1  ひどく疲れていた。 『天馬』を支えた名トレーナーに憧れてトレーナーを志し、職についてから五年が経った。 初めのうちはよかった。新進気鋭のトレーナーとして、若いウマ娘たちと共に純粋に夢を追う日々。 だが、自分に才能がないということを自覚するまでに時間はかからなかった。 本来なら輝けていたはずのウマ娘たちが泣いて学園を去っていくことを2,3度経験した頃、俺の心もまた疲弊していた。  ならばせめて努力でカバーできるようにと、家に帰っても、プライベートの時間にも最先端のトレーニングやメンタルケアの本等を読み漁る日々。だが、もはや評判の悪いトレーナーについてきてくれる物好きなウマ娘など居はしなかった。 自分はなんのために学園にいるのだろう。いや……なんのために生きているのだろう。 ふう、と重い溜め息を吐き出したとき。 「──なぁ、お兄さん」 そのウマ娘と出会った。 「ウチを……買わんか?」 「買う……?」 「ほら、お兄さんお金もってそうやし。……な、火遊びやと思って」  商売女の呼び込みかと思えば、彼女は明らかに見た目が幼く、気丈な声色を作っているもののひどく挙動不審で、また顔色も悪い。 立っているだけでどこかふらふらと頼りなさげで、目の下のクマがひどい。自分よりもずっと年下だろうに、いったいどれ程の苦労を背負っているのか。 「……バカなことをやるんじゃない。ご両親が心配するだろ、送っていくから……」 「……母ちゃんが、倒れたから」  ぼそり、と彼女が呟く。ポロポロと涙がこぼれ落ちる。 「ウチもたくさん仕事してたけど……もう追い付かんくて……どうしようもなくて……やから、もうウチが売れるもん言うたら、これくらいしかないもん……」 「…………」  その姿に……しゃくりあげながら涙をこぼし続ける姿に…… 暗い親近感と、欲望を覚えた。  結論から言って、俺はそのウマ娘を抱いた。ひどく痩せぎすの身体は栄養の不足を感じさせ、また案の定経験は無かったようで、とても辛そうに声を抑えていた。 行為を終えて放心状態の彼女に、銀行から下ろしたお金を丸まま手渡す。 1000万。これまでに貯めた貯蓄の五割以上の大金だ。 「ええっ…!? こ、こんなに貰えんて!」  どうでもいい、と思っていた。金なんていくら持っていようと、使う余暇の時間もなければ、使うための趣味もない。 本来なら未成年に手を出した俺を強請り倒して、残り貯金まで丸裸にしていいくらいなのに、彼女は「10万…いや20万くらいでええって…」と受けとることを躊躇している。 根が善人すぎるのだ。俺とは違う。未だ困惑している彼女に首を振り、1000万を押し付ける。 「いい、受け取ってくれ」 「でも、こんなん絶対お兄さんが困る──」 「自分を買わないか、と言っただろ。それはそのための金だ」 「え……?」  驚く彼女の目も見ずに言いはなった。 「タマモクロス。君これからの時間を買う。だから俺についてきてくれ」  俺よりももっと深くでもがいている君が近くにいれば、少しでも心が安らぐから。 俺は屑だ。 2  連れたって出向いたタマモクロスの家はやはり相当に困窮しているようで、同じように痩せこけた子供たちが腹を空かせて彼女の帰りを待っていた。 向かう前に買い出しを済ませていた彼女は、駆け込むように部屋の中に入り、弟妹たちに喜び勇んで声をかけた。 「チビども、今日はたくさん飯食うてええで!」 「ほんま? タマねえ、こんなんどこで盗んできたん?」 「アホ! 買うてきたんや! ……もうひもじい思いせんでええからな!」 「こんな美味しいご飯、久しぶりや……」  歓喜の中に少しの涙を浮かばせながら家族との団欒を楽しむ彼女を、アパートの外で待つ。 暫く経って、彼女はお腹をさすりながら階段を降りてきた。 「ほんま……ほんまありがとう、お兄さん。お兄さんにもろたお金のお陰で、チビたちがお腹へらさんで済む……」 「いい。それだけの対価をもらったし、これから払ってもらうつもりだ」 「えぇと……」  彼女は顔を赤くしてモジモジと身をよじり、こちらをチラチラと見てきている。 「……ウチ、そういうのよーわからんけど勉強するから……堪忍してな……」 「ああ。とりあえず一月ほどしっかり栄養を取れ。それと、この紙に書かれた自主トレーニングを継続して行ってくれ」 「自主トレ!? ウチのアパート、メチャ狭いんやけど……」 「ああ……弟妹が気にするなら、外でやればいい。とにかく、これは契約のうちだ」 「外で!? お兄さん、キッツい趣味しとるんやな……」  まあお金もろとるししゃあないけど、とぶつくさ呟きながら若干引いた目線を向けてくるタマモクロスは、俺に手渡された紙を受け取ってから、目を丸くした。 「へ……? 坂道ダッシュ、スクワット、レース理論の勉強……?」 「一週ごとに見に来る。サボるのはやめてくれ。じゃあな」 「ちょ、えぇ……?」 呆然とするタマモクロスを置いて歩き出す。兎に角一月後の準備を忙がなくては。 ◆ 「うわ……ほんまに来てもうた……」  ナーバスになっているタマモクロスを横目で見てから、俺は学園の正門を見据える。 彼女に自主トレーニングを積んでもらったのは、中央トレセン学園の編入試験を受けてもらうためだった。 子供の頃は走ることが大好きだったとは言っていた彼女だが、レースに関してはズブの素人の一言だ。一週ごとにトレーニングの様子もチェックしたが、光るものがある気はするものの、中央に合格するのははっきり言って厳しいだろう。  まあ、なんでもいい。中央に合格できなければ、地方を片っ端から受けていけばいい。その時は俺もトレーナーとしてついていく。 よく考えれば中央にこだわる必要など何一つ無いのだ。どうせ俺は無能なのだから。 「ウマ娘、ウマ娘、ウマ娘……ごくっ」 指で何やら手のひらに文字をかいて飲み込んでいる彼女。 「応援してるよ」 心にもない言葉を吐いた。 ◆ 「……合格するとはな……」  正直、合格する可能性は一割もないと思っていたのに。 『感服ッ! 確かに能力的には今抜きん出たものは感じないが、面接の際の彼女のハングリー精神には目を覚まされた思いだッ!! 期待ッ!! 彼女の家族への思い、向上心、それらが周りを巻き込み、相乗効果を起こすことを楽しみにしているぞッ!!』  面接を担当した理事長はタマモクロスの言葉によほど感銘を受けたようで、上機嫌に扇子をひらめかせていた。 トレセン学園への入学は、口実作りだ。過労と病で入院した彼女の母親に、彼女を連れて挨拶に行った。 「まさかタマがねぇ、中央に合格するなんて。しかも奨学金までたくさん貰って……」 「う、うん。そのお陰で母ちゃんの治療費も、チビらの食費もなんとかなる。母ちゃんは何も心配せんでええからな!」 「ごめんねぇ、私が倒れたばっかにタマには苦労かけて……でも報われて本当によかった……うぅっ……」 「も、もう母ちゃん、泣かんといてやっ」  あたふたするタマモクロス。奨学金と偽った金の出所とその経緯について伏せているからか、後ろめたそうな表情を浮かべている。……本当の経緯を知れば卒倒ものだろう。 兎に角話を終え、彼女を連れて病院の外に出る。彼女は大きく伸びをしてから、深い溜め息をついた。 「はぁああぁ~~。まだ実感湧かへんわ。ウチがトレセン学園入るとか……」 「気を抜く暇はないぞ。入学すれば、今まで以上に辛いトレーニングが待ってる」 「あれよりキッツいやつかぁ……ま、家族のためにも気張るしかないわなっ!」  出会ったときと違い、健康的な肌色となった頬で笑顔を浮かべる彼女。 それから、少し思案したを浮かべた後に、たたんっと俺の前に踏み出して、こちらを見上げてきた。 「なぁ……お兄さんは、なんでウチのためにここまでしてくれるんや?」 「…………? なにがだ?」 「だって、お金もろて、トレーニング見てもろて、トレセン学園までいれてもろて……ウチ、お兄さんからもろてばっかや」 「……いや、最初のことを忘れるなよ。君は……」 「あーあーあー! あんま思い出させんといて! ……いやでも、そうやな。お兄さんへんたいロリコンやんけ。ウチが悩む必要ないんちゃう?」  ジト目を向けてきた彼女だが、やはり納得がいかないように言葉を続ける。 「でも……初めからそれが目的やったんなら、ウチをあれから……その、したりせえへんのはおかしいやん? なんでなんや?」 「……あの時なにもせずにお金を渡しても、納得しなかっただろう?」 「まあそれはそうかもしれへんけど……タダより怖いものはない言うし……」 「俺は君の身体には別に興味はない。もう身構えなくていいぞ」 「それはそれでムカつくんやけど?」  ムッとしたタマモクロスは、くるっと背を向けて先に歩いていってしまう。 俺は何の気なしに、最初のときにも言った言葉を伝えた。 「側にいてほしいからだ。理由はそれだけで、君の世話をしたのもその一貫だ。やはり君は、気にしなくていい」 「……なんやそれ、愛の告白かいな」 「そういう意図はない」 がしがしと頭を掻いた彼女は、もう一度こちらに向き直り、両手を後ろ手に組んで、にぱっと笑顔を浮かべた。 「まー、そういうことならこれからもよろしくってことやな、『トレーナー』!」 「……ああ。よろしく、タマモクロス。」  俺と歩んでくれるウマ娘が欲しかった。 でも、輝ける才能を俺の手で潰すことは、もう耐えられなかった。 せいぜい、もがいてくれればいい。夜の街で結ばれた、金だけの関係。信頼もなにもない、俺の自己満足のためだけの三年間に、彼女を巻き込んだのだから。