梅雨混じりの湿気が、部屋を支配する。暑い陽射しにこの蒸し暑さは酷く堪え、今にでもクーラーをつけようとリモコンに手が伸びる。けれど、我慢。 そうせねばならない理由は、今日実行する作戦にあった。私は毎回のようにトレーナーさんの腕の中に誘われるばかりで、これといった反撃をしたことがない。する必要がないと言えばそうだが、それでも勝負師に勝負せずに負けろというのは酷だった。 そこで今回用意したのは、手軽な催眠術。本当に手軽な、素直にさせるだけのもの。それでも私には、とても大きい武器だった。 ただその発動条件がやたらと難儀。暑い部屋の中でかけないとすぐに解けてしまうらしい。 なのでなんとか水分を補給しながら、うちわや制服をぱたぱたとしてやり過ごす。 そうしていると、ガチャリと聞きなれた扉の音が部屋に響く。暑そうにタオルで汗をぬぐうトレーナーさんが入ってきた。私を見るや否やクーラーをつけようとするが、適当に誤魔化す。 「クーラーつけなくていいです。まだ大丈夫なので。」 「いや、つけないとマズいだろ。汗酷いぞ。」| そういって私に近づくトレーナーさん。距離が近くなって、私の鼻腔に入る汗の匂いが素敵でクラッと来るが、踏み止まる。それから、トレーナーさんにこう提案した。 「…トレーナーさん、催眠術って知ってます?」 「催眠術?なんでまた。」 「いや~、この前本で見て面白そうだったので。一回やってみません?」 「…終わったらトレーニングだからな。」 「は~い☆」 なんとか了承をもらって、手順を一つずつ踏んでいく。そうして最後、完全にかかるように声で暗示をかけた。 途端、トレーナーさんの表情が心ここにあらずと言った具合に虚空を見つめる。目の前で手を振っても瞼が動かなかったので、かかったことを確認した。 「…じゃ、まず一つ。トレーナーさん、今の気分はどうですか?」 最初にかける言葉は、念押しの確認。かかったフリをさせられて自滅するのはまっぴらごめんだ。 「あぁ、スカイが可愛いなって思ってるよ。それと少し暑いな。」 唐突に放たれる愛の弾丸が私の胸を掠り去る。本心であることは確かなこともあって、頭が最高潮に沸騰する。だけど、まだ目的は達成していない。| 「っ…それじゃ、2つ目。トレーナーさんは今何がしたいですか?」 ここで何をしたいのかを探る。素直な気持ちを吐き出させて、それをエサにいじりまくってやる腹積もりで。 「目の前にいる愛してる人に証を刻みたい。」 私をぎっちりと見つめて、その瞳の奥にある雄の本能を私めがけてぶつけてくる。澱みなく吐き出されたそれに私の腰は抜けてしまい、近くにあったソファにぽすっと落ちる。 「…え、えーとそれじゃ…最後。トレーナーさんは、私の事どう思ってます、か…?」 本来はこれをとどめにする予定だった。けれど今じゃ、完全に形勢が逆転だ。ここでどんな理由を吐き出されても次の瞬間に私はノックアウトされてしまうだろう。それでも、出た言葉は引っ込められない。 「愛してる。この世界の誰よりも。…正直、今すぐにでも婚約を結びたい。指輪も持ってきたんだ、今日のために。」 そういって、内ポケットから一つの箱を取り出した。その中にある2つの指輪のうち、一つはトレーナーさんがつけて。そしてもう一つは、私へと差し出す。| 「…催眠なんて、可愛いことしてくれるじゃないか。思わず本音がいっぱい漏れてしまったね。」 いつの間にやら、催眠はとっくに解けてたらしい。曇りない綺麗な眼で私を見つけて、跪く。 「こんな形になるとは思わなかったけど…俺と、結婚を前提に婚約してください。セイウンスカイさん。」 それを断る理由はなかった。震える手で指輪を受け取って、つけられないのを見かねたトレーナーさんが優しく嵌めてくれる。瞬間、溢れた感情が涙として頬を伝い、それを見たトレーナーさんが抱き寄せた。汗の匂いがより一層、濃く感じられる。 「…嬉しいよ、スカイ。愛してる。」 短く吐き出されたその言葉に、私は頭を擦りながらそれを絞り出す。 「…はいっ…私、も…好き、です…っ!」 猛暑の中、蒸し暑い二人が抱き合って愛を囁き合う。頭の混濁は暑さ故か、愛故か。その理由を今出そうと、私たちはしばらく抱き合ったままでいた。| 満足するまでそうしたあと、クーラーのリモコンを操作して部屋に空気を送り込む。この分だと私の苦労が台無しになっちゃうけど、それもしょうがない。また次の策を練っちゃおう。 そう考えていると、トレーナーさんがぎらついた目で私を見た。ぴし、と体が固まってその場から動けなくなる。 「…そういや、俺も一時期そういうのにハマってたんだよ。友達にかけて遊んでみたりね。」 「は、はぁ…?」 「スカイにも試してみるか?」 そう言うと目の前で手をかざされる。どんどん明瞭とした意識がひっくり返されたおもちゃ箱みたいになって、トレーナーさんしか目に入らなくなる。 「…今夜俺の部屋に来い。」 その声が肌の裏を撫でるようにぞわりと来て、私はただ返事を返すしかなかった。 「はひっ…♡」 その言葉の意味もよく理解せず。次に差し出された書類に署名して、トレーナーさんに返す。 「…今夜も、いっぱい苛めてやるからな。覚悟しとけよ。」 その書類を何処かへ持っていくのか、一度部屋を出ていく。ぼんやりとした意識が徐々に晴れていって、私は私がしでしかしたことに気づいた。それの重大さにも。| 「…今日も、やっぱり、負けちゃうんだ…♡」 しかしすっかり思考を雌にシフトさせた私は、そんなことに構いもせず。いつもよりも酷いことになることは予想できたけれど、それへの期待が高まるばかりで。トレーナーさんが帰ってくる頃には、完全に出来上がってしまっていた。 「…我慢できなかったんだ。…へんたいだね、スカイ。」 トレーナーさんがチョーカーを撫でる。それだけでもう意識が達しそうになるけど、トレーナーさんが指を鳴らすと昇りそうで昇れない生き地獄に陥る。 「へっ♡へんたいはっ♡おきらいですかっ…?♡」 口をついたその言葉が、トレーナーさんの瞳の奥にあるものに火をつけた。 「…いいや、大好きだ。もう辛いだろ?今日はトレーニング中止にするから。…もう、行こうか。」 肩に大きくてあったかい手を伸ばして、私の小さな肩に手を置く。そのままトレーナー室を出て、私たちは逢瀬をするべくトレーナー寮のドアに消えていく。 私はまだ、勝てそうにない。|