「……はぁあ」  高校1年生、高校に入学して初めての夏休みだというのに、真菜は憂鬱だった。  別に旅行に行きたいと言った覚えはないし、そもそも、気を遣ってくれと両親に頼んだ覚えもない。付き合わせてしまう兄にも悪いし、正直もう帰りたくて仕方なかった。  旅行先は『海』だ。真菜としては地名も覚えていないし、漠然とした知識しか残っていないが、あたたかい気候、白い砂浜、透き通る穏やかな海……そういったものが特徴的な場所だ。 「真菜、そんなに日陰で丸まってたらカビが生えるよ」 「……【海里】お兄ちゃん」  そんな所謂リゾート地の海岸、の、木陰でぼんやりとしていた真菜に、真菜の兄である海里が声をかけてきた。内心余計なお世話、と言いたい気持ちを抑えて兄を見上げる。 「泳がなくてもいいけど、少しは陽の下に出たほうがいい。今日なんて日陰でも暑いだろ? 浅瀬を歩くと気持ちいいしさ」 「それは、そうだけどさ……」  真菜がうっすらと目を細めると、兄の持つ箱状の端末の中から声が聞こえてきた。 「……海里。あまり物事を強制するものではないよ」 「じゃあどうしろっていうんだ、【ワイズモン】?」 「海里だってあまり外に出たい方じゃないだろう、真菜がその気になるまで待っておやり」  諭すような穏やかな声。この声の主は海里のパートナーであるワイズモンだ。海里は自分と同じように引きこもり気質の相棒にそう諭されて、仕方ない、とばかりに肩をすくめる。 「……まぁ、お前がそういうなら。真菜、これ、熱中症にならないようにって父さんから。気が向いたら、こっちにおいで」 「……うん」  海里は真菜にペットボトル飲料を渡すと、両親のいる方角へと戻っていった。 「……」  1年と少し前は、こんなことなかったのに。真菜は内心で独りごちて、ペットボトルの蓋をパキリと開封した。スポーツドリンクを飲みながら、ぼんやりとどうしてこうなってしまったのか、思いを巡らせる。  交通事故だった。  中学3年生、最後の夏。水泳の大会へ向かう最中に、私は交通事故に遭った。  幸いにも私も車の運転手の人も命に別状はなく、大した事故じゃなくてよかったね、で済むはずだった。 「……っ」  足首が痛む。もうとっくに手術も終えて、治療が済んでいるはずの傷が痛い。  お医者さんは、痛いのは私の足じゃなくて心なのだと言っていた。  両親はゆっくり休むように言ってくれた。  兄や友人はただ運が悪かっただけだから気にするなと慰めてくれた。  それでも、私の心は今も癒えないまま、ぬるい地獄に浸かっているような心地だった。 「……でも、そうだよね」  いつまでもこんなところでうじうじしているから、私の足にもカビが生えてそのせいで痛んでるのかもしれない。  もう少しくらい頑張ってみないと、前も向けやしないか。  とりあえず、家族のところへ戻ろう──と、真菜が立ち上がった、その瞬間。 「……? 霧……?」  先程まで真菜がうんざりするほど良かった天気が、急に翳りを見せ始めた。日差しが薄くなり、辺りには深い霧が立ちこめる。 「な、なにこれ……」  空気が冷える。寒い。腰に巻いていたラッシュガードを羽織り、先程まで人気のあった方角へ歩く。……誰もいない。 「どうして……?」  霧が深くなっていく。わからない、怖い! 「……お兄ちゃん、ワイズモン……」  フラフラと覚束なくなりそうな足取りを何とか強く踏みしめながら前に進む。  両親がいるはずの場所。こんなに遠くないはずなのに。霧はまだ深くなっていく。何も見えない。 「誰か、誰か……いないの……?」  ふと、足にペトリとした感覚が走った。 「…………ッ!? やだ、何、何!? 誰!?」 「おちつけ」  凛々しい声。足元から? 恐る恐る眼下を見ると、そこには見慣れないシルエットの生き物がいた。 「どうしたんだ、一体」 「……で、デジモン……?」  真菜はゆっくりとかがんで、うっかり足をぶつけてしまったそのデジモンを見る。緑の体に、オレンジの大きな背びれを持つそれはどうみてもデジモンだ。 「そういうお前は人間だろう、何故このような場所にいる?」 「……え」  そのデジモンにそう問われて、ある可能性が脳裏をよぎる。【明良】お兄ちゃんも、海里お兄ちゃんも、デジタルワールドの話をする時何と言っていた? 『いいか、真菜。デジタルワールドとこっちの世界の境目は曖昧だ。いつあちらにフラッと迷い込んでもおかしくねえから気ィ付けんだぞ』 『気を付けたところでどうにかなることじゃないけどね。覚悟はしておいた方がいい』 『ま、そうなったら俺が迎えにいってやるよ』 『は? 世界救ってもないくせに大口叩かないでくれよ、真菜を迎えにいくのは僕だ』  ……。 「……ここはデジタルワールドなの?」 「そうだ」 「じゃあ、私、いつの間にか迷い込んで来ちゃったんだ……」  どうしよう、どうすればいい? 「お前、その口ぶりを聞くに、どうやら多少はデジタルワールドについて知っているようだな? だが来るのは初めて。違うか?」 「え、そ、その通り、だけど……」 「なら話は早い。私は【ベタモン】。お前は?」 「……真菜。【魚澄真菜】です」 「よし、真菜。まずはこの霧を抜けよう、視界が悪くて敵わん」 「う、うん」  ペタリペタリと独特の足音を立てて、ベタモンは迷わず歩いていく。真菜はその小さな影を見失わないように注意深く進んでゆく。  気付けば霧はだんだんと薄れ、ぼやけていた風景も次第に鮮明になっていた。 「この辺りまで来れば大丈夫だろう。しかし、妙な霧だったな」 「いつもあんな感じ、なの?」 「莫迦、こんな平地の、それも日向でいつもあんな濃霧がかかっててたまるか。おおかた、こちらと人間の世界が繋がる際に発生したノイズが霧の形で可視化されていた、といったところだろう」 「……なるほど」  あまりよくはわからないけど、なんとなく、なるほど、と適当に相槌を打つ。 「それにしても、これからどうしよう……」 「何か当ては?」 「うーん……無いわけじゃ、ないけど」  このままじっとして、兄さんたちが迎えにきてくれるのを待つ?  でも、それって本当に安全なの? そもそも、デジタルワールドは時間の流れが違うと聞いた。  それじゃあ、迎えにきてもらう前に餓死しちゃうかもしれない。  それに、もう一つ気がかりがあった。  兄さんたちは、二人ともデジタルワールドで「何か」を成し遂げている。  それなら、私がここに迷い込んだことには何か意味があるんじゃないの? 「でも、じっとしていたくはない……かな」 「……了解した。それなら、真菜、まずは安全な場所に……はじまりの街に行くといい」 「はじまりの、まち」 「とはいえ、場所もわからないか。なら、私が同行しよう」 「え。えっと……ありがとう」  ベタモンはふい、と器用に方向転換すると、ついてこいと言わんばかりに歩き出した。  こんなに小さいのに自信を持って歩めるのはすごいなあ、と思いながら、真菜はベタモンの背を追った。