ナイスネイチャ 商店街に生まれ、幼いころからウマ娘らしく走るのが好きな子供であった。 相応の実力があったのでトレセン学園に入学し、そこで上澄み中の上澄みの才能に触れ自信を失うこととなった。 努力しても届かない挫折の経験は彼女を卑屈にさせ、けれども面倒見がよく根は素直なので学園内でも孤立することは無かった。 トレセン学園はウマ娘の集う学園である。学生の全員が走ることに情熱を傾け、その生きざまに多くの人が魅せられている。 とりわけ輝きに脳を焼かれたものはウマ娘たちを一番近くで応援したいという情熱を持ち、学園所属のトレーナーになるのである。 そういう因果があってか専属の関係になるトレーナーとウマ娘は非常に波長が合うことが多い。同じ目標に向かってその半生を捧げるものどうしさもありなんといったところである。 これだけなら熱量の高いレースが行われるの舞台裏に収まるのだが、厄介なことにウマ娘は全員美少女である。 そしてトレーナーの半数以上は男性である。これが意味するところとは何か。 同じ目標に向かってその半生を捧げるもの、そしてそれが男女ペアということでトレセン学園では専属関係がレースで終わらないことが多々あるのだ。 片や美少女の輝きに魅せられたもの。片や自分の為に全てを捧げる覚悟のある成人男性と巡り会えたもの。 熱情は慕情に伝播し、教育機関としてあるまじき過ちが横行するのは当然と言えば当然のことであった。 学園運営も諦めたのか吹っ切れたのかは分からないがこういった不祥事は黙認する傾向にある。 長く前置きしたが、入学して数年たち、そこそこ交友関係が広がったネイチャを待っていたのは官能小説もかくやという生々しい体験談の数々だった。 その全てが各自の専属トレーナーとのもので、噂に広げれば生徒会も既に生娘が一人もいないとのことだから大変である。 特に同級生の友人が既に肉体関係まで駒を進めている事実は非常に応えるものだった。 ネイチャも専属トレーナーと契約しているウマ娘の一人で、例外なくトレーナーに惚れこんでいた。しかし培われた卑屈さが邪魔し周囲から一歩関係性が遅れていたのだ。 表面上は何でもないよう流したが、内心の波風は嵐のごとく。その日はあれやこれやと考え眠れなかった。 自分も強火のアプローチをしたほうがいいか、そんな恥ずかしいことできるわけがない。 いやしかし、あるいは、などと雀が鳴くまで考えていたのは苦い思い出である。 中でも頭を悩ませたのは一線を越える算段だった。年頃な訳でそういう情報はよく知っていたが、想定と実践が違う事はこの数年で痛感している。 文字通り丸裸、保険も仕掛けもできない状況で万一粗相をしようものなら二度と立ち直れない確信めいたものがあった。 ならばするべきは準備、と考えたのは彼女の人生における大きな失敗だったのだろう。 紆余曲折あり、彼女はその純潔を肉屋のオヤジに捧げてしまった。さらに強烈に快感を刷り込まれたせいで、完全に行為が癖になり定期的に入りびたるようになったというから笑いぐさである。 回りには料理の練習といっていたが、実際デキたのは日の目を見ることの無かった水子くらいである。 商店街には花嫁修業という噂が広まり、親切なおじちゃんおばちゃんが色々仕込んでくれたがそれがオヤジとの逢瀬の擬装だと知ったらどう思うだろうか。 ともかくとして様々な家事スキルと性技を身に着けた彼女、しかし本業のレースでは思うような結果が出ず少ない自尊心をさらにすり減らしていた。 それを見かねたトレーナーが地方周りに連れ出し、少しづつ実績と自信を重ねていこうということになった。 小倉記念を勝利で飾り、次の目的地へと向かうべくプラットフォームで列車を待っているときのことだった。 「あ、預けてたお菓子もらっていい?」 「いいよ、はい」 「さんきゅ、……何か落ちたよ?」 「あっ!それは……」 荷物からお菓子袋を取り出したときに、ひらりと落ちたのは一枚の折り紙。 「へろへろしてるけど…トロフィーかな?」 かわいい趣味してるじゃないですか、となんだか温かい気持ちになる。昔は商店街のおばちゃんによく教わった。 などと考えていると、隠し事の見つかった子供のような顔をしてトレーナーはこう言った。 「ネイチャに、あげようと思って……」 上手くいかなくて、とか捨てるつもりだったとか、そんな言い訳はもう彼女には聞こえていなかった。 よれた、質素な一番の証。 わざわざどこかで買ったのだろう、思い付きでやったに違いない。 ともすればごみと間違えそうなそれは、しかし彼の不器用さをこれ以上なく表している。 (私の、ことを) こんなに思ってくれているとは知らなかった。思えばこの巡業も彼の提案ではないか。 負けて悔しがる私を、私以上にに心を痛めてくれていたのが彼ではないか。 だから遠回りでも堅実な道を選び、できることはどんなに些細でもやる。 負けて笑う顔を見たくないから。 勝って輝く私を何より誰より望んでいるから。 「……うっ、うっく」 「……ネイチャ?」 「はあっ…ぐすっ……ひぐっ、うう……」 「な、なんで……!?ネイチャ!?」 たまらず涙があふれ出る。人目などはばかる余裕はない。 脚に力が入らなくなってへたり込んだ彼女を彼はどうにか慰めようとする。 「ぐうっ……ひっ…ごめ、ごめん…なさぁっ……」 それは彼の信頼への裏切りへの謝罪。弱い自分が弱いまま犯し続けた罪への懺悔。 あらゆる記憶が混じりあって瞼を突く。後悔が心を割き、押し込めて膿となったものを嗚咽に変えて吐く。 ふわふわのおさげをぐしゃぐしゃに振り乱し、涙も鼻水も構わず袖に擦り付ける。 トレーナーは何も言わず、言えない。何が彼女の痛みであるかを知らない。 背中をさするばかりの彼は、いつも以上に自分の無力を憎むほかにすべきことが分からなかった。 「……落ち着いたか」 「…ん、ごめんね、トレーナー」 あの後列車に乗るどころではなくなった一行は駆け付けた駅員に事情を話し、ひとまず駅併設のビジネスホテルで一泊することにした。 泣き止むころ、空に橙色の扇以外には何も残っていなかった。 マグカップに紅茶のパックが入ったものをベッドテーブルに置き、二つあるベッドの向かい側に腰掛けた。 泣き腫れ、赤ん坊のようになった顔を俯けて隠す。外では真っ黒な背景にぽつりぽつりと音のみが聞こえていた。 自分が今まで隠してきたこと、トレーナーの存在を盾に快楽を貪ったこと。 巡業の話を聞いて、一番に心配したのが商店街に行けないことだったこと。それほどまでに自分が腐り果てていたこと。 根底にあるのは変わらずあなたへの思いであること。けれど今まではその気持ちにどこか軽薄さがあったこと。 時間がたつにつれて雨が激しくなる。この場の全ての音を、彼は押し黙って受け入れた。 「辛かったな」 唯一発された音に彼女の顔が久しぶりに光を浴びた。 憎むでも失望するでもなく、あなたはこんな時まで、私のことしか考えていない。 朱い顔がまたみるみる歪む。彼の胸に飛び込んで、また盛大に泣いた。 シャツに涙と声を吸わされても、やはり彼は黙って彼女の背を撫でる。 外に出せば誰もが鼻をつまむであろう汚れた自分を抱きしめてくれる、こんな彼を思って三度泣いた。 雨が降り止むのと泣きつかれて眠りに落ちるのと、どっちが速かったかは誰にも分からないままである。 肌を重ねずに男の胸の中で目覚めるのは初めてだった。寝ぼけ頭にも、そんな清い付き合いが彼と出来て嬉しいと感じることができた。 小倉の始発から、いくつか乗り継いで合宿所に着いたとき出迎えてくれた友人たちは 「「あー!ネイチャがトレーナーとイチャイチャしてるー!」」 なんて騒ぎたてたものだからいつもの調子を取り戻すのに苦労はしなかった。 告白と夏合宿を経てからは菊花賞を初め快進撃をつづけ、有馬記念やURAファイナルズといった大舞台で結果を残すことに成功した彼女らはとうとう二人で温泉を楽しむほどの仲になっていた。 彼はというと、実は彼女の告白でかなり心を乱されており、湯煙にしなだれる彼女を相部屋に連れ込みそれはそれは長く激しく交わりあった。 学生の身分に手を出すのはどうかと思うが、むしろ2年半穏やかでない心中でよく耐えきったほうだと感心するべきかもしれない。 彼女は彼女で昔取った杵柄で彼の一物を玩び、それに嫉妬したトレーナーに"折檻"されるのが一つの流れになっていた。このときばかりは肉屋のオヤジに感謝し、それが更に彼を焚きつけることになった。永久機関である。 温泉から帰った彼女らは熟年夫婦も苦笑いするほどに相性が良く、順当に結ばれ沢山子どもに恵まれた。一人目が二人目であったことで彼がまた燃え上がったのは言うまでも無いだろう。 肉屋含む商店街の面々に祝福された時の彼女の笑顔は、今でも居間を飾る一輪として大切に立てられている。 「そうか……そりゃあ良かったじゃないか」 肉屋の二階、普段は繁殖所と化すそこは今やただの居住区画であった。 小倉から帰って荷解きも終わったころ、彼女はそこにまた訪れた。交わるためではなく、対等に向き合うために。 「……うん、だからもうここには来ないと思う」 お肉は変わらず買いにくるけどね、と慌てて付け加える彼女をオヤジは穏やかな目で見ていた。 元々が彼女の暴走で始まった関係なのだから、彼女から卒業してくれるのに勝るものは無いだろう。 名残惜しいと言えば嘘になる。これを逃せばもう二度と十代の女を抱く機会は無いと心の底に確信があった。 だとしても、彼女はやはり、娼婦ではなく娘同然の存在だった。 「すまなかった!本当は最初から止めておくべきだったんだ!」 膝と頭を畳に擦り付け、愚行を詫びる。今さら30字にも足らぬ謝罪で消える傷をつけたわけでは無いことは分かっていた。 「いいよ今更、トレーナーさんもあんまり気にしてなさそうだったし」 これは嘘であるのは先に述べたとおりである。 しかし彼女にも怒りや憎しみは無かった。むしろ迷惑をかけたのはこちらだと謝りたいくらいだった。 しかし、言葉以上に渡せるものは無く、せめて、彼が今後も肉を売れるように口をつぐむくらいのことしかできない。 「じゃあ、言うべきことは言ったよね。あ、肉料理はまた習いにくるかも」 玄関で爪先をたたきつけながら、背中越しに軽口をたたく。 それを黙って見送る、いつもの光景の最期。 「ああ、気をつけてな」 夕陽を背に去る少女の背中に手を振りながら、初めてかけられた一言を噛みしめ、肉屋のオヤジは本業に戻るのだった。 「それじゃあ、またね」