まだ人もまばらな早朝のトレセン学園、清冽な空気が心地よい。久しぶりの朝練習を早めに切り上げ、私はトレーナー室へ急ぐ。 「……おはようございます」 「おはよう、カフェ」  私のトレーナー。背筋が伸びた、ベストが良く似合う、控えめに見ても好青年。  せっかくの二人きりの空間に、――だが今日は闖入者がいた。 「どうした?」 「いえ……」  トレーナーの側にそれを認める。彼女は私の"友人"、私以外にははっきりとは知覚できない何か。最近の"友人"は私に許可もなくトレーナーにベタベタしていることが多い。目に余る。  私の心を知ってか知らずか、"友人"は何処かへ去っていった。   「今日は朝食はとられないんですか?」  彼はこの時間、ここでよく買ってきたパンを齧っていた。 「いつものパン屋が休みでな。買いそびれたよ」 「それとも、ここで食べるのは迷惑だったか?」 「……私は構いません、トレーナーさんの分のコーヒーを淹れる理由になります……」 「……トレーナーさんも、飲まれますよね?」 「いただこう」  私はコーヒーメーカーのスイッチを入れた――    彼と付き合い始めたのは、私がウマ娘として本格化する以前のことだ。当時の私は伸び悩んでいて、別の道を模索することもあった。そんな折、校内でお腹を空かせていた彼を拾ったのが始まり。素直で、聞き分けが良さそうで、子供のようにも老成しているようも見える男性。学園のウマ娘に、好奇と好意の目で見られていることもよくある。女子校ならばそんなものなのかもしれない。中央のトレーナーの、それもトレセン学園に変な人は入れない。変人は多い気はするけれど……。そんな事を考えていたら、コーヒーの抽出は完了していた。  抽出したコーヒーを二人分のカップに注ぐ。私のものには角砂糖を一つ、彼のものにはミルクと角砂糖を二つ。 「……胃に何か入れてから、飲んでください」  キャビネットの引き出しから非常食のチョコパイを二つ取り出し、コーヒーに添えて差し出す。 「ありがとう」 「……どういたしまして」  二人してコーヒーを静かに啜る、一人で飲むコーヒーとは違うこの時間が、私にはとても代えがたいものだった。……アイツはコーヒー飲まないし。 「うまいな」 「ええ……」  彼が私をジッと見つめている。    この人に寄りかかっていると感じる、我ながらいい拾い物をしたと思うが、この感情は気取らせたくない。ややもすれば溢れ出しそうなものを秘めて、私は学園生活を過ごしていた。二人であればコーヒーのこの苦味も、ひどく甘ったるいものに……。 「ところで」  ……? 「カフェ、君は昨日何杯コーヒーを飲んだ?」  私は渋面になった。 「……三杯です」 「正確には?」 「……七杯です」 「ダメだよカフェ、飲み過ぎは睡眠障害にも繋がる。もう少し控えること、いいね?」 「……どのくらいなら、許容範囲でしょうか」  諭されるように言われ、私はそう答えるしかなかった。 「日に三杯、夕方以降は飲まない」  それでは夜にコーヒーが飲めないじゃないか。夜型の私には辛い。   「失礼します」 「わははー」 「ニャー」  暫くすると、トレーナー室に来客があった。――たづなさんと秋川理事長と猫だ。 「おはようございます、トレーナーさん!」 「おはようございます、たづなさん。今朝はどういったご用件でしょうか?」 「んもぅ、そんなに事務的に言われたら、用がなくても来たくなっちゃいますよ!」 「あはは、それもそうですね。ごめんなさい、気が利かなくて」  用がないのに来る? どういうことだろう。 「先日のお礼と、トレーナーさん向けの書類と、購買の新しいアイテムもあるんですよ!」 「お、相変わらず商売上手ですね」  先日のお礼? どういうことだろう。 「薫香ッ! クンクン これはコーヒーだな!」 「スンスン 確かにコーヒーの残り香ですね、いい匂いです」 「カフェ、頼めるか?」 「……え? 構いませんが……」  これは所謂お茶汲み係というやつではないだろうか?  私は渋々コーヒーメーカーのスイッチを入れた―― 「発見ッ! これはチョコパイだな!」 「もう、はしたないですよ理事長」 「どうぞ、たづなさんも」  彼も二人には甘い。最早やりたい放題だ。 「どうぞ」  抽出したコーヒーを二人分のカップに注ぎ、差し出す。思わず不躾な態度を出してしまったと思い、慌ててこう付け加えた―― 「ミルクと砂糖はいかがなさいますか?」 「ミルクと角砂糖を二つ!」 「では私もそれで」  謎の苛立ちを覚えたが、ぐっと堪える。日頃の訓練が活きた気がする。  ふと彼と目が合った。見透かされたかと思ったが、彼の口から出た言葉はそのようなものではなかった。 「いや、今のやり取りが、どうにも本物のウエイトレスさんっぽく感じてな」 「……そうでしょうか」 「いいですね! メイドさんの服も着てもらいたいです!」  そういう趣味なのだろうか? 「名案ッ! ここを喫茶店とするッ!」  冗談ではない、この人は本当にやる。 「いやでも、本当に似合うと思うよ。そのトレーを持った立ち姿とか、ちょっと無愛想な感じとか……」 「喫茶店ですか。トレーナーさんの作ったクロックムッシュも、また食べてみたいですねぇ……」 「たづなッ! 帰ってマンハッタンカフェの出店計画だ!」 「はいっ」  そうして、嵐のような二人は帰っていった。 「……トレーナーさん、先程」  その時、けたたましく開いたドアの音で私の発言はかき消された―― 「すみません!先日の水族館のお礼に!」 「……わあ、コーヒーだ、いいなあ……」  私は嫌々コーヒーメーカーのスイッチを入れた――  そうこうするうちに午前の授業の時間が差し迫ってきて、私は慌ててトレーナー室を後にすることになった。  放課後、人が疎らになり日が深く傾く頃になっても、私達はトレーニングを続けていた。実のところ、こんなに充実したトレーニングを行うのは久しぶりのことであった。私がレースで好成績を収めるようになるに連れて、私のもう一つの顔――俳優としての仕事が忙しくなっていったからだ。いきなりコマーシャルの仕事が入ったのは、有り難いことだと思う。でも、もしも他の、拘束時間の長い仕事が舞い込んだ場合、競走バとしての活動に悪影響が出るのは間違いない。今でもトレーナーへの負担は大きくなっている。それに……。  私が出演したコマーシャルが放映された時には、同室のユキノ辺りにちやほやされていい気になっていたりもした(今ではからかわれることが多いが)。私のような小娘が、違いのわかるウマ娘だとか、別格だとか、一体何がわかるというのだろう。私は一体何がしたいのだろう。   「……トレーナーさん、今のはどうでしたか?」 「トレ……」  彼の方を見やると、ラチに寄りかかってぐったりしている姿が見えた。良くない気がする。私は慌てて駆け寄った。 「……大丈夫ですか?」 「わりぃ、昼飯も食べそこねてな。腹減ってきた」  言葉遣いが若干雑になっている、酷くお腹が空いている時の彼だ。 「ほら……おぶってあげますから、早く!」 「コーヒー淹れてくれよ、ミルクと砂糖たっぷりだ」 「……しっかり捕まっていてください」 「うん」  私はグラウンドを半周して、そのままトレーナー室に駆け込んだ。  彼をソファに横たえると、私は慌てて非常食が入っていたであろう引き出しに手を突っ込んだ。が、そこには何もなく、空を掴むばかりだった。全て食われていたのだ。  私は慌ててコーヒーメーカーのスイッチを入れ――ることができなかった。給水タンクは空になり、掃除もしていなかった。  慌てて彼を振り返るとぐったりしている彼に、"友人"が巻き付こうとしている様が見えた。それは彼の顎を掴み、顔を近づけていく。 「このっ……!」  私は一瞬激昂したが、直ぐに落ち着き払ったふりをした。私は掛かっていた。  角砂糖の入った瓶から乱暴に数個掴み取ると、ソファの彼に近づき、跨る。 「……トレーナーさん……コーヒーは夕方以降、禁止です」 「おい……」  私は角砂糖を一つ口に放り込み、口の中でどろどろに溶かし、反応も覚束ない彼の口を舌で割り開いて、直接流し入れた。素晴らしい征服感。あの女でも、あの雌のものでもない。この雄は、私だけのものだ。そうして角砂糖がなくなるまで、彼を貪り続けた。    最後の角砂糖を溶かし終えた頃には、お互いにどろどろで、胸は早鐘を打っていた。体を起こした彼と唇を離すと、その間に銀の橋がかかり、ドアから差し込む夕日を浴びてキラキラしていた。ドアも窓も全開で事に及んでいたのだ。 「何やってるんですか!」  一部始終をたづなさんに見られていた。 「応急処置です」   「申し訳ありません」  空になったスポーツドリンクのペットボトルを片手に、彼が平謝りしている。スポーツドリンクはトレーナー室に常備してあったものだ。私達は掛かっていた。 「念の為救急車を呼びましょう」  たづなさんの判断に迷いはない。 「大丈夫ですから……」  彼はそう言うが、あまり大丈夫には見えない。 「今日はとにかく、もう帰ってください。トレーナーさんは、確か一人住まいでしたよね?誰か看てくれる方がいるといいんですけど……」 「……私が看ます」 「おい……」  彼が制しようとするのを、たづなさんが無視して続ける。 「迷惑を掛けないと約束できますか?」  そのまま私ににじり寄ってきて。 「気を付けてくださいね」  右手で人差し指を立てるポーズを取りながら、左手で何かを渡してきた。 「ではタクシーを呼びますので後はそれで」 「本当に心配したんですから、あまり無茶はしないでくださいね?」  頭が上がらない。    程なくしてタクシーがやってきた。頼れる足はいつでもメジロ、でおなじみのメジロタクシーだ。 「ご自宅まででよろしいですね?」 「あ、はい」  やや無愛想な運転手はそれだけ言うと、タクシーを発進させた。夜の街を、滑るように走っていく。 「明日が休みで助かったなあ……あー、非常食も増やしておこう」  彼は、それ以外にはあーとかうーとか、とにかくそんな感じだった。私は私で、疲れが出てきていて、元気はない。食事と睡眠が大事というのを、嫌というほど思い知らされた一日だった。ただ、あの時、内勤が多いたづなさんが、どうしてグラウンド側のドアから現れたのかが気になっていた。一体いつから見られていたんだろう――   「お客さん、着きましたよ! お客さん?」  運転手に起こされた。どうやら二人して寄せ合うようにして眠っていたらしい。 「あまり無茶はしないでくださいね」  運転手にもそんなことを言われた。 「お代は……」 「いえ、既に頂いておりますので」  彼のお金が受け取られることはなかった。  到着したのは如何にも高そうなマンションだった。トレーナー業はそんなに儲かるのかと思ったが、トレセン学園で見る個性的な顔ぶれを思い出し、それ以上詮索しないことにした。    彼の部屋に着いて先にへばったのは私の方だった。 「大丈夫か?」 「……少し、休みます」  ソファに腰を下ろす。思ったとおりというか、少し殺風景な部屋だった。そして信じられない程掃除が行き届いている。 「なにか作るか……いや、出前を取るか……」 「ピザでいいか?」 「……お寿司で」  ピザという気分ではなかった―― 「ありがとうございまス、メジロ寿司ッス! ご注文の寿司お届けに上がりましたッス! こちら商品になりまスッス!」  程なくして出前の寿司が届く。あまりに威勢のいいお兄さんだった。私もこっそり覗き込む。 「お代を……」 「いえ! 既に頂いておりまスッス! 今後ともご贔屓にッス!」  彼のお金が受け取られることはなかった。彼は固まっていた。 「あの、差し出がましいッスけど、あまり無茶はしないで欲しいッス」 「ありあとあしたー!」  威勢のいいお兄さんはそう言って帰っていった。この街はメジロに支配されている。   「美味しい……お寿司ですね」 「ああ、信頼できる人に紹介されたお店なんだけど、なんだか利用するのが怖くなってきたな」  寿司でお腹が膨れて、元気が湧いて来るのを感じる。    問題はその後だった。ここに来るのに着の身着のままで来てしまったのだ。正確に言えば、靴は普通の運動靴に履き替えていたが、ジャージはそのままだった。お腹いっぱいになって忘れていたものが、いざお風呂に入るとなった段で顕在化した。下着の替えもない。 「すまん、これしかない」  そう言って彼が掲げたものは――男物のワイシャツだった。聞いたことはあっても、自分に提示されるとは思わなかった。 「……トレーナーさん……自分が何を言っているのか、わかりますか?」 「すまん、わかりたくない」  素直だ。 「そうだよな、買ってくるよな。お金を渡すから頼むから買ってきてくれ」 「……お金が勿体ないですし、そのワイシャツでいいです……着てあげます、アナタの望むまま」  彼をいじめるのはそこまでにして、私は先にお風呂を頂くことにした。   「……お風呂、頂きました……トレーナーさん?」  彼はソファに腰掛けて、読み物に耽っている。 「着替えないんですか……? シワになりますよ……」 「はは、母親みたいなことを言うな」 「いや悪い、こういうかっちりした格好の方が集中できるんだ」  こちらを見ずに応答している、器用なものだ。できるなら私に集中して欲しい。 「……すみません、ドライヤーをお借りしても?」 「なんでも好きに使ってもらって構わないよ、洗濯が終わったら乾燥機も使うといい」  なんでも? 確かに着るものが無い以外は至れり尽くせりだ、洗濯ネットまであった。一人暮らしの男性って、そんなに洗濯ネットを持っているものなのだろうか。 「ああ、そうだ、これも使って」  彼はキャビネットの引き出しから新品の櫛を取り出した。だがそれよりも、天板の上に飾っていた写真立てを、引き出しの中に隠していたことの方が気になる。 「トレーナーさんに乾かして貰いたいです」 「え?」  彼は最初面食らっていたが、意外とあっさり応じてくれた。    手ぐしをうまく使ってゆっくりブローしてくれている。風呂上がりの肌にドライヤーの風が気持ちいい。寮でもたまにユキノに乾かしてもらうが、誰かにやってもらうこそばゆい感じと、身を預けられる安心感が嫌いな人がこの世にいるのだろうか。 「カフェの髪は綺麗だな」  それにしてもうまかった。まだ若く、遊んでいるという風でもないのに――これが普通なのだろうか。どうにも不安を抑えることができない。 「……トレーナーさんは、怒らないんですね」 「怒る? 何をだい?」 「トレーナー室で襲った事です」 「ああ、確かにびっくりしたけど、好いた人間にしかあんな事はしないだろうし、俺を助けようとしてくれたんだろう?」 「今日は色々ありすぎたけど、カフェと親密になれてよかったと思ってるよ。死にはしなかったし」  それを聞いた時にぼんやりと、ああ、この街の人達は、善良で且つ、社会の規範と自分の規範を照らし合わせた時に、自分の規範を優先させるような、頭のネジが一本飛んだような人達なんだと思った。つまりそれは、この街から出しちゃいけない人達だ。 「ほら、終わったよ」 「……ありがとうございます」 「今日はもう寝な、ベッドも整えておいたからね」  そう言って彼は風呂場に向かっていった。    彼が風呂場に行ったあとで、私はこっそり家捜しを始めた。なんでも使って良いって言ったし。  まず脱衣所で彼の服を漁った。匂いも嗅いだ。そして。あった、ピルケースだ。彼は朝食もとらずに飲んだのだ。困った人だ。  次にクローゼットを漁った。オーダーメイドだろうか、同じようなジャケット、ベスト、スラックスが並んでいる。他には運動用のジャージと部屋着ぐらいしかない、使われてなさそうな外出用の服もあるが、これは彼のセンスではない気がする。どういうことだろう。足元にアイロンとアイロン台があった。自分でかけているのか。総じて服の数は少ない。  冷蔵庫は、開けちゃダメだよね。だが調理器具はとても充実している。飲食店にあるような免許証が飾ってある、調理師免許、食品衛生責任者、防火管理者……趣味、ではないのか。  キャビネットを開ける。隠された写真立てを見つけ出す必要がある。あった、これは…… 「……私だ」  思わず声が漏れた。私そっくりの別人だった。むしろ"友人"に似ていた。だがウマ娘ではない、快活そうなヒト娘だ。隣に写っているのは彼か。  他にもいくつか部屋があって、開ける時ドキドキした。客間にも使えそうな部屋があったが、使われた形跡は無かった。友達は少ないのかもしれない。  このくらいにしておこう。私は案内された寝室に向かった。セミダブルくらいのベッドが置いてあった。枕は一つ。シーツにはシミもシワもないが、枕からは彼の匂いがした。下半身裸で他人のベッドのシーツに挟まれるのは、少しいやらしい気分になった。    たづなさんから受け取ったものも確認してみることにした。箱の中には一通の手紙と一錠の薬が入った箱が入っていた。手紙を読む。    親愛なるカフェへ  他でもないカフェのためにこのクスリを拵えました。このクスリは特別製で、ほぼほぼほぼほぼ100%の避妊効果を発揮します。副作用も軽く、三~四日盛っていても平気でしょう。君はこのクスリを使ってもいいし使わなくてもいい。  君がこれを読んでいる時、君は既に抜き差しならない状況にあるでしょう。アッハッハッハッハッ、今のは最低の冗談さ、流してくれたまえよ。こういうクスリは私の流儀ではないがね。だってそうだろう?避けるより当てる方が楽しいじゃないかアッハッハッハッハッ、これは貸しにしておくよ。アッハッハッハッハッハッ……    私は手紙をビリビリに破り裂いてゴミ箱に捨てた。    私はシーツに包まって考える。写真立ての女の人は、彼にとってどういう存在なんだろう。私は、彼にとってどういう存在なんだろう。彼はアイロンがけもシーツの洗濯もちゃんとしている、私もアイロンがけくらいはできるが、ユキノほど手際良くはない。ユキノの敬愛するシチーさんほどメイクの技術もない。彼と暮らして、支えて、隣に立ちたい。彼の作ったクロックムッシュも食べたいし、彼のマゾヒスティックな性癖を満たして私の虜にしたいし、彼の服を見立てて私の色に染めたいのだ。私は今、俳優という草鞋も履いているが、この道は彼と共に歩けるものだろうか? 接点がない。もし続けるなら、その時は彼も私も競争バ界から去っているだろう。私の中で彼と彼を構成するものが、どんどん大きくなっていくのがわかる。同時に、進めべき進路がはっきりしていく。  彼は私のトレーナーで私は彼の競争バ、今はそれ以外になれないし、それ以外は不要だ、だが、結局の所――私はこの人のおよめさんになりたいのだと、その時ようやく気付いた。    彼が風呂場から出てくる。ここで落とさねばならない。客間を設けなかったのが、アナタの敗因だ。  思った通り、彼はソファで寝るつもりのようだった。なんとかして引き込もう。 「どうしたカフェ、眠れないのか?」  私を認めた彼がそんな風に言ってくる。子供扱いするような、少し歯の浮く感じで。裸にワイシャツという出で立ちの女性に掛ける言葉ではない。いつもそうだ。気安く呼び捨てにしやすい響きの自分の名前が、少し恨めしいこともある。だから乗ってやった。 「はい……ですので、添い寝して欲しくて」 「え?」  さっき見たような反応が返ってきた。楽しい。ひょっとしたら懇願されるのに弱いのかもしれない。……。学園にそんな子が居たことを思い出し、少し危機感を覚える。そして、閃いた。 「……お願いします、お兄さん」  息を呑む音が聞こえた。 「……今日はこれから、トレーナーさんのことを……お兄さんと呼びたいと思います」  少し予定と異なるが、無事に彼ををベッドに引きずり込むことが出来た。だがそこから進展はなく、彼はこちらに背を向けたままだ。私は切り出した。 「一つだけ……いいですか?」 「なにかな」 「……私はそんなに、その人に似ていますか?」 「見たのか」 「……御免なさい、写真立てを隠しているのを見て、どうしても気になって……」 「姉だよ」 「……お姉さん、ですか」  彼はこちらに向き直って、ぽつぽつと語り始めた。 「親が再婚して出来た、六つ離れた血の繋がらない姉でね」  なんとなく察してしまった。 「……連れ子同士ということですか」 「ああ」 「やっぱり私と……似てらっしゃるんですか?」 「カフェと? ないない、それはないよ」  久しぶりに彼の素の笑顔を見た気がする。それだけで少し安心してしまった。 「あれはとんでもない乱暴者でな、まだ小さかった俺は、家の手伝いやらなんやらを全て押し付けられていたってわけさ」 「髪の手入れもですか?」 「あれは仲良くなったお手伝いさんに仕込まれた感があるな」  やはりどこかたらしの気があるように感じる。 「……可愛がられていたんですね」 「……そうか? まあ実家もずいぶん広くなっちまっただろうし、偶には顔を見せたほうがいいのかな」 「……お姉さんは、今どちらに?」 「嫁いでいったよ……」  全てが氷解した気がする。なんだ、結局、私が掛かっていただけだったのだ。  この際全部聞くことにした。 「あの外出用の服は?」 「そこも見たのか、末恐ろしいやつだな」 「あれは姉が結婚する少し前だったな。いきなり連れ回されたかと思ったら、買ってくれたものだな」  私は苛立ちを隠せなかった。私だったら―― 「私だったら、お兄さんを逃したりなどしません!」 「……生意気言ってるんじゃないよ」  お兄さんは私の体を掻き抱いて、頭をぽんぽんとしてくれた。 「それまだ有効だったんだ」  お兄さんが、そのまま満足して寝てしまいそうだったので、私は早くも切り札を切ることにした。 「……ところで今日、たづなさんにこんな物を貰いました」 「これが何か……わかりますよね」  私は、クスリが一錠だけ封入されたシートをひらひらさせた。 「あの人はまた……」 「特別製で、三~四日盛っても平気だそうです……」 「それで?」 「……それで、ですか」  私は窮してしまった。 「大人をからかっちゃいけないよ、カフェ」 「……お兄さんは、童貞さん……ですよね」 「ど、どどど童貞ちゃうわ」 「……いいじゃないですか、童貞でも……嫉妬深くて、辛気臭い女とは……きっとお似合いですよ」  お兄さんの下腹部の方へ手を這わせる。自分にはない、フニフニしたものが、熱く脈打っていた。 「こういうのを……破れ鍋に綴じ蓋って、言うんですよね……私はこの表現好きです」 「お前とヤったら、俺はムショ行きだろうが」  一瞬、お兄さんの理性が飛んでしまったように見えた。同時に、さっきまでフニフニしていたものが、より大きく、固く、熱くなっていた。 「……バ、バレなきゃ平気です……私も言いませんので」 「言ったな」  お兄さんは私からピルを奪い取ると、私が用意しておいた水をいつの間にか手に持っていた。 「むせるぞ、ちゃんと飲めよ」  口を割って私の舌にピルを乗せると、水を含んだままキスをしてきた。  セックスが始まって数秒で、私はドロドロに嬲られていた。お兄さんは私の体を、好き放題に貪っていたが、手付きだけは優しかった。調子に乗るんじゃなかった。  全身が弛緩しているのを感じる。ヒトはウマ娘には勝てないんじゃなかったのか。好きな人だと、こうなるのかな。 「挿れるな?」  少し落ち着きを取り戻した声音で、お兄さんが近づいてくる。熱い。裂ける感じはあったが、痛みはあまり感じなかった。自分の肚の中に他人が入ってくる感覚。自分の急所にそれが収まっているというのは、力でどうにかなるものなのだろうか。でもお兄さんのおちんちんだからいいや。  それから少しずつ体ごと抽送されていると、タキオンの最低な冗談が思い出されて、思わず笑ってしまった。 「なんだ、余裕があるな。少し激しくするか」  それを余裕と受け取られて、無遠慮に突かれる。自分でするのとは違う、予測の付かない動き、待って、待って。 「すまんなカフェ、俺も楽しくなってきた。なにか嬉しくてたまらない」 「ところで」  ……? 「あの怪しげなクスリ、もし説明が全部"ウソ"だったら、カフェ、君はどうするつもりなんだ?」  その瞬間、お兄さんは絶対笑っていた。ひどい人だ。 「え!? 嫌、トレーナーさん、待って……」 「ッ!」  無意識に力を入れたのがまずかったのか、お兄さんも私も、そのままイッてしまった。はじめてなのに。   「悪かった」  当然私は不機嫌になり、お兄さんを謝らせつつ、乳繰り合っていた。  お互いに汗をかき、お兄さんの寝間着も私のワイシャツも汗を吸っていたので、お互いに新しいワイシャツを着た。変態のペアルックだ。  ペットボトルの水を回し飲みしただけでは、失った水分は足らないので、私達は二人して禁を破ることにした。深夜のコーヒーブレイク。 「こういうのがいいんですよね……」  そう言って私は空のカップを二つ持ち、片方をお兄さんに差し出す仕草をした。 「そういうのは起き抜けのシチュエーション込みだからどうだろう」  そんな事を言いつつ、お兄さんのおちんちんはしっかり反応していた。人体の神秘を感じる。きっとこの後もまたするのだろう。  とにかく汗をかいていたので、私は塩コーヒーを試してみることにした、酸味が和らぐらしい。お兄さんが言うには、入れすぎないくらいがいいとも。 「……味が、丸くなる感じがしますね」 「ミルクや砂糖も入れると、どんどん違う味になっていくけど、俺は嫌いじゃないよ」 「明日は……クロックムッシュを、ごちそうしてください」 「よく覚えてるな……」 「客間を用意しておかないと……また食べられてしまいますよ」 「可食部はもう残ってないよ……」  そう言ってまた頭を撫でられた。可食部がなくても、骨までしゃぶられるかもしれないのに。だが今の私には、所謂正妻の余裕というものがあった。私が一番。 「……お兄さんは私の髪、好きですか?」 「そういえば言ってなかったな、俺はカフェが、好きだよ」  ……! 「取って付けたように、言わないでください……私もお兄さんが好きです」 「カフェをベッドに押し倒して、広がる長髪を見た時、想像以上にクルものがあった」 「もう……」 「さ、もう冷えるから戻ろう」  ベッドのシーツを取ると、赤い血痕が残っていた。私の破瓜の血。お兄さんに奪われた証。 「どうする、これ? 一応写真でも撮っておくか?」 「……流石にその発言は、引きます……でも、一応撮っておきますか」  シーツを畳んで、取り替え、やることもないので、ベッドに潜り込んだ。冷えた体を温めるように、色々ヤってみた。何しろ、精力体力が続く限り、ヤリ放題だったので、お兄さんが倒れる前に、お兄さんが作った軽食をつまみながら、ヤリ続けた。綺麗だった室内は、怠惰そのものの空間になっていた。 「……もう出ませんね」  くたくたになったお兄さんのおちんちんをつついて、しゃぶる。 「お兄さん……今更聞くことではないかもしれませんが、お姉さんのこと……好きでしたか?」 「好きだったんだと思う」 「……私とセックスしていて、お姉さんとセックスしている気持ちには、なれませんか?」 「変なやつだな、カフェはそれでいいのか?」 「私は構いませんよ、今、愛されているのは……私ですから」 「俺は嫌だな」 「……ウソばっかり」 「お姉さんの話をした途端……お兄さんのここは、元気になりましたよ」  私はお兄さんの下腹部に跨った。 「それに……んっ、私、お姉さんとは……他人のような気がしないんです」 「お兄さんは、私の噂っ……知ってますよね……」 「私がよく見ている子に、お兄さんのお姉さんが…………そっくりで」 「それはつまり、私ともそっくりということです」 「……お兄さんも、少しは動いてください」 「こういうのは」  お兄さんは私の腰を掴み、グリグリと押し付けてきました。 「あ……イイです」 「私、あの子をずっと追いかけていたので」 「今はなんだか、勝ち誇ったような、勝利を分かち合ったような……そんな気分でいっぱいなんですよ」 「トレーナーさんのおかげで、私はいま幸せです……」 「今は、お兄さんだろ……!」 「きゃ」  お兄さんが上体を起こして私にキスをしてくれました。 「俺はカフェに拾って貰った時からずっと幸せだから、俺の方が得をしてるな」 「……照れ隠しですか」 「うるさい」 「……だからっ、お兄さんが私とセックスする時はっ、安心して、全部吐き出して貰いたいんですっ……私と、お姉さんと、あの子の分も含めて……全部っ!」 「ふっ、このエロウマ娘が」 「……あっ」  私達はその日一番の絶頂を迎えて、疲れて寝ました。  次に目が覚めた時には、午後の四時を回っていました。完全に休日を潰してセックスに励んでいた格好です。ただ快楽を貪るために。  それから水分補給をして、ご飯を食べて、掃除をして、お風呂に入って、洗濯して、乾燥して、服は乾いていたけどちょっとセックスして、寝て起きたら日曜の朝でした。 「レース入れてなくて助かったな、今日で戻さないと」  お兄さんはいつものベストを着ていました。多分休みの日も外出の可能性があれば、こういうスタイルなのでしょう。 「宅配便の再配達が今日の午前に来るから、人前に出られる格好に着替えろよ? 君宛だ」  のそのそとベッドから這い出てジャージに着替える。この部屋ではずっと裸同然だったので、真人間に戻った気分だ。  テーブルにクロックムッシュとコーヒーが用意されていた。目玉焼きが乗っているのでマダムだ。ありがたい。この万人受けしそうな味、朝ごはんなんてこんなんでいいんだよ。 「次はカフェがエプロンを付けて料理を振る舞ってくれよ」 「……いいですよ」 「……無愛想に振る舞えばいいんですか?」 「勿論」 「……一応聞きますが、無愛想なウエイトレスの、どこがいいんです?」 「無愛想なのに嫌々ながら良くしてくれるのが独占欲を煽るところ」 「……変態」  ちょうど食べ終わる頃に宅配便の再配達がやってきた。 「ありがとうございまス……メジロ運送でス……荷物の再配達に上がりましたっス……こちら荷物になりまス……」 「どうされたんですか?」 「いや、なんか職場が凄いどんちゃん騒ぎで、金一封とかなったんスけど、自分ちょっと、ついていけないかなって……」 「いやっ、これはお客様に話ス内容じゃありませんでしたね。ありあとあしたー」 「……あまり無茶はしないでくださいね」 「荷物何だったの?」 「これは私の私服と靴……」 「それはアウトなのでは?」 「……と全く同じデザインとサイズの新品ですね」 「あ……そうなんだ……」  この街はメジロに支配されている。   「……せっかくですから出掛けましょう、お兄さん」 「何処に?」 「決まってるじゃないですか、服を買いに行くんですよ」 「わかったよ、じゃあ着替え終わるの待ってるから」 「……何言ってるんですか、お兄さんも着替えるんですよ」  私はクローゼットから、暫く主に着られることの無かった、余所行きの服を取り出した。    TWO MONTHS LATER  まだ人もまばらな早朝のトレセン学園、清冽な空気が心地よい。私は久しぶりの朝練習へと急ぐ。と、この時間には会いたくない人物と出会った。いや、できればどの時間帯でも避けたい。 「やあやあカフェ、こんな時間に会うなんて奇遇だねぇ」 「おはようございます、それでは、先を急ぎますので」 「まぁ待ちなよカフェ。聞いたよぉ、俳優業やめちゃうんだって? 率直に聞こう、何故だい?」 「……答える義理はありませんが、しつこく訊かれるのも困るので、私も率直に答えます」 「俳優業を続けた時のデメリットが大きくなったからです……特に私とお兄さんへの負担が」 「ふゥン、君は選び取ったんだね、その心意気は好きだよ、それに、多少はハキハキ答えるようになった。」 「ところで。お兄さんって誰だい?」 「な、なんですか、別にいいじゃないですか、お兄さんはお兄さんですよ」 「アッハッハッハッハッ、最高だよ君、私の出る幕はないようだね」 「ですから……先を急ぎますので」 「私は君に、マンハッタンカフェの最初の一杯を供して貰いたいだけさ。それに君は断れない」 「そこまで言うのならいいですけど、アナタコーヒー飲めるんですか?」 「おや、もしかして私が無策でコーヒーに挑むと思ったのかい?」  結局押し切られてしまった――   「おはようトレーナー君、マスター、それともお兄さんが良かったかな」 「おはようございますタキオンさん」  なんで普通に会話を続けてるんだろう。 「カフェを捕まえてきたよ」 「助かります」 「何してるのさカフェ、さっさと着替えてきなよ」  私は渋々更衣室に向かった。 「随分立派な建物だね」 「理事長のやることなので」 「ここの仕事は苦にならないのかい?」 「模擬店の延長のようなものなので楽しいですよ、人も増える予定ですし」 「カフェとの初めての夜は?」 「秘密です」 「ぶー」 「制服は、これしかないんですか?」  ここの制服は結局メイド服になってしまったんだねぇ。恥ずかしがるカフェはカワイイね。 「それじゃあ、コーヒーを一杯頼むよ」  コーヒーが抽出されていく。淹れたての匂いは悪くないんだけどねぇ。  コーヒーがカップに注がれていく。そろそろだねぇ。 「どうぞ」  ガンッ! 「カップを下ろした後のトレーをテーブルにぶつけるのもそうだが、その無愛想な態度いいねぇ! ゾクゾクするよ!」 「……」 「ん? なんだい?」 「一応聞くけど、無愛想な態度のウエイトレスの何処がそんなにいいの?」 「無愛想なのに嫌々ながら良くしてくれるのが独占欲を煽るところに決まってるじゃないかっ!」 「……変態共め」 「ミルクは二倍、角砂糖は六個にしてくれ給えよ!」 「セルフサービスとなっております」  コーヒーは苦いねぇ。こんなもの、飲めたものじゃないねぇ。カフェの驚いた顔が見れたから良しとするかね。 「私もモルモットくんに慰めて貰うか」  自分の真に欲するものを見極めて、取捨選択できるなら、それは違いのわかるウマ娘と言えるんじゃないか。  自分で選んだ道を進むなら、期待の枷をはめられたり、愛しい柵が付いて回るぐらいが華だねぇ。 おしまい