手が届かぬからこそ――きっと、あれは尊いものなのであった。 子供の身丈では、足首を立て、腰を伸ばし、背の筋繊維の一本までをも引いて、首ごと唇を突いても、なお。 不要なものだと目を逸らすだけの強情さはなく。 されど、直視できぬほどにそれは眩しく。 彼にとって、私はまだ何者でもなかった。 家族付き合いのある姉妹のうちの、年の離れた末妹という無意味な立場の他には。 わざわざ口の中で言い訳を捏ねるまでもなく、これは私の初恋である。 その想いに背を向けるだけの勇気は、とても。 ――だが、どうしてそれを言葉にできるだろう。 彼の笑顔は、まだ未成熟な私の中の女の感情を、息ができないほどにじりじりと灼く焼く。 口の中が渇く。唾液と共に、一晩かけて考えたはずの挨拶の文句が揮発していく。 融けてしまいそうな熱が全身の血管を駆け巡り、嫌な汗がぶわぁと肌のあちこちから垂れてくる。 嫌われたくない――そんな気持ちだけが、ようやく、のたうつような耳障りな音の塊を喉から絞り出す。 そして、私の内心の苦悩などなんにも知らないようにからりと、こんにちは、とだけ太陽は言うのだ。 汗ばんだ髪の上を、事も無げに優しく撫でながら。 だが私の心が真に熱く煮えたぎるのは、彼の笑顔が私のすぐ上の次姉と――長姉に向くのを、見るときだ。 あぁ、あんなに照れた顔をして。あんなに媚びた顔をして。 真っ赤に染まった二人の顔は、私を地獄に突き落とす獄卒か何かのようにも見えた。 姉たちが、彼の婚約相手の椅子を取り合っているのは両家の公然の秘密で―― 八つも下の私は、その俎上に初めからないのは、わざわざ繰り返す必要もないこと。 自分の得られないものを、先に産まれたというだけの片割れが―― 彼の言葉と、やがて与えられる全てを独占しようとしているのが、たまらなく憎かった。 そしてきっと――末妹が殺すような目で自分たちを見ているのに、気付かぬ姉でもあるまい。 一日一日と、ただ時間は過ぎていく。私と彼の間の三千日は、決して埋まることなくそこにある。 私が大人になった頃には、あの二人のどちらかに似たような甥と姪とが、私を叔母と呼ぶのだろう。 私が大人になった頃には、選ばれなかった方の姉が、自分を棚に上げて私に恋を探せと言うだろう。 私が大人になった頃には――すっかり所帯じみた彼が、今の私を記憶の中に封じ込めてしまうだろう。 それだけは、許せなかった。 吹雪の中に、帰り時を失った彼の車がずぶずぶと沈んでいく。 屋根まで届く雪が、私達四人とそれ以外とを冷たい隔壁で完全に分かつ。 ふっ、と誰とも知れない吐息が、たった一本の蝋燭を吹き消して。 客間には、ただ若い彼の寝息だけがあった。 もし、ここで――それは、どれだけ幼稚で身勝手な理屈だろう。 さすがの姉二人も、この機に乗じるような恥知らずではなかったと見える。 既成事実で彼の心を縛り上げ、一生恨まれたまま愛されることに耐えられなかったのかもしれない。 姉妹への敗北感を抱えたまま、偽りの幸福と勝利に酔えるほど愚かではなかったのかもしれない。 睦言の最中に、自分ではない誰かの名を聞くのが、恐ろしかったのかもしれない。 それでも、私に取れる手段はそれしかなかった。 強く求められれば、決して相手を無碍にはしない彼の優しさに付け込むしかなかった。 たとえ彼以外の万人に嫌われようと―― やり方は知っている。服を脱ぎ、彼を脱がせ、入れるべきところに入れるものを誘うだけ。 たったそれだけのこと――が、一つ一つ手順を踏むたびに、心臓が焼け、冷える。 興奮と、隠しきれない恋慕と、狂喜とに全身の血が滾り。 後悔と、姉たちへの罪悪感と、不安とに全身の血が凍り。 息が浅くなる。視界が歪む。夢と現実の境界が頼りなく、体重によってぐにゃぐにゃに溶ける。 暗闇の中、確かに感じる彼の視線は、日中のそれよりずっと熱く肌を焼いて。 ごめんなさい――自然と私の口と涙腺は、彼への謝罪を垂れた。 後は、先端を合わせ、体重で一気に押し込めば――たったそれだけのことができない。 恐れや悩みよりずっと前のところの――物理的、生理的な身体構造のせいで。 私の体は、まだ彼のそれを受け入れるだけの柔軟性と完成度を持たず、 つまりそれは、私が彼の伴侶として相応しくないということを、何よりも雄弁に語っている。 固めたはずの決意が、肉のほんのちょっと割けるだけの痛みに負けて、ぐらぐらと揺れて。 悔しさと無念さが、まるっきり子供の駄々として、呻き声を私に漏らさせる。 襖から差す光の途切れた部分、二人分の瞳は私の不様さを笑うかのよう。 これが抜け駆けをし損ねた者の末路であるなら。 この夜が明けて、彼との間にどうしようもない溝だけを残してしまうなら。 吹き消した蝋燭の灯とともに、塵も残さず失せてしまいたい。 若気の至りと、いつかの彼が私の蛮勇を笑ってしまうのなら―― 慰めてくれる彼の手が、何枚もの分厚い手袋に阻まれたように、遠く感じられた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ああ──虎か狼だ。初潮も済むか済まずの童女のことを、そう思った。 同時に、人はそれだけの膂力をその身の丈に隠すこともできるのだ、と。 酒が入っていたから──寝入って惚けた時であったから──それは理由になりはすまい。 事実として成人男性一人が、おおよそ半分の年の少女に、組伏せられている。 灯りを落とした部屋の中、天井を隠すように垂れる影に隠れて。 彼女の表情は、私には量り知れるものではない。 そして、一面の黒の中に、幼げな赤白い肌の覗くのが、却って痛ましくすらある。 無謀な夜這いに、少女が追い詰められるまでの心中は、室内に籠る闇よりよほど深く、冥く。 頬に垂れた熱い何滴かは、獣の涎か──乙女の涙か。 それを反芻する前に、私の唇は弾力のある薄い唇に、塞がれていた。 切っ掛けは──と、いうほどの確信あってのものではない、が。 付き合いのある田舎の旧家の、嫁入り前の娘が三人いるところで、 同じく独り身である自分がぽろりと、この中の誰ぞを娶って──そんな話をしただけだ。 彼女らの親御からは、笑い混じりに──今のうちに唾を付けておきますか、などと言われたこともある。 私の方も、彼女らを憎からず思っていたことは確かだった。その美貌や気立てに惹かれただけでなく。 順当にいけば、年もそう違わない長女か次女を貰うのが筋である、と理屈ではわかる。 どちらもよくできた娘で、それは妻として、母としての資質の表れであると見倣すに充分だ。 酒席の冗談にしては二人の反応もそう悪いものではない、そんな感触もあった。 ──では、三女の方はどうか、ということだ。 年が離れているというのは、当人の預り知らない都合であり、逆らうこともできぬもの。 兄様、兄様と実の兄妹のように懐くその姿は、義兄になる人への親愛の表れであり、 姉様達はずるい──彼女の言葉は、あくまで子供の駄々に過ぎない、のだと。 彼女では無理だ、と大人達は声を揃えて残酷に笑う。 彼女の小さな胸中に、姉二人と同じだけの煮えた泥があるとは、他の誰も気付いてはいなかった。 もしくは、はるか年下だから、と、その瞳を真向かいから見返さなかった私の落ち度かも、しれない。 獲物の抵抗が、ぐっと緩んだその隙に、獣は寝巻きに指を挿し、帯を解き、己の裸体も晒け出す。 本能的な雌の疼きか、思い切りのせいか、暗闇に隠れたはずの双眸は、ただ紅く。 首筋に粘るような、湿った吐息が掛かる。ちょうど肉食獣が、喉笛を裂くが如く。 不意にその動きは、ひんやり冷めた春の夜の空気の中に、凍り付いたように止まってしまう。 生殺与奪を握りながら、その瀬戸際で獲物を弄ぶ猫ではなく、正気に帰った人間の、後悔の様があった。 あれは、本当で、信じていいのですか──震えた声。嘘なら、嫌われたら──隠れもしない感情が。 許されるなら、君と結婚したかったのに──先程の言葉を、口の中で反射させながら、少女は問うた。 酔人の戯言一つを頼りに、不安の海の中に漕ぎ出し、数多の壁を越えようとするその小さな背中に。 そっと私は指を這わす。君の方こそ、身を捧げる覚悟はあるか?と。 獣は、じっとりとそこに乳臭い汗をかいていた。