苦しい、寒い、誰か たすけて ひとりにしないで さみしい かなしい 水泳を習った事はなかった。身体が弱くて授業を受けられなかったから いつの間にか居た水底に溺れる苦しみはこのデジタルワールドに来てからずっと忘れていたあの痛みにどこか似ていて。この暗さは病院の夜に似ていて。この孤独は… それが嫌で嫌で、重い手脚を必死に動かした 次に目が覚めた時、巨大な樹木の下にある水辺に濡れたまま横たわっていて 「え…」 高くなった視点が、長い手足が、ふくよかな身体が、水面に映る顔が、自分じゃない自分で 「あ…」 頬を伝うそれがようやく自分の涙だと気づいて、司は震えを抑え込むように自らの肩を強く抱きしめる もしもこの身体が治ったなら もしもみんなのように健康だったら もしもみんなと同じように遊べたなら もしもみんなと一緒に学校にいけたなら 「これ…わたし?」 勉強して 成長して いろんな所へ行って いろんな人と出会って 知らない物事や、多分悲しいこともまだたくさんあって それ以上に嬉しいことも、好きなことも… 「…なんで?」 これがわたし。そんな未来に居て欲しいわたし……一度も、考えたことも、望むことも許されなかった"もしも"がそこにあって でもそれを考えてしまったら、知ってしまったら…"現実"に打ちのめされた時に、きっともっと辛くなってしまうから 「うぁ…あ…」 幻覚でも、本当だとしても 知りたくなかった。見たくなかった…忍び寄る樹木の魔の手にも気付かぬほど、胸の中がズキズキと痛み狼狽する こんな姿 こんなわたしを ───届くことのない希望の未来を 「司ー!」 「ライトニングバスター!」 そんな苦しみを張り裂くように悲鳴と雷鳴が劈いた 「ヨッシャア!みんな聞こえるか、この霧出してるジュレイモンぶっ飛ばし……つ、司?」 「どうしたクロウ?」デジヴァイスの通信に目を丸くしたクロウが慌てて返事をする 「いやさっきジュレイモンに攫われた司もいるんだが……なんか司がでっかくなってんだけど!?」 「こ、これもさっきオレらが見てた幻覚ってヤツなのか…」 ライジルドモンもあわあわとこちらの姿を見てびっくりしている そんないつも通り慌ただしい姿がひどく懐かしく思えて、絞り出すように名を呼ぶ 「…ライジルドモン。クロウ、さん!」 「ぐへぇっ!?」 それが幻覚なのか現実なのか今もハッキリとはしないが、この身体はクロウにしっかりとしがみつきながら押し倒して いろんな感情がごちゃまぜになって溢れてしまい、大声をあげて泣いてしまう 「ちょ、ちょ、チョットマッテ…しかしそのナリで急に抱きつかれんのはだな……?は、ハズカシーっつーか…うおスッゲー美人」 「へっ?」 しがみついた視線からは妙に赤くなったクロウの耳たぶだけが見える。それでもクロウは頭をブンブンと振り自分の頬を引っ叩いてから一息に司の肩を抱き返し 「おかえり司!待たせたスマン!」 「おかえり!!」 相棒と共に、現実と安堵をくれたのだった 「…そうかぁ司はきっとこんな風に成長するんだな」 「クロウと同じくらいかなコレ。冒険が終わった後になるから、オレたちは見られないかなー」 一通り落ち着いて、クロウは座り込んだ司を目をぱちくりとさせながらも同じ目線にしゃがみ見つめる おそらくジュレイモンの作り出した司のこの幻覚の姿はクロウやライジルドモンの目にも見えているのだろう 「変…じゃないですか?」 「美人!!」 「かわいい!!」 「べっぴんさん!!」 「将来はモデルか女優さんかい!!」 「あわ…あわわ…」 どこまでがこちらを安堵させるための気遣いなのかは不明だが、二人(一人と一体)がかりの速攻褒めちぎりの嵐。慣れない褒め言葉にさっきまで冷たく濡れていた全身がかぁっと熱くなり、手で顔を覆い縮こまってしまう 「……この幻覚の霧は、どうやらオレたちが望むものを見せて惑わすらしい。オレもクロウもさっき見たよ」 ライジルドモンが遠い目で答える そこで何を見たのか、その寂しげな表情に司は少しだけ察した 「司は」 …少し前から司の病気の事を知っているクロウがしばらく言い淀んだ後、続ける 「…司は、こうなりたいんだよな」 「…うん」 生きたい 静かに、呟いた願いをクロウは受け止めた 「心配すんな。俺らは司の味方だし、ちゃんとお前が帰るべき場所まで送り届ける。そして…いつでもお前を応援してる。だから…そんなしょぼくれた顔してちゃもったいないぜ。な?」 「おう。オレたち司のヒーローがついてるぜ!あ、よかったらたまに連絡くれよな!」 未だ若干赤ら顔のクロウがポンと頭に手を乗せ、ライジルドモンが3本の爪を器用に動かしサムズアップしてみせる 「…うん」 「そんじゃ、戻ろうぜ…っと!」 「わっ」 濡れたパジャマの上にクロウが自身のニットベストを被せて司を背負う その彼の背は、ほんの少しだけ大人びた自分にも未だ大きかった 「今度また、海に行ったら」 「おう」 「…泳ぎ方をおしえてほしいな」 「まかせとけ」 霧が晴れてゆく 幻が消えていく その中で確かにまだある、消えてほしくない背の温もりに身を預けながら司は祈るようにおでこを寄せる 大丈夫 ひとりじゃない うれしい 神様 どうかもう少しだけ わたしに時間をください