「コーンウォールから国外退去の身なんですよ、私」  それをあんまりにもなんでも無いことのように言うから、泉の冷水に裸足を浸していたパーシヴァルはそうなんですかとぼんやり返事しそうになった。  「………えっ、国外退去?」  「はい。マルク王からは咎を問われた身です。なので鉢合わせているとやや困ったことになりました」  糸を垂らしても一向に魚のかからない釣り竿を片手で支えながら、岸辺に座ったトリスタンはぼんやり湖面を見つめながら言った。  ケイが言うところの互いに顔を合わせたくないというトリスタンとマルク王の関係がよく分からず、実直なパーシヴァルは結局本人に直接聞いてしまったのが先日のこと。  その時は彼らしくなく妙に歯切れ悪い返事をしていたトリスタンが急に今朝「お暇でしたら少し馬に乗って出かけませんか」といつもの朗らかな調子で訪ねてきたのだった。  そうしてキャメロットの付近にある森の中、馬を繋いで泉の前で寛いでいる。  天気は快晴。程よく澄んだ泉は冷たく、小鳥の囀りが時折耳を撫で、木々の間を縫ってそよ風が吹いてくる。森の中で育ったパーシヴァルには心落ち着く環境だ。  パーシヴァルは火照った足を泉に投げ込んで涼を取り、トリスタンは釣りを始めたところ、彼はおもむろに先日の話を切り出してきたのだった。  「あの………その話は皆さんご存知のことなんですか?」  「ま、それなりに情報通であれば、といったところですかね。みだりに言いふらすことではないが隠してもいないので構いません」  「………」  なんだか妙な話の流れになってきた。何をどう切り出したらいいか分からずぱちゃぱちゃと足先で泉の中を掻き混ぜていたところ、横からくすりと漏れる笑声。  「気になりますよね、理由」  「え、いや………まあ、その、はい。気にならないかと言えば嘘になります」  国外退去は死罪よりちょっと軽いという程度の重罪だ。このブリテンにおいて何の縁もゆかりもない土地に追い出されるというのは殆ど死刑と変わらない。  これまでの全てを捨てさせられ、どこでも身一つで生きていくなどどんな人間でも簡単にできることではないのだ。  トリスタンとコーンウォールのマルク王との関係にそんなことがあったと聞かされればある程度事情を知りたくなるのが人の心というものだ。程度の差こそあれパーシヴァルにもそんな欲がちょっとくらいはある。  岸辺に両手をついて座り泉に足を突っ込んだまま隣を見るパーシヴァルの視界の中で、トリスタンは餌だけなくなった釣り針に餌をつけなおして再び湖面へ放った。  「まあざっくり言ってしまうと、王の奥方と通じていたんです」  「ふーん………え!? 不貞! やっぱり不貞ですか!? トリスタン卿ならそうかもしれないなぁなんて思ってたのがそのまんまでした!」  思わず思ったことをそのまま口にしたところで、しまったと心のなかで叫んだ。私の馬鹿! すぐ思ったことが口に出る!  トリスタンは円卓の騎士の中ではその軟派な雰囲気通り、婦女子からの人気も高い。彼に思いを寄せる女性なんて両手の指では数え切れないだろう。  彼自身も女性に対しては歯の浮くような台詞を平気で言うし、お茶を一緒に飲んだり竪琴を演奏させたりして彼女たちをときめかせている場面はパーシヴァル自身何度も見たことがある。  つまりはよくよく男女の浮き名を流す騎士なのだ、トリスタンは。婦女礼賛は騎士道の務めとはいえ、彼にはそういうきらいがあった。  王の妻に手を出すのは確かに露見すれば死罪や国外退去もやむなしのことだ。だからそんな火遊びが過ぎて彼はコーンウォールから追放されたのだと、その瞬間では思っていた。  ───その横顔を目にするまでは。  「そうですね」  トリスタンのことだ。思い切り失礼なことを言ったパーシヴァルに対しても怒ったりせず逆に冗談めかした返事が返ってくるはずだった。  それがトリスタンだ。彼が怒っているところなどパーシヴァルはついぞ見たことがない。  けれど実際に返ってきた言葉はその囁くような相槌ひとつきり。泉の底のさらにその底を見つめるような深い眼差しで湖面を静かに眺めていた。  明け方の朝靄のような、冷たく、静謐に満ちていて、薄暗く、曖昧模糊として、言いしれない悲しみ。霧の中のどこかにひっそりと隠された、宝石のような思い出。  勘の良いパーシヴァルは直感的にそれを嗅ぎ取っていた。これはたぶん、まだまだ経験の浅い私には知り得ないものだ。  簡単に茶化していいことでも、笑ったり侮ったり、ましてや気軽に踏み込んでいい話でもない。  けれど、パーシヴァルは賢くなかったけれど、けれど───その純朴たるが故に、人の心が持つ最も美しく尊いその感情が大切なものだということはよく分かっていたから。  だから何故かそれだけは聞いておかねばと思い、失言を謝る前におそるおそる、急流を渡るような慎重さで声をかけた。  「トリスタン卿。あなたは───愛していたんですか。その方のことを」  愛。便利な言葉だ。男も女も、老いも若きも、平民も騎士も、みな愛という言葉を平気で使う。  パーシヴァルにはよく分からない。それがとても掛け替えのない言葉であるというのは分かるし、実際に愛しているものもあるが、それでもまだ彼らの言うところの愛を得たことはない。  ケイはパーシヴァルによく言う。「お前にもその内分かるさ」。愛に限らず、いつもそう言う。その内がいつなのか、パーシヴァルにはよく分からない。  それでもその言葉を使いたくなったのは、今のトリスタンの表情がまるでその一端を示しているかのように感じられたからだろう。  ゆっくりとパーシヴァルの方を向いたトリスタンは、柔らかく唇を綻ばせて言った。  「はい。彼女のことを今でも愛しています。きっと………永久に」  ───その時、ふとパーシヴァルは思った。  もしかして、ひょっとしたら、この今のトリスタンこそが本物のトリスタンではないか。  誰に対しても友好的で社交的、軽薄で洒脱で柔軟、騎士たちが諍いを起こしてもあっさりと間に割って入っていつの間にか諌めてしまうような、明るく陽気なトリスタンではなく。  薄曇りの海に漂う月のような、どこか陰気で物寂しく、たくさんの人々と共にいるより心通わせた誰かと星空の下ふたりきりでいることを好むような、そんな仄暗さを想起させる今の表情こそ。  これこそが目の前にいるこの騎士の本当の姿だったんじゃないかと、そんな他の者が聞けばまさかと笑うような───そんな想像を───  ───まだ円卓の騎士に叙されていなかった頃、そんなことがあったことをパーシヴァルは目の前の光景を見つめながら思い出していた。   ずらりと居並ぶ騎士の列。神の誓いを立てるという儀式を見届けるために集まった騎士王とその円卓の騎士たち、その中のひとりにパーシヴァルも加わっていた。  見届けるのは騎士たちだけではない。集まった民たちをギャラリーにして、神へ潔白の証明をするために乙女が誓いの場へ進んでいく───ある乞食の背に乗って。  この誓いが果たされなければその乙女の首が飛ぶのだ。夫たるマルク王以外に愛を交わしたという罪のため。  乙女を良く思わないマルク王の臣下たちがマルク王へ口々に申し立て、騎士王を見届人として成立した儀であり、そして重臣たちの謀りの場であった。  生憎と誓いの場に至るまでの道は乙女の歩みでは辿り着けないほどの泥濘が存在した。乙女は集まった民衆の中にいた乞食に声をかけた。私をぬかるみの向こう岸まで渡してくださいと。  のろのろと乞食が前に進む。まるでくたびれた驢馬のよう。全身を泥塗れにしながら、背の乙女には泥水の一滴もかからないように慎重に歩んでいく。  パーシヴァルは知っていた。あの乞食がトリスタンであることを。  あのお洒落で何事も涼し気な青年が、汚らしい格好に身を包み、虫の湧いた腐った泥に身体を浸し、人相まで変えて背の乙女を無事審判の席へ送り届けるためにもがいている。  パーシヴァルは何を言っていいのか分からず、そして何も言わぬことが正しいと悟り、ただただその光景を見つめていた。  あの時、森の中でトリスタンが見せた表情を思い出しながら。  乙女───イゾルデは誓いの場でこう告げた。「夫と今泥沼を渡してくれた者の他に自分の足の間に入った者はいない」。  夫たるマルク王、そして今しがた泥の海を渡してくれた乞食以外に身体を許した者はいないと。───解なりや。