「右主機冷却水ポンプよし」 「右主機潤滑油ポンプよし」 「右主機圧力・回転数よし」 「左主機冷却水ポンプよし」 「左主機潤滑油ポンプよし」 「左主機圧力・回転数よし」 「ゲート・タリエシン開放完了」 「右舷・左舷キャプスタン準備よし」  次々に入ってくる通信を頭の中で整理し、組み立てながら、何度も深呼吸をする。パズルのピースを埋めるように、すべての準備は整った。  この言葉をこんなに満ち足りた、誇らしい気持ちで口にする日が来るとは思わなかった。何もかも彼のおかげだ。この恩を返すには、自分のすべてを彼に捧げても足りないだろう。  だけどそれでも、これだけは、この台詞だけは自分のものだ。自分が言うべき一言だ。  目を上げれば、ブリッジの全員がこちらを見ている。マーリンは大きく息を吸って手にした指揮棒を振り上げ、そして真正面へ振り下ろした。 「プリドゥエン、抜錨!」  トロールスバードの長大な刃で,モリアーティの腕を切り落とすのはちょっとした一仕事だった.上腕にびっしり生えた金色の結晶が,コンクリートの床にぶつかって硬い音をたてる。  ブラックリリスがすばやく駆け寄り、腕を拾い上げて耐圧ケースに収める。ラビアタは刃についた赤紫色の体液をていねいに拭って、もはや動くこともないモリアーティの死骸を眺めた。ぐんにゃりと力なく横たわり,腕の切り口から体液を垂れ流すそれは、中身を失った大きな袋のように見えた。 「これで、ドクターに頼まれたお土産もできたわね」 「発電所の暴走も始まったようです」ブラインドプリンセスが耳に手をかざして首をかしげた。ラビアタにはまだ、崩落しかかった天井の軋みのほかは何も聞こえないが、彼女が言うならそうなのだろう。 「急ぎましょう、お姉様。もう、いつどこが崩れてきてもおかしくありません」 「そうね」ラビアタは立ち上がり、大剣を担ぎなおした。「早くプリドゥエンに追いつかないと。向こうはきっと、こちらのフォローをしてくれる余裕なんてないでしょうからね」  コンクリートの破片がぱらぱらと落ちてくる。かつてはキャメロットの兵器庫であり、今はモリアーティの墓場となった広大な地下空洞を、まっすぐ横切って三人は駆け出した。 「速度3ノットから5ノットへ増速、ちょい当て舵から五秒で取り舵!」 「よーそろー……チョイアテカジというのは、これくらいでよいのか?」 〈左舷警報出てます! 寄りすぎ! 岸に寄りすぎです!〉 「ちょっとこすったくらいなら平気だから! やばそうになったらバルーン膨らませて!」 〈やばそうってどのくらいですかあ!?〉 〈冷却水温度なんですけど、青から黄緑までのあいだなら問題ないんですよねこれ」 〈気象観測システムからアラートが来てるんだけど、気圧とスクリューの回転数って何の関係があるわけ?〉 「だああああ!!」  プリドゥエンのブリッジは戦場であった。  モリアーティ(一匹目の)を撃破し、イギリスのレジスタンス救出が完了した後も、オルカの部隊はキャメロットにとどまり防衛を続けていた。それはひとえにこの船、プリドゥエンのためである。欧州攻略作戦を目前に控えたオルカにとって、この大型工廠艦に搭載された七十八機のストロングホールドと、艦そのものの生産能力は間違いなく強力な切り札になる。プリドゥエンを起動させ、オルカの編成に組み込むことは急務であった。  作業を始めてすぐにわかったことだが、船体やハードウェアのダメージは意外なほどに少なかった。さすがポセイドンとブラックリバーの技術の粋を集めただけあって、堅牢さの品質が高い。ストロングホールド軍団についても完全に仕上がった状態で保存され、生体回路への置換さえ済めばすぐにでも実戦投入可能な状態とわかった。  最大の問題は管制システムだった。本来中枢となるべきマーリンの脳は取り外され、ここにこうして可愛いマーリンちゃんとして復活してしまった。つまり、現在プリドゥエンの頭は空っぽである。いかにドクターとスカディーが天才でも、これほどの大型艦を管理するAIをゼロから組み上げるのは短期間ではちょっと無理だ。何度かの試行錯誤のすえ、ドクターは代案を提示した。 「たしか、この船を手動で動かそうと思ったら、マーリンお姉ちゃんが何百人も必要だって言ったよね。でも、それって船の全機能をフルに使う場合の話だよね? 航行だけなら……中継基地のあるシェットランド諸島まで行ければいいだけだったら、どうかな?」 「ええ……うーん」マーリンは考え込んだ。「一応、それぞれの補助システムは生きてるわけだし……それでもねえ、SS級クラスのバイオロイドが少なくとも二十人はいないと」 (……とか言ったら、本当に揃っちゃうんだもんなー)  どうにか一渡りの指示を出し終えて、マーリンは制帽の乱れをなおし、あらためてブリッジを見渡した。操舵士席にサイクロプスプリンセス。航海士席にフリッガ。通信士席に慈悲深きリアン。観測士席にオベロニア・レア。ほかにも艦内各部署の配置表を見れば、旧時代なら世界的に有名だったパリパリの最高級モデルたちが、当たり前のようにずらりと名を連ねている。しかもこれはオルカの全戦力どころか、主力ですらない。ブラックリバーの軍事バイオロイドを中心とした主力戦闘部隊は現在ヨーロッパ本土で作戦展開中であり、アーサーはいわば留守番メンバーだけでイギリスへ乗り込んできたのだ。 「そりゃ反則でしょ……」 「ん? なんか言った艦長?」 「なんでもなーい」  そもそもオルカの部隊構成について、大きな誤算があったことをマーリンは認めないわけにいかなかった。キャメロットでの戦いから、オルカは三安のメイドを中心とした混成部隊であり本格的な軍事バイオロイドはいない、とマーリンは踏んでいたのだ。そうであれば、生粋の戦争用バイオロイドであるこの自分が当然、参謀としてオルカの軍事面を一手に引き受けることになる。そしてアーサーの隣に座り、ぞんぶんに王佐の才をふるうのだ。そういう未来図だったのだが。 (それが何? ブラックリバーの八兵科と指揮官級がほとんど勢揃い、おまけにラビアタ・プロトタイプにレモネードアルファに無敵の龍ってふざけんなー! こんなのバイオロイドオールスター総進撃じゃん! 私ちゃんの出る幕ないじゃんかー!) (捕らぬ狸のなんとやらですね。ぷーくすくす) (うっさい痛風になれ)脳内ブラインドプリンセスの突っ込みに毒づいて、マーリンは目の前の海に意識をもどす。  即席クルー達はみなSS級とはいえ、一夜漬けで操船技術を叩き込んだだけの素人だ。ともかく、何が何でもドーバー海峡を抜ける。それまでは一秒も気が抜けない。 「通信席! オルカは10キロ以上先行してるんだよね? 距離を保って絶対に近づかないよう、もう一度念を押しといて! こっちは避航もろくにできないんだから、頼むよホント!」  背後で、大きな破片が落ちて砕ける音がした。さして広くもないトンネルの壁全体がびりびりと震え、ひっきりなしに埃や細かい土が落ちてくる。今はもうラビアタにも、爆発が近いことが肌で感じられた。 「ブラインドプリンセスさん、大丈夫ですか。私が……」  背負いましょうか、と言いかけて、ラビアタは続きを飲み込んだ。両目を黒布で覆ったブラインドプリンセスは、ラビアタとリリスに少しも遅れることなく、悠々と併走していたからだ。 「ありがとうございます。でもご心配なく」足元の段差をひらりと飛び越えて、ブラインドプリンセスは微笑んだ。「私、耳がいいので。こういう暗くて音のよく響くところなら、私の方がお二人より速いかもしれませんよ」  天井から落ちてきた石塊を、聖女は速度をゆるめずワンステップで避ける。ラビアタはもう彼女を心配するのをやめた。 「うふふ」先頭を走るブラックリリスが、ふいに笑う。 「どうしたの?」 「なんだか昔を思い出してしまいました。ご主人様も、マリーさん達もいなかった、ずっと昔のことを」リリスは言いながら、前方をふさぐ朽ちた木材を拳銃で吹き飛ばした。 「あの頃は私もお姉様も、毎日のように前線に出ていました」 「そうね……確かに、あなたと組んで戦うなんて、あの頃以来かしらね」  まだレジスタンスが百人あまりのちっぽけな集団だったころの話だ。人手も物資も何もかもが足りず、リーダーであるラビアタを含め全員が最前線で戦わねばならなかった。リリスは最も頼りになる妹の一人で、何度となく共に死地をくぐり抜けたものだ。  あの頃の灼けつくような焦燥感と使命感、それに駆り立てられた炎のような日々を、ほんの一瞬だけラビアタは懐かしく思い返した。  突き当たりをふさぐ薄いモルタルの壁を蹴りやぶると、そこは広大な地下ドックだった。海風が吹き込んでくる。ゲートは開け放たれ、もちろんプリドゥエンはとっくに出航してしまった。だが、脱出用に高速艇を残していったはずだ。ラビアタはすばやくドック内を見渡した。 「お姉様」  埠頭の先へ向かったリリスが、硬い表情で手招きした。その足元を見て、ラビアタは理解した。  ボートはそこにあった。水底に。  梁の一部が崩落し、ボートを巻き込んで押し潰したのだ。 「なあ、思ったよりスピードが出ておらんかこれ?」 「潮流のせいだね。機関部! 回転ちょっと落として、速すぎる!」 〈やってみるけど、これ両舷同時にやらないとダメ?〉 「当たり前でしょ、片方だけ回転下げたら曲がっちゃうよ。ネオディム、左舷に合わせてあげて」 〈わかった。三、二、一、せーのでいくよ〉 「まったく……」 〈あの、出航前と比べると喫水線がじりじり下がってるんですけど、これ水漏れとかしてないですよね!?〉 「いーんだよ、船ってのは走り出すとちょっぴり沈むもんなの!」 「マーリンさん、気象データの照合終わりました。あ、操舵席の方でも確認お願いしますね。要注意海域をマークしておきましたので」 「うむ、どれどれ……ちょっと待て、要迂回エリアが多すぎるわ! どこも通れんではないか!」 「でも万一のことを考えると……」 「5キロ先を見て操舵しろと昨日習ったであろうが。5キロ以内のやつだけ表示してくれ。艦長、この先の海底にトンネル状構造物があるようだが、無視してよいのだな」 「ああ、それは大丈夫」海図をチェックして、マーリンは航海士席へ目を向けた。「……サイプリちゃんって、滅茶苦茶ちゃんとしてるよねえ。あのブリスの生まれ変わりなのに」 「設定上の話だ。あれと一緒にするでない」サイクロプスプリンセスは前を向いたまま、なんとも苦々しげな声で答えた。 「半端な知識で乗り物を動かすと大変なことになると、キャメロットで学んだからな。慢心だけはせぬようにしておるのだ」 「あー……まあ、あんなヤバくはないから、そう気負わなくていいよ」マーリンも思い出し苦笑いをする。「いざって時のためにタグボートも用意してあるし」 〈そのタグボートってのは、もしかして俺っちのことかい〉  ブリッジに音声が響くと同時に、正面窓の外、前甲板に寝そべっていたペレグリヌスがむっくりと身を起こした。〈さすがの俺っちもこんなバカでかい船を引っ張ったこたァないぜ。あまり期待はしないでくれよ〉 「まーまーそう言わずに、君ならできるさ。よっ、ハーピーの王!」 〈ちぇっ、調子いいことを〉甲板上のペレグリヌスは鋼鉄の肩を器用にすくめて空を見上げた。〈姐御、はやく戻ってこねえかなあ〉  ぱらぱらと石塊が降ってきた。ドックの天井を震わせているのが暴走した発電所なのか、押し寄せる鉄虫の軍勢なのか、もはやわからない。  海に面したこのドック以外、キャメロットのあらゆる場所は鉄虫で埋め尽くされつつある。脱出路はここしかない。他に使える移動手段がないか、一瞬だけ構内を見渡してから、ラビアタは決断した。 「泳ぎましょう」  トロールスバードの刀身とトランクを切り離し、トランクの方だけを背中に背負う。小型核融合炉を爆発に巻き込むのは危険すぎる。0.3トンある剣は諦めるしかない。 「リリスはケースをお願い。ブラインドプリンセスさん、泳げますか?」 「泳いだことはあまりないのですが……」言いながらもブラインドプリンセスは急いでドレスの裾をからげ、白く長い脚をむき出しにする。  作戦では、モリアーティ討伐班の脱出を確認してからキャメロットを爆破することになっている。ご主人様の性格上、こちらの無事が確認できるまでは決して起爆スイッチを押さないだろう。 「私たちのせいで、作戦に支障を来すわけにはいきません。いざとなれば海底を歩いてでも……」 「この寒空に海底探検などする必要はないぞ、同胞よ」  突如、冷たい風が吹き込んできた。開け放たれたゲートの向こうから、氷のような蒼と白の巨大な竜が姿を現し、ドックの天井をかすめて埠頭に着陸する。 「グラシアスさん!?」 「万一の事態にそなえて、迎えにいってほしいと盟友に頼まれた。どうやら、来て正解だったようだな」 「……!」ラビアタは一瞬だけ、目を閉じて感動にひたってから、捨てた剣を拾い上げグラシアスの背中に飛び乗った。リリスとブラインドプリンセスもすぐさま後につづく。 「ゆくぞ、忘れ物はないな?」  氷の翼をひと打ち、大きく羽ばたくと、竜は悠然と舞い上がり、ゲートをくぐって外へすべり出た。  たちまち、真冬の海風が横なぐりに吹きつけてくる。グラシアスの外装は常にひんやりと冷たく、しがみつくには少々つらいが、贅沢は言っていられない。 「盟友よ、グラシアスだ。三人を拾っていまキャメロットを離れた。……ああ、全員大きな怪我はない。爆破をはじめて大丈夫だ」  ご主人様の返事は聞き取れないが、グラシアスの様子から喜んでいるのは察せられる。大きな頭が、ちらりとこちらを見た。 「挨拶が遅くなったが……久方ぶりだな、光の聖女よ。過去世の存在であるそなたと現世でこうして再びまみえるとは、運命とは本当に愉快なものだ」 「あなたの声と冷気が懐かしいです、氷河の女王」  ブラインドプリンセスはスカートを腰に巻きつけたままの恰好で、風に暴れる髪をおさえながら微笑んだ。「この七十年、あなたがいてくれたらいいのにと何度思ったかしれません」 「それはお互い様さ」 「お二人は、面識があるのですか?」モリアーティの腕が入った耐圧ケースをしっかりとかかえ込み、両足でふんばったリリスが訊ねた。 「ああ。私は古竜ゆえ、転生前の聖女とも、転生後の姫とも共に戦ったことがある……そういう設定でな。いくども共演したものだ」 「有名なポスターがあったんですよ。ご覧になったことありませんか? 私がグラシアスの頭に乗って、こう剣をかまえて」ブラインドプリンセスがポーズをとってみせる。 「あれ、お気に入りだから一枚だけ手元にとってあったのですけどね。二十年くらい前になくしてしまいました」 「箱舟に行けば、データが残っているかもしれん」グラシアスが慰めるように言った。「オルカはよい所だ。戦い以外にも、いろいろなことができる」 「落ち着いたらでいいので、いちどゆっくりお話を聞かせてください」ラビアタも言った。「私も、かつてはこの抵抗軍のリーダーでした。お酒を飲みながら、愚痴でもこぼし合いませんか」 「いいですね!」ブラインドプリンセスの頬がぱっと輝く。「オルカには素敵なバーがあると聞きました。私、まだ行ったことがなかったのです」 「ラビアタ殿、忠告しておくが」グラシアスがおかしそうに口を挟んだ。「あまりこの聖女の手綱を緩めすぎないことだ。こやつ、昔から酒とジャンクフードに目がなくてな」 「まあ、失礼な。目がないのは生まれつきです」 「……」 「……」 「……聖女よ、そういうたぐいのジョークは反応に困るからよせと」  その時、背後から赤い閃光が噴き上がり、数秒おくれて轟音と熱風とが、大波のように背後から叩きつけて、ラビアタ達をグラシアスの背へなぎ倒した。  爆風がおさまってから、三人が頭を上げて振り返ってみると、キャメロットがあった場所には巨大なオレンジ色の火の玉のようなものが、どろどろに溶けて燃えているばかりであった。 〈グラシアスさん、着艦しました。モリアーティ討伐班の皆さんも収容完了〉  マーリンは大きく深呼吸をして、胸をなで下ろした。ともかく、最も重要なミッションは無事に終わった。あとはドーバー海峡さえ抜ければ、まっすぐ北上するだけだ。シェットランド諸島に入港するのがまた一仕事だろうが、そっちはオルカの勢力圏内なのだからどうとでもなるだろう。背もたれに体を預け、ゆったりと頬杖をついたところで、艦内通信のコールが鳴った。 〈こちら船倉のドクターだよー。マーリンお姉ちゃんいる?〉 「いるわよー。どしたの?」 〈ストロングホールドの最初の一機を起動させたけど、会いにくる?〉  マーリンは上体を起こした。「うー……会ってみたい。でもちょっと今ブリッジを離れるわけには……」 「皆さん、お疲れ様」  ちょうどその時、ラビアタが階段を上がってきた。ブリッジをさっと見渡して、マーリンの方へ挨拶をする。「ただいま戻りました。よかったら、休憩してきてはどうですか? 少しの間なら代われると思いますよ」  マーリンは受話器を耳から離して、ラビアタの方を見た。「あーえーと、お疲れ様……できるの? 操艦?」 「昔、ちょっと勉強したことが」 「マジか。さすがは」  年の功、という言葉をマーリンは寸前で飲み込んだ。「……ファースト・バイオロイド」  ラビアタは静かに微笑む。ドレスがあちこち破けているほかは、怪我らしい怪我もしていない。三対一とはいえあのラスカルを仕留めてきたのにだ。マーリンは余計なことを口にせず、ありがたく厚意に甘えることにした。 「初めまして、マスター。私はストロングホールド002」  デッキから生身の肉体で見下ろすストロングホールドは、何十年も毎日カメラごしに見ていたよりはるかに力強く、威圧感があった。 「初めまして。ずっと君のことを見てきたけど、こうして会話するのは初めてだね」  いつかぶつけてやりたい言葉を山ほど考えていたはずだったのだが、今となってはどれも、大した意味はないように思えた。  ちょっとした戦車の砲塔くらいある頭部の中央に、視覚センサーを保護するゴーグルが冷たく輝いている。額には個体番号「002」が、雑なステンシルで印字されていた。これも驚きだが、なんとオルカにはすでにストロングホールドが一機いたのだ。つくづくおっかない集団だ。 「でも、私ちゃんはもう君のマスターじゃないよ。アップデートファイル読んでない?」 「いや、当然読込済みだとも」ゴーグルがいたずらっぽく点滅した。「我々の存在のために、君がどういう目に遭ったかも知っている。だから一度くらいは、この名で呼んで差し上げるべきかと思ってね」 「イギリス製の連中ってホント、性格悪いうえに気の回し方がわけわかんないよね……」  マーリンは深いため息をついてから、デッキの手すりをひらりと乗り越え、ストロングホールド002の胴体……脚?の上に降り立った。ここに立つと、ストロングホールドの頭とほぼ同じ高さで目が合う。 「ま、でもせっかくだし、二つばかり命令させてもらおうかな。もとマスターとして」 「うかがおう」  マーリンは装甲板の上を歩きながら、自分のこめかみのあたりを叩いてみせる。「君の中枢回路が生体素材に置換されて、そのおかげで鉄虫に寄生される心配がなくなったことは知ってるよね?」  002が肯定のしるしにゴーグルを瞬かせた。マーリンはくるりと体を回し、彼の背後にならぶ残り七十七機のストロングホールドを手で示す。「これから君の弟たち全員にも同じ措置をしないといけないんだけど、肝心の生体回路を作るための素材も培養装置もぜんぜん足りない。必要なブツがオスロの大学ラボにあることまではわかってる。鉄虫の勢力圏だから、こっそり殴り込んでかっぱらってこないといけない。で、私ちゃんと君でやるから、心構えしといてね。中継基地に着いたらとんぼ返りだよ」 「了解した。大いにやりがいのありそうな仕事だ」ゴウン、と002の両肩の砲塔が上下した。「二つ目は?」 「命令というか、提案かな」マーリンはタブレットを取り出すと、一つの画面を呼び出して002に見せた。箱舟生態保護区域の区画分譲抽選ページだ。 「欧州が一区切りついたらでいいんだけどさ、一緒に喫茶店やらない?」 「喫茶店?」  002のゴーグルが真っ白に光り、巨大な頭部がぴょこんと真上へ持ち上がった。そんな方向へも動くのか。 「そう、カフェ・ポセイドン。トリトンにも声かけてさ。なんかホライゾンの連中がカフェ開いてるらしくて、負けてられないんだよね」 「喫茶店……喫茶店ね。確かに、紅茶には一家言ないではないが……」002は頭部を左右に揺らす。「しかし、私はこれでもブラックリバーのAGSなのだがね。カフェ・ポセイドンというのは」 「いいじゃん、プリドゥエン生まれなんだから半分ポセイドンみたいなもんでしょ。業務提携よ、業務提携」 「ふうむ」  巨大な頭部に登り、対電磁コーティングの施された装甲表面を撫でさする。軽いモーター音とともに、青いゴーグルの向こうのレンズが、考え深げに絞りを細めるのが見えた。 「どうやらオルカというところは、ずいぶんユーモラスな場所のようだ」  マーリンは身をかがめ、ゴーグルの奥のレンズとまっすぐ目を合わせた。そして、とっておきの悪戯を披露する子供のように、にっかりと笑った。 「私ちゃんもまだ来たばかりだけどね。どうも、そうみたいだよ」 End