俺はトマトが嫌いだ。 匂い。味。食感。その全てが尽く嫌いだ。 ケチャップなら大丈夫で、ミネストローネやミートソースも何とか我慢できる。だが… 「これは厳しいんだよな」 トマトジュース。小さなペットボトルに入った赤いあんちくしょうが、トレーナー室の机の上に鎮座していた。 誰に押し付けられたわけでもなく、何某かの罰ゲームというわけでもなく。自分が自分の意志で買って、ここに置いて…それでも、手を出せなくて。 「いつまでもこうしちゃいられないだろ、なぁ?」 独り言は宙に溶けて、俺は意を決してトマトジュースを掴む。 どうしてこんな事をしてるのか、と問われれば。それは俺の愛バ、オグリキャップに起因する。 彼女は大食漢だ。いや、女性にこの言葉を使うのもどうかと思うのだが、とんでもない量の食事を摂る。 ウマ娘が人間よりも多く食べると言うのは知っていたが、それでも初めて見た時は仰天した。 そんな彼女だが食べ方はとても綺麗で、好き嫌いもない。 そう。彼女に好き嫌いはない。 ……だったら。 トレーナーたる俺が、好き嫌いをどうこう言えるわけもない。 キャップを開ける。漂ってきた匂いで既に気勢を殺がれるが、もう後戻りはできない。 「南無三!」 ボトルを傾け、口の中へと流し込み…数秒後、俺は流し台へと駆け出した。 「……クソっ、情けない」 思わず弱音が口をつく。蛇口を捻り、コップに水をとって流し込む。ついでにポケットからミンティアのケースを引っ張り出し、いくつか取り出して乱暴に噛み砕く。 今はただ、口の中の青臭さを押し流したくて。 「オグリキャップにこんなところは見せられないな…」 つまらない意地と笑わば笑え。そんな事を思いながら口を拭えば、白い袖口に赤いシミ。 「何でこううまくいかないかね…」 思わず嘆息して、踵を返す。今の時間なら食堂もまだやっている筈だ。軽食でも頼んで口直しをしよう。 ……この時、俺は気づかなかった。 「……どうしてだ、トレーナー」 開け放たれた扉の向こうで、トマトジュースを吐き出した俺の姿を吐血したと勘違いして崩折れるオグリキャップに。 俺は後に、それを死ぬほど後悔することになる。 なんせバレた後にオグリキャップにやたらめったら生トマトを食わされるハメになったのだから。 おかげでトマトが大丈夫になったのは、怪我の功名といってもいいのだろうか。 -- 夜半前の食堂。雪崩を起こしそうなほどに積み上がった輪切りのトマトと、大ジョッキになみなみと注がれたトマトジュース。 その前に座っているのは、我が愛バオグリキャップ。 そしてそのオグリキャップに腕を掴まれて逃げられない俺。 「トレーナー、あーん」 黄色い歓声が上がるが、俺の内心は真っ青だ。きっと顔色だって似たようなものだと思う。 「ちょ、ちょっと待ってくれないかオグリキャップ!」 「待たない」 一刀両断。とりつく島もなく、バッサリと俺の意見が切り捨てられる。 「誤解を招くような真似をしたのは悪かった!だからってこれは…!」 「何だってすると言ったのはキミだろう、トレーナー」 ええいさっきの俺の莫迦! どうしてこんな事をしてるのか、と問われれば。それはつい先程の事に起因する。 トマト嫌いを克服する為にこっそりトマトジュースにチャレンジした俺だが、数秒と保たずに流し台にリバースするハメに。 それだけなら笑い事で済んだのだが、吐き出す瞬間をオグリキャップに見られていたのが問題だった。 俺が盛大に血を吐いて、挙げ句それを彼女に隠そうとしている……。 そう派手に勘違いした彼女は、口直しに食堂へと来ていた俺に詰め寄って大声で問い詰めたのだ。 ―― 普段声を荒らげる事の滅多にない彼女が、目尻に涙すら浮かべて怒声を上げる。 あっという間に噂は広まって、閑散としていたはずの食堂は黒山の人だかり。 ウマ娘に囲まれた中で、俺は狼狽えながらオグリキャップの説得をしようとしていた。 「落ち着いて――」 「落ち着けるわけがないだろう!」 悲鳴のような彼女の声に、俺の喉が凍りつく。 こちらをキッと見据えた彼女の瞳から、雫が一つ頬を伝って床へと落ちる。 そこまで信頼してもらえているのはトレーナー冥利につきる、などとどこか他人事のような感想が浮かび上がって。次の彼女のセリフで、そんな感想は跡形もなく吹き飛んだ。 「私は…私はさっき見たんだ!トレーナー室の中で吐くキミの姿を!」 「……マジ、かよ」 見られてた。見られてた?見られてた!? あんなこっ恥ずかしい所を!? トマトジュースを口に含んで即リバースした所を!? よりにもよってオグリキャップに!誰より見られたくなかった彼女に!! パニックになった俺は掠れたような声しか出せなくて、彼女はまたも雫を落とす。 「あ、あれは……その……」 「トレーナー…お願いだ、嘘はつかないでくれ」 潤んだ瞳に映るのは、情けない表情をした俺の顔。 「……分かったよ、オグリキャップ」 ため息を一つ。食べかけだったサンドイッチを置いて、俺はしっかりと彼女と向き合う。 好き嫌いがあるというだけで彼女がこうも取り乱すとは思いもしなかった。 「俺にできることは何だってする。理由も説明する……だから、泣き止んでくれないか」 自分の好き嫌いを知られたくないなんてちっぽけなプライドは、彼女の涙の前にあっさりと白旗をあげて。 袖口の赤いシミを見て唇を噛み締めた彼女に、俺は。 「――実は、トマトが嫌いなんだ」 そう言った瞬間の彼女の顔と、食堂の空気を、きっと俺は永遠に忘れないだろう。 「……トマト?」 「あぁ。小学生の時からずっと苦手だったんだが……オグリキャップ、君は好き嫌いなんてないだろう?だから、俺も負けていられないと思ってさ」 「……トレーナー室で吐いていたのは」 「トマトジュースだよ。生トマトよりは耐えられるかと思ってたんだけどやっぱりダメで、口に含んだだけで気分が悪く、なっ、て……」 表情が抜け落ちたオグリキャップに、俺の言葉が尻すぼみになって消えていく。 「そうか、分かった」 スッと立ち上がった彼女は、食堂のおばちゃん達に声を掛け――そうして、俺の目の前に。 地獄が、顕現した。 ―― そうして、話は冒頭へと巻き戻る。 「好き嫌いを無くそうと言ったのはキミだろう、トレーナー」 「言ったさ!確かに言ったよ!」 彼女がつまんだ生トマトから距離を取ろうとするものの、もう片方の手でがっしりと腕を掴まれて身動きが取れやしない。 ちくしょう誰だ何でも言うことを聞くなんて言い出したのは!俺だ!莫迦! 「大丈夫だ。キミが食べ切れなければ私が食べるし、飲み物だって用意してある」 「せめてトマトジュース以外にしてほしかったなぁ!」 悲鳴を上げても助けは来ない。この場で吐き戻す訳にもいかない。 意地と根性となけなしのプライドをかき集めて、俺はどうにかこの日を乗り切った。 そしてその後も、事あるごとにトマトを口に押し込まれることになったのだが…それは、また別のお話。 -- 「……なんで、こんなことになっちゃったんだろうな」 真っ赤に染まったトレセン学園の食堂で、俺は座り込んでいた。 右を見ても赤。左を見ても赤。前も後ろも赤一色。 逃げ場も助けもありえない。俺の世界は赤一色。 ――山と積まれたトマトに囲まれ、俺の心は圧し折れそうだった。 どうしてこうなったのか、と問われれば。それは昨日のことに起因する。 俺の愛バ、オグリキャップに、俺が重度のトマト嫌いだとバレてしまったのだ。 普段より四割増しで無表情になった彼女に山盛りのトマトとジョッキに注がれたトマトジュースを飲まされ、這々の体でその場を逃げ出し。 口の中のエグみと青臭さをなくすために念入りに歯を磨いて横になって、疲れからかあっさりと眠りに落ちて。 朝になって食堂に向かえば、そこには横断幕が一枚。 「『 トレセン学園春のトマト祭り』……っ!?」 一歩退く。二歩で振り返り、三歩目を踏み出そうとしたところで。 「おはよう、トレーナー。朝食も食べずに何処に行くんだ」 愛バの声に、俺は縫い留められたように動けなくなってしまった。 「……おはよう、オグリキャップ。いや、実は……ちょっと、用事があったのを思い出してさ」 油の切れたロボットのように振り返り、ぎくしゃくと挨拶を済ませ、食堂と反対側へと顔を向ける。一歩、踏み出そうとして―― 「そうか。では朝食を食べよう」 「俺の話聞いてた!?」 首筋を掴まれて食堂へと引きずり込まれる俺。ウマ娘の膂力に勝てるわけがないと分かっているのに、足掻いてしまうのは男の悲しいサガだろうか。 地獄、再び。 この『トマト祭り』がいつまで続くかは分からないが、三食トマトは無理。いやホント無理。 オグリキャップが持ってきてくれたお盆にはオレンジ色のパンと、具沢山の赤いスープ。そして生トマトとトマトジュース。ちくしょう。 「トマトパンとミネストローネ、サラダとジュースだ」 八割トマトじゃないかちくしょう。あとくし切りのトマトをそれっぽく盛ったものをサラダと言い張るのはどうかと思うぞオグリキャップ。 自分の分も持ってきたオグリキャップに促され、俺は観念して手を合わせる。 「……いただきます」 「いただきます」 ひとまず先にサラダを片付けるべきか、いやトマトジュースを殲滅するか。 加工してあれば大丈夫なことを考えると、ミネストローネとパンは口直しに取っておくべきだ。 となればサラダをトマトジュースで流し込んで、ゆっくりと残りを食べればいい。 ……一人で食事に来たのなら、きっと俺はそうしていただろう。 だが、目の前にはオグリキャップがいる。 量とスピードに目をつぶるならば、彼女の食べ方はとても綺麗だ。 そんな彼女の前で雑に流し込んでハイお終い、というのは……とても、格好悪いと思う。 意地があんだよ男の子には、とは以前見たアニメのセリフだが、全くその通りだ。 ため息を付いて、俺はノロノロとトマトサラダに箸を伸ばした。 一時間半。俺がトマト共を片付けるのにかかった時間。うち一時間一五分はトマトサラダとトマトジュースだ。途方も無い強敵だった……。 「全身の血管にトマトジュースが流れてる気がする……」 「それは本当か、トレーナー」 「それくらいのトマト濃度だったってだけだよ!?」 あれだけ食べてまだ食欲があるのか。さすがはオグリキャップ。 ちなみに彼女は俺の十倍ほどの量を半分の時間で食べ終わっておかわりまでしていた。すごいぞオグリキャップ。俺の分のサラダも食べてほしかった。 朝食だけで疲れ切ってしまって、机に突っ伏しそうになるのを気合と根性でなんとか耐える。 意地はあったが使い切った。弱い俺を笑わば笑え。口に山盛りのトマトをぶち込んでやる。 「待ってくれ」 よろよろと立ち上がり食堂を出ようとする俺を、オグリキャップが呼び止める。 「どうしたオグリキャップ、トレーニングならいつも通り――」 ぺろり。 振り向いたらすぐ近くに彼女の顔があって。 何も考えられずにいるうちに何かが唇の横を通って。 「トマトも悪くないだろう、トレーナー?」 「〜〜〜〜〜ッッ!!」 トマトよりも顔を赤くした俺は、結局しばらく食堂から出られなかった。 -- 妹から鶏肉が届いた。余ったからお裾分けとのことだが、届いた量はお裾分けの域を軽く超えていた。具体的に言うと約6キロだ。 とりあえず礼のメールを入れておく。俺一人なら確実に持て余して腐らせていただろうが、幸いにも我が愛バは健啖家だ。むしろこれだけあっても足りないかもしれない。 「ステーキ、唐揚げ、チキン南蛮、棒々鶏……」 さてどう片付けてくれようか。なんとか地鶏とかいう高級品らしいが生憎俺はそういうのに詳しいわけじゃない。メジロのご令嬢とかなら分かるんだろうか。 考えながら自室の冷蔵庫に鶏肉を放り込み、グラウンドへと足を伸ばす。せっかくだ、彼女のリクエストに応じて作るのもいいだろう。 「トレーナー」 午後のトレーニング。指定した時間よりも早く、彼女の姿はそこにあった。 「すまない、待たせたかな」 「気にしないでくれ。それより、聞きたいことがあるんだ」 「聞きたいこと?」 「最近自撮りが流行っていると聞いたんだが……その、トレーナーもそういうものに興味はあるんだろうか」 「流行ってるのか、地鶏」 いつの間に流行りだしたんだ地鶏。自分でも流行に乗り遅れるタイプだとは思ってたがまさかこんなことで痛感することになるとは。 「あぁ、それでか…」 妹は俺とは逆に流行りものに敏感だ。だから地鶏に手を出して、勢い余って買いすぎたのだろう。 一人納得した顔の俺に、オグリキャップが首を傾げる。ちゃんと説明しておかないと、またトマト祭りに巻き込まれかねない。そのくらいの学習能力は俺だって持っているつもりだ。 「いや、ちょうどさっき妹から届いてな」 「妹から!?」 「そんなに驚くようなことか?確かにちょっと量は多かったが……」 「多かったって、一体どのくらい」 「6キロぐらいかな」 「6キロ!?!?」 「小さいとはいえダンボールにみっしりでな。とりあえず今は寮の部屋に置いてあるんだ」 「ダンボールに…!」 「ああ、それでなオグリキャップ。俺一人だと処理に困るんだ。何か思いつかないか?」 「……燃やしてしまえばいいんじゃないか。全部」 燃やす。炭火焼きとかそのあたりだろうか。確か前行った居酒屋に藁焼きとかもあった気がするが……ろくに知識もないでやっても失敗するだけだろうし、あとでレシピを調べておこう。 「なるほど…えっ全部?」 「全部」 なぜかムスッとした表情で、吐き捨てるようにオグリキャップが言う。なんでだ。 「ちょっともったいないな……あんなに美味しそうなのに」 「!?!?!?」 鶏肉の目利きなんぞ全く出来ないが、スーパーの安売り鶏肉より遥かに美味そうだった。それを全部焼くだけ、というのはもったいない気がしてならない。 「どうせなら唐揚げとか、蒸し鶏とか。鳥刺し……はやめとこう、腹を下してもつまらないし」 「えっ」 「えっ?」 「その、トレーナー。一つ聞きたいんだが」 「うん」 「……何の話だったんだ?」 「地鶏だろ?妹が使い切れないからって送りつけてきてさ、君にどう食べたいか聞いとこうと思って」 「地鶏」 「地鶏。なんか大仰な名前ついてて、覚えられなかったけどさ」 しばらく固まっていた彼女が、ため息をついて笑顔へと表情を変える。 「トレーナー」 「どうした、オグリキャップ。リクエストが決まったか」 あんまり複雑なのは勘弁してくれよ。なんたらソースとか言われても作れないぞ? 「トマトジュースをたくさん持っていくから、楽しみにしていてくれ」 「何でだよ!?!?」 初夏の蒼天に、俺の声だけが虚しく吸い込まれていったのだった――。 -- さして広くもないトレーナー寮のキッチンは、今戦場と化している。 「トレーナー、次の料理はまだかっ」 「無茶言うなよ!?」 目を輝かせながら覗き込んできた我が愛バに悲鳴のような声を上げて返す俺。 作るのに一時間かかった唐揚げを二分で食い尽くされたらどれだけ作り置きがあったって足りるはずがない。 ―― 午後のトレーニングを少し早めに切り上げて、準備のために一足早く部屋へと戻って、簡単な料理を二つ作ったところでオグリキャップが来襲。 宣言通り大量のトマトジュースを抱えていたのを見て反射的にドアを閉めそうになったが、理性と根性を総動員して何とか我慢。 自室に招き入れ、出来上がっていたやみつきチキンを机に置き、トマトジュースを冷蔵庫にしまって振り返ったらもう皿は空っぽだった。どういうことなの。 「美味しい。だけど量が少ない」 「そりゃそうだろうなぁ……」 喋りながらもう一品、ささみとアスパラガスの胡麻和えを出して、冷蔵庫から調味料につけておいた鶏むね肉を引っ張り出す。 「おかわり」 「はぁ!?」 ……もう少し保つと思ったんだが、どうやら俺はまだ彼女の食欲を過小評価していたようだ。 こちらの先鋒と次鋒を鎧袖一触に片付けた彼女に愕然とするも、向こうはいつもどおりの表情でこちらを見返してくるだけ。 どっちも数人前は作っておいた筈なんだが……恐るべし芦毛の怪物。 そこからはもうてんやわんやだ。 炊飯器が蒸気を吹き上げ、電子レンジがフル稼働し、フライパンと鍋で油が跳ねる。 なるほど食堂のおばちゃんたちは凄いんだな。チラリとそんな思考が閃いて、すぐに押し流されていった。 ―― 「打ち止めだ、これ以上は逆さに振っても鼻血も出ない」 「……そうか」 あれだけあった鶏肉は綺麗サッパリなくなっていた。それどころか冷蔵庫の中も米びつの中もほぼスッカラカンだ。 残っているのは僅かばかりの調味料と晩酌用のビール、そして彼女の持ってきたトマトジュースくらい。 結局作った料理の九割九分はオグリキャップの腹に入った。俺の口に入ったのは味見用のほんの僅かだが……まぁ、そこそこ満足げな彼女が見れたので良しとする。 腹の出方と表情から見るにおおよそ満腹度は六割程度。もう少しごねられるかと思ったが、意外にも彼女はあっさりと引き下がった。 「ずいぶんと疲れた顔だぞ」 「気を使わせたかな」 ビールの缶を開け、トマトジュースと一緒にコップに注いで数度混ぜる。ビールのほうが多いのは大目に見てほしい。 オグリキャップのコップにもトマトジュースを注ぐ。こっちに渡された。ちくしょう。 「トレーナー、今日はありがとう。キミは料理が上手だな」 「そんなことは無いさ。今日も結構君を待たせてしまったし」 「それはそうなんだが、待つのも楽しかったんだ」 「待つのが?」 カクテルを飲みながら、横目でオグリキャップを見る。 「次は何が出てくるのか。どんな味なのか。それに――」 「それに?」 「キミが私のためだけに作ってくれた料理なんだ。楽しみにもなるだろう?」 …………それは、反則だろ。赤くなった顔を見られたくなくて、俺は彼女に背を向けた。 -- 地鶏騒ぎからしばらく後。 ちょくちょくオグリキャップが部屋にやってくるようになった。 来るたびにトマトジュースやらトマト缶やらを持ってくるので、今や俺の部屋の冷蔵庫の半分はトマトジュースで埋まっているし棚の中にはトマト缶がぎっしりだ。ちくしょう。 「いくらなんでもペースが早すぎる……!」 「キミがトマト嫌いを克服すればいいだけだろう?」 「気軽に言ってくれるよ全く!」 毎度毎度料理を作っていてはこっちの身が持たないと伝えたので、もっぱら彼女が来るのは夕食後。 やることは様々だ。次のレースのためのミーティングだったり、彼女の行きたい店を聞いたり、お互いに何も話さずに座っているだけだったり。 その日もオグリキャップは何本ものトマトジュースを持ってきて、冷蔵庫に無造作に放り込んでいった。 とはいえ俺も対策は考えてある。そのままで飲めないなら薄めてしまえばいいのだ。 ということで二つ用意したグラスの両方にトマトジュースを投入。片方には多めに、もう片方には少なめに。 少なめに入れた方にウォッカを投入して軽く撹拌。彼女に持っていった時に、事件は起きた。 彼女用と自分用に用意したドリンクを取り違えたのだ。 彼女がこんなにアルコールに弱いのは完全に想定外だった。一口呑んだだけで真っ赤になって、ふらふらしだした彼女を支えようとしたらさっくりと押し倒された。 それからずっと、彼女はまるで大型犬のようにこちらに甘えている。 普段の彼女とは正反対のとろけた表情。いつだかのように潤んだ瞳は、しかしあのときとは違う熱気を持って俺を見据えている。 「オグリキャップ、離してくれないか。背中が痛くなってきた」 「いやだ。ここはつめたくてきもちいいし、とれーなーはあたたかくてきもちいい」 カーペットも敷いていないフローリングに横倒し。いい加減背中が痛くなってきたのだが、彼女的には問題ないらしい。 「とれーなー、とれーなー」 こちらに抱きつき、ぐりぐりと頭を押し付けてくるオグリキャップの髪の毛を手櫛で梳く。 嬉しげにふにゃついた表情を向けてくる彼女に、九割九分の罪悪感と一分の満足感。 ちくしょう、我ながら碌でもない。 とはいえいつまでもこうしてるわけにもいかない。日は暮れかけているし、このままではオグリキャップが寮から締め出されてしまう。 俺のスマホは手の届かない机の上で、そうなってくると手段は一つしか無い。 「なぁ、オグリキャップ」 「どうしたんだ、とれーなー」 ほわほわとした彼女の声にペースを乱されそうになるが、今はそれどころじゃない。頑張れ俺、頑張れ鋼の意志。 「君のスマホを貸してくれないか」 「なににつかうんだ」 「タマモクロスかフジキセキに連絡を取りたいんだ」 同室のタマモクロスか、あるいは寮長のフジキセキか。どちらかに連絡を取って、オグリキャップの外泊許可をもらおうと思った。思ったんだが。 「どうしてだ」 一瞬でめちゃくちゃ不機嫌そうになった彼女にそっぽを向かれてしまった。 「たまもふじりょうちょうもかんけいないだろう」 しゅるり。彼女の尻尾が、俺の腕に絡んでくる。 「わたしだけをみてくれ、とれーなー。わたし、だけを……」 こてん、と彼女から力が抜ける。すうすうと彼女の寝息が聞こえる中、俺はゆっくりと起き上がる。 「…………」 ホッとした自分と、少し残念に思う自分と。 邪念を叩き出して、オグリキャップをベッドに寝かせる。 さすがに勝手にポケットを探るわけにもいかない。 ウマ娘の寮にトレーナーは立入禁止だが、通りがかった誰かに伝言を頼むくらいはできるだろう。 扉を開けた時にオグリキャップになにか言われたような気がしたが、俺は意図的に無視して外に出た。 「いくじなし」 そうだな、分かってる。今のトレーナーと担当という距離感が壊れるのを怖がってる意気地なしだという自覚は、ある。 それでも。酔った勢いで、なんてことを切欠にはしたくなかったから。 まだ冷たい風を感じながら、俺は歩を進めていった。 -- 昼下がりの食堂。いつも通り畳半畳ほどのハンバーグをぺろりと平らげて、オグリキャップが声をかけてきた。 「トレーナー」 「どうしたオグリキャップ。今日の日替わりデザートなら抹茶白玉パフェだったぞ」 「それはもう頼んである」 ちらりと視線をキッチンに向ければ、バケツもかくやというサイズの器におばちゃんたちがパフェを盛り付けていた。いつもありがとうございます。 「キミは記憶喪失になったことはあるのか?」 「なんて?」 バケツプリンならぬバケツパフェに気を取られて聞き間違いでもしたかと思ったんだが、帰ってきた言葉はそっくりそのまま同じだった。 「……記憶喪失になった人間なんてそうそういないだろ」 「そうか。そうだろうな」 「どうしたんだよ、急に」 トマトジュースを一口飲んでコップを置く。ちくしょう、まだ半分以上残ってやがる。 「タキオンが、トレーナーが記憶喪失になって冷たくあしらわれる夢を見たと落ち込んでたんだ」 タキオン。アグネスタキオンか。 超光速のプリンセスの名に恥じぬ足の速さと狂気とも言える頭脳を両立させたトレセン学園の問題児にしてバカップルの片割れ。 「それで今日はいつも以上にベッタリしてたのか」 物理的に。担がれてたり背負われてたり抱き合ってたり普段の三割増しくらいでくっついてたな。胡乱な目で見てたら向こうのトレーナーがピンク色に光りだしたので撤収してきた。 『最近色だけじゃなくて光量も調節できるようになった!』とか抜かしてたなあのモルモット。 あと一発芸って言ってサインポールのモノマネをする人間を俺はアイツ以外に知らないし、居てほしくもない。 桐生院さんドン引いてたじゃねぇかあの莫迦。 「それでだな、トレーナー」 漂っていた意識を掴み直して眼前の愛バに向け直す。 「記憶喪失になると人格まで変わってしまうことがあると聞いた」 「まぁ……それまでの経験やら何やら全部忘れちゃうわけだしなぁ。人格が変わることだってありうるんじゃないか」 そういう話は聞いたことがある。フィクションでしか知らないけども。 「それで閃いたんだ。記憶喪失になればトレーナーの好き嫌いも治るかもしれないって」 「はい???」 トマト嫌いを克服するために俺の二十数年を消し飛ばせと仰っしゃりますかアナタ。 「やり方が豪快すぎる……だいたい、どうやって俺の記憶飛ばす気だよ」 「それは……こう、いい具合にえいっと」 「記憶より先に命が無くなるかなぁ」 えいっと。響きだけは可愛いがウマ娘パワーで脳天ストライクされたらデッドエンドまっしぐらだろう。 「それは困るな。トレーナーがいなくなってしまうのは……とても、困る」 「俺だって、君を途中で投げ出したくないさ」 アグネスタキオンならひょっとしたら人間の記憶を消す薬ぐらいは作れるかもしれないが、仮に渡されても飲みたくない。 俺は光る不審人物二号なんて不名誉なあだ名を受け入れる気はないぞ。 「しかし、記憶喪失かぁ」 真っ白な病室。見舞いに来た彼女に俺が返す言葉はーー 「……キミに『はじめまして』なんて言われたくは、ない、な」 「ここまで一緒にやってきてそれはショックでかいよなぁ」 コップの赤をちびりちびりと減らしながら、その光景を想像してみる。辛い。 とはいえ、一つ言えることがある。 「オグリキャップ」 「トレーナー?」 これだけは断言したっていい。 学園内で迷った彼女の道案内をして。 彼女の走りに惚れ込んで。 逆指名を受けて、彼女のトレーナーになって。 時に天然な彼女に振り回され、時に彼女を振り回して。 メジロのご令嬢のいう一心同体には程遠いのだろうけど、それでも俺は。 「俺は何度だって、君に惚れるよ」 湧き上がる黄色い歓声。 吹き上がる真紅の鼻血。 あああああああああああああしまった掛かりすぎたクソが!! バカップル共のこと笑えねぇぞちくしょう!! 慌ててトマトジュースを飲み干して、オグリキャップの腕を掴んで席を立つ。 「ごめんおばちゃん!パフェは後で取りに来る!!」 振り向く時間すら惜しんで、俺達は慌てて食堂から逃げ出したのだった。 -- 風邪をひいた。 季節の変わり目のせいか、窓を開けっ放しにして寝たのが悪かったか、はたまた昨日の重バ場トレーニングに傘もささずに付き合ったせいか。あるいは、我が愛バに押し付けられたトマトジュースのせいか。……いや、最後のは関係ないか。 ともかく朝起きた時から調子が思わしくなく、何とはなしに熱を計ってみたら。 「39度5分…」 愛バに体調管理の重要性を説いておいてこれだ、全く合わせる顔がない。 スマホを掴んで、オグリキャップに電話を掛ける。他の相手ならメールやラインで済ませるところだが、彼女はどうにもスマホに不慣れだ。担当になったばかりの頃、軽い確認事項をメールしたところ数時間後に『わかるまっ』と送られてきてから、彼女への連絡は電話で行うことにしている。 『トレーナー?どうしたんだ、こんな朝から』 「ちょっと、調子が悪くてな。すまないが、今日は自主トレしてくれないか」 『風邪でもひいたのか?トレーニングが終わったらお見舞いに行こう』 「いや、君にうつすわけに行かないから大丈夫だよ。ちょっと熱がある程度だから」 心配してくれるのはありがたい。だが、自分のやらかしで彼女の体調を崩させるわけにはいかない。 オグリキャップは何度か見舞いを申し出てくれたが、全部断って電話を切る。 なにか腹に入れたほうがいいのは分かっているが、どうにも食欲がわかない。 ベッドに横になって、目を閉じた。 『お前はオグリキャップのトレーナーに相応しくない』 『お前は彼女の足を引っ張っているだけだ』 『お前がトレーナーでなければ、彼女はもっと羽ばたけた』 『彼女はもっと実力のあるトレーナーのもとに行くべきだ』 『お前と共にいるのは彼女のためにならない』 知っている。知っていて、分かっていて、蓋をしていた。 新人の自分がオグリキャップに逆スカウトされて、ここまで二人三脚でやってこれた。 でもそれは……それは、彼女の天性の素質あってこそだろう? 俺じゃなければ。俺が居なければ。オグリキャップは、もっと強く――― 目を開ける。見慣れた天井が目に入る。夢、か。 「オグリキャップ……」 ぽつりと、言葉がこぼれた。 「呼んだか、トレーナー」 「!?!?!?」 エプロンを付けたオグリキャップがそこに立っていた。熱が上がりすぎて幻覚でも見えてるのか? 「え、何で……」 「お見舞いに来た」 「来るなって、言っただろ」 「キミが私を心配してくれるように、私だってキミを心配しているんだ」 知らなかったのか、とでも言いたげなドヤ顔にツッコミを入れる気力もなくて。ひとつ、ため息をついた。 「ところでトレーナー。ご飯は食べたのか」 「いや、どうも食欲がなくてな」 「それは良くないぞ。ご飯を食べないと治るものも治らない」 「そうは言うが……」 「ちょっと待っていてくれ。雑炊を持ってくる」 「……買ってきたのか?」 「いや、私が作ったんだ。タマやクリークにも手伝ってもらったが」 「なるほど」 「安心してくれ、しっかりとトマトも入ってる」 「全然安心できないなぁ……」 オグリキャップが特大寸胴鍋を持ってきた時は死ぬかと思ったが、幸いにして器に盛ってくれたのは常識的な量だった。結局雑炊の9割9分は彼女の胃袋に収まった。 「美味しいな」 「それは良かった」 「トマトがなければもっと良かったんだけど」 「好き嫌いをするから風邪なんか引くんだ」 「ぐうの音も出ない」 ちくしょう。 彼女の持ってきたスポーツドリンクで口を湿らせて、もう一度横になる。 「……ありがとう、オグリキャップ」 「どういたしまして。早く良くなってくれ、トレーナー」 目を閉じる。彼女が横に居てくれるなら。きっと、さっきのような夢は見なくて済むだろう。