霜桐雪奈はいわゆるピンチに陥っていた。 デジモンイレイザーの刺客であるリリスモンの居城に侵入したまではよかったが、敵の罠によりブルコモンとはぐれ、こうして身ひとつで対峙する事態となってしまったのだ。 眼前には妖艶な笑みを浮かべ、玉座からこちらを品定めするような目線を向ける七大魔王の一角がいる。 「うふふ、もう逃げられないわよお嬢さん。弄り甲斐のありそうな子だし、あたしのおもちゃにして遊んで、飽きたらデジモンカイザー様に献上してあげるわ」 (うわー、こんな典型的な悪役セリフ聞くの初めて……) 努めて冷静に振る舞い、内心でどうブルコモンと合流するか思考する。 相手は究極体、その上X抗体により更なる力を得ている。ブルコモンがいたとしても勝てるかは定かではないが、生身の人間ひとりでは分の悪い賭けすら成立しない。 せめて戦える状態まで事態を運びたかった。 さりげなく辺りを観察する。隠れるにしてもここは大広間。周りは開けており身を隠すような物陰もなく、かといって走って逃げても追いつかれるだろう。 「あのー、わたしたちたまたま迷い込んできただけで、何もしないのでできれば帰りたいんですけど……」 雪奈が選んだのは時間稼ぎだった。 こちらから動くのは不可能。ならばブルコモンがこちらを見つけてくれるのを待つしかない。 他愛のない会話によってなるべく時間を稼ぐとともに、あわよくば敵の情報を探ろうとした。 「あら、そんなわけないじゃない。あなたたちのことはちゃあんと聞いているわよ」 ですよねーと内心で雪奈は独り言ちる。 これまでデジモンイレイザーに操られたデジモンを撃退してきたことはすでに敵に知られていた。 「……わたしをどうする気?」 あまり聞きたくないが尋ねる。こういう悪役は大抵相手に何をするか語って恐怖を煽ることが好きなはずだ。 どのような手段でも時間さえ稼げれば、あの頼れるパートナーは必ずこちらを見つけてくれる。 雪奈は震える膝に力を込めて精一杯の虚勢を張る。 「あら、聞きたいの?そうね……あなたの心のいやーなところをくすぐって、なーんにも考えられなくしてあげて、あたしの言葉だけに従うようにしちゃうわ。いいわよ。なーんにも考えなくていいの。あなたはあたしの命じるままに行動し、命じるままに戦って、命じるままに死んでいくのよ。素敵でしょ?」 リリスモンはクスクスと笑う。これから起こることを楽しむように。 背筋に寒気を覚える。 自分が操られればデジモンイレイザーの手先としてこれまで出会ってきた人たちを傷つけることになる。 それは雪奈には耐えられないことだ。 最悪な想像を働かせる雪奈の思考を遮るようにリリスモンが言葉を続けた。 「それと、あまりおしゃべりに付き合う気はないわ。時間稼ぎをしても無駄よ」 (バレてる……!) こちらの思考が読めるのか。そう考えても今の状況はあまり意味がないだろう。 今すぐにでも逃げ出したいが、足が凍ったように動けない。 発せられる威圧感とパートナーがいない孤独感が、動かそうとする意志を削いでいく。 女神が両手を広げる。頭上に備えられた冠から目を離せなくなる。 目にしたものの本能に語り掛ける美しさが、恐怖すら塗りつぶそうとしてくる。 背後から湧き出る闇が雪奈に纏わりついた。 「さあ、闇に落ちなさい!人間!」 「いやああああああ!」 意識が落ちていく。水の中に沈んでいくようだ。 もがこうとあがくが手足を動かす気力すら湧かなかった。 (ブルコモン……ごめん……) 離れ離れとなったパートナーの姿すら朧気となり、やがて何も見えなくなった。 ―――――― 霜桐雪奈は走っていた。 さわやかな朝の空気に似合わず汗を垂らしながらひたすら走っていた。 背負った鞄の中身がガチャガチャと音を立てて揺れるのにも構わず、ただひたすら走っていた。 (急げ急げ!) 視線の先にあるのは駅。そこに今まさに電車が到着しようとしていた。 片田舎の小さい駅だ。急いでICカードを出し、改札を通り抜ければすぐに乗り込める。 あとは目測30m先の横断歩道を渡れば間に合う計算だ。 別に乗り遅れても遅刻するわけではないが、乗り過ごせば次の電車まで30分は待たされる。 (はぁ、はぁ……何とか間に合いそう……) しかし、もう少しというところだった。 信号が赤に変わる。 車の流れが変わり走っていた足を止めざるを得なくなる。 (えぇ、うっそー……) 逸る雪奈を意にも介さず、無常にも警笛が鳴る。ドアが閉まる音は横断歩道で待っていた雪奈の耳にまで届き、電車は駅から走り出してしまった。 (はあ……行っちゃった……) 汗だくな肩をがっくりと落とし、雪奈はため息を吐いた。 ―――――― 霜桐雪奈は行列に並んでいた。 視線の先では新作スイーツの限定販売という掲示が出ている。 このためにわざわざ早起きしたのだ。 眠い目をこすりながら前を覗き込んで人数を数える。 (いち、にぃ、さん……よし、買えそう) 後ろを振り返る。すでに後ろにはさらに長蛇の列が作られており、しかも未だに人が集まってくる姿が見えた。 「お支払いは現金のみとなりまーす。ご準備をしてお待ちくださーい」 店員が列に呼び掛けてきた。鞄から財布を取り出して小銭を準備しようとし―― (あれっ?財布どこ……?) いつも入っているはずの財布がない。 もしやどこかに落としてきたか、朝からの記憶を辿る。 (ええと起きて着替えてご飯食べて……あ) 思い出した。部屋の机の上に財布を置きっぱなしだったことを。前日におこずかいが足りているか数えたのが仇となったのだ。 「あの、すみません!」 店員を呼び止める。 「あの、お金忘れてきちゃって……取り置きってできますか?」 「申し訳ありません。お取り置きは承っておりません」 「ですよね……すみません……」 店員の絶望的一言。 このまま並んでいても仕方がないと、とぼとぼと列を離れる。行列はさらに伸びていた。これでは取りに帰ったところで売り切れているだろう。 がっくりと肩を落とし、雪奈はため息を吐いた。 ―――――― 「えぇ……」 リリスモンは困惑していた。 他にもテストの二択を全て外す、欲しいグッズの予約ができなかった、車に泥水を跳ねられたなどなど。記憶を覗いても見えてくるのはこんなものばかりだ。 「あなたさぁ……もっとこう、ないのか?心の闇」 「……何が?」 いつの間にか闇が晴れ、雪奈の意識が戻っていた。 あまりに抱えている悩みが期待外れで思わず覗き見るのをやめてしまっていたのだ。 構わずリリスモンが問いかけを続ける。 「もっとこう……家族や友人を失ったとか、現実と自分の在り方とのギャップとか、そういうマシな悩みはないのか?」 「はあ!?これでも真剣に悩んでるんですけど!」 先ほどまでの嘲るような笑みが消え、呆れと困惑の表情を向けられたことに雪奈は先ほどまでの恐怖を忘れた。 自分の不幸を取るに足らないものと見なされたことに怒りすら覚える。 「だいたいマシな悩みって何よ!悩みにマシもナニモンもあるの!?」 「いや、その……」 雪奈が詰め寄る。リリスモンが引く。デジモンの到達点の一つたる究極体がただの人間に気圧される、デジタルワールドでもなかなか見ることのできない光景が繰り広げられた。 「わたしにだってねえ!たまにはいいことの一つくらいあってもいいじゃない!そりゃ他の子に比べりゃ取るに足らないものかもしれないけどさあ!!」 「だって本当にしょうもないし…」 その一言に堪忍袋の緒が切れた。 「ふざけんなああああああああああ!!!!」 その瞬間である。大広間の扉が吹き飛び、飛び込んできた氷塊がリリスモンに襲い掛かった。 顔に直撃するまるで氷塊の感触よりも、来訪者の姿にリリスモンは顔をしかめる。 「無事か雪奈!」 そこには竜の身体に氷の鎧をまとったデジモン。雪奈のパートナーであるブルコモンの姿があった。 「雪奈の声が聞こえてきたぞ。おかげでどこにいるか分かった」 ブルコモンが雪奈の姿を見やる。恐怖でなわなわと震えているかと思われたが、その姿はブルコモンの想像していたものと違っていた。 ふー、ふー、と肩で息をしていたのを整え、こぶしは力強く握られている。 「どうした雪奈?」 「ブルコモン、あいつぶっ飛ばす!」 「……なんだかよくわからんが、いいだろう!」 困惑するのをよそに、手にしたデジヴァイスが光り輝く。あふれだす光がリリスモンの視界を光の奔流で塗りつぶしていく。 光はブルコモンの身体を包み、更なる力を与えた。 「ブルコモンワープ進化!!ヘクセブラウモン!!!」 小さな氷の竜は、包まれた光の中で己の力を解き放つ。そこには氷の鎧を纏った騎士の姿があった。 【ヘクセブラウモン】 氷の魔術をマスターしたものだけが進化できるとされる魔法騎士デジモン。 必殺技は近づくものを一瞬で氷像に変える『サモンフロスト』と絶対零度の波動ですべてを砕く『アブソリュートブラスト』 「やっちゃえ!ヘクセブラウモン!!」 「応!!」 主の呼びかけに騎士が応える。目前の邪悪を完膚なきまでに仕留めんと剣を構えた。 「小癪な!行け、サンドヤンマモン!」   リリスモンの号令にどこからか無数のサンドヤンマモンが現れる。 広い大広間の天井を埋め尽くすほどの数が耳を覆いたくなるほどの羽音を発し、一斉に襲い掛かる。 しかしヘクセブラウモンは一瞥するだけで身じろぎもせず、手にした氷の剣を杖のように振るった。 『サモンフロスト!!』 接近するサンドヤンマモンが次々と凍り付く。 騒音を奏でる羽は強制的に停止させられ、浮力をなくしたそれは次々と地面に落下していく。 うるさかった羽音が静まってみれば、そこには地面に並べられた大量の氷塊のみがあった。 「おのれ!ならばこやつらはどうだ!」 リリスモンの背後から三叉の槍を持つ悪魔のようなデジモン、フェレスモンが三体襲い掛かる。 一斉に繰り出される突きは並みのデジモンなら一たまりもないが、ヘクセブラウモンは歯牙にもかけず氷剣を振るうと、極寒の冷気がフェレスモンを吹き飛ばす。 「ギガッ!?」 弾き飛ばされたフェレスモンの視線の先には、氷剣を掲げたヘクセブラウモンがいた。 その頭上は氷でできた剣が無数に、それこそ天井を埋め尽くさんばかりに控え、その切っ先は今にも獲物を捕えんと須らくこちらに向けられている。 『ヘクトエッジブリザード!!』 手にした剣を振り下ろす。 堰を切ったように氷剣が一斉に降り注ぐ。 一本ですら身体を切り裂く刃が雲霞のごとく殺到し、フェレスモンは抵抗することもできず跡形もなく消え去った。 「くっ、貴様ぁ……!!」 リリスモンが歯噛みする。差し向けた手下はこの目の前の騎士に触れることすらできず、リリスモンの好みで揃えられた調度品の並ぶ大広間は、彼の放つ冷気で極寒の世界へと塗りつぶされていた。 これまで自分の思い通りにならないことなどなかったリリスモンにとっては目の前の騎士の存在は信じられないものだった。。 騎士は剣を構える。 「感じるぞ雪奈の怒りを。弱きものを虐げ心を操る貴様の所業、決して許してはおけぬと!」 「いや、あやつが怒っているのはそういうことでは……」 「問答無用!」 発したのは雪奈であった。その声を合図に氷の騎士は斬りかかる。 憤りの勢いを削がれたが、接近してくるのならと両手を広げ、色欲の冠を輝かせる。 「ええい!闇に落ちよ!『セブンス・ファシネイト』!」 「させん!」 斬りつけた氷剣が頭上の冠を凍らせる。しかしリリスモンは怯むことなく右手の魔爪を振るおうとし―― 「ナザルネイ―ー何!?」 その爪が振り下ろされることはなかった。すでにヘクセブラウモンの冷気は右手を空間ごと凍り付かせ、わずかばかりも動かすことがかなわない。 「ならば!ファントムぺむぐっ!!!」 呪いの吐息を吹きかけようと息を吸い込むがそれも冷気によって美しい唇が氷に閉ざされる。 「むむむむがが!(貴様よくも!)」 右腕も口も動かすことは最早かなわない。引きはがそうにもすでに皮膚に張り付き、磨き上げた美しい顔を損ねるだろう。それは美を求め続けたリリスモンには何より耐えられないことだった。 ここは退却を。そう判断したリリスモンだったが、極寒の世界は身体の自由を奪い、自身をこの空間から逃れることを許さない。 「やっちゃえ!ヘクセブラウモン!」 「こいつでトドメだ!『アブソリュートブラスト』!!!!」 氷の騎士が放つ絶対零度の波動が女神を凍らせる。男を魅了する脚が、女性が羨む胸が、生物すべてが見惚れる顔が、すべて氷に埋め尽くされる。 (いや!お助けを!!デジモンイレイザーさまああああああ!!!!) 主を求める助けの声は発せられることすらなく、美しく邪悪な女神は氷となって砕け散った。 ―――――― 「――ってことがあったのよ」 話終わった雪奈の顔を良子と颯乃は複雑そうな顔で見つめていた。 三人は世にも珍しい薬湯を放出するシードラモンのもとで入浴を楽しんでいた。 良子の連れたアグモンの知り合いらしいこのシードラモンの話に雪奈が久々に温泉に入れると提案し、せっかくならと裸の女子会と相成ったのである。 各々これまでのことを姦しく話し込んでいたが、なぜか話が進むにつれ雪奈のネガティブが掘り起こされると、こうしてお悩み相談みたいなものになってしまっていた。 「まーあれだね、悩みなんて人それぞれってことでいいじゃん!」 良子の明るい声が響く。この前向きさにはいつも助けられると颯乃は思った。 「でもしょぼいって……それに初めて究極体になったのがあんなんだし……良子ちゃんみたいにかっこよく決めたかった……」 ブクブクと口元まで湯につかる。 「雪奈、そう落ち込まないで。良子のあれはマネしないでいいの。むしろしないで」 「え〜?」 「良子はもっと自分を大事にして!」 おちゃらける良子を颯乃が咎めた。 うーといじける雪奈に二人が寄り添う。 「雪奈はいまでもかっこいいから。今までだって何度も助けてくれたでしょ?」 「そうそう!雪奈も颯乃もアグモンも、あとあの三馬鹿もいなかったらあたし何回死んだか分んないし!」 「いや良子はもっと反省して」 再び咎める颯乃と口をとがらせる良子。 ブクブクと弾ける泡を見つめる雪奈。 「わたし良子ちゃんみたいに勇敢じゃないし、颯乃ちゃんみたいに強いわけでもないよ?それでもいいの?」 良子は弾ける笑顔で応えた。 「いーの!無理に誰かにならなくても雪奈は雪奈だし!」 「良子が二人になると止めるこっちも大変だしね。雪奈はそのままでいいの」 「なにおーう!」 笑いあう二人の顔を見つめる雪奈。 これまで幸運とはとんと縁のない自分だった。 しかしデジタルワールドで出会った様々なテイマーたち、デジモンたち。この出会いまで不運だとは思いたくなかった。 こんな自分にも寄り添う仲間がいる。これは生まれて初めて感じられた『幸運』かもしれない。 なるほど、こうして考えると自分の悩みは確かにしょぼいし、ならばそれを気にしてもしょうがないのかもしれないと雪奈は思った。 「……ありがと。二人とも大好き」 「――雪奈〜!」 「うわ!お湯こぼれる!」 抱きついてくる良子と抑えきれない颯乃。そんな二人を見て笑う雪奈。 そんな女子三人の声と、覗こうとしてブルコモンに折檻された男三人の悲鳴が夜空に響いていた。