オフの前日の晩、レースで帰りが遅くなる子がいて手続きと施錠で寝るのが遅くなってしまった。 起床時刻への影響はほんの数分だけれど、寮長という立場において朝の数分はとても大きい。 朝練に向かう子のために正門を開け、日誌に記録をつけ、予定されてる工事のために掲示物を更新。 前日提出された外出・外泊や共用エリアの利用申請に目を通し、急ぐものが無いことを確認。 ようやく人心地ついたかな、というところでポニーちゃんたちから声がかかった。 「…」 今日は日曜日。幾人かのポニーちゃんたちを手伝う約束をしていた。 曰く、専属トレーナーに日頃のお礼をしたくて、みんなでお菓子を作るのだとか。 大人の男性だから甘すぎないほうがいいよね、なんて話しながら、寮のキッチンは盛り上がる。 それでも私にとっては紅茶よりコーヒーが欲しくなってしまう、優しい甘さだった。 「……ッ」 私がそれを思い出したのは、ちょっとしたお茶会に発展した集まりが解散して、 平気な顔でポニーちゃんたちと別れてから寮長室前のトイレに着いた時だった。 ──配管の工事に伴う、断水。 夕方まで水道が止まるから、自主トレ等で外出することを推奨。 そんな告知を掲示したのは、他ならぬ寮長の私だ。 「……ふーっ……」 急いで制服に着替えて、学園のトレーナー室に向かう。 鍵は貰ってる。学園側の工事は別日だったはず。 ポニーちゃんに見つかっても、自主トレに向かうんだと言えば、気を遣わせることはない。 ……違う。そんなの、言い訳だ。 ただ、私がおしっこ我慢しながら皆とお茶してたってこと、ポニーちゃんたちにバレたくないだけ。 麗しの王子様でも頼れる寮長でもないただのフジキセキの、ちっぽけな羞恥心だ。 でも、だって、仕方ないじゃないか。恥ずかしいものは、恥ずかしいんだから。 「……~~~ッ……!」 背筋をしゃんと伸ばして、いつも通り歩幅は大きく優雅に。 皆の王子様フジキセキとして学内を歩くことが、こんなにつらいだなんて思わなかった。 おなかの下のほうで暴れる尿意はずいぶん前から限界を主張して、私を責め立てる。 稀代のエンターテイナーどころか年端もいかない童女のような窮地が、いよいよ私を陥落させようとしている。 それでもどうにか前を抑えず、腰も引かず、でもやっぱり普段の半分くらいの早さで歩を進める。 3年前だったらきっと頼れなかった場所を目指して、歩を進める。 「……っ、も、や……っ」 ノブを回してトレーナー室のドアを開ける。 とっくのとうに限界を超えたスカートの下がどうなっているか、ちょっと想像したくないけれど。 とにかく私は間に合った。この時の私は、確かにそう思っていた。 すっかり焦れてしまった私は、トレーナー室の鍵が開いていたことの意味に気付いていなかったのだ。 ガチャリと無機質な音が私とトイレの間を阻む。鍵? どうして? だれが? 「ん? フジキセキか、自主練でもしにきた? ちょっと待ってくれな」 とれーなー、さん? 彼がトイレを流す音が、ずいぶん遠くに聞こえた。 脳が目の前の出来事を処理しきれなくて、もう何も考えられなくて、緊張の糸がぷつりと切れてしまう。 それでもトイレのドアが開く予兆を前に一歩下がりながら、じゅわ、と絶望の音を聞いた。 「あ、や、だめ、待っ、トレーナーさ、ぁ……!」 トレーニングの計画確認を行っていたトレーナーが休憩がてらのトイレから出て目の当たりにしたのは、 制服の真っ白なスカートをぐっしょりと濡らして足元に水たまりを作る担当ウマ娘・フジキセキの姿だった。 言葉も出ぬまま視線を上げると、羞恥と焦燥に潤んだ瞳の彼女と目が合う。 数瞬ののち、その美しいスカイブルーの瞳からぽろぽろと涙が零れ始め、 トレーナーは慌てて彼女に駆け寄り、靴が濡れるのも裾が汚れるのもかまわず彼女を慰めるのだった。 地方レース帰り、車の流れは悪くない。 門限までには、フジキセキを寮に送り届けられそうだ。 今日のレースは、普段フジキセキを間近で見られないファンにとっても全てのファンを大切にしたいフジキセキにとっても、満足の行く場になっただろう。 ウイニングライブ後もファンの興奮は冷めやらず、彼女は時間ぎりぎりまでファン対応を続けていた。 彼女自身が望んでいることとはいえ、もう少し負担を下げてあげられないか、とも思う。 視界の端を流れていくサービスエリアを見送ったのち後部座席ですやすやと寝息を立てる王子様を ミラー越しにちらりと見て、一つ息をついた。 「俺がもっと、頼れる奴にならないとなあ……ん?」 運転に集中せねば、とガムを一枚噛んで前を向くと、知らぬ間にずいぶん長い渋滞が形成されていた。 ふ、と目が覚める。 トレーナーさんの車に乗せてもらってから、ずいぶん時間が経ったようだ。 私の目覚めを促したらしいおなかの中の重みは否応なく先日の失態を思い出させる。 高速道路なんだから大丈夫、ほんの10分か20分も待てばサービスエリアがあるはず。 ふるふると軽く首を振って、運転席に声をかけた。 「寝ちゃっててごめんね、トレーナーさん。次のサービスエリアで止まれる?」 「あ、起きたか。ごめんフジキセキ、急だけど交通情報調べてもらえるか?」 トレーナーさんの言葉にぎょっとして辺りを見回すと、凄い渋滞。気づいていなかったけれど、 トレーナーさんの車もほとんど停まっているようだった。 慌ててスマートフォンを取り出して交通情報を検索した私の顔はきっと真っ青になっていたと思う。 声が震えなかったのは僥倖だけど、時間の問題でしかなさそうだ。 「…この先で事故渋滞10km、だって」 「マジか。門限、間に合わないかもしれないな…大丈夫か?」 そっちは別に問題じゃない。事前に念のため申請はしておいたし、そもそも私が寮長なんだから。 でも、別の理由でちっとも大丈夫じゃなくなってしまった。 すぐ出せるんじゃないのか、話が違う、とおなかの下のほうがじくじくと私を責め立てる。 でも、それを表に出すわけにはいかない。 だって、出発時間ぎりぎりまでファンや記者さんに対応させて欲しいと頼んだのは私だ。 サービスエリアを通り過ぎてしまうまで寝こけていたのも私だ。 それでトイレが我慢できなくなるなんて、本当に小さな子供じゃないか。 どちらにせよ、伝えたところで渋滞が解消されなければどうしようもないんだから、 トレーナーさんに余計な心配をさせてしまうだけだ。 だから、お願いだから、もう少しだけ、じっとしていて。 「……っ、ふ……」 けれどそんな私の思いをおなかに溜まったソレはまったく勘案してくれなくて、 その圧に押し出されるように吐息が漏れ出した。 1時間くらい経っただろうか、それともまだ30分だろうか。 気が滅入るから時間を確認するのは途中でやめてしまったけれど、流石に5分や10分じゃないのは分かる。 時間を確認するのをやめて、トレーナーさんとの会話に集中するようにして、集中できなくなって、 努めて時間を意識から遠ざけるようにしだした辺りで外面をつくろえなくなってきた。 もじつく腰が、押し出される吐息が、力なく震えてさまよう手が、自分の意志で止められない。 私の手が私の意志に逆らって、おなかの下のほうを── ──出口を抑えてしまうより先に、言ってしまわなければいけなかった。 もしかしたら既に手遅れかもしれないけれど、察されてしまうのは、自分から言うより恥ずかしいから。 「と、トレーナー、さんっ」 「うん」 いつも以上に優しい声。 分かってる。とっくにバレてるんだって。 「その、私、起きてからずっと…っ」 「うん」 言っても何も解決しないのに。困らせるだけなのに。 「といれっ、行きたくて…っ」 「…うん」 一度口を開いてしまったら、もう駄目だった。 全身が総毛立つような感覚がして、自分がとっくに限界を迎えていることを自覚する。 「ぅ、ぁ……あっあっあっ、だめ、いや…っ!」 いつまで我慢できるかを懸念していたのに、いつの間にかこの瞬間に出てしまいそうな恐怖に襲われている。 必死に我慢していたのに、思わずおもいきり前を抑えてしまって、もうその手が離せなくなった。 「! えーっと何か無いか……!?」 トレーナーさんが慌てて助手席の収納を漁り始める。 でももうきっと駄目だ。もし都合よく携帯トイレとか入ってても、もう組み立てるまで我慢できない。 「ゃ、あ、だめっ、ごめんなさっ……!」 「フジ! ごめんこんな物しか……!」 トレーナーさんが手渡してきたのは大きめのタオル──恐らく、雨か何かに備えたもの──だった。 毟り取るように受け取って、スカートもショーツも脱げないまま、お尻の下に敷く。 「ごめ、なさぃっ、ぁ、やっ、見ないでぇ……!」 タオルを手放したトレーナーさんが再び前を向いたのを確認する。 それが限界だった。 じゅー、とひどく恥ずかしい音を車内いっぱいに響かせながら、私のおもらしが始まる。 まったく不本意なのに身体はずっと待ち望んでいた開放に、漏れ出る吐息に声が混じった。 「ぁ、だめ、や、っ、止まって……!」 かれこれ数時間溜め込まれていたものがタオル1枚で吸いきれるはずもなく、それはシートに溢れ始める。 下を見ていられなくなって、前を向くなんてとてもできなくて、思わず顔を逸らした。 いつしか音は止み、身体が反射的にふるるっ、と大きく震える。 謝らなきゃいけないのに、後始末をしなきゃいけないのに、どうしても動けなくて、思わず涙がこぼれた。 じめじめとした熱気が肌で感じられるようになってきた今日この頃、本日の天気は曇りのち雨。 トレセン学園近郊の高級ホテル12階、劇場近くのカフェテリア。 URAファイナルズ初年度覇者とはいえ、直近に出走を控えているわけでもない いちウマ娘へのインタビューの場には張り込みすぎだと思うが、 組み合わせが組み合わせだから仕方がないのだろう。 人の期待に応えることこそが至上の喜びであるエンターテイナー・フジキセキ。 なんでも勝手に喜んで自己完結する暴走特急記者・乙無史悦子。 相性が良すぎて最悪、といったところだろうか。 「とはいえ、ここまで長引くとは思わなかったな」 「あはは。ごめんね?」 フジキセキの今後の路線や方針が今日のテーマだったはずだが、取材は無尽蔵に盛り上がり、 話題はフジの魅力から今後のレース界まで方々へ広がった。気付けば予定の時間を1時間オーバー。 乙無史記者に見送られながら下りのエレベーターに乗る頃には、 雨音どころかごろごろと雷鳴が聞こえ始めていた。 「俺はかまわないけど、疲れてないか? 無理はしないでくれよ」 「大丈夫。すごく楽しかったよ」 「そりゃあ良かった」 相変わらずだな、と苦笑しながら1Fを示すボタンを押す。 ぐ、とGがかかりエレベーターが動き出す感覚とほぼ同時に、凄まじい轟音が響き渡った。 「……雷か。いやあ、幾つになってもビビるな」 「ずいぶん近かったね……あれ?」 逆向きのGがかかり、エレベーターの動きが止まる。 ばつんという音がして室内が真っ暗になり、しばらくしてぼんやりと非常灯が灯った。 「停電……かな?」 「あの近さだったからな。何かしら飛んだんだろう」 まあ、最近のエレベーターは地震や停電があっても、よほどのことが無ければ すぐに非常用の動作で近くの階まで移動してくれるという。心配はないだろう。 そう言って視線を下げると、フジは珍しくはっきりと表情に不安を滲ませている。 「……フジ?」 「……え、あ、うん。大丈夫、そうだよね」 「? ああ」 5分か、10分か。いずれにせよ、大した時間は経っていないだろう。 だがしかし、どうにも隣のフジキセキの様子がおかしい。 心底不安そうに落ち着きなく、視線を俺へ、エレベーターのフロア表示へ、足元へ。 ようやく原因に思い当たったのは、所在なく震える手が彼女自身の太腿を撫ぜた時だった。 ……まさか、というか、考えないようにはしていたけれど。 そういうことだろうか。 あれ以来、マイカーにはこっそりと(本当に、バレないように)備えをしたけれど、 流石にこの場ではどうしようもない。エレベーターがすぐに動くことを祈るばかりだ。 俺がこの場でできるのは、彼女の不安の原因に気付かないことだけ。 一つ息をついて、明日以降のスケジュールを確認するふりをした。 20分か、30分か。 いよいよ彼女の焦燥感に気付かないことが難しくなってきたあたりで、 ようやく館内アナウンスとともにエレベーターが動き出した。 1つ下のフロアのボタンを押し、声をかける。 「帰りの車で飲むもの買ってきたいからさ、5分くらい待っててくれ」 それだけ言って、自販機に向かう。 フジキセキはぱちくりと目を瞬かせたのち、顔を真っ赤にして俺と逆方向に駆け出した。 戻ってきた彼女が妙にパンツのわたりの辺りを気にしていたのは、きっと俺の気のせいだ。 ポニーちゃんたちの企画に乗って、日頃のお礼と一緒に想いを伝えられたら素敵かな、と思った。 地方巡業を大成功させて、帰り道の月夜で切り出せたらロマンチックかな、と思った。 インタビューで描いた心躍る未来の、その隣に貴方が居て欲しい、なんて言えたら最高だった。 ぜんぶ、子供みたいな生理的欲求を抑えられない未熟さで台無しにしてしまった。 良くないことだとも自分らしくないとも思うけれど、おかげで最近へこみっぱなしだ。 「なあ、フジ。週末はオフだけどさ、予定空いてるか?」 「え? ああ、うん。大丈夫だよ」 だから、お昼休みに何か読みながら声をかけてくれたトレーナーにも、すぐ反応できなかった。 ただただ景色を楽しむドライブ。それがトレーナーさんの提案だった。 嫌な思い出を直球で刺激されるので、正直なところかなり遠慮したかったのだけど、 気を遣わせてしまっていることも分かっているので、いいよ、と返事をした。 それでも、後部座席に乗る気にはなれなかったけれど。 少しだけ高速に乗って郊外に出ると、トレーナーさんは下道を流し始めた。 いつもの街をちょっと離れただけなのに、山とか川とか、ずいぶん見栄えがする景色になった。 ぼんやりと窓の外を眺めていると、ぱたんと運転席横の収納を閉じてトレーナーさんが言う。 「やっぱさ、これくらいの速度だと遅く感じるのかな。ウマ娘って」 「そうでもないよ? それでもまぁ、景色を見る余裕はトレーナーさんよりあるかもね」 無意識に、コンビニとか書店とか、トイレがありそうなところを探してしまっているのが情けない。 未だにうじうじしている内心を知ってか知らずか、トレーナーさんはそっか、と返す。 気ままなドライブの行く末も、トレーナーさんの内心も、読み取れなかった。 適当な公園で車を止めて持ってきたお弁当を食べたり、ふと見つけた甘味処に入ってみたり。 URAファイナルズに挑んでいた時にはそんな余裕の無かった、穏やかな休日だ。 当たり障りのない会話、当たり障りのない時間。気付けばずいぶんと傾いた夕陽が私たちを照らしていた。 「……まぁ、気に病むなって言っても無理だよな」 ぐ、と息を吞む。トレーナーさんがこちらを向くのに合わせて、思わず居住まいを正す。 「言いたいことは色々あるんだけど。そうだな、一番最低なやつを言おう」 「おしっこ漏らしてびーびー泣いてるフジ、すごくかわいかったぞ」 「なっ!?」 「……なんてな。ここまで凹んでてくれないと、不意の一つもつけないんだから」 もっと頼って欲しいし、もう少し隙を見せてくれてもいいんだぞ、と彼はぽんと手を叩く。 いつの間にか彼の両手に包まれていた私の右手には、シンプルな銀の指輪が輝いていた。 「なんでもいいんだ。寮のことでも、君が望むエンターテイナーとしての未来についてだって」 「レースのことだけじゃない。君が進む道なら、なんだって支えてやりたいんだよ」 「2、3年もすれば、お互い立場が変わると思う。それでも、その先も、ずっとだ」 「その時は、左手にもっととびきりの輝きを贈るよ。俺にその資格をくれないか? お姫様」 ぎゅ、と握られた手がとってもあたたかくて、あの日の砂だらけのブローチを思い出した。 ……いや。いやいや。そういう問題じゃないでしょ、トレーナーさん。ねえ。 「ああ、そんな大した問題じゃないんだよ。だからもっとデカい問題吹っ掛けてやろうかなって」 「……うん。分かっては、いるんだけど……」 「かわいかったのは本当だしな」 「……バカ!」 その後のことは、私とトレーナーさんの間だけのことにさせて欲しいんだけど。その。 ……どうやら、かわいかったというのは、冗談ではなかったらしい。 最悪だよ、もう!