トレーナーとの初対面は、専属トレーナーがついたというボクの浮ついた心を一瞬で凍らせるようなものだった。 顔合わせで部屋に入ったボクをテーブルに座った人物が射抜くように見つめる。 「お前がトウカイテイオーか」 エアグルーヴよりも冷たい目をする人を初めて見た。じっとこちらを観察する目つきは生き物に向けるものじゃない。 まるで、そう、自分が使う道具がちゃんとしたものか確かめるような目だった。 「キミが、ボクの、トレーナー…?」 否定して欲しいとうっすら思いながら問いかける。 「そういうことになる、"皇帝"シンボリルドルフ打倒を掲げる無謀なウマ娘だと聞いているが、本気か?」 返ってきたのは肯定する返事と、どこか挑発するような質問。 「もちろん、本気だよ!もしかして疑うの?」 「いいや、だが私から言わせてもらえば不相応だ。無敗の三冠バ、伝説の七冠バ相手によく言えたものだな。」 「確かにカイチョーは凄い!でも絶対に追いついてみせる!ボクをトレーニングしてくれるの?くれないの?!」 ボクはカッとなって怒鳴ってしまった、まるで浅はかだと嘲笑われたようで。でも、それでも瞳の冷たい光は揺れもしない。 「するさ、仕事だからな。契約上まずは3年間お前を担当することになる。だが途中でお前が嫌になったら辞めてやってもいい、という契約だ。 つまりお前が諦めなければ私も諦めない。言っておくが楽な道ではないぞ、トウカイテイオー。皇帝を超えると豪語するなら、お前は血反吐を吐きながら走り続けることになる。 それでも尚構わないというのなら、私の手を取るといい。警告はした。まだお前には別のトレーナーを探すチャンスがある。」 気遣いなんてかけらも感じさせない。本当にこの人はボクを限界まで追い込むことだろう。でも、それぐらいしなきゃ、会長は追い抜けない。だからボクは手を伸ばした。 「覚悟は出来ているようだな。今そっちに行く。」 トレーナーは立ち上がることなく、腰のあたりに両手をやって、車輪を転がしながらこっちに向かってきた。 そこでやっと気付いた、ボクのトレーナーは、車椅子に乗ってたんだ。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「まず、お前にはシンボリルドルフに勝っている点が一つもない。」 顔合わせの後すぐ、車椅子の上で手を組んだトレーナーは、ボクを見上げながら淡々と告げてきた。 「あるとすれば伸びしろだけだ、それ以外は身体能力、技術、センス、心構え、全てにおいて劣っている。」 「ボクの何がわかるのさ、会ったばかりのくせに。」 トレーナーがわざとらしく大きなため息をつく。 「わかるさ、担当する相手の事は下調べしてある、それに、私もかつてはアスリートだった。」 「アスリート、って…人間の?」 「競技で走るのがウマ娘だけだと思っていたか?規模も人気も比べ物にならないのは事実だがな。 それでもお前とシンボリルドルフとの間に絶対的な差があることぐらいわかる。それを埋めるのが私の仕事だ。」 「ならトレーニングに行こうよ、今すぐ。ボクは絶対に会長に勝ちたいんだ。」 「落ち着け、感情を乱すな。私生活すらそんな様で、レース中にペースを保てると思うか?」 そう言われると、ボクは黙り込むしかない。つい睨むように見てしまうけど、トレーナーは平然とその視線を受け止める。 それが余計にボクを苛つかせる。視線の高さは下からなのに、どこまでも見下されているように感じてしまう。 「トレーニングウェアに着替えてこい、先にコースで待っている。」 そんなボクを放って、トレーナーはさっさと部屋から出ていってしまった。 ボクは出来る限り急いで着替えて、練習用コースに走った。遅れたらきっとまた何か言われる。 「とう!!」 ついでにボクの実力を見せつけてやる良い機会だと思って、柵を飛び越えてトレーナーの目の前に着地してやった。 少しは驚くかと思ったけど、それどころか、渋い顔をしてこっちを睨みつける。 そして、パチ、パチ、パチ、とひどくゆっくりとした拍手をしながら、呆れた声を出した。 「その無駄な行動は何の意味があるんだ?ウマ娘の脚力を見せつけたかったか?それとも大事な脚を痛めつけて自分の可能性を絶ちたかったのか?」 何を言われたのか一瞬わからなかった、そして、それが明らかな侮蔑だと理解して、ボクの心がかあっと熱くなる。 どうしてこんなこと言われなきゃいけないんだ、ボクはトウカイテイオー!会長を超える最強のウマ娘なのに! 「違う!ボクは無敵の帝王だ!こんな柵ぐらいどうってことない!」 ボクは怒りに握りこぶしを震わせながら怒鳴った。トレーナーの視線が更に冷える。 「忠告しておく、人体もバ体も一瞬の気の緩み、不幸な事故、少しの無理で壊れ、多くは二度と戻らない。 健康なままで居たいなら、二度とこんなことはするな。私のように一生車椅子になりたいのなら別だが。」 トレーナーの脚、車椅子のステップに乗ったままぴくりとも動かないそれを見せられると、ひどく不安な気持ちになる。 何があったのか、どうしてトレーナーになったのか、それを聞くのもはばかられて、ボクは目をそらしてまた黙り込むしかなかった。 「よろしい、まず走り込みからだ。コースを5周だ。5周で全力を振り絞るように配分しながらだぞ、では行って来い。」 ストップウォッチを手に、何の感情も見せない声。ボクはそれに従うしかなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「ではスタート。」 トレーナーがストップウォッチを押すと同時にボクは走り始める。全力で5周、全力疾走を続けろってことじゃなくて、走りながら脚を溜め、最後にスパートをかけてゴールしろってこと、だと思う。 ……⏰…… 「よし、ゴール!ねぇねぇ、どうだった?」 「まだ余裕があるな、5周追加。」 「えぇー?!」 ……⏰…… 「はぁっ……はぁっ………。」 「まだいけるな、3周行って来い。」 「うぇーっ!?」 ……⏰…… 「すぅー……っ……はぁー……っ……はぁ……っ……さん、しゅ………はし…た、よ……。」 「すまんな、見てなかった、もう一度3周。」 「………………。」 ……⏰…… 「ぜぇ……ぜぇ………はぁ……も、むりぃ………。」 もう何周走ったか覚えていない、肺も足も痛くて、息も苦しい、心臓が跳ね回ってる。今終わりと言われても部屋まで帰れる気がしない。 「それは残念だ。もう1周行こう。」 トレーナーは平然と追加してくる。文句を言おうにも、息を整えるだけで精一杯。また走るなんて出来るわけがない。 「聞こえなかったか、もう一周だ。」 「……む、りぃ……。」 「皇帝を超えるんだろう、この程度で音を上げるのか?お前はレース中でもスタミナが切れたら立ち止まって『もう無理です、走れません』と言うのか?」 いつかウマ娘虐待で訴えてやる、と無表情にこちらを見つめるトレーナー睨みつけ、歯を噛み締めて走り出す。 息が上がる、足が上がらない、学園で習ったフォームにカイチョーのを少し真似したボク流の走り方は欠片も残ってないのがわかる、でも、走り続けるためにはそうするしかなかった。 ふらつきながらラインまでたどり着いて、そのまま芝生に倒れ込む。汗が雫になって顔を伝っていく。 風邪をひいた時みたいに熱を持った体に、冷たい芝生が心地よかった。 「ようやっと限界のようだな。覚えておけ、それがお前の体力の限界だ。私が限界まで走れと言ったらこの状態を指す。そこまで体力を振り絞れ。 だが、『限界を超えよう』などとは考えるな。あと一歩で体を壊す、それが限界というものだ。 今日はこのぐらいでいいだろう、帰って明日に備えて体を休めておけ。」 ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返すボクに一方的に伝えると、トレーナーは車椅子の車輪を回して背を向けようとした。 なんで初日からこんな目にあわなきゃいけないんだ!この虐待トレーナー!それに、どうしても聞いておかなきゃいけないことがある! 「ま……ま、ってよ………。」 内臓が全部出てきそうになるの感覚をこらえながら、声を絞り出す。 「なんで……柵を…飛び越えたのは……だめ、で……はぁ……こんなに、はしらせ…る…のは……いい、のさ………!」 ムジュンしてる、倒れるまで走るほうがどう考えたって健康に悪い。現に足はガクガクだし、目がチカチカする。 毎日こんな練習を続けていたら、カイチョーに勝つ前に死んでしまう。 「簡単なことだ。お前が倒れているのは私の管理下でそこまで追い込んだから、しかし柵越えはお前の独断だ。 走っている最中に限界に達していたら止めていた。 だから安心しろ、私の管理下にある限りお前は故障しない、いいや、絶対にさせない。 3年間、お前は体力の限り走り続ける。皇帝を超えられるかはお前の頑張り次第だ、どうだ、楽しみだろう?私は楽しみだ。質問はもうないか?明日からのメニューを組まねばな。」 それは生き地獄って言うんじゃ……。ボクはとんでもないトレーナーを選んでしまったのかもしれない、少しだけ後悔しながら、平然と芝生を車輪で踏みながら去っていくトレーナーの背中をボクは見つめるしかなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 二日目からのトレーナーは人が変わったみたいにトレーニング方法を変えてきた。 まず事前に入念な準備運動と柔軟、途中で適宜休憩時間を取って、合間ならいつでも水分補給をしていい。 どうしても払えない違和感。 「トレーナー、実は双子?昨日と入れ替わってたりしない?」 「なんだ藪から棒に。」 呆れきった冷たい目つき。ああ、間違いなく昨日と同じトレーナーだ、こんな目が出来る人そういない。 「昨日はお前の限界を見極めたかっただけだ。私の仕事はお前を鍛えることで、壊すことじゃない。 だが定期的にやるぞ、限界は伸びる、特にお前ぐらいなら伸び盛りだ。きちんとトレーニングを積み重ねれば出来なかったことが出来るようになっていく。」 「そういうものなの?」 「そういうものだ。休憩終わり、練習データを見たが、お前の脚質は先行が向いている。昨日最初に走った5周もそれを意識したものだな? シンボリルドルフと同じ土俵で勝負するなら中遠距離が主戦場になるだろう。ならばスタミナは当然のこと、スパートでバ群から抜け出すためのパワーも必要だ。 よってその2点を重点的に鍛える。レース中の位置取りやスパートの速度もおいおい仕上げていくが、まずスパートが十全に出来るようにする。 お前の実力ならそこを補えばメイクデビューで敗因はほぼなくなるだろう。」 分厚いバインダーをめくりながら、すらすらと本を読み上げるようにボクに説明するトレーナー。 あれ、ボク褒められた?ほんのり最後に褒められた?このトレーナーに? 「ねえ、ほんとに昨日と同じ人?聞き間違いじゃなかったら、ボクのこと、褒めた?」 「私を何だと思ってるんだ、担当を苛めるのが趣味の人非人だと?」 「うん。」 反射的に答えると、バインダーがおでこに降ってきた。痛い!重い!思わずおでこを押さえながらうずくまる。 「私は過大評価も過小評価もしない、可能な限り事実だけを言う。お前の実力ならこのままトレーニングを続ければメイクデビューで負けることはほぼ無い。」 この人にプラスの感情は無いんだろうか、今の所ボクを馬鹿にするか無感情かの声しか聞いてない。 その言い方と言葉に引っ掛かって、立ち上がりながら問い詰める。 「ほぼってなにさー!そこは絶対って言ってよ!」 「勝負に絶対はない、シンボリルドルフにはあるかもしれせんがお前はそうじゃない、だから"ほぼ"だ。」 「ふんだ!絶対勝ってみせるもんね!」 「実際に走ればわかる、ほら、走ってこい。」 ストップウォッチを手にしっしっと手で払うトレーナー。 評価してるならもっときちんと褒めてくれたっていいじゃないか!やっぱりこのトレーナーとは合わない! ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーナーとの日々は流れるように過ぎて、ボクは何度も『限界』を試し、その度により長く、速く走れるようになっていった。 確かにボクはトレーナーがつく前よりずっと力がついた。でも、それをトレーナーは喜んでくれない、まるで流れ作業のようにノートに記録をつけるだけ。 そして、ついにメイクデビュー戦。ウマ娘のキャリアの第一歩、ボクはそこに今向かおうとしている。 別れ際のトレーナーの言葉は「今までやってきたことをやれ。」 それだけだった、もう少し励ますとかあると思う。だからボクは少しだけ不安だった。 ボクは無敵のテイオー、だからいきなり躓くわけにはいかない。絶対に勝たなきゃいけないんだ。 なのにトレーナーはいつも通りの無感情な言葉しかくれない。 確かに併走した相手に負けることはほとんどなかったし、トレーナーの言う通りに訓練してきた。 でも最後までトレーナーは『絶対勝てる』とは言ってくれなかった。 ボクは無敵のテイオー、今日は一番人気だし、絶対に勝てる! でも、本当に、ほんの少しだけ、不安だよ、トレーナー………。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― メイクデビュー戦。ウマ娘のキャリアの第一歩、ここでの順位に大した意味はない、トレーナー達が実戦での実力を計るため、あるいはデビューするウマ娘達の顔見せの場という意味合いが強い。 だがそうは言っても、贔屓の娘には勝利して欲しいものだ。 トレーナー用の席の一番後ろ、最も高い位置で、組んだ手の上に顎を乗せて食い入るようにゲート内の自分の担当バを見つめるトレーナーに声をかけようと歩み寄る。 「ごきげんよう、生徒会長。大事な一戦なので目が離せずこのまま失礼。」 声をかける前に、ひどく平坦な声が向こうからかけられた。 「なぜ私だと?」 「ウマ娘のトレーナーはいても、競技用蹄鉄をつけたまま来ない、そして私に声をかける相手は限られる。 テイオーについては心配ない、実力を発揮すればほぼ勝てる。」 足音だけでそこまで推量するとは大した推理力だ。あるいは人間関係の希薄さが原因かもしれない、普段からこの気迫では声をかけづらいだろう。 正直、このトレーナーの学園内での評判は悪い、だがそれも仕方ないだろう、口ぶりから誰かと打ち解けようという意思が全く感じられない。 「ほぼ、というのは取らないのだな。テイオーが愚痴っていたよ。絶対勝てると言ってくれないと。」 「勝負に絶対はない、それが私のモットーだ。」 「もっと楽観的なモットーを持つことをおすすめしよう。君のトレーニング方針に口を出すつもりは毛頭ないが、今のやり方は少し厳しすぎるように感じる。」 「優しくすれば、甘くすれば強くなれると?」 まるで太陽は西から昇る、とでも言い出した相手へ向けるような対応。 強くなるには厳しく辛い練習を重ねるべき、というのがトレーナーの考えなのだろう、確かにそれも必要だ。 「考えて欲しい、彼女はまだ中等部、元々の性格もあってもっともっと褒められたい盛りだ。 君の対応ではモチベーションが上がるどころではない。それに、月に一度のペースで体を引き摺るように帰ってきて、そのまま泥のように眠る日もあると聞いている。 そんなトレーニングについてきている彼女に労いの言葉はかけているか?本人は覚えはないそうだが。」 ゲートが一斉に開き、ウマ娘達がスタートを切った。まずは団子状態、そこから逃げ戦法を選んだであろう二人が突出する。 湧き上がる歓声と対照的に黙り込むテイオーのトレーナー。多少時間が経ってから、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。 「出来るようなったことをきちんと指摘した。さっきも練習通りにやればいいと言ってきた所だ。」 ため息をつかなかったことを誰か褒めて欲しい、いや、褒められるべきはテイオーだ。 私達とさほど年も変わらないというのにどこまでも不器用なこのトレーナーに、テイオーは私に勝ちたい一心で付いてきたのだ。 「それで十分だと?それはな、言葉が不要なほど互いを知り、信頼しあった莫逆之友でのみ通用する方法だ。 言っておくが君の気持ちはテイオーには伝わっていないぞ、今走っているのは彼女が元々持ち合わせていた自信と、空元気の賜物だろう。」 「だからペースが崩れる。」 バ群が逃げ、先行、差し、追い込みの四集団に分かれる、テイオーは先行だが掛かり気味で、逃げの集団に混ざり始めている。焦っているのだろう、無理もない。 勝てると信じる理由が足りていない、レース経験がない中、トレーナーに最後まで曖昧模糊な言葉しかもらえなければそうもなる。だから脚を溜め切ることが出来ず、少しでも前に出ようとしてしまう。 「君はもっとテイオーを信頼すべきだ、嘘を吐きたくないという気持ちはわかる、だが、それで不安を現実にしては元も子もないぞ。」 「タイムは想定より落ちるが、勝つ。」 「その信頼を直截簡明に示してやってくれ。贔屓目というわけではないが、私のことを絶対視して挑もうとすらしない娘が多い中、打倒皇帝を公言する彼女を、私は気に入っている。」 最後のコーナーを曲がって、全員がスパートをかける、その中をぐんぐんと進んでいくテイオー。 トレーナーとしての腕は確かなのだろう、明らかにテイオーは実力をつけている。だが、それだけでは足りない。 能力だけで勝てるほど勝負の世界は甘くない、トレーナーとの信頼関係、やもすれば愛情となり得るほどのそれが必要不可欠だ。 「テイオーをよろしく頼む。まずは、この勝利にどうのこの文句をつけず、褒めるところから、な。」 押し黙ったトレーナーを残し、私はトレーナー席を後にした。場内に実況の声が響く。 『一着はトウカイテイオー!着順以上の強さを見せつけた見事な勝利です!』 それに紛れて、ウマ娘の耳でなければ聞き取れないような声量で「感謝する。」と一言。 そうでもしなければ謝意の一つも伝えられないとは、相変わらずシャイなトレーナーだ。テイオーは苦労するだろう。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― メイクデビュー戦にボクは勝利した。他の娘たちには悪いけど、ボクは無敵のテイオー!負けるはずがなかったんだ! カイチョーは喜んでくれるだろうか、ボクのファンや、マヤノ、みんなはきっと喜んでくれる、でも、多分トレーナーは…。 ウィナーズサークルから戻ってきたボクをトレーナーが待っていた。 多分、掛かってしまったことを責められる、次の予定を言われて、明日からいつも通り。 「テイオー。」 「うん。」 いつもならすぐ飛んでくる改善点が、トレーナーの口から出てこない。 何度も口を開けたり閉じたりして、顔を横にふる。躊躇ってる?トレーナーが?いつも言いたいことを容赦なくぶつけてくるトレーナーが? そして、ようやっと出てきた言葉は、ボクの予想外のものだった。 「…見事な走りだった。」 「…えっ?」 思わず何度も瞬きしながらトレーナーの顔を見つめる。褒めて、くれた? 目を白黒させてボクが状況を理解できないでいると、苦い顔をしながら続ける。 「何度も言わせるな、見事な走りだった。初陣でこれだけ出来れば上々だ、お前には期待している。」 「えっ、えっ、えっ?」 トレーナー、ボクが走ってる間に変なものでも食べたの?マヤノ曰く『きっと血管にケロシンが流れてて、心臓はビス止めなんだよ!』らしいあのトレーナーに何が起きたの? 「あの、と、トレーナー…? 「………かがめ。」 「う、うん。」 混乱しながら、トレーナーの前でかがむ。トレーナーの顔が正面になる。ボクを褒めているのに、何故か顔は眉間にシワが寄っている。 「お前はよくやっている、私が課しているメニューは決して軽いものではない。 だがお前は、文句は言うが、サボったことも手を抜いたこともない。偉いぞ。」 トレーナーの手がボクの頭を撫でる、バインダーやチョップで叩く時は何の遠慮もしないくせに、こんな時は壊れ物を扱うみたいにおっかなびっくりな手付きだ。 レースが終わって落ち着いていた胸のドキドキがまた膨れ上がって、体の奥が震えているような感じがする。 「トレーナー!ボク、もっと頑張る!もっともっと勝って!カイチョーより凄いウマ娘になるから!」 気づけば、トレーナーの手を握っていた。 「ああ、お前ならなれる。……"絶対に"な。」 ウィニングライブで呼ばれるまで、ボクの体温がトレーナーの手と混じり合うまで。 トレーナーはずっとボクを見つめながら、手を握っていてくれた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーナーの様子はメイクデビューの日から明らかに変わった。 今まで練習をしても何が出来たか、何が出来なかったかしか言わなかったのに、必ず一言褒めてくれるようになった。 あの日は嬉し過ぎて気にならなかったけど、落ち着いてみると妙な話だ。マヤノに聞いてみたら『わかっちゃった!』とだけ言ってその先は秘密だって。 『気になるなら本人に聞いてみたら』と言われても……。 ……⏰…… そしてもう一つ気になることがある。 「はぁ……はぁ……トレーナー、タイムは?」 「コンマ以下だが縮まっている。良い調子だ、偉いぞ。」 「トレーナー……今日それ聞くの4回目なんだけど………。」 「……………。」 トレーナーの褒め言葉、パターン少なくない?偉いぞ、よくやったな、いい調子、期待している、よくやったな、あ、2回目だこれ。 とにかく毎回褒めてくれるんだけど、同じ言葉を何度も繰り返されると、なんというか……。 「トレーナー、もしかしなくても、無理してない?無理に褒めなくていいんだよ?」 そう、無理しているようにしか見えない。その証拠にただでさえ無感情で平坦な声から抑揚すら失われて、機械かミホノブルボンが喋ってるみたいだ。 「……お前は褒められるの値する働きをしている。そう考えたまでだ。」 考えを変えてくれたのは本当なんだろう、でもこんな無理をするのは自分からじゃなくて、きっと誰かから言われたから。 「トレーナーって、嘘下手だね。別に怒らないから、言ってみて。」 「……私はお前を信頼していた、評価していた、そしてそれはわざわざ言葉にせずとも伝わっていたつもりだった。  だが、シンボリルドルフからそうではないと知らされた、そして『言葉にして示せ』とも言われた。  だから私は、伝えたかった。お前はよくやっていると、お前を信じていると。  しかし……上手くいっていないようだな、すまない。」 大きくため息を吐きながら、頭を振るトレーナー。実はずっと信頼してたっていうのは嬉しいけど、だからって。 「カイチョーに褒めろって言われたからメニュー一個一個褒めてるの?トレーナーって見た目の割にあんまり頭良くないんじゃない?」 「頭が固いとはよく言われる。」 「そんなんじゃボクも嬉しくないよ!だからさ、トレーナーがよく出来たって思った時に褒めてよ、それに悪いことも言わないように我慢してるでしょ。  そりゃ褒められたら嬉しいけど、お世辞を言って欲しいわけじゃないし、トレーナーはボクを勝たせたいんでしょ、そういう遠慮されたらやだよ!」 「そうか、わかった。なら今後無理に褒めるのは辞める、指摘もこれまで通りに戻そう。だが私の基準では逆戻りする可能性がある。  お前からのサインは何かないか、自分で上手く出来たと思った時なんか、私に褒めてもらいたい時だ。」 「んー、じゃあさ、トレーナーの前でかがむから、そしたら頭撫でて、凄いぞテイオーとか偉いぞテイオー、って言ってよ。」 そして屈んで見せる、丁度この間のレースの後みたいに。 「なんだそれは、まぁわかった。それじゃあ次のメニューは「ちがーう!今やってるでしょ!ほら!ボクが屈んだらどうするの!」 ぐいぐいと頭をトレーナーの胸に押し付ける。車椅子のオイルと金属、タイヤの匂いが混じったトレーナーの香りがボクの鼻に届く。 「わかった、この間はよくやった、偉いぞ、テイオー。お前ならシンボリルドルフを越えられる。絶対だ、お前なら出来る。」 頭をこの間より少しだけ強く撫でられる。指先からはインクと紙の匂いがして、指の付け根や手のひらにタコがある、きっと毎日ボクのために書類を書いたり整理しながら、自分でトレーニングを続けているんだ。 「えへへ、ありがと。じゃあ、今度はボクの番。トレーナー、ありがと。おかげでボク、勝てたよ。」 名残惜しいけどトレーナーの手から抜け出して、今度はボクがトレーナーを撫でてあげる。 トレーナーも偉いのに、凄いのに、誰も褒めてくれない。むしろあんまり好かれてない、他のトレーナーと話したりしているとこも見たこと無いし、友達からも『いじめられてない?』なんて心配されてる。 だからボクが褒めてあげないと、トレーナーは凄いんだって、頑張ってるんだって、次のレースも勝って、みんなにそう教えてあげるんだ。 「お前の実力だ、私の仕事はそれを引き出しただけ、トレーナーとして当然のことだ、褒められるようなことじゃない。」 「いいからいいから。それよりトリートメントしてる?髪傷んでるよ?ブリーチ入れるより手入れちゃんとしなよ。」 トレーナーは栗色の髪は前髪だけ一房白くなっている、まるでウマ娘の流星のように。人間なのに、真似したのかな。 「生まれつき何故かそこだけ白いんだ、陸上で下手に成績を残していたからな、おかげでウマ娘もどきなんて言われたこともあったよ。」 「えっと、ごめん…。」 「気にするな、それより、次のレースだ、来年1月末の若駒ステークス、そこで調整しつつ仕上がり具合を見る。その順位次第で皐月賞に挑む、クラシック三冠の一冠目だ。  まずはシンボリルドルフの蹄跡を辿る、つまり無敗の三冠バを目指す。だが勝てるレースだけ出るような弱気な真似もするつもりはない。  勝てるギリギリのレベルのレースに出場する、楽が出来るとはゆめゆめ思うなよ。」 声を低くして凄んで見せても、撫でられながらだと全然怖くない。 それに、トレーナーはボクがそれに勝てると思って予定を組んでるんだ、だったらボクがやることは全力で走るだけ! 「おい、いい加減に手をはなせ、見られている。」 「えー、いいじゃーん。トレーナーも可愛いとこあるんだって皆に知ってもらおうよ。」 パチン、と手に痛みが走って反射的に引っ込める。デコピンされた! 「そんな必要はない、さっさと走り込み行って来い。ついでに掛かり癖が付く前にペース配分を矯正するぞ、コーナー毎に目標タイムを設定するから誤差5秒以内で走るように。」 「はーい。」 手元のバインダーからメモを1ページ取り出して渡してくる、この通りに、体内時計だけを頼りに走る。 正直難しい、でもやり甲斐たっぷり、トレーナーがストップウォッチを構えて合図を出す。 そうしてボクは走り出した。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― テイオーは若駒ステークスを3バ身の差を付けて堂々の一着でゴールした、そして迎えた皐月賞。 私は関係者席に向かった。いつも通り席の一番後方から自分の担当バを見つめている人物が目当てだ。 「気にかけていただいているようで恐縮ですな、会長。」 私の足音を覚えてしまったらしく、今度は近づいただけで声をかけてきた。 感覚鋭敏、本当に人間なのだろうか。 「お前もアスリートならわかるだろう、後方確認のためにわざわざ振り返っていてはスピードが落ちる。 誰がどこで走っているか、追い上げてきているのか、ペースを保っているのか、分かるようになった方が有利だからそう訓練した。それだけだ。」 「なるほど、粒粒辛苦の賜物というわけだな。ところで、君の意識改革には成功したようで何よりだ。」 「…………感謝している。」 「これは驚いたな、この前は聞き間違いかと思うぐらいの声だったというに、はっきりと言えるようになったか。」 「言葉にしなければ伝わらないと、教わったからな。」 ゲートの中で開くのを待つテイオーの顔には、これから始まる勝負に対する昂りはあっても焦りは見られない。ほんの数ヶ月で随分成長したものだ。 「……………パレスタインの婆様は元気か?」 思わず片眉が上がる、思いがけない名前が出てきた。 「元気だったよ、君が飛び出して3年後に、大往生だった。」 「そうか。ついでがあったら私の分も花を供えてやってくれ。」 ゲートが開く、ウマ娘達が一斉にスタート、まだ団子状態。 「君から家の話が出るとは思わなかった、縁を切ったと以前インタビューに答えていたが。」 「こっちはそのつもりだったからな。孤立無援、私は私として、ウマ娘の家系とは関係なくただの人間として走りたかった。」 団子がそれぞれの脚質に合わせた4つの集団に分かれる、普段通りのレース展開、だが一つ違うのはテイオーが先行集団から頭一つ抜けていることだ。 掛かっているのではない、単純に彼女のペースが逃げ集団に匹敵するほどなのだ。 シニア級、皐月賞の舞台でこの実力に仕上げてくるとは。 「結局何の意味も無かった、陸上レースといえばウマ娘、人間の競技を見るのはごく一部の物好きだけ。この構図は変えられなかった。  全てを失った所をトレセンからのスカウト、お前の差し金か?」 「無私無偏でなかったといえば嘘になる、だが優秀なトレーナーを学園が求めていて、君がそれに値する人材だというのは確かだ。  テイオーの仕上がりを見れば分かる。」 「元から持っていた力を引き出しただけだ、大したことじゃない。」 第四コーナー回ってスパートに入る時点ですでにテイオーは先頭、そのままぐんぐんと後続を引き離していく。全く振り向く気配はない、代わりに耳が周囲を見張るようにグリグリと動いている。先程聞いた技術を仕込んだのか。 それを背もたれに体を預け見守るトレーナー、勝利を確信した態度。 「謙遜も過ぎれば不遜になる、君は自分の力を「誇れ、と?私はな、ルドルフ。未だにウマ娘が憎いよ。今最後尾を走っている者でも、全盛期の私と比べ物にならないほど早い。  ウマソウルとかいうわけのわからない代物に、生まれついた肉体だけで、血反吐を吐きながら鍛えた人間の先を簡単に行ってみせる。」 呻くように吐き出した声には苦悶が滲んでいる。状態を屈め、顔の前で祈るように手を組む。 「テイオーは良い生徒だ、素直で、飲み込みも早い。だが、足をへし折って私と同じようにしてやりたいと思う時がある。  そんなトレーナーがどんな誇りを持てと言うんだ?」 懺悔する罪人のように、トレーナーは胸の内を吐き出した。 私はスカウト候補に上げたことに一抹の後悔を覚える、だがそうしなければ今頃生きる理由の全てを失ったトレーナーは廃人のようになっていただろう。 ここで謝罪などすれば侮辱することになる、私が言うべきは。 「……君をそんな窮地に追い込んだのは私だ、いくらでも恨んでくれて構わない。」 憎まれ役として、激情を向ける的になる。 「いいや、お前には、むしろ感謝している。私の、私が育てた、私の全てを注ぎ込んだトウカイテイオーが、絶対の皇帝たるウマ娘を下すのを、この目で見られるんだからな。  楽しみにしておけ、お前の絶対を打ち破るのは、トウカイテイオーだ。」 『早い!早すぎる!トウカイテイオー大差でゴールイン!一着はトウカイテイオー!ルドルフが成し遂げたあの無敗の皐月賞制覇、トウカイテイオーもその軌跡をたどってみせました!』 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「換えの用意、ですか?」 トウカイテイオーさんのトレーナーさんが珍しく私に声をかけてきた。普段はデスクにやってきて最低限の事務的な会話しかしない人なので呼び止められて廊下で話すというのは初めてだ。 「はい、いい加減寿命が近い、酷使している、というわけではないですが、やはり学園に来てからは比じゃない。」 うーん、と私は少し悩み込む。必要な書類形式は思い出せたが、申請から実際に換えが届くまでには時間が必要だ。 「見立てでは何時頃必要になりそうでしょうか?」 今度はトレーナーさんがしばらく考え込んで 「日本ダービーまで保てば御の字というところでしょうか、色々回ってみたのですが、手の施しようがないと断られまして。」 「それなら十分間に合うと思います、必要書類をお渡ししますので、一緒に来ていただけますか?」 「ありがとうございます。ああ、テイオーに聞かれると気にしそうなので、伝えないようにお願いできますか。」 「かしこまりました。」 後ろから付いてくるトレーナーさんの車椅子の車輪の音を聞きながら事務室へと向かう、確かに車輪やフレームからわずかに軋む音が聞こえる。 車椅子の交換が必要になる時は近いだろう。 ボクは呆然としてトレーナーから渡されていた宿題を床に落とした。 でもそんなことはどうでもいい、換え?寿命が近い?日本ダービーまで? トレーナーは車椅子だから足が動かないのは知ってた、でも他の場所は平気だと思ってた、でも、違ったんだ。 日本ダービーまでじゃ二冠だよ、ボクなら絶対カイチョーに勝てるって言ってくれたのに、途中で投げ出すつもりなの? なんでそんな大事な話をなんでもないことみたいに言うんだ!トレーナーはいつもそうだ、大事なことも、そうじゃないことも同じように話す、平坦で、冷たくて、温かいのは手のひらぐらい。 でも、どうすればいいんだろう……。ボクはお医者さんじゃないし、トレーナーももう手がないって……。 ……⏰…… 走っても走っても頭のモヤモヤが取れない、日本ダービーが終わったらトレーナーは死んじゃう。 代わりのトレーナーなんてついても、意味ないよ……。 「テイオー、身が入らないようだな。やる気が無いとは思えん、何があった?」 何があった?何かあったのはトレーナーじゃないか!ボクには秘密にして自分だけでなんとかするつもりだ!ボクはそんな子供じゃないのに! 「トレーナーのせいだよ…!」 言ってしまった、せっかくトレーナーがボクのために黙っててくれたのに、ボクは立ち聞きしちゃって、それで集中できないのをトレーナーのせいにしてる。最低だ、ボク……。 「どういうことだ?」 「トレーナーの体、もうボロボロなんでしょ……、日本ダービーまでもてばいいって、たづなさんと話してるの……聞いちゃった……。」 「ん……?」 「もう寿命だって、手の施しようがないって……それで、代わりのトレーナーを準備してるんでしょ……そんなのボク、やだよ………。トレーナーと一緒に三冠バになりたいよ……。」 これまで我慢してきたのに、胸の奥から悔しさと寂しさがこみ上げてきて、目元が熱くなって視界が歪む。 「ん、ん……?」 「ボクならカイチョーを越えられるって、トレーナーと一緒ならって、思ってたのに……話が違うじゃん……。」 「ちょっと、ちょっと、待て。何の話だ?」 「だから、トレーナーがもう寿命だって、手の施しようがないって……。さっき廊下でたづなさんと話してたじゃん!」 しばらくじいっとボクの顔を見ながら、眉間にシワを寄せて考え込んでいたトレーナーは、ああ、なるほど、と小さく呟いた。 「テイオー、お前は勘違いをしている。私の体は足以外は概ね健康だし、代わりのトレーナーなど探していない。」 え…?じゃあさっきたづなさんと話してたのは? 「ど、どういうこと?もう一回言って?」 「私は健康で、代わりのトレーナーなど探していない。私が換えを探していたのは車椅子だ。もう長いこと使っていていい加減ガタが来ている。修理も難しいというから新品の申請をしにいったんだ。」 「じゃあなんてボクには秘密って…!」 「車椅子が消耗したのは学園に来て芝生の上を走るようになってからだ、それをお前に知られたら気を揉むをと思ったんだが、逆効果だったようだな……。はぁ。」 ため息を付きながらトントン、と車椅子のアームレストを叩くトレーナー。じゃあボクが泣きそうなほど心配したのは無駄だったの?! 「なんだよそれー!!取り越し苦労もいいとこじゃん!!」 「そうなるな、全く、知らないうちに疲労でも溜まっていたのかと思ったぞ。まだ何かあるか?ないなら今度こそしっかり練習してもらう。」 「変な気遣いでボクを心配させた埋め合わせ、考えといてよ。」 半目でトレーナーを睨む。ボクの勘違いもあるけど原因はトレーナーだ。責任も当然トレーナーにある。 「わかったわかった、今度飯でも奢るからそれでいいだろう。ほら、続きだ。」 「はーい、もう隠し事はなしだからね、トレーナー!」 なんだか急に体が軽くなった気がする、鼻歌でも歌い出しそうなぐらい明るい気分で、ボクは坂路ダッシュを再開した。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 『トウカイテイオー、菊花賞を残し二冠達成!そして秋の京都へ伝説は引き継がれていく!』 先行グループから差しきってゴール、この数ヶ月でボクの走り方が出来てきた感じがする。今まで出来てなかったわけじゃないけど、トレーナーのおかげで、もっとかちっとボクに噛み合うような感じだ 二冠だから指を二本立てながら、ウィナーズサークルからトレーナーの待つ控室へ戻る、足取りはレース後とは思えないほど軽い、つもりだったけど。 「あれっ。」 足がもつれて転びそうになる。疲れてるのかな、やっぱゆっくり行こっと。 「トレーナー!二冠目取ってきたよ!」 「ああ、見ていたよ。おめでとう、期待以上の働きだった。」 この人って生まれてから少しでも喜んだことあるんだろうか?いつも通りの無表情と無感動な声、もう慣れたけど。 だからボクは屈んで頭を差し出す、G1優勝に言葉だけじゃ足りない。 「ん。偉いぞテイオー、よくやった。」 そうすればトレーナーは優しく撫でてくれる、タコと擦り傷でゴツゴツした手が優しくボクの頭を撫でる。 ……⏰…… 三冠目の菊花賞、そこでも、それまでも絶対に負けられない、無敗の三冠バにボクはなるんだ! だから、足がちょっと痛くてもへーき!トレーナーはボクの体調を見てもうメニューを組んでる、それを崩すわけには行かないんだ! その日は朝からずっと土砂降りの雨が降っていた、不良になったダートコースを走ってパワーをつける。いつもなら何の問題もないメニュー。 踏み出す足がズキズキと痛む、カッパの下で歯を食いしばって耐えながら走る、必死で走る。ボクは無敵のテイオー!どんな時でも、絶対に走るのを止めないんだ! もう少しで一周、トレーナーの所へ戻れる、そう思った瞬間、足が滑った。いつもならすぐに立て直せるのに、足の痛みがそれを邪魔してバランスが崩れる、つこうとした手も泥の中に沈む。 あ、まずい。 視界が回転して、遠くに学園の校舎が見える。転んだと気付くのに少し時間がかかった。 「テイオー!!!」 トレーナーの叫び声が、すぐそばのはずなのにどこか遠くから聞こえた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 目を開けたら、見慣れない天井、鼻をつく薬品の匂い。足の痛みは和らいでいた。顔を動かすと、保健室のベッドに寝ているのがわかった。 トレーナーがすぐ近くで、顔をしかめてボクを見下ろしている。怒られるのかな、失望されるのかな、ごめんね、ボクのせいで。 「……足は疲労骨折寸前、かなり痛みがあったはずだな、何故黙っていた?」 「それは……。」 「私は、それほど信頼出来ないのか?」 「違う…。」 どうしてボクよりトレーナーが苦しそうな顔してるの、ボクのせいなのに。怒ってよ、ボクのせいだって。 「私は、体調不良を相談するに値しない存在か?」 「違うよ!」 「なら何故、黙っていた?」 「菊花賞で、勝ちたかったから……。トレーナーの組んだメニューをこなしたかったから…。」 「その菊花賞だが。」 まるで氷のように冷え切ったトレーナーの声。 「無理だ。」 その一言がまるで氷山のように、ボクの心の中にずしりと落ちてきた。 「お前にはまだ来年がある、それを見越して別のプランを練っている「嫌だ。」 「嫌だ、菊花賞に出る、勝って、三冠バになる。」 「医者の見立てだ、従え。」 トレーナーの声はいつもの平坦なものに戻っていた、それが余計にボクを苛立たせる、一緒に見ていた夢だったのに、どうしてそんな簡単に諦められるの? 「絶対に嫌だ、ボクはまだ走れる!ちょっと痛いぐらいなんてこと「テイオー!!」 今度はトレーナーの怒鳴り声がボクの言葉を遮った。 こんな感情を込めた声、初めて聞く。トレーナーも驚いたみたい、気まずそうに目を伏せる。 「……お前には、私のようになって欲しくない。」 沈黙を破ったのはトレーナーの声。 「でも、ボク、諦めたくないよ……。トレーナー…。お願い……。」 トレーナーの手を握る、声と同じように、何かを堪えるように細かく震えている。 ボクはトレーナーに残酷なお願いをしている。きっとトレーナーが車椅子になった原因と近いことをボクはしようとしている。他ならないトレーナーにその手助けをさせようとしている。 「……最大限休養に努めろ、トレーニングの許可が出てから菊花賞に向けて仕上げる。どう見積もっても期間はギリギリだ、今までの比じゃないハードワークになるぞ。  お前の足がそれに耐えられるかわからん、分の悪い賭けだ。乗るか?」 とてつもなく苦い顔をしながらだけど、トレーナーは案を出してくれて、ボクはそれに頷いた。 ごめんね、トレーナー。辛い思いさせてるのはわかってる。でも、ボク達の夢を、叶えたいんだ。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーニングは休みでも、ミーティングはやることになった、そのまま保健室に一泊したあと、足を保護する包帯を巻いてしばらく車椅子生活。 なってみてわかったけど、これはすごく大変だ。真っ直ぐ進むのもゆっくりならまだしも、ちょっと急ぐと左側によれていって、車輪から手が離せない。それに横幅を取るからすれ違う時気を使う。 トレーナーがすいすいと芝の上でも移動しているのは実は凄いことだったんだなと思いながらトレーナー室に入る、いつもならトレーナーが先に来ているのに、今日は時間になっても来る気配がない。 今まで遅れたことなんて一度もないのに、電話をかけてみるけど繋がらない。 何かあったのかな、昨日の今日だから心配だ。 慣れない車椅子の車輪を転がして、ボクはトレーナー寮へ急いだ。 寮長さんに部屋番号を聞いて、トレーナーの部屋へ向かう。 ドアホンを押して、少し待つ。反応なし。 ドアに耳を押し付けると、微かに息をする音が聞こえる。 「トレーナー?」 ノックしてみても反応なし、寝てるのかな? 一応、とドアノブをひねると、鍵はかかってなかった。 「トレーナー、入るよー?」 ドアを開けると、お酒の匂いが鼻をついた。普段のトレーナーからは絶対にしない匂い。 カーテンが閉まったままの暗い部屋は、電気を点けるとひどい有様だった。 そこら中に書類やバインダーが散らばり、お酒の缶が何本も転がっていた。 そしてトレーナーは車椅子に座ったまま、ベッドに倒れ込むようにうつ伏せになっていた。 慌てて近寄り、引き起こすと、すごくお酒臭い息を吐きながら眠っている。 ウマ娘の嗅覚は鋭い、普段からお酒を飲むような人ならすぐわかる、だから、自棄酒という奴だろう。 昨日、帰ってから酔っぱらい、それで自分で部屋を荒らして、そのまま鍵もかけないで眠ってしまった。 風邪を引かないように車椅子に座らせて布団をかけてから、どうしようかと見回した。ボクがトレーナーならこんな姿見て欲しくないけど、このまま鍵を開けたままもいくら学園内だからって不用心だ。 鍵がないか探していると、デスクに広げられたままのノートが目に入った。 ページいっぱいに『私のせいだ』『私のせいだ』と繰り返しなぐり書きされ、そばのへし折られたボールペンから漏れたインクが隅を汚している。 そこに込められたあまりの強い感情、普段トレーナーが見せないものに、ボクは吸い寄せられるようにページをめくり、遡る。それはトレーナーの日記だった。 最初はボクの担当になった日から、日々のトレーニングの記録と無感情な所見がずっと続いている。 内容が変わり始めるのは、メイクデビューの日から、『シンボリルドルフに感謝しなければならない、私はあの子に何も返していなかった。』 そう綴られている。そこから、ボクをどう褒めればいいか、どう努力に報いるか苦悩する言葉がずっと続いていた。 そして日本ダービーを優勝した日の日付『ついにテイオーが日本ダービーを取った、無敗の二冠、このままいけば無敗の三冠を取れるかもしれない、いやかもしれないではダメだ。絶対に取る、あの子ならそれが出来る。  私はあの子を道具として使っていた、ウマ娘に対する復讐の道具として、しかし、もうやめよう。  いつか打ち明けなければならない、最初の三年が要だとたずなさんに聞いている。私のわがままだが、その間は伏せておきたい、彼女の栄光のために私の事情は関係ない。  夢を叶えた時、私の醜い本性を打ち明けよう。どんな結果になろうとも、受け入れよう。ただ、もし願うならば、ずっと彼女の走りを眺めていたい、私の代わりに、風を切って先頭を走る姿を目に焼き付けたい。』 馬鹿だなあ、言わなきゃ伝わらないのに、示してくれなきゃわからないのに、こんなにボクに期待してるなら、そう言ってくれればいいのに。 どんな思惑があったとしても、トレーナーはボクの夢を叶えようとしてくれてるのに、どうしてこんなに不器用なんだ、ボクのトレーナーは。 胸が熱くなって、ぽたり、と不意に涙が溢れた。落ちた雫がノートの文字を滲ませる。 「んぅ…………ん…。」 小さくトレーナーが呻く、これ以上ここに居たら、ボクが居た証拠を残したらまずい。 もう一度部屋を見回すと、デスクのすぐそばの壁にかけられた合鍵を見つけた、ゆっくりと音を立てないように車椅子を動かしてそれを取ると、そろりそろりと部屋を出る。 鍵を閉めて、これで一安心。とりあえずポケットに合鍵をしまうと、ボクはトレーナー寮を後にした。 トレーナーはいつも頑張ってる、今日一日ぐらい、休んでもバチは当たらないだろう。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 朝練もダンスレッスンも放課後トレーニングもなし、そうなるとボクは暇で暇で仕方ない。 立ち上がれなくなるほど体力を振り絞る『限界』チャレンジも、今となってはまたやりたいと思うほど。 トレーナーの方も時間が余っているのは同じらしく、最近は電話で色々と話をするようになった。 本当は会って話がしたいけど、寮にトレーナーは立入禁止だし、全力で休養しろということで最低限のストレッチと授業に出る以外は寝たきりなので仕方ない。 「トレーナーって今何してるの?」 「お前の容態に関して医者からの連絡待ちだな、ある程度の見込みはもらっているからトレーニング計画を練っている所だ。」 「ボクが休みなのに仕事してるの?働きすぎじゃない?」 「アスリートは怪我を治すのも仕事のうちだ。お前はお前なりに働いているのに私だけ休むわけにもいかんだろう。」 アスリート、その言葉に引っ掛かった。前は陸上選手だったって言ってたけど、トレーナーはトレーナーになる前、他に何をしていたんだろう。 それだけじゃない、ボクはトレーナーについて何も知らない。 だから聞きたくなった。全然マヤノに『テイオーちゃんから見てテイオーちゃんのトレーナーってどんな人?』とか『二人ってどこまで進んでるの?』なんて聞かれてろくに答えられなかったからじゃない、トレーナーとはそんなんじゃないし! 「トレーナーって趣味とかある?暇な時何してるの?」 「趣味か、することがない時はお前の参考になりそうな情報を集めてる、特にシンボリルドルフは重視してるな。時間が余ったらメニューを組むために。レースを見に行くか録画を見ているな。」 「なにそれ!趣味って言わない!全部仕事だよ!」 「そう言われてもな、他にしたいことも特にない。今はお前が全部だよ。」 「………っ!」 変な声が出そうになって慌てて飲み込む、スマホを握りつぶさなかったのは奇跡だ。 そういう意味じゃないとわかっていても不意打ちでそんなこと言われると心臓に悪い。 「じゃ、じゃあさ、トレーナーになる前は何やってたの?」 これ以上深掘りしたらまた変なことを言われそうだ。ちょっと強引に話題を変える。 「前も言ったが、陸上選手だったよ。長距離走が主だった、5000mと10000mだな。」 「ごせんにいちまん!?有マ記念の2倍と4倍じゃん!」 「スタミナに関してはヒトはウマ娘には負けんよ、興味があるなら見ると良い。といってもテレビで見るのは難しいだろうが……。」 「どうして?」 「人気がないんだ、単純に。ウマ娘が2500mを疾風の如く駆け抜けるのに比べたらヒトが10kmとろとろ走るのなんて退屈で見ていられんのだろうな。視聴率も取れないから放送されない。」 「そんなことって……。」 「仕方ないことだ。そうだな、見たいならいくつか録画データを持ってるから送ってやろう。」 「うん、お願い。ねえ、トレーナーが走ってる奴ってある?」 「あー、あるぞ。少ないが。」 「じゃあそれもちょうだい。」 トレーナーの走る姿、どんな風に走っていたのか、それを見れば今よりトレーナーを理解できる気がする。 やっぱりボクはウマ娘だから、言葉で説明されるよりずっといい、そんな気がした。 そして、トレーナーの走りが見れる、そんな高揚感からボクは、不用意な質問をしてしまった。 「トレーナーってさ、なんで車椅子になったの?」 電話の向こうで息を飲む音が聞こえて、まずいことを言ったとわかった。 ちょっと考えればわかったはずだ、プロのアスリートが走れなくなった理由なんて、こんな雑談のついでに聞いて良いことじゃない。 「ご、ごめん、なんでもない。」 「いや、構わない。そうだな……。今から話すには少し遅い、明日私の部屋で話そう。合鍵、持っているんだろう?」 「うん、じゃなくて何でそれを?!」 トレーナーは寝てたし、誰にも見られてないはずなのに! 「本当にお前だったか、何も言わずにいてくれて感謝するよ。ではおやすみ。」 プツッ、と通話が切れて、数秒経ってから気付く。引っ掛けられた!! 「うーー!!」 ベッドにうつ伏せになって枕をボフボフと叩く、せっかく人が気遣ってあげたのにー!! 「テイオーちゃんうるさーい!!」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「さて、どこから話したものかな。」 朝練の時間、ボクはトレーナーの部屋に話をしに来ていた。 あれだけ散らかっていた部屋は何事もなかったかのように綺麗に掃除されていた。デスクの上のノート、端のインクが染み付いたそれだけがあの日の惨状の名残を残していた。 改めて見直すと、ベッド、トレーニング教本や難しい本に、いつも持っているバインダーがいくつも詰め込まれた本棚、小さめのテーブルとデスクのどっちにも椅子はない。そして大きめのテレビと繋がれたノートパソコン。必要最低限の家具しかない部屋。トレーナーとしての機能しかない部屋。 なんとなく居心地が悪い、確かにトレーナーに呼ばれて来たのに、歓迎されていない場所に来たような感覚を受ける。 テーブルの上にはミルクと砂糖がたっぷりのコーヒーが紙コップに二杯。 ちなみに意外なことトレーナーは甘党だった。糖分は速効性の燃料だからとか言ってたけど、角砂糖4つは多すぎると思う。ボクは2つで十分だ。 一口飲むと、コーヒーと言うよりカフェオレみたいな味がした。 「まぁ、昔話は後にするか。私も思い出す必要があるからな。」 トレーナーはノートパソコンを操作して、ヒトのレース映像を流し始めた。 「まぁ正直、大した競技ではない、参考にしようとは思うなよ。フォームが崩れる。」 ごくごくとボクの倍は甘いだろうコーヒーを飲みながら、トレーナーは画面を見つめている、その横顔をちらりと見る。いつもの無表情。 画面に目を移すと、地面に手をついて片足を後ろに伸ばした不思議な格好でスタートを待つヒト達が並んでいる。 勝負服じゃない、皆同じ動きやすそうな服を着ている、練習試合かな? 「なんであんなポーズしてるの?」 「クラウチングスタートといってな、ヒトの場合あちらのほうが初速が出る。短距離走のスタートの仕方だな。これは400mだ。」 「短いね。」 「そうだな。」 『オンユアマークス』『セット』 ボク達のとは違う掛け声で選手達が構え、パーン、という破裂音とともに一斉に走り出した。 ボクは驚いた。 「これって……。」 「世界大会だ、ヒトの世界のトップレベルの選手たちだよ、『この遅さでも』な。」 そのあまりの遅さに。ウマ娘なら開始数秒軽く到達するような速度、それに到達するまでその何倍もの時間をかけて、そしてそれが精一杯なんだろう、必死な顔で選手たちがゴールテープを切った。 歓声が上がるけど、映像越しだとしてもメイクデビュー戦のより少なかった。世界大会で?トップクラスの大会なんてもっと、いっぱい人が集まって、もっと早くて……。 「では次は長距離だ、丁度私が出た奴がある。これも世界大会だ。」 また画面に映る同じような格好をした人たち、その中に今とほとんど変わらないトレーナーが居た。 一番違うのは自分の足で立っていることじゃなくて、その表情だった。痛みを堪えるような、とても苦しそうな顔。 同時に何か覚悟を決めたような、邪魔をする人が居たら容赦はしない、そんな顔。緊張しながらもレースを楽しむ、レース前に皆がしている顔とは全然違った。 「距離は5000m、長距離の場合はお前達と同じように立ってスタートする。」 淡々と解説するトレーナー、その横顔は興味とか、懐かしさなんて全く感じているように見えない。とても同じ人だとは思えない。 『オンユアマークス』『セット』 同じ合図と破裂音でスタート。やっぱり、遅い。長距離で脚を溜めているのか、さっきの短距離走より遅い。 「退屈なら早送りするが。」 「ううん、このまま。」 「そうか。」 団子になっていた集団がだんだんとバラけて縦長の行列のようになる、ここはウマ娘と一緒だ。ほんの少し安心した。 「私はこの時期二番手につき、スパートで抜いてゴールする戦法を好んだ。お前達で言う先行だな。  だからお前にも自分の経験に基づいて教えられる。速度は段違いだがな。」 解説は続く、ボクはそれを聞きながら時折ズームされる画面の中のトレーナーの表情を見つめていた。 そしてスパートから一着になってそのままゴールするトレーナー。観客席を見ることもなく、そのまま流しながら速度を緩めて、関係者から水分を受け取って何か話し込んでいる。 まるで面倒な作業を終わらせただけというような、無感動な勝利。これがトレーナーの居た世界。 何本か目のビデオ、トレーナーが出てくるのは3回目ぐらい。どれもボク達のレースとは比べ物にならないぐらいお客さんも少なくて、淡々としたもの。 「この頃から私は戦法を変えた。最初から最後まで先頭に立ち続ける、逃げだな。」 「どうして?」 「………ペースを合わせてやるのがもどかしくなった。集団に紛れるのは楽だ、風を浴びず、どれくらいの速度で走ればいいか周囲が指標になる。  それがどうしても嫌になってな、私は独りで走るようになった。」 言葉通り、トレーナーだけが別のレースを一人で走っているみたいだった。距離に合わせて自分の出せる限りの速度で走り切る。 勝っても負けても誰も関係ない自分だけの問題、すごく孤独な走り方。 ゴールした画面の中のトレーナーの顔は、今のトレーナーと同じ顔をしていた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 何本もヒトのレースを見て、朝練の時間が終わりに近づいた頃。トレーナーは甘過ぎるコーヒーを飲み干して、口を開いた。 「さて、そろそろ昔話を始めようか。」 「昔々、あるところに、バカな陸上選手が居ました。そいつはウマ娘ばかりが脚光を浴びる陸上競技の世界を一人勝手に憂いており、愚かにも自分一人でなんとかするつもりでした。 そいつは自分が出られる大会ならどこへでも飛んでいって走っては、トロフィーを獲得して回りました。 メディアもこぞって取り上げ、新聞記事に大見出しで載るほどまでになりました。 しかしそんなことを繰り返していればいつか限界が来ます、でもそいつは医者や仲間が止めるのも無視して走り続けました。 骨を折り、ボルトを埋め込んで、一歩踏み出す度に激痛が襲ってきても走り続けました。 ある日そいつは倒れ、もう足がどうしようもなくなっていました。 そして、振り向いてももう誰もそいつにはついてきていませんでした。 両足を切断し走れなくなったそいつは瞬く間に世間から忘れ去られ、陸上の華はウマ娘が独占する構図は変わらず、何の意味もなく足を失っただけでした。 そいつは今もどこかで生き恥を晒しています。めでたしめでたし。」 「何もめでたくないよ…。」 「バカが自分の愚かさのせいで痛い目を見る話はいつもめでたしめでたしだろう?それだけの話だ。」 「トレーナーは……。」 平坦な声、何の感情も籠もっていない声、でも多分本当は違うんだ。録画の中のトレーナーはある時期から今と同じ無表情になった。 多分、足が痛むようになったのと同じ時期。この人は痛みを見せないために表情を捨てたんだ。 「今も足が痛むの?」 「…………それを聞いてきた奴はいくらか居たな、痛むわけがないだろう。もう切断した足だ。」 無造作に足を指先で突付くトレーナー、その指先は全くズボンに沈まないで、カチカチと固い音を立てる。 「嘘。」 「言い切ったのはお前で二人目だ。だがそれがお前に何の関係がある?」 トレーナーは人に弱みを見せたくないんだ、そうしても誰も助けてくれなかったから。 なくなった手足に痛みだけ残る後遺症、聞いたことがある。トレーナーは自分の足にまだ苦しめられてるんだ。 そして独りで走り続けている、ゴールのないコースをずっと。 それに気付いたら、この部屋の居心地が悪い理由もわかった。この部屋は椅子がない、マグカップも多分トレーナーの分しかないから紙コップでコーヒーが出てきた。 全部、トレーナー以外が使うことを考えられていないんだ。誰も立ち入ることを許されない所に、他の人に聞かせたくないから仕方なくボクを入れたんだ。 トレーナーは今でも独りのまま、痛みに耐え続けてるんだ。 「キミはボクのトレーナーだよ。だから関係ある。」 「だったらどうする、時計は巻き戻らない。私がもう一度走れるようになるのか?」 「それはボクには出来ない、でも、トレーナーの苦しみを和らげてあげたい。」 「私は苦しんでいない。」 トレーナーの声がわずかに固くなる。 「私は苦しんでなどいない。」 そして不気味なほど冷静な声で繰り返した。 「だからお前の助けは必要ない、ただ聞かれたから事実を話したまでで、お前に人生相談など頼んでいない。理解したか?」 冷え切った鉄みたいな、これ以上触れているとそこから凍っていくような、拒絶が込もった返事。 「だったらなんで。」 でもここで放しちゃいけない、ようやく開いたトレーナーの心の殻の、ほんの僅かな隙間なんだ。 「ボクが倒れたときにあんなに辛そうだったの?走れなくなったのがどうでもいいと思ってるなら、あんな風に、走ろうとするボクを必死で止めたりしない。  自分が辛かったから、ボクに同じ思いして欲しくないから、止めてくれたんじゃないの?」 トレーナーがボクの前で見せた弱み、保健室での会話。『私のようになって欲しくない』そう弱々しく言ったトレーナーは、どう見ても過去のことをどうでもいいと切り捨てられてはいないようにしか見えなかった。 そして、日記に繰り返し書き殴られた『私のせいだ』という言葉。トレーナーは助けを求めてはいないかもしれない、でも、足の痛みに、心の痛みに苦しんでる。 「トレーナー、あの時の言葉、返すよ。ボクはそんなに信頼出来ない?辛いことを辛いと言える相手に、ボクはなれないの?」 グシャッ、とトレーナーが紙コップを握りつぶす。その手をじっと見下ろす。沈黙が何分にも引き伸ばされて感じる。 「………ふぅ、言うじゃないか、中等部のお子様が。私に信頼されたいだと?  なら、結果が先だ。怪我を治し、菊花賞で勝ってみせろ。そうすれば………考えてやらんでもない。」 空気がほんの少しゆるんだ、綱渡りを渡り終わったような安心感に、小さく息を吐く。 すっかり冷めたコーヒーはやっぱり甘すぎて、少し飲み干すのに苦労した。そして、トレーナーからの挑戦に受けて立つ。 「ワガハイは無敵のテイオー!絶対に勝つ!そうしたら、トレーナー、またお話聞かせてよ。」 「ああ、勝ったらな。」 「約束だからね。」 「いいだろう。しかし、そろそろ始業時間だぞ。テイオー様は遅刻しても構わんのか?」 「うわー!早く言ってよ!急がなきゃ、またね!トレーナー!今度は椅子とボクの分のマグカップ揃えておいてよね!」 走れればすぐだけど車椅子だとどれぐらいかかるかわからない、ボクは急いで校舎に向かって車輪を転がした。 …… 「こうなってから、家に招くのも足の痛みを言い当てたのも、ルドルフに続いて二番目か……。  こんなところまで蹄跡を辿らなくてもいいというのに、全く……。」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーナーの部屋に行ってからの時間はとても早かった。 毎晩のように電話で話し、菊花賞を勝ったらトレーナーと一緒にボクのためのマグカップと椅子を買いに行くことになった。 『怪我も治らぬうちから気が早い、取らぬ狸の皮算用だ』なんて言ってたけど、行くこと自体は文句を言わなかったからOKってことなんだと思う。 色々なことを話したけど、トレーナーの足についてはお互いに言い出すことはなかった。これ以上聞くのは菊花賞に勝ってから、そう約束したから。 ボクの足は車椅子から松葉杖になって、リハビリも始まった。使っていないと足はこんなに固く、細くなるんだって自分でもびっくりした。 それからしばらくしてお医者さんからトレーニングの許可が下りた。トレーナーが大分無理を通したらしく、『本当ならトレーニングなんてさせないんですけどねぇ…』とかなり渋い顔をしていた。 ……⏰…… 「さて、久々のターフの気分はどうだ?」 「待ちくたびれたよ、今すぐ走り出したいぐらい。」 トレーニング復帰の初日、練習場の芝生の上でボクは柔軟をしていた。土と芝と、もう練習をしている誰かの汗の匂い、待ち侘びたコースの匂い。 「さて、始める前に言っておくが。」 トレーナーがバインダーに目を落とし、ページをめくりながら素っ気無く言う。復帰を喜んでいる場合ではないのはボクも同じだ。トレーナーからの指示を待つ。 「前にお前は絶対に故障させない、と言ったが、今回に限りそれを破る。というのももはや時間が足りない、限界を越えてトレーニングをする必要がある。  確率にして30%、今のお前が10人居るとして同じことをさせたら3人は故障する、そしてその1人は菊花賞どころか二度と走れなくなる。覚悟してあたれ。」 質問じゃなくて確認。もうやることは確定なんだ、もちろん、その確率が30%どころか、99%でもボクはやる。頷いて、わかったと返す。 「よし、では地獄を始めるか。」 ……⏰…… 「ぜぇ……っ……!はぁ…っ…!ぜぇっ……!ぜぇ……っ!」 ボクはコースに突っ伏していた。初めて『限界』に挑んだ時を思い出す、あの時も心臓が張り裂けそうになって、酸素を求めて必死で肺を動かしていたっけ。 全身が燃えるように熱い、そこにばしゃばしゃと水が降ってくる。 「さて、限界だな。だが私は限界ではない、地獄と言った。オーバーワーク上等、続けるぞ。」 なんとか立ち上がると、半分ほど減ったペットボトルを投げてきた。一気に飲み干して投げ捨てる。 「うん、続けて。」 ……⏰…… 「今日は終わりだ。気分はどうだ?私は最悪だよ。」 「はは…は…。だよ、ね。」 柵に寄りかかって、息も絶え絶えだ。ボクは笑ってて、トレーナーが苦しそうな、苦虫を噛み潰したようなってああいう顔を言うのかな。 体力を使い果たしたのはボクなのに、なんだかあべこべだ。 「随分余裕だな。迎えは不要か?」 「ごめん…マヤノ、呼んで……。」 「番号を知らん、自分で呼べ。」 ならなんで言い出したのさ! ボクは本当に最後の気力を振り絞ってマヤノに電話して、抱えられて部屋まで運ばれることになった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 地獄を味わった翌朝、ボクは目覚まし時計を止めようと腕を伸ばして、ベルの音より遥かに大きな悲鳴を上げることになった。 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛~~~~!?!?」 「ひゃああ!?何!?スクランブル!?敵襲!?」 マヤノが飛び起きるのが視界の端で見えた。ごめん、でも喋るのも辛いんだ。 そしてボク自身より、全身の筋肉が悲鳴を上げている。筋肉痛だ、それもかなり酷い。寝る前にすでに痛みがあったけど、ここまでなるとは思ってなかった。 なんとか目覚ましを止めると、スマホも鳴っている、うめき声を上げながら着信ボタンを押す。 「私だ。」 この痛みを引き起こした張本人の声が聞こえた。 「どうせ筋肉痛で動けんだろう、そうしたからな。動けるなら朝食後にマッサージ室に来い、少しはマシにしてやる。」 通話ですらない、一方的に言葉を投げつけられて電話は切れた。 動く度に悲鳴を上げて、その悲鳴が更に体に響く地獄のループ、マヤノに介護してもらいながら着替えや身支度を済ませて、学食へ向かう。 もう一度車椅子貸して欲しい……。 ……⏰…… マッサージ室に行くとトレーナーがベッドに腰掛けていた。すぐ脇に車椅子が駐められている。 「よく来れたな、ほら、寝ろ。」 誤解されそうなセリフとともにトレーナーが手招きする。えーっと、もしかして。 「マッサージしてくれるの?」 「他に何をするんだ、全身筋肉痛だろ。普段なら学園所属のマッサージ師に任せるが今私達は綱渡りをしている、手応えで疲労度を見て今日のメニューを調整する。早くうつ伏せで寝ろ。」 うん、と頷いてベッドに上がって、トレーナーの足の間、太ももと義足を器用に使って膝立ちになったところの間に体を滑り込ませる。 「あがががが!!」 それだけの動きで全身に痛みが走って、悲鳴が漏れる。 「まぁ分かっていたが大分酷いな。どれ、まず首筋から行くぞ。頭部は体重の1割を占める重い部位だ、当然首に負荷がかかる。」 首を後ろを挟むようにトレーナーの指が食い込んでくる、鈍い痛みがぎゅっと押し固められて、じんわり解けて溶けていく……。 ぎゅっ、じわぁ……ぎゅっ、じわぁ……何度も繰り返されていくうちに、痛みを忘れて、全身の力が抜けていく。 「背中に移るぞ、走るのは全身運動だ、腕も振れば前傾姿勢になる、ここも当然疲弊している。」 手のひらの手首側でぐいぐいと背中全体をこねられる、トレーナーの手の熱がボクの体を溶かしていく。 「肩から腕、こっちも………」 トレーナーの言葉も耳に入らない、とろとろと熱いフライパンに乗ったチーズみたいにボクがとけていく、トレーナーの手で、ボクが…… とろけて…… 気付いたらボクは暖かな陽射しの中を散歩していた、全身がポカポカして気持ち良い。 柔らかな芝生を踏みしめながら、一緒に歩く人に心からの笑顔を向ける。 ずっと一緒だよ、そう言えば微笑んで応えてくれる。 ボクが手をつないで一緒に歩いているのは…… ……⏰…… 「……きろ……い……いい加減起きろ。」 ぺちん、と頬を叩かれながらの声で目が覚めた。 「ふぁ…?へぇ?とへぇなぁ?」 「終わりだ。よだれを拭いて授業へ行け。」 顔を上げると、呆れ顔のトレーナーが車椅子に座っている。 いつの間にかボクは眠っていて、マッサージは終わったらしい。 「眠りこけるほど気持ちよかったと捉えておこう、お前の状態はわかった。放課後の練習時間までにメニューを組んでおく。」 「うん、すごく、気持ちよかった…。ええっと、トレーナー……。」 「なんだ。」 「またお願いしていい?」 「構わん、というよりこれもお前の練習の一部だ、毎日やるぞ。」 「ええ?!毎日?!」 「凝りと痛みが軽くなっているだろう、ギリギリまで負荷をかけマッサージで回復させて、また負荷をかける。これを菊花賞まで毎日繰り返す。」 「そんな……ボク…大丈夫かなぁ?」 「無理でもやるんだ、勝つにはそれしかない。」 「そうじゃなくてぇ……ああ、もう行かなくちゃ!」 校舎まで走る、確かに走ってもちょっと痛むぐらいまで治ってる。けど、あれが毎日なんて、ボク耐えられるかなぁ……。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「このところのテイオーへのトレーニングは矯枉過直、行き過ぎたものを感じる。このままでは故障を起こすぞ。」 生徒会室に呼び出されたテイオーのトレーナーは、いつもの無表情から更に悪化して、明らかな苛立ちを浮かべる。 「そんなことを言うためにわざわざ呼び出したのか、当然だ、壊れてもおかしくない負荷を課している。」 「正気か?」 故障、このトレーナーが人生で最も悔いて、憎悪している単語だ。その危険に自らの手で他者を陥れるなど……。 もしテイオーが自分のせいで故障したとなれば、危急存亡にあるトレーナーの精神は……。 「いや、正気ではない。狂っていることは自覚している。だが、それが私達の望みだ。  休養期間を挟んでの三冠など、もはや尋常の方法では狙えん。これは賭けだよ、ルナ。」 突如として幼名で呼ばれると、驚きと同時に不快感を覚える。それを狙ってとわかっていても声に棘が出る。 「このような時に君にその名前で呼ばれる筋合はないと思うが。」 「ならば私もお前に口を出される謂れはない。全てのウマ娘の幸福は結構だがな、テイオーはお前の子供ではない。  あいつが望んだから地獄に叩き落としている、それだけだ。」 「だがもしそれで、賭けに負けたらどうする。君もテイオーも、心身共に大きな傷を負うことになる。」 膝の上で手を組むトレーナー、その顔はいつもの無表情に戻っている。これは一種の厄介な癖であり、防衛機制に近い、何かに耐える時、堪えている時、決まって無表情になる。 「その場合の進退については考えている。こいつを預けておこう、理事長に渡しておいてくれ、テイオーが故障したら受理してもらう。」 バインダーから取り出されたのは、退職願としたためられた封筒。差し出されたそれを、受け取らずに見つめる。 「面白くない冗談だな。」 「だろうな、本気のものだ。」 「私の記憶が確かならテイオーは君が初めて受け持つ担当だったと思うが?」 「ならば壊しても構わないと?冗談じゃない、責任は取る。私に残った唯一のものがこの肩書だ、それもお前に与えられたものだがな、それを返上してケジメとしよう。」 朴訥にして愚直、そしてどこまでも不器用。テイオーにも自身にも挽回策はいくらでもあるというのに、自身の過剰な責任感がそれを許さない、許せない。 ここで私が受け取らなければ、直接理事長に渡すだけのことだろう、受け取らざるを得ない。こんな話を頭越しにされるわけにはいかない。 ため息を付きながら手に取る。焦っているのを宥めようとしたら、より追い込む事になってしまうとは。 「それとこれは個人的なものだが、他に渡すような相手が思い当たらなかったのでな。こっちもテイオーが故障したら開けてくれ。」 今度は無地の茶封筒が差し出される。厚さは先程の退職願と同じ、だが、手に取った重みは数倍あるように感じられた。 中に詰まっている物が意味深長なのだろう。退職願よりも、トレーナーとしての地位よりも大きく重い物。 「まさか。」 「察しがいいな。トレーナーとして拾われた命だ、それが失われればもはや何も残るまい。」 「残されたテイオーがどう思うか考えないのか、荒怠暴恣にもほどがあるぞ。」 「だからお前に渡す、テイオーには秘してくれ。」 「またそれか。私なら平気だと思うのか?勝手に家を飛び出して、陸上界から姿も消して消息知れず、やっと見つけたと思ったら今度は命を捨てるが秘密にしろだと?!自分勝手もいい加減にしてもらおう!」 茶封筒を叩き返す。こんな感情的な振る舞い、普段なら絶対にしないだろう。だが、親しい相手から遺書など渡されれば誰だってこうもなろう。 「では、どうすればいいんだ?ルドルフ、教えてくれ。私の足は腐り落ちた。トレーナーとしてもテイオーに活躍させられなかったら、私にはもう何も残らない。」 茶封筒を懐に戻しながら、冷淡な声が返ってくる。痛みを、苦しみを堪えるほどに表情と声から感情が消えていく。 それを知っているから私は怒りを抑えることが出来た。一度深く息を吸ってから吐き出す。テイオーのトレーナーは、追い詰められている。他ならない自分自身に。 まるで鍔迫り合いのような緊迫した空気が流れる。 「視野を広く持つんだ、君は確かにスキルはあれど、トレーナーとして日が浅い。テイオーも中等部だ。  最初の3年、トゥインクルシリーズは重要だが、それが全てではない、ドリームトロフィーもある。  まだ二人とも、何も為せなかったと断じるのは時機尚早ではないか?」 「気休めだ。」 「だが事実でもある。君は自分を追い詰めすぎだ。気を休めろ、按甲休兵、菊花賞はまだ先。  君の覚悟はわかった、余計な口出しをしたことを謝罪しよう。」   しばらく互いに沈思黙考。トレーナーが身動ぎして、空気が僅かに緩む。 「いや、私も悪かった。だがこれはようやく見つけられた次の夢なんだ、テイオーを無敗の三冠バにして、お前を超えさせる。  そのためなら私は何でもする。………テイオーは、私を許さないだろうな、自分に勝手に夢を、復讐を託した非道なトレーナーなど。」 悲しげな、感情が籠もったつぶやきを漏らす。テイオーには随分心を開いているようだ、嫌われることを恐れるなど。 孤独にもがき続けてきて、やっと見つけた一条之光といったところか。それが私ではないのが少々口惜しいが。 「それはテイオーが決めることだ、私の百万言よりテイオーの一言だろう。」 「…そうだな。」 「そこは否定して欲しかったな。」 「お互い上辺の言葉で仮初の安寧を得るような質ではないだろう。もう戻っていいか?午後のメニューを考えたい。」 「ああ、構わない。最後に、コンシーラーでクマを隠すなら肌より少し暗い、そうだな、オレンジ系がいいだろう。」 「…………ふん。」 不満気に鼻を鳴らしてトレーナーが退室する。 帰りがけに売店でも寄って、コンシーラーを書い直すことだろう、だが普段化粧をしない人間が突然やり始めても違和感は拭えない。 テイオーに見破られなんと言われるかを想像してほくそ笑む。遺書など渡されそうになった仕返しぐらい、してもいいだろう。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「お前さん、ミホノブルボンと同じ工場で作られたって本当かい?」 トレーナー席の一番奥、一番上がそいつの定位置、レースが始まった直後に俺はそこに向かった。 トレーナーなら誰だって自分の担当の走りに熱中する。喜怒哀楽が激しいフクキタルのトレーナーはもちろん、普段おすまし顔したタキオンのトレーナーですらウマ娘達の一挙手一投足を固唾を呑んで見つめている。 だがこいつは、まるで窓から見慣れた風景を見つめているかのように何の感情も示さない。加えて本人が俺たち他のトレーナーと関わろうとしない。 だから正直トレーナー間での評判は良くない、人間仲良くしようとしない相手に好意的にはなれないものだ、加えてここ最近、自分の担当、トウカイテイオーに拷問じみたトレーニングを課しているとくれば尚更だ。 無敗の二冠バが故障寸前まで行ったと聞いてライバルの脱落に安堵するものが半分、トウカイテイオーに同情するものが半分だっただろう、ちなみに俺は後者だ。 それを打ち破るような菊花賞参戦表明は少なからぬ衝撃を呼んだ。車椅子乗りながら今度のG1に出ますだぜ?プレスリーが生きてたってニュースの方がまだ信憑性がある。 だから俺は興味を惹かれた、こいつにどんな勝算があってこの場に居るのか、何を考えてテイオーを菊花賞に出したのか。 まずは挨拶代わりにジョークを振ってみる、日本人は大抵戸惑って、愛想笑いで返してくるが、こいつはどうでるか。 「本当だ、実は私はトレーナー型アンドロイドの初期生産モデルでな。コミュニケーション能力と歩行機能に問題があるから次のバージョンからは改善されるだろう。」 軽く口笛を吹く、そう上手くはないが、ノってくるような奴とは思ってなかった。 「それで、何の用だ。親睦を深めに来たわけでもあるまい。」 こちらに目を合わせようともしない、拒絶とも取れる態度に俺も目的がなければ会話を打ち切っていただろう。 「お前さんの手腕を褒めに来たのさ。」 「本当の目的は?」 「何をしたか聞きたくてね、俺なら何を言われようと半年、もしかすると一年は休養させる。ウマ娘の足はガラスだ、細心の注意を払っていないと砕け散る。」 「同意する。」 「だがお前さんは最低限の休みからオーバーワークを繰り返し、菊花賞に向けて仕上げてみせた。見ろよ、先行どころか逃げに混じってるじゃあねぇか。」 レース開始直後の団子をトウカイテイオーは悠々とかわし、先行の集団から一つ飛び抜けている。そして逃げの最後尾にゴリラグルーでくっつけたみたいに剥がれない。 「別に何も、オーバーワークだが壊れない限度を見極めて、その上で故障しない可能性に賭けた。それだけだ。」 「芝の育て方みてぇなこと言いやがって、じゃああそこで走ってるトウカイテイオーは賭けに勝ったってわけか?」 順位はまだマヤノが先頭、テイクオフしたマヤノは最初から最後まで先頭を飛び続ける、燃料満タン、エンジンの調子は最高。悪いが病み上がりには二冠で満足してもらうぜ。 「そうなるな。」 「冗談じゃねぇ、レース一回のため脚をぶっ壊そうとしたのかアンタ。」 「結果的に壊れなかった。」 レースはマヤノが引っ張る形になっている、想定通り、だが俺は苛立ちを感じ始めている。レースの展開ではなく、この表情筋が死んだ鉄面皮野郎に。 「それにな、無敗の三冠バ、これは私とテイオーの夢なんだ。絶対になれると私はあの子に約束したんだ。約束は果たす、あの子が諦めない限り。」 「…………三冠バは誰もが見る夢だ。俺だって二冠まで手が届いてたら狙う、だが……ガキの未来を奪うわけにはいかねぇだろ…。」 理解できる、気持ちは理解できる、特にトウカイテイオーはシンボリルドルフ打倒を謳っている。一度のレースで勝つだけじゃない、功績の面でも勝つためには三冠バの称号は必要なものだろう。 だからといって、こいつの決断を支持は出来ない。 競技人生は始まったばかり、そこで長期の故障あるいは後遺症が残るようなことがあれば、ウマ娘としての一生を投げ捨てることになりかねない。 レースは残り半分を切った、順位は変わらず、だが縦隊が短くなってくる、トウカイテイオーの後ろについたのはビワハヤヒデ。 しかしトウカイテイオーは。 「振り向かねえな。」 「帝王が後ろや横を気にする必要はない。足音で聞き分けるように仕込んだ。あいつが見ているのは前だけだ。」 「ウマ娘は耳がいいが、そこまで出来るもんなのか?」 「私が現役時代にやっていたことだ、ヒトが出来るならウマ娘でも出来る。」 「なるほどな、そういやお前さんアスリートだもんな。」 「ああ。」 スパートまで動きはなさそうだ。そう考えて、少し雑談を振ってみる。いけ好かないが、能力があるトレーナーなのは間違いない。 「俺の足音もわかるのか?」 「ミリタリーブーツの、規則正しい足音と歩幅、軍人の歩き方だ。識別は比較的容易だな。足音を殺されたらわからんが。」 また小さく口笛を吹く、こいつ自身もウマ娘なんじゃないかと一瞬思うが、後ろでまとめられたオールバックのポニーテールから耳は生えておらず、ちゃんとヒト耳が頭の横にくっついていた。 「なら逆に難しいのはいるか?」 「アグネスタキオンのトレーナーだ、芝の上だろうと足音がほとんどしない。だが音は消せても、匂いで分かるがな。」 「ああ、あいつは俺でもすぐわかる。」 タキオンのモルモットとして妙な薬を飲んで、水色の髪にチョコレートの体臭、光るなんて体質になったイカれ野郎、人当たりはいいがちょいと敬遠されてる。 淹れる紅茶は絶品だが、コーヒーは絶対に淹れてくれん、よってコーヒー党としてはその点でも反りが合わない。 「第四コーナー、動くぞ。」 俺の思考を中断させるつぶやき。マヤノは一足先にスパートに入った。 テイオーはくっついているせいで前が塞がれている、抜かすためには横にずれる必要がありどうしても一歩遅れる、それはコンマ以下を争うレースでは致命的な差になる。 風除けとスリップストリームに他の奴を使うのはいい考えだが、それが裏目に出たな。 ちらりと車椅子に腰掛けた顔を見下ろす、そこには何の表情も浮かんでいない、焦りも勝利への期待も、何も。 酷く落ち着かない、どっちだ?諦めたのか?ここから勝てるのか?3バ身は差がある。マヤノなら振り切れる。 一歩遅れる、それがこっちの勝利を確定させる、その思考を最小限の動きで前を走る7番のウマ娘を躱したトウカイテイオーが打ち切る。 「Oh My gosh!マジかよ!」 そのままスパートで速度を上げるトウカイテイオー、まるで帝王のために自ら道を開けたような交差。ヤバい、ヤバい、差が縮まっていく。 「行け、テイオー。」 勝利を確信したつぶやき、うるさい。残り300、まだ差がある、きっと大丈夫だ。ああ最近日曜に教会行ってなかったな、でも頼むよ神様、マヤノは頑張ってきたんだ、後で懺悔でもなんでもするから、勝たせてやってくれよ。 G1だぞ、十分頑張ったとか、実力は出し切ったなんて下らない言葉を俺にかけさせないでくれよ。 残り100、完全に並んだ。 「マヤノォォ!!行けぇぇぇぇ!!!!!!!」 俺は喉が裂けんばかりに叫んでいた、届くだろうか。届いてくれ、お願いだ、神様。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 最も強いウマ娘が勝つと言われている菊花賞、その舞台、ゲートの中にボクは立っている。 京都の右回り3000m、実戦では初めての長距離、今まで積み上げてきたもの全てが試される距離。 冬に入りかけて、ヒヤリとした風にのって芝の香りが鼻をくすぐる。ボクはレース場に帰ってきたんだ。 ゲートのいくつか隣、マヤノの顔が視界に入った。他にも何人かトレセン学園で見かけた顔。でも関係ない、勝つのはボクだ、今日はボクのレースだ。 『10番人気は奇跡の復活なるか、8番トウカイテイオー。』 パドックで聞いたアナウンスが頭の中でこだまする。実力は十分とは言っていたけど、故障寸前から休養を挟んでのレースだから一着争いは難しい、入賞すらどうだろうか。 『だとか浅い事を考えていることだろう、よってお前の人気は低くなる。』 レース場に向かう車の中で、それをピタリと言い当てたトレーナーの言葉。 右足を一方後ろへ、視線はゲートへ、その向こうのターフへ。 頭の中ではトレーナーの言葉が続いている。 『評価なんぞ無視しろ、それで相手が見くびるなら得だ。さて戦略だが。  逃げの最後尾、そこが今回のお前の位置だ。』 ガシャン、ゲートが一斉に開く。それにボク自身が気付く前に体が駆け出していた。 数え切れないぐらい繰り返した練習が、体に染み付いている。 『お前は帝王だ、バ群の中に紛れるのが帝王か?いいや、そんなものに混じる必要はない、そんな位置取りに気を使うよりさっさと外に出てしまえ。そして分かれてから位置につくんだ。  加速のためのパワーも十分、それにお前は頭の出来は良くないがレース勘とポジションセンスに関しては天性のものがある、好きに動け。』 団子状態を避けて外に出る。無数の足音の中から逃げの足音を聞き分けて、その後ろにつける。 4つの集団に分かれていくその最先鋒すぐ後ろ、逃げの最後尾。 『風除けってのはあまりウマ娘達の走りでは重要視されていないようだが、中々有用だ。ぴったり後ろにつけ、コーナーでも直線でもぴったり真後ろだ。  お前にはそれが出来るスピードとスタミナをつけさせた。』 逃げの最後尾にぴったり付くのは逃げで走るのと同じだ、でもそれが全然苦しくない。 風を突き破りながら走らなくていい、それだけでスタミナが温存出来るのが分かる。 斜め後ろに誰かがついている、でも振り返る必要はない。トレーナーが足音でペースを見る方法を教えてくれた、まだ追いつかれない。それに。 『途中の順位は気にするな。お前は帝王、最後に一番前に居ればいい。』 トレーナーの言葉が、今まで教わったことが、全部、ボクの背中を押してくれる。 「先頭は相変わらずマヤノトップガン、続いて4番ジャラジャラ、7番デュオクストム、続いてトウカイテイオー、ビワハヤヒデ……」 実況が遠くに聞こえる、マヤノが先頭なんだ。じゃあ前の一番遠くにある足音がマヤノだ、次に4番、すぐ目の前に7番。後ろのビワハヤヒデは位置をキープ、まだ抜いてこない。 『差しや追い込みは無視しろ、足音を聞く必要すらない、聞くのは前方とすぐ後ろだけだ。  それでも位置を把握するだけだ、風除けのペースに合わせることに注力しろ。』 すぐ後ろ、すぐ後ろ、前で揺れる背中にくっついていくことだけを考える。 実況ももう聞こえない、耳には足音が、頭にはトレーナーの声だけが響いている。 第四コーナー、ここでほんの僅かに目の前の背中が右にぶれた。 『利き足というものがあってな、体は左右対称じゃない、利き手のように足も片方がほんの僅かに長く、強い。  普通スパートをかける踏み切りはそっちの足でかける、つまり片足だけ強い力で踏み出せば、かなり訓練していない限り反対側に体がぶれる。  それを見たらもうそいつは用済みだ、こっちもスパートをかけて追い抜け。お前の足首の柔軟性は特筆に値する、少しばかり捻れてもそのまま全力をかけていい。』 一つ大きく息を吸い込んで、スパートにかかる。7番、4番をすぐに追い抜いて、マヤノの背中がどんどん近づいてくる。 肺に冷たい空気が入り込み、吐き出す息は白いもやになる。後ろにいくつもの足音が聞こえる、関係ない、前だけを見ろ、前だけを目指せ。 『最後は根性だ、非論理的だがな。お前は地獄から這い上がってきた、今回出場するウマ娘で他に誰も見ていないような地獄をな。  それを見せつけてやれ、お前達とは違うと、我こそ帝王とな。』 倒れ込むギリギリまで体を傾けて、走り続ける。手を伸ばせば届く背中、残り200、並んだ。 歯を食いしばり、全身全霊を振り絞って走る、手足の感覚がなくなって、視界が周囲から白くぼやけていく。 走る、走る、走る、マヤノを抜いた?わからない、あと何m?わからない、ただ走って、走って、走り続けてる。 「……オーちゃん!テイオーちゃん!!」 遠くからマヤノの声が聞こえる、足音は聞こえない、代わりにお客さんの歓声が、だんだんと耳に入ってきた。 「……オー、見事三冠達成!!!今ここに最強のウマ娘が誕生しましたぁ!!!!」 実況の声、三冠?誰が?二冠取って、これが三冠目、菊花賞、トレーナー、三冠? 速度を緩めながら後ろを見れば、もうゴールは随分後ろで、マヤノが追いかけてきていた。 「テイオーちゃん!レース終わってば!」 「レース、終わった?……誰が勝ったの?」 「何言ってるの!ほら、掲示板!」 掲示板、一着6番、6番誰だっけ、あ、ボクだ。ボクが? 「ボクが、勝ったの?」 「そうだよ!三冠おめでとうテイオーちゃん!」 飛びついてくるマヤノを受け止めながら、その言葉を反芻していた。三冠、三冠、無敗の三冠バ。 「やったー!!!」 ボクは両手を上げて観客席に向けて振った。大きな歓声が返ってくる。やった!やった!ボクは、カイチョーにまた一歩近づいたんだ!! ……⏰…… 「トレーナーちゃん!マヤ頑張ったよ、褒めて褒めてー!」 「ああ、よく頑張ったな。」 「うん、マヤ、精一杯走ったよ!でもテイオーちゃんの方が早かったみたい、残念!」 「わかってる、メニューを見直す。次は勝とう、だから、我慢しなくていいんだ。」 「マヤ、何も、我慢、してないよ。平気、へっちゃら、でも、でもっ………っ!……っぐ、うぅ……ごめんね、ごめんねトレーナーちゃん…!トロフィーあげられなかった…!!マヤが、もっとちゃんと…っ、走ってれば…!」 「お前はよくやったよ、それでも負ける時があるのが勝負だ。今は存分に泣いて、悔しがれ。  大人になると、悔しがるのも、泣くのも、やり方を忘れちまうんだ。」 「ひっぐ……えぐ…っ!わあああぁぁぁぁぁぁん!!」 「勝とう、次は勝とうな。一緒に勝つんだ。俺達が帝王を追い落とすんだ。」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「トレーナー!勝ってきたよ!指、三本目!」 トレーナーが待っている控室、ボクは三本指を立てながら地下バ道を駆け抜けて、走り込んだ。 「ああ、見ていたよ。いい走りだった。」 「えへへ、頑張ったよ。ゴールしたのも気づかなくて、マヤノに呼び止められちゃった。」 200m以上のオーバーラン、もしかしたらそのままコーナーまで曲がってたかも知れない、少し恥ずかしい。 「大分余計に走ったな、スタミナが余っているようで何より、次は全体のペースを上げるメニューで行くか。」 すぐに次のレースに向けてバインダーに挟んだページにメモし始めるトレーナー、全く!三冠バ様の前だというのにケーイが足りない! 「違うでしょ!ほら!」 その顔とバインダーの間に頭を無理矢理差し込んで、いつかの約束をお願いする。 「ああ、悪い。私もいささか興奮しているようだ。よく頑張った。」 初めての時に比べたら遠慮がなくなってきた撫で方。 レースの後は欠かさず、トレーニングも上手く出来た時におねだりすれば、トレーナーは最優先でボクを撫でてくれる。 トレーナーの手はいつも温かい、ボクの体は今燃えるように熱くなってるけど、それでも温かいと感じる不思議な熱を持ってる。 きっとトレーナーの手は魔法の手だ。どんなに辛いトレーニングも、撫でられたり褒められると、また頑張ろうって思える。 でも、今日は……ちょっと……。 「走りきってくれた、ありがとう……。良かった……良かった……。」 トレーナーの手にはいつもより熱がこもっていて、ついには両手でボクの頭を抱きしめてしまった。 「………ありがとう、テイオー。耐えてくれて……あの日、お前が倒れた景色が何度もちらついた……。  同じ過ちを、お前の身体で繰り返してしまうのではないかと……。だがお前は走って、勝利までした……ありがとう…。」 撫でる手が少しだけ震えている。トレーナーはずっと怖かったんだ、ボクがこれ以上怪我することが、三冠バになれないことよりずっとずっと、怖かったんだ。 けれど、ボクのためにずっと押し隠して、なんでも無いように振る舞ってくれてたんだ。 膝をついてトレーナーの胸に顔を埋める、ボクもトレーナーの背中を抱きしめる。 ありがとう、トレーナー。ボクのわがままに付き合ってくれて。 三冠バ、なれたよ、トレーナーのおかげだよ。もっともっと迷惑も心配もかけるかもしれないけど、一緒に頑張ろう。ボク達の夢のために。 「質問ッ!そろそろ構わないかな!」 「うおっ!」 「ひやっ!?」 突然部屋に響く声、リジチョー?!いつの間に!?びっくりして急いで離れる。 「失礼ッ!何度もノックをしたが聞こえていなかったようなので入らせてもらった!  早速ッ!トレーナー君に返却したいものがある!厳命ッ!二度と道半ばでこんなものを書かないように!!」 リジチョーは少し怖い顔をしながら封筒をトレーナーに渡す。隠すように懐に入れられるそれに書かれた文字が一瞬見えた。 「たいしょくねがい…退職願?!どういうこと!!」 「驚愕ッ!担当に何も伝えていなかったのか!独断ッ!このトレーナーはもしトウカイテイオーが故障したら受理するようにとシンボリルドルフに預けていたのだ。」 「何それー!!失敗したら勝手に辞めてさよならするつもりだったの!?隠し事はなしって前に言ったじゃん!!」 「いや、それは………その……。」 一緒の夢を目指していたのに、一人で降りる準備してたなんて!こんな無責任な話ないよ! それに何で預ける先がカイチョーなの!!ボクに相談しないでカイチョーには話してるなんて絶対おかしい!! 「私なりに…故障させた時の責任を……取ろうと………。」 「非理ッ!それは責任ではなく逃避である!残されるテイオーの気持ちを考えなかったのか!懲戒ッ!私からは不問とするが、当人にこってり絞られるといい。ではな!」 リジチョーはまだ怒っているようで、バタンと音を立ててドアを閉めていった。 残されたのは、リジチョーより怒っているだろうボクと、居心地悪そうに床を見つめているトレーナー。 「トレーナー。」 「…………ああ。」 「それ、出して。」 「……………。」 懐から退職願を取り出すトレーナー、それを奪い取って、ビリビリと破いてしまう。それをまとめてゴミ箱に投げ込んだ。 「他に何か隠してることはない?!」 「……………いや………。」 「あるんでしょ!!」 なかったらこんな口ごもるわけがない、こうなったら全部吐き出させてやる! 「ルドルフに………もう一つ、預けようと思っていたものがある……。受け取ってもらえなかったが……。 もう一つは、茶色の封筒、シワひとつなかった退職願と違って、何度も握りしめたみたいにくしゃくしゃになっている。 「…………遺書だ。」 頭に昇っていた血が一気に冷めていく。トレーナーは健康だって前に言ってた、じゃあ、もしボクが故障してたら……。 「死ぬつもりだった。アスリートとして死んで、トレーナーとして拾われた命が、それも出来んとなったら、もう生きている価値など…」 乾いた音が響いた。ボクがトレーナーの頬を叩いた音。 「………それ、本気?今回は良かったけど、次、ボクがキミのせいで故障したら死ぬつもりなの?」 「………………。」 沈黙の後、トレーナーはボクが退職願にしたように、茶封筒をビリビリに引き裂いて、ゴミ箱に投げ捨てた。 「これが納得してもらえるかな。これは私の迷いだった。理事長の言う通り逃げ道だった、失敗した時に備えていた。勝負する前から負けた場合を考えていたんだ、お前は前だけを見ていたというのにな。」 「そうだよ、ワガハイは無敵のテイオー様!!トレーナーもそれに見合う自信を持ってくれなきゃ!!」 「ああ、全くだ。そろそろウィニングライブだ、行って来い。特等席で見させてもらおう。」 「ちょっと遅れても大丈夫だよ、これから何度も見せてあげるから!」 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