ネオサイタマを、髑髏めいた月が見下ろす夜。一人の男は仕事を終え、今日の夕食を求めぶらりと歩き出す。 今日は随分と体力を使った。研究所で働く典型的なホワイトカラーである彼としては、あまり使いたくないものではあるが、そんな日もあるだろう。であれば、夕食は苦労に適うものがふさわしい。 「スシかな」独りごち、独り納得してから行く。 自宅への道筋に、確か評判の良いスシ屋があったはず。ならばそこがいい……実際ハヤイ思考と共に、瞬く間に目的地を定めると、光化学プラントの立ち上る煙を背景に、男は一日を振り返りながら進み……たどり着く。 「イラッシャイマシ」「ドーモ」 愛想がいいとまでは言えないが、よく通る声で礼儀正しいオジギ、総じて雰囲気のあるイタマエ。地域特有の刺激臭のしない、よく換気された空間。そこに自分独り……しめた、と男は思う。この店はアタリだ。 「何になさいます」「タマゴを」「アイ、アイ、タマゴ」 男はタマゴを切ってコメにかぶせる。中々年若いイタマエだ。それでいて手際に乱れはない。 「ドーゾ」「うん。……うむ」旨い。男は頷く。 「マグロを。粉末でもいい」男は二の矢を打ち込む。化学プラントが近く、カネモチも少ないこの町に運ぶならコスト面から言って粉末が妥当だ。その上で期待に応えてくれるなら……「オーガニックありますよ」イタマエの声。期待通りだった。男は微笑む。 「ではそれを」「アイ、アイ、マグロ」繊細な技でマグロを切り分け、コメに乗せ、男の前に出す。ワザマエ。 「……おお」久方ぶり味わうオーガニックの味。多少高くついてもなお安いものだろう。本当に当たりの店だ。 「オミソレ・シマシタ」「恐れ入ります」つつがないやりとり。男とそう歳は変わらないだろうに、熟練のイタマエの雰囲気を纏っている。 その後、幾つか注文を重ね、男はイタマエのワザに確かな信頼を覚える。ハマチ、トビッコ、アナゴ、グンカン……どれも良い、期待以上、ネタも新鮮で努力が伺える。直感は正しかったのだ。 ふと、男に奇妙なセンチメントが湧く。もしかしたら、このイタマエなら。そう思い口を開く。 「イタマエ=サン……貴方は知っているか?クラゲのスシを」「クラゲ。キクラゲを使ったキノコ・スシでなく」「うむ」「食べる地域もあると聞きますが」 どうやらイタマエも、それほど詳しく知っているわけではないようだ。納得と若干の落胆……そしてイタマエの怪訝そうな顔。どうも事情を話す必要が出来たらしい。 「おお、スミマセン。少し前から探していまして」 男の返事にイタマエはオジギして詫びる「シツレイしました」客の事情を詮索しないのがイタマエの古き良き流儀だとよく知っているのだろう。実直な男だ。 「いえいえ、お気になさらず……親が好いていたものですから、少し気になって」それを見て、男は詳しく話すことにした。この男ならプライバシーは守るだろう。 「父の好物だったのですよ。勤めていたカイシャの栄光を象徴する……とかなんとか」男も由来はよく覚えていなかった。クラゲ、海の月と月をかけたユーモアだっただろうか。「お父上が」短く答えイタマエも話題に乗るのを見ると、男は話し続ける。 「当時は幼く、毒があるともいう得体の知れないクラゲ……カツオノエボシだったかな。そんなものの仲間を食べるというのはいやだったのでしょう。味わわずじまいでして。今更になって興味が湧いているのです」 男の半生は正に過酷なものだった。研究員として働く今に至るまで、多くの苦労とマネーの問題を味わってきた。ケオスを押さえ込み犠牲者を減らすという情熱と、実際高い知能指数を武器に、それらをねじ伏せ主任研究員の立場に立つまでには長い時をかけた。今になって漸く、僅かながらの安定を得たが故、過去が目がついたのだろう。 「お父上は、なんと?」イタマエも深入りしてくる。 「なんとも。ウマイともマズイとも」男は曖昧に答える。味についてもわからない。彼の両親は既に、ネオサイタマのケオスの中で非業の死を遂げている。クラゲ・スシを出していた、贔屓のスシ屋はとっくに潰れた。 「もう聞くこともできません……イタマエ=サン……クラゲのスシの味や、提供しているお店について…何かご存じではないでしょうか?」男も踏み込む。イタマエは少し考え込み、沈黙。 「……スミマセン」 沈黙の後出た言葉は、予想通りのもの。再び僅かに消沈。こんな地域に本物のスシ屋があるだけまだマシで、救われていることなのだと己を納得させようとした時、イタマエが更に口を開く。 「1週間、時間をいただけますか」 イタマエの言葉に片眉を上げる。一体どういう意味か?問いかける前に言葉が続く。「スシを、作ります」 「クラゲのスシを。材料から、取って参ります」 男は呆気に取られた顔をした。それから、微笑んだ。 「いやいや、そこまでしてもらわずとも……」 まさかここまで言うとは。しかし、そこまでしてもらう理由も必要もない。そう思って口にしてから気がつく。 イタマエの目は本気だ。絶対に達成するという目。獲物を撃ち抜かんとする決断的な目。 「……チャンスを、いただけますか?」 言葉が繰り返される。有無を言わせぬアトモスフィア。しかし男は元より逆らう気はなかった。彼はイタマエとしての名誉をかけて仕事に臨んでいると、理解するのは容易いことだったからだ。 何故そこまで、という言葉が男の口から出かかってやめた。先の二の舞になることは容易にわかる。ただ一夜、それもふらりと訪れただけの男を前にして、なんとも… プロフェッショナルとは、こういうものなのだろうか。確かなソンケイと期待の念が男の中に燃える。ならば、応える言葉は一つだ。 「……ええ。それなら是非。ハゲミナサイヨ」 「ハイヨロコンデー」 ゼンめいた時が訪れる。職人は真摯に客を喜ばせたいと願い、客は真摯に職人に向き合う。今夜あったばかりの二人は、奇妙な縁を築いていた。 果たしてそれは、誰がもたらした奇縁であったのか。 月はその目を向けず、インガオホーを口にすることはない。そして…… 「オアイソを。美味いスシでした」 「アリガトゴザイマス」 二人は別れる。1週間後の再会を約束して。 「ああそうだ。イタマエさん。最後に名前を聞いても」 「はい」イタマエは僅かに感情を見せて 「ヨルノ、といいます。お見知り置きを」 そんな名を、名乗っていた。 ────────── 1週間後、彼らは再び出会うことはなかった。 男は職場である非致死性ガス研究室で、事故に遭った。 イタマエもまた己の腕を失い、夜に消えた。 再び現れた時には、互いに己の形を忘れていた。 互いの中には、輝かしき過去と、プロフェッショナルの矜持だけが残っていた。 マンオウォー ナイトフォール 毒を持つ海月と、夜の帳を下ろす者が邂逅した夜の話。