもん」 手元の極上肉を、一口頬張る。 口の中に広がったのは、先ほどのそれと寸分違わぬおいしい味であった。 ーーーーーーーーーーーーー ガンマモン視点 深夜、月明かりに照らされて、一人爆睡する結愛を見下ろす。 あんな話をした後、腹いっぱいになってすぐこれなのだから、いい気なもんだ。 「全く、寝ているときは可愛げがあるんだがなぁ~…」 誰に言うわけでもなく、呟いた独白は静かな夜の静寂に溶けていく。 『――別に、どっちでもいいことだもん』 あの時、目の前の結愛は別になんてことないように、そう言い放った。 …随分と嫌な眼をするようになった。最近は特に顕著だ。 彼女のその双眼は一寸の曇りもない。 一切揺るがぬ価値観。自身の選択に何も後悔も迷いもなく。息をするようにそうすることが当然であり、正しいと思っている。 ――ヒトはそれを、狂人と呼ぶのだ。 「…ふぅ」 一人、いや一匹、ため息をつく。 昔の彼女は、よく笑い、よく泣き、よく怒る、どこにでもいる普通のニンゲンであったと思う。勿論些細なことで悩みもするし、時にはくじけることだってあった。 「でも、今は違う」 胸の内に燻っていたじっとりとした感情が、思わず口から零れる。 傍から見れば、今でもコロコロと表情を変える、感情豊かな少女に見えるのかもしれない。 …だがそれは間違いなのだ。 今の結愛が笑うのも、怒るのも、泣くのも、全ては擬態。あくまで自分の望みをかなえるため、そうするべきだと思ったから行うだけ。 つまるところもはや、感情は心の内から発露するものではなく、相手に合わせたコミュニケーションの道具の一つでしかない。 …逆にあんなに激高していたこの前の佐賀奪還の件はよっぽど腹に据えかねたんだろう。昔の彼女を見ているようで、俺としては面白かった。 まあ、結局すぐに元に戻ったんだが。 「…なんだって、こんなことになったのかなぁ。聖心(みこころ)、お前はどう思う?」 今はもういない、かつての相棒に思いをはせる。こんなことを聞いたら、聡明な彼女だったらきっと一笑に付すのだろう。 分かってる。理由なんてものは、火を見るよりも明らかなのだから。 この世界で過ごした永い永い時間。その体験と記憶が、人間としての彼女の人格をぬりつぶしたのだ。 「…もう、お前のことも忘れちまったみたいだ。ギルモンやクルモンも、ズィードミレニアモンの奴やあの冒険のことも。多分、現実世界のことも、何も…」 結愛には、もはや何も残っていない。今の彼女を唯一突き動かしているもの、それは… 始まりはきっと、ただこの世界で困っている人を助けだいという純粋な願いだった。 しかし、その根源を忘れ、想いだけが募り、肥大化し、結果妄執と化したそれを叶えようとするだけの機械と成り果てた。 『ねえガンマモン。テセウスの船って言葉知ってる?前に聖心ちゃんから聞いたんだけどね――』 「…テセウスの船はお前のことだよ。結愛」 幾多の時を生き、その分だけ彼女を構成していた過去の記憶を置き去りにしてきた。もはや安里結愛というニンゲンは存在しない。今ここにいるのは、姿形が一緒なだけのおぞましいナニカだ。 「…ただ、それでも」 俺だけは、彼女を見捨てることは出来ない、いや、してはいけないのだ。 それは、こうなるまで放っておいた、自身の贖罪であり、義務であり… 「約束、だもんな」 パートナーである彼女らに、結愛を頼むと託された。泣いて心中しようとした聖心を、彼女の意思を無視して現実世界に突き返した。 なればこそ、最後の最期まで、自分は結愛に付き合う責任がある。 彼女の征く果てが、望みをかなえた末にある天国という名の地獄であるなら、甘んじて受け入れよう。 だが、もし現実に敗れ、志叶うことなく消え去ることになるその時は… 「…その時は俺が、お前をニンゲンに還してやるよ」 これは誓いだ。それもひどく独りよがりな、俺の我儘。 …還したその先に、たとえどんな困難が待っているかもしれない。 自身の犯した過ちに、押しつぶされそうになる日もあるかもしれない。 それでも…きっとそこに、希望はあるのだと、信じている。 「それじゃ、お休み。『結愛』」 そう言って、眠れないながらも目をつむる。いや、もしかしたらあの日から俺もずっと夢を見ているのかもしれない。 俺達が永い夢からの目覚めるのは、まだ先の話だ。