「ごめん、やっぱりちょっと怖い…」 見上げた男の人がいつもより大きく見えて、胃が冷たくなるような恐怖を覚えた。絞り出した声なんて震えて掠れてたかもしれない。それは昼間子どもみたいに泣いてぐずったせいかもしれないんだけど。 「そうだろ?」 へらへら笑いながら、私に覆い被さる体勢をやめたトレーナーが乱れた髪を整えるように頭を撫でてくれる。 「ちゃんと怖いって言ってくれてよかった」 右耳に引っかかったアクセサリーをいじる。手つきは乱雑だけど優しくて、親愛以上の意図はないんだと強調しているみたいだった。 「ごめん。ちょっとおかしかった。私らしくないね」 私らしくない。でも、クラシック戦線を前にしたこんな時期に脚を怪我して、もしかしたらもう一生走れないかもしれないのに「私らしい」って何? この状況で「フジキセキ」としてできる振る舞いなんてあるの? 「お前らしくなくていいよ。俺はみんなのためのフジキセキじゃなくてお前と話してるんだから」 トレーナーがそんなことを言うから、また泣いてしまう。 走れないかもって分かったとき、自暴自棄なんて言葉も生ぬるく、寮長も王子様も、「フジキセキ」さえもやっていけないと思った。みんなの期待に応えられない私を私だと認めたくない。誰にも見てもらえない自分のことなんて好きになれない。 「だからって自分を傷つけるようなことしたらダメだろ。誘ったのが俺だったからよかったけど、ほかの男にこんなことしたら怖いって言ってもやめてもらえないぞ」 「うん」 泣きながら抱いてなんて頼んだ教え子に対してここまで付き合ってくれるこの人は本当にいい人だと思う。 「大丈夫だから。俺がついてるって言っても頼りないかもしれないけど、リハビリもトレーニングも付き合うから。今日は休んで、明日からまた頑張ろう」 それから一晩中泣きじゃくる私を抱きしめてずっと話をしてくれたから、結局翌日は二人とも休みを取らざるをえなかった。 ──っていう、私自身あんまり思い出したくない失敗があったせいか、紆余曲折の末恋人になった今もトレーナーは私に触れるのを避けていた。 あのあと、私は無事治療を終えてクラシックもシニアも走りきったし、URAで優勝することもできた。本当に色々あって結構苦しかったし、何よりトレーナーを口説き落とすのにものすごく苦労したけどそれはまた別の話で、目下の問題はどうやって彼に手を出してもらうかということなのだ。 「だから一回別れない?」 「なんでだよっ!?」 大きな声を出したトレーナーにびっくりして目を丸くしていたら、「驚いたのはこっちだよ!」ってまた大声。いやぁ、いかにトレーナー室が個室だからって、そんな大声出したら怒られちゃうよ? 「んー、だっていかにも面倒な処女って感じのことしちゃった自覚あるから、一回トレーナーと別れて経験積んでこようかなって」 「俺と別れたからって経験積むアテが……! あるだろうな……」 あれ、今度はすっごく小声になっちゃった。肩を落としたトレーナーの座る椅子の前にしゃがんで、顔をのぞき込む。 「なんか落ち込んでる?」 「恋人に別れ話されたら普通に落ち込むわ。バカ…」 「君、私のこと普通に恋人だと思ってたんだ」 「お前から告白してきたんだろ!?」 「いや、そうだけど。そうだからさ。あのときだって君は断らなかったし、私のままごとに付き合ってるくらいの気持ちなのかなって思いはじめてたんだよね」 嬉しいなぁってニヤニヤしてたら、ぎっと睨まれてビックリしちゃった。 「フジは俺のことが好きなんだろ?」 「え、うん。大好きだよ。私の王子様だと思ってる」 「おっ……………王子様、に、なれるかは分からないけど。じゃあ付き合うのは俺でいいだろ」 「うん。君とお付き合いしたいし、お付き合いする以上はしたいことが沢山あるからその目的を達成するために修行が必要かなって」 「修行って…」 うんうんと頭を抱えて唸っていたトレーナーが突然椅子からおりて床にしゃがんだ私と同じ目線になる。 「フジ」 名前を呼ばれたかと思ったら、次の瞬間にはピントが合わないくらい間近にトレーナーの顔があった。あ、あれ? キスされてる? 「ん、ちゅ…♡ ふぁ………んんっ、ぐ…♡」 べろりと私の唇を舐めた舌が、ぽっかり開けた口内に簡単に侵入してきて唾液に濡れた粘膜を撫でていく。舌の先で口蓋を撫でられてしっぽの先から背中までゾクゾクとした感覚が走るから、上手くしゃがんだ体勢を維持できずに座り込んでしまった。 「ん、ふ……♡ はー…♡ …………トレーナー?」 「……今夜でいいか?」 「えっ?」 「経験なら俺とすればいいだろ。今夜俺の部屋に来い。外泊届、寮長なら何とかできるよな」 「う、うん」 怒ってる? って聞く間もなく約束を取り付けられてしまったから、門を閉めたあとどうやって寮を抜け出そうか算段するしかなくなってしまった。