その日は珍しく、夜遅くまで仕事をしていた。少し重怠い手で玄関のドアを開けて部屋に入ると、疲れ果てた自分とは対照的な爽やかな声に出迎えられた。 「あ。 おかえり、トレーナー」 ベッドの上に寝転がって本を読んでいたシービーが身体を起こして微笑みながらそう言ってくれると、今までの疲れを少し忘れられるような気がした。 合鍵を渡し合っているのだから、彼女が部屋にいることは全く驚くに値しない。なんの前置きもなく唐突に訪ねてきたのも、いつも自由すぎる彼女の放浪癖を知っている身からすればかわいいものだ。 だから彼女を見て少し驚いた理由は、彼女が俺の服を着て、部屋に横たわっていることだった。 「ただいま。 服持ってこなかったのか?」 「ううん?ちゃんとあるよ。泊まるつもりだったし」 尋ねたのはこちらなのに、なぜそんなことを聞くのか、と言わんばかりに返された。常識破りが常の彼女ならさておき、平凡な価値観しか持ち合わせていない自分にはそれだけの説明では不十分で、もう一度問い返さざるを得ない。 「じゃあ、なんで」 「着てみたかったから」 だが、悪びれもせずに微笑みながらそう答えられると、こちらもそれ以上の追及をする気が起きなくなる。もとより怒っていたわけではないのだから、当然かもしれないけれど。 ささやかな疑問が解決したところで、ベッドから降りた彼女を眺める。その彼女はまじまじと見られていることに気づいても気を悪くする様子もなく、むしろ軽やかにくるりと回って、野暮ったいはずの男物の服を華麗にまとった姿を見せてくれた。 「思いつきだったけど、いいね。普段はこういうの着ないから新鮮だよ」 彼女の着こなしは流石の一言だった。いつもの自分が着ていれば野暮ったい休日の男のそれでしかないスウェットも、彼女の手にかかれば立派なオーバーサイズファッションになってしまう。 大きな服に覆われた上半身が描くゆったりした曲線と、反対にショートパンツから覗く長い美脚との差が眩しい。余った布を後ろから押し上げる尻尾もチャーミングだった。 「似合ってるよ。俺が着るよりずっといい」 柄にもない時間外労働の報酬としては、お釣りが来るほどのものだと言えよう。半分照れ隠しを混ぜた褒め言葉に、彼女が微笑んでくれたこともそのひとつだ。 「ありがとう。きみにそう言ってもらえると嬉しいよ。 じゃあ、次は何にしようかな」 しかし、嬉しそうに小走りする彼女が次に発した言葉と、俺のクローゼットの中身を見繕って自分の服と並べる姿には、流石にもう一度驚かざるを得なかった。 「え?次?」 「うん。きみの服でおしゃれするなんて思ってなかったからさ。なんか楽しくなってきちゃった。 だめ?」 「…だめじゃないけど」 「ふふふっ。ありがとう。 きみも見ててよ。どれが一番好きか教えてほしいな」 すっかり忘れていた。 首を傾げて柔らかく微笑む彼女の頼みを、断れた試しは一度もなかったということを。 それからはすっかり興が乗ってしまった彼女の、一風変わったファッションショーに付き合うことになった。 成り行きで始まったことではあったが、元より彼女の思いつきが退屈な日常に思わぬ風を呼び込むのが好きだから、彼女と一緒にいることを選んだ身である。たとえ仕事終わりの夜更けであろうとも、彼女が楽しそうにしているなら疲れを忘れられる気がした。 「初めて見る服がけっこうあるね。きみ、意外と服持ってるんだ」 「前は全然持ってなかったよ。最近買うようになった」 とはいえ、楽しすぎるのも考え物だろう。クローゼットの中身を物色しながら興味深そうにそう言う彼女に、迂闊にもそんな言葉を返してしまった。 「なんでかな。ふふっ」 耳聡くその言葉を聞きつけた彼女がくすくすと微笑みながら投げかける問いに、そっぽを向きながら答える。赤くなっているだろう頬を見られるのが恥ずかしかったから。 「…教えない」 「いじわる」 わかってるくせに、意地悪はそっちだろう、と言い返したくなるのをなんとかこらえる。 彼女の隣に立ってもいいように背伸びをしたことを隠し通すくらいの意地は、張らせてほしかったのだ。 何着目になったろうか。俺も彼女もそれを忘れてしまうほど、思いつきで始めたこの遊びは楽しかった。 裏地が見えるほどサイズが余っている俺のジャケットが、その内側にある白いタンクトップに黒のマイクロミニをまとった彼女の細身のシルエットをいっそう強調している。いつもなんとなく着ている服が、彼女に着られると魔法のように輝いて見えた。 その体験は新鮮で、何度見ても飽きない。ただ、ひとつだけ困ったことがあった。 「そろそろ寝ないか?もう夜も遅いし。 続きは明日にしよう」 「えー?いいじゃん。まだこれからだよ。 きみだってかわいいって言ってたし」 彼女は相変わらずよく笑いながら、実に反論しにくい理由を提示してくる。その誘惑に乗りたいのは山々だが、このままでは後々困ったことになる。 「俺の着るものがなくなるだろ?」 彼女はすでに、俺の服のほとんどに袖を通していた。クローゼットの中身も残り少なく、彼女の手がついていない服は殆どなくなっていた。 だが、俺の提示した理由はどうにもお気に召さなかったらしい。頬をぷくりと膨らませて、彼女は実に可愛らしく不服の意を示した。 「そこにあるじゃん」 「いや、それは…」 すっかり拗ねた声色で、彼女はさっきまで着ていたばかりの服を指差した。 「アタシが着てた服は嫌かな」 「…そうじゃないけどさ。なんか、恥ずかしい」 「じゃあ、アタシにも見せてよ。アタシだって、きみがおしゃれしてるとこ見たい」 どんどん逃げ道がなくなっていく。追い詰められているこちらを見る彼女の目が、いっそう楽しそうにきらきらと輝いている。 「これ、新しく買ったやつでしょ。着てるの見たことないし。 着てみてよ。似合うと思うな」 一着のシャツを手に取って、彼女は品定めするように目を細めた。 確かにそれは、彼女と出かけるときに着ようと思って買ったものだった。そしてついさっきまで、彼女が袖を通していたものでもあった。 他意はないとわかっていても、彼女の肌に触れて、その匂いと温もりを纏ったものを着るというのは、なんだかどことなく疚しいことをしているように思えてしまう。そういう発想に至るということ自体が邪な考えなのかもしれないけれど、彼女に想いを寄せているからこそ、普段は意識しないようなことまで気にしてしまう。 そうやって態度を決めかねている姿を見ても、彼女は苛立つ様子はなかった。 「それとも──」 いや、むしろ── 「他のお願いだったら、アタシの言うこと聞いてくれるのかな」 その逡巡すら楽しむような何よりも眩しい笑顔に、釘付けにされてしまった。 「わ…!」 その表情に見入っていたせいだろうか。彼女がこちらに向かって服を投げ渡したのに反応するのが遅れて、頭がすっぽりと布に覆われた。 「あははっ!」 何も見えない。可笑しそうに笑う彼女の声と、服に残った彼女の匂いが脳髄を支配する。少し甘くて、なのに爽やかな不思議な匂いだった。 彼女の足音が聞こえて我に帰る。彼女の目の前で彼女の匂いと感触に耽溺するなんて、それこそ変態のそれだ。惚けていないで、さっさとこの服を取らなくてはと思った矢先に、腰にしなやかな感触が巻き付くのを感じた。 「じゃあ、選んでよ。 その服を着てみせてくれるか、アタシのこと抱きしめてくれるか」 一度視界を絶ったせいだろうか。彼女の笑顔が、余計に眩しく見える。背中に回された指先の一本一本まで、鮮明に感じてしまう。 「わかった、着るから離れて──」 「だーめ。もう時間切れだよ。 こっちのほうが楽しそうだからね」 さっきまで嗅いでいた匂いが、温もりと一緒により濃くなって押し寄せてくる。慣れきった服の手触りの中に、彼女の細い身体の感触が余計に際立つ。 そのちぐはぐさが何かいけないことをしているように思えて、脳が端からちりちりと溶けていくような感覚に陥る。 「ねぇ。 アタシってどんな匂いがするのかな」 無邪気な彼女の微笑みに、いつの間にか妖艶な色香が乗っている。抱き合う度に彼女の熱が、身体を伝って流れ込んでくるような気がする。 「…答えられない」 「なんで?」 その熱に浮かされた脳味噌がせめてもの理性で吐き出した返答を舌の上で転がして楽しむように、彼女はその理由を訊き返した。 「変態みたいだろ」 それを聞いて浮かべた、少し困ったような苦笑いも、彼女には実によく似合っていた。 「アタシは好きだよ。きみの匂い。 だとしたら、アタシも変態になっちゃうのかな」 何かに想いを馳せるように彼女が目を閉じると、腕に籠められた力が強くなるのがわかる。 彼女の腕に閉じ込められた身体の中で、彼女の言葉がずっと反響している。どきどきして、くらくらして、おかしくなりそうになる。 「きみの匂いはね、とても安心するんだ。きみの服を着てると、すごくそう思った。 きっと、きみといた時間がそういうものだからなんだろうね」 彼女の言葉はいつもまっすぐだ。突き刺すように最短距離で心に届くせいで、身構える時間もくれない。 「きみも教えてよ。アタシのことどう感じてるのか、知りたい」 いつだってまっすぐに、愛を伝えてくれる。いつも、その言葉の熱で酔わされてしまう。 「…外の風の匂いがするよ。久しぶりに窓を開けたときの春風と同じ。 いつでも俺に楽しいことを運んできてくれる、爽やかで澄んだ匂い」 だから、仕方ないんだ。口にできないほど恥ずかしいことでも、こんなに簡単に言えてしまうのは。 どんなに君が好きなのか、胸の奥にしまっておいたままだと、熱すぎて心が溶け出してしまいそうになる。 いつの間にか、彼女に抱きしめられるよりも強く彼女を抱きしめていた。苦しいかと思って少しだけ手の力を緩めてみるけれど、そうすると彼女が不満そうにもっと強く抱きしめてくるから、結局そのままにしておいた。 「…いいね。もっと素直になってよ。 きみが好きって言ってくれるのが、アタシは好きだな」 微笑みながら目を閉じる彼女は、やはりどうしようもなく美しい。 そして、そうやって差し出された表情に気づかないふりができるほど、今の自分は慎ましくなかったのだ。 「ん…」 軽く触れ合わせるだけのキスでは足りなくて、押し付けるように唇を合わせる。その度に喉の奥から漏れる彼女の声が脳髄を満たして、その声のする方をもっともっとと吸い上げてしまう。 それでも、唇を離すときは少し悔しい。頭が茹だってしまうくらいこんなに愛しているのに、同じように頬を赤らめていても、彼女の微笑みは崩れないから。 「今、すごく幸せだよ。きみでいっぱいだから」 頬を撫でる手の感触と一緒にその言葉が入ってくると、足の爪先まで彼女のものにされてしまったように感じる。満足そうに微笑んでいると思ったから、すっかり油断していた。 もう一度唇が触れ合う感触で初めて、彼女から唇を奪われたのだと、わかった。 唇を重ねたままきみに身体を預けるように、無防備にベッドに倒れ込む。どんなに放心していても受け止めてくれるとわかっていたから、できたことだった。 こんなにきみを求めてしまうことに、自分でもびっくりする。家に来たのにきみがいなくて、ずっと待っている時間は確かに焦れったかったけれど、きみが帰ってきてくれてそれもすっきりしたと思っていたのに。 きっとアタシは、アタシが思うよりずっとさみしがりやなんだ。きみの服を着て、その中にきみの残り香を感じて、嬉しくなってしまうくらい。 でも、いいや。きみがそういうアタシにしちゃったんだもの。その分だけ、きみに満たしてもらえばいいや。 そんなアタシも、嫌いじゃないから。 彼の服を着て、彼のベッドに彼を組み敷く。 なんだか余計にいけないことをしているみたいで、頭の奥がよくない刺激のされ方をしているのがわかる。さっきのキスでもうとろとろになってしまっているのか、彼がちっとも抗わないのも、余計にそう思わせる。 「素直だね」 「もう諦めてるからな」 「ふふっ。 じゃあ、どけようか」 いじけたように目を逸らして、何も言わずに背中に手を回して答えるきみが可愛く思えて仕方ない。 でも、きみはまだいじっぱりだ。もっと素直に、アタシが欲しいって言ってほしいのに。 噛みつくように、きみの首筋に顔を埋める。鼻を鳴らしてもっと深く味わおうとすると、きみの手が頭に回って待ったをかけた。 「…やだ」 「なんで?」 「さっきまでずっと仕事してて…絶対臭い」 恥ずかしそうにそう零すきみの意地も、アタシは好きだ。でも、アタシが今ほしいのは、ありのままのきみのぜんぶ。 「ふふっ。じゃあ、だめだよ。 その分だけ待ってたんだからさ。もらってもいいよね」 ちゃんとしたままでいようとしてくれるのは嬉しいけれど、今はそんなことしなくていいよ。 きみが恋しくて仕方ない甘えん坊なアタシを、散々見せたんだから。きみだって少しくらい、だめなところも見せてほしい。 そんなきみのことだって、愛してあげたいんだもん。 熱い。でも、気持ちいい。 首につけた唇から熱が伝わってくるような気がして、熱いのにもっと深く貪るのをやめられない。 それはきっときみも同じなんだろう。アタシもきみもいつのまにか汗だくになっていて、それがますます熱情を煽った。 「シー…ビー…!」 その熱をきみに返すように、もう一度唇を重ね合う。後先なんて考えずにお互いを求め合うのがひたすらに心地よくて、窒息してしまいそうなほど激しいくちづけの後にきみにもたれかかると、ちょうどきみの耳元に辿り着いた。 「ね。言ったじゃん。きみのぜんぶが欲しいんだって。アタシのぜんぶを、きみにもらってほしいんだって。ほしいって思ったら、我慢なんてできないよ。 きみならわかるよね」 きみと一緒にいて、ずいぶんわがままになったと思う。 でも、きみにはそんなアタシのことも見せたいと思う。きみが好きだから、きみが好きって言ってくれたから、こうなったんだもん。 照れ隠しのように少し乱暴に頭を撫でて応えてくれるきみが、またひとつ好きになった。 ぴったりと身体を重ねると、とくん、とくんという音が、きみの胸から伝わってくるような気がする。それが少しだけ速く聞こえるのが、なんだかうれしい。 なんでもないただのリズムが、きみのものだと思うとひどく愛おしい。だからきみがどんなにつまらないことだと思ったとしても、アタシはきみのことなら、なんだって感じていたいんだ。 「好きって、どういう気持ちなのかな。 きみを好きになってから、ずっと考えてたんだ」 この気持ちはなんなんだろうって、ずっと思っていた。今まで知らなかった、どこまでも深く浸っていたい感触。 きみも同じ気持ちでいてほしいって、心から思える。 「きみのことを感じるためなら、なんでもしてみたいって思えるんだ。 好きってこういうことなのかなって、ちょっとだけわかった気がする」 アタシがきみを好きなのと同じくらい、きみにもアタシを好きでいてほしい。 きみの服を着る。きみの匂いを、温もりを感じる。それでも足りないくらい、きみのことを愛してる。 きみにも同じくらい、アタシに浸っていてほしいと思う。きみとアタシの心が重なるのは、いつだってとても心地いいから。 だから、もっと見てよ。もっと見せてよ。 かっこいいところだけじゃない。かわいいところも、恥ずかしいところも、なにもかも。 そのぜんぶを、どこまでも好きになりたいから。 「きみにもわかる?ん…」 恥ずかしそうに微笑む、きみの唇がゆっくりと触れた。 「…うん。わかるよ。 俺も、シービーが好きだから」 「そっか。 …やった」