(1) 最初はしつこい男という印象だった それが時が経つにつれ私は彼に信頼以上の思いを寄せるようになっていた 最近の言葉でいうところ「チョロい」というものなのだろう しかし私の思いは叶うことはない 彼への想いを自覚したころひとつの情報を耳にした、トレーナーに彼女がいるということを 生徒会に所属している以上有益か否か関係なく様々な情報が入ってくる 心は穏やかではなくこの時ばかりは副会長である立場を呪った だがこればかりはどうにもならないだろう トレーナーとはあくまで良きパートナーを貫こう 自分にそう言い聞かせた 日曜日、あいにくの土砂降り トレーナー室に訪ねに行くと外出中というプレートが扉にかかっていた どこにでかけているのだろうか、噂の彼女とやらとデート中なのだろうか 私の中で焦燥が起こる、断ち切らねばと何度も思っても消えない 花壇でも見に行こうか・・・私は心安らげる場に救いを求めに行った 当然外には誰にもいない、そのはずだった 花壇の前に傘もささずにずぶ濡れになったトレーナーがいた 一体何をしてるんだと声をかけるとトレーナーは驚くように振り向いた 「あ、ああ花壇が心配になって」 「だからって傘ささずに出る奴がいるか、風邪を・・・」 そうして近づくうちに違和感に気づく トレーナーの服装は明らかに余所行きの服装 控えめだが装飾品もつけている 顔を見ると目は充血し腫れぼったく鼻水も垂らしている 「貴様・・・何かあったのか?」 トレーナーは喉に詰まったような声を小さく出した なにも言わずにただ私の方をなぜか申し訳なさそうに見る 言えないのなら私が切り出すしかない 「私は貴様に何度か弱みを見せた、それは貴様を信頼しているからだ  その貴様が私に弱みを見せないのは私を信頼していないことになるぞ」 トレーナーが下唇を噛む 「責めるつもりは毛頭ない・・・こういう時こそ頼ってくれ  私は貴様のパートナーなのだ」 その言葉に反応したか彼から嗚咽の声が出始めた 世話が焼ける、私は傘をトレーナーに傾けた トレーナー室に戻りタオルを渡すと頭を拭きながら 彼はぽつりぽつりと泣いていた訳を話し始めた 今日は久々に彼女に会いにいったとのこと 喫茶店で待ち合わせ彼女を待っている間 彼は前々から話していたトレーナーの仕事のことや 私のことも話そうと思っていたらしいが いざ顔を合わせると彼女からいきなり別れ話を切り出されてしまったようだ 彼女曰く「仕事に夢中になって自分を疎かにしてるのが嫌になった」と 彼のダメなところを全部出された後 呆然とした彼を置いてその女は立ち去ったという そうして心がぐちゃぐちゃになったまま学園に戻ってきた 「情けない話だよな、笑ってくれ」 「馬鹿者・・・笑えるわけないだろう」 笑えるわけがない その話を聞いて私は…一瞬「僥倖」という二文字が浮かび上がったから 女帝たる私が己のパートナーの不幸になんと醜い思考を それでも、それでも・・・彼女に見捨てられ弱弱しくなった彼を 自分のものにして良いのなら私は、私は 「・・・それで、どうしたい?」 意思確認をしてしまった 「どうしたいのかな・・・無理なのは分かってるんだけど  復縁したいなって思う気持ちもあってさ」 ああそれは分かっている、人への想いはそう簡単に断ち切れるものではない 「ああくそ・・・彼女の顔が今でも思い浮かぶんだ、最後に見たのは去り際でさ  出入口のドアノブに手をかけた時に振り返って俺の顔を1分ぐらい見つめたんだ」 俺のマヌケ面でも見たかったのかなと自傷気味に言い、また泣き始めるトレーナー 待て そういうことなのか? 顔も知らぬ、素性も知らぬ、その女に私は心の中で聞いた 別れ話を切り出すなら普通は「さようなら」と言ってさっさと去るべきだろう それなのにトレーナーの良くない点を全てダメ出しをして去り際に顔を見つめていた? 「仕事に夢中になって自分を疎かにしてるのが嫌になった」と貴様は言った もしかして・・・それで、彼が変えようとでもしたのか?変わるとでも思ったのか? 去り際に顔を見たのは引き留めてほしかったからか?そういう確証でもあったのか? 阿呆が こんな女相手に最初からこいつを諦めてた自分を殴りたくなるが、その前に決意せねば お前如きに私の愛しい人は渡さん 「悲しいことを言うようだが諦めるしかないだろう」 「だよなあ…ごめんくだらないこt」 それ以上は言わせるものかと私はまだ泣く彼を抱き寄せた 「新しい恋を探してみるのはどうだ?身近な女はいるぞ」 トレーナーが泣き顔から呆気にとられた顔になる 阿呆面を晒しおって・・・だが、今はその面も愛おしくなってしまう 「大丈夫だ・・・貴様には私がいるぞ」 愚か者の女に見捨てられ雨に打たれて弱まっていた 彼の心臓の鼓動が私の胸に伝わってくる 抱きしめる力を強くするとその鼓動が早くなる 私のことを意識してくれているのだな 心臓の鼓動が私の体内へ心臓へ伝わり 私の彼への気持ちをますます肥大化させる もう我慢ならない、今の私は女帝ではなく 一人の男を奪い取るべく動く卑しい女だ 彼の顎をあげ唇を奪った 初めての口づけの味はきっと喫茶店で飲んだであろう紅茶の香りがほんの少しした 仮にトレーナーがその女を引き止めでもしていたら この唇はまたその女に今日も奪われていたかもしれない そう考えると上書きせねばという欲望に駆られる ほんの少しだけ唇の空いたところから私の舌を侵入させた トレーナーの体がびくんと震える 私を感じてくれている、今だけは私のみを意識してくれる 彼が私だけのものになっていると思うと頭の中がトロトロに溶けたチョコレートのようになっていく メールで口づけをねだるメジロマックイーンはいつもこのような甘美を求めていたのか もっと、もっと感じて、感じたい!トレーナーの舌を捉え強引に絡めとった トレーナーの舌は遠慮がちではあったが私の舌を拒絶はしなかった 彼の唇と、そして舌がもたらす多幸感は私の息が切れるまで続いた 唇を離したあとの彼はもう泣いていなかった それどころか顔を赤くさせ恥ずかしそうに俯いていた 「シャワーを浴びてきたらどうだ?」 トレーナーが小さく頷く 「戻ってきたら今後のことを話し合おう」 トレーナーは私に「ありがとう」と小さい声で言って部屋から出た どうせならもっと私たちの関係を深める返答を聞きたかったが がっつくのも今のトレーナーの心身を考えあまりよろしくない これぐらいで良い、今までのことを考えれば十分すぎる成果のはずだ これ以上のことは他のウマ娘とトレーナーのカップルを見ながら研究しよう トレーナーが使ったタオルを回収しようとした時 彼が使っているスマホが置き忘れていることに気づいた 同時にスマホに着信音が・・・画面に"彼女"の文字が出ている ああやはり 引き止めもしなかったトレーナーに業を煮やし自分から電話をかけるとは とことん愚か者の女だ、トレーナーにどこに惹かれてこの女と付き合ったのだ?と問いたいぐらいだ だがしかし、残念だったな・・・スマホを取り拒否のボタンを押した 幸いなことにパスワード入力はなかったので通話履歴も楽々と削除できた、着信拒否もしておこう ここから先、この女が完全に諦め切るまで彼とこの女の繋がりは全部断ち切るのだ 根気強さが求められるだろうが大した苦ではない レースでも恋でも 私たちウマ娘は自分の勝利に貪欲なのだ (2) あの日曜日から少し経った休日のトレーナー寮 私はトレーナーの部屋の掃除を手伝った ただ部屋自体は散らかっているわけではない 整理整頓はこまめにしている、掃除するのは この前別れた(ということになっている)彼女との思い出の品だ 彼女への未練がまだ残っているだろう彼の気持ちを 整理させるべく私の方から提案したのだ 別に嫉妬心から捨てるとかそういうものではない 全ては彼のこれからのことを考えての発案である、疑うな 部屋中にある思い出の品を一度に集めるとそれなりの数にはなった これらの分だけトレーナーと彼女の間に思い出がある そう思うと胸がチクチク刺されるかのように痛くなる だから早く捨てよう、もう貴様にはいらないものだから 「・・・初めて買ったものだったかな、これ」 しかし一つ残さずかき集めたまでは良かったのだが 肝心のゴミ袋に詰める作業で止まってしまった トレーナーが小さな指輪を見つめた 「ペアリングだったはずだ」 「ならもうひとつはとっくに捨てられているだろうな、女は切り替えが早い」 否・・・私はウソをついた 切り替えが悪い女も中にはいる そうだろうなと私の言葉に同意はするがゴミ袋へ一向に入れない 「ごめん、こんな時に・・・女帝のトレーナーたる奴が未練がましいとは情けないわな」 「責めはせん」 私だってこの件に関してウソをついたし隠し事もした お前が未練がましい男なら私は卑しい女だ・・・さほど差異はない とは言っても 思い出の品はトレーナーの前から そして私の視界から確実に消し去りたい これを捨てられない理由が未練によるもので 断ち切るのが難しいなら 「こっちを見ろ」 その未練を抱く心をあやふやにしてやろう 私の方に向けたトレーナーの顔に手をあて あの時と同じように唇を奪った トレーナーは拒否しない 「すまない・・・だが私としては悔しいんだ  私はお前とその女性との間に思い出の品というものがないから」 これもウソだ 私はそんなもののあるなしにこだわったりはしない、本当だぞ? キスが終わった後のトレーナーは 先ほどとは打って変わってもくもくと思い出の品を ゴミ袋の中に入れていった 成功した、私は卑しい女らしく心の中でほくそ笑んだ 最後に捨てるのは写真立てだ、私は初めて女の顔を見た それなりに美人かもしれないが過去の女だ 彼は写真立てから写真を取り出すと思いきり破いた この行動には少し驚いたが 「ごめん驚かせて・・・こうした方が余計に思い出さずに済む」 ああそうしてくれると助かる あの女の顔を二度と思い出さないようにしてくれ 貴様が思い浮かべてよい女の顔は私だけにしたいのだ そうすれば貴様の心の空いた箇所に 私を次々と埋め込むことができるから 全てを詰め終わりゴミ置き場に捨てると彼から食事に誘われた 今日の整理に手伝ってくれたお礼と・・・思い出作りにとのこと 別に思い出に固着してるわけではないが私を想ってくれる気持ちは素直に受け止めよう トレーナー寮に戻り彼の着替えを廊下で待っている間に 私はそれとなく近くの集合ポストを見た 彼のポストを開けると彼宛に一通の手紙を見つけた 差出人はあの女からだ 私は思いきり破り捨てた 着信拒否で連絡手段を断ったら次は手紙を寄越してきたか 内容は見なくても分かる もう読むことすら不可能なほどに破ったころに彼が出てきた 「なに破り捨てたんだ?」 「ピンクチラシってやつだよ、いらないだろう?」 うんと特に気にせずに言う彼 そう、あんな手紙はピンクチラシと同じだ 女などもう必要ないだろう 貴様には私がいるんだから (3) 彼女への未練を無くすべく思い出の品を捨ててから またしばらく経ったとある休日 私はトレーナーの自室で彼と一緒に休日を過ごしていた それなりに捨てたものだから生活スペースに余裕が出たのだ 一度精神がへし折れたトレーナーを心配して、という建前で 私は休日にはこの部屋にお邪魔するようにしている 一応サイフに万が一の・・・があるが未だに未使用だ、おのれ とはいっても一応進展はある 最初は私が休日も部屋に訪れることを戸惑っていたトレーナーも 今では私が来るたびにお茶菓子を出してくれるほど 私が部屋に来ることに疑いすら持たないでいてくれている そのうち歯ブラシやコップにパジャマなどの生活必需品を 他の者にバレない程度に持ち込むことも可能ではないだろうか この日はテレビを二人でずっと視聴していた 静かな雰囲気も悪くはないが出来ることならもっと関係を深めたいという気持ちもある こういう時学園一バカップルのメジロマックイーンと彼女のトレーナーなら どうやってイチャイチャにまで持っていくのだろうか?明日聞いてみよう トレーナーの方を見ると彼はテレビを見ながら耳珠を指で擦っていた 「耳の中痒いのか?」 「え?分かる?」 素っ頓狂な声を思わず出すトレーナー 当たり前だろう、毎日貴様のことを見ていれば 癖だの考えてることだの分かることも増えていく こっちはなるべく早くあの女よりもずっと貴様を理解する存在になりたいのだ 「掃除してやる、さあ来い」 何度か出入りしてるので耳かきがどこにあるかも分かっている 耳かきをペン回ししながらトレーナーを私の膝上に誘導した トレーナーの頭が私の膝上に乗るとその重さ分の幸せを感じる それだけで幸せを感じるのはチョロいのでは?と思う者がいるかもしれないが ついこの間まで彼女がいてその女に愚かな打算で見捨てられて ヘタすれば女性不信になってもおかしくない男が 私にここまで気を許してくれているのだ 幸せを感じずにはいられないだろう ウソだと思うなら耳掃除してみろ 頭を撫でることだってできるのだぞ かり・・・かり・・・と耳の中を掻くたびに彼が 私の膝上でんっんっと声を漏らしていく 少しムラッと来たが我慢 「痛くないか?」 「いや大丈夫だよ」 ふふっと笑うトレーナー ああ久しぶりに見たな貴様のあどけない笑顔 彼女に見捨てられてからしばらくの間 トレーナーは仕事中の間作り笑顔ばかりだった 他のウマ娘、同僚・・・だけど私には 私にだけは素の自分を見せられるようになれたのだな 「・・・心地いいや」 「随分耳垢が溜まっていただろうからな、こまめに掃除しろ」 右耳が終わり次は左耳を掃除してる時トレーナーがポツリと言った 私は不摂生だぞと軽くたしなめた 「ああいやそうじゃなくて・・・お前の声が心地いいって話」 「私の?」 「・・・彼女の声どんな感じだったのか忘れちゃってさ」 耳かきする私の手が止まってしまう 「俺の中の彼女がどんどん消えてくんだ  もうなんか自分が空っぽの人間になっていく気分で・・・でも」 「でも?」 「お前がこうやって俺に寄り添ってくれてるおかげで  俺は完全に空っぽにならずに済んでる」 どんな表情を今しているのか 私の方に顔を向けているので確認できないが 「もっと、お前の声が聴きたい」 頬の赤みが物語っていた 私は歓喜によって生じる体の震えを抑えるのに必死になった 「・・・続けるぞ」 手だけでも震えを抑えないと さもないと私の異変に気付いてトレーナーが顔を上げるから 顔を上げられたら トレーナーの中に私がどんどん入り込んでいる至福を実感し 抑えきれずに出てしまった満面の笑みを見られてしまうから 「心地いいか?」 「ああとても」 耳掃除し終わり時計を見ると寮の門限が近づいていた ここにいると時の流れがあまりにも早すぎるように感じる 時なんて止まってしまえばよいのに、なんて まるで砂糖まみれの少女コミックのような考えまで出てしまうほどだ 今度外泊許可を取ろうか・・・いや流石に私がトレーナー寮に 外泊許可取るのは他のウマ娘に示しがつかない こういう時の立場や肩書というものは足枷になるものだ 仕方ないとは思いつつ部屋から出る準備をした 起き上がったトレーナーがかかりぎみに待ってくれと声をかけた ・・・ま、まさか、泊まって行けとかそういうことか!? いきなり飛躍するのではと内心ドキドキした 「これをお前に渡したいんだ」 トレーナーがどこかに隠していたのか 細長い赤色のケースを私に手渡した 中を開けると青色の宝石の首飾りがあった 「4月6日生まれだったよな?調べたら4月6日生まれの人の守護石が  トパーズだって・・・本当なら誕生日石を渡したかったけど  誕生日石はブルーダイヤモンドらしくて、重すぎるかなって」 しどろもどろになって私のプレゼントについて話すトレーナー 私がどう反応するのか気にするかのような自信のない目 分かっているさトレーナー、今まであの女に何度か贈り物を送ったのだろう それが見捨てられてからどうやって女性にプレゼントを渡すのか それさえも分からなくなってきた・・・そういったところだろう? 大丈夫だ 「つけてくれるか?」 貴様が自信を失っているなら私が手助けしてやろう 貴様がまた自信を持てるように 「似合ってるか?」 「もちろん」 「そうか・・・お前の気持ちとても嬉しいよ」 私は彼に首飾りをつけてもらい先ほど以上の幸せを、なにより優越感を感じている かつてあった思い出の品の量から察するに貴様は定期的に私に贈り物を渡すのだろう これから、貴様がくれるもの 愛もなにもかもずっと私が独り占めしてみせる 「また明日」 去り際のトレーナーの唇と舌は一緒に食べたチョコレートの味がした 彼から貰った幸せに酔いしれながら寮へ戻る途中 私はあることの確認をしに事務局へ寄った 事務員が入室した私を見るなり声をかけてきた 「ああちょうど良いところに・・・エアグルーヴさん訪問の事前連絡が来たんですけど」 以前あるウマ娘のトレーナーの関係者が無理やり乗り込んで以来 あらゆる可能性を考えて来訪時には事前連絡を厳守とした その結果がこれだ 「貴方のトレーナーに用があるという女性が」 「却下だ」 彼の愛を絶対に守り抜くのだ (4) 夜風が当たりたくて溜まらなかった その日のレースの勝利の余韻と共に 体の火照りがまだ残っていた 以前なら寝るころには醒めているはずなのだが 未だに醒めぬのはレース後の控室でトレーナーが 嬉しさのあまり私を抱きしめてくれたからだ いつも聞く会場のファンからの声援以上に私の体に、心に熱を与えるものがあった もう元の彼女と別れ(たということにしている)てから1か月以上にもなる その彼の抱擁を独り占めできる幸福まで私に流れ込んでくるのだ そのまま押し倒して純潔を散らすことも出来たが 女帝としてライブをおろそかにするわけにもいかないので どうにかキスだけで我慢してライブに臨んだ そのキスも含めた熱が未だに醒めていない 副会長としてこのような行為は良くないだろうが 夜の散歩がしたくなり寮をこっそり出た そして予想外の僥倖が夜の歩道にあった 「エアグルーヴ、お前もか?」 私のトレーナーもまた夜の散歩にでかけようとしていたのだ 「副会長とあろう者が感心しないなーって会長に言われるぞ」 「では見回りをしていた・・・という建前でもしよう  最近物騒だ、不審者が出るかもしれんしな」 トレーナーは苦笑しつつ私に手を差し出した 彼から自発的に手を繋ごうと促してくれているようだ 私は内心喜んでトレーナーの手を取り一緒に歩き出した 夜の散歩は楽しいものであった 「貴様が買ったコーヒーは甘ったるくないか?」 「そういうエアグルーヴのは苦みが強い気がする」 道中お互いに買った缶コーヒーを味比べで回し飲みした(間接キスは特に狙ってはいない) 手だけではなく私の体を彼の腕に密着するように腕も組んだ 私の体温と体の柔らかい部分に反応したかトレーナーが 少々恥ずかしそうな反応をしたのが実に良かった 普段互いの立場や時間に場所の関係で出来ない分 私たちは夜の散歩を楽しんだ そうして寮へと戻ろうとする帰り道 トレーナーの足取りが少し早くなった気がした 「エアグルーヴ、駆け足で戻るぞ」 先ほどまで私にかけた優しい声色とは全く正反対の強張った声色だ どうした?と聞けば 「さっきから誰かに"つけ"られている、後ろは見るなよ」 そう言われ私はトレーナーと駆け足で帰り道を行く 後ろからだんだんとコツ・・・コツ・・・という足音らしい音が聞こえてくる 確かに誰かが私たちをつけてきている 断続的に聞こえてくるのは時折止まって様子をうかがっているからだろうか パパラッチだろうか? 「パパラッチなら写真を撮ってるはずだ  でもそういう動作は全くない・・・ずっと跡をつけてきてる」 あと少し、あと少しだ 寮まであの少しという距離のところだった 後ろの足音がコツコツコツコツと露骨に聞こえてくるようになってきた 確実に私たちに近づこうとしている 体の火照りは完全に消え今度は血管が凍りそうな想いが私の胸中を支配する それを感じてか 「エアグルーヴ持ち上げるぞ」 トレーナーが私の体をお姫様抱っこで持ち上げて走った わわっと小さく声をあげながら私は彼に体を預けることとなった 彼は全速力で駆けた 後ろの・・・ 「最後はスリリングだったな」 学園内に入り寮の入り口前 もうあの者の気配はなかった 流石に乗り込む勇気はないのだろう 「すまない重かっただろう?」 私を下ろしハアハア息が荒い彼に私は声をかける 「平気だこれぐらい  それより俺の持ち方痛くなかったか?  ああいう風に女性を持つのは初めてで」 心配そうに私を見るトレーナー 「問題ない・・・むしろ嬉しく思う」 「嬉しく?」 「なんでもない、さあお互いの寮に戻ろう」 ああお休みと言うトレーナー・・・まだそこまでは自発的ではないのだな 私は彼の元へ進み 「寝る前の口づけをしてくれるか?」 私は卑しく彼に強請った トレーナーはたじろいだが周りを見回すと 「それでさっきの怖いのは消えそうか?」 「ああ吹き飛ぶだろうな」 口づけする口実が出来たか彼はかがむようにして私に口づけをしてくれた 私はさらに舌を入れて強請った、彼も応じてくれた 舌が絡み合い互いに飲んだコーヒーの味が混じり合う 私が飲んだのは苦いはずだがとても甘みが強い気がした 栗東寮の自室に戻り私は 熟睡中のファインモーションが起きない程度に笑った 私は絶対卑しい笑顔をしている ルームメイトには見られたくない 「ああ・・・あの表情は・・・傑作だったなぁ」 トレーナーが私を抱き上げ学園へと駆けだそうとしたとき 私は抱き上げられた瞬間に後ろを見た ソレは電灯の下にいたからはっきり見えた 以前トレーナーが捨てた写真に写っていた「元彼女」がそこにいたのだ どのような表情をしていたかは直後にトレーナーが駆けだしたのではっきりとは見えなかった しかしトレーナーが駆けだそうとした時あの女は腕を思いっきり前に出していたのだけは見えた まるで「待って!」と言わんばかりに・・・ ああ・・・どうせなら表情も見ておきたかった!! どういう顔をしていたのだろうか 自分とすっかり連絡を絶った(と思い込んでいるだろう)彼が 他の女と夜道を出歩き、その女に自分でもしてもらったことがない お姫様抱っこをしながら走り去っていくのだ 絶望?怒り?悲しみ?なんだっていい トレーナーはそれ以上の苦痛を味わったんだ 彼の気を引きたくてわざとフった自分の愚かさを呪うがよい 彼の愛は今確実に私に向きつつあるのだ 「これで諦めてくれることを願おうかな・・・ふふふふっ」 これ以上は時間の無駄だ、女のことを考えるのはもうやめた それよりも明日はどのようなことをして彼との距離を狭めよう? 私は彼との時間も独占できる幸福に酔いしれながら床に就いた また火照りが現れてきた、とても心地よい火照りが (5) 気が付くと自分の目の前に広がる光景は 忘れたくて忘れたくてしょうがない場所だった あの日彼女と別れた喫茶店の店内だ 全く同じ場所に座っている なぜ自分はここにいるのか? 立ち上がろうとしても立ち上がれなかった 目の前に自分の愛バであるエアグルーヴがいたから 俺にとって忌まわしき場所にお前を連れてくることなんてない どうして俺とお前がここにいるんだと言いたかった その前に彼女が口を開いた 「別れよう」 夜 私は遂に恥も外聞も捨てて外泊届を提出した 寮長であるフジキセキには「春だねえ」と言われた パジャマや枕などの日用品を手に私はトレーナー寮へ来た 彼はまだ起きているだろうか?起きてることを願い彼の部屋の前に立った ノックしようと手に扉を当てた時かすかではあるが私の耳にすすり泣く声が入った 聞き間違えようがない、我が愛しのトレーナーがこの扉の向こうで泣いている 「おいどうした!私だ、エアグルーヴだ!開けろ!!」 乱暴に扉を叩くと5秒ほど間を開けて鍵が開く音が鳴った 入るぞと言うが返事がない 開けると彼はドアの前で蹲っていた 近くのごみ箱に顔を突っ込み彼は吐き戻していた 「おいどうした貴様!?具合でも悪いのか!」 私は傍に駆け寄った 顔をあげた彼は・・・あの日彼女と別れずぶ濡れのまま 花壇で立っていた時以上に悲しさと苦しみに満ちた顔をしていた 「エ・・・エアグルーヴ・・・っ!」 トレーナーは彼の目の前でしゃがんだ私が視界に入ると抱きついてきた 突然だったので抱きつかれたまま押し倒された 「み・・・見捨てないで、くれ・・・!!」 彼はそう言って泣きじゃくった 私はあえて抗うことなく彼が落ち着くのを待った 嘔吐物のなんともいえないツンとする臭いは 彼の泣き顔を見ているとそこまで気にならなかった ベッドに隣同士になって座っても彼は私から離れなかった 聞けば私がトレーナーに別れ話を切り出す夢を見てしまったらしい 「お前の目は心底冷たくて俺に愛想が尽きたと一言言ってそのまま去ったんだ」 随分薄情な女だ、夢の中の私は 「俺の悪い点を述べるだけ述べて去った彼女以上に苦しかった」 その苦しみの結果があの嘔吐か 抱きしめる力がまた強くなる 「見捨てないでくれ・・・俺お前に相応しい男になれるよう一層努力するからどうか・・・」 泣いてすがって私に懇願する 言葉は弱弱しいが腕の力は私を絶対離したくないという意志が伝わるほどに強い この状況下でも私は卑しい女だ 遂にトレーナーがここまで私を求めてくれたのだと歓喜に震えそうになった かつて元彼女に見捨てられた(と思い込んでいる)ときは引き止めることすらしなかった男が 私には無我夢中で手放さないようにしがみついているのだ 「大丈夫だ」 その気持ちに応えよう あの日と同じように彼の顎をあげて口づけをした 落ち着かせるために水を飲ませうがいをさせたとはいえ いつもと違って今日の口づけは少々鼻につんとくる臭いもした だが私はそんな小さいことには気にしない 私は情けないところ含めて彼の全てを受け入れる これはあの女には到底出来ないことだ 私の中の卑しさが優越感を求める 「貴様は十分私に相応しい男だ」 そしてそんな卑しい私を彼は信頼してくれる だからこそ愛しいのだ 「今日は外泊許可をもらった、一緒に寝よう」 ようやく落ち着くことが出来た彼は歯磨きをして再び寝床についた 一緒に寝ようと言ってもそれは同じベッドで寝るだけのこと 「お願いがある、ひとつワガママを言っていいだろうか?」 まだ不安が残るか私の手を握る力が強い 「なんだ言ってみろ」 「キスして・・・いいか?もっと君を感じたい  君を感じて二度とあんな夢を見なくて済むようにしたい」 勝利宣言をしそうになった 遂に自分から私とキスしたいと言ってきたのだ 「なぜ遠慮がちに言う・・・いくらでも来い、貴様の全てを受け止める」 「ありがとう」 彼は私の頬に手を当てた 「君に愛されて本当に良かった」 彼が初めて私を求めてした口づけは ほのかに香る歯磨き粉のミントの香り いつもと違うのは彼が積極的であること いつもなら私から侵入させてくる舌が 今夜は彼の方から私の口内に舌を侵入させてくる 私の舌と彼の舌が絡み合う 私から求めるのではなく今日は彼が求めてきてくれている 今日は泊まりに来て良かった、本当に良かった その夜私と彼は実に2時間以上接吻を交わし続けた 息継ぎしては互いの唇の柔らかさを感じ合い 舌を絡み合わせ互いを意識し合う、それだけに夢中になった それ以上進むことも出来たかもしれなかったが これだけで十二分、それ以上の幸福に溺れることができた 「昨日は本当にすまなかった」 朝になって淹れたての紅茶を手に私を起こしてくれた彼の第一声がそれだった 「謝ることはない・・・その謝罪の分の・・・接吻は貰ったしな」 「あれでは返した気になれないよ」 もう泣きべそをかいていた彼はいなかった 「ところでどうだ、今朝は夢を見たか?」 「それが全然、エアグルーヴとのキスがよほど俺の心と脳に響いたみたいで」 それは良かった 紅茶を飲みながら見せるあどけない微笑みを見ながら 彼の心の中に巣食う苦しみが消えたのなら幸いだ 「エアグルーヴ」 「なんだ?」 「情けない俺を受け入れてくれてありがとう」 どういたしましてと私は軽く返答する 紅茶を一啜りしてトレーナーを見ると 彼は真剣な顔で私を見つめていた 「俺もここから立ち直りたい  エアグルーヴが俺の理想の女帝であるように  俺もエアグルーヴにとっての理想のパートナーでいたいから」 その気持ちだけでも十分嬉しいのだが・・・待て 私は彼の発言を心の中で反芻する "パートナー"? "トレーナー"ではなく? 「今まで返答もしない俺を好きでいてくれて本当にありがとう」 「俺もエアグルーヴが好きだ」 ああ・・・ああ!! 月並みな思考だがこんなにも世界は輝いているのか!! 私の脳がグラブジャムンのような甘ったるさに支配されていく!! 出来ることならこの甘美を1日中味わっていたい これが休日ならこの輝きと甘美を彼と共有するために 1日中彼の部屋にいたい!! だがしかし悲しいことに今日は平日 去り際に恋仲になってからの初めての接吻を交わして お互いいつも通りの日常に戻った 唇にはまだかすかに彼の唇の感触が残ってる それだけでも廊下をスキップしながら歩きたい気分だがここはもう学園内 副会長として、女帝としての役割を果たすことに専念した だがその前に 確認しておくことがある 私は警備室に寄った 「ああエアグルーヴさんちょうど良いところに」 夜勤明けでこれから帰宅する警備員に昨夜の様子を聞いた 「エアグルーヴさんの言った通りの場所を見回ったら  昨夜いたんですよ、学園内を覗き込むように女性が」 あの女はまだ諦め切れていないようだ 「近づいたところ私に気づいたのかすぐ逃げてしまいましたけどね  目撃されたとなればもうここに来ることはないと思いますが」 そう思いたいものだがな 「ありがとうございます、明日以降もよろしくお願いします」 お礼に缶コーヒーを差し出し帰宅する警備員を見送った 生徒会室に向かう間に私は決意する そろそろあの女に見せつけるべきだろう もう手遅れだということを (6) 「制したのは女帝エアグルーヴだああああああ!!!」 一着でゴールインした瞬間、実況の絶叫と共に観客が沸き立つ 「またもGIを制した女帝エアグルーヴ!快進撃が止まらない!!」 私は応援してくれた観客に軽く手を振った 応援してくれる者たちの熱い声援はいつも嬉しい そんな人たちの前で今日、私は ライブの前準備のために一度控室に戻る もちろんそこで待つのはただ一人 「エアグルーヴ」 私のトレーナー 私のパートナー 私の愛しい人 私を愛してくれる人 「おめでとう」 彼は私を優しく抱擁する あの一夜以来彼は私へのスキンシップを一段階上げた 嬉しいときは自然と私を抱擁するようになった それ以上に嬉しいときは 「ありがとう・・・ご褒美が欲しいところだが」 「分かっているよ」 私の顔をあげ唇を重ねた 今や彼の方から私にキスをしてくれる 「ハッカの飴を舐めていたのか?スースーするぞ」 「嫌かな?」 「いや・・・こういうのも良い」 火照った私の体にはちょうど良いハッカの清涼感が 彼の舌から伝わってくる 晴れて恋仲になってからというもの 今ではこうやって二人きりの時は 隙さえあれば彼と接吻を交わしている その先を望んでよいのだぞと一度言ったことがあるが 「エアグルーヴと歩む工程を大切にしたい  今はキスオンリーでも俺は十分幸せだ」 と返答された 財布の中のアレは使うことはないなと 少しガッカリしたが彼が幸せだというなら ガッツくようなことはしないでおこう それに彼との交わす接吻は私にとっても 幸福であり刺激的なものである 「・・・次は甘いのがいいな」 「イチゴでいいか?」 彼は胸ポケットから小さな飴玉を取り出し口に放り込むと そのままもう一度私と口づけを交わす これが最近の私たちの中の接吻 飴玉を互いの舌で舐めあう 飴玉が小さくなれば互いに甘くなった恋人の舌を 舐めて絡め合い甘さと幸せに溺れながら接吻を愉しむのだ ハッカの清涼感からイチゴの甘ったるさが レースの勝利の余韻と共に彼を手にすることができた 優越感をさらに引き立ててくれる だが悲しいかな この後のライブの前準備のために どこかでキスを一区切りしなければならない 唇を離すとあっ・・・とかすかに声が漏れ ほんの少し名残惜しそうに唇をなぞるトレーナー そんな反応をしないでほしい、私も名残惜しいのだ だから別のことで満たしてもらう 「いつものを頼む」 彼は分かったと櫛を持ち 椅子に座った私の背後に回り 私の尾に触れる 「ん・・・」 今度は私から声が漏れる これも最近の習慣 レース後どのような結果であれ 彼が私の尾のケアをしたいと申し出たのだ ウマ娘にとっての尾のケアは おいそれと他人に任せるものではない 彼がそれをしたいと申し出て 私はそれを許可した それで得られる意味はもう語ることもない 彼の優しい手つきで櫛で一回ずつ梳かされる 彼と一緒に選んだコロンを時々吹きかけ 私の尾を女帝に相応しい状態にしてくれる 私は今、愛されている あの女よりもずっとずっと 彼に尽くされ愛されているのだ 今の彼を独占できるのは私だけ だからこそ今日こそケリをつけなければならない 「よし・・・仕上がったぞ」 「完璧な仕上がりだ、流石はトレーナー」 お礼に頬に一度キスをする 照れるトレーナーがこれまた愛しい ライブ後のインタビュー 私はトレーナーを連れて記者の前に現れた ありふれた質問に全て毅然たる態度で答え 「この快進撃、感謝の気持ちをどなたに伝えたいでしょうか」 その質問を待っていた 決まっている、私の母、応援してくれる私のファン 「そして、何よりも誰よりも私の力になってくれた  理想のパートナーである、トレーナーにです」 おおおおお!と記者からどよめきが出てくる ここ最近記者を利用した告白、外堀がウマ娘の中でブームになっている あの問題児ゴールドシップは記者の前でトレーナーと結婚宣言するし トウカイテイオーは一緒に実家に帰ろうとトレーナーと相談するわ ならば、私もまた彼女らに倣い利用しよう そのために随分と回りくどいこともしてきた よく学園に足を運ぶ女記者にトレーナーがどれだけ自分に尽くしているか どれだけ自分と良い関係を築けているか長々と語ったりすることもした そうだ・・・前準備はもう出来ている あとは彼らのご想像とやらにお任せしようではないか 彼らは想像で物を書くのが得意なのだから 「俺は理想のパートナーになれたかい?」 もう聞く必要もないことだろうが 何も知らない記者たちの手前トレーナーが確認をする 「もちろんだ」 「ありがとう、女帝の理想のパートナーになれて本当に嬉しいよ」 私は微笑み手を差し出す トレーナーが跪きながら私の手を取り 手の甲にキスをした もう誰も私たちの絆を疑わない パフォーマンスは完璧だ そう言わんとばかりにカメラのシャッター音が鳴り響く いつもはフラッシュが嫌いだが今日だけは気にせずに済む 理想のパートナーが手を握ってくれてるのだから そうして彼と共に去っていく 観客席を見上げ・・・見つけた あの女を やはり来ていたか 元から彼の仕事内容を知っていたのだ 当然担当である私のことも多少は知っているはず たとえ知らなくても学園でのインタビューでわざわざ トレーナーの名前を出してアピールしたのだ 接触が断たれた彼の情報を少しでも知ろうと ウマ娘関連の雑誌を見れば目にすることは出来る 私の出走を知ればもしかしたら会えるかも・・・そう踏んで来る 簡単にあの女の行動が予想できた だがトレーナーは彼女に気づくことすらない 彼の中ではもうすっかり彼女は消えているのだろう あの女は・・・下唇を噛んで私たちを いや正確には私を見ていた 嫉妬か?心地よい嫉妬だ それにここで見るのは私ではないだろう 未練があるなら見るのは彼の方だ 今でも好きなんだという気持ちを彼に向ければ トレーナーももしかしたら気づけたかもしれんだろうな だがもう遅い トレーナーの手の甲のキスで貴様も理解しただろう 私は勝った・・・勝ったんだ! 「今夜は貴様の部屋で祝おうか」 私は彼の手を強く握り心の中で勝利を確信した