信じられないことが起きた。 ひとつ。私は子供の頃約束をした。なんてことはない。誰もが一度はする、叶うはずのない子供同士の小さな約束。それを私は覚えていた。 ふたつ。その約束の相手もまた、ここに辿り着いていた。 みっつ。彼の隣にいるのは私ではなく、私の、唯一の親友だった。 名家の大切に育てられたお嬢様、といえば聞こえは良いが、私の幼少期は自由もなにもない窮屈な生活だった。 しかしそれが「持たざるもの」に対する「持つもの」としての義務だと心得てはいたし、さして夢も趣味も持たない私はそれを当然のことのように受け入れていた。 ただ、ある日、外に出てみたくなった。走りたくなった。家のお庭なんかじゃない、もっと広くて自由なボコボコの地面を駆けたくなった。 ウマ娘の誰もが抱く突発的な衝動。今なら知識でその衝動を「本能」という一言で片付けることができる。でも当時の私は初めて湧いた自意識と言えるものを天啓に感じていたのかもしれない。 だから私は窓を、塀を、自分を守るモノたちを超え、只々広い空を目指し駆け出した。 どれくらい歩いていたのかは知らない。子供の足とはいえウマ娘の足だ、その気になれば幼稚園児だった私でも東京23区を縦断することくらい造作も無かっただろう。だから彼に出会った場所を推定するのも無理だろうし、私の「ちょっとした」家出も家の者にとっては二度と思い出したくもない黒歴史のようで聞くのも憚られた。 多分お昼すぎだったと思う。やっと辿り着いたのはただの河川敷だった。遠くに野球の練習をしている男の人がたくさん見えたことも覚えている。 ようやく目的を叶えられる!と思い安心してしまったのかお腹が空いてしまった。当然ここがどこかもわからず、頼れる大人もいない。不安で声を上げて泣き出してしまった。 そこに彼が現れ、私「達」は出会った。 彼は私がただの迷子だと思って、警察を呼ぼうか?と問いかけてきた。 それは嫌だった。私はここに来た目的を果たせていない、このまま家に帰るのだけは嫌だった。 だから迷子じゃない、お腹が減って寂しいの、と半分だけ嘘をついた。 ウマ娘がヒトよりも健啖家が多いというのは誰もが知っている。それで彼は納得がいったのか、ちょうどお昼に買ってきてたんだ一緒に食べようと左手のビニール袋からプラスチックの包装容器のお弁当を見せてくれた。 初めての体験だった。私にとって、お店のお弁当容器は木製が当たり前、そうでなくても華やかな印刷が施されたものであり薄っぺらいプラスチックの単色の容器というのは初めてだった。割り箸のささくれが指に刺さったのも初めてだった。コーラどころか炭酸飲料も初めてだった。 お父様以外の男の人とふたりでご飯を食べたのは初めてだった。1つのご飯をふたりで分け合うのも初めてだった。土の上に座ってご飯を食べるのも初めてだった。 その感動に震えながら、私はいつも以上にパクパクと箸を進めた。今思うと彼はほとんど昼食を食べられなかったのかもしれない。でもそんなこと、ほんの少しも気づかせることはなく君はいっぱい食べるねえと優しく頭をなでてくれた。 家族以外の人に頭を撫でられるのも初めてだった。 彼に私が走りたい!と伝えると心配だから見ててあげるよと言ってくれた。そして、ご飯を食べた後に急に運動するのは良くないよと諭し、代わりに自分がウマ娘達のレースが大好きなこと、そしてそれを支える人になりたいと語り始めた。 私が自分のことを話した記憶はないが昼下がりのまどろみの中、彼の熱い言葉が私の世界に色を付けていく感覚は今も忘れられない。私はウマ娘だから、私が走れば彼の夢を叶えさせてあげられるかもしれない!そんな思いが生まれ今にも走りたくなった。 お兄さん!見てて!私は駆け出した。 しかし、振り上げた足が地面を強く押し出した瞬間、私は派手に姿勢を崩してしまった。 無理もない、私達ウマ娘は体のサイズ、重量、形に不釣りあいな程の強い力を持つ。それをロクに使ったことのない体、しかも出したことのないほどの全力を地面に叩きつけたのだ。 あっと声を上げる間も無く私の頭は地面に叩きつけられ――ることはなかった。彼が滑り込んでクッションとなってくれた。 彼は胸を抑えて大丈夫大丈夫と言いながら地面を転がっていたが、私が彼を傷つけてしまったことは明らかだった。 その瞬間、私は走るのが怖くなった。ウマ娘の力がこれほどまでに強いことに恐怖し、自分がウマ娘で有ることを呪おうとした。 しかしいつの間にか起き上がった彼は今度は一緒に走ろうよと手を差し出してきた。 お父様とお母様以外の手をにぎるのは初めてだった。 何事も最初はゆっくり始めるんだよ、手を繋いで私達は駆け出した。最初は早足、次はジョギング、最後はお兄さんの全力と同じくらいのペースで。 彼は追いつけなくなって手を離し、いい調子だ!と応援してくれた、が駄目だった。どうしてもある速さを超えると転びそうになってしまい怖くて足が止まる。 今度こそ泣き出してしまいそうになった。そしてうずくまった私に彼はいい考えがあるんだと冗談めかして手を伸ばしてくれた。 彼は走り方と歩き方は違うんだよと、大げさに太ももを地面と平行の高さまで上げ下げしひょうきんに走り出した。 どうやら私は後ろに向けてほぼすべての足の力を込めて走っていたため、一定速度を超えると前に激しくつんのめってしまっていた。 すると彼は片腕で私の体を支え、反対の腕で太ももをすくい上げるように持ち上げ、こう!と右、左、右、左と順番に足を上げる運動を体に教え込んできた。 今思うと通報されてもおかしくないの光景だっただろう。幸いにも仲良し兄妹として見られていたのか、誰も見ていなかったのか私達の練習は日が沈むまで続いた。 ハッ…ハッ… 練習の総仕上げということで私は最後に全力で走ることになった。少しずつ加速していく、早足、ジョギング、お兄さん、そして――越えた!!これが!ウマ娘しか体感できないスピード!頬を叩いていく風!土に足跡を叩きつける感触!! 遠くで私を呼ぶ声が聞こえたが気にならない、その先へ、その先へ!! しかし意志よりも先に体が限界を迎えた。息が、足が、腕が、全身が悲鳴を上げ私は座り込んだ。私は感動に震え何も感じなくなっていた、彼が私を呼ぶ声がした。 お兄さん!!!私は息が切れ、真っ青になった彼の胸に飛び込んだ、当然ボロボロだった彼は受け止めきれず私達は芝生に倒れ込んだ。 私!走るよ!お兄さん!私!!一緒に走ろう!! 言葉にできない感動を単純な言葉の連打で叩きつける。彼はまた私の頭を撫でて夢が変わったよ。と呟き、こう続けた。 ウマ娘のレースやライブを支える人じゃない、ウマ娘、君のような、いや君を支えられるような、そう!トレーナーだ!ウマ娘のトレーナーになるよ! 嬉しかった。こんな素敵なお兄さんが「私のもの」になってくれて支え続けてくれるなんて!!「なら…私はお兄さん「の」ウマ娘になります…♥」 それを伝えようとした矢先、遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきた。 彼はおうちの人かな?と私を連れて行こうとしたが、我が家が彼と住む世界が違う事を理解していた故に、これ以上彼を巻き込みたくなかった。 そして最後にまた会えるように約束をした。 次会うときは私はお兄さんの生徒になるから!お兄さんはトレーナーになってね!忘れないでね!約束だよ! ああ!力強い返事を聞いて私は駆け出した。 次会うときは彼が「私の」トレーナーになると信じて。