「前にウマッターはやってないって言ってたよな」 トレーナー室で二人になったタイミングで声をかけた。フジキセキは素直に「うん」とうなずく。 「じゃあこのアカウントは知らない?」 差し出したスマホの画面にはあるアカウントのホームが表示されている。アイコンもヘッダーも初期画像のまま、IDは意味の無いアルファベットの羅列で名前は絵文字がひとつ。そんな有様なのにフォロワー数が異常に多い。 「知らないな。なんで?」 フジの表情に変化はなく、背筋をピンと伸ばして少し顎を引いて、いつもの自信ありげな笑みを崩さない。 提示して見せたアカウントのメディア欄には、自撮りの写真がズラッと並んでいる。短いスカートから伸びるスラリと長い脚。白いシャツに透ける胸元。時折下着姿の写真まであるが、首から上はほぼ写りこまず、尻尾でかろうじて青鹿毛のウマ娘だとわかる程度だ。 あからさまに欲を煽る投稿に下世話なコメントが大量にぶら下がっているものの、返信はひとつもない。 「俺にはこれが君に見える」 「毛色が同じだけじゃないか。顔だって写ってないよ?」 ちょっと目を見開いて、それから眉を下げて笑ってみせる。驚いて、困った。それを示す動作は必要以上に芝居がかって見えた。 「個人を特定するのに顔はそこまで重要じゃないぞ」 「警察の捜査とかならそうかもしれないけど。でもこの写真だけでこれを私って言うのは厳しいんじゃない? それに、ほら」 ながい指が伸びて、俺の持つ画面を操作する。下へスクロールして開いた画像は、姿見を撮る形で薄着の全身を撮したものだ。顔だけでなく、スマホまでスタンプで隠してあるあたりが徹底している。 「髪の長さが違う」 写っているのは鎖骨の少し上あたりからだが、それでも黒々とした髪の先が見える。たしかに、ショートヘアのフジキセキとは髪型が違う。 「ウィッグだろう」 顔を出さない自撮りでそうまでするのは珍しいが、このアカウントの持ち主ならしてもおかしくはない。 「そんなにこの写真を私ってことにしたいのかな」 「俺だって違った方が気が楽だよ。でも今ので確信した。少なくとも君がこのアカウントを知らないっていうのは嘘だ」 本当に知らなければスクロールして表示するような画像を証拠として示せない。 説明すれば黙ってしまって、次に口を開いたときにはどこかぼんやりした表情で「だめなの?」とつぶやいた。 「誰にも迷惑はかけないし、顔も制服も映してないよ。背景はぼかして、部屋の間取りだって分からないようにしてる。いままで指摘してきたのもトレーナーさんくらい。なのに、だめ?」 追い詰めはしたかもしれないが、王手とは言い難い指摘だったと思う。それでも否定するのはやめたらしい。 開き直られるとさすがに座りが悪かった。 「身近な大人として見過ごせないよ」 「へぇ。これで見つけられちゃうくらい普段から私の身体を見てるような大人が?」 当たり障りのない正論が挑発的な笑顔でねじ伏せられる。さっきの仕返しだとでも言わんばかりだ。 「私には目立つ傷やホクロがあるわけでもないのに、随分よく見てるんだね。変態さん」 話を逸らしてこちらを責め出す行為自体は癇癪に近い。そのくせ態度は堂々として、いつものフジキセキのままなのだからたちが悪かった。そういう子どもじみたやり方はやめなさいと言ってやればよかったのに、俺は黙ってしまう。 「言い返さないの」 「言い返せないから」 短い返事に何を思ったのか、ふぅんとだけ言ってフジは部屋を出ていってしまった。 トレーナー寮に戻って電気をつける。昼間のうちに熱のこもった室内に辟易して窓を開けた。夏合宿まではまだ少し時間があるが、今年は既に夏の気配が迫っている。 結局、あのあとフジキセキはトレーナー室に戻ってこなかった。 もう一度アプリを立ち上げて、件のアカウントを表示する。更新は数日に一度。登録日自体は数年前の日付だが、遡って出てくる投稿はせいぜい半年前のものだ。定期的に古い画像を削除しているらしい。 綺麗な身体をしている。 ウマ娘は容姿端麗に生まれてくるものと決まっているから、こんな仕事をしていれば顔の綺麗な子は見慣れてしまう。それでもスラリと伸びた手足と均整の取れた身体は魅力的に見えた。 『変態さん』と俺を罵った彼女の声を思い出す。反論ができなかった。彼女と出会って三年経った今も、シミひとつない肌に目を釘付けにされる瞬間がある。そのことをどうしても否定できない。 女の子ばかりの学園で男性的な役割を引き受ける彼女が、その実女の体つきをしていることはよく理解していた。 こんな投稿を繰り返す彼女が心配になったのは本当だ。フジキセキの行動はどこまでも他人本意で、衆目を集めようとする反面、期待に押しつぶされそうになる弱さだって相応に持っている。そんな子どもが素性を隠して過激な写真で反応を集めているのは、どこか自傷行為めいて見えた。 そうでなくともスキャンダラスな行動を担当トレーナーとして止めたいと考えるのは間違いではないはずだ。だが、このアカウントを見つけたとき、青ざめるより先に昂揚を覚えたことも確かだった。 制服に、私服に、体操着に、水着に、勝負服に、俺の前で隠されては断片的に記憶に焼き付いた美しい肢体が、惜しげも無く晒されている。その事実に生唾を飲み込んだのが記憶に新しい。 ピコン。 間抜けな音を立ててスマホがメッセージの着信を伝える。今の今まで脳内を支配していた相手の名前を表示するポップアップに思わず声を上げた。慌ててメッセージアプリを開くと、細切れの文章がぽこぽこと表示されていく。 『ごめんなさい』 『仲直りしよう?』 しょんぼり項垂れる猫のスタンプにほっと息をついて返信しようとしたところへ、もう一つ画像が送信された。ぎょっとしてスマホを取り落としそうになる。 見慣れたトレセン学園の制服を着たフジキセキの写真だ。あのアカウントでよくやっていたように、全身鏡を使って撮影している。 スマホを構えるのと逆の手が、裾にフリルをあしらった特徴的なプリーツスカートを持ち上げる。半ばまでソックスに包まれた細い腿の際どい場所が顕になっていた。規則上、この下にはスパッツを着用することになっているはずだが、画像では本当にはいているかどうか判別がつかない。 顔もスマホも写りこんだ部屋もそのまま。いかにもあのアカウントにありそうな、だが警戒心の強い彼女は絶対に投稿しないような写真だった。 胃が鉛を食ったかのように重い。ここで電話でもかけて叱りつけるべきなのだと理性では分かっているのに、手が動かない。 きっと全てバレてしまっている。いや、俺自身が白状したのか。 俺が彼女を心配していることも、誤魔化しきれない劣情を抱いていることも、全て理解した上で提案された『仲直り』が元通りの関係に戻ることだとは、とても思えなかった。 *** 「トレーナーさん、見ていてね」 薄ら笑ったフジキセキが運動着のジッパーを下げていく。学園では暑い中でも長袖の運動着を着る子が多く、彼女もその例に漏れなかった。 セントラルコントロールのせいで下がりきらないトレーナー室の冷房ではまだ暑かろう。玉のような汗が頬を伝い、首筋を降りていく。 ジッパーを下ろしきってからゆっくり袖を抜き、薄手の半袖シャツが現れる。その裾を俺の見ている前で躊躇いなくまくり上げ、脱ぎ去ってしまう。可愛らしい刺繍が施されたライトグリーンの下着が胸元を彩っているのが見えた。 思わず目を逸らしそうになるのを、「見ていて」と繰り返した声が遮る。 嫋やかな手がショートパンツのウェストにかかる。しゃがむようにして引き下ろされた下にはブラと揃いのデザインのショーツがあった。薄く柔らかな布とレースでできた下着は少し離れた俺からでも汗で湿っているのが分かる。 残った靴下を立ったまま足を後ろに跳ね上げて脱ぐ。 健康的なデザインの下着だけを身につけた少女がすぐ隣のパイプ椅子の上に置いていたタオルで汗を拭っていく。伏し目になるとまつ毛の長いことがよく分かった。 タオルを置いて、制汗シートの入ったパックを手に取る。厚手の白いシートが項や耳の裏を拭いて、首筋から鎖骨へと滑っていく。腕を拭ききると、手は胸元へと戻りレースに包まれたはりのある乳房に触れた。 シートを持ったままの手は下着の下へも滑らされる。そこにも汗をかくのだから当然なのだが、ぱかりと上辺を浮かされたカップの下で汗を拭えば、白い肌の中心で色づいた部分が見えてしまう。 艶めいた仕草ではない。その分、本来俺が覗き見るべき場面ではないのだとより強く意識させられる。 淡々と身体を拭いていく手が、最後に足の裏を拭って制汗シートを捨てるまで、俺はまんじりともせず彼女を見ていた。待てと言われた犬のように、身を固くしてパイプ椅子に座っている。 「触りたい?」 やっと俺の存在を思い出したみたいに、こちらを振り向いて言う。道具を置いていた椅子の上を片付けて、下着のまますとんとそこへ座る。長い脚を組んで見せる動作が挑発的に感じた。 俺は、それこそ賢い犬のように少女の機嫌を窺って、のろのろと首を縦に動かす。 「いいよ」 言われた途端に立ち上がって彼女の足元に跪く。爪先から順にゆっくり撫で上げて、制汗シートのせいか既に冷たい肌に俺の体温を移していく。 足首を掴んで持ち上げても抵抗はされない。脚をほどいて横に流すよう動かしてもされるがままで、よく手入れされた肌の滑らかさも相まって人形のようだった。 膝の上に頭を乗せて、頬に冷たい皮膚を感じる。ふと見上げると、青く澄んだ目がきらきらといたずらっぽい光を宿して俺を見ていた。状況に反して普段と変わらない表情がどことなく恐ろしい。 「おしまい」 簡単に告げられて身体を起こした。フジキセキはするりと立ち上がって制服を身につけていく。俺は、そそくさと部屋を出てすぐ近くのトイレの個室へと駆け込んだ。 異常といえば異常だが、平和といえば平和だった。 フジキセキはあのあとも“フジキセキ”のまま、イタズラ好きの王子様としてポニーちゃんたちの黄色い歓声を浴びている。あのアカウントの更新はピタリと止まり、俺は彼女の遊びに付き合うことになった。 遊びの内容は実に単純で、彼女の姿をじっと見ているように命じられるだけだ。今日のような着替えの様子や、あるいは後輩たちから貢がれた大量の甘いお菓子を食べる姿。時折えずきながら苦手なはずの甘いものを胃に詰め込む姿は裸よりも見てはいけないもののように感じた。そういうものを、黙って見ている。 たまに、彼女の機嫌がいいと触れてもいいとお許しが出る。触れたいのか触れたくないのか、自分でもよく分からないままその身体に触れて、「おしまい」と言われれば素直に手を引く。お利口なペットみたいだ。 手を洗って、ついでに顔に水をかける。頭を冷やさなければと思った。生徒たちのテストが終われば夏合宿がはじまる。遊びが終わるたび、熱に浮かされた頭が見る夢であればいいのにと思う。 トイレを出ると、トレーナー室の前でフジキセキが知らない生徒と話していた。彼女よりは少し小さいけれど、女の子にしては背の高い子だ。 「あ、トレーナーさんおかえり」 「こんにちは。じゃあもう行きますね。よろしくお願いします」 「うん。楽しみにしてるね、ポニーちゃん」 手を振って見送るフジキセキはいつも通り、爽やかで面倒見のいい寮長の顔をしていた。 「綺麗な子だな」 ぼんやりと走り去っていくウマ娘の背中を見送りながらつぶやいた。この暑い中でもサラサラとなびく栗毛は手入れが行き届いているのだろう。 「そうだね」 短く肯定した声も明るいままで、だから俺はその夜あのアカウントがまた更新された意味がわからなかった。 いままで投稿されていたものに比べれば過激ではない。 セパレートタイプのスクール水着の上をすこしたくしあげて、腹部を露出させる。ただそれだけの写真だが、頑なに学用品を映さないアカウントだっただけにコメントは異様な盛り上がりを見せていた。 学校指定の水着は、そう珍しいタイプのものではない。だが誰かが俺と同じように特定しやしないかと良識ある大人のような心配をした。 『見ていてね』 画像に添えられた、ただそれだけの文言があの遊びのときに発されるものと同じで、大人のふりをする自分を嘲笑っているみたいだった。 ⿴⿻⿸ 夏合宿がはじまると、フジキセキと二人で向かい合う時間はむしろ減ってしまう。寮長のみならず生徒会役員や執行部と呼ばれるような生徒の多くはそうだろう。 練習時間が減るわけではないが、それ以外の時間にやることが多い以上トレーナーとの打ち合わせもロビーや共有スペース、あるいは屋外を利用しての簡単なものになっていく。その分こちらが綿密な計画を立てる必要があるわけで、この数日で自然と別行動が増えた。 「フジ先輩!」 幼さの残る甲高い声がフジキセキを呼んで、彼女がそちらを振り返る。中等部の生徒だろう。声の印象通り幼いウマ娘が二人、そこに立っていた。 丁度今日のメニューを伝え終わったところだったので行っていいよと頷いたが、これも彼女との時間が減る原因だというのは分かっている。ひっきりなしに呼び止められて相談されたりお願いされたり、ときにはただ顔を向けることを求められたり。俺だったら辟易するが、彼女はどこか嬉しそうですらある。合間合間にヒシアマゾンやらアグネスタキオンやらに自分からイタズラを仕掛けに行く姿すら見るのだ。 ──構われたがりめ。 自分でも驚くほど憎々しげな響きを伴ってそんな言葉が頭に浮かんだ。何をいまさら。ため息をついて後輩たちと談笑する彼女の後ろ姿を眺める。 あの画像で着ていたのと同じ、セパレートタイプのスクール水着。ぴったりと張り付く黒い布から伸ばされる長い脚が強い陽射しを受けてまぶしい。インモラルな雰囲気は欠片もなく、水着とはこうして陽の光を浴びるための健康的な衣服なのだと思う。 「トレーナーさん、ごめん日焼け止めとって!」 「どこにある?」 「そこのポーチの中」 黒い布製のポーチを探って日焼け止めのボトルを見つける。 「投げて!」 「落とすなよ」 なかなかの暴投を難なく受けたフジに周りの後輩たちがキャーキャーと黄色い声を上げた。 「あはは、ナイスピッチ!」 「うるさいわ」 大人をからかってケラケラ笑う表情は少年めいている。日焼け止めをさっき話しかけてきた後輩の背中に塗ってやる仕草は面倒見のいい先輩そのものだ。 なにやら耳元で囁いて、小さなウマ娘を赤面させる。微笑ましい情景に、生徒だけでなくトレーナーや教師陣もちらりと視線をよこしては笑う。 トレーニングを開始するまでにはまだ少し時間があるから、手元の資料を整理しながら俺もそちらを見ていた。夏の陽射しに似つかわしい明るい雰囲気の中、さっき心に浮かんだ仄暗い感情は全く気のせいのように思われた。 やがて後輩たちが何かを言って、頷いたフジが日焼け止めのボトルを手渡す。 小さな手が彼女の身体にトロリとした白い液体を塗り込んでいく。逆の行為ではなんとも思わなかったのに、見慣れた肌に他人の手が這う様子に、目が離せなくなった。視線に気づいた彼女がこちらを見て、なにやらパクパクと口を動かす。声を出さないゆっくりとした動きは読唇術の心得がなくても読みとれた。 「へんたい」 理解した途端、手に持ったバインダーを取り落とす。すぐ近くにいた別のトレーナーたちが慌ててかきあつめてくれたが、資料は砂だらけになってしまった。 まだ熱い頬を手のひらで冷やしながら視線を戻すと、彼女はなんでもないような顔で後輩たちにお礼を述べて、駆けていくその背中を見送っていた。 *** 「だからさぁ、いいじゃん。休日と夜は自由行動って業務規定上はそうなってんだから」 合宿などというのは時間が経てばダレてくるもので、それは大人の側も変わらない。屋外に設けられた喫煙所には男ばかりが三人集まってだらだらと汗をかきかき休憩時間を浪費している。 「そもそもお前がそんながっついてるのが分からんわ。四六時中ウマ娘の綺麗な顔みてたらおなかいっぱいになるんだけど」 「バッカ、お前インポか? それともロリコンか? いくら綺麗だからって中高生なんて目の保養以上にならないだろ。大人のお姉さんと楽しくお酒飲みたいと思わねぇ?」 「いやぁ、別に。俺知らん人と楽しく酒飲めるタイプじゃないし」 「なんだよー。ここじゃ職場恋愛なんて期待できないぞ。なぁ?」 突然こちらに話をふられて、くわえた煙草から口を離すのすら怠くてただ肩をすくめてみせた。まぁたしかに、一際目立つ桐生院さんのみならずトレセン学園の女トレーナーはなかなか曲者揃いだ。職場恋愛という雰囲気はあるまい。 「あ、いたいた!」 ぱたぱたとサンダルの足音が駆けてきて、喫煙所に似つかわしくない高い声が響く。 「フジ」 予想外の愛バの姿に驚いて名前を呼んだが、彼女は俺ではなく先程から周りに話しかけていた男の方へ声をかけた。 「君の担当の子が体調崩しちゃって、軽い日射病みたいだから室内で休ませてるんだけど一応早めに報告しようと思ってね」 「うわ。マジで? だからちゃんと休憩とれって言ったのに……ありがとう、すぐ行く」 「そうしてあげて。ポニーちゃん、トレーナーさんに迷惑かけちゃうって泣きそうだったから」 「あーあーあー。バカだなぁ。……じゃ、お前ら考えといてくれよ!」 口では色々言いながらすぐに火を消して走り去るあたり、担当のことは可愛がっているのだろう。フジキセキも残されたもう一人もおかしそうに笑って、言葉ばかり露悪的な男の背中を見送った。 「何の話をしてたの?」 俺が答えないでいると、隣の男が口を開く。 「食材とか持ってきてくれる地元の女の子がいるだろ。あの子たちが良かったら明後日あたりご飯食べに行きませんかって誘ってくれたんだって。でも人数揃わないみたいで。みんな疲れてるからさ」 「へぇ。いいじゃない、楽しそう。トレーナーさんも行ってきたら?」 「行かないよ」 「俺もコイツもそういう付き合い悪いから。それともフジちゃんが行く? でもそしたらアイツらに勝ち目がないな」 「あはは、いいねそれ!」 フジキセキに対する大人の男の反応はだいたい二つにわかれる。単純に綺麗な女の子として扱う場合と、何故か親しい少年に接するような態度になる場合。 この男は分かりやすく後者で、あまり子どもに聞かせたくない話題でもフジ相手だと簡単に話してしまうところがあった。 「フジ。俺も行くから戻ろう。喫煙所になんかあんまり近づくなよ」 「そう? 臭いは気にしないけどな」 「健康に悪い」 水着の上から羽織ったジャージの背中を押して進むついでに、振り返って男を睨む。相手は楽しそうに笑ってひらひら手を振っていた。 「本当に行かないの?」 ある程度進んだところで彼女が言う。俺は「行かないよ」と同じ答えを返した。ふぅんという返事がいつぞやのやり取りを思い出させて、少し気味が悪い。 せっかく次の日が休みなのに飲み潰れて目が覚めないのではもったいないとか色々言い訳を口にしたものの、彼女はどうも興味が無い様子で「私も出かけるし、ゆっくりすればいいのに」とだけ言った。 *** 合宿の期間はあまりにも長いので、その間にも休日が設定されている。トレーナーがついている子はトレーナーに頼むなり、それ以外の子はめいめい誘い合わせるなりして遊びに行くのが通例だ。 俺も毎年フジのことを連れて寮生たちへの差し入れだなんだと仕事のような遊びのような買い物をしていたのだが、今年は頼まれなかったので一人で合宿所をうろついていた。 「あれ、フジのトレ公も残ってたのかい?」 早めに戻って自身のトレーナーと共に居残り組の昼食を準備してくれていたヒシアマゾンが、俺の顔を見るなり驚いたように言う。 「なんだい。アイツときたら合宿中はトレーナーさんとなかなか話せないだなんて随分寂しがってたんだから、遊んでおやりよ。つれない男だね」 「俺がフられたんだよ」 ふざけた調子で答えて器に盛られたそうめんを受け取る。きざんだ夏野菜が見栄えよく添えられて、美味しそうだ。 「本当に? そりゃ変な話だ。アイツ、本当はアンタの方から誘ってほしかったんじゃないかい?」 「フジがそんなこどもっぽいこと考えるかな」 「子どもっぽいも何も。アイツは見た目よりずっとガキだよ。マヤノなんかと変わりゃしない。図体がデカイ分可愛げに欠けるかもしれないけどね。構ってほしくてしかたないんだから」 優しくしてやりなよ、なんて言われて苦笑いしかできない。優しくないのはあいつの方だ。 今朝方、ずいぶんと早い時間に出かけたらしいフジキセキのことを俺は見ていない。面識のある生徒たちからは「一緒に出かけたんだとばかり思っていた」と異口同音に言われる。 たしかに、俺だって数日前までそういう気でいた。でも毎年のように声をかけられなくてこっそり安堵したのも確かだった。 寝起きのために割りあてられた狭い和室に引きこもって、小さな座卓で昼食をとりながらスマホをいじる。例のアカウントの更新はあれきりまた止まったが、彼女とのメッセージのやり取りはいつの間にかとても他人に見せられないようなものになっていた。 俺だけに送りつける分には顔を隠す必要が無いから、はっきりフジキセキだと分かる際どい写真が並んでいる。一番よく見る制服をはだけたようなものが一番辛かった。誰かほかに人がいて、いつも通りを演じる彼女のことすらおかしな目で見てしまいそうになる。 俺はどう返信したものか迷って無言で既読をつけるだけなのに、それでも淡々と送られてくるのは、俺が興味を失っていないことがバレているのだろう。むしろ、たまに触ることをゆるされるようになっただけ、画面に映る肌のやわらかさや体温を想像してしまっていけない。 ごろりと横になったタイミングでトークルームに写真が追加される。すぐ既読をつけてしまったことにちょっと後悔した。 送られてきたのはそれまでの写真とは全く違うものだった。まず自撮りではない。見慣れたパンツスタイルではなく夏らしい黒いワンピースを身につけたフジキセキが両手でプラスチックのカップを持って、ストローをくわえている。明らかに視線がこちらをむいていない一枚に続いてカメラに気づいて目を大きく開いているのが一枚、ストローを離して眉を下げて笑う顔が一枚。 連射した中で写りがいいものを選んだのか、いい写真だった。完璧主義のフジにしては気の緩んだ表情がむしろ魅力的に見える。 誰が撮ったのだろう。 俺以外と出かけて、その相手が撮った写真を送ってくる意味を考えても、分からない。このひと月足らずですっかり変容してしまった関係を思って胸が痛くなる。ほんの少し前まで、この子は俺の前でもこういう笑い方をしていた。 気分が悪いような気がして、皿を片付けたあと早々にシャワーを浴びて布団を敷いた。フジや他の連中が帰ってくるまではまだ時間がある。一眠りして、せめて彼女に振り回されるだけの体力を取り戻さなければならない。 「トレーナーさん」 すぐ近くでフジキセキの声がして驚いて起き上がった。 「鍵あいてたよ? 不用心じゃない?」 彼女のポニーちゃんたちや他の大人にするのと同じ、しっかり者の寮長の顔で注意してくる。寝る前に見た写真とおなじワンピースが目に入って、何も言えなくなった。 「トレーナーさん?」 無言の俺を訝しんで、顔を覗き込んで来た。つけた覚えのない部屋の電気がついていて、カーテンの向こうは暗い。何時間寝たんだろうと思考を逸らして黙っていた。 「……なにか怒ってる?」 不安そうに揺れる瞳を見ているとどうしていいのか分からなくて思わず布団の中に逃げてしまった。何の解決にもならない俺の動きに呆れて出て行くかと思った相手はじっと布団の横に座っている。 「トレーナーさん、こっちを見て」 薄い掛け布団の上から遠慮がちに手が触れる。背中を揺すられても顔を上げる気がしない。どんな顔を見せればいいのか分からないし、いまあの遊びをはじめられたら何かが切れてしまうような気がする。 「トレーナーさん。……トレーナーさん。……トレーナーさん、ごめんなさい……」 ぐすっと鼻をすする音がした。 「ごめん、謝るから。お願い。こっちを見て。……私のこと、もうどうでもよくなっちゃった?」 ぺとりと背中にくっついて嘆く意味がわからずに混乱する。いつもの自信に満ちた“フジキセキ”でも、俺を弄ぶ少女でもない、頑是無い子どもが泣いている。 どうでもいい相手にこんな風に心を乱されない。だが支配され慣れた口は、上手く説明するより先に黙って様子を見守ることを選んでしまう。 「トレーナーさん、そこで見ていて」 やがて泣くのをやめたらしい彼女は意外なほど落ち着いた声を出した。思わず顔を上げてそちらを見ると、目を腫らしたフジが自分が着ている服のボタンに手をかけるところだった。 何を思ってそんなことをするのか、多分もう俺には分からない。理解することを放棄してしまえば従う道理もなかった。 黒い布に触れていっそう白く見える手首を掴んで引っ張る。ウマ娘の力なら簡単に抵抗できるだろうに、素直にこちらへ倒れ込んできた。 ⿴⿻⿸ 小さな顎をつかんで口をふさいだ。着ていた服もずいぶん乱暴に脱がせてしまったし、避妊具も持っていない。 「壁が薄いから声を出すな」なんて最低な理由で呼吸もままならないまま犯されたのに、フジキセキはじっと俺の目を見つめて抵抗もしなかった。ただ幼気な子どもらしくぐずぐす泣いて、怒られるとでも思ったのか嗚咽を噛み殺そうと必死に枕にすがる。 終わる頃にはぐったり疲れきって、半分も開かない目が虚ろに視線を投げ出していた。 「……寝ていいよ」 「ん……」 今度は手のひらで優しく目をふさぐ。赤ん坊にするようなやり方だ。それでも効果は覿面で、強ばっていた身体からは力が抜け寝息を立てはじめる。 布団をかけてやって、冷静になってまわりを見ると、もう惨状としか言いようがない。汗と体液に濡れたシーツは交換せざるを得ないだろう。丸まったティシュのいくらかがピンク色に染まって、俺の行為がいかに暴力的だったのかを訴えかけているようだった。 ここまでして、やっと時間を確認するという考えが生まれた。生徒たちの就寝時刻の十分ほど前。夕食は食いっぱぐれたらしい。 部屋に戻してやった方がいいのだろうが、この状態で起きて歩けと言うほど非情にはなれない。 いくらかストックしてあるタオルとシートで体を拭いて、最低限の身なりを整え部屋を出る。思ったとおり、生徒会とヒシアマが就寝前のウマ娘たちに早く部屋に戻るようにとかなんとか言いながら見回りをしていた。 「ヒシアマ」 「あっ、フジのトレ公! あいつ見てないかい? 見回りの集合時間になっても来ないで──」 「それが、体調崩しちゃってさ。俺の部屋来た時点でフラフラしてたからいま寝かせてるんだ。連絡遅くなってごめん」 「なんだい。そうだったのか」 驚くほどすらすらと口から嘘が出た。こちらに気づいたエアグルーヴが歩み寄ってきて、そこまで来ると異変に気がついたシンボリルドルフもやってくる。この二人の前で嘘をつくのはなんだか怖いな、なんて呑気なことを考えた。 ナリタブライアンだけが興味もなさそうに、かといって仕事もせずにこちらに背中を向けている。 「疲れちゃったみたいだから、みんなの前に出ると無理しちゃうし今日は俺の部屋で寝かせてやりたいんだけど、駄目かな? 俺はロビーのソファでもねられるから」 「ふむ。君が構わないならば私たちは何も言わないが……」 「まったく、たわけが。体調管理もできんのか」 「まぁそういうな、エアグルーヴ。応病与薬、疲労には休息が一番だ。あの性格なら休日も寝て休むとはならないだろうからな。いい機会だよ。よく休ませてやってくれ」 「あっはは! 会長自らお許しが出たんだから問題ないね! じゃあ姐さんが着替え取ってきてやるよ。ちっと待ってな」 戻ってきたヒシアマから紙袋をもらって部屋へ戻る。受け取るときにふと真剣な顔で「変な気起こしなさんなよ」と言われたが、少しばかり遅かった。 部屋へ戻ると、彼女は出たときと同じ格好で死んだように眠っていた。さて、どう着替えさせたものか。 布団をめくっても気づかないような脱力した人間を抱き上げるのはそうとう骨が折れる。いくら女の子でもフジキセキは背が高いから余計だ。しかしながら完全に自業自得なので、あまんじて身体を拭い服を着せる役割を果たした。 無防備に晒された肌には傷のひとつもない。俺にもまだ理性が残っていたということでもあるし、彼女があまりにも無抵抗だったからでもある。飼い犬に手を噛まれたような状況で、怒るでもなく笑うでもなくべそべそ泣いて、やっぱり何を考えているのかわからなかった。 やっとパジャマを着せてやる頃には俺の方が汗をかいている。これは二人揃って朝風呂だろう。ここで寝るわけにもいかないから、言ったとおりロビーに出ようとしたところで床に落ちているスマホを見つけた。フジキセキのものだ。 俺は何も考えずにそれを拾って、自分のポケットにねじ込んでから部屋を出た。 *** 「おはようございまーす」 共有スペースで寝る以上覚悟はしていたが、かなり早い時間から練習に向かう子たちの物音に目が覚めた。一度部屋に戻ろうとしていたところに声をかけてきた子には見覚えがある。 「フジさん、体調悪いって聞いたんですけど大丈夫ですか? カレン、昨日ずっと遊んでもらってたのに気づかなくってごめんなさい……」 口元に手を添えて、上目遣いで見つめてくる。わざとらしいけれど可愛いとしか言えない姿に思わず笑ってしまって「大丈夫だよ」と返した。少なくとも、カレンチャンのせいではない。 「遊んでくれてたんだな。じゃああの写真も君が撮ったの?」 「写真……? あ、コーヒー飲んでるときのやつですよね! 恥ずかしいからアップするのはダメだけど、送ってって言われたんです。そっか、トレーナーさんに送ってたんだ」 とってもカワイク撮れてたでしょう? 自慢げな顔にうなずいて、他にもあったら送ってよとお願いする。連絡先を交換しながら、不意にカレンチャンが黙って、それから薄桃色の目がこちらを見上げてくる。 「仲直り、できましたか?」 「……さぁどうだろう」 「その言い方、フジさんそっくりですよ」 ぷっくり頬をふくらませて不満ですと訴える。あぁ確かにあの子と気が合いそうな子だと思った。 なあなあに返事をして部屋に戻ると、フジはまだ眠っているようだった。実際、疲れていたのかもしれない。だが、行動するなら早い方がいいだろう。 掛け布団からはみ出た肩を揺すって耳元で名前を呼ぶ。 「フジ、起きて。病院行こう」 ぼんやり目を開いて、ぱちぱちと瞬きする。俺の言っていることがわかっているのか分かっていないのか、耳がぴくぴく動いて周囲の音を拾おうとしている。 「びょういん……?」 「うん。昨日、ゴムつけてなかったから、薬もらわないとまずいだろ」 それとも警察に行った方がいいかな、とは流石に自分から言う気になれない。 「行かなくてもいいよ。普段からピル飲んでるし」 「え……あぁ、うん、そうか……」 体調管理のために低容量ピルを使っていることは、そういえばトレーナーとして一応報告を受けていた。普段あまり気にすることでもないから忘れていたけれど。 「でも」 「大丈夫」 印象より華奢な手がパジャマの上から腹を撫でる。上体を起こしても、視線はシーツの上に落ちたままだった。 *** 「んぅ、ぁ……うぅ……」 低い唸り声を上げたフジキセキの手から力が抜ける。ごとりと音を立てて、メッセージアプリの画面を表示したままのスマホが机の上に落ちた。 「もう終わり?」 「ん、ごめん、まだ……ぁっ」 「じゃあ頑張れ」 「あ、ぐぅ……っ、ぅ……」 長机にべっとりと上半身を倒した状態で必死に手を動かす。どうにかこうにか一日で貯まりまくった連絡をこなそうとするのを見下ろしながら、引き締まった臀に遠慮もなく腰をたたきつけた。しっぽがふわりと揺れて俺の腹をくすぐる。 「あっ!」 がくりと膝が折れる。その分深く刺さって辛くなるのは彼女の方だ。 夏合宿中にスマホを取り上げてから、フジはすっかり大人しくなってしまった。大人しくなったと言うより、また関係がこじれたのだと素直に認めた方がいいかもしれない。 誰かと連絡を取るためにまず俺にお願いしなければならないというのが、今どきの高校生にとってどのくらい辛いのかは想像にかたくない。俺から画面が見える体勢で、ねちねちと犯されながらスマホをさわるのはどんな気分だろう。 学園に戻ってきてからはまだマシだ。合宿中はこれをあの狭い和室やいつ誰が来るともしれない屋外でやらせていたから、歯が砕けるんじゃないかと言うくらい食いしばって声を殺していた。 滑らかな脚を片方抱えて膝を机の上に押し上げた。上半身に思い切りのしかかって、ぐちゅっ、ぐちゅっ、と鈍くて重い音をたてながら腹の中を撹拌する。 「ぁ゛っ、あ゛っ、ん゛ぅぅ……っ!」 無理矢理腰を浮かせて臍の下に手を滑り込ませる。グッと押し込んで中と外から子宮を押し潰した。 「声我慢しなくてもいいよ」 残った手をフジの口に突っ込んで、人差し指と中指で舌を挟む。そのままいじり回せば閉じられなくなった口からとろりとした唾液と濁った嬌声がこぼれおちていく。 「あ゛がっ、ぁ゛っ、うあ゛ぁ゛ぁぅ」 「あはは、声可愛くねぇ」 伏せた顔をあげさせて、頬にキスをする。八の字に垂れた眉が哀れっぽくてたまらない。 もうスマホなんて触っていられないんだろう。一旦抜いてひっくり返して、舌を吸い上げながら挿入し直しても腕に力は入っていなかった。 「ん゛っ、ぅ、ふぅ……く、ん〜〜〜〜〜〜ッ!」 長くスラリと伸びた脚に筋が浮いて、腰が跳ねる。引き抜いた場所から白濁した体液が漏れだして、支えを失ったフジキセキの身体が床へと崩れ落ちていく。 「はーっ……はーっ……」 「もうおしまい?」 「ん゛、んぅ…………。うん……おしまい……」 半分眠ったような返事を確認してスマホを拾い上げる。画面に表示されているのは知らない男の名前で、たしか劇団時代の知り合いとか言っていただろうか。連絡先を消したり勝手にブロックしたりするようなことはしないけれど、彼女が自分でおしまいと宣ったのだ。返信できないのは仕方がない。 「眠い……」 「まぁ今日はトレーニングもキツめだったしなぁ」 秋のGIシーズンが始まるまでにもう少し追い込まなければいけないとか、トレーナーとしてのまともな感覚は俺にも残っていた。 フジはぼんやりと俺の手にある自分の端末を見上げて、それから目を伏せる。 どれだけ疲労困憊でも、ウマ娘の体力ならこんなもの簡単に奪い返せるだろう。さっきまでの行為も、跳ね除けようと思えばできるはずだ。だけど、もうこの子はそんなことをしないだろうという確信がある。 できるはずの抵抗ができなくなる感覚は俺が一番よく知っていた。 「ごめん」 しゃがみこんで制服を着たままの肩を抱く。そろそろ衣替えの季節だが、薄手の半袖ですら汗で湿っていた。 「大丈夫だよ」 いつも通りの、昔のままの、他人と話すときと同じ愛らしいアルトが答える。 「幸せ」 腹を撫でながら囁かれた言葉が本気なのか、なにか含みがあるのか、考えるのも面倒で欲のままに舌を絡めた。