『──おにいさん。やくそくです』  夢を見ていた。幼い頃に交わした、大事な大事な約束の夢。 『わたしが、トレセンがくえんにはいったら。おにいさんがそこではたらいてたら』  今は離れ離れになった、されど片時も忘れなかった、ちいさな彼女の夢。 『そのときは、きっと。わたしを──』  ああ、君は──。  季節は春。ここトレセン学園には、毎年多くの新入生がやってくる。  皆ウマソウルと闘志を宿し、夢を叶えるべく邁進する若きアスリートたち。出自も容姿もさまざまながら、胸に秘めた想いだけは皆一緒。  そして、そんな彼女たちを支えるトレーナーもまた、熱い想いを胸に日々邁進している。  新人でもベテランでも、誰もが専属トレーナーとなりウマ娘と二人三脚で夢に向かって走る。苦楽を共にし、強い絆を結び、ついには一心同体となって喜びを分かち合う。  僕もまた、当然その一人であった。  この春から先輩のサブトレーナーを辞し、ウマ娘との専属契約を結べるようになったはいいが。肝心のウマ娘になかなか巡り会えず、気付けば1ヶ月が経とうとしていた。  早いもの勝ち、なんてわけではないけれど。デビューが遅れれば遅れるほど、「最初の3年間」というリミットが設定されたウマ娘にとって不利なのは事実。  僕は焦っていた。今担当を見つけられないと、もし今後見つかったとしても出だしが遅れたことで彼女たちの将来に差し障りが出るかもしれない。  自分にもリミットを定めて、最悪の場合サブトレーナーに逆戻り…なんて、悲観していると。つい先日までお世話になっていた先輩に、食堂で声をかけられた。 「お前、転入生の話知ってるか?」 「転入生? いえ…聞いたことないです」 「おいおい、アンテナ高くすんのもトレーナーの仕事だぞ?私らの稼業は情報が命…って、ンなこたどうでもいい。その転入生が2人、今日さっそく模擬レースすんだってよ」 「へぇ…それは楽しみです。僕も行ってみます」  よろしい、と頷いて、先輩はカレーうどんを思い切りすすった。世話焼きで頼りがいのある先輩なのはいいんだけど、汁飛ばすのだけは本当にやめてほしい。  それにしても、こんな微妙にずれた時期に転校生とは。入学手続きが間に合わなかったのだろうか。  その時、ふと今朝の夢を思い出した。 『──おにいさん。やくそくです』  幼い頃に交わした、子供っぽい約束。ともすれば取るに足らないと一笑に付されそうなそれを、しかして僕は未だに引きずっていた。  自分でも分かっている。年齢も本名も知らない彼女が、ここに来るという保証なんかない。レース以外の道を見出したかもしれないし、もしかしたら日本にすらいないかもしれない。  そんなものを引きずって、せっかく頂いたトレーナー資格を腐らせるなんて本末顛倒だ。今僕が成すべきことは、過去は過去と割り切って、その転入生とやらに声をかけていくことだ。  だけど。  幾度となく夢で見たはずのその光景が、今日はいやに僕の胸を騒がせていた。 「今日の出走予定…ジャラジャラ、フローズンスカイ、オイシイパルフェ…そして、転入生のキタサンブラックと…サトノ、ダイヤモンド」  出走表に書かれた名前は5人。コースを見ると彼女たちは既にゲートのそばまで来て、最後のウォームアップ中だった。  1枠から順に眺めていく。前3人は既に、何度か模擬レースで見たことがある。そして、 「よーし、トレセン学園初のレースだぁ!サトちゃん、負けないよっ!」 「うふふ…それは私もですよ?いい勝負をしましょうね、キタちゃん」  噂の転入生の姿を認めた僕は、息が止まるほどに驚いた。  もう10年以上も会っていないけれど。あだ名しか知らなくて、出走表で見た段階では気付けなかったけど。  すっかり大人びて淑女然としてはいるものの、黒髪のウマ娘と檄を飛ばしあうその姿は。 「………サト、ちゃん」  かつて僕が出会い、そして別れた、ちいさな幼馴染その人だった。 『本日の模擬レースは終了しました。トレーナーの皆様は、どうぞ混乱のないように──』  アナウンスのかかる中、僕はレースを終え、汗をぬぐう彼女たちの方に向かう。  見事な逃げで最初から最後まで先頭に立ち続けたキタサンブラックに、やはり人は集中する。しかし彼女の方にも数人のトレーナーが押しかけ、契約の勧誘に躍起になっているのが見えた。  一瞬、怖気付く。僕なんかが今更出ていって、彼女が忘れていたらどうする?とんだピエロじゃないか。  けれど。 『──おにいさん。やくそくです』  あの時の思い出が、輪郭をもって蘇る。小さな彼女の姿が、今の彼女に重なる。  滑稽でもいい。独り相撲でもいい。忘れられていたら、もう一度そこから始めよう。 「──サトちゃんっ!!!」 「え……」  自分でもびっくりするような大声に、彼女がゆっくりと振り向く。  まずは驚いたように口に手を当て、次第にじわり、と涙を浮かべて。  彼女が走ってくる。走ってくる! 「お兄さん…お兄さんなんですか!?会いたかった…お兄さん!!」  レース後なのに全力で、こちらに駆けてくる。あぁ、僕なんかのことを覚えていてくれたのか。久しぶりに会った僕を、お兄さんって呼んでくれるのか。それだけで視界が滲む。  思わず涙を拭う。ウマ娘の脚力とは恐ろしいもので、そんな数瞬の間に彼女は僕の目の前までやってきていた。 「僕もだ。ずっと君に会いたかった…サト…ちゃ…ん」 「…お兄、さん?」   だけど、感動の再会はそこまでだった。  今にも抱きつかんとするような格好で固まった彼女を「見上げ」ると、僕を「見下ろす」彼女と目が合った。  遠くで、カラスの鳴く間抜けな声が聞こえる。  ああ、神様。  僕は今日ほど、この身体を呪ったことはない──。  幼い頃、僕と一緒に遊んだ女の子がいた。転勤が多くてあまり友達を作れなかった僕は、たまたま出会った引っ込み思案な幼い少女と仲良くなった。  子供心にも、この子あんまり遊んだことがないんだな、というのは分かった。何をするにも不慣れでおっかなびっくり。そんな反応は面白かったけど、不思議と泣かない子だったから、僕も安心して付き合っていたと思う。  そんな日々も、長くは続かなかった。再び転勤が決まって、大して仲良くもないクラスメイトからドライに送り出された後。僕は初めて、その女の子の…「サトちゃん」の泣き顔を見た。  いやだ、離れたくない、私も一緒に行く…なんて、普段からは考えられないほどわがままを吐き散らして。僕がほとほと困り果てた頃にやっと泣き止んだ彼女は、ある約束を持ちかけてきた。  トレーナーになりたいと日頃語っていた僕に、ウマ娘である自分を担当してほしい。そんな、実現可能性を全く考えない、幼気な約束。  僕もまだまだ小さかったから、うんいいよ、なんて安易に返して。ゆびきりをして別れた。  そして僕はその後、長いこと体調を崩した。海外に移り住んだ僕は、水が合わなかったのか食べ物が悪かったのか、慢性的な発熱と喘息、食欲不振と下痢に悩まされた。  心配性な両親は日本に返すことも考えてくれたけど、僕はつまらない気を回して、このくらいなんてことないよ、と意地を張ったから。  なんとか勉強だけはできたけど、とにかく量を食べられない。運動もできない。家に引きこもりがちになって、クラスになんて馴染めるわけもなかった。  日本に帰ってきてからは体調も落ち着いたものの、すっかり体質が変わってしまったのか、食べる量が増えることはなくて。  そんなバイオリズムで暮らしていれば、必然的に身体が育つわけもなく。  かくして、成長期を見事に棒に振った僕は。  幼い頃慕ってくれた女の子に背を追い抜かれるという、あまりにあんまりな末路を迎えることとなったのでしたとさ。  サトトレ:お兄さん。超のつく小柄で身体もあまり丈夫ではないが細かいことを気にしないおおらかさと優しさが取り柄。最近サトちゃんどころか先輩の担当であるトウカイテイオーに身長負けていることに気付いてちょっと泣いた。  サトノダイヤモンド:天然ボケだけど要所要所で強かなお嬢様。憧れの「お兄さん」が可愛くなって再登場したことにショックを隠せないものの折り合いをつけようと頑張っている。最近スマホの検索ワードが「彼氏 小柄 デート」「彼氏 背が低い キス」「彼氏 可愛い」などで埋め尽くされこっそり覗き見たキタサンブラックが怯えた。  キタサンブラック:サトちゃんの親友。サトトレのことは昔から耳にタコができるほど聞かされていたため勝手に白バの将軍様みたいなのを想像していたが実際にお出しされたのはハムスターだった。好みのタイプは脛に傷のある男。  先輩:サトトレの先輩。チームトレーナーとして何人ものウマ娘をドリームトロフィーに送り出した実績の持ち主。鍛えるのも鍛えさせるのも大好きなメスゴリラもとい豪快女子。彼氏はいるわけがない。  サトちゃん──サトノダイヤモンドを担当し始めて、早いもので半年。  今日はデビュー戦の祝勝会ということで、彼女と2人で街に繰り出していた。  しかし、せっかくのハレの日なのにサトちゃんはご機嫌ななめ。理由は分かりきっている。 「あの奥様…お兄さんに向かって言うに事欠いて『弟くん荷物持ってあげて偉いわねぇ』などと…!」 「商店街のおばちゃんのこと奥様って呼ぶ人古○任三郎以外で初めて見たよ僕」  要するに、僕と歩いていたところを姉弟だと間違われたのが気に食わないらしい。  そりゃ僕だって思うところがないではないけど、さすがにもうこういう扱いは慣れた。先輩と買い出しに行った時なんて親子だと思われたし。  けどそれを言っても仕方がないので、同調するでもたしなめるでもなく聞いておく。 「ほら着いたよ。ここが予約入れてたお店」 「まぁ…!さすがですお兄さん、ディナーにエスコートしてくださるなんて…!」 「一応言っておくけどここファミレスだからね。ウマ娘対応してるだけで庶民の味方だから。ウマ娘来店時は予約入れてくれって言われてたから従っただけだから」  ため息をひとつ。担当して初めて知ったのだが、彼女は相当な箱入り娘らしい。  かつて僕と遊んでいたときも一般常識の欠如が見られて僕が教え、そのたびに目を輝かせてくれるので調子に乗っていたものだったが。  世間知らずっぷりは相変わらずで、そこに僕に対する──言い方は悪いが──盲信めいた感情も加わって、今のサトちゃんは全自動持ち上げbotと化している。  もうしばらくすれば落ち着くとは思うが、こそばゆいったらありゃしない。 「いらっしゃいませこんにちは。お客様2名様でしょうか」 「予約してた××です。大人1名ウマ娘1名で」 「あぁ××様。………大人…?」 「は?」 「サト。ステイ。脅さない。すみませんうちのがご迷惑を」 「は…はぁ。お席ご案内します」  静かにキレるサトちゃんを宥めながら着席。ウマ娘同伴の場合、テーブルの広い席に案内される。たくさん運ばれてくる料理が置けなくなるのを防ぐ工夫らしい。 「好きなの注文していいよ。って言ってもメニューが分からないか…どれもハズレないから適当に5~6品頼んでみたら?」 「は…はい!ではこの…ミックスグリルと山盛りフライドポテトとグランデペペロンチーノとデミソースオムライスを…!」 「オッケ。すいませーん、ドリンクバー2つにグリル定食とポテトとペペロンチーノとオムライスをウマ娘盛りで。あと僕の方に豆腐ハンバーグ定食、ご飯小盛りでお願いします」 「かしこまりぁしたー」  そそくさと去っていく店員さん。かわいそうに、さっき睨まれたのがよほど効いたらしい。後で頭下げておこう。  と、サトちゃんが居心地悪そうにもじもじしているのに気がついた。…トイレ?って聞いたら怒られそうだから、ここはまず本人に聞いてみる。 「…どしたのサトちゃん」 「あ…あの。何と言いますか…お兄さんの食べる量、分かってはいたはずなんですけど…改めて自分のと比較したらその、恥ずかしくなって」 「あー…」  あまり量を食べる方ではないとはいえ、サトちゃんもウマ娘。かてて加えて僕はこの通りの少食──実を言うと今の注文量でも見栄張って相当ギリギリである──なので、女の子としてはちょっと世間体が気になるのかもしれない。 「本当に気にしないで。僕は知っての通り全然量食べないけど、食べないからなのかむしろサトちゃんたちがいっぱい食べてるの見るのが好きなんだ」  これは本心。自分で量を食べられない分、人の気持ちいい食べっぷりを見ているとどこか溜飲の下がるような思いがするのだ。  それが代償行為なのか、あるいは羨望なのか分からないけど、少なくともネガティブな感情ではない。 「すっ…!?お…お兄さんがそう言うなら!不肖サトノダイヤモンド、たくさん食べさせていただきます…!」 「…?」  何か感じ入ったように決意を固めているサトちゃんを不思議に思いながら、僕はドリンクバーを取りに向かうのだった。  なお、その後なぜか闘志を燃やしていたサトちゃんはダブルハンバーグ&サイコロステーキとカツカレーと唐揚げ盛り合わせを追加注文し、お腹をぽんぽんに膨らませて退店することになった。明日からのトレーニング、ちょっと量多めにしないといけないかもしれない。