1. …お兄さん。 『うん?』 私、大きくなったらトレセン学園に通おうと思ってます。 『さっきも言っていたね』 そしてお兄さんはトレーナーになるのが夢だとおっしゃっていました。 『そうだね』 だから…も、もし、もしもですよ? 私が無事入学できて、その時お兄さんに担当が誰も居なかったら―― 私だけの専属になってくれませんか、お兄さん。 ――それは幼い日の懐かしい記憶。 結局叶う事のなかった、けれど私にとってはとてもとてもとてもとても大事な約束の想い出。 だって――だって、彼が手を取ったのは。 ;------------------- すぅ、すぅ、と私の膝枕の上で静かに寝息を立てて眠るのはキタちゃんのトレーナーさん。 私の大事な親友と二人三脚で三年間走り続けて、見事URAファイナルズ優勝の栄光を勝ち取ってみせた、キタちゃんにとってかけがえのないパートナー。 そして、"今のところは" 私のわがままに付き合ってくれている偽りの恋人。 「ダイヤちゃん」 ――トレーナーさんの寝かしつける事に夢中になるあまり、部屋に誰か入ってきたことに気づかなかったみたい。 そちらを見なくても、声を聴くだけで誰だかはすぐにわかる。 だって、その声の主とは昔からずっと一緒だったから。 キタちゃん。 私の大事な親友。 ;------------------- 「……トレーナーさん、よっぽど疲れていたみたい。キタちゃんがURAファイナルズを優勝してからずっと忙しそうだったものね」 クリークさんから膝枕術を教わったかいがありました。そうでなければこの寝顔をこんな特等席で見ることはかなわなかったかもしれません。 教わっている間、クリークさんのトレーナーさんが目の前で赤ちゃんみたいに彼女にあやされている姿は……正直ちょっと怖かったけれど。 「見て、トレーナーさんったら寝顔もかわ「ダイヤちゃん」…どうしたのキタちゃん。なんだか怖いよ」 キタちゃんの方を見る。 顔は俯いていて表情が良く見えないけれど、この部屋唯一の扉を背にして私たちの前に立つ姿はなんだか凄みを感じる。 まあ、そうなったのは私のせいなのだけど。 ;------------------- 「今朝の事、嘘じゃなかったんだね……冗談だと思ってたのに」 「こんな笑えない冗談、キタちゃんに言えるわけないよ」 嘘だ。 本当はお兄さんとお付き合いしているわけではない。 彼は私の嘘に付き合ってくれているだけだ 「……嘘だったら、よかったのに」 「……」 ――本当にそうであればよかったのに。 「ねえ」 キタちゃんが私に顔を向ける。 その顔は怒りと悲しみと――何か大切なものを取られた様な苦しみがないまぜになった感情と涙でぐちゃぐちゃになっていた。 あの時の私みたい。 ;------------------- 「ねえ、ダイヤちゃんは私がトレーナーさんの事をどう思ってるのか知っていたでしょ?! なのに、なのにどうして…」 知っている。 だって、キタちゃんはどんな事も私に話してくれたから。 キタちゃんのトレーナーさんに送るプレゼントはどうしようとか、二人でカラオケに行ったときデュエットを歌って恥ずかしかったけど嬉しかったとか、URAファイナルズで思わず抱き着いてしまっただとか。 あのくじびきでもらえる高級温泉旅館に二人きりで行った事も、全部。 「答えてよダイヤちゃん……一体、いつからトレーナーさんの事を」 「…最初からだよ」 「最初から?」 そう、最初から。 ;------------------- 彼があの時の『お兄さん』である事は、入学してすぐに学園内でその姿を一目見た瞬間すぐに気がついた。 そしてお兄さんがまだトレーナーになりたての新人で、どのウマ娘も担当していない事。 特例で新人ながら、一人の専属トレーナーとなる事を許されているのだと知った時――これはきっと、運命に違いないと思った。 正直、今すぐ胸の高鳴りに従って彼に会いに行って、言葉をかければよかったと今でも思っている。 でも、そんなはしたない真似はしたくなかった。私は、彼の方から私を見つけだして声をかけてほしかった。 恋に恋い焦がれたあの時の私は、まるで王子様を待つお姫様の気分だったのだ。 ――それがいけなかった。 そう、私のお兄さんは私の事を忘れていた。 どうしてだかはわからないが、幼少期の記憶を覚えていないのだと――そう彼が教えてくれたのは、本当に最近になっての事だ。 でも正直、そんな事はどうでもよかった。 ;------------------- 「あっおにい――「約束だ。俺の担当になってくれ、キタサンブラック」…………え?」 「―――はいっ! よろしくお願いします、トレーナーさん!!」 どうして? ねえ、約束って何? 約束したのは私なのに。 私がずっと先なのに。 どうして? なんで、お兄さんの隣に立っているのがキタちゃんなの? ;------------------- 「お兄さんは結局思い出さなかったけど……それでもいいの」 「今度こそお兄さんを絶対に逃さないから」 「ねえ、ダイヤちゃん……いったい、何を言ってるの?」 「――ごめんね、キタちゃん」 私はその質問に答える事無く、眠っているキタちゃんのトレーナーさん――『お兄さん』の唇と私の唇を重ねあわせた。 それはこの上なく明確な、キタちゃんへの敵対行為だった。 ;------------------- 「んっ……ちゅっ……」 きちんとケアが行き届いているのか、彼の唇は柔らかい。 乾燥に弱いから保湿には気を使ってるって、お兄さん言ってたな。 「……やめて」 ファーストキス、こんな形であげるつもりじゃなかったのだけれど。 でも、いいよね。どうせ最初から、全てをお兄さんに捧げる気だったのだから。 お兄さんからの反応はない。 本当に疲れがたまっていたらしい。口は無防備にも薄く開いている。 ……キスしたまま、かき分けるようゆっくりと舌を入れる。 それでも反応はない。本当に無防備ですね。そんなに油断してるからこんな風にされちゃうんですよ。 ;------------------- 「んっ……お兄さんの味がします……れろ……甘くないのに甘いです……ちゅっ……」 「やめて……やめてよ……ダイヤちゃん、お願いだから」 懇願するキタちゃんの声が聞こえるけど、もう止まらない。 止める気もないけど。 「……ふっ……はふ……大好き、大好きですっお兄さん、お兄さんっ……んっ……ずっと……ちゅっ……ずぅっと愛してます……っんぅ」 「……っ!!」 ;------------------- バンッと扉を荒々しく開けて、まるで逃げるようにキタちゃんは行ってしまった。 ……ふふっ。 「残念。もっとしていたかったですけど、続きはまた今度ですね…」 ;------------------- 「貴方の事はずっと知っていたんです。黙っていたのはキタちゃんが気にすると思ったから……キタちゃんは優しい子だし、トレーナーさんの事を好きだからそれを知ったら遠慮してしまうと思って」 「それに、こんな酷い人の事なんて忘れてレースに集中しようって思ったんです……幸い、私の今のトレーナーさんは……その、ちょっと変わってますけれど、とてもやさしくて実力も確かな人ですから」 「……」 返事はない。それでもかまわないと彼女は言葉を続ける。 「でも、ダメでした」 「トレーナーにはなってもらえなかったけど。……私のことすら忘れていた酷い人ですけど」 「でも……でも、それでも好きなんです。好きで好きで好きでずっと胸が張り裂けそうだったんです」 「キタちゃんからあなたの話を聞くたびキタちゃんに嫉妬していました。キタちゃんとあなたと三人でお出かけした時、キタちゃんが居なければだなんて、そんな酷い感情が常に頭の中にありました」 「あなたと二人きりで話をする機会に恵まれる度に――ずっとこの時間が続けばいいのにだなんて考えていました」 ;------------------- 「それでもなんとか溢れない様に押し留めていたんですけど――URAファイナルズ決勝。あれが全ての契機でした」 「――私の前を走って見事栄光を勝ち取ったキタちゃん。二位だった私。…………キタちゃんに言葉をかけるトレーナーさん」 「……偶然にも全てがあの時と似たような状況でした。覚えてますか? トレーナーさんがレースに勝ったキタちゃんをスカウトした時、私は二位だったんです」 「あの時になにもかもがぐちゃぐちゃになりました。あの時みたいな思いをするのはもう嫌でした」 「――だから私決めたんです。トレーナーさんの身も心もキタちゃんから奪い取るって」 「キタちゃんは泣いてましたし、もう仲直りできないかもしれませんけど……もう、あんなの嫌なんです」 「……お返事、待ってますからね、キタちゃんのトレーナーさん……いいえ、お兄さん」 「ああいいましたけど、今だってできればお兄さんから来てほしいって思っちゃってます――もちろん、いやといっても逃がしませんけどね」 「……」 「どんな形にしろ待ってますからね、約束ですよ、絶対です――今度は忘れないでください」 ;------------------- パタン、と扉が閉まる音が室内に響く。 「……俺は、どうしてそんなことを忘れていたんだ」 「……どうして、何も思い出せないんだ……っ」 「……俺は……俺は、どうすれば」 男の声が虚しく部屋に響く。 ――当然、答えは返ってこなかった。 2. 「うぅ……」 「――嘘……先生、先生! ○○君が目を覚ましました!」 俺の覚えている最初の光景は、病院のベッドの上。 一定のリズムで音を鳴らすなんだかよくわからない機械たちと――驚いて先生を呼ぶ看護師さんの声。 酷い事故があったらしい。 俺は家族と車に乗っていて、両親は即死だったらしい。 その事故の中で不思議な事に俺だけが生きていたが、脳に大きな傷を負ってしまい、目を覚ます事は絶望視されていた、らしい。 俺は半年近く眠っていたらしいなど――とにかく、色々あったのだという。 ――らしい、というのは何も覚えていないからだ。 医者から聞く俺の話はどれもこれもまるで実感がわかなくて、他人事のようだった。 ;------------------- 目覚めてすぐ、脳も含めなんどか検査を受けたが結果は健康そのものである、という診断結果が出た。 肉体的には明日にでも退院できるそうだ。半年寝たきりだったというのに筋力も問題ないらしい――そんなことあり得るのだろうか? いろいろ勉強してきた今になって余計に疑問に思う。 ただ記憶は戻らないかもしれない、と言われた。 なんでも、当時の事故の傷は本当にひどくて、頭に風穴があいていたのだとか。 それで生きていたのなら、俺は本当に人間なのだろうか。 あと、退院については親戚ではなく後見人の人が俺を引き取りに来てくれるらしい――俺に親戚は居ないのだろうか。もしかしたら、俺の家族は嫌われていたのだろうか。 それすらわからない。 わからない。 何もわからない事だらけで、何がどうなっているかもよくわかっていないが――トレセン学園、そしてトレーナー。 その二つの言葉だけは、起きてからずっと頭の中で反響するように残り続けていた。 その時、何故だか俺は、トレーナーになってトレセン学園に行かなければならない気がしていた。 ;------------------- トレーナーへの道のりは、険しかった。 元々狭き門ではあったが、中央行きの切符自体が選りすぐりの人物に与えられるものであること。 そして、俺が半年間寝たきりであった事と、事故によって歯抜けになったような知識の偏りによるハンデは大きかった。 特に、ひらがなに歯抜けがあったり、数字や四則演算を使えなかった事については相当に辛かったのを覚えている。 幸い日常会話に支障はなかったので、孤立することはなかった。 それでも、後れを取り返す為にとにかく死に物狂いで勉強した。 トレーナーにならなくてはならないと、トレセン学園に行かなくてはならないと。 なぜだか強迫観念にも似た思いに捕われ、骨身を削りトレーナーになるために必要な知識を身に着けていった。 後見人――養父はただ、必要なものを与えてくれた。 養父の事は今でも好きだし、感謝している。だが、俺の前に立つたび許しを請う目でこちらを見てくる姿は嫌いだった。 そんなのまるで罪人じゃないか。 罪を犯したと言うのなら、俺をこうして育てる事は出来なかったはずなのに――変な人だ。 ;------------------- トレーナーを目指して勉学を続けていた、ある日の事だ。 その日は、こんな曇り空だったのを覚えている。 養父に連れられて、なんだか大きな屋敷に向かった。 後に、それが知らぬ人は居ないと言われる程の有名人の家である事を知ったが、どうして養父が俺をそこに連れて行ったのかはわからないし、そもそもどうしてその人と知り合いなのかすらもわからない 時々思い出した振りをして訪ねても、申し訳なさそうな顔ではぐらかすばかりだ。 「しばらく待っていなさい」 何故か庭に置いていこうとした養父に応接室で待ちたいとお願いしたが、珍しく首を横に振っていいからそこにいなさい、と言葉を残していってしまった。 「なんか雨に降られそうでいやなんだけど……」 曇り空の下、外で待たされることになるのは気が進まない。 だが珍しい養父からのお願いだ。理由はまるでわからないが、いつも世話になってるのだからこれくらいは聞くべきだろう。 「あ、お客さんだ! いらっしゃい、お爺ちゃんの知り合い?」 ――そしてそれが、後に俺の担当になる彼女との出会いだった。 ;------------------- 「へー、あのおじちゃんの子供なんだ! あの人独身だったはずなんだけどなー」 そのウマ娘の少女は、こちらに興味深々でいろいろ訪ねてきた。 なんでも、お爺ちゃんの家に俺くらいの年の子が来ることは今までなかったらしい。 「色々あって血は繋がってないし、実は養子縁組もやってないんだけどね」 「へー、それなのに一緒に暮らしてるだなんて、変わってるねお兄ちゃん」 「事情があるんだよ……多分ね」 「自分の事なのに変なのー」 記憶の事はややこしいので言わなかった。言っても混乱するだけだろうから。 事情とはいったが実際の所、俺は養父に対して深入りするつもりはなかった。 何故だかそれだけはしてはいけないと思っていた。 ;------------------- 「あ、そうだ!」 「私ね、トレセン学園に通おうと思ってるんだ!」 「さっきも言っていたね」 「それでね、お兄ちゃんはトレーナーになりたいんでしょ?」 「なりたいんじゃない。なるんだ」 何故だかは分からないが、ならなくてはいけないと言う気持ちは――あのころからずっと変わらなかった 「だったらさ、その時にまた再会できたら、私のトレーナーになってよお兄ちゃん! 約束しよっ!」 「……っ」 ――約束。 その言葉を聞いた瞬間、何故だか頭がズキリと痛んだ……気がした。 思い出せない。思い出せないけれど、その言葉を裏切ってはいけない気がする。 ;------------------- だから、彼女にこう答えたのだ。 「ああ、絶対だ。約束するよ、キタサン」 「――えへへ……私、絶対待ってるからね!」 まるでパッと花が咲いた様な彼女の​笑顔を見て、俺は改めて決意したのだ。 必ずトレーナーになって、彼女――キタサンブラックとの約束を果たすのだと。 ;------------------- _______________________________ 「クソ……」 思い出せない。彼女の事を。 「クソ――クソッ、クソッ、クソッ!!」 思い出せない。彼女との約束を。 「……なんでだ、なんでなんだよ!」 『私のことすら忘れていた酷い人ですけど』 そう寂しそうに語ったサトノダイヤモンドの顔を思い浮かべ、必死になって記憶をたどる。 ――思い出せない。あの病院より前の記憶がわからない。 家族の事すら気にした事はなかったのに、今更になって記憶がない事をこんなに後悔する事になるなんて。 今まで思い出す努力すらしなかった自分が許せなくて、苛立ちが止まらない。 ;------------------- ……イライラのあまり、気が付けば校舎の外に飛び出していたらしい。 「三女神の像……」 気が付くと目の前には学園のシンボルでもある三女神の像が立っていた。 三女神。 ウマ娘の始祖とされ、彼女達を常に見守り、導くとされる三柱の神々。 キタサンも何度かここで勇気を与えられたと言っていた。きっとそれは本当の事なのだろう。 だが俺はウマ娘ではないただの人間で、しかも約束を覚えていないようなクズだ。 例え祈りを捧げても、女神たちに鼻で笑われてしまうだろう。 「……はあ」 学園内を歩き回っているうちに少しだけ落ち着いてきた。 一度帰ろう。そして、ダイヤとは改めてちゃんと話し合うべきだろう。 ……もちろん、キタサンとも。 そう思い踵を返しトレーナー寮の自分の部屋へ戻ろうとした瞬間――真っ暗な空間に飛ばされていた。 ;------------------- 「え?」 意味が分からなかった。遂に俺はおかしくなってしまったのか? 不思議と恐怖はない。それどころか安心感すら感じる。 しかし、どうすればいいのかわからず困っていると、後ろから一人のウマ娘がやってきて通り過ぎていく。 一瞬しか顔は見えなかったが……何故だかこちらに優しく微笑んでいた気がした ――あの衣装。あの髪の色。 それは、写真や記録でしか見たことのない、あの事故で死んだはずのウマ娘。 そんな、そんなはずは。でも、間違いでなければあれは俺の―― 「待っ――――」 思わず駆け出して追いかけようとしたその瞬間――目の前が光で埋め尽くされた。 ;------------------- 『…お兄さん』 『うん?』 幼いウマ娘の少女が、横に立つ少年の手を弱弱しく掴み声をかける。 ――何故だか、あの少年は俺だという確信があった。 そして、隣に立つ少女の鹿毛の髪色と前髪の白いダイヤの模様。 間違いない、彼女は。 『私、大きくなったらトレセン学園に通おうと思ってますす』 『さっきも言っていたね』 『だから…もし、もしもですよ? 私が無事入学できて、その時お兄さんに担当が誰も居なかったら――』 『わ、私だけの専属になってくれませんか、お兄さん』 不安そうな少女の声に少年は何かを決意したで答えていた。 ;------------------- 『いいよ。もし俺がちゃんとトレーナーになれたら、君を最初の専属にするよ』 『本当ですか!? 本当ですよね!? 約束ですよお兄さん! 嘘は無しですからねっ!!』 ああ、俺は。 俺は、この光景を知っている。 だってこれは。 『ああ、絶対だ。約束するよダイヤ』 『――はいっ、約束ですっ』 キタサンと約束を交わしたあの時と全く同じだったのだから。 ;------------------- 「ハハ……なんだよ、それ」 ポツ、ポツと降ってきた雨粒が徐々に地面を濡らす。 最初はゆっくりとした勢いだったそれは、次第に勢いを増し土砂降りに変わり、容赦なく体を打ち付ける。 いつの間にかもとに戻っていたみたいだが、そんな事はどうだってよかった 「……これが奇跡だって言うなら、あんまりじゃないか。なあ、女神様」 ウマ娘ではない人であるこの身に、女神は手を差し伸べてくれた。 だけどそれは決して優しさによるものではなかったのだろう。もしかしたら、戯れだったのかもしれない。 叶うならこのまま、雨に流されて消えてしまいたかった。 だがそれは叶わない――叶ってはならない。 俺は、俺はここで答えを出さなくてはならない。 そしてどの答えを選ぼうと、どちらかを裏切る事になるのだ。 3. ――ダイヤちゃんに恋人が出来た。 それは、私のトレーナーでだったと言われた時、その事実が受け入れられなくて。 ……それが本当だって事を、その日のうちにいやってくらい目の前で見せつけられて。 気が付けば、私は部屋を飛び出していた。 「はぁ、はぁっ……!」 その後はがむしゃらに走り続けた。 自分が今どこを走っているのかもわからない。ただ、今は何も考えず走りたかった。 走る事が大好きなはずなのに全然楽しく感じないのは、晴れ間一つ見えない曇り空のせいに違いないと思いたかった。 ;------------------- なのに――それなのに。 『私!トレーナーさんとお付き合いすることになったの!』 「いや……!」 何も考えたくないのに。頭の中をあの子の言葉がリフレインする。 『最初からだよ』 何が? 何が最初からなの? あなたは私がトレーナーさんを好きな事を知っていたのに。 知っていたはずなのに。 『んっ……お兄さんの味がします……』 「やだっ……持っていかないでよ……っ!」 お兄さんってなに? ダイヤちゃん、今までトレーナーさんを一度もそんな風に呼んだことなかったでしょ。 その人は私のトレーナーさんなの。私のお兄ちゃんなの。 『……ふっ……はふ……大好き、大好きですっお兄さん、お兄さんっ……んっ……ずっと……ちゅっ……ずぅっと愛してます……っんぅ』 「私のお兄ちゃんを返して……!! 返してよっ……!!」 もう叶わない願いだとわかっていた。それでも、叫ばないと心がどうにかなってしまいそうだった。 ;------------------- ________________________ 「はぁ、はっ……!」 あまりの苦しさに立ち止まる。それは、明らかに息苦しさとは違う痛みだった。 これが失恋の痛さってやつなのかな……それとも裏切られた事への悲しみ? 「ここに居たんだね、キタちゃん。探したよ」 「――ダイヤちゃん?」 そこに居たのは心配したような顔をした私の親友の姿。 「急に飛び出したから心配になっちゃって……もうすぐ門限だよ。また寮長に怒られる前に、寮に帰ろう?」 「……」 「キタちゃん?」 「どうして」 「え?」 「ねえ、どうして?」 ;------------------- 信じられなかった。あんな事をしてみせて、変わらず接してくる神経が私には理解できなかった。 出会ったあの時から、今までずっと隣にいたはずの親友の事が――急に別の生き物のように感じられた。 「お兄さんの事?」 「それも、あるけど……!」 「なら、キタちゃんには諦めてほしいな。お兄さんは私の彼氏だから」 「――そのお兄さんって呼び方はなに!? 今までそんな呼び方してこなかったじゃない!」 諦めてという彼女の言葉に思わず突っかかってしまう。 少なくとも私の記憶が正しいなら、トレーナーさんの事を、ダイヤちゃんは一度もそんな呼び方をしたことはなかった。 ダイヤちゃんにお兄ちゃんが居たって話も聞いたことないし、トレーナーさんからそういう話も聞いたことがない。 「お兄さんは、お兄さんだよ。私のトレーナーになる約束をした大切なお兄さん」 「なにそれ……そんな話、一度もダイヤちゃんから聞いたことない」 「だって、言わなかったから。キタちゃんだって、お兄さんと約束した事、教えてくれなかったでしょ?」 「……っ」 ――そう。あの約束の事は誰にも言った事が無かった。 ;------------------- _______________ そのやりとりは、家族どころか親友にすら言っていない。 年上の男の人とそういう約束をしたということが、なんとなく気恥ずかしかったのもあったが―― 『なりたいんじゃない。なるんだ』 そう、固く心に決めたように言うお兄ちゃんの顔がとてもキラキラしているように見えて。 『ああ、絶対だ。約束するよ、キタサン』 『――えへへ……私、絶対待ってるだからね!』 なんとなく二人きりの秘密として心の中にしまっておきたくなってしまったんだ。 _______________ ;------------------- 「だから、おあいこだね」 確かに、その事で彼女に強く責める事はできなかった。 でも、疑問もあった。 「……ダイヤちゃんはトレーナーさんとどんな約束をしたの」 「それもキタちゃんと同じだよ。私の専属トレーナーになってくださいって、小さなころに約束したの」 「え……」 そんなはずはない。だって、お兄ちゃんは出来ない事はしっかり出来ないというタイプだったからだ。 だからふと頭の中にある考えがよぎって――縋る思いでそれを口に出してしまったのだ。 「ダイヤちゃん」 「なーに、キタちゃん」 「……もしかして、なんだけど。ダイヤちゃん、トレーナーさんと誰かの約束を勘違いしてるんじゃないかな?」 「……は?」 ;------------------- 「だって、おかしいよ! あのトレーナーさんが出来ない約束をするなんて、子供の頃でも考えられないもん」 「だからきっと、ダイヤちゃんと約束した人は別に「キタちゃん」」 「ちょっとその冗談は笑えないかな」 「……別に冗談で言ってるわけじゃ「キタちゃん」」 「もう一度言うね――笑えないよ」 そう言った彼女の目は、まるでナイフのように鋭い眼差しをして私を睨みつけていた。 「あのね、キタちゃん。見間違いなんかじゃないよ、あれは絶対にお兄さんだもの。私にはわかるの」 「トレーナーさんは覚えてなかったんでしょ? どうしてそんな事が言えるの?」 「――っ私にはわかるって言ってるでしょ!!」 見た事のないような怒った顔。でも私には、まるで自信のなさの表れの様にもみえた。女の勘ってやつだろうか そっか、ダイヤちゃんにはお兄ちゃんがお兄さんである事の確証がないんだ。 ;------------------- 「……とにかく、あの人は私のお兄さんなの。お願いだからもう諦めてよ、キタちゃん」 「お兄さんにはこれからもキタちゃんのトレーナーを続けてもらうから」 嘘だ、と思った。なんの根拠もないけど、ダイヤちゃんはその内私からお兄ちゃんを全部持って行ってしまう。 そんな気がした。 ――だったら、戦わなきゃ。 「……やだ。私は諦めないよ」 「そういっても、もう私の恋人なんだよ?」 「ダイヤちゃんこそ、きっと何か勘違いしてるよ。だって、トレーナーさんが本当にダイヤちゃんの言うお兄さんなら忘れるはずがないもん」 「だから、今なら間に合うよ。ダイヤちゃんこそちゃんとお兄さんを探しなおした方が良いよ」 「まだ言うんだ」 ;------------------- 「いいよ。たとえレースで勝てなくても、お兄さんだけは絶対に譲らない」 「レースなんて関係ないよ。お兄ちゃんはダイヤちゃんのじゃないの。絶対にかえしてもらうから」 ポツ、ポツと雨粒が私たちと、私たちの間にある地面を濡らす。 やがて土砂降りになって私たちに滝のように降り注ぐそれは、まるでお互いに出来た壁の様にみえた。 「……早く帰ろう。寮長さんに怒られちゃう」 「ここに来るときに迎えの車を家に頼んで出してもらってるから、行こう?」 「……うん」 ――きっともう、あのころには戻れない。 それでも、お兄ちゃんが遠くに行ってしまうのが私は嫌だった。 ;------------------- ___________________________________ 鉛のように重たくなった足を引きずりながら、学生寮へ向かう。 『私、絶対待ってるからね!』 昔交わしたキタサンとの約束。 『――約束だ。俺の担当になってくれ、キタサンブラック』 『―――はいっ! よろしくお願いします、トレーナーさん!!』 無事に約束は果たされ、紆余曲折はあれど彼女を無事にG1七勝へ導き、ついにはURAファイナルズの栄光を手にすることが出来た。 きっと俺はこの子の為にトレーナーになったのだとずっと思っていた。 ;------------------- 『はいっ、約束ですっ』 だが――僅かに蘇った記憶の中にあったダイヤとの約束。 あれを見た時確信した。俺がトレーナーになりたいという思いにずっと突き動かされてきたのはあの子との僅かな縁だったのだと。 『だから私決めました。トレーナーさんの身も心もキタちゃんから奪い取るって』 ――でも、俺はそれを破ってしまった。 彼女の笑顔を壊してしまった。 その責任はどんな形にしろ果たさなくてはならない。 ;------------------- 道中、立ちはだかる影があった。 「……」 それはダイヤのトレーナーだった。 いつも着ている柔道着ではなく、珍しく革ジャン姿の出で立ちだ。 「……行かせてくれませんか」 「―――いいか、鎧武。私達は、確実に死に向かっている、だから人生の一瞬に命を賭けろ」 「死ぬまでが青春。心臓がとまって死ぬまでが地上の旅であり冒険なんだ」 「ええっと……ありがとうございます。あと鎧武ではないです」 きっと彼なりの励ましなのだろう、おそらく。 何故か変わった人ではあったが、優しい人であることだけは確かだったから。 「はっはっはっ――ダイヤさんを頼んだぞ」 「……はい」 雲は相変わらず空を覆っていたが、幸い雨は上がっている。 俺は再び覚悟を決め、再び学生寮への道を歩き出した。 ;------------------- 学生寮の鍵は閉まっていた。 当然だ。当の昔に門限は過ぎている。 「頼む、開けてくれ」 それでも、と一抹の望みに縋って俺は扉を叩く。 「おい君」 それは果たして願いが届いたのか、それとも不審者を叩きだす目的だったのか――背中から声をかけられる。 「済まないがもう門限はすぎて――おや、君はキタサンブラックの」 そこには、寮長のフジキセキの姿があった。 ;------------------- 「二人は居るか?」 「彼女達なら戻ってきているよ。呼んでくることも出来るけど……今日はもう遅い。せめて日を改めてはもらえないかな?」 「……どうしても話したい事があるんだ。いかせてほしい」 「ダメだよ。ここはトレーナー立ち入り禁止なのを忘れたのかい?」 そう。ウマ娘のプライベートと健全性を保護するため、性別問わずトレーナーが学生寮へ立ち入る事は禁止されている。 だが、どうしても俺は今二人に会いたかった。会わなくてはならないと思っていた。 きっと今日を逃せば何もかもが手遅れになると、俺の中の勘が告げていた。 「例外を認める訳にはいかない」 「ただ、彼女たちと会って話がしたい。それだけの事なんだ」 「君の噂は私の耳にも届いているけど――それは、今じゃきゃダメなのかい? 明日になればまた時間は取れるだろう?」 「今じゃなきゃダメなんだ! ……お願いだ、通してくれ」 「ふむ……」 ;------------------- 「ダメだ。やっぱり例外は許可できない」 「そんな……「でも」……?」 「私だって完璧じゃないからね。ましてや今日は酷い雨だったものでさすがに私も少しまいっているんだ――ヒト一人くらい見逃してもおかしくないくらいにはね」 「……!」 「――おっと、いつの間にか寮の鍵が開いているじゃないか。これはいけないな」 「それとこれは独り言なんだけど――彼女達は○○室だよ。二人とも同じ部屋さ」 「ありがとう……!」 「何のことだい? ……ああ、出来るだけ静かに頼むよ。みんな耳がいいからね」 寮長に心の底からの感謝を告げると、出来るだけ音を立てないように気を付けて、寮の奥へと進んでいった。 「それなりにあの二人の事は見てきたつもりだったけど、あんな風になってるのは初めて見たんだ……頼んだよ」 ;------------------- 「ここか」 彼女に言われた部屋にたどり着く。 ――もう後戻りはできないだろう。 意を決してコン、コン、と扉を叩く。 「……なんとなく、来ると思ってましたよ、お兄さん」 扉を開き、俺を迎え入れたのはダイヤだった。 部屋の奥にはキタサンの姿も見える。 「え、トレーナーさん……?」 俺は――― ;------------------- 4. それは例年より早い梅雨入りで、ジメジメと鬱屈した日々が続く中にあって、珍しくカラっとした晴れ間を見せた日の放課後の事だった。 俺は様々なゴタゴタがようやく落ち着き、改めて担当となったサトノダイヤモンドと共に、今後のことについて話し合っていた。 「凱旋門賞を目指したいだって?」 「はい」 凱旋門賞。ここトレセン学園のウマ娘達も何人かが挑み、そしてその誰ひとりとしてその栄光を勝ち取る事はなかった、フランスの高き壁。 全てとは言わない。だが、彼女たちの多くは、トレーナーと綿密に計画を練った上でそこを目指し、それでも敗れていったのは想像に難くない。 だが、ファンからすれば突然凱旋門賞制覇を志したように見えたように映るものもいたのだろう。 気が付けばウマ娘やファンたちの間で、仔細は違えど『凱旋門賞の呪い』なんて噂話が語られている始末だ。 ジンクスを打ち破ろうとする彼女からすれば、それを打ち崩そうとする事自体はそう不思議な事でもないのだが…… 「突然だな」 「前々から決めていた事です。それに、前任のトレーナーさんとは何度か相談もしていたんですけど……お話、聞けてませんでしたか?」 「……お前の事を頼んだ、としか聞いていない」 彼女の前任は常に柔道着を着た、ちょっと変わったな男だった。 トレーナーとしては確かな腕を持っていたし、ウマ娘の事を第一に考えていたのは伝わってきたのだが――とにかく、意思の疎通が難しかった。 特に俺に対しては当たりが強かったように思う。今思うと当然の事なのかもしれないが。 ;----- 「もう。まさか引継ぎもしていかなかったなんて……」 「しかたないさ、あんな事があったんだから」 「ダメですよお兄さん! いくら引け目があるからって、ダメな事はちゃんとダメって言わないと――私みたいになっちゃいますからね」 「……すまない」 「あ……違います、そういうつもりじゃないんです」 「いいよ。俺が悪いんだから」 ……なんだか気まずい空気になってしまった。 これはいけない。俺は慌てて今後のスケジュールについての話題を切り出す。 「……まずはフォワ賞を目指したいところだな。向こうの空気に慣れるためにどこか練習場も確保したい」 「それについては大丈夫です。向こうの学園の練習場を借りられる様なので――それと、お兄さんはフランス巡りに興味ないですか? 私はあります」 「あのなあ……」 えへへ、と舌をペロッと出しごまかし笑いをするその姿はとても可愛らしく、呆れつつもつい流されてしまいそうになる。 「……俺も興味はあるけどさ」 「じゃあ決まりですね! 2人っきりで旅行を楽しみましょう、お兄さん!!」 「旅行って……ちゃんと練習も真面目にやるんだぞ」 ;----- 「大丈夫です、ちゃんとやりますよ。そのうえでしっかり英気を養って、前人未踏の凱旋門賞踏破に挑むんです!」 「本当か……?」 「本当です。……ゆっくりいちゃいちゃ出来るだなんて考えてませんよ」 「……」 なんだか急に不安になってきた。 だが、本人がやると言ったのなら硬い意志をもってやりとおすだろう。この子はそういう子だ。 「お父様とお母様については私が説得します。……その。まだ、お兄さんとの事については時間がほしいとの事だったので、私が話した方がスムーズに進むと思います」 「……すまない。力になれなくて」 「良いんですよ。私が決めたことですから、これくらいは任せてください!」 「……キタサンとは、あれから?」 ふるふる、と悲しげで首を振る。それだけで理解するには充分だった。 「そうか」 だから、それについてこれ以上尋ねることはなかった。 ダイヤとキタサンはあれから別の部屋になったと聞いている。なら余計に接触の機会も少なくなっているだろう。 ;----- 「……お兄さん」 「うん」 「私、お兄さんが大好きです。愛してます」 「……うん」 「あの時から、ずっとずっと大好きでした。……それはこれからも変わりません」 「……知ってるよ」 そしてその結果何があったのかを、俺は身をもって理解している。 ;----- ______________ 学生寮での騒ぎは、ほどなくして理事会の耳にも入ることになった。 俺はただちに呼び出され、あわやトレーナーバッジ剥奪かという話にまでなったのだが……俺自身の実績と、ある人物二人からの訴えによってそれを免れることとなった。 その人物とはダイヤのトレーナーと――俺の養父だった。伝え聞いた話では、どうも俺のトレーナー権限が奪われないように強く進言したらしい。 結果として俺は一週間の謹慎と、今後担当ウマ娘へのトレーニングへの付き添い以外での校舎への立ち入り、そして学生寮周辺への侵入を禁止されるのみとなった。 正直、それだけで済んだことが奇跡だ。彼ら二人には感謝してもしきれない。 ……だが、何故養父が? その疑問については、全てではないが謹慎中にかかってきた一本の電話が答えてくれた。 「お前の母親は、かつて私の担当ウマ娘だった」 「……え?」 ――それは養父からのものだった。 母がウマ娘である事は知っていた。だが養父が彼女のトレーナーだったのは初めて聞いた。 そしてそこで改めて、この養父の事をロクに知らなかった事を思い出した。 彼自身の事を何度尋ねても、あいまいな笑みではぐらかされ続けるものだったし、当時は後れを取り戻すのに必死だったのもあっていつの間にか疑問に思うことすらなくなっていたのだ。 「…………お前の面倒を見てきたのは、それだけが理由だ」 ;----- それだけではなさそうに聞こえた。それだけならあんな目で俺を見ることも、望むものを与えるだけ与えるようになるなんてこともはなかったはずだったから。 しかし、その疑問に対して素直に答えるような人物でないことは、はぐらかされつづけた俺自身がよくわかっていた。 「お前はトレーナーになる事に執着していた。だからわかりやすい目標になればとお前をお嬢さんに引き合わせたのだが……間違いだったようだ」 「待ってくれ、俺は」「いいか、その手を取ったのなら振り返るな。それはお前の選んだ道なのだから」 ――彼女とは幸せにな。 俺が言葉を続ける前に、それだけを言い残し一方的に電話が切られた。 慌ててこちらから電話をかけなおそうとする。 そして、ほどなくして返ってきたメッセージに俺は横から殴られたような衝撃を受けた。 「おかけになった電話番号への通話は、お客さまのご希望によりおつなぎできません」 それは、俺をここまで育ててくれた恩人からの一方的な拒否。 「……そうか、当然だよな」 視界がにじむ。いつの間にか涙がポロポロと溢れ出していた。 そうされて当然なのだと思っていても、やはり辛いものは辛い事に変わりはなかった。 ;----- ――若い者同士の事に我々が口をはさむつもりはない。 それは謹慎が明けてすぐに謝罪へ向かった、キタサンとダイヤそれぞれの家族から告げられた言葉。 だが、それでも納得する時間がほしいとしたダイヤの側と違い、キタサンの家族から次に告げられたのは「もう娘には会わないでくれ」いう明確な拒絶だった。 当然だ。彼女らの家族が孫を傷つけた俺を許すことがあるはずもない。 「お兄ちゃん」 「……キタサン」 最後にキタサンに会ったのは、謹慎が明けて改めて理事会からの呼び出しと、たづなさんからの説明を受けた後の帰り道の事だった。 「お兄ちゃんは、どうして私を捨てたの?」 「……」 ――謹慎中に彼女の担当を外されていた事を知ったのは、つい先ほどの事だった。 それは彼女の両親の申し入れと、そして理事会側の判断だった。そしていちトレーナーでしかない俺にそれを撤回する術はなかった。 だが、それを聞いて彼女が納得するとも思わない。だから俺には何も言うことが出来なかった。 ;----- 「……黙ってないで教えてよ。ねえ、どうして? ダイヤちゃんはトレーナーは続けてもらうって言ってたよ? ダイヤちゃんの言葉が嘘じゃないなら、お兄ちゃんが私を捨てたって事になるよね?」 「それは……」 「違うって? 違わないよ……お兄ちゃんは私を諦めちゃったんだ」 「……すまない」 俺には謝る事しかできなかった。あの時彼女の手を取らなかったのが、俺自身の意思だったことには違いなかったから。 「――申し訳ないって思うんだったら、ダイヤちゃんを捨ててもう一度私の担当になってよ! それくらいできるよね!?」 キタサンが俺に掴みかかる。その赤い瞳には涙があふれ、顔には涙の痕がいくつも通っていた。 ……俺が彼女を泣かせてしまったのだ。こんな顔をさせてしまったのだ。 だけど、俺は。 「……それだけは、お前の頼みでも出来ない。絶対に」 「どうして……っ」 「約束だからだ」 「それなら私とだって約束したじゃん! 一緒に三年間だって駆け抜けて!お兄ちゃんのおかげG1だって沢山勝てたし、URAだって優勝できた! 思い出の数ならダイヤちゃんになんて負けないよ!!」 「なのに……なのにどうして……ねえ、お兄ちゃんどうしてなの……?」 「……」 ;----- 「……どうして、何も言ってくれないの?」 「……すまな「謝らないで」……」 「もういいよ――さようなら、トレーナーさん」 「……さようなら」 それがキタサンブラックと交わした最後の言葉になる。           「また会おうね」 ;----- _________ 「……私、まだ諦めないよお兄ちゃん」 「……だって、ダイヤちゃんだってそうだったのにどうして私だけ諦めなきゃいけないの?」 ;----- __________________ 今後についての話し合いが終わった、夕暮れの帰り道。 俺とダイヤの二人はトレーナー寮にある俺の自室へと一緒に向かっていた。 「……いつも思うんだけど、別に寮まで一緒になって帰る必要はないんだぞ。お前との同伴が必要なのは校舎の施設に立ち寄る時くらいだし。あとくっつくのはやめてくれ」 「いいじゃないですか。もう私たちの事は学園中で噂になってるんですから。公認ってやつですよ」 「それはポジティブにも程があるんじゃないか……」 これももう何度目のやりとりだろう。 帰路に就くたび腕にしなだれかかる彼女をたしなめるも、その度に理由を付けて離れようとしない。 正直体面どうこうよりも布越しに腕へと伝わる彼女の柔らかさに理性の方がもたなくなってきているから勘弁してほしいのだが……それともまさか、それが狙いなのだろうか。 ;----- 視線を感じる。それは隣にいるダイヤからのものだった。 先ほどからチラチラとこちらの方を見ては。何か言いたそうに口を開いて、押し黙るという行為を繰り返している。 このままではそのまま俺の部屋にたどり着くまで繰り返していそうだ。流石に埒が明かないのでこちらから切り出すことにした。 「どうした? 何かあるのか?」 「い、いえ、大したことではないんですが……」 ここ最近ではめずらしく躊躇いがちにこちらの様子をうかがっている。 「……その、ですね。キ、キスしてもらえませんか、なんて……あはは」 ……本当に大したことがないお願いだった。 「あの時はお前から一方的にしてきたのに、今更?」 「あれはお兄さんが眠っていたじゃないですか。だからノーカウントです――というか、やっぱりあの時に起きていたんですね」 「……舌まで入れられて起きないわけないだろ」 最初から起きていたわけでもないので全てを覚えているわけじゃないが、それでも柔らかな舌と甘い吐息が口内に――いけない。込み上げてきた欲望に慌てて思考を外に追い出す。 俺はまだ一線を越えたいわけではない。 ;----- 「……自分からねだるなんて、卑しい女と思いますか?」 「そんなことないさ。自分から行くのは大事な事だ」 「あ……」 空いている反対の手でダイヤの頬にやさしく触れ、そっぽを向いた彼女の顔をそっとこちらに振り向かせる。 ――ダイヤとの約束を思い出した時、すれ違ったウマ娘。 あれは間違いでなければ、写真でしか見たことのない母親の若き日の姿だった。 トレセン学園に在籍していた事もあるらしく、記録にも残っていたが――母とそのトレーナーの名誉の為にも何も言わないのが花というやつだろう。 しかし、あれが本当に母なら、はたしてこれは本当に望んでいた事だったのだろうか。 両親との思い出すら覚えていない俺には、なにもわからない。 それでも。 ――ダイヤさんを、頼んだぞ。 ――彼女とは幸せにな。 ――さようなら、トレーナーさん。 ;----- 「んっ……」 互いに目を瞑り、数秒口づけを交わす。 あの時のような一方的なものでも、貪るようなものでもない、ただのキス。 「えへ、えへへ……」 それでも彼女は蕩けるような笑みを浮かべて喜んでいた。 顔が真っ赤なのは、きっと夕日だけのせいではないのだろう。 俺はかつて、この笑顔を壊してしまった。 そしてその理由を思い出してしまった。 「お兄さん、愛してます……」 そして俺は、築き上げてきた何もかもを捨ててこの宝石を手に取る事を選んだ。 「……俺もだよ。愛してる」 ダイヤをそっと抱きしめ、そっと愛をささやきかえす。 ;----- きっと許される事なんてないだろう。今抱いている苦しみが消えることもないのだろう。 だけど今度こそ、俺は決めたのだ。 この輝きを失わせまいと。 ――夜に向かって沈んでいく夕陽の姿は、まるで俺たちがこれから辿る道を暗示しているようにも見えた。 だけど、この腕の中の暖かさと輝きがあればきっと俺達は突き進んで行けるだろう。 そう信じている。