「『名も無き鬼』――あなたに聞きたいことがあります」 眠らない街にも光の届かない場所はある。 とある繁華街の路地裏で、三津門伽耶はある男の背に銃口を向けていた。 黒いコートに黒いスーツ。夜だというのに黒いサングラスを掛けており、かろうじて男の姿を浮かび上がらせるのは、灰のごとき銀髪のみだ。 「仕事の依頼か?だったら専用のルートから連絡してくれ」 「いいえ、これは命令です」 男――名無鬼は視線の端で銃口を向ける少女を見やる。 年は高校生ほど。長い黒髪。傍らには大型の犬のようなデジモン、ドーベルモンを従えている。 なるほど、最近裏社会で噂の子供かと瞬時に分析した。 「私の姉、三津門恋のことを知っていると聞きました。大人しく教えてください」 「嫌だ、と言ったら?」 「話したくなるまで聞くだけです」 トリガーに掛ける指に力が入り、ドーベルモンが唸る。 距離にして1メートル。しかも左右に狭い路地である。 避けることは不可能。 しかし、男はこの状況にあっても態度を変えることはなかった。 「なら、話す気はないな」 「!?」 突如、路地裏が閃光に包まれ、伽耶の視界から男の姿が消える。 男が逃げないようその姿を見つめ続けていたことが裏目となり、手元から零れ落ちた閃光弾に気づかなかった。 伽耶の視界が戻ると、黒いコートの裾が路地の角から今まさに消えようとしていた。 「逃がしません!予定地点に追い込みます!」 ドーベルモンに跨り指示を出す。 猟犬は一つ咆えると、疾走を開始した。 骨ばった身体からは想像できない力強さで大地を掛け、獲物を追跡する。 しかしすぐに追い詰めることはしない。 確実に仕留めるため、相手を『ある場所』まで誘導する。 目標の男は曲がりくねった路地を不規則に進んだ。 伽耶はあえて距離を取りつつ、男の逃げ道を奪うように銃撃を加える。 銃弾を一発、二発。その度男は進路を変え、徐々に人通りの多い地点から離れていく。 やがてその進路は伽耶の予定通りに進んだ。 いくつかの路地を抜けると視界が開ける。 そこは打ち捨てられた廃倉庫だった。 男が開かれた入り口に入るのを視認し、伽耶は勝利を確信する。 「ここまでは予定通り。追い詰めます……」 人気のないこの近辺なら、何が起きても朝まで気づかれることはない。 ドーベルモンから降りると銃の弾倉を交換する。 入り口の影に身体を隠し、中の様子を伺う。 内部は夜逃げでもしたのかコンテナがいくつかそのまま積まれており、建物自体も老朽化しているのか壁には所々罅が入っていた。 天井にはコンテナを運ぶためのクレーンがいくつか吊るされている。 一瞥しただけでも隠れる場所は多いが、それはこちらも同じこと。何よりこの隠れる場所を利用した策をすでに立てている。 音もなく伽耶は廃工場に侵入した。 倉庫内は大きな窓と穴の開いた壁から月明りが差し、思ったよりも明るくライトは必要なさそうだ。 「…………」 油断なく内部を見渡す。 僅かな音も聞き逃さないよう耳をそば立てる。 先行したドーベルモンは猟犬のように鼻を鳴らし、男の痕跡を追った。 いかに隠れる場所が多かろうと、こちらにはドーベルモンの鼻がある。利はこちらにあった。 あのまま路地で追いかけ続け、人込みに逃れられるより、逃げ場のないこの倉庫内ならば確実に追い詰めることができる。 大丈夫、ここまでは作戦通りだと逸る気持ちを抑え、内部を進んでいく。 その時、不意に伽耶の眼前で壁が弾けた。 (銃撃!?) 相手の姿はまだ見えない。 銃弾の飛んできた方向を見るが、そこには誰もいない。 コンテナの裏に隠れたか?それにしては気配がなさすぎる。 「どこから!?」 「落ち着け。これは――危ねえ!」 逸る主をドーベルモンが窘めようとしたとき、伽耶の頭上から何かが外れる音がした。 見上げると、クレーンで吊るされていたはずのコンテナが落下してきている。 いち早く気づいたドーベルモンは主を咥えると、迫りくるコンテナから逃れるために駆け出し―― 「しまっ――!!」 足裏から固いものを踏んだ感触の後、熱量と衝撃が無防備な腹部に叩きつけられる。 とっさに伽耶を放り投げるが、そのために回避行動が取れず猟犬の巨体が吹き飛ばされた。 落下したコンテナと地雷による衝撃で辺りには埃が舞い、互いの姿を隠す。 ドーベルモンから放り投げられた伽耶の身体が地面に転がり、眼鏡が飛んで行った。 舞い上がった埃が肺と眼球に侵入する。 視界が涙で滲んだ。 これでは敵を探すどころではない。 伽耶は咳き込みながら、先ほど自分を庇ったパートナーに呼び掛けた。 「ごほっ!ドーベルモン、無事!?」 「――ぐああああ!!」 返事の代わりに聞こえてきたのは、相棒の悲鳴と複数回の銃撃音だった。 伽耶は体勢を立て直すと壁を背に、手放してしまった銃の代わりにナイフを抜く。 先ほどの地雷といい、敵はデジモンに有効打を与える手段を有していることは明らかだった。 ドーベルモンを攻撃してきた以上、敵もこちらを視認できる位置にいるはず。視界が開ける前に身を隠さないと。 そう判断した伽耶は姿勢を低くし、銃撃音が聞こえた場所から離れるよう移動を開始する。 「!?」 ――はずだった。 死角から伸びた手は伽耶の襟を掴むと、柔術の要領で投げ飛ばす。 天地が反転する。突然のことに受け身を取ることもできず地面に叩きつけられ、肺の中の空気が一斉に吐き出された。 「かはっ!?」 またも視界が滲む。 叩きつけられた痛みが全身を巡る。 一瞬意識が明滅した。 「視野が狭い。だから炸薬と銃撃の区別もつかない」 男の声が聞こえる。 視界がはっきりしてきた。 男は右手の銃を伽耶に向けていた。 その表情はサングラスに覆われて窺い知れないが、こちらを大した脅威だと見ていないことだけは分かった。 視界の端には、気絶しガジモンに退化したパートナーがいる。 握っていたナイフは既にどこかへ飛んで行っていた。 「……追い詰めたつもりだったけど、追い詰められてたのはこっちだったってことですか……」 「ここは俺が用意した倉庫だ。路地で仕留めなかったのは失敗だったな」 「その時はその時で別の手を考えていたのでしょう?私がこの倉庫に追い込むと読んでいたと?」 「あそこから人気のない場所に誘導するならここだ。お互い騒ぎは大きくしたくないだろう?」 諦めたようにうなだれる伽耶。否、心中ではまだ諦めていない。 策はまだ残っている。 「さて、お前に襲撃を依頼したのは誰だ?……いや、無理に話さなくても構わない」 「待って!話す!話すから!」 引き金を引きかけたところでとっさに叫んだ。 この男は本気で殺すつもりだった。 情報よりも敵の排除を優先したことに肝を冷やす。 「必要ない。概ね見当はつく」 「そんなこと言わないでください。聞いたほうが早いですよ」 その時、男の背後から近寄る影を伽耶は見た。 こんな状況でも作戦を守っていたことを心の中で称賛する。 「ええ、話しますよ。私に依頼してきたのは――」 なるべく平素に、かつ勿体ぶったように言葉を紡ぐ。 男が背後から近寄る存在に気づかないよう、こちらで注意を引く。 影が音もなく近づいてきた。 その牙は獲物を喰らわんと今か今かと待ち構えている。 男の注意が最大限こちらに向き、最適なタイミングを計る。 「今だ!!」 伽耶の合図でもう一体のパートナー、ファングモンが男に飛び掛かる。 今更気づいたところで、すでに攻撃態勢に入ったデジモンをどうにかできるはずがない。 ナイフのような牙が男の背に突き立ち、たちまち辺りを血しぶきで染めるだろう。 しかし、男は振り返るどころか驚くような反応すら見せなかった。 「――――」 突如、倉庫内に一筋の閃光が走ると、ファングモンを吹き飛ばした。 巨大な魔犬が轟音を立ててコンテナに叩きつけられる。 その光景を伽耶は驚愕の目で見るしかできなかった。 明らかに人間が扱う武器で行えることではない。 成熟期デジモンを一撃で戦闘不能にするその威力から、この一射が完全体、あるいはそれと同等の力を持つデジモンから放たれたことは容易に想像できた。 男が左手首に着けていたデバイス――バイタルブレスから女のような声が響いた。 『ししょー、当たりましたか?』 「ああ。引き続き警戒しろ。鼠一匹入れるな」 『了解しました』 通信を切る。その顔は先ほど同様、サングラスに覆われて表情を窺い知れない。 「だから視野が狭いと言った。ここから1.5キロ先に高い建物がある。そこから狙撃できることを考慮しなかったのか?」 男の指摘に伽耶は歯噛みした。 周辺の地形は頭に入れていた。 どういうルートで誘導するかも考え抜いた。 ファングモンに先回りさせ、挟み撃ちで捕らえる策を構築したまではよかったのに。 男がデジモンを連れているなど知らなかったし、そのデジモンが姿すら見せずにこちらのデジモンを撃ち倒せるほどの力を持つことなど考えてもいなかった。 既にファングモンも先ほどの一撃で気絶し、エレキモンに退化している。 ガジモンも未だ意識が戻らず、起き上がるころにはすべてが終わっているだろう。 もし目の前の男を殺せたとしても、すぐに狙撃が飛んでくる。 何よりこの男を殺す術がない。飛び掛かって首を絞めるよりも、男が引き金を引くほうが圧倒的に速い。 自分の未熟さに自然と涙が浮かび、大きく息を吐いた。 「……ごめんなさい、姉さん」 全てを諦めたように目を閉じる。 せめて死ぬときは一瞬で何も感じないといいなと、そんなことを考えながら。 「――――?」 しかし、いつまでたっても死が訪れないことを訝しみ、伽耶は恐る恐る目を開けた。 見ると男はこちらに油断なく銃を向けたまま、携帯端末を操作している。 その顔からはサングラスが外され、血のように赤い瞳がこちらを見つめていた。 「お前、姉を探しているらしいな」 「そうですけど、それが何か?」 突然の男の言葉に思考が追い付かない。 すると男は操作していた端末をこちらに見せてきた。 そこには姉探しの依頼を受ける旨が書かれていた。 「何のつもりですか?」 「ビジネスの話だ。姉に関する情報は持ってないが、探すのくらいは手伝ってやる」 依頼書を読み込む。契約自体におかしなところはないが、報酬があまりに法外な値段だった。 「こんなの払えると思ってるんですか?」 「必要ないなら蹴ってくれて構わない」 引き金を引く指に力が籠る。 受けないのならこのまま襲撃者として排除するつもりのようだった。 「……女の子にカツアゲみたいなマネして、恥ずかしくないんですか?」 「女子供扱いして欲しかったか?」 「できれば今からでもそうしてもらえると」 「そうか。しかし女子供だろうと、命を狙われた以上は排除しなければな」 男の言葉にため息を付く。 依頼主として生き、男に金を搾り取られるか。このまま襲撃者として死ぬか。目の前の男は言外にそう言っていた。 「さあ、どうする?」 男――名無鬼の提案に伽耶は……