一糸まとわぬ肢体は、健康的な張りと女性的な丸みに富み、頭の天辺から足の爪に至るまで芸術品の如き美しさだ。 遮光カーテンの隙間から板のように朝日が入り込んでいて、それを背に受けた姿は後光が差しているようで神々しくすらある。 その横座りで両手をベッドに付き、俯けた顔には髪がはらりと落ちて表情は読めない。 薄桃色の乳房の頂も、腰のあたりに絡むシーツの向こうに見える恥毛も、特に頓着した様子も無くじっとこの姿勢を貫いている。 シンボリルドルフ。皇帝の朝の姿である。 「まだダメか」 いくらか焦れて声をかけると、心底億劫そうに片手を持ち上げ、髪をかき上げるルドルフ。 大きな大きな溜息と共に漸くご尊顔拝謁の栄に浴したが、その瞼は堅く閉じられていて、芸術品と呼ぶには少しコミカルな印象を受ける。 髪をかき上げた手をどうするかと思っていたら、手の甲でぐしぐしと、見た目からは誰も想像がつかないほど雑な動きで目元をこすりだした。 そして、大欠伸。 「よく寝ていたはずなんだけどね」 「あふ」 「あくびで返事するんじゃない」 そう、彼女はとてもとても寝起きが悪いのだった。 出来ることなら、きっと自分しか知らないこの姿を独り占めし続けたいのだが、彼女にも世界にも等しく朝は来ている。 ルドルフの寝起きの悪さは織り込み済みで、彼女さえその気になってベッドから降りてきてくれれば、後は身支度をして朝食を口にするだけでいつもの皇帝になるだろう。 しかし全裸の彼女が俺のベッドに居る事から察せられるこの関係性を経て以来、日に日に寝起きの悪さがひどくなっている気がする。 どうせ最後は強引に起こされるからと丸ごと甘えてくれているなら男冥利にも尽きるが、とはいえ朝を迎える度に手強くなられると、呆れはしないが手はかかるのだ。 「ルドルフ」 「ん」 返事が最低限である。もう少し時間がかかりそうだ。懐柔を続ける。 「今朝は君の好きなスムージーと、ジャムの乗ったトーストだよ」 「うん」 頷きも返ってきた。飲食物への反応があるのは良い傾向だ。 「天気もいい。少し早く出て生徒会の仕事を片付けると聞いていた気がするが」 途端、横座りからベッドへ倒れるルドルフ。しまった。寝起きに仕事の話題はやはり一長一短だ。 責任感の強い彼女のことだから気合が入る時もあるのだが、今朝は裏目に出てしまった。 やむを得ず、ベッドに腰掛けて肩を揺することにする。 「ほら、頑張ろう」 「んん……」 枕に顔を突っ込みくぐもった返事をする七冠バ。この姿を知られるわけにはいかないという気持ちと、共有したい気持ちが常に同居している。 根気よく優しく肩を揺すっていた手が、不意に握られ、指を絡められ、抱き込まれた。柔らかく、暖かい感触に自分の方が目が冴えてしまう。 昨夜隅々まで堪能したにも関わらず、彼女の柔肌はいつ触れても新鮮な胸の高鳴りと情欲を催させるのでよろしくない。 「ルドルフ、これじゃ動けない」 「ふふふ」 笑っている。殆ど起きているのだろうが、単に気が乗らないのだろうか。その間も、ぐにぐにと人の手を弄び、解っていて胸の間に挟み込むルドルフ。 大人として、男として、理性的な顔を保たなければならないこちらの気を知った上でこうするのだから、可愛くも憎らしくもある。 仕方ない。少々強引にいこう。 空いている手を彼女の体の下に入れ、脇腹を捕まえて上体を勢いよく抱き起こした。 「つかまえた」 そして起こした上体から両腕が伸びてきて抱きすくめられ、引き倒された。 仰向けになったルドルフを押し倒すような姿勢だが、実際は捕食される哀れな小動物のような自分が居た。 微笑み、寝起き故か潤んだ竜胆色の瞳でじっとこちらを見詰めながら、鼻先をこすりあわせてくるルドルフ。 「おはよう、トレーナー君」 「起きられたなら準備を」 「今日は休みなんだ。君に嘘を吐いた」 俺の困惑顔を嬉しそうに撫でながら、ルドルフは続ける。 「朝の君はいつも婉娩聴従と呼ぶに相応しい。夜はあんななのにね。だから、優しい君に悪戯をしたくなった」 呆れはしないが手がかかる。そして手がかかることを自分だけが知っている。 「ルナ」 「ほら、優しい」 幼名で呼ばれ、嬉しそうに俺の鼻先にキスをするルナ。その表情は喜びに挑発的なものが綯い交ぜだ。 「どうだろう。今朝は温良恭倹に」 「ダメ」 悪戯っ子を楽しんだ彼女にお灸を据えたい。善因善果を知ってもらわなくては。 慌てたように俺の下でもがく腕をやんわりと取り押さえて捲土重来。長い朝を過ごすことを決めた。 「良い所で会えた」 学園の廊下でばったりと鉢合わせたエアグルーヴに声をかける。振り向いた彼女は怪訝な顔をしたが、俺の手にある鈴蘭の花束を見るや表情が綻んだ。 「鈴蘭だけの花束か。キザだな。これに合う花瓶か?」 「話が早くて助かるよ」 「構わん、会長のためだものな。ああ恩に着てくれるなら、新入生の合同トレーニングに意見を出してくれんか」 「そのくらいなら喜んで」 うんと頷いて、エアグルーヴは来た道を戻って行った。 毎年、皐月の時期には花束を贈る。別に約束事があるわけではなく、ただ感謝の気持ちを「純粋に」表したいだけだ。シンボリルドルフ、彼女が一冠目を手にした季節なのだから。 生徒会室の扉をノック、返事と共に中へ。デスクから顔をあげたルドルフが、俺と花束を見てぱっと笑顔になった。これが見たいだけだとも言える。 立ち上がろうとする彼女を片手で制して傍へ。書類の束を脇へ避けた彼女にそのまま手渡す。 「ありがとう。何度受け取っても嬉しいよ」 「捻りが無くてすまないが」 「そんな事が得意な柄でもないだろう」 間を置かずノックがし、エアグルーヴが綺麗な花瓶を手に入ってきたので、彼女に生けてもらう。 「準備がいいなエアグルーヴ」 「丁度そこでトレーナーと会いまして」 「なに、じゃあこの花束を最初に見たのは私ではなく君か、エアグルーヴ」 「あ、いや……まあ、そうなりますか」 困ったような顔をするエアグルーヴに、なんとかしろという視線を送られた。ルドルフはちょっとじゃれたつもりだろうが、結構な凄みが出てしまう。彼女の悩みのタネでもあった。 「俺が贈りたい相手はルドルフだけだよ」 「……ふふ、そうか、贈答にも相当の気持ちが籠められているんだね?」 「私は別件がありますのでこれで……」 地上で最も面白いギャグがレコードを更新した所で、エアグルーヴは笑いたい気持ちに耐えきれず出て行った。 なんとなく、その方向を2人で眺めてから口を開く。 「ルドルフ、新入生の合同トレーニングがあると聞いたが」 「耳が早いな。エアグルーヴに何か?」 「意見出しをね」 「うん。私からも頼もうかと思っていた」 袖机から資料を出し、簡潔に説明を始めるルドルフ。体力テストも兼ねた広範な内容ではあるが、自分が担当すべき箇所はそれほど多くなさそうだ。彼女の差し金だろう。 「解った。随分仕事を減らしてくれたな」 感謝を込めてそう言うと、ルドルフは珍しく眉をひそめる。 「その、な。君はもう少し学園のウマ娘達からどう見られているか自覚して欲しい」 「というと」 「皇帝シンボリルドルフの担当トレーナーにして、七冠バを生み出した辣腕家だ。泰然自若、成程美徳だが、空空寂寂とされては私の立つ瀬が無い」 そうだろうか。トレーナーとしてやった事なんて、殆ど体調管理と時間管理くらいなものだという多少卑屈な気持ちは、未だにある。 「俺の力なんて」 「謙虚さは時に理非曲直だ。今更言わせないで欲しい」 「それなら仕事が増えてもいいのでは?」 「解らないか? ウマ娘からすれば君ほど魅力的な「男」は居ないと言ってる」 他に誰も居ないからか、むすっとした顔を作るルドルフ。普段からはかけ離れた、心細い童女のようで、ああ、つまり。 「虫がつかんようにしたと」 「気に入らないか?」 じろりとこちらを睨めつける。可愛らしいと思ってしまうのも許してほしいものだ。 「ルドルフ以外を抱えるキャパなんて俺には元々無いよ」 「そうかな」 「朝の苦手なルナちゃんのお相手もあるしな」 ふざけてそう言うと、苦笑いをしたルドルフに肩の辺りを叩かれた。 「まあ、うん。我ながら露骨な事をしたものだと自己嫌悪もあったが……正直鈴蘭で機嫌は最高潮だよ」 指先で、生けたばかりの鈴蘭を愛でながら微笑む顔があまりにも綺麗で、ふっとその気が首をもたげるのを感じてしまった。 そしてルドルフは、俺のそういう心の動きを驚くほど素早く上手に掴んでしまう。ちょっと目を逸らしてから、 「ダメだからな」 「今日は早く仕事切り上げるか……」 「私は遅くなる予定だよ」 「ひどい」 「ふふ、今はこれで我慢してくれ」 鈴蘭に触れた指2本をを軽く唇に当てて、俺の頬へぺたりとスタンプするルドルフ。却って我慢が利かなくなりそうだが、そのつもりでやってくるから憎らしい。 「覚悟しとけよ」 「おお怖い」 肩をすくめて眉を上げ、ルドルフは机仕事に戻った。頭をかいて退散しながら、今夜を楽しみに自分の仕事を急いで片付けようと心に決めた。 「直近は招待レースだったな」 「2500、ルドルフの得意な距離だ」 「調整はいつから?」 「その6日前」 「理由は」 「取材がその前日に」 閉じていた眼を開けて、組んでいた腕を解き、シンボリルドルフはこちらを見た。 場所はトレセン学園カフェテリアの隅の席。程々に人目を避け、程々に陽の光が入る、簡単な相談をするには良いスペースだ。 今は彼女のスケジュールについて摺り合わせを行っている。本来トレーナーとは文字通りウマ娘のトレーニングに力を入れるべきなのだろうが、ルドルフに限ってはそこについて殆ど心配が無い。 むしろ俺のやる事といえば、立場上多忙で移動も増える彼女の仕事と、アスリートとしての肉体管理の妥協点を作る事だと言える。 「全く、完全無欠とはこの事かな。君が居ないと私は右も左も解らなくなりそうだ」 「まさか」 「取材のこと、すっかり忘れていたよ。似たような予定が多いとはいえこれではダメだな」 「春はレースが多く世間の機運も高い。となれば世間は未だ最強の7冠バの動向を知りたがるもんさ」 俺の言にルドルフは苦笑いをし、いくらか冷めたコーヒーに手を伸ばした。 「取り急ぎ、大きな君の仕事はこんな所だ」 「うん、ありがとう。いつもながら頼もしい」 「お褒めはいいから、この後小会議だろう」 「ああ、慌ただしくてすまない。今日はここで?」 「書き物だけね」 「それじゃ、また戻るよ」 いくつかの資料と手提げを掴んで、ルドルフは小走りにカフェテリアを出て行った。その背中を見送りながらコーヒーを一口。 確かにこの所の彼女は多忙極まる。無理をしてそうしているわけではないというのはよく理解しているが、さておき常人の俺から見るといくらなんでも己をすり減らしすぎてはいないかと感じる。 春のレースが落ち着いたら、初夏の連休を使ってまた旅行にでも行けないだろうか。皇帝ではなくただの1人のウマ娘として休める時間を、すぐそばで見ている人間としてはもう少し作ってやりたい。 「あの、お時間いいですか?」 そんな事を考えていたら、見慣れぬウマ娘に声をかけられた。着慣れた感じのしない制服の新しさ、まだ作り上げられていない体つきで、新入生だと解る。 「シンボリルドルフ会長のことなんですけど、私あの人に憧れてここへ来て……」 こういう声のかけられ方はあまり珍しくない。それはそうだ、皇帝シンボリルドルフと言えば一流のアイコンでもある。直接根掘り葉掘り聞けなくとも、そのトレーナーになら声はかけやすかろう。 特に俺の方は忙しくもなく、先程までルドルフが掛けていた椅子を勧めると、恐縮したように浅く腰掛けるウマ娘。 いくつか、ルドルフの私的なことを話した。両親によく手紙を送るとか、弁当が茶色いとか、日々諧謔の研鑽に余念が無いとか。 あまり彼女の名誉を下げすぎない程度に話してみせると、目を輝かせて新入生は聞き入り、そしてチャイムの音に慌てて礼を残しカフェテリアを出て行った。 その入れ違いのようにルドルフが戻ってくる。 「随分楽しそうに話していたね」 「ル、ルドルフ違うんだ信じてくれこれは」 「……その芝居がかった慌てようを見るまでもなく、別に何も無かったと解るが」 冗談を即座に看破されるのは中々悲しいものがある。 大きな溜息を吐いて、ルドルフはどかっと目の前に腰掛けた。さっきまで座っていた新入生と比べるのは失礼だろうが、威厳も美貌も流石に段違いである。欲目もあるのだからやむを得ない。 「でもね、不満は不満だ」 「何故」 「私が忙しく会議をしている中、他の子と楽しくお喋りだろう」 今度はルドルフが芝居がかった腕組みと目つきでこちらを睨む。小会議でまたぞろ面倒事でも引き受けたのだろうか。 「雑談じゃないか」 「いいや許せない。私は今とても落ち込んでいるぞ」 挑戦的で自信溢れる顔をしながらそう言われても、痒くもない眉を掻くくらいしか出来ないが、要するにこれは「私を甘やかせ」という事なのだろう。 「また温泉旅行に行かないか。もう少し落ち着いたら」 「ふん、その程度でごまかすのか」 「君が気に入ってくれたパスタをまた作るよ」 「量が大変だぞ。それだけか」 「ならば一晩中ルナを」 「こら、もういい」 くすくすと背中を丸めて笑い、ルドルフは機嫌を直したようだった。こんなじゃれ合いも、皇帝の立場ではやりにくいのだろう。それをぶつけられるのは光栄な事だ。 「……一晩中、か。どうなってしまうのだろうな」 それ以外をぶつけられるのも、栄誉である。俺は気を引き締めなおし、とりあえずコーヒーをまた口に入れた。 飛び込み、キックだけでほぼ半分を泳ぎきり、水面を切り裂くように顔を出す。 両腕を大きく振り回し水を真後ろへ押しやる。持ち上がった上体はイルカのように滑らかに沈み込む。バタフライ。 そうして対岸へたどり着き、頭を振って水気を飛ばしてから、シンボリルドルフは上がってきた。 「もう泳がないのか」 プールサイドのベンチで休む俺に、ゴーグルを外しながら言う。競泳用のワンピースはくっきりと肢体のラインを浮かび上がらせており、美しさを形にしたようだ。 「ウマ娘と同じペースで泳ぐわけにはね」 「それでも君は随分体力がある。バイタリティは常人の倍足り得るな」 人類史上最高に面白いギャグを噛み締めてスルーし、肩をすくめて返すと、ルドルフは隣のベンチに憮然として腰掛け、俺が飲んでいたスポーツドリンクを一口。 京都への遠征である。時間に余裕があった事から、ホテルを少し奮発し、今は併設のプールで手慰みのトレーニングと余暇を楽しんでいるという所だ。 「学園で泳ぐよりは気楽な気がするよ」 「人目が気になる?」 「まあ、ね」 シンボリルドルフのトレーニング風景は、学園に居るものなら足を止めて見るに足るものだ。 走る姿は勿論のこと、プールで泳ぐ姿も力強く迫力があって、皆が憧れて当然と言える。それはルドルフが掲げる理想像に合致するものだろうが、息が詰まると言われればさもありなんである。 「泳ぐのは元々好きだからね。ただ泳ぐ、というのはやはり楽しい」 「絵になるよ」 「歯が浮く」 「プールに流されないようにな」 くつくつと喉の奥で笑い、ルドルフはボーイに手を振りもう1つ飲み物を手配した。緊張の面持ちでオーダーを受けるまだ年若いボーイの目線は、流石に彼女の体に釘付けだ。 「目に毒だな」 「男性とはそういうものだろう」 「そうだが、そうと口にするのも無粋だぞ。男は意外と繊細なんだ」 「考慮しよう」 届けられたノンアルコールカクテルをチップとトレードして、ルドルフは一休みする事に決めたようだった。 俺も手慰みに持ってきた本をパラパラとめくり、彼女と雑談を1つ2つと交わす。 ふと、プール出入り口の方から新たな客が現れ、そちらに目を向けた。 年の頃は俺と同じくらい。上品そうな雰囲気と面立ち、そしてこれこそ目に毒な程豊かな乳房の、ウマ娘。この辺りの有閑セレブといった所か。 歩くだけで波打つ膨らみを意に介さず、ピンと張った背筋からは高貴な半生が見て取れるような気すらする。元来ウマ娘は皆美形で生まれてくるが、このレベルは中々お目にかかれないだろう。 軽いストレッチをしてプールへ沈む姿を、ベンチに預けていた体を起こし、思わず前のめりで見送ってしまった。 「成程、隣に私が居ても目を奪われるほどに繊細か」 いつもより幾分低い声で、隣のルドルフが前を見たまま呟いた。ごめんなさい。 「男性とはこういうものだ」 「少し話し合いが必要だと思わないかトレーナー君」 立ち上がったルドルフが、俺のベンチの背もたれへ片手を置いて顔を寄せてくる。笑っているが笑っていない。 そのままどうするかと思ったら、水着の胸元をぐいと引き下げ、自分の胸をアピールしてきた。有閑セレブを見ていた時には無かった劣情が一気に跳ね上がる。 「彼女と私の最大の違いはこれだ」 「これとは」 「君が自由に出来る」 ルドルフにしては珍しい程の直截的な挑発の言葉を受けて、俺はどんな情けない顔をしただろうか。 「情熱的だ」 「私も体を動かして少し熱くなった」 直後、俺の腕を掴んでプールへ放り投げるルドルフ。慌てて自ら顔を出した俺を見下ろしながら、世界一美しい笑顔を向けてくれた。 「先にシャワーを浴びてくるよ。頭を冷やしたらベッドで話し合おう」 回りの数少ない客の好機の視線に晒されながら、誰より高貴な背中を向けて去るルドルフを見送り、さて開口一番どう謝ろうかと平泳ぎで考え始めた。 通りに面した喫茶店のオープンテラス。 椅子に腰掛けると流石に長い溜息が出た。向かいに座ったシンボリルドルフが、口元を抑えて笑う。 「随分とお疲れじゃないか」 「なに、楽しんだよ」 休日、ルドルフの買い物に付き合う形で街歩き。彼女と居れば大体の事は楽しいが、女性の買い物にただ従うというのは案外気力を奪われる。 荷物持ちなど大した労苦ではないにせよ、ともあれただの人間である俺の方が先に音を上げたのもやむ無しという所はある。 冷たいコーヒーを一気に半分程飲み、一息。ルドルフのはけろりとした風情で、ロイヤルミルクティをからからと涼しげにかき混ぜていた。 オフの時だけかける眼鏡の向こうで、竜胆色の瞳は機嫌も良さそうに手元を眺めている。 「ピンクフェイスなんてと思ったが……気に入った、凄く」 「似合うよ」 「ふふ。私を喜ばせるのが本当に上手だ」 ショッピングの途中、特にルドルフが欲しがったわけではないが、付けて欲しいと思ってしまう腕時計と出会ったのだ。 それを半ば強引に押し付けた時は困ったような顔もしていたが、今は満足している様子で安堵する。 「大切にするよ」 「そうしてくれ」 安くない代物だが彼女が笑ってくれたならこれで良い。 出始めている夏物、いくつか絞った候補、色合いの選別、そんなことをスマートホンで撮影した写真を見ながらあれこれと雑談する。 ルドルフは色のセンスがよく、自分に何が似合うか、そしてどう見られるかをとてもよく理解していて、大半は即決だ。 だが細々したアクセサリなどを見始めると流石に悩む時間が長く、荷物持ちの俺としては腕時計でも買ってストレス発散をしたくなったという面もある。 「私が買ってばかりだったが、君の好みはあったかな?」 「オフショルのサマーニット」 「理由を聞いても?」 「脱がす時にな」 「これだ」 男にとって自分の女の服は脱がす時も1つの大きな楽しみなのは否定できない。衣服を伴った彼女、脱いだ彼女。そのどちらも切り捨てられるものではないのだ。 ルドルフは苦笑いをしながら、しかし馬鹿にはしない。こういう男の機微を、理解はしていなくとも否定しない。いい女だ、と無頼に評したくなる。 この後はどうしようか、と持ちかけようとして、背後から悲鳴が聞こえた。 振り返った先では、歩道の真ん中で小柄な女性に凄む大柄な男性。口汚いその声から、なにやら衣服を汚されたようだが、怒鳴った所でどうなるものでもあるまい。 どうしたものか、考える前にルドルフが立ち上がった。彼女はこういう人なのだ。 「横入り失礼。大きな声なので事情は聞こえた。しかしそう怒鳴っては彼女も怖がるばかりで話になるまい」 整然と言葉を並べてきたウマ娘に、男はちょっと驚いたようだったが、気炎も高らかにすっこんでろと三下ムーブ。興奮しているのか、ルドルフの胸ぐらを掴みあげてしまう。 仕方ない、と近くにあった他の席の椅子を男の後ろに蹴っ飛ばしてやると、ルドルフは軽く相手の体を持ち上げて、強引にそこへ座らせた。 「クリーニング代が欲しいか? 私が出してやろう。いくらだ?」 慌てて顔を横に振る男。日常的にウマ娘と接触が無いと忘れられがちだが、彼女達にフィジカルで挑んではならない。哀れだがそれを思い知ったのは良い経験ではないだろうか。 捨て台詞も残さず、男は去っていった。衣服を汚したというのも言いがかりのようで、絡まれていた女性は何度もルドルフに頭を下げて帰路についたようだった。 流石に周りの視線や拍手が恥ずかしく、早々に喫茶店を後にして、買い物の続きを済ませた。 その帰路、どう言おうか迷いながら、結局簡単な言葉を選ぶ。 「危ない真似はしないでくれよ」 朴訥なその言葉が意外だったのか、ルドルフはちょっと目を丸くしてこちらを見、それから俯いた。 「すまなかった」 「謝られる事でもないんだが」 「性分でね」 「それも、わかってる」 「うん」 あまりにストレートに訴えたせいか、思ったより効いてしまったようだ。彼女のしたことは間違いではないのだからそんなに落ち込まないで欲しいものだ。 「俺のルナの体に傷がつきでもしてはね」 わざとらしく言いながら尻尾の付け根をやわやわと触ると、驚くべき反射速度の尻尾で手を叩かれた。 「馬鹿」 「そうとも」 男は馬鹿なのである。その辺りも改めて覚えておいてもらえると助かる。叩かれた手を今度は彼女に差し出し、握り合って、家へ帰ることにした。 ファン感謝祭。レースに出るウマ娘達が日頃の感謝をファンへ伝える文字通りの催しだ。 トレセン学園を会場とし、各所でファンとのコミュニケーション、レースを模したレクリエーションなどを行う。 これには当然学園在籍の生徒たちによる自主性が特に尊重されており、それは翻れば責任も大きいということで、開催に伴う運営の労苦は底が知れない。 中心となるのは無論生徒会で、そこから部門責任者を立て下部組織をつけた組織構造を形成している。単純な縦割りではなく各員の裁量を大きく取って、裁可を簡易的に下せるようにしてある。 これは生徒会長シンボリルドルフが新たに敷いたもので、当初こそ混乱は多かったが今では生徒たちが高い責任感を持つに至っている。この辺り、組織改革に必要なカリスマ性をまざまざと見せられたと感じたものだった。 そんなカリスマが服を着て歩いているようなルドルフに、俺はソファに押し倒されて唇を啄まれているのだから喜びに一抹の疑問も湧く。 情熱的なキスの嵐は何度も歯が当たり、このまま始めてしまおうかとすら考えそうになる。 「ルドルフ」 「嫌か?」 絶対に断れない聞き方。こういう時、案外気軽にずるい選択を取れるのも彼女の魅力かもしれない。 「とても嬉しいが、仕事がまだあるんじゃないのか」 「ある」 喋るのももどかしい、黙っていろと言わんばかりに唇から顎、頬、鼻先、そしてまた唇と忙しなくキスをされる。 何が彼女に火を付けたのか解らないし、何が原因で燃えていようと俺としては大歓迎だったが、さておき彼女の社会性まで燃やし尽くすわけにはいかない。 ちょっと強く二の腕を掴んで、乱れた前髪の張り付いた額をぴたりと叩く。きょとんとした、年齢相応の少女の顔でルドルフは止まった。 「誰かが来るかも知れない」 「うん」 「いや来るのは生徒会役員だけだろうから大きな問題にはならんだろうが、それでいいとは言えないだろう」 「うん」 自分を律する力を強く持っているが故か、敢えて放蕩をしてみたい、そんなストレスを抱えたとしても、彼女を責められる者は居ないだろう。頬を撫でながら続ける。 「嬉しいし、どうしてもと言うならすぐ俺の部屋へ行こう。どうする」 敢えて出した甘い餌に、ルドルフは首を振った。 「午前、壇上に立った君を見ていた」 「ああ」 シンボリルドルフのトレーナー様ともなると、大して中身のない言葉であっても講演という場を希望されたりする。大半は断るが、今日はファン感謝祭だ。ルドルフの私生活などを当たり障りなく喋っただけでも彼らは大いに喜んでくれて、たまにはやっても良いかな、と思ったりもした。 「面白おかしい喋り口、真面目な持論、そして聴衆を飽きさせない話術」 「随分褒めるな」 「本心だ。聴衆は皆君の一挙手一投足に釘付けだった。とても誇らしい気分だったよ」 俺に覆いかぶさったままだったルドルフが、忙しなく手を胸や脇腹へ這わせ始める。 「その、ね。嫉妬というのだろうか。皆に讃えられる君を見て喜びは当然大きかったんだが」 もじ、と彼女にしては珍しく腕で体をかき抱くようにしながら。 「つまり、何故だろうね。欲情、してしまった」 「欲情」 恐らくシンボリルドルフが吐きそうにない台詞ランキングでもあればトップに入ってきそうな単語で、思わず目を丸くしてしまった。 とはいえ、自分の女にここまで言わせてなお拒絶する男など存在するだろうか。 「先に鍵をかけたほうがいいな」 「うん」 もう1度キスをしてからやっと体を離し、ルドルフは携帯電話を取り出しながら生徒会室の重たい鍵をがちゃりと下ろす。 「エアグルーヴ。すまない、30分ほど仮眠をさせて欲しい。いや、すこぶる健康ではあるよ。ああ、助かる」 あっという間にアリバイを作って、ルドルフは制服のスカートを床に落としながら戻ってきた。両腕を開いてやると、嬉しそうに飛び込んでくる。 「制限時間30分とは随分期待されてるな」 「足りなければ夜がある」 「成程嬉しい提案だ、不良生徒会長」 言うと、もう黙れとばかりに舌を入れられ、彼女の望みも受け入れる。 外からは僅かにお祭りの歓声が聞こえていて、ついさっきまで皆のカリスマだった女の痴態をこれから楽しむことに、漸く俺も興奮を覚え始めていた。 休日、論文書きなどという柄にも無い仕事に集中していた所、一本の電話。 我が愛バことシンボリルドルフから、休日用のトレーニングメニューと学園での雑務を終え、体が空いてしまったとのお達しだった。普段ならすぐに何かしら提案するところだが、意外と論文というやつは手強い。仕事が手放せなくて、と笑うと、陣中見舞いに行こうと申し出てくれたのがついさっき。 インターホンと共に現れた彼女は、普段よりいくらかラフなパンツルックで、胸に紙袋を抱えていた。 「進んでるかな?」 「中々。それより、気を使わせたな」 紙袋を受け取りながら恐縮すると、笑ってキスをし、ずかずかと室内へ。勝手知ったる担当の部屋といった所か。 「お、コーヒーか」 「うん、マンハッタンカフェと話す機会があってね」 「他にも色々あるが」 「簡単なものだが何か作るよ。想像通り、大したものを腹に入れていないようだし」 俺のデスクを指差しなが、ルドルフはキッチンへ立った。仰る通り、朝から小さなパンやエナジーバーくらいしか口にしていない。 「助かる」 「なに」 気安く笑って、ルドルフは髪を1つに束ねて手を洗う。 後頭部の少し高いところで結われたキャラメル色の髪を揺らしながら、テキパキと作業をすすめる。 ちらちら覗くうなじにも、忙しなく移動するヒップにもつい目を奪われるが、俺を責める事の出来る男など存在しないはずだ。 「手が止まっているぞ」 「より興味深いものが近くにあってはな」 「制服から着替えてきたのにこれだ」 苦笑いのルドルフ。彼女なりに生足を出すよりは良かろうという気遣いだったのだろうが、残念ながら見えなければその奥を想像するのが男である。 さておき、彼女の心づくしが出るまで時間を無駄にしてはそれこそ悪い。なんとか気を引き締め直し、資料とパソコンの往復に戻る。 それから程なくして、ルドルフが皿とコーヒーを持ってデスクの脇へやってきた。 「簡単だが、空腹ならこれくらいで良いと思ってね」 そう言いながら差し出してきたのは、出来たてのガレット。半熟の卵の瑞々しさと、かりかりのベーコンから立ち上る香ばしい匂い。口に涎が溜まりそうだ。 「嬉しいよ」 「悪くないと思う。熱いうちに」 言われるまま口にするガレットは、絶妙な塩加減と腹持ちの良いボリュームで、あっという間に無くなってしまった。 「美味かった」 淹れてくれたコーヒーも、これはと思うほどの味で、つくづく恵まれた立場に居る自分を思う。 デスクの脇に立ち、同じようにカップを傾けながら、ルドルフはにこりと微笑んだ。それから、俺の肩越しにモニタを覗き込む。 「育成論かな」 「俺みたいな若造が、とも思うんだが」 「錚々たる結果を出したからね。君の謙遜は自己韜晦だと思われるのさ」 「過大評価だなあ。書けるのは一般的なトレーニング理論になってしまう」 「そうかな。私にとってそれはそれは頼もしいものだったが」 「精々俺がやった独自のものなんて、君を信じて失望されないよう必死になったくらいだよ。こんな事書いても笑われるしな」 「笑わないよ」 冗談混じりの俺の言葉に、ルドルフは微笑んで否定した。 「笑わせるものか。君のやってきた事が、どれほど私を勇気づけてくれたか」 美しくも真剣な面差しでそう言われると、目が逸らせなくなる。そうだった、彼女はと俺は、出だしから特別だった。 「我々ウマ娘がレースの最中考えること。勝利への渇望、ライバルへの思い、家族。様々に違いはあるだろう。だが私も含め、皆苦しい時には必ずトレーナーを思うはずだよ」 「そうなら、冥利に尽きるが」 「私はあのURA決勝の最終コーナーを出た時、前を行く者を追い抜く時、ゴールで待つ君を思った」 「そうか」 「忘れないで欲しい。君のやり方は私を何度も奮い立たせてくれたよ。ありがとう。愛している」 俺が貰った感動に比べれば多すぎるほどの礼と愛。受け止めるのは、何よりの喜びだった。 腰を曲げて顔を寄せたルドルフが、唇の寸前で止まる。それを迎えに行き、暫くくっついて、離れた。切ないとも、満たされたとも感じる不思議な時間である。 「まあ、論文に書けないのは確かだな」 「いや、いくらか書き様が思い浮かんできたよ。ありがとうルナ、俺も愛してる」 「現金な言い方に聞こえる」 苦笑いをして、ルドルフはやれやれと言った様子で手荷物を掴んで玄関へ向かう。慌てて椅子から立ち上がった。 「もう帰るのか?」 「夕食まで集中したらいい。何か美味しいものを作るよ」 最高のご褒美を用意されて、ゴールで待つ彼女の料理と彼女を思い浮かべ、俺はきっとだらしない顔で愛バを見送った。 予報を裏切った雨の音を聞きながら音を立てないようページをめくる。 起きたのは1時間前で、現在時刻は午前8時。場所はベッド。隣にはまだ夢うつつのシンボリルドルフ。 今日は久々に2人共丸一日休みで、買い物などに一緒に行く予定だった。しかしこの雨である。意外と雨粒が大きいのか、時折窓を打つ音は室内に響く程で、しかし隣で眠る愛バは意に介さずもぞもぞとしている。 流石に湿度もいくらか上がっていて、窓を細く開けて風を入れる。するとシーツ1枚では流石に肌寒いと感じたか、暖を求めてルドルフがこちらへにじり寄ってきた。 「起きれるか?」 「窓」 「ん?」 「閉めて」 普段の威厳ある喋り口とはまるで違う、年齢相応の少女のようなご命令である。逆らいづらく、開けたばかりの細口を閉じた。 シーツを頭までかぶり、それから息苦しいのか鼻までを出して、何やら枕の上で微調整を繰り返し、結局彼女は俺の脚に頭を落ち着けた。朝の彼女はこのように自由だ。 「眠ければまだ寝てていいよ」 「んー」 イエスともノーとも解らない呻き声を出しながら、人の太ももに顔を押し付けてくるルドルフ。思わず笑みが溢れる。 「本」 ややあって仰向けに膝枕を楽しむ事にしたらしいルドルフが、雨天とはいえ眩しいらしい光を片腕で目元を覆いながら、俺の手にある本をして本と定義づけた。 「何の本?」 「映画の原作。昔から好きなやつ」 「私見てない」 「そうだな」 俺の塩対応が気に入らないのか、本を取り上げられた。肩を竦めてみせると、腕を除けてこちらをじっと見つめてくる。竜胆色の瞳はまだ少しぼんやりしているようだが、概ね朝を迎える覚悟を決めたという所だろう。 髪に指を入れてやるといくらか機嫌を取り戻したようで、ルドルフはくすぐったそうに目を細めてから大きく息を吐いた。 「君の匂いは眠気を促進する」 「人のせい」 「本当だ。安心する。不思議だね」 ようやっと口調もいつも通りを取り戻しつつあるが、言葉は足らない。こういう彼女の可愛らしさを堪能出来るのも、俺の特権と思うとどこに向けることも出来ない優越感が満ちてくる。 少し体を起こし、立てた俺の膝に上体を預けながらブラインド越しの窓の外を見て、ルドルフは雨か、と呟いた。 「外出は中止だね。どうしようか」 「とりあえず朝食を腹に入れてから考えようか」 手持ち無沙汰といった感じに伸ばしてきた彼女の手を取りながら答えると、じっとこちらを見つめてくる双眸。表情は無く、故にこういう時彼女が何か全く違う事を考えているのだと俺はよく知っている。 「ベッドから出るのは嫌だな」 「食事は俺が運んでくるよ」 「君に出ていかれるのも嫌だ。肌寒い。人肌を提供するために一肌脱いで欲しい」 人類史に残るレベルのギャグのキレも今ひとつだが、要するになんとなく我儘を言いたい気分らしい。普段張り詰めている彼女の、ちょっとした微笑ましい悪癖だ。久々の休日が雨で潰れた事で、ルドルフはいくらかへそを曲げているようだった。 そして俺は、基本的に彼女を甘やかすために生きているような所もある。 「付き合うよ」 俺の返答がお気に召したらしいルドルフが、嬉しそうな、気恥ずかしそうな顔で、胸に体を預けてくれる。再び髪を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。 「時々、こういうルナを独り占めしてる事を自慢したくなる」 半分本気の俺の言葉にクスクスと笑い、駄目だからな、と釘を刺すルナ。 「私だってただの人間だから、何もしたくない時はある」 指先で、うっすらと無精ひげの出来た俺の顎のカーブを象りながら、ルナは続ける。 「そういう時、何かして欲しいのは君だけだから」 「栄誉だな」 「愛だとは言ってくれないのか?」 「劣情も籠もるが」 「望む所だよ」 シーツを払って、全裸の自分をさらけ出す。男の俺の目から見ても、この体なら自慢したくなるだろうと思うが、当然彼女がこんな事をするのは俺に対してだけなのだ。 故に、昂ぶるものを抑える必要もなかった。 アナログ時計の短針をちらりと見て、ルナを組み伏せながら、昼食は一緒に作ろうかと埒もない事を考えた。 行きつけのカフェの隅の席。ブランチにと頼んだランチセットとコーヒー。 それに手を付けるのもそこそこに、俺とシンボリルドルフの視線はチェスの盤上へ注がれていた。 この店では、チェスボードを貸してくれる。コーヒーを飲みながらくつろいで欲しいという店主の心尽くしに満ちた良い店だ。 しかし状況は悪い。 見え見えのキャスリングには当然乗ってこないルドルフだが、乗ってこない事が俺の目的であると、随分前に見抜かれた気配がある。そのために犠牲にしたナイトが、今では喉から手が出る程に惜しい。 クイーンの動き先を少しずつ削られ、露骨に開いたポーンの懐へ飛び込みたい欲求を抑えてるうちに、俺の後衛を彼女のビショップが切り裂いた。 コーヒーを一口飲んで、カップの足で自分のキングを倒す。 「リザイン」 「ふう」 俺の投了に、満足そうな溜息を吐いて、ルドルフもコーヒーに手をつけた。 「どこで気付いた?」 「ナイトを切った時に疑問を抱いた。後は癖を見たかな」 「そんなに解りやすいかな俺は」 「君のことなら手に取るようにわかるよ」 口説き文句のように笑って、ルドルフは眼鏡を外した。 「俺じゃルドルフの心の内はまだまだかな?」 「そんな事は無い。いくつか私好みのスペースを作ってくれて、それに飲まれもしたしね」 俺から見て右手側は、確かにルドルフがペースを崩している。このリードをキープするために少し焦ったかな、と反省した。 「特に戦術では君に敵う気がしない。私が勝つ時は、大抵戦略で2手程上回った時かな」 「組んで打てば負けなしかもな」 「ああ、それは楽しそうだ。トレーナーとウマ娘ペアで大会でも開いてみようか」 「確かトウカイテイオーが」 「うん、ああ見えて中々良い腕をしている。エアグルーヴを追い詰めた事もあるからね」 「良いね。そのうち声をかけよう」 笑い合い、ブランチを平らげ、店を出た。今日は随分と外が暑く、初夏を強く感じる。 特に目的の無いルドルフとの外出は、こんな風に始まる事が多い。 足の向きは少し繁華街へ向かい、雑多な町並みを手をつないで進むと、見慣れたゲームセンターが目に入る。 「おや、あれは」 いつか、彼女に大量のぬいぐるみを押し付けた遊技機だと、ルドルフも気付いたようだった。 「懐かしいな。あれはまだクラシックを走っていた頃だ」 「まだ生徒会室に置いてるからな、これ」 揃ってクレーンゲームを眺めて思い出に耽った所で、声がかかった。噂をすれば影というのか、トウカイテイオーとそのトレーナーがゲームセンターから出てきたのだ。 「あっ、会長! 会長もデート?」 「やあテイオー。それにトレーナーも。仲が良さそうで何よりだ」 ぺこりと俺とルドルフに会釈をするトレーナー、その腕を体全体で抱きしめながら、元気いっぱいといった様子でゲームセンターで何をしていたかを語るテイオー。 しばし雑談をして、映画に行くのだと2人は急ぎ足に去っていった。 「元気だな、テイオーは」 「ルドルフだって老け込むには早いじゃないか」 「君から見たらまだ小娘かな?」 「小娘に手出すほど鬼畜じゃない」 「それはテイオーのトレーナーに刺さりそうじゃないか」 「取り消す」 「あはは」 俺の言い方が可笑しかったのか、珍しく声に出して笑って、ルドルフはぐいと俺の腕を抱き込んだ。 あまり外でこういう事をしないだけに、ちょっと驚いてルドルフの顔を見た。彼女も流石に照れがあるのか、頬に朱が差している。 「珍しい」 「うん。まだ小娘だからね。テイオーを見て、少し羨ましくなってしまった」 「俺は大歓迎だが」 「海闊天空。君のそういう所が好きなんだ」 「俺はルドルフの、こう、照れてるくせにやってみようという体験主義者な所が好きだよ」 「そうして茶化しても、案外緊張してるのを私は知っているよ」 仰る通りである。何度されても、いつになっても、愛バに触れる、触れられるのは体が強張るほど嬉しいのだ。 「リザイン」 「ふふ。少し中を見て行こうか、テイオーが言っていた写真をシールに出来る機械をやってみたい」 腕ごとルドルフに引っ張られながら、ゲームセンターへ入り、たっぷりと遊ぶことになった。 出来たシールをどこに貼るのかと問うたら、ウマ娘の一番大切な所だ、と返され、恐らく変な顔になった俺を見てまた、彼女は笑ったのだった。 「動きそうか?」 「うん。仕組みは案外簡単だからね。それにしても」 貴重なものだよ、と言いながら、シンボリルドルフはレコードに針を置いた。瞬間、室内にざらざらとしたノイズを従えてビバップが流れ出す。 URAファイナルズという大きな大会を成功させ耳目を集めたトレセン学園は、この期を逃さず出資を募る事にした。それに伴い財務状況の目録作成が必要で、学園中の棚卸しが行われたのである。その折に出てきたのが、この古臭いレコードプレーヤーだ。 ルドルフの大先輩にあたる生徒たちの時代に使われたものらしく、実家でこの手の代物に馴染みのあった彼女が喜んで私費を使い譲り受けたのである。 ノイズ混じりというのか、現在のクリアな音質に慣れた耳には、どこか新鮮に感じる音色でサックスが響く。 「デジタル録音にはない、その場の空気とでも言うのかな。それが感じられるようで、私は嫌いじゃないんだ」 「解るような気がする。確かに独特の奥行きがあると思うよ」 ターンテーブルを眺めながらリズムを刻むルドルフを、少し離れたソファから眺め、絵になるなと一人思う。 「ウマ娘は耳が良いと言ってたが、やはり俺とは聞こえ方も違うのかな?」 「どうだろうね。録音されたものから受け取れる情報は、そう君と大差無いように思うが」 「普段より嬉しそうだよ」 ルドルフの耳を指差すと、リラックスしたように垂れた耳の先はぴたりとプレーヤーの方を指している。笑って、ルドルフは耳をぴんと立てながら頷いた。 「君が居るのに悪い事をした」 「いやいや」 「まあでも、そうだな。例えば今、奏者がサックスを持ち直したのかな、というような僅かな気配は聞き取れる」 「凄いな」 「だから私の近くで内緒話などしない事だよ」 「そんな気は無いが……迂遠に何か伝えたい時には使おうかな」 ものは試し、とばかりに口先で囁くように「愛してる」と呟いてみる。するとルドルフは目を丸くし、次いで腕を組んで半眼を向けてきた。 「聴力を試すのに囁いて欲しい言葉じゃないよ」 「凄いな。いやすまなかった」 「なんてね。君は私をからかうのが下手だな」 微笑んでこちらへ歩み寄り、ルドルフは腰を曲げ顔を寄せてきた。受け入れたキスはソフトなものだ。俺の唇を指でなぞって、続ける。 「読んだのはこっちだ」 「読唇術のような?」 「そんな大層なものじゃない。よく見る唇の動きだったからね」 「それは……お恥ずかしい」 成程確かに声は小さかったが口の動きは意識の外だった。照れ隠しに頭をかくと、ルドルフはまた微笑んだ。 「それだけ沢山、私に囁いてくれたという事だ。嬉しいよ」 「使い古しと言われなくて良かった」 「今聞いた曲も古臭いが、新鮮に響いただろう。そういうものだよ」 「ルドルフは言ってくれないのか?」 答えず、俺の膝に正面から跨った彼女に、両手で頬を包まれた。見下ろしてくる視線は優しく、熱く、美しい。 「私は行動が先かな」 「じゃあ言葉は後のお楽しみにとっておこう」 「思わず口にしてしまう。そういう風にして欲しい」 ゆったりとした挑発に乗りながらルドルフの背に手を回した。折よく優しいジャズバラードを流しだしたプレーヤーにも、愛を囁きながら。 直近のトレーニング計画を見直した。 春はレースが多く、それは中央に限らない。地方への視察の増えたルドルフのスケジュールに合わせて作り直したものを、改めてすり合わせる必要が出てきた。 生徒会室の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と聞き慣れた声で招き入れられる。中ではシンボリルドルフとにエアグルーヴが、ソファで向かい合って何事か語らっている最中だった。 「出直すか?」 「いや、折角だから君の意見も欲しいな。そうだろうエアグルーヴ」 「会長」 「俺で役に立ちそうなら」 気軽にそう言うと、エアグルーヴは頭の痛そうな顔を、ルドルフは楽しそうな顔を、それぞれしてみせた。 あまり深刻な話というわけでもなさそうだが、むしろ微笑ましいぐらいの、要するにエアグルーヴとそのトレーナーの惚気話である。そうと彼女が認めないだけだ。 曰く、臭い台詞を吐く、何かと先回りをしてくる、階段などで自然に手を出してくるからつい無意識に取ってしまう、それらを気にした様子も無く笑顔でやる。 俺とルドルフは揃って愉快な顔をしているに違いない。 「情熱的で私は良いと思う」 「俺も」 「し、しかし公衆の面前で……」 「エアグルーヴ。君は美しいから、他の者に取られまいと敢えてそうしているのかも知れないぞ」 「あのたわけがですか」 「聞いたかトレーナー君。こんなに愛情の籠もったたわけ呼びもあったものだ」 「額に入れて飾りたいな」 「か、からかわないで下さい」 エアグルーヴの悩みは半分本気で、半分喜びだ。ただ照れ臭さや甘えを許さない厳しさが、真正面から担当の愛情を受け取るのを拒んでしまうだけなのだ。 普段の凛とした桔梗のようなイメージとは程遠い、恥じらう菫のようだった。ルドルフが根掘り葉掘りしたくなる気持ちも解る。 「しかしこんな脳の代わりに蜂蜜の詰まった少女のようなやり取りは」 「それは違うよエアグルーヴ。今の君の姿も皆憧れの対象と言える。謹厳実直だけが人のあり方か? 解語之花たる姿も、また見る者を勇気づけるよ」 「そうでしょうか……」 「現に私とトレーナー君は、今の君をとても好ましく思っている。そうだろう?」 「出来ればこの姿を皆に見て欲しいくらいだ」 「勘弁してくれ」 耳を垂れて溜息を吐くエアグルーヴ。たまにこうなるのなら、彼女のトレーナーも愛しくて仕方がないのだろう。男として強く同調する。 「照れる気持ちはわかる。男女のやり取りにそれが無くては空虚だ。だから君がトレーナーにきちんと夢中である事も教えてやらないとな」 「夢中」 その言葉に反射的に見せた拒否感と、肯定を表す頬の朱。エアグルーヴの悩みははっきりした愛情に裏打ちされていて、いっそ清々しかった。 「時には自分からトレーナーを照れさせるくらいの事をするといい。すると次は待つようになるかも知れないぞ」 「な、成程」 ルドルフの指摘は的を射ている。トレーナーの行為は反応を引き出すためのものだから、先手を打ってしまえというのは駆け引きの1つだ。 そう補足すると、エアグルーヴは心底感心したような顔で頷きながら俺を見た。彼女にこういう顔を向けられるのは初めてかもしれない。 「勉強になる……ちなみに会長とトレーナーは普段からそのような?」 「私達か」 言ったルドルフと目が合う。少し考えてソファの背もたれに腕を置くと、するりと肩を入れてきた。抱き寄せる形になったのを、衝撃的な顔で見るエアグルーヴ。 「格が違う……」 「そんな大げさな」 「私達はお互い明け透けだからな。君達には君達の距離感があるから参考にはならないだろう」 それからいくつかやり取りをして、気合を入れたらしいエアグルーヴはトレーナーの元へ向かった。その背に2人並んでエールを送る。 脳の代わりにカスタードクリームが入っていそうだと人に言われようが、幸せは多いに越したことはないのだ。 「可愛いな、我らが副会長は」 「私もあのくらい可愛げが有ったほうが良かったかな?」 「ルナはいつも可愛いじゃないか」 「ああ、明け透けが過ぎるのも感動が薄れるな」 「お気に召さない?」 俺の腕の中で体を捩り、顎を上げるルドルフに顔を寄せると、それを避けられる。 「私が質は元より量を求めるようになったのは君のせいかも知れないよ」 「なら責任を果たす必要がある」 「午前中は君との打ち合わせだけだ」 それだけ言って、キスをして、後はいつも通り、或いはいつもよりも強く。 脳の大半がルドルフで出来ている俺からすれば、当然の帰結である。 「あー! また会長とトレーナーさんイチャイチャしてー!」 突然生徒会室に響き渡ったのはそんな声。その主はトウカイテイオー。デスクで同じ書類を見ていた俺とシンボリルドルフ、そして別のデスクで作業をしていたエアグルーヴが、ぽかんとした様子で顔を上げた。 「もう、すぐベタベタするよね2人とも。忙しいかと思ってボクは遠慮してたのにさ」 「イチャイチャか」 言って、ルドルフは微笑み、エアグルーヴは嘆息した。俺はちょっと体を離して、肩を竦めるくらいしか出来ない。 「ドリームトロフィーの事を詳しく教わっていただけだよ。体はまあ、近かったかも知れないが」 「会長とトレーナーはいつもあんなものだぞテイオー」 「まあベタベタはいつでもしたい」 俺がルドルフの髪に伸ばした手はノールックで彼女の手に遮られた。悲しい。 三者に一斉に切り替えされて、テイオーは不満そうである。 「ボクだって会長とたまには遊びたい!」 「テイオー、君のトレーナーは?」 「今日まで出張!」 そういえば、テイオーのトレーナーから話を聞いていたのを思い出す。その時は何故俺にと思ったが、こうなる事を予見してのことだったのかも知れない。 「そうか。最近は私もエアグルーヴも目の上のタンコブでね。見た目ほど忙しくもないから相手をする時間はあるよ」 「ホント!? あのねあのね! カフェテリアにすっごく大きなパフェが新しく発売されてて!」 「ほう、手強そうだ」 そんな話をしながら出ていく2人の背中を見送る。急ぎの用事でもなし、と手にしていた資料の類いは一旦収めておく。 「……男性も、ベタベタしたがるものだろうか?」 「俺はそうだな」 「私の周りの男性は偏りがある気がする……」 頭の痛そうな顔をするエアグルーヴである。男性「も」と語るに落ちる可愛らしい副会長殿に手をひらひらと振って、急に出来た空き時間を潰そうとトレーナー室へ向かった。 思えば、朝から晩までルドルフのことを考えている。 当然と言えば当然だし、それが俺の人生そのものではあるが、時にこうして抜ける時間も悪くない。 動画サイトで適当にローファイミュージックを流して、コーヒーを淹れ、ソファに横になる。 思い浮かんでくるのはやはりルドルフのことばかりで、すんなりと気持ちよく、眠りに落ちた。 何かの気配を感じて、寝返りを打とうとしたら、遮られた。人の腕。瞼を開ける。 「おはよう」 飛び込んできたのは愛バの顔だ。いつやって来たのか、いつそうしたのか、彼女の膝枕でゆっくりと午睡を楽しんだものらしい。 「いつもは君に起こされているから、こういう機会は貴重だな」 嬉しそうにルドルフが俺の髪に指を入れ、さらさらと撫でる。俺も、仕返しとばかりに伸ばした手で彼女の髪に触れた。 「テイオーはもういいのか」 「ああ、彼女のトレーナーも戻ってきてね。以前は会長会長と私に引っ付いていたのが、今ではすっかり彼の虜だ」 「かわいいもんだ」 「見ているこちらが恥ずかしくなる程べったりだったよ。成程テイオーの言う通りかも知れないな」 「まあイチャイチャというオノマトペに抵抗はあるが、好きな相手には触りたいもんだよ」 「同感だ」 クスクスと笑って俺の額や鼻、頬から顎の形を確かめるようにルドルフの手が動き回る。くすぐったいが、彼女の言うようにあまり無い機会だ。堪能する。 「お疲れかな?」 「昼寝は暇つぶしにするものだろ」 「ならいいが」 暫し膝枕のまま、テイオーの話を聞いた。 彼女がトレーナーに向ける眼差し、それを受け止めるトレーナーの表情。しっかりした親愛が伺える2人の関係性が、お互いにどれほどかけがえの無いものかがよく解る。 「テイオーが甘え上手なのもあるが、彼は上手く良い方に向けているようだ」 「あれはテイオーの良い所だと思うよ。逃避の甘えじゃなく、人を嫌な気分にさせない」 「解る。時々羨ましく思うよ、立場で作られた人間性が邪魔だともね」 「もっと甘ったれてもいいんだぞ」 「難しい」 照れ笑いをするルドルフが、少し考えるような仕草をしてから、俺の手を取った。意を決したように、人差し指を咥える。 ぬるり、と柔らかいものに吸い付かれる感触は、寝起きの俺に熱を灯すに十分過ぎる程甘美なものだ。 これが彼女の言う「甘え方」なのだとしたら不器用にも程が有るし、そして愛らしい。甘やかしたくもなる。 「柄じゃないかな」 「柄ではないが、いい色だ」 「君が甘やかし上手でよかった」 誤魔化すようにそう言って、膝枕を外したルドルフがそっとかけてきた体重を、甘んじて受け入れる。彼女だって、十分甘え上手だ。 風光明媚と一言で言えばそこで終わりだが、五感に働きかけてくる現地ならではの空気、匂い、音は、多忙な日常から心を一時切り離してくれる。 この温泉旅館へ来るのは2度目だ。シニア級の年初、商店街の福引で引き当てたのを、験が良いと揃って喜んだものである。 門扉をくぐり、丁寧で暖かい歓待を受ける。流石にシンボリルドルフの顔は売れているが、相手もプロだ、実に楚々としたもてなしをしてくれた。 「流石に懐かしいな」 通された部屋は以前のものとは厳密には違うが、それでも思い出されるのはURAを制覇したあの頃。 荷物を傍らへ置きながら座椅子に腰を下ろし、よく手入れの行き届いた室内に大きく息を吐いた。 「そんなに昔でもあるまいに、老け込むぞ」 苦笑いで俺を振り返りながら、ルドルフもカーディガンをハンガーへかけ、窓のそばへ立った。 腰高の大きな窓からは、豊かな渓流を眺めることが出来る。耳を澄ませなくとも、彼女ならその水音をより楽しめるのだろう。 「うん、いい眺めだね」 「景色を楽しめるのも歳の為せる技だと思うが」 「君と共に重ねた齢じゃないか」 彼女の方が上手なのは今に始まった事ではなかった。 名湯は体から疲労を絞り出すような心地よさで、俺が出たのはいくらか長風呂を楽しむルドルフとほぼ同時だった。 土産物屋を冷やかし、展示の絵画などを見ながら、ゆっくりと部屋へ戻り再び一息。 程なくして運ばれてきた食事は、彩りも香りも、以前より更に磨きがかかったように感じる。 「さ、今日くらいは」 言って、ルドルフが浴衣の袖を抑えながら徳利を差し向けてきた。 基本的に、道義上問題が無いとしても俺は彼女の前で飲酒をしない。小さなこだわりでしかないのだろうが、特に苦しむでもなくそうしようと決めている。 酒が嫌いというわけではない。むしろ平均より好きだ。ルドルフも、それは知っている。 だから、頼んだ覚えのない酒があるということは、彼女の気遣いなのだろう。 「有り難く」 「いつかは、こうして差し向かいで飲みたいものだな」 「俺の楽しみの1つだよ」 「私の両親のようなことを言う」 クスリと笑う、皇帝の酌である。美味いに決まっていた。 食事の間も、会話は弾んだ。今更気を張る間柄でもなく、故に非日常がもたらす微かな高揚感が、お互いを饒舌にした。 大きな窓の外は、月明かりがぼんやりと山陰を象る程度で、逆にそれが山深い自然の実りを想像させた。 食後、窓辺のソファに並んで腰をかけ、俺は酒の続きを、ルドルフは緑茶を楽しんでいた。 「うん。やはり、懐かしい」 「そうだろ」 「あの日も、こうして並んで外を眺めたね。散歩の後、離れがたくて」 初めてルドルフとここへ訪れた時、まだ今のような関係ではなかった。お互い憎からず想っていたのは今なら解るが、当時はどこか危うい均衡が残っていたように思う。 「色々と語り合った。これからの事、これまでの事。話題を探して、君の子供の頃の話も聞いたかな?」 「間が持たなかったんだ。ルドルフと2人きりで旅館だぞ」 「私からは随分余裕があるように見えたよ、流石に大人の男だ、と見直したものだ」 「嘘つけ」 「ま、その後がこれではね」 言って、ルドルフが意味深に微笑みながら顔を寄せてくる。苦笑いをして、俺は彼女の額にコツンと頭をぶつけた。同時に、大笑い。 雰囲気を作り、求め合うようにキスの間合いが出来たのに、あの時俺は緊張でルドルフに頭突きをしたのだった。 「黒歴史だ」 「私には優しい思い出だ。好きな男と泊りがけとはいえ、今思えば緊張も迷いもあった」 「結果的には、あの時の勢いでルドルフを欲しがらなくて良かったと思ってるよ」 「今はどうかな?」 きっと無意識であろう、長く美しい髪を首の後に払いながら、今度は挑戦するような目をルドルフは向けてきた。 何も言わず、肩に触れ、頬へ運び、軽く引き寄せるよう力を込めた。抗わずに、彼女の美しい唇が近づいてくる。 舌先だけで触れ合って、どちらからともなく離れた。まだ口に酒が残っている。 「あの時の忘れ物だな」 「気にしてたのか?」 「前日、下着選びに1時間以上かけたくらいにはね」 いたずらっぽく笑って、ルドルフは居室へ戻った。浴衣に羽織っていた半纏を座椅子に引っ掛け、既に延べてある床に腰を下ろし、こちらを見る。 「まだ忘れ物があるだろう?」 「ある」 それでも、見栄を張って少し見つめ合って、結局すぐに彼女と同じ布団へ飛び込んだ。 夜具の中の月は、改めて美しかった。