いつも見てくれている貴方に深い感謝を捧げます 1 私が幼いころから、自慢のお姉ちゃんは良く同い年の男の子と一緒だったのを覚えています。 私が生まれる前からの付き合いだったみたいで、誕生日にプレゼントを贈り合ったり家族ぐるみで遊びに行っていたりしたみたいです。私も物心つく前は良く遊んでもらっていたようですが、私が小学生になり姉たちが制服を着るようになると、だんだん大好きな姉を独占されたように感じてしまってその人にはいたずらをしたり、悪口を言ったりして姉ともども困らせてしまっていました。だって「私この人と結婚するのよ」なんて姉は言いますし、大きくなったら本物と交換するのなんて言って指輪までプレゼントしあってたんですよ。子供のくせにー!いえ私もまだまだ子供なんですが。 ウマ娘としてトレセン学園からスカウトが来た時も、遠くに行くのをいったん断ろうとしてたみたいですしね。その時も「彼、私のトレーナーになってくれるんですって。だから先に行って待ってるつもりなの」なんてその男の子から説得されたみたいですし。オサナイフクキタルが寂しいから行かないで―っていうより効力があったんでしょうか。ふんぎゃろう。 でも、それは叶わなくて。ずっと一緒だった男の子もお姉ちゃんのお葬式の時に挨拶をしただけでそのあとは一度もウチに来ることも姿を見ることもありませんでした。 そして時はずっと流れてなんと私がシラオキ様のお導きによってトレセン学園に入ることになって、トレーナーさんと出会いました、いやぁ正に運命的でしたね! そのあとも私にはもったいないほどキラキラした思い出も作ってもらって、最近の想い出はアイアンクローでしたが!でもトレーナーさん、私を見た時一瞬だけ幽霊を見たような顔をしましたよね、私はそのことがなぜだか頭から離れずに最近まで不思議に思っていました。 でも、トレーナーさんが疲れてトレーナー室で居眠りしているとき、見てしまったんです、机の横に置かれている、いつも大事そうに服の中にしまって見せてくれなかったネックレス、その先に付いた見覚えのあるおもちゃの指輪を。その時の私の気持ちが分かりますか。私自身にも分かりませんでした。 まるでその指輪は「とっちゃだめよ」と言っているようで…シラオキ様、シラオキ様は何故私をトレセン学園に…どうしてこの人のことを好きになってしまってから、こんな…誰か教えてください。私はどうすれば良いのでしょうか。シラオキ様は何も言ってはくれませんでした。 2 「なんであの子といつも遊ぶの! もう大きいのに男の子と遊ぶとか変だよ!」 小学生に入りたての私は、制服を着ても同じ男の子と一緒に遊ぶ姉が嫌でした。だって姉と遊ぶときはだいたいその男の子と一緒だったんですよ、私の生まれる前からの付き合いといっても、姉を独占されたようで嫌でした。 「もう、あの人嫌い! 何でお姉ちゃんはあんな奴が好きなの!私大っ嫌い!」 私がそう言って、男の子に紙で丸めたボールを投げるとお姉ちゃんもその男の子も困ったように笑うだけでそれが何だか子供の私にはさらに気に入らなくて、だるままで投げたような気がします。今思うとスイマセン実家の割れただるまさん。 「もうちょっと大きくなったら、貴方だってあの人の事好きになるかもよ?」 「絶対にならない、ぜーったいならない!」 「さぁ、どうかしら。でも好きになってもとっちゃいやよ?」 そういって笑った姉の顔は取っても綺麗でベロをべーっと出しながらもいいなぁっと心のどこかで、ウラヤマフクキタルになったことを覚えています。女の子はトレセン学園でスターに、男の子はその子のトレーナーに、それが二人の約束でした。 でも女の子は死んでしまって約束は果たされることはなく、男の子は…男の子は…。 「トレーナーさんはいつから気づいていたんですか、私がお姉ちゃんの妹だって…」 夕暮れの光に照らされながらトレーナーさんは何も答えず、姉が子供のころ送ったおもちゃの指輪をすこし弄るだけでした。それが何だか途轍もなく嫌で、私は近くの紙を丸めるとトレーナーさんに投げつけて、背を向けて走っていきます。どうして、今になってこんな気持ちになってから、こんな。 「待ってくれ」トレーナーさんの引き止める声が聞こえてきますが、私はこれ以上この場にいたくなかったので 「明日のレースの作戦会議まだだろ」 「ズコーーーーーーーー!!」 思わず足の力が抜けて床にコロガルフクキタル。え、この流れで作戦会議するんですか!? 今!? 読めない読めないと思ってましたがトレーナーさん此処まで空気を無視する人でしたっけ!? ずっころげた私の襟を引っ張って部屋の中へと戻していきます。行動まで塩! さっきまで私シリアスでしたよね? 日本海まで死海にしてしまうまでの勢い! 「い、いや…トレーナーさん。本当にやるんですか? 今お姉ちゃんの話でものすっごい空気がワルワルでしたよね? 私結構シリアスフクキタルだったんですけど、これ普通のドラマじゃ悪手も悪手じゃないですか? 悪手と握手してますよ!」 「レースもレースで大事だ」と彼は言いました、どういう神経しとるのだいったい!「走るのはフクキタルだ。話はちゃんとする」 長年の付き合いです、逃げようとしたら次はアイアンクローが飛んでくるのぐらい私には分かっていたので、雰囲気の高低差にちょっと心の足首を挫かれそうなままトレーナーさんと作戦会議を始めていきます。なんなんですかコレ、なんなんですか私のトレーナーさん。心臓に毛が生えてるんですか、感情が分からない系の人なんですか! 「ひ、一つだけ…今の私って、お姉ちゃんに似ていますか?」 少し緊張の色を出しながら私がそういうと、トレーナーさんは私をじっと見つめ、そして瞳の奥で私ではなくどこか遠い光景を映し出していました。 「似てるわけないだろ」トレーナーさんは言いました、それはそうでしょうお姉ちゃんと私では美人レベルの差が違います。「フクキタルはフクキタルだ。フクキタルの良さがある、やかましいところとか」 「ふんぎゃろおおー!!」 目の前のスンっとした顔が昔の男の子に重なって、私は抗議の声を上げました。お姉ちゃん、やっぱり昔からこの人のこと大っ嫌いです。 3 「お姉ちゃん、昨日あの人と何してたわけ?」 「うふふ、内緒」 私がまだ小さいとき、お姉ちゃんがトレセン学園へと出発する前日。ずっと一緒だった男の子は家にちょっと寄ってすぐに帰っていったので不審に思って隣の布団にいるお姉ちゃんに聞いてみました。 「ふーん、アイツ明日見送りに来るの?」 「ううん、来ないって」 「やった!」 私はその男の子にお姉ちゃんを独占された気がして、とても嫌いだったのでそう聞いて布団の中でヨロコビフクキタルのポーズをしました。私考案のマネキネコのポーズです。ふふふ、想像してみてください…可愛いでしょう…。 でも反面、なぜか何で見送りに来ないんだいつも一緒にいるくせに、と思った私もいました。子供ですからそれが何だかわからずに悶々としていると、お姉ちゃんは少し笑って私の方に寝返りをうちました。 「あの人ね、私のトレーナーさんになってくれるんですって。だからその時までは逢わないって、応援はテレビでしてやるーですって」 「とれーなー?」 「つまり、一緒にいてくれるってこと」 「えーなにそれー!やだー!」 「いいじゃない。それにあなたもウマ娘なんだから将来トレセン学園で走るかもしれないのよ? そうしたらあの人はもうトレーナーになってるだろうし、誘われるかも? あ、そうなったら私と勝負か、担当の座は譲れないなー」 「絶対ならない! アイツと一緒とかぜったいいやー! そもそもお姉ちゃんに勝てるわけないよ、美人で足も速いんだから」 「ふふ、貴方だってきっと将来足が速くなって美人になるわよ」 そういってお姉ちゃんは私を布団の中に入れてくれて、久しぶりに一緒に眠らせてくれました。次の日泣きながら電車に乗るお姉ちゃんを見送ると、遠くの方でバレないように見送っている男の子を見つけて石を投げた記憶があります。頭に当たりましたけど大丈夫でしたかトレーナーさん。 「そう言えばトレーナーさん、あの時お姉ちゃんとナニをしてたんですか」 「イントネーションが気持ち悪いぞ」 そうして時は流れて、練習終わりにトレーナーさんと歩く夕暮れ道、あのころから変わらずすました顔で憎たらしく、さらに塩対応が加わった男の子は私のトレーナーさんです。お姉ちゃん良かったかもしれませんよこんなアイアンクローしてくるトレーナーさんが担当じゃなくほぎゃあああああ!なぜ口にも出してないのにアイアンクローをぉおお!? 何にも心当たりありませんけどおおおお!! 「そう言えば新しい水晶買っただろう、バッチリ報告が来ているからな」 心当たりありましたあぁぁぁぁ!? な、なぜバレ…はっスズカさんに目撃されていた気がっ…しかしケーキで買収したはず…ッ! 「スズカさんにはこちらで先にケーキ二個で契約を結んでもらっている」 ぎゃああああ!先に買収されてたぁぁぁぁ! というかスズカさんケーキ三つ食べてるじゃないですかあああああ!ぎゃぼおおおおん! 追加でお説教を喰らい、もう二度と黙って買いませんの復唱と共に契約書までかかれてやっと解放されました。ひりひりする頭をさすっていると、トレーナーさんは服の中にあるネックレスにぶら下げたお姉ちゃんからもらったおもちゃの指輪を軽く握りしめていました。 「キスされて、『浮気しちゃだめだよ』だってさ」 トレーナーさんは遠くで走っているウマ娘さんたちを見ながら、静かに呟きました。その瞳が何だかとても悲しくて、苦しいよと叫びだしがっているようで、私は… 「えっ、キス? キスしたんですかトレーナーさんおねえちゃんと!? ウワーッ! 子供だったくせにそんなことを! えっじゃあお互いファーストキスだったんですか? その前になんかいかぎゃぼおおおおおお!」 トレーナーさんからまたアイアンクローを喰らいました。 ありがとな。と軽く言われましたがどういたしましてという気分ではありません。あー痛い、もー昔からこの人大嫌い。 4 「何でお姉ちゃんあんな奴好きなの、この前私にこめかみをぐりぐりーってしてきたんだよ!」 「それは貴方があの人にだるま投げたからでしょ、危ないからやめなさいって言っているのに」 私が小さいころ、お姉ちゃんは同い年の男の子とずっと一緒でした。男の子とお姉ちゃんは同じ病院で同じ日に生まれたといいます、だから私が生まれる前から二人とも自分が血のつながった双子だとも思えたそうです。いやはや運命的です。ちょっと妹の立つ瀬がなくないですか? 子供のころの私もそう思ったのか男の子が嫌いで、ずっといたずらばっかりしてました。だって春も夏も秋も冬もお正月もお盆も小学生になっても中学生になっても、お姉ちゃんがトレセン学園にスカウトされるまで一日たりとも一緒じゃない日はなかったんですよ。 親なんかはお互い将来は安泰ねなんて言っていたし、孤独な戦いでしたよええまったく、もちろん私もお姉ちゃんといつも一緒だったつもりです。 「ずーっと一緒にいて! これから先もずーっと一緒にいるの?」 「そうねー…うん、一緒にいる。ずっと一緒にいますように…三女神様にお願いするのはその夢だけかな。だからトレセン学園に行っても寂しくないの、きっと迎えに来てくれるから」 「うえー変なゆめー」 だからお姉ちゃんが死んでしまったとき、私は心の一部にぽっかりと穴が開いたようでした。もう一人の自分と感じていた男の子の方はどうだったのでしょう、私では想像もつきません。 お姉ちゃんが恋焦がれて見た夢は叶うことなく。男の子は一人、約束の場所で過ごし今はお姉ちゃんではなく私のトレーナーさんとなっています。お姉ちゃんが見たらなんていうでしょうか、「とっちゃだめよ」の声が時々響いてきます。シラオキ様は何も言ってくれませんし。 「私、お姉ちゃんの年をとっくに追い越しちゃったんですね。もしお姉ちゃんが生きてたらどんな感じだったんでしょうか。美人でしょうね〜昔から美人でしたから〜ぬふふ」 「知らん」 塩。トレーニングの帰り道夕日に照らされながら、和気あいあいと話そうとしたところでコレです。確かにトレーナーさんがあの男の子と気づいてからお姉ちゃんの話題が多くなりましたが、そのほとんどが塩対応となっています。トレーナーの塩で売りに出せますよコレ。 「はたまたしょっぱいこと言わないで〜トレーナーさんだって気になったりしないんですか? お姉ちゃんと同い年何でしょう? もう立派な大人になって結婚してたのかなーとか」 「考えたことなんてないな、なにより死人は年を取らない。フクキタルは年を取るし、成長する、つまりタイムを伸ばすために練習を増やせる」 「ぎゃぼーん!? いきなりそっち方面に持ってくのやめてぇ!? やっぱ私は年を取りません、マチカネフシキタルになりいでっ」 そういう私にチョップを食らわせてからトレーナーさんは頭をチョップしたばかりの頭をわしゃわしゃと撫でました。そのトレーナーさんの顔は夕日のように優しく静かに微笑んでて、お姉ちゃんもこうやってこの人を好きになったのかな。と思ってしまいました。 「じゃ、じゃあ…私はどうですか? 昔と比べて綺麗になりました…?」 「…それは」 「ふべっ!」 と、その時向こうから走ってきているウマ娘さんが小石を足に取られて盛大に頭からダイブ。絶対にいたいですよ、恐らくは今日のアンラッキーアイテムは四角い小石だったのでしょう、こういうことがあるから日々の占いは欠かせません。ホントホント、フクキタルウソツカナイ。 「はぅ〜…また鼻血が…私ってなんでいつもこうなんだろう〜…」 「だ、大丈夫ですかー!? これを使ってください、金運が良くなる絆創膏です! ついでにこの魚のフィギュアは何度でも立ち上がるという何でトレーナーさんは私にアイアンクローをぉお!?」 「それ前に持ってなかっただろ、買ったなフクキタル」 「し、しまった…墓穴をあいででで!?」 「す、すいません、ありがとうございます〜」 ふと、私の頭を掴むトレーナーさんの手が緩みました。不思議に思っていると、トレーナーさんは顔を上げて笑顔を見せる転んだ彼女の方を見て固まっていました。そして私も固まることになります。 その娘は鼻血を出していましたが、その顔は、まるでお姉ちゃんが成長して帰ってきたかのように、本当に、本当にそっくりで…まるで生き返ったかのように、笑顔まで、瓜二つなのでした。 5 「もー! お姉ちゃんはアイツとわたしどっちが好きなの! この前手を握りながら帰ってたでしょ! 友達から笑われたんだから!」 「どっちも好きよ? いいじゃない手を握って帰っても、そんなのずっとやってるし」 「いつもやってるの!? もう、お姉ちゃんきらい! しんじゃえ!」 「ひどーい。じゃあ化けて出てあげよっと」 「死なないとかじゃないの!?」 私はお姉ちゃんに勝てたことがありません、いつも一緒にいる男の子と合うのをやめて言っていっても、トレセン学園に行くのをやめてって言っていっても優しく諭すふりをして男の子の方を優先したんです。いえ、もちろんちゃんと姉らしく世話を焼いてくれたのですが、お出かけするときも誕生日とかでも男の子が一緒だったんですよ。いくら家族ぐるみの付き合いとはいえ、あんなにイチャイチャされるとお姉ちゃんを取られた気がして、ヤキモチフクキタルです。ハイ。 だから時々死んじゃえとかも言っちゃいましたが、本当に死んじゃえとは一回も思ったことはありません。だからお姉ちゃんの言った通り新じゃった後、幽霊でもいいから会いに来てほしいずっと思っていました。男の子もそう思っていたのでしょうか。 でもだからって、こんな風に私たちの前に現れるとは誰が想像ができるでしょうか。目の前の転んだ女の子を助けたら、それが成長したお姉ちゃんのように顔も目もどこもかしこも、全てがそっくりな女の子なんて。信じられますか? 「えっと、大丈夫〜ですか?」 鼻血をだしている女の子は、自分を見て固まっている私とトレーナーさんを逆に心配したようで恐る恐る聞いてきました。 「あっ、ハイ! 大丈夫です! すいません、えっとっと鼻血以外にはお怪我はありませんか?」 「うん、鼻血はいつものことだから! 多分大丈夫!」 そう言って笑った顔もお姉ちゃんそっくりで、ふと隣でトレーナーさんがお姉ちゃんの名前を呟くのが聞こえました。ハンカチとティッシュ、ついでに金運アップの絆創膏をお貸しするととても喜んでいただけて、静かでお淑やかだったお姉ちゃんとは違って性格は中々活発で明るい方だとお見受けしまします。 名前はマチカネタンホイザ、そう自己紹介いただけました。 「タンホイザさんは私より年上なのに中等部なんですね? あいたっ、トレーナーさんなんで頭をチョップするんですか!」 近くのベンチに座って、トレーナーさんから奢ってもらったお茶を飲みながらおしゃべりをしていると。隣で立っている彼から無慈悲の脳天チョップ、乙女の頭でも昔から容赦のない人です。 「あはは…実は昔は体も弱くて、デビューも遅れ遅れで…専属トレーナーさん募集と申しますか…」 あっ、チョップされた意味が分かりました。私はトレーナーさんと運命的な出会いを果たしましたが、このトレセン学園はトレーナーさんの数は慢性的な不足状態。トレーナーがついてくれずに学園を去る子も多いと聞きます。ぐぬぬ、私としたことが大凶的質問をしてしまうとは… 「でも、みんなの期待は裏切りたくないし、何の武器もない普通の私じゃみんなについていくのも精いっぱい。だからこうして自主練をして成果を出して、トゥインクルシリーズに出れるようになりたいなって! 」 性格は違いますが、やっぱりお姉ちゃんと似ています。何事にも精いっぱいで色んな努力もしてそれを楽しんでいて…足りない物を幸運グッズと運で埋めている私とは正反対です。トレーナーさんもお姉ちゃんのこういう所を好きになったのでしょうか。 「すごい…ですね。私とは大違いであいでっ! 何でまたチョップ!」 「お前も努力をしている」 あっ、トレーナーさんがデレました! 珍しくデレましたよ! 皆さん聞きましたか、ぎゃっ! 明日は雨かと呟いただけで何でまた頭を掴むんですか! 「そうそう!フクキタルちゃんのレースもちゃんとチェックしてるよ! すごいパワーで馬郡をぎゅーんっと、憧れるなぁ! さ、私もまだトレーニングが残ってるし、がんばるぞー! えいえい、むんっ!」 そうしてタンホイザさんが勢いよく立ち上がると、ふと彼女の脚ががくりとよろめいてまたまた頭からの落下コースになります。慌てて私が手を伸ばしますが届きません。 「あっ…」 そこにトレーナーさんの素早く腕が回されて、タンホイザさんの体をそっと包みました。トレーナーさん、自分でも思わず反応したみたいで目が丸くなっています。ついでにタンホイザさんも目を丸くしています。ですが彼女を支えた時ホッとしたようなあの顔は、ずっと前に何度も見たことがある顔でした。お姉ちゃんが転びそうになった時に支えた時の… 「足首を痛めてる、今日は保健室で見てもらって休んだ方がいい」 そっとベンチに彼女を戻すと、トレーナーさんはそういいました。 「大丈夫です! さっきはちょっとふらついただけですぐに元に」 「ダメだっ!!」 トレーナーさんの声が周りに響きます。こんな声、私でも滅多に聞いたことがありません。思わずタンホイザさんは口をつぐんで呆気にとられたようで、それを見たトレーナーさんはまたハッとして目を逸らして「すまない」と一つ謝りました。 「でも怪我をしたら、どうする。フクキタル、彼女を保健室に…頼む」 「は、はい…」 トレーナーさんは私に頼むと、一人どこかへと歩いていきました。夕日に伸びた影がとても小さく見えます。というかこの状況で私を残すってどういう神経をしているんですか! 滅茶苦茶気まずいじゃないですか! 塩! 塩対応トレーナー!死海! 「えっと、その…そういうわけなので。保健室行きましょ? あぁ見えてトレーナーさんはいつもはあんな大声出さないんですよ、はい。ちょっと今日は大凶だったので機嫌が悪かっただけで」 「あ…うん…ありがとう。フクちゃんのトレーナーさんって、優しいね」 「ええー? 私の頭にアイアンクローをねじ込んでくるトレーナーさんですよー! まぁ時々、ほんのちょっぴりだけ優しいところはありますが! いっつもふんぎゃーってされますハイ」 「でも、初めて会ったばかりの私にあんなに本気で怒ってくれたんだから。きっと優しいよ」 ふと彼女を支えて歩くと、タンホイザは一つ振り返りトレーナーさんがいた場所を少しだけ見つめました。やめてください、その目はずっと前に何度も見てきたんです。やめて、お姉ちゃんの眼でトレーナーさんを見ないで。お願いだから。 6 お姉ちゃんが死んでしまった後、私は良く夢を見てました。大人になったお姉ちゃんが大歓声に包まれながらレースで一着を取る夢です。 私はというと観客席で家族と共にそれを見ていて、レースを勝ち取ったお姉ちゃんはスタンド向かって手を振った後、違う場所で待っている同じく大人になった男の子の方に行って喜びを分かち合うのです。 ウマ娘のスターになったお姉ちゃんと、トレーナーになったずっと一緒の男の子。お姉ちゃんが恋焦がれて見た夢は、私の夢の中では叶っていて、それが何だか悔しくて私は大声を出しますが、歓声に呑まれて全く聞こえません。 何でそんなに嬉しそうなの、その人はお姉ちゃんのお葬式で眠っているお姉ちゃんを見ても涙一つ流さなかったんだよ、他の皆はいっぱい泣いていたのに。どうして私の夢の中まで一緒なの。 しかしその夢は、私が成長してトレセン学園に来てトレーナーさんと出会ってからは、全く見なくなりました。きっとトレーナーさんと出会ったからだろうと、そう思っていました。私がお姉ちゃんの夢を代わりに叶えるようになったのだと。 しかしその夢は、私が成長してトレセン学園に来てトレーナーさんと出会ってからは、全く見なくなりました。きっとトレーナーさんと出会ったからだろうと、そう思っていました。私がお姉ちゃんの夢を代わりに叶えるようになったのだと。 でも、お姉ちゃんにそっくりのタンホイザさんに出会ってから、また夢を見るようになりました。違っていたのは、お姉ちゃんではなくそれがタンホイザさんになっているということ。もしかしたら、これは天からの御告げなのでしょうか。シラオキ様は何も言ってくれません。でももしかしたら… 「トレーナーさん、タンホイザさんのトレーナーになってあげたりしないんですか?」 さんさん太陽が降り注ぐお昼時、トレーニングでのコースに向かう途中でふとトレーナーさんに聞いてみました。 「ない」 返ってきた答えがこの二文字。こんないい天気の日に塩でも作ってるのかといいたいぐらいの塩返事。わたしゃあもう慣れたもんですが、他の子だと心が折れるじゃあないでしょうか。 「えっと、いやすごい簡潔に返ってきて戸惑うんですが…でもタンホイザさんはその…あんなにお姉ちゃんと…トレーナーさんはこれが三女神様が約束を叶えさせてくれるために、なんかいい感じに起こしてくれた奇跡とか思わないんですか?」 「だったら俺は先にあの子を殺した三女神とやらを恨む。タンホイザはタンホイザだ、あの子じゃない。混同してタンホイザに死人を重ねながらトレーニングするのは失礼だ」 そうすらすらと言われて少しオチコミフクキタルになってしまったのでしょうか、私の表情を見てくしゃりと頭を撫でました。その手つきが昔とそっくりで少し、胸にサクッと何かが刺さったような気がします。 「タンホイザが選ぶことだ、気にしてくれてありがとな。それに俺はフクキタルの専属のままでいいと思ってる。というかフクキタルで精いっぱいなんだ、問題対応で」 ムッキー!珍しくお礼を言ったと思ったら追加で余計なことを言ってらっしゃるーー! 一言余計なこと言わなきゃ本心言えないタイプですか! 私と同じですねふんぎゃろー! と思いつつ、やはり私はタンホイザさんの事を諦めきれませんでした。 私はもう十分幸せです。ですが貴方の幸せは何処にあるのでしょうか。だから私は貴方が昔見たことがある目でタンホイザさんを見ていても耐えられます。 「あ、おーい! フクちゃん〜!」 ふと私の後ろから声がかかったので振り返ってみると、タンホイザさんが笑顔でランニングなのかこちらに走ってきながら手を振ってました。お姉ちゃんの笑顔とそっくりなので一瞬びくっとしちゃいました。ええ、鏡で映したようにそっくりです。トレーナーさんも肩を少し跳ねさせました。 「今からトレーニングかなーとおもってこっちでランニングしててよかった〜! フクちゃんとトレーナーさんには改めてお礼を言っておかなきゃっておもって、どうもありがとうございました!」 「いえいえ、こちらこそトレーナーさんが大きな声出しちゃって。怖い顔してますけど本当は優しいんほんぎゃあ!」 「余計なことは言わなくていい」 がしりと頭を掴まれましたしまった、完全にまな板の鯉です。下手すればそのままシメられる可能性大! 「タンホイザさんも、この後コースで練習ですか?」 「あっえっとー…この時間、コースでの練習はトレーナーさんがついている子が優先だから外で練習しようかなーって。えへへ」 ぎゅっとトレーナーさんの手に力がはいりいだだだだ! すいません、また余計なことを言ってしまいましたー! いや大体私は初めからトレーナーさんがついてくれたのであまり知らなかったんですよーー! 「あたたた…タンホイザさんっていつもどんなトレーニングをやっているんですか?」 「えーっと今日は…」 そういって取り出したるは一つの分厚い手帳、そっと横から覗いてみると文字でびっしりと埋まっています。誰かに聞いた練習のコツやトレーニング方法が書かれていて、見るからにハードスケジュールです。トレーナーが付いている娘よりもハードなんじゃないでしょうか。 「えっ、これを一日で…大丈夫なんですか!?」 「うぇっ…普通の量だとおもうけど…それに私早くみんなに追いつきたいしもっと筋トレとか増やしたいなーって…ってあわわ! ぐちゃぐちゃの文字だからあんまり見ないでフクちゃん〜!」 それにそこかしこに書かれている「頑張ろう」の文字。この人は努力を努力と思わずにできるタイプのようです、できれば楽がいいな〜と思っちゃってトレーナーさんからしごかれる私とは正反対。お姉ちゃんみたい。でもこの量はちょっと、前に足首を痛めたのも当然です。 「トレーナーさん…パス!」 「えっ、ちょフクちゃん!? パス!? トレーナーさんに見せちゃだめー!?」 真っ赤になって止めるタンホイザさんより早くトレーナーさんに手帳を渡すと、彼はそれを一通り見て、またタンホイザさんを見ました。タンホイザさんというとトレーナーさんに見られるのは恥ずかしかったのか手で顔を覆ってその隙間から見ています。 「ど、独学で…と、トレーナーさんから見ればひ、非効率の極みというか…お恥ずかしい」 「確かに非効率だ」 「はうぁ!」 流石トレーナーさん、塩の極み。お姉ちゃんの生き写しであっても思いやるとか言葉を選ぶとかそういうのがありません。タンホイザさんもダウンしています。 「だが良く頑張っている。これを一人で続けられるのは意志のウマ娘というしかない、凄いな。尊敬する」 「えっ?」 「だが、怪我をしてほしくない。もう少しトレーニングを纏めて一日で全部がむしゃらにするんじゃなく、毎日各部位…………くそっ、フクキタル…お前…」 トレーナーさんは突然苦虫を?み潰したような顔をして私を見ました、それを笑顔で受け止めます。手帳を見た時にピンときました、貴方は優しい人です。これを見たら放っておくこと何て出来ないでしょう、それがお姉ちゃんの生き写しなら特に。 「えっと、えっと〜褒めてもらっちゃったのかな…えへへ」 「良ければ…やる気があるなら…教える。この後フクキタルと一緒で…良ければ」 顔をうつ向かせたままトレーナーさんがそういうと、タンホイザさんはぱあっと目を輝かせて笑顔になりました。あぁ、その目、お姉ちゃんとそっくり。本当はその目でトレーナーさんを見てほしくなんかない。でも、トレーナーさんが幸せを見つけるならばそれでいいのです。 それで私は幸せです。 7 私はお姉ちゃんに駆けっこでかてたことがありませんでした。すらっとした脚から繰り出されるしなやかなストライドでまるで音もなく走ることができたんです。 私は今も昔もちんちくりんですから、必死に追いかけど追いかけど背中は縮まらず離れていく一方。それが悔しくてずっとお姉ちゃんに駆けっこを挑んでいますが、お姉ちゃん妹であっても容赦せず結局一回も勝てませんでした。 「だって、ゴールにあの人がいるんだもの」 そうそうゴール役はいっつも一緒にいた男の子でした。それが私の悔しさの火に油を注いでいました。いつかは追い越して男の子に舌を出してやる、そう思っていたのですが今の私には目指す背中はもはや遠すぎて、待っている男の子には舌を出す代わりに笑顔を向けるようになっていました。人生どうなるかなんてわかりませんね。 そして今、お姉ちゃんにそっくりのタンホイザさんと出会って一緒に走ることになるなるなんて、本当に人生は分かりません。三女神さまにありがとうと言うべきでしょうか、それとも放っておいてくれと言うべきなのでしょうか。 「うわはぁ〜!いいのかな、まだトレーナーもついてないのにトゥインクルシリーズ出場選手専用のコース走っちゃって〜!」 「いいんですよぉ〜! 何故ならタンホイザさんも今日はトレーナーさんがついているんですから! それに、タンホイザさんがいいならこのままトレーナーさんの…」 「えっ?」 「とりあえず、タンホイザの方は走り方を見たい。フクキタルはいつものペース調整! 位置について!」 トレーナーさんの声が聞こえてきて、慌てて私たちは姿勢を正してパーンという音共にスタートしました。ちなみにトレーナーさんのスターターピストルは私が選んだが幸運を呼ぶもので、トレーナーさんにプレゼントしました。まぁ勝手に買ったので喜ばれながらアイアンクローされましたけど。 タンホイザさんの走りはお姉ちゃんとは違ってどちらかというとピッチ走法よりで私の走りにも似ている気がしました。やはり普段の努力があるからというべきか終盤の加速は私も焦りましたが先輩としてちゃんと併走も勝利し、なんとかほっと一息です。先輩として負けられない戦いでした。 「ひゃあ〜やっぱりフクちゃん速いー! 御胸お借りしましたフクキタル先輩!」 「いやぁ〜フクちゃんのままでいいですよー! えっへっへ〜でも先輩って響きいいですねぇ〜大吉的響き! もっと言ってください!」 まぁペース乱しまくりだったのでトレーナーさんからチョップでも喰らうかなと思って戻ってきたのですが、トレーナーさんは何も言わずただ地面を見つめていました。その目は叫びだしそうでもあり、泣きだしそうでもあり、何かを必死にこらえているようにも見えました。 「えへへ、その〜どうでした? 私の走り…あれ、トレーナーさん?」 「走り方を…変えてみないか」 トレーナーさんは何事もないように顔を上げて、でも少し震えたような声で言いました。 それは、長いしなやかなロングスライド。お姉ちゃんそっくりにすらっとした脚から繰り出される軽やかな足運び、あぁ、お姉ちゃんの走りを見ていたのは私だけじゃなかった。彼も見ていたんだずっと、隣で。 二度目の併走、私は危うくクビ差まで追い付かれました。追い抜かされなくてよかった、彼女の走る背中を見たら、私はもう。 「すごい、脚に合うというか…すごい走りやすい! トレーナーさん、もしかしなくても名トレーナーですね! すごいな〜! トレーナーさんが付くってこういう事なんだ〜!」 「ただ昔、知り合いがそういう走りをしていただけだ」 目を輝かせてトレーナーさんの手を握るタンホイザさんを見ながら、私はペースを乱しすぎとチョップされた頭を押さえていました。でも、なぜ乱れたかはトレーナーさんにも分かったんでしょうね、威力弱めでした。 「今日一日、本当に無駄にしません! もう、ビシバシ鍛えてください。私はやりますよー!えい、えい、むんっひゃあっ!?」 タンホイザさんがその言葉を言った瞬間、トレーナーさんは思わず彼女の手を握り返していました。その目は昔の男の子だったころのようです。 「それ…誰に…?」 「えっ、あっ、あの掛け声ですか? なんというかおーっっていうよりか気合が入るっていうか、むんっとなるっていうか…可笑しかったですか?」 「いや…昔の知り合いが同じこと言ってた、だけだ…すまない、もう一度走り方の調整をしたい、見せてくれ…」 「あっ、はい…あ、あのーでも…手が…」 タンホイザさんが頬を染めながらトレーナーさんが握っている手を遠慮がちに見ていました。慌ててトレーナーさんは手を離すと、私に「すまない、もう一度頼む」とだけ言ってコースの外へと歩いていきました。 どこかほわほわとしているタンホイザさんと三度目の調節併走。途中で少しだけコースの外をみると、トレーナーさんはへたり込んで頭を抱えていたのが見えました。きっと帰ってくるころには、元に戻っているのでしょう。あぁ私はなんで彼を苦しめてしまっているのでしょう。 8 「何でお姉ちゃんとずっと一緒にいるの! 男の子なのに恥ずかしくないの!」 「んなこと言われてもなぁ…あっちから先に来るわけで、断る理由もないし」 私は小さいころお姉ちゃんとずっと一緒にいた男の子が大嫌いでした。遊ぶにも出かけるにも、勉強するときもお姉ちゃんが何をするにも男の子は一緒で制服を着ても、帰るときも一緒で手を繋ぐことだって恥ずかしくないって感じなんです。そのくせいたずらをする私には良くチョップを繰り出すのです、この差は一体!まぁいたずらでたらいなんかを頭に落としたりしたのはさすがに謝りますが。 「お姉ちゃんは結婚したいとか行ってるんだよ! 私、お兄ちゃんができるとか絶対嫌だから!」 「あっちがしようって言ってきてるんだから…断る理由もないし。あっ俺だってぇ騒がしいちんちくりんが妹になるのは嫌だよーん」 「ふんぎゃろーー!!」 にかっと笑ってからかってくる男の子に石を投げまくった記憶があります。お姉ちゃんは「悪戯っぽい笑い方も好き」と言っていました、ちいさな私にはその笑みがむかむかしてたまりませんでしたが。 初めてトレーナーさんと会ったとき、それが男の子だと気づかなかったのはお葬式以来顔を合わせていなかった以前に、昔の男の子とは思えないほど雰囲気が違っていたからかもしれません。静かで冗談も言わさなそうな人、笑い方だって昔とは全く違います。 人が成長するにつれて変わっていくのは当たり前のことです、でもそれが私にはなんだか悲しくて、苦しくて、私を幸せにしてくれたのにただあの人だけポツンと立っているようで、それが嫌なのです。だから私はお姉ちゃんにそっくりのタンホイザさんならトレーナーさんを昔みたいに笑わせてくれるかもしれない、そう思ったのに。きっと私は死んでもお姉ちゃんの所には行けませんね。 「怒ってます…?」 「ああ」 お昼の学校の食堂で、私はやってしまったとで目を伏せてぽつりと言いました。 ちなみに私の頭はトレーナーさんからむんずと掴まれています。昼食は今日のラッキーアイテムだったきつねうどん、一味山盛りが吉ということだったんでトレーナーさんにも山盛り振りかけましたがどうやらそれが不味かったようです。 「これくらいならトレーナーさんでも行けるかなって…」 「汁がもはや赤いんだぞ、どうやって食う」 「…根性あだだだだすいませんすいません!おごりますおごります!」 かけすぎた方はエルコンドルパサーさんに差し上げて(彼女はさらにデスソースをかけました上には上がいます)、私の奢りでもう一杯をすすります。ふと、二人とも無言になってしまいました、この頃二人でいると何を話せばいいのか分からなくなる時があります。 「それでその、タンホイザさんの事なんですけど…」 「話は昨日もしただろう。彼女をトレーニングするのはあの日の一日だけだ、俺はフクキタルに専念したい。大きなレースも近いんだ」 「いえ、タンホイザさんから相談を受けて一緒にシューズを選びに行くので車出してくださいいいだだだだだ!? 二度目のアイアンクロオォォオォ!?」 「人を足に使うな」 「あだだだだ! すいませんすいません! でも約束しちゃったんですううう! 悩んでいるのを放っておけなくてえええ!」 私がそういうと、トレーナーさんはため息をついて手を離してくれました。両側頭部がズキズキしています。これは本当で、確かにお姉ちゃんとそっくりなのでついつい目を向けてしまうのもありますが、私と違って頑張り屋さんな彼女が報われるように手伝いたいというのも事実なのです。私は先輩ですからね、ふふん、マチカネセンパイタルです。 トレーナーさんはまたため息をつくと、手帳を確認して「いつだ」と聞いてくれました。さすがトレーナーさん、厳しい振りしてこういう所でお人よしなんですから、ツンデレトレーナほぎゃああああ声に出してないのになんでアイアンクローが!? にやにやしてたのがバレたんでしょうか! 「あ、フクちゃんに、トレーナーさん!」 ふと私が呻いていると、近くでタンホイザさんの声が聞こえてきました。顔を向けると、お友達と一緒なのでしょうか個性豊かな人たちと通りがかったみたいです。 「えーっとその、ありがとうございます! フクちゃんに相談したら一緒に連れていって貰えることになっちゃって…」 「乗りかかった船というか、このアホキタルから乗らされた船だ。構わないよ、それカツカレーか? カロリーオーバーじゃないか?」 誰がアホキタルですか! ふんぎゃろー!と暴れ回りたくなりましたが、私の命もとい頭はトレーナーさんが物理的に握っているので文句も言えません。ちなみにタンホイザさんがトレイの上にはカツカレー、お姉ちゃんと違って結構食べるみたいです。 「はぐっ!? あ、いやこれはそのぉ…カツカレーを食べてカツ!といいますか、その…美味しそうだったら…」 「…なんだそれ」 その時、私の目に映ったのは、昔々、男の子の笑い方で笑うトレーナーさんでした。悪戯っぽい、お姉ちゃんの隣で笑っていた時と一緒の。あぁ神様、私は間違っていませんでした、タンホイザさんならトレーナーさんを、トレーナーさんを…。 そのあと友達が待っているぞと言われ、笑顔で別れるタンホイザさんの顔もお姉ちゃんそっくり。遠くで友達から冷やかされて顔を赤くしていたのが見えました。 「えっへっへ、楽しみですね!」 「フクのせいでな」 胸の中で湧き上がる感情を出さないようにしながら、トレーナーさんに笑顔で話しかけます。お姉ちゃん私頑張りますね、トレーナーさんには苦しいかもしれないけど、きっとトレーナーさんを幸せにしてみせます! フクキタルの名に懸けて! でも、なんでこんなに悔しいの。 9 「うえええん! お姉ちゃんーー!」 「大丈夫、大丈夫だから。ね? ちょっと転んだだけ…ごめんねおぶってもらっちゃって」 「いいからじっとしてろよ。脚挫いたかもしれないんだから」 ある夏の日、いつものように追いかけっこをしてるとお姉ちゃんが転んでしまったことがありました。ウマ娘のスピードで転ぶのは普通のヒトが転ぶのとはわけが違いますから、私も男の子も慌てて慌てて、幸い目立った怪我がないのが分かるとなんだかホッとしてでもお姉ちゃんが死んじゃうかもしれなかったと思ってわんわん泣いてしまったのを思い出します。そのまま足を痛めたかもしれないので男の子は女の子をおぶって帰ることになりました。本当は私がおぶっていきたかったのですが背が足りず泣く泣く男の子に譲ることに。それがまた悔しくて泣いちゃいました。 「足、痛くないか?」 「ううん、大丈夫。重くない?」 「こういうのは男の役目だからなぁ」 「じゃあ次も私が怪我したら、おぶってくれるんだ?」 「怪我するなって、恐かったんだぞ」 私がふんぎゃろーっと泣いている横で、お姉ちゃんは男の子の背にギュッと掴まったままでした。子供の時転んでしまったウマ娘さんは良く走るのが怖くなったりする子もいますが、お姉ちゃんは次の日からまたすぐに走っていました。 「だってあの人が迎えに来てくれるから」 お姉ちゃんはそういって笑っていて、それが何だか悔しくてまた男の子が大嫌いになりました。おんぶされているされているお姉ちゃんは何で転んだのにあんなに嬉しそうだったんだろうと、大きくなるまでずっと思っていました。 そして時間は流れていって、今は… 「ヴぇぇぇーん! ごめんねぇぇ〜!」 「あの、タンホイザさん…気にしていませんから! ホント! というか鼻血大丈夫ですか…?」 男の子はトレーナーになって、お姉ちゃんの生き写しのようにそっくりなタンホイザさんをおぶっていました。発端はウマ娘用のシューズ専門店があるデパートへとトレーナーさんから連れて行って貰ったときでした。 ずらーんっと神様のように壁に並べられた靴たちにタンホイザさんと共に圧倒されながら、ついでだからフクキタルも新しいシューズを買おうと言われて、トレーナーさんのアドバイスを受けながら二人していろんな靴を履いては脱いで、蹄鉄を付けては外してで目まぐるしくやっていました。 やっと二人でこれだというものを決めると、なんとトレーナーさんは私のものではなく、タンホイザさんのも「ついで」と言ってそのまま会計に行ったのでした。 「うわわ…いいのかな〜! 私ずっとフクちゃんのトレーナーさんに甘えっぱなしっていうか…他の子に悪いよぉ、やっぱり…」 「いいんですよ〜! あの普段はケチキタルなトレーナーさんが奢るんですから…はーい! トレーナーさん何も言ってませんよー! つまり、それだけタンホイザさんの努力とか、実力に惚れこんだんですから。それにぬっふっふ、タンホイザさんは美人ですからね〜」 「え? やっ、タマちゃんー! もう、これでもフクちゃんよりお姉ちゃんなんだからからかわないの! それよりも、フクちゃんの方はどうなのぉ〜? ずっと一緒なんでしょ〜?」 「ぼけー…………」 何で私の話を? 思わずぼけーっと固まってしまいました。確かにずっと一緒だったのは確かで、トレーナーさんの事は好きですがそこまで高望みはしません。だってトレーナーさんを最初に好きになったのはお姉ちゃんですし、お姉ちゃんが最初に好きになったのはトレーナーさんなんです。私ではとても入れません、笑ってもらうことができません。でもタンホイザさんならきっと笑わせることができるんです。だからそんなこと言わないで。 「あれっ? フクちゃん?」 「へっ? あっ!? いやですなぁタンホイザさん、私ゃあんな暴力トレーナーさんなんかお断りですよぉ! はーい、何も言ってませんてばートレーナーさん! あっ、それよりもあの靴オシャレですねぇ!」 「あっ、本当だ。でもこんなオシャレな靴はてんで普通な私には目立ちすぎちゃうかなぁ」 話を逸らすように上の方にある靴を指さして一緒に見て見ます。それがいけなかったのでしょう、恐らくどこかの占いで空からの靴に注意という御告げを見逃したに違いありません。ふとその靴の支えが取れて落下すると、タンホイザさんの顔面にべちんとナイスヒット。 「ぶべぇ!?」 思わず後ろに倒れようとするタンホイザさんは無意識に私を掴んで体勢を整えようとしたのですが、急に引っ張られた私はそのまま一緒に床とごっつんこ。その勢いで上がった足で靴がすっぽ抜けて外れて店のショーウィンドが大破し、それに驚いた他のお客さんも転んで一気に店内の棚も倒れて大惨事となったのでした。 もしかしてタンホイザさんってかなりの不幸体質なんでしょうか、本当に開運グッズが必要なのはこの人だったりしませんか。いえ、私も必要なのですが… 「ひっく…」 何とかかんとか店から出てこれたものの、転んだときにまた少し足をひねったみたいでタンホイザさんはトレーナーさんの背中におぶってもらう形で近くのベンチと向かっているところです。私はちんちくりんなので乗せることができませんし、こういう時はトレーナーさんの仕事です。そのまま距離でも縮めれば、私としても万々歳!なんだか昔に戻ったみたいです、お姉ちゃんと男の子と、私。少し懐かしくて少し悲しい、そんな気分です。 「もう泣き止め、タンホイザは悪くない」 「うぅ、でもせっかくの皆でのお出かけが私のせいで…いっつも私ってこんな感じで…」 「二人とも怪我がなくてよかった。シューズも買えたしな、だから気にするな」 「ぐすっ…はい…その、重くありません?」 「こういうのは男の…………」 トレーナーさんは言いかけて口を閉ざしたようでした。タンホイザさんが不思議そうにトレーナーさんの顔を伺っています。 「何でもない、フクキタル。すまないが近くでシップとあとティッシュ買ってきてくれるか? あとで蜂蜜奢るから」 「はいー!よろこんでー、あLLでもいいです?」 「さっさと行ってこい」 トレーナーさんのポケットから財布を受け取り、そのまま二人を残して私はちょっと遠くの方の薬局まで買いに行こうと思って走りました。後はお若いのお二人でというやつです。きっとうまくやってくれるでしょう、ふふふ、ふははは。なぜか少しため息が出ました。 ○ はぁ、やってしまった。何で私っていっつもこうなんだろう。はぅ〜…。 フクちゃんが買いに行ったあと、ベンチに座らせてもらってフクちゃんのトレーナーさんから足を見てもらう。足に触られて好きに動かされるだけでも恥ずかしいのにトレーナーさん相手になるとさらに顔が赤くなってしまう。気づかれないようにしなくては…! トレーナーさん。私にいろんな親切をしてくれる人、真面目に怒ってくれる人。最初はいい人だなって思うだけだったけどこの頃なんだか顔を見るだけで胸がどきどきしてしまう。この気持ちはとても大変だ、大変で大変だ。 イケナイことだけどフクちゃんより先にトレーナーさんに会えてたら、と思ってしまう。きっともっと大変だったんだろうなぁ、フクちゃんはいいなぁ。フクちゃんと一緒にいるときのトレーナーさんはとても楽しそうに見える。私にあんな顔を向けてくれたらな、と思ってしまう時もある。ダメなことだけど。きっとトレーナーさんはフクちゃんのことが好きなんじゃないかなぁ。 「よし、少しだけ痛めただけだ。問題はないだろう。よかった」 「あっ、はい…ありがとうございます」 優しく笑うこの人を見ると、でも…とよからぬことを考えてしまう。ダメだダメだ、二人の間に入ってしまうなんて。 「そ、その…フクちゃん遅いですね」 「そうだな。全くアイツは何処に行ってるんだか…もしや変なやつを買ってくるんじゃないだろうな…」 「今日は本当にありがとうございます、シューズまで…でも本当は今日はフクちゃんとだけだったんですよね。えへへ、お邪魔しちゃいましたね」 「フクキタルも言っただろう、大人数の方が楽しいって。気にするな」 「うぇへへ…でも、トレーナーさんはフクちゃんのトレーナーさんなんですから。二人の方がいいんです、えっと、その…私にばっかり構って、浮気なんかしちゃダメですよ?」 はわ!? なんか変な言い方になっちゃったかな!? どうしよどうしよなんだかソレっぽい、なんで言ってから気づくんだ私のバカ!思わず顔が赤くなっちゃって隠すように下を向いちゃった。恐る恐るトレーナーさんの顔を見て見ると。 彼は驚いたように目を丸くしていました。やっぱりそんな感じに取られちゃったのかな!? 「す、すまない…少しトイレに…」 そのままトレーナーさんは背を向けて全然トイレじゃない方に歩いていきました。あぁ、完全に何か誤解された! いや…誤解じゃないけど…ごめんフクちゃん、こんなはずじゃなかったのに! 遠くで走ってくるフクちゃんが見えた、どう言い訳しよう…。私ってば本当に… 10 「カラオケでしょ、綺麗な温泉でしょ、あと水族館…行ってみたいなぁ水族館」 「そんなにいっぱい行けるの?」 「ふふ、行くんじゃないのよ。連れてってもらうの」 お姉ちゃんは良く、卓上旅行と言いますか部屋の中でパンフレットなどを眺めてはいろいろ印をつけていました。私たちの地元はまぁ田舎でありましたからここにはないような場所に行って楽しみたいという気持ちはあったのです。特に水族館なんかは結構遠出しないとありませんでしたから。 「じゃあ私も連れって!」 「ダーメ、二人じゃないとデートじゃないでしょ」 「ふんぎゃろー!」 と、まぁ男の子とデートするためでもあったのですが。お姉ちゃんは一日で全部行くわけじゃない、ずっと一緒にいるからいつ行くか計画を立ててるの。そう言いました、最低でも高校生ぐらいならないと二人っきりでは行けませんから、高校の未来の予定はびっしりでした。20歳には子供のころから新婚旅行と決めていたみたいです。おませさんですね!! でもお姉ちゃんは東京に行ったっきり、帰ることはなく、男の子も東京に行きそして帰ってこなくなり、部屋はお姉ちゃんの旅行計画図だけがぽつんと置いてあります。私もトレーナーさんと一緒にいろんなところ言ったけど、お姉ちゃんが行きたかった場所に行けたんでしょうか。 「というわけで、トレーナーさん温泉行きましょう! タンホイザさんと!」 「嫌だ」 そして今の私はと言うとトレーナーさんに、食堂で「ドキドキ!タンホイザさんと仲良くなっちゃおう作戦」で、占いで恋愛運がトップにでた旅館やらデートスポットを纏めてトレーナーさんにぶつけ、全て却下されているところでした。ぐぐぐ、塩魔人め。 トレーナーさんはどうにも先日タンホイザさんと何か話してから、彼女を少し避けるようになってしまいました。タンホイザさんの方もなんだかトレーナーさんに顔を合わせるのが気まずいようで、私がいくらくっつけようとしてもお互い同じ面の磁石のように離れてしまいます。ふんぎゃろー! 磁石だったらくっ付いてください! どうして幸せになろうとしてくれないんですか。 「トレー」 「嫌だ」 「何も言ってないじゃないですか! もー、タンホイザさんと何かあったのは分かりますけど、悪いことでも言っちゃったならさっさと謝った方がいいですよ〜ほら、仲直りのおまじないがかかった銀のしゃちほこ上げますから」 「いらん、邪魔だ、元の場所に戻してきなさい」 「ぎゃぼー! もー何なんですかトレーナーさん! そんな優しさ皆無じゃあ誰にもモテませんよ! お姉ちゃん以外に誰かとお付き合いしたことあるんですか、その他人に対する塩たいおー!!」 まぁ言ってみましたが、トレーナーさんがお姉ちゃんの女性と付き合うなんて想像も出来ませんが。いや、違う、タンホイザさんとだ。お姉ちゃんはもう死んじゃったのに、今でも彼の隣にいつもいるような気がしてしまいます。 「ある」 ははは、そうでしょ…は? 「は? 今なんと?」 「ある。ここに来たばかりでのお互い新人だった時。同期と」 嘘ですよね? 私は開いた口が塞がりませんでしたトレーナーさんが? お姉ちゃんの他の誰かと? そんなのあり得ません、彼の隣に、それもウマ娘ではないただのヒトと? そんなの……なんだか頭がぐるぐるとして心と脳にが滅茶苦茶になった気がします。トレーナーさん、本当にその人を愛せたんですか? 違いますよね? 「そ、それってトレーナーさんから? 今も?」 「いや、あっちからで、一週間ぐらいでダメになった。いや、ダメにした。何かが変わるかもしれない、自分の中にある何かが許してくれるかもしれない。そう思って返事をしたんだ、でもそれは残酷で、相手を傷つけることだったと今でも思う。相手もそれが分かったみたいで、怒られた」 そう言って目を伏せるトレーナーさんを見て、おかしなことですが私は何処かホッとしたような気持ちになりました。トレーナーさんはお姉ちゃんが好きなのにという気持ちと、何処かトレーナーさんは私が好きな人でタンホイザさんが好きな人なのに、という気持ちが混ざって、よく分からないです。どれもこれもトレーナーさんが私の脳をいきなり破壊してくるから! 何なんですかいきなりそういう事、普通に何事もないように人に言いますか!? そんな事してればそりゃあ相手も怒りますよ! 「フクキタル」とトレーナーさんは私の心を読んだかのように言いました。「俺はあの日から何も変われてないんだよ、だからタンホイザそう引き合わせようとするのは、やめてくれ」 「トレーナーさん…」 そういってまた今日のラッキーアイテムであるスパゲッティをもぐもぐするトレーナーさんを見ながら私は何も言えませんでした。が、心は希望で一杯でした。なんでってトレーナーさんはまだお姉ちゃんを好きなんです。じゃあタンホイザさんともきっともっと仲良くなれるんです。だってタンホイザさんはお姉ちゃんなんですから! んん…?ちがう、お姉ちゃんと全く一緒なんですから! 「おーい」 そうするとふと私たちの所に他のトレーナーさんが何かの資料をもってやってきました。 「これこれ、次の報告会の資料、会議室が使えないから違う日に変更だってよ。桐生院トレーナーがみんなに配ってたんだけど一緒にお前に渡してほしいって渡された」 桐生院トレーナーというのは確か、トレーナーの名門である桐生院家の人で名トレーナーの仲間入りをしている人です。何度かお見掛けしましたが礼儀正しくて誰にでも優しい可愛い感じの人だったとお見受けします。ウチのトレーナーさんとは大違いなタイプですね! 「なんか、桐生院トレーナーお前を避けてるっていうか、嫌われてないか? 俺の勘違い?」 「勘違いじゃない。ありがとう」 トレーナーさんはそういうと資料を受け取って、困惑する同僚さんを他所にまたスパゲッティをもぐもぐし始めました。え? トレーナーさん桐生院さんに嫌われているんですか? んん? んんん? えっ? 11 お姉ちゃんは優しくて、私のお願いすると大体の事は叶えてくれました。遊んでほしいと言ったら遊んでくれて、お腹空いたと言ったら何か作ってくれて、夜が怖くなると一緒の布団で寝てくれました。 でもあの男の子と遊ばないで、とかあの人と一緒に歩くのをやめて、とかもう嫌いといってもお姉ちゃんは「ダメ」の一言で可愛い妹のお願いを跳ね除けました。なんという素っ気なさ! 男の子はというと、お願い事なんて叶えてくれる方が珍しくて、でもお姉ちゃんが困るぐらいに我儘を言うと「仕方ないなぁ」と、不思議と聞いてくれるのでした。でも普段は「いやだよーん」とかわざと舌を出したりして私をふんぎゃろさせます。なんちゅーやっちゃ。 しかしお姉ちゃんは家族に欲しいものをねだったりはしない子でした、その代わり男の子には良く我儘やお願いを言っていて、男の子の方は私とは大違いに二つ返事でどんな願いでも受け入れるのです。 何の違いがあったのでしょうか、いえ確かに綺麗なお姉ちゃんにお願いと言われれればどんな男性もイチコロでしょうけど! でもお姉ちゃんは男の子しかお願いをしないのでした。妹に少しぐらいお願いしてもよかったんですよー、なにも出来なかったでしょうけど。 男の子は大人になっても、私がお願いしても叶えてくれる方が稀でした。今の私は良くトレーナーさんに、これかってもいいですかと幸運グッズのおねだりをいますがそのほとんどが「ダメ」で黙って買うと一瞬でアイアンクローの刑です。 この頃は「タンホイザさんと合ってください」というお願いが増えましたが、それも「ダメ」、「この話はもう済んだ」と取り合ってくれません。占いをしてもラッキーアイテムを袖の下に通そうとしてもダメ、私のトレーナーさん幸せ計画はいきなり頓挫しそうでした。どうしてトレーナーさんは折角お姉ちゃんとの約束が叶うというのに、自分から逃げてしまうのでしょうか。お願いですシラオキ様、どうか力を。 そんな思いで頭を抱えているある日、私の願いが叶ったのかタンホイザさんがいつもの練習前、トレーナーさんへと会いに来たのです!少し申し訳なさそうで、さらにお友達を一人連れてきていました。 「そのー…あのー…フクちゃんのトレーナーさん…ちょっとお願いが…」 「はいはーい! あのね! ターボもトレーニングして!」 「は?」 私とトレーナーさんは同時に口を開けました。彼女のお友達はツインターボさんという活発な方で、活発すぎると申しますか、いきなりタンホイザさんの成績がグーンと上がったことを知ったターボさんがタンホイザさんから聞き出して、自分もトレーニングしてほしい!と強請ったというのです。理由はなんであれ、私はこのターボさんにへそくりで買った、幸運を呼ぶ黄金の招き猫を進呈したい気分でした! 何たってタンホイザさんを連れてきてくれたんですから! こうなればまた二人が仲良くなれるチャンスがいつでも到来と言う者です!棚から牡丹餅キタル! 「嫌だ」 「えーー!? なんでー!?」 今度はターボさんと同時に口を開いてしまいました。何でここでそんな塩対応しちゃうんですか!? せっかくタンホイザさんとまた一緒になれるチャンスなんですよ!? 「俺の担当はフクキタルだけだ。別に俺がいればコースを自由に走れると思われたら困るし、そういうのは他の担当がいない子に対して不平等だ」 「あはは…ですよねぇ…」 「えー! じゃあ何でタンホイザは良かったの! ずるいずるい! マチカネズルホイザー! ターボも専用コースで走りたいー! もっと早くなりたいー!仲間に入れてよぉー!」 「そうですよトレーナーさん此処まで彼女もお願いしてるんですから! やってあげましょうよ! ね! ね!」 「ダメだ」 「やだやだやだ! ターボもトレーニングして! トレーニングしたいー!」 「そーですよ! やってやって!」 「何度も言わせるな」 「もうわからずや! 何回もお願いしてるのに、どうしてそんな意地悪するのお兄ちゃ…」 「え? お兄ちゃん?」 しまった、しまった。私はなんてことを。周りの皆の視線が一気にこちらに向けられます、トレーナーさんに至っては珍しく目を丸くしていました。自分の体の奥から恥ずかしフクキタルエネルギーが放出されて、私はいてもたってもいられずにその場から走り去るしかありませんでした。 ○ フクちゃんが流石は先輩という速さで走り去るのを私とターボはぽかんと見つめるしかなかった。追い付けないって一発で分かる速さ、ターボもフクキタはえー!っとはしゃいでいます。やっぱり、レースの上位群に食い込むフクちゃんはやっぱりすごいなぁ…私ももっと努力しなきゃ。 ふと横でトレーナーさんを見ると、ため息を吐いて頭をかいていました。 「その、トレーナーさん…我儘だって分かってるけど…一度だターボにもお願い、できませんか?」 私が手を合わせると、彼は私を少しだけ見つめて、これからの災難を思ったのか少しだけ悲しそうに目を伏せるとターボに向き合ってくれた。私ってなんというか卑怯だなぁ、彼の優しさに漬け込んでしまっている。彼に甘えちゃっている、それに少し嬉しさを感じてしまうのも嫌だ。 「昔の駄々っ子が二人もいちゃな…ツインターボだったな。一回だけ、一回だけだ。ただしここのコースじゃやらない、ルール違反になるからな」 「ホント―!? やったー! ふっふっふーターボの走りを見たらすっげートレーナー驚くよ!」 「やったね、ターボ! その、ありがとうございます…我儘、聞いてもらって」 「我儘は昔から聞きなれてる。タンホイザも共用コースに集合。どうせなら三人見るから、フクの事連れてきてくれ、ご利益のあるらしいウロの大樹にいるだろう」 「は、はい!」 私が頭を下げるのを優しく人差し指で止めて、少しだけフクちゃんのトレーナーさんは何処か寂しそうに笑った。フクちゃんといるときとは全く違うのにそれだけですこし心臓がドキッてしてしまう。どうか鼻血が出ませんように…! フクちゃん、早くトレーナーさんを幸せにしてあげてね。私がまだ諦めがつけるうちに、まだ、まだ大丈夫だから。 そう思って走っていくターボを追いかけちゃったからか、曲がり角で不意に違うトレーナーさんにぶつかりそうになっちゃいました。 「あっ、ごめんなさい!」 「いえっ、私の方こそ…えっ?」 思わずさっと避けてた時に、目が合うとあんまり勢い良かったのかそのトレーナーさんは私の顔を見てひどく驚いちゃっていた。あぁ私ったら、もうわけないことをしちゃったなぁ…確かベテランのトレーナーさんだった気がする。名前はえっと… 12 私が生まれた時からお姉ちゃんと男の子は何をするにもずっと一緒で、男の子は私が悪口を言おうが悪戯しようが気にせず問答無用でチョップを食らわしてからかってくるぐらい、負の感情とかに無縁な人でお姉ちゃんが言うなら爽やかな人でした。小さいころの私はただの意地悪なヤツとしか思いませんでしたが。 でも一回だけ男の子のいつもと違う姿を見たことがあります。それはお姉ちゃんと大喧嘩したときでした。…といっても一方的に私が大声を出して泣いて家を飛び出しただけなのですが、その時隠れるように近くの木に登って泣いていると、それを見つけた男の子が私の罵倒を無視しながら登ってきて隣に座ったのでした。 「ごめんな」 「えっ?」 男の子はそういいました。私はてっきりチョップでも食らわされてお姉ちゃんが心配してるからさっさと帰れと言われると思った私は思わずぽけーっと口を開けてしまいました。 「お前のお姉ちゃん、ずっと取っちまって。俺のせいなんだよな」 「そう…だけど…なんで? いつもみたいにからかったりしないの?」 私がそういうと男の子は少し悲しそうに、下を向いてお姉ちゃんと交換した指輪を握っていました。 「ごめんな。俺がお前のお姉ちゃんが傍にいなきゃ何もできない弱虫だから、いっつも喧嘩させちまってる。あの子が隣にいないとダメなのは俺の方なんだよ」 いつもは無駄が付くまで明るいというか飄々としている男の子がこんな顔をするなんて思ってもみなかった私は、幼いながらにじゃあお姉ちゃんじゃなくて男の子の方が遊びに誘っているのか。としか思えませんでした。 本当の意味に気づいたのは、お姉ちゃんが死んじゃった後に、男の子のお母さんが教えてくれた時でした 男の子は産まれてから泣き声を出さずみんな焦ったが、隣の部屋でお姉ちゃんの泣き声を聞いたら泣いてくれて命の恩人だったこと、最初は男の子の方がお姉ちゃんから離れずに男の子が泣くのを良く慰めていたこと。男の子がお姉ちゃんが悲しまないように元気になると言っていたこと。そのすべてを知った時、すでに男の子は東京の方に進学していて、年に数回の便り以外は何をしているかも知りませんでした。 それがこんなところで出会うんですから、やはり神様の運命だと私は思っています。お姉ちゃんにそっくりのタンホイザさんがトレーナーさんに出会ってくれたことも、きっと神様の思し召しなのです。もう一度お姉ちゃんの隣でトレーナーさんが歩くための。 「ターボね、タイム伸びたんだよー! どう! 凄いでしょ! このままテイオーにも勝っちゃうもんねー!」 「頑張れ」 「あははー…ターボ、ずっと話しかけちゃトレーナーさんご飯食べられないよ…?」 というのに、どうしたことでしょうー! お昼の食堂、今日のラッキーアイテムであるラーメンチャーハンBセットを食べる私達の席にはタンホイザさんと、そしてターボさん! ターボさんのお陰でタンホイザさんもなんと! 前みたいにトレーナーさんと接してくれるようになりましたが、なんとー! ターボさんがトレーニングからトレーナーさんに懐いて、タンホイザさんとラーメンとチャーハンのようにセットでついてくるでありませんか! そしてトレーナーさんにべったり! ふんぎゃろーー! これではタンホイザさんと二人っきりにはできないではありませんか! 考えろー考えろーカンガエフクキタル…そうだ! 今度一緒に遊びに連れて行って、そして私がターボさんを担当するんです!そうすればトレーナーさんとタンホイザさんは二人っきり! サエテルフクキタルー! 「もぅ、ターボ! ダメだよ、そんなべったり引っ付いたら、もぅ〜…」 「えー、何で―? あれ、トレーナー服の中のやつ何それ? ネックレス? 分かった大人のおしゃれってやつでしょ! 見せて見せて!」 私がナイス天啓に耳をピコーンとしていると、ふとターボさんがトレーナーさんのネックレスに触るとそれをしゅっと抜き出しました。私がやったら一発でアイアンクローの刑でしょうに、無邪気な子供には誰も勝てませんねートレーナーさんもたじたじ…ん? トレーナーさんが下げているネックレスって… 「何コレー? おもちゃの指輪…」 「触るなッ!!」 トレーナーさんの声が響いて、思わず私たちも周りの人も固まってしまいました。ターボさんは一瞬びくっと体を震わせると、そのままウルウルと目に涙をためていきます。トレーナーさんはそれを見て自分が何をしたかやっと気づいたようです。 「ぴ…あ、あのターボ…ごめ、ごめんなさ…」 「あ…ターボ、すまない…怒鳴りつもりは、なかったんだ」 「そ、そうですよー! ターボさん! ほら、今日トレーナーさんお腹痛かったから! 思わずほらね! お腹がこう! そうですよねトレーナーさん!」 不味い、タンホイザさんが目を丸くしたまま言葉も出ないというような顔をしています。このままではいけないとトレーナーさんに必死にアイコンタクトという名の超高速瞬きをしていきます。それを分かったのかトレーナーさんもそれに乗っかってくれました。 「そうだ、お腹が痛かった。つい痛くて声が大きくなってしまったんだ。ほらデザート、代わりに食べてくれるか」 「ホント…?」 「本当だ」 トレーナーさんがターボさんの頭を優しく撫でました。それが、なぜか小さなころの私と男の子の姿が映し出されているようで私は何故か心に何かが刺さった気分になりました。何故でしょう。 そのままトレーナーさんはトイレに行ってくると言って席を立ちました。ターボさんはお腹痛かったんだ、とえぐえぐ言いながらトレーナーさんの杏仁豆腐をもぐもぐと食べていました。 「フクちゃん…トレーナーさんってどうしてあんなに怒っちゃったのかな…」 「えっ!? えっと、それは…どうしてでしょうね! 昔からあぁ何ですよ! ターボさん気にしないでくださいね、よくお腹ピーになるんです!」 「うん、ターボいぐすりプレゼントする…」 私は笑顔で嘘をついてしまいました。でもどうしてでしょう、タンホイザさんはお姉ちゃんと同じなんだから伝えてもきっと大丈夫なはずなのに、なぜ嘘をついちゃったんでしょうか。 「…すいません」 ふと私たちの席にウマ娘さんが近づいて話しかけてきました。なんでしょうおっとりというか、ジト目というんでしょうか無口そうな人です。 「……先ほどの人はどっちに」 「えっ、トレーナーさんなら先ほどトイレにあちらに…」 「……ありがとう」 そのまま何も表情を出すことなく、そのウマ娘さんはトレーナーさんを追うように行ってしまいました。なんでしょう、何かの伝達だったのでしょうか。 ふとタンホイザさんを見ると驚いた顔をしてました。 「さっきの、ハッピーミークさんだよね」 「えっと…あ、すいません私あまり詳しくなくて…」 「ほら、少し前にURAができたばっかりの時に優勝したウマ娘! いやぁ〜やっぱりスターって違うんだなぁ〜…」 「おぉー!ターボもURA優勝するー!」 ふーん、ということは私が入学する前なんでしょうか。しかしそんなスターがウチのじみーなトレーナーさんなんかに用なんて全く思いつかないのですが… 13 あの人と出会ったのはずっと昔、私のトレーナーが同期の縁として連れてきたのが最初でした。 その時はお互い新人でしたが、私のトレーナーは桐生院家という有名なトレーナーの名門でしたので、すぐに私を担当としても誰も文句は言わなかったようですが、彼は何の後ろ盾もない推薦もなく、周りの先輩トレーナーに遠慮しなければならない立場だったようです。もっともトレーナーはそれを「馬鹿馬鹿しいことですけどね」と一蹴していましたが。 「えっと、その…ミークにサブトレーナーとして一緒についてもらおうと思って! ダメ…かな?」 「いえ…構いませんが…」 半人前と半人前が揃ってやっと一人前と言っていましたが、トレーナーからすればサブトレーナーで経験を積んでそれで結果も出せればすぐに担当も持てるようになるはず、という優しさもあったようでした。サブトレーナーさんも学生である私に深く頭を下げて、「お願いします」と頼んできたので少し信用してもいいかな、と思ってしまいました。きっとここで断っていれば、トレーナーは泣かずに済んだのに。 私のトレーナーが先人の教えから学ぶタイプとすれば、サブトレーナーは閃きを重視する直感タイプ、お互いの経験不足と育成思考の違いをお互いが補って、周りから見ても良いコンビだったようです。サブトレーナーは特に私の身体に気を使う人で、私が無理しているとすぐに見抜いたし、よく頑張りすぎるトレーナーにもよく気を使ってくれていました。名バの条件とは? と私が問うと「長生きすること」と言ったのが記憶に残っています。 サブトレーナーはあまり会話をする人ではありませんでしたが、私とトレーナーがお互い言い出せないことを伝えてくれる人で、関係の潤滑油になってくれた人でした。代わりにトレーナーはサブトレーナーが一人でどこか寂しそうにポツンとしていると良く話しかけて、彼に足りていない知識を共に学び、私の事で盛り上がったりしていました。 認めたくありませんが、URA優勝までの三年間は、とても輝かしくて楽しい日常でした。私達は三人とも一生懸命で、私はトレーナーもサブトレーナーもどっちとも大好きで、トレーナーから「あの人のことが好きになってしまったかも」と相談を受けた時は思わず尻尾がピーンとなりました。 私の為という建前でいろいろ計画を立てて二人をいろんなところに送り出しました。URAを優勝してあげたらお願いを一つ聞いてあげて欲しいとも言いました。すべては私の責任です。でもその時はとっても嬉しかったんです。ごめんなさい。 「私のトレーナーに…何を…言ったんですか」 そして今、私は元サブトレーナーの襟をつかんで壁に押し付けています。周りの子たちが驚いて私たちを見ていますが、構うことができませんでした。この人はまた私の大事な人を泣かせたのです。それだけで頭がいっぱいでした。 「何のことだ…」 彼は苦しそうにしながらそういいました。 「とぼけないで…………昨日トレーナーが泣いていた……あんな泣き方するのは、あなたといた時……だけ……貴方の名前を呟いていた……今まで何も言わなかったくせに……何を言ったの……!」 「昨日…昨日…まさか…俺のせいか…」 「何を……いったの!」 思わず力が入って、彼が呻き声が聞こえてきました。 「そこまでですっ! その手を放しなさい!」 ふと声が響いたので後ろを見て見ると、サクラバクシンオーさんが私たちを指さしていました。さすがの彼女です、駆けつけてくるのも速いです。ふと手を緩るめると少し中に浮いていた彼は地面に落ちてせき込みました。 「何があったかわかりませんが! 学校の中で喧嘩はノー! トレーナーへの暴力行為はもっとノー! いいですね、一人ずつ学級委員長である私が事情を聴きますから、彼を放してください! そのあと先生に報告します、きっと先生の事ですから二人とも仲良くなれますよ!」 「仲良く……? 誰が……この人と!!」 だが頭のどこかで頭が冷えてくる私がいました。バクシンオーさんが入ってきたのもそうですが、これが先生からトレーナーの耳に入ればもっと悲しんでしまうと気づいたからでした。私が彼に何をしても何かが帰ってくるわけでもないのに。 「バクシンオー、サクラバクシンオー…げほっ、違う、彼女は悪くない。俺のせいだ…」 「むむむ? どういう事ですか?」 トレーナーさんの言葉にバクシンオーさんが頭にハテナを出しながら首を傾けました。どうして、貴方はそうやって……中途半端に優しいの、優しくするなら何でトレーナーを泣かせたの。全部貴方のせいだというのに。 「彼女を怒らせた。あー…彼女から担当を、あ、いや…そうだな…彼女の好物のデザートを黙って食べた」 「ちょわーっ! そんなことを! それは怒られてしまいますよ!」 「だろう…だから、俺が悪い。反省している、だから誰にも言う必要はない。だろう?」 「む、む…確かに喧嘩はいけませんが…やった人が反省しているのならば…良いでしょう! ハッピーミークさんも彼を許してあげてください! いいですね!」 そういって握手をさせようとしてくる、彼女の手を振り切って私は背を向けてただ駆けることしかできませんでした。私とすれ違うように学食にいた子たちが騒ぎを聞きつけて、彼の元に駆けつけるのとすれ違いました。彼の専属、マチカネフクキタルは私をぎゅっと睨みつけていました。 しかし後の二人は誰なのでしょうか、彼はずっと彼女の専属と聞いていたはずなのに。そういえばトレーナーは背の高い子を見て驚いていた気がする、なぜ……なぜ……話を聞いてみなくては。 トレーナーは私に何を隠し事しているの。隠し事なんてしない人なのに。全部……全部あの人のせいだ。貴方なんて大嫌いだ。 14 シラオキ様から運命の人だと示されたトレーナーさんが、私のお姉ちゃんの運命の人だったと知る前、彼に自分の事を少しだけ打ち明けたことがあります。自分は優秀な姉とは違って何もないから幸運グッズに運を貰っているのだと。 「何もないなんて言うな」 とトレーナーさんは言いました。 「運だけに頼ることもせずに、立派に努力もしている。友人だって多いし、へこたれない所もある。ついこの前調子に乗って潰されたときも立ち直れただろ」 「うぎゃっ、思い出したくないことを…でもそういうのも全ては幸運グッズとシラオキ様のお陰と言いますか…努力だって運だけに頼ると神様に怒られるし失礼ですし…」 「フクキタル」 トレーナーさんは私の頭をくしゃりと撫でました。アイアンクローされると思って身構えた私は予想外の行動に耳がピーンとしてしまいました。それに頭の撫で方がどこか昔の思い出と一緒で、思えば私はこの時からもしかしたら、と思っていたのかもしれません。 「自信を持てとは言わない、でもこれまでもきっとフクキタルに救われて、その明るさに憧れている人もきっといたんだ。だから、何もないなんて言わないでくれ」 その時のトレーナーさんの笑顔は柔らかくて素敵で、私はやっぱりこの人は運命の人なのだと思ったのでした。でも、その目だけは何処か悲しげで、泣きだしたいのをどこかで我慢しているようなそんな瞳だったのを今でも思い出しています。 そして今になってそれが私を見てお姉ちゃんを思い出していたからと気づくとは、あそこでトレーナーさんに何か言ってあげることができれば、何か変わったのかもしれませんが、やはり私はシラオキ様がいないとダメなようです。 「トレーナーさーん? マチカネイエキタルですよー! ちょっと預かってもらいたいものがー!」 まぁ過ぎ去った話はどうでも良くて、肝心なのは今です! 私は今トレーナーさんが住んでいる寮の部屋の前に来ていました。時々私の幸運グッズを預かってもらっていて、今日もそのことでやってきていたのでした。 しかーし!今日の私はちょっとヒトアジチガキタル! …まぁゴロ悪いですが先日ハッピーミーク、さんと色々とあって、少し元気がなさげなトレーナーさんの為に靴紐が解けにくくなる効果があるシャケのお守りを持ってきたのでした! 理由も何も、「少しな、自分が怒らせた」といっただけで話して貰えませんでしたが、何がどうあれトレーナーさんを傷つけた人は許せません、あの人嫌い! タンホイザさんもトレーナーさんの態度に何か考え込んでいましたようですし、これでは「トレーナーさん幸せ計画」が台無しになってしまいます!何がハッピーですかトレーナーさんアンハッピーにしといて!ふんぎゃろー! 「トレーナーさん? あれ、入りますよー?」 鍵が開いていたので遠慮なくガチャリ、そういやお姉ちゃんも遠慮なく男の子の部屋に入っていた気がします。というよりお互い遠慮なく入り込んでいたといいますか、お姉ちゃんと私は相部屋だったので、それがすっごく嫌でした小さいとき! 部屋は必要最低限な物しか置いていないような殺風景な部屋でしたが、私がちょくちょくグッズを預かってもらったことでなんという事でしょう。こりゃまたいるだけで運気が上がるようなカラフルな部屋に大変貌! おかげでもう捨てていいかとたびたび聞かれていますが。 「トレーナーさん?」 私が部屋の中に上がり込むと、トレーナーさんはソファに寝転んでそのまま寝息を立てていました。その前にあるテレビには古い画質の映像が流れています。画面の中には、トレセン学園のジャージを着たお姉ちゃん。 「ごほん、えーっとここがコースになります。芝とかダートとかいろいろあってここでみんな一生懸命に走るんだよ。トレーナーになるんだったらここもちゃんと見慣れておかないとね」 それはお姉ちゃんによるトレセン学園の紹介のようでした、画面の中のお姉ちゃんは綺麗で笑顔も可愛くて、きっと画面の向こうにいるトレーナーさんに向けて喋っているのが伝わりました。きっと将来やってくるトレーナーさんの為に送ったのでしょう。約束していましたもんね。 「えーっと、これで紹介終わり、です。先に待ってるからね、ちゃーんと勉強してくること! 病気やケガしないでね、ちゃんとご飯を食べること、私がいなくたって寂しくて泣いちゃだめだよ?」 「おっとー? いつもはあんなに大人しいのに、そんな大胆なこと言っちゃうんだ…愛のパワーって凄いな〜」 「も、もう。本番なんだからトキちゃんは黙ってて! それとあの子の事よろしくね。また送るからね、あ、今ズームしているでしょ!」 そう言って恥ずかしがって手をカメラに伸ばすお姉ちゃんが映って、また映像は最初から始まりました。私はそっと静かにテレビのリモコンを消すと、これを見ながら眠ったのであろうトレーナーさんを想像して、心の中がぐちゃぐちゃにかき乱されていくのを感じながら、ずっと彼の安らかとは言い辛い寝顔を見つめていました。 「ん…? フクキタル…か?」 「ハイ! マチカネフクキタルです!」 暫くしてトレーナーさんが目を開けると、私をじっと見つめてその手を伸ばして私の頭を掴みました。 「ほぎゃーーッ!?」 「人の部屋に勝手に入るな…テレビは?」 「あだだだ! 消えてましたよ! いいじゃないですか私とトレーナーさんの仲ですしー! あっコレいりませんか靴紐を」 「いらん」 「ぎゃぼーん! まだ何も言ってないー!」 テレビの方を見て少しほっとする彼の顔を見て、私はやはり彼は幸せにならねばいけない。とそう心に誓うのでした。 〇 「マチタンー、麺が凄いことになってるー」 「え? わひゃあ!?」 ターボの声で、私はうどんを掴んだまま固まっていることに気づいて慌てて麺をスープに戻した。うぅ、何をやっているんだろう…恥ずかしい…。 「悩みなの? だったらターボ悩み聞いてあげる!」 「あ、えへへ…ありがとう…」 悩みというよりかは、違和感といった方がいいのかな。前のハッピーミークさんとトレーナーさんの一件を見てしまってから、どうにも心の中に靄が出来てしまっている。桐生院さんが私を見て驚いた眼、その目がフクちゃんとトレーナーさんと最初に会ったときに私に向けた目とそっくりというか、むぅー…それに桐生院さんとあってからハッピーミークさんがトレーナーさんに怒ったのが偶然とは思えないし、でも理由は教えてくれないし…もしかして、私の争奪戦!? いやいやそれはぁ〜…でもどうしようそれが本当だったら、私どっちに行けばぁ〜…むむむん〜… 「えーマチタンがターボより先にー?」 そのことにはターボからは微妙な返答が帰ってきました。えぇ、分かっていましたとも、私は平凡なウマ娘ですー! 「それよりも、マチタンが誰かにそっくりだったとか! ターボ知ってるよ、世界にはそっくりさんが…えーっと、300? いるんでしょ!」 「結構確率高くなってるねぇ〜…でも私にそっくりとか平凡な顔だし、結構何処にもいるんじゃあ…」 「ふふーん! 自信を持ってもいいよマチタン! この前手を振ったら大人の人みんなぽわ〜っとしてたし!」 「えへへぇ、ありがとうねぇ…あ」 ふと、ずっと前に桐生院さんが私に向けたような目をした人がいたことを私はふと思い出した。入学したてだったかな…関係ないかもしれないけど…でも聞いてみてもいいかもしれない。気になったことは即調べる! データの鬼でもあるのです私は!これとはまた違うけど。 「えっと、じゃあちょっとターボも付き合ってくれる? ちょっと会いたい人がいて…」 「いいよ! 誰と走るの!」 「いや、走るんじゃなくて話を聞くだけでぇ…たづなさんなんだけど…」 15 私のトレーナーさんは私とは真逆であまり運命とか神様とかを信じない人です。特にトレセン学園のトレーナーさんなのに三女神様の事は話題に出すのも嫌がるくらい毛嫌いしているようですし、シラオキ様のことを信じてくれるまで大分時間がかかりました。いえまぁ信じてくれるというよりかは、好きにしろって言われた感じですが。 ただ私の占いやシラオキ様の言葉を否定することはなくて、私の事を勝てる実力があるだけだが、フクキタルが走りやすくなるならそれでよい。という方針でした。まぁ調子に乗りすぎてそれで自爆しちゃったこともありますけどね! しかし、トレーナーさんとお姉ちゃん、タンホイザさん達の事に関してシラオキ様は何も言ってはくれません、おみくじだって役に立ちません、水晶玉だって曇ったままです。 だから私が私の力で何とかしなければならないのです、私がトレーナーさんを幸せにしなければ。 「というわけで、次のレースは札幌記念となりましたー!」 というわけで二回目の出場レースのおみくじをふんにゃかはんにゃかかしこみかしこみと振り回して出たるは札幌レース。発表する私の前でトレーナーさんがじーっと私を見つめています。 「あっ! 違いますよ! 初めのころとは違って今回は神頼みというわけではなくて、その何処に行っても頑張って勝つ! という意志でもありまして!」 「分かってるよ。ただタンホイザも連れていくとか言わないだろうなと思ってな」 「まっさかぁ〜、見に来てもらうといっても遠すぎますよぉ〜」 あらやだとおばちゃんみたいに手を振ります、ふっふっふ、そこはマチカネヨソクタル。タンホイザさんも連れて行って! とは言うつもりはありませんでした。ぶっちゃげ最初は考えましたがトレーナーさんがイエスと言ってくれるイメージがわかなかったのはヒミツです。 「……そうか」 少し疑った目をしながらトレーナーさんも納得。あれっ!? あんまり信用されてない!? 「でも、その代わり今度の札幌記念で勝てたら一つお願いを聞いてくれますか!」 「いやだ」 「ぎゃぼーん!! 別に変なお願い事とかしませんからー! お願い! ね、お願いしますからー!」 速攻塩モードで拒否してくるトレーナーさんに、マチカネドゲザキタル! ここでOKしてくれないと幸せ計画に支障がー! こうなったらもはやターボさんみたいに駄々っ子モードになるしかありません。 「…あんまり高いものはダメだぞ」 「やったー! 約束ですよー!」 とここでいつものグッズ買いでアイアンクローを食らっているのが良い方向に言ったのか、トレーナーさんは勘違いして約束してくれました! 第一関門突破です! 後はレースに勝つだけ、まぁここが一番重要ですがトレーナーさんから育ててもらった私が負けることなどはありません。 見ててくださいよー! ここから勝負です。頑張れフクキタル…頑張れ… 〇 「私に聞きたいこと…ですか?」 「はい、えっとその…勘違いとかしてたら恥ずかしいんですけど…」 「いえいえ、何でもどうぞ」 放課後、私はターボと二人でたづなさんを訪ねていました。たづなさんはいきなりの訪問にも関わらずに、にこやかな笑顔で迎えてくれました。やっぱり大人の女性って感じで憧れるなぁー…。ターボは理事長室のピカピカのトロフィーなどを見てターボもとる! と息巻いていた、あのお手伝い…。 「えっとその…なんていうか…私って…」 「たづなさんってマチタンのそっくりさん知ってるのー?」 「あのぉ〜ターボ…まだそっくりさん説が決まったわけじゃないんだけどぉ…」 「エ−!? 違うのー!? マジで!?」 ぺかーっと笑ってたづなさんに質問するターボを抑えながら、なんとか誤魔化すように笑顔を向けたけど、肝心のたづなさんは笑いが消えてこちらを見ていました。ごめんなさいごめんなさい! 忙しいところにやってきて相談でもなく変な質問をしてしまいました! 「……あ」 「「えっ」」 ですがたづなさんは怒るわけでもなく、ぽろっと一粒だけ涙をこぼして慌ててそれを拭っていました。えっ、えっ…じゃあ本当に…? で、でも何で泣いちゃって…!? 「ご、ごめんなさい…つい…それを何処から…?」 「えっ!? えっとあの…ほぼ勘といいますか、初めて会ったときにたづなさんが驚いた眼をしてて…それでそれが気になって…すいません、嫌なことだったら…」 「いえ、いいんです。そうか、私そんな目をしてたんですね…でも本当に昔の親友にそっくりだったので…気にさせていたのですね」 「ほら! ターボの言った通り! 凄いでしょ!」 「う、うん…そ、その友人って桐生院トレーナーとも知り合いだったりしますか?」 私がそう聞くと、たづなさんは予想とは違って少し考えて頭を振りました。あれ? じゃあ何で桐生院さんはあんな目を…? 「それは…あり得ないと思います」 「あり得ない?」 私とターボはぽかんとしながらたづなさんを見つめていました。たづなさんはぎゅっと拳を結んでいて、少し目を伏せていました。 「彼女は、もう…ずっと前にこの世にはいないから…」 「えっ…」 「ご、ごめんなさい…今日は、もう…また後日にいいでしょうか」 私たちが驚く間もなく、たづなさんは顔を下に向けたままそのまま早足で部屋を出ていってしまいました。ターボも少しうるっとしちゃっていた、この子は良く共感性が高いので、悲しんでいる人を見ると自分もつい涙ぐんでしまうのです。優しい子です。 「ターボ、たづなさん泣かせちゃった…」 「ターボのせいじゃないよ、ごめんね」 「謝罪。このことはたづなには辛い出来事だったようだ。また、次の日になればきっと立ち直ってくれる。その時にたづなの方からきっと訪ねてくれる」 「あっ、理事長さん…」 下の方を見ると理事長さんが少し悲し気な目をして、たづなさんが出ていった扉の方を見ていた。にゃあと帽子の上の猫が同じように少し悲し気に泣いて、部屋に木霊した。 私のそっくりさんはもう死んでいて、でも桐生院トレーナーはたづなさんと同じ目で私を見ていて…そしてトレーナーさんもフクちゃんも…どうしてだろう、うぅ〜ダメだ全く分からない。たづなさんを待つしかないのかな… ターボとついでに何故ッ!と言ってくる理事長さんを撫でながら、私は答えの出ない頭の中の靄にため息をつくのでした。 16 それは一瞬でした。あの子の軽やかな足がガクッと崩れたかと思うとラチの影に消えていったのです。 その場にいた全員がまさかと思いました、そんなことがあるとも思っていなかったのです、あんなに綺麗な走りをする彼女が。と。 彼女はラチに頭をぶつけていて、緑の芝が赤く染まっていてその中心で彼女は虚ろな目で空を見つめていました。 「救急車、救急車は!? ち、血が…ほ、包帯、ガーゼとあと…!」 「ダメ…業者さんの搬入が遅れてて、昨日違う子が怪我したときに包帯とかが…明日じゃないと…」 「今! 今必要なの分かってるでしょう!? 寮でもどこでもいいから探してきてよ! ハンカチ、何でもいいから抑えるものを…」 持っていたハンカチでいくら抑えようとしても、あふれ出てくる血を止めようとしても止められなくて、泣きながら私はあの子に声をかけることも出来ずに傍に座り込むしかありませんでした。 「あ…あ…トキちゃん…?」 ふと、あの子が誰かを探すように手を上げているのに気づいて、すぐに握り返しました。 「あっ…大丈夫だからね! すぐに救急車が来るからね! だから…」 「真っ暗で何も見えないの…ねぇ、私…また走れるかな…」 「走れる、走れるよ! 大丈夫だよ、またすぐに…ターフを…」 「約束、だもんね…トレーナーになって、迎えに来てくれるんだもんね…いろんなところに行って、一緒にいられなかった分、いっぱい…」 「あっ…」 彼女はもう私ではなく、違う子を見ていることに気づいて、私は口をつぐむしかありませんでした。どんどん彼女の力が抜けてきて、どんどん軽くなってきている気がして、繋ぎ止めようとして手を握ってもダメで…。 最後に彼女はポケットからお守りのように持ち歩いていた、おもちゃの指輪が壊れていないことにホッとするとそのまま、目を…。 「あの子は、前々から脚に異常を…でも黙っていてくれって…私が、あの時、あの時止めていれば…! あ、あぁ…ぁ…」 あの時のように雲一つない青空の下、誰もいない芝の上で私は顔を覆いながら全てを話しました。ぼだぼだと涙が緑を濡らして、あの日と同じように座り込んでしまいました。 「たづなさんは悪くないよ」 その言葉に私は思わず顔を上げました。殴られても、怒鳴られても良いと思ったのに、ただその手は私の肩に触れていました。 「あの子は約束を守ろうとしただけなんだ、俺が、俺が殺してしまった。あんな約束を…させてしまったばっかりに。指輪はまだ、持ってる? 貰っていいかな、もう俺のは墓に置いてきてしまったんです」 その時はハッピーミークさんのサブトレーナーだった彼は、私からネックレスとしてかけていた彼女のおもちゃの指輪を受け取ると、静かにそれを優しく握りしめて胸に抱きしめるように押し付けていました。悲しいはず、叫びたいはずなのにその目は光も何もなくただ、手の中の指輪を見つめているだけで。 「悲しくないんですか、怒りたくないんですか…?」 「…指輪、ありがとうございます。ハッピーミークのトレーニングがあるので、これで」 彼はそういってネックレスをかけて指輪を服の中に入れると、そのまま空っぽの笑顔を一つ向けて背を向けました。私は、私は自分の罪を許してもらうために、目の前の男の子を地獄へと突き落としてしまったのではないかと、後悔せずにはいられませんでした。彼が聞きたいと言ってきても、拒否すれば良かったのではないかと。遠くで彼に心配そうにして近寄ってくるハッピーミークさんのトレーナー、桐生院さんが見えたのを覚えています。 そして、本当の罰なのでしょうか、私はあの子そっくりのマチカネタンホイザさんと出会って、過去の事を話さねばならなくなっています。遠くに彼女たちが見えてきます。きっと桐生院さんが見たのは、あの子の影なのでしょう。フクキタルさんのトレーナーさんはあの子の事を桐生院さんに話したのでしょう、あの時最も信頼している人だったでしょうから。 私はまた、同じように話すべきなのでしょうか。きっとタンホイザさんは自分の事に気づくはずです、どうして桐生院さんが驚いたのかも、そこからフクキタルさんのトレーナーさんの事も… あぁ、神様。私は、どうすればいいのでしょう。どうやったら許されるのでしょう。 17 「タンホイザさんとデートしてください!」 札幌記念の控室でトレーナーさんに笑顔でそう言いました。私がこういうということは札幌レースは大勝利! いやはや運勢と私の意志が味方したレースでは敵などはいませんでした。誰にも邪魔はさせません。誰にも。 それに反してトレーナーさんはそれを考えてもなかったという顔をして、こめかみに手を当てました。まぁ大方、ちょっと高めのご当地開運グッズでも求められるとでも思ったのでしょう! 「フクキタル、いい加減にしてくれ。俺は変われていないんだ、上手くいきっこない、彼女はあの子じゃない、そういうのはタンホイザを傷つけると何度も言っただろう…」 「いいえ、トレーナーさん! タンホイザさんは、お姉ちゃんなんですよ! お気づきですかトレーナーさん、タンホイザさんの前では貴方は昔みたいに笑うんですよ? ふっふっふ、時は違っても、トレーナーさんは昔のように幸せになっているんです、なれているんです! だから大丈夫なんです!」 「フク! いい加減にしろ! あの子は死んだんだ、もう戻らないんだ、何処にもいないんだよ! 分かっているだろう、もう立ち直って、吹っ切っていかなきゃ…フクキタルだって幸せに…」 「じゃあトレーナーさんは何で指輪をずっと持っていたんですか! 貴方が一番、一番、お姉ちゃんが好きなんじゃないんですか!」 初めて、初めてトレーナーさんの声を遮るように私は大声を出しました。トレーナーさんは初めて、私に口をつぐみました。 「貴方が一番幸せにならなきゃいけないんです! お姉ちゃんを一番愛していた貴方が! 貴方が一番悲しいはずなのに! トレーナーさんだってわかってるんでしょう、タンホイザさんはお姉ちゃんになれるって!」 ひとしきり叫ぶと、控室はしーんと静かになって、目の前のトレーナーさんが水でぼやけてようになって良く見えなくなりました。なんだかしょっぱい味がします。泣いてなんかないはずなのに… 「どうして…そこまで…」 「えへへ、ごめんなさい大きな声を出しちゃって…だって、そうじゃないですか。私はトレーナーさんが幸せそうなとき、一番幸せに感じるんです。胸がぽわぽわーってするんですよ、ポワポワフクキタルです。そしてトレーナーさんはタンホイザさんがいるときとっても幸せなんです…じゃあ決まりなん…です!」 「ちが…俺…は…」 「だって、だって…お姉ちゃんが最初にお兄ちゃんを好きになったんだもん。お兄ちゃんが最初に好きになったのお姉ちゃんなんだもん…そうでしょ? 約束したんだから…破っちゃやだよ…」 なんだか口もまめらなくなってきていると、そっとトレーナーさんが胸の中に私を抱きしめてくれました。昔みたいにお兄ちゃんの匂いがします。 「もう泣かないでくれ。フクが泣くと悲しくなるんだ、昔から」 「な、泣いてなんかいませんよ…私はフクがキタルでフクキタルですよ。泣いたらフクが去っちゃって、フクサルになっちゃいますよ。お猿さんですよ」 「分かったよ、やってみるよ。それでフクが笑ってくれるなら、君が幸せになるなら。僕はやるよ」 「えへへ、やった。約束ですよ…約束」 顔を押し付けて、トレーナーさんの服を顔から出る色んな水まみれにしながら、私は幸福でした。これで、これでトレーナーさんは幸せになれるんです。 18 「ねぇ、私。もうすぐお姉ちゃんになるんだよ」 あの子の母親がもうすぐ出産ということで、彼女が家に泊まりに来た時隣の布団で彼女がワクワクと一緒に不安げな声を混じらせながら言ったのを覚えている。 「ちゃんとしたお姉ちゃんになれるかなぁ…私がお姉ちゃんでガッカリしないかな」 「大丈夫だよ、きっとなれるよ。いつも僕を守ってくれるように、妹ちゃんも守れると思う…多分」 我ながら情けない慰めだった。生まれた時、物心ついたときから彼女とは一緒で、泣き虫だった自分を良く慰めて守ってくれていた。周りの子から結婚するだろーとからかわれたり、いじめっ子から弱虫と言われても何も言い返せなかった。 「あっ、ダメだよ。そっちもお兄ちゃんになるんだからね、しっかりしなきゃ」 「えっ、僕の妹じゃ…」 「知らないのー結婚するとみんな家族になるんだって。だからお兄ちゃん! お父さんが言ってた、家族を守るのはおとこのしごとだーって」 「お兄ちゃん…できるかなぁ…」 「大丈夫、君ならできる! あ、でも私も幸せにしてね?」 「うん…わかった。がんばって、お兄ちゃんになるように元気になるよ、幸せにする。二人とも俺が守ってやる!」 「おれ?」 「えっと、ドラマで会ったセリフ…やっぱり可笑しいよね…」 「ううん、カッコいいよ。じゃあ約束ね?」 二人で笑い合った指切りげんまんをしたまま眠った。それから嫌いだった牛乳を飲むようになって、泣くのを堪えるようになって、結婚するのかと言われれば胸を張って結婚すると言い返した。彼女の隣に立っても恥ずかしくないようにカッコつけて見たり、おしゃれしてみたり、スポーツもしたりした。そうしているとからかわれることもなくなって、いじめっ子も諦めた。妹だけは懐いてくれなかったけど。 それでも隣には彼女がいてくれないと不安になった。彼女は花のように儚かった、ふとした瞬間に風に運ばれてどこかに行ってしまいそうで離れられなかった。それで妹からずっと怒られた。彼女から離れるべきではなかった。 彼女が死んだと聞かされた時は、トレーナーになろうといつもより必死に勉強していた時だ。彼女の両親が家に来てウチの両親と一緒にそのことを聞かされた、皆泣いていた、彼女はみんなの人気者だったから、学校の皆も先生もお葬式に来ていた人もみんな泣いていた。泣いてなかったのは自分だけだった。 起きることがない彼女を見ても、それが骨になっても、墓におもちゃの指輪を置いても、ビデオレターが届いて画面の中の彼女が手を振っても、彼女が死んだとは思えなかった。信じられなかった。どこか今でも東京のどこかで走っているんだと思った。 だから少しでも早く彼女に会いたくて、親に頼んで東京の学校に通わせてもらって足りない頭で必死に勉強して、トレーナーの資格を取って、トレセン学園への研修生として通い詰めて、そのまま専属契約への切符をつかんだ。 彼女は「遅かったね」と言うだろうか「待ってたよ」というだろうか。だが、当たり前だけど、彼女の姿は何処にもなくて、約束を破ったことなんかない彼女がいないということに気づいて、そこでやっと彼女は死んだんだと実感がわいた。だが涙は出なかった。 そのころに葵、桐生院さんと出会った。彼女は何もない僕をサブトレーナーとして誘ってくれて、知識も経験も足りない自分を助けてくれた。女性と並んで歩いたり、話したり、どこかに出かけたり、笑い合ったりするのはずいぶん久しぶりだった。 だけどどこかにあの子を重ねていた。たづなさんからあの子のおもちゃの指輪を貰ってからそれが顕著になっていったと思う、どこかであの子の影を追っていた。 花の香りも、空の色も、風が頬を撫でても、いつか彼女といた頃を思い出す。街角の先に、路地裏の暗がりに、通り過ぎる電車の中に、どこかに彼女がいるような気がしてしまう。死んだと分かっているのに、ふと現れて笑顔を向けてくれることを期待してしまう。我ながらなんと未練がましいのかと自分を恨んだ。約束も、笑顔も、何もかも、あの子を忘れたかった。ただの思い出としてあの子を見たかった。 それを忘れたくて、ハッピーミークの手伝いも合って、葵の告白を受け入れた。過去を忘れたくて初めて女性と肌を重ねた。だが、あの子の影を追ってしまっていた。彼女の可愛らしい仕草にも、真摯な態度にも、笑顔にも彼女が重なった、終ぞ「愛してる」なんて言葉の一言も言えなかった。自分はなんてことをしてしまったのかと、自分を恨んだ。 「私も貴方も死んだ人には勝てなかった。忘れてください、忘れるような思い出が貴方の中にあるのだったら!」 彼女が泣いて怒ってくれた時も自分の為に言ってくれたというのに、何も捨て去ることはできなかった。お前は彼女が死んだときから何も変われていない、変われないのだ。いつまでも未練たらたらに持っていた指輪がそう語っていた。 「貴方が運命の人! 私のトレーナーさんですね!」 それから誰の担当にもなる気がしなくて、しかし彼女の約束も忘れられず、雇われるままいろんなサブトレーナーとなって渡り歩いていた時に、フクキタルと出会った。すぐに分かった、あの子の妹だと。 明るい性格で、でもどこか自信がなさげな所がそのままで、そして彼女の専属となった。あの子のように走りが好きで、でも全く違う走り方で必死に走る彼女を支えたいと思った。あの子との約束ではなかった。 フクキタルといるときだけ、あの子の事が頭から消えていた。すぐに自分がいかに最低な野郎か思い出す代わりだったが。だが初めて心の底から楽しいと思えた。 そして今、過去が追い付いていたかのように、フクキタルから自分の事を知られて、あの子からあの子そっくりのタンホイザと出会って、その子と親密になるようにフクキタルに頼まれている。 タンホイザはいい子だ、努力も出来る、魅力的だ。だが会うごとにあの子との約束が頭の中に鳴り響いて、何もかもを思い出す。胸が苦しい、体の中に泥が詰まったかのようになる。だがそれでもフクの願いを断ることができない。 これはタンホイザを傷つけるのだろう、また同じ過ちを繰り返すのだろう、向かう先には何もない。だが、フクキタルには泣いてほしくない、彼女が笑ってくれるなら僕は何でもやろう。 それで彼女の幸せになるんだったら、心なんていらない。元々空っぽだ。トレセン学園に帰ると、彼女たちが見えた、妹の約束通りに俺は笑顔を見せる、笑ってくれ、フクキタル。それだけで俺は幸せだ。 19 「えっと、あの〜その、今なんと…? えへへ、ちょっとウマ耳が遠くなったみたいでぇ〜…お、お出かけとか聞こえたよう」 「今度出かけないか」 「わひゃ」 フクちゃんがなんとなんと札幌記念を大制覇してきた数日後、お祝い代わりに食堂でスイーツを食べた後、ふと私はトレーナーさんに呼び止められました。 フクちゃんの次の大目標はあのアリマ! というわけで私やターボに構う暇がなくなると今度こそ言われるかな、と思ったんだけど、出てきた言葉は想像もしていなかった言葉で、トレーナーさんは何処か視線をずらして頬をかいていました。 「えっと、あっ! 分かったフクちゃんへのご褒美でしょ! トレーナーさんったら素直じゃありませんねぇ〜」 「いや、二人で」 「ひゃわあ」 ふっふっ、ふたりっ、二人でっお出かけってことは、でっ、でっ、デート? デートかぁ…………デート!? わ、わ、わ、フクちゃんのトレーナーさんって硬派って感じがしたのに、まるで人が違ったみたいに積極的に!? いや嬉しいと言われれば嬉しいけど、いきなりこんな、いいのかな? いいのかなターボにイクノにネイチャのみんな!? いいんでしょうか!? 「そ、そ、そ、それってその、どういう、感じのお出かけと申しますか、そのー…あのぅー!」 「蹄鉄がすり減っていただろう。買いに行こう」 「あっはい」 やってしまったぁ〜〜! ですよねぇ〜! 一人完全に舞い上がっていました、マチカネマイアガイザです、はい! 恥ずかしい! マイアガイザってなんか名前の響きいいですねとか恥ずかしさのあまり考えちゃうぐらい恥ずかしい! フクちゃんのトレーナーさんがそう気楽にデートに誘うような人じゃないことはええ、知っています! 誰にでも塩な対応だから異性同性問わず友達少ないんですよあの人、とフクちゃんが言っていて頭を掴まれていました! フクちゃんって結構トレーナーさんにだけ口が悪い時があるよね!いつもすっごいみんなにも丁寧なのに! でも、トレーナーのそんな飾らないところがなんだかいいなって思っちゃったり、頭掴まれるようなフレンドリーさが羨ましいなと思っちゃうときがあります。これもまたハズカシイザ…これはいまいち。 「タンホイザ?」 「あっひゃい! それなら喜んで、えへへ…いやぁトレーナーさんいきなり出かけようなんて言うからデートのお誘いなんか思っちゃいましたよ。うぇっへっへ…」 うぇっへっへってなに!? 焦りすぎてそのままのこと口に出しちゃってる私! どうしようトレーナーさん目を丸くしているし、いきなり意識しているとか思われないかな、うぅ〜…上手くいかない上手くいかない、折角私も、と腹をくくったのに… ふと、トレーナーさんの眼が少しだけ悲しそうに下を向いているのが分かった。そこでやっと私が誰に似ているかを思い出す、そっか、私トレーナーさんの亡くなった幼馴染さんにそっくりだったんだった。楽しくお出かけってわけにもいかないかな… 「馴染みの蹄鉄店は前にも行ったデパートにある」 「へ?」 ぎゅっとトレーナーさんが目をつぶって深呼吸をすると、真っすぐ私を見た。あれ? あれれ? 「蹄鉄を変えるだけだったら、時間も余るし…その、なんだタンホイザの予定が開いているなら、タンホイザが良いというのであれば、そのあとはデートにしてもいい」 「ふぇ」 トレーナーさんが照れ臭そうに視線を外すのをみて、自分の顔がカーッと熱くなるのを感じました。心臓がドキッと跳ねて、急に見慣れてきたあの人の顔が見られなくなってしまう。どうしよう、どうしよう、こういう時ってなんていえばいいんだっけ、棚から牡丹餅? いやいやいや、お礼の言葉の事だ。いやいやいや、行ってもいないのにそれは早い、お受けします? いやいやいやいや! その返答はいろいろと不味いよぉ! 「あー…タンホイザ?」 「ひゃい」 「あー…答えを貰っていないんだが。どうする?」 「あ、あ、その…じゃあその、よろしくお願いします」 いいのかな、いいのかな。こんなことがあって…フクちゃんじゃないのに関係ないのにご褒美みたいなものを貰っちゃって。どうしよう、どうしよう、フクちゃんの事を思えば断るべきだったのに、頭の中では着ていく服の事を考えてしまっている。 どうしよう、好みの服装とかあるのかな。 〇 「死んだ…恋人?」 「……うん」 チームの練習が終わった後、何度も何度も断れながら、ずっと聞き続けてやっと私のトレーナーは、元サブトレーナーの事を話してくれました。そして、あの時彼女が見たウマ娘…マチカネタンホイザという子がその子にそっくりということも。 結論から言えば、付き合ってから何かがあったのではなく、そうなる以前から私達はあの人とは「何もなかった」のだと分かりました。きっとトレーナーも同じことを思ってたのでしょうね、あの三年間は何だったのかと。 三人の思い出と思っていたものは、彼には一つも心に残っておらず、とっくに死んでしまっていた人に全てを奪われていたとは。トレーナーが隠していた理由が分かりました、彼や自分が傷つくからじゃない、私を傷つかせたくなかったのだと。だが、私はぐつぐつと怒りがさらに沸いてきていました。 「普通に…考えれば、あの人は…………そっくりの子だったから、タンホイザさんと…一緒に?」 「分かりません。でも、もういいでしょう? あの人の事はもう、忘れたいし」 「でも……あの人が……タンホイザさんをその死んだ子の代わりにしているんだったら……それは止めないと……」 「あの人はそんな残酷なことをする人じゃっ……っ……」 思わず声を大きくしたトレーナーは、自分がしたことに気づいて俯くと、少し置いて「ごめんなさい」とだけ言ってきました。忘れたい人を、なぜそこまでかばおうとするのでしょうか。憎いです、貴方のせいで私のトレーナーは未だ貴方を引きずっている。 「私ったら本当に…ごめんなさい空気を悪くしてしまいました。ミーク、そういえば蹄鉄が擦り切れてたでしょ? 今度一緒に出掛けませんか? ついでに遊んでリフレッシュしましょう!」 「……はい」 私が少し不安そうな顔をしていたからでしょうか、頬をパンパンと叩いて顔を上げたトレーナーはまたいつも通りの笑顔でした。私もそれにつられて笑顔になります。 彼女はいろんなところに私を連れて行ってくれて、一緒に楽しんでくれます。ですがそれは、昔サブトレーナーが私たちを上手く取り持ってくれたからで、その時の彼の笑顔は嘘ではなかったような気がして、私はそれを思い出すたびますます彼が憎くなるのです。 20 「此処が、桐生院家も贔屓にさせてもらっている蹄鉄専門店です!」 「おぉー…」 「蹄鉄がズラリですね」 ここを利用したの数年前、ハッピーミークとそしてあの人とやってきたのが最初だった。私は家族から話は聞いていたものの来るのは初めてで、なぜだか自慢げに話したもののどう選べばいいかなんて全く分からずに三人であれこれ言いながらミークのレース用蹄鉄を決めたのを覚えている。 「純金もある…凄い…キラキラです」 「衝撃には弱そうだな…こっちのプラチナはどうだろう」 「も、もう! 二人とも煌びやかな方に惹かれないでください!」 楽しかった、本当に楽しかった。その時の彼の笑顔が全て嘘だとは信じたくはなかった、あの人は自分を空っぽのように言うけれど、本当に空っぽだったらあんなに優しくて穏やかに笑えるはずがないのだ。空っぽなんかじゃない、何かに満たされすぎてそれが彼を苦しめているのだと。 だけど、彼の中のその何かを覗いてしまったとき、私は耐えきれなかった。私たちの想いも、思い出も、彼は全く違う物として見ていたことに、あの三年間が本当に空っぽだったなんて思いたくなかったから、私は彼から逃げた。何も考えないようにするために、あの時私が逃げなければ、彼が引き留めれば、何かが違ったのかもしれない。だがそうならなかった。結局どちらとも死人には勝てなかった。 「…………」 「…………」 そして逃げて逃げて逃げて、何の因果かスタートに逆戻りしたかのようにあの人と、同じ店で出会っている。カタログを見てみようとしたらばったり。お互いの担当はどうやら店内を物色していて、周りには私達二人しかいなかったようだった。 「…どうも」 暫くの沈黙の後、彼がぽつりと挨拶をした。私は何も答えずに、ただ少しお辞儀をして店のスタディングテーブルにまとめられているカタログを取って眺めるしかできなかった。彼もそれからは何も言わず自分の分のカタログをめくり始める。 「ハッピーミークをちらりと見たので、もしかしたらと思いました」 またしばらくして彼が口を開く。だがお互い目線はカタログに向けたままだ。 「……だったらそのまま出ていってくれれば、こうやって会わずに済んだのですが」 「…連れがいるので。ハッピーミークの事ですが」 「貴方はもうサブトレーナーではありません。口出しは無用です」 「この前彼女を見た時、蹄鉄の減りが左だけ早かったように思えます。もしかしたら右脚を庇って左足に力を入れているかもしれません」 「分かっています、そのためにもここに来たんです。貴方は次はアリマでしょう、自分の担当の心配をなさったらいかがです」 その言葉に、彼は少し目を逸らしたのが分かった。その反応は一体なんですか、マチカネフクキタルさんを連れて来ているわけではない…? 「今日一緒に来ているのはタンホイザです」 「……っ!」 私の心を見透かしたように言ってくる彼に、ぎゅっとカタログを握る力が増す。まさか本当に、あのビデオの中に映っていた女の子の代わりとして見ているつもりなのだろうか。そう思うと怒りと悲しみが沸き上がる反面、同じぐらいに疑問が沸き上がってくる。 本当にそうなのだろうか、と。もし彼が自分の思いに対して楽な道を選んでいるのであったら、昔の私のような事態になっていたのだろうか、彼は死人の代わりとして誰も見れないからこうなっているのではないか。と。 「貴方は、一体何を…」 「お待たせぇ〜しましたー!」 私がカタログから彼に目を向けようとしたとき、マチカネタンホイザさんが笑顔で彼に手を振ってやってきた。同性と出かけるのとはまた違った可愛らしいオシャレな服、それに指先のネイル。誰がどう見てもデートでしょう。とても楽しそうな、というよりこれからが楽しみだという顔をしています。昔は私もあんな感じの顔を向けていたのだろうか。 「失礼します」 彼はそういうとカタログを置いて、彼女に笑顔を向けて歩いていきました。その笑顔は昔、私達に見せたような笑顔とは全く違う、空虚な、空っぽな笑顔だった。 一体なにが…あなたは自分の意志で動いているのですか? 〇 ここに脚を運ぶのは、トレーナーさんと元サブトレーナーさんと一緒に来たのが最初でした。いろんな蹄鉄を三人で見回ってあーだこーだと議論を交わす二人の姿を見るのが好きで、それが楽しみで蹄鉄を早くすり減らすためにいっぱい練習をしたことを覚えています。 今はトレーナーと二人だけ、だがその方がいい。よっぽどいい、あんなやつとはもう行きたない。 「トレーナーさんが選んでくれた蹄鉄ピッタリ…流石だなぁ〜…」 そうして蹄鉄を選んで、実際に試着するために試着コーナーへと足を運ぶと、そこに見慣れた…というかこっちが一方的に覚えている顔の人がいました。マチカネタンホイザさん、あの人が思っている死人にとても良く似ている人。あの人が代わりにしようとしているウマ娘。 「あっ、えっとど〜も〜…」 私がつい見つめていると、あっちもこちらに気づいて少し気まずそうにしながら私にちょこっと手を振って挨拶をしてくれました。前にあの人を引きずり回していたのですから、挨拶をしてくれるだけでこの人は優しい人だと分かります。服装やお化粧から見るに、デートでしょう。そして相手は…おそらく… 「こんにち…は…」 「えっと、ミークさんも蹄鉄選びに?」 「はい…貴方は…誰と?」 「あっ、えっと、そのー…フクちゃんのトレーナーさんと…そのー…」 やはり。と私はそう思いました。やはりあの人はタンホイザさんを死んだ想い人の代わりにしようとしているのだと。 「……タンホイザさん、貴方は…彼の事をどのくらい…知っていますか?」 「ど、どのくらいといっても、その…フクちゃんのトレーナーさんで、えっとその、優しい人だな…って…」 違う、優しい人なんかじゃない。心の中で怒りが燃え滾っている。 「ではタンホイザさん…あの人に貴方にそっくりの死んだ恋人がいたことは……?」 「えっ…? 恋…人?」 タンホイザさんが目を丸くしました。やはり彼は何も伝えていなかった、彼女もショックを受けたようですが誰かが言わないといけなかったことです。別に恨まれても構いません。でももっと悲しい目に会うよりはマシです。 「そっか…恋人、だったんだ…」 「……?」 「だから、あんな目を…ずっと苦しかったんだね…悲しかったね…」 ですがタンホイザさんが何かを考えるように頭を降ろした後、上げて次に浮かべた表情は、想像とは違う物でした。何故、自分が代用品と見られているのにそんな恋する乙女みたいな表情ができる…の…? 「…タンホイザさん…だから貴方は彼自身の為に…利用されて…」 「違う、違うよ。ミークさん、あの人はとっても優しい人だよ? だって、ずっと、トレーナーさん私を見て苦しんでいた、それでも、私と一緒にいてくれて、ターボのお願いだって聞いてくれて…それって、私をその子と同じじゃないって考えてくれていたからだと思うんだ」 「違う…彼は…貴方は、何もわかっていません…!」 「分かっていないのはそっち、あの人は一途なだけ。私はその子の代わりなんかなれないけど…何処にでもいる普通の私を、特別なその子以上にトレーナーさんに好きになってもらいたいな。そうしたらきっと辛くなんてどこかに行っちゃう!」 「あなたは…一体…なにを…?」 「ミークさん、ありがとうね。私、フクちゃんのトレーナーさんをもう、とっても大好きになっちゃった。むん!」 そういってふんわりと笑って足取り軽く歩いていく彼女を、私はただ茫然を見るしかありませんでした。私はいったい何をしてしまった…? 21 運命という物を信じるかと言われると、少しだけう〜んと言ってしまうかもしれない。 もちろん神頼みやおみくじは引くけれど、全部信じると言われたらそれもむ〜んとなってしまう。だってそれだと最初からレースの結果は決まっていて、私たちの努力も、思いも悔しさも全部無駄ってことになってしまうんじゃないかなって。 だから私はそんなことは断固としてノー!と言いたいし、運命は自分で切り開くものだー!とまるで特別な主人公なことも思っちゃうのです。まぁ本人は何処にでもいる普通・ザ・普通な女の子なんですけれど。 それにフクちゃんのトレーナーさんの幼馴染の恋人さんが死んでしまって、その子にそっくりな私が同じ人に恋したなんて、運命だとしたら酷すぎる。トレーナーさんが何でそんなに苦しまなきゃいけないのかな。 「トレーナーさん、その…えっと…混雑してますし、はぐれないように手でも〜なんて…すいません、冗談ですー…」 「………ん」 「わひゃ。えっと、その…えへへ、ありがとうございます…」 そのことを知ったのはほんの少し前、それを知ってもうどうしようもないほど好きになってしまったのが少し前。そして今は手を繋いでデパートのいろんなところを巡っています。 ガラス越しに映るあの人の姿、蜂蜜を一緒に呑んではにかんだあの人の顔、少し大きな手、歩幅を合わせてくれる足、何処か悲し気なその目。何処に行っても結局目は何処かトレーナーさんの方に行ってしまって、そのたびに頬が赤くなってしまってすぐに目をそらしてしまう。ふふふ、こればっかりはいつ見ても慣れそうにありません。 トレーナーさんの苦しみをどうやって取り除ければいいかなんて、私の普通な頭じゃわかりません。でも苦しみよりもいっぱいの幸せで埋め尽くしてあげれば、きっとトレーナーさんは辛さなんて忘れて、フクちゃんの時のように私に笑ってくれるはず、たぶん! つまり愛し愛され相思相愛に…なんかこれ自分で考えててとっても恥ずかしいですねぇ…マチカネハズホイザ…。 「トレーナーさん、えっとその…。やっぱり私って似ていますか?」 でも、伝えなきゃいけないこともあります。ゲームセンターで遊んで休憩で座ったベンチで、私はトレーナーさんの手を握ってそう聞きました。彼は少し何の話か考えたようですが、すぐに思い当たったようで驚きながら私の手を放そうとしましたが、逃がさないようにぎゅっと握っていたのでそのまま私の手の中で大人しくなりました。 「いつから…?」 「えっと、札幌に行っているときにたづなさんから…あとさっきミークさんからも…」 「そうか…」 そのままトレーナーさんは申し訳なさそうに目を伏せると、そのまま地面を見つめてぽつりとつぶやきました。 「すまない、黙っていて」 「ううん、そう簡単に人に言えることじゃありませんから、そっくりさんの私にだったら特に。でもすごい確率ですよねぇ、えへへ…」 「怒らないのか?」 「はい、だって…ずっとトレーナーさん苦しんでいたんだなって分かりましたから。怒ったら私の方が酷い!って言われちゃいます。そんなに大事な人だったんですね、その子」 「……あぁ」 トレーナーさんはいつの間にか片方の腕で自分の胸のあたりを掴んでいました。服の中の指輪を掴んでいるだろうなってすぐにわかりました、たづなさんから受け取った死んじゃった子の指輪…、目の前にそっくりな私がいるのにやっぱりその子の顔を思い出しちゃっているみたいです。 少し胸にチクっときたので、私は少し心の中の黒い意地悪な私に発言権を譲ることにしました。むん。…トレーナーさん、怒ったらどうしよう。 「初めて会ったとき、トレーナーさんは私をその子の生まれ変わりだと思っていたんですか?」 「それは違う。タンホイザはタンホイザだ…とは言ったものの、本当は自分でもわからない、否定したくてここにいるのかも。だが、君があの子に似ているからトレーニングを引き受けたわけじゃない、それは本当だ」 「えっとその、じゃあ、その子と私、どっちを好きになってくれますか?」 「…えっ」 トレーナーさんが動揺が丸わかりの目で私を見ました。私もその目を見つめます、残酷で性根が悪いと言われても何も言い返せないけれど、私は今生きていて恋をしているんだ。死んだ人の昔の恋には負けたくない。ワルホイザと言われても、受け入れる覚悟です。 「なに、を…そんな、こと…優劣なんかつけれるわけ…」 「つけてほしいです。その子がまだ好きならはっきりと口に出しちゃってください、諦めます。私が好きなら、そのまま口をしーっと閉じてください」 これは卑怯だって自分でも分かります。ターボがいたならズルホイザと怒っちゃうでしょう、でもターボ言った通り恋はダービー、何の特別もない私が制するためにはどんな手も使わなければいけないんです。法とかやりすぎラインに触れない限りは! 想像通りトレーナーさんはかなり動揺しています、許してください。だがここを勝たない限りは私は先に進めないんです。 「タン、ホイザ…やめてくれ、俺は…こんなことは…」 「じゃあ、ハッキリとあの子の方が好きだと言ってください」 「ぼ…俺は、あの子のことが…………」 息を荒くしながらトレーナーさんはそれ以上は言えずに俯いて少しだけ震えていました。ハナ差での勝利、危ない賭け、だけど勝った。本当にミークさんが言う通り彼が私を代用品として見ているのだったら、すぐにでもトレーナーさんは黙っちゃうか、否定してくれたでしょう。 だが、悩んでくれた、そして言えなかった。これが私の勝利なのです。えい、えい、むん。 「トレーナーさん。ごめんなさい…その、私…」 「いや…いいんだ、っ!?」 顔を上げた彼にそっと唇を近づかせて、すぐに離しました。彼はまだ何をされたか理解できない様子です。うん、やっちゃった。やっちゃった、ついどうにもならなくてやっちゃった! 鼻の奥がブチって音がした! 早く何か言わなくちゃあ!? 「校則違反、させちゃいました」 …鼻血出しながら言っちゃった。 〇 いやー! 空は晴天、風は爽やか、暑くもなく寒くもなく、正に神様が用意したデート日和! ふんにゃかはっぴ〜と祈ったかいがありました! ぬふふ、今頃タンホイザさんとトレーナーさんは急接近しているでしょう、そう! 昔のお姉ちゃんと男の子みたいに! そのまま本当にお姉ちゃんとお兄ちゃんとして帰ってきてくれるんじゃないかと密かな期待! 楽しみで楽しみで夜しか眠れずに、有り余るフクキタエネルギーにトレーニングに付き合ってくれたスズカさんを併走で差すことができました! テンキューシラオキ! 「フクキタル、今日は凄い調子いいわね…」 「いやぁ〜今日はめでたい日なんですよスズカさぁん! つまり今日の私はオール大吉なのです!」 「じゃあ、もう一走り、悔しいし」 「今ですか!? ちょちょっとスタミナが…! ひぃ、ひぃー…」 いやまぁそれでスズカさんのエンジンを稼働させちゃったのは私のミスです。これは何週でもは走らされるパターン! でもふふふ、やっとトレーナーさんが幸せになれると考えると、そのままアリマの日までスズカさんと走り続けてそのまま優勝だって行けそうです。 アリマに勝ったらまたトレーナーさんにお願いしようかなぁ、今度はお姉ちゃんと水族館とか行って貰ったりしてふふふ…フフフフクキタル…。 それを見て私も幸せになって、そのあとは…あとは… 「ぜぇ…ぜぇ…」 …………えーっと、そのあとは私はどうすればいいんでしょうか? いや私はお二人が幸せそうな姿をみて幸せになって、そのあと…そのあと…えっと… 「ぜぇ、ひゅう、ひゅう…」 「フクキタル…大丈夫? 息が…」 大丈夫ですよ!と言おうとしてなぜか声が出ませんでした。なんだろう、あれ、息ができない。えっと私はそのあと二人の傍で、えっと… 「ぜひ…」 私はどうすれば? 22 小さいころ、私が熱を出したりするとお姉ちゃんは私に付きっ切りで看病してくれました。そういう時はあの男の子じゃなくて、私とずっと一緒だったので私はずっと風邪ひいて入れればいいのになんて無謀なことを考えていました。 まぁ結局男の子も差し入れを持ってきていつもと変わりなくなるので私はふんぎゃろとなってさらに熱を出してしまっていましたが。 でもお姉ちゃんがトレセン学園に行ってからは、風邪を引いてもわざわざ戻ってきてもらうわけにもいかず一人で寂しく部屋で布団に包まるしかありませんでした。 そんな時不思議と、何処から聞きつけてきたのか男の子は一人私の元へと看病に来てくれました。いやだ、帰れと言っても聞かず、お仕事で忙しい両親の代わりに御粥を作ってくれたり、リンゴを剥いてくれたりしてくれていました。 「どうしてくるの」と聞くと「お前のお姉ちゃんに頼まれたから」と言って私のおでこの氷を変えてくれたのは今になって思い出すことです。そのあとは私が眠るまで手を握ってくれて、ずっとお姉ちゃんといた男の子が今は私と一緒にいるのがなんだか可笑しくて、お母さんが私の寝顔を見て寝ながら笑っていたわよと言われて顔を真っ赤にしてしまいました。 そしてお姉ちゃんが死んでしまってからは、風邪を引いても誰も来てくれなくなりました。 「………あれ」 息ができなくなってから、目の前が真っ暗になったかと思うと次の瞬間私は知らない天井を見ていました。どうやら病院のようです、あぁ倒れちゃったんだなと気づくのにそう時間はかかりませんでした。 「フクキタル」 横を見るとトレーナーさんが心配そうにのぞき込んできました。あの時のように私の手を握ってくれています。 「トレーナーさん…」 「具合はどうだ? 過呼吸で倒れたと聞いて…どこか苦しい場所はないか?」 「えへへ、大丈夫ですよ。まさか倒れてしまうとは、熱中症でしょうかマチカネフカクタルです…って、あっ!」 外の空がもう夕暮れになっていたことに気づいて、私は思わずトレーナーさんの手を振り払って飛び起きました。しまった! トレーナーさんがここにいるということはタンホイザさんは!? しまったしまった、何ということでしょう私のせいでデートが中止に!? 「デートはどうなっちゃったんです!?」 「途中で切り上げたに決まっているだろう。さっきまでタンホイザ達もお見舞いに来ていたんだ、あんまりグーすか寝ている者だから帰した。門限もあるしな」 「ふざけてる場合じゃありませんってば、どうして切り上げちゃったんですか! もしかして私の方が大切というわけじゃないでしょうね!」 「フク、それはあんまりじゃないか? お前は俺の担当なんだし、お前は…」 「お姉ちゃんの妹でしょ」 私がそういうと、彼は息を少し止め私の方をじっと見つめて、悲しそうに逸らしました。そこでやっと私は酷いことを言ってしまったことに気づいて、冷たいものが胸の中を満たされていくのを感じました。 でもやってしまった。私がしっかりしないから、折角トレーナーさんが幸せになるチャンスを棒に振ってしまったかもしれない、なんていう事でしょう、私の敵は私だったとは! 「…ごめんなさい。でも、本当に大丈夫だったんですよ、ただちょっと息の仕方を間違えちゃったと言いますか。多分今日のアンラッキーアイテムは呼吸だったんですよ! はい!」 「本当に大丈夫か?」 「ええ、だから気にしないでください! 明日からはまた走れますよー! だからトレーナーも改めて続きをしちゃってくださいね、約束、ですからね?」 「…………分かっている、約束だもんな。分かってるよ、フク。だから今日はゆっくり休んでくれ」 「はい、あっでも打ち切る前のデートはどんなことしたんですか? もしかして手でも握っちゃったんですか〜? ほれほれ〜吐いてみてくださいよぉ〜」 私がうりうり〜とわき腹をつつくと、容赦なくチョップが襲ってきます。起き立てなのに容赦のなさっぷりが凄いですが、そのあと頭を撫でてくれたのでヨシとします。 「タンホイザはいい子だよ。とってもいい子だ…どうして今なんだと思ってしまうぐらいに」 「そうでしょう〜そうでしょう〜、何たってタンホイザはお姉ちゃんなんですから!」 「…………」 ほほぉ、トレーナーさんの様子から見て手を繋いだ以上の事しちゃったのでしょうか。うわはぁ〜いいなぁ〜さすがはタンホイザさんです、お姉ちゃんです。 私じゃあこうじゃいかなかったでしょう。トレーナーさんを幸せにできるのはお姉ちゃんだけ、つまり幸せにできたタンホイザさんはやっぱりお姉ちゃんなんです! 私がいくら頑張ってもお姉ちゃんになれっこありません。 「んふふ〜楽しみですねぇ〜! あっ、でも焦って若気の至りでやんちゃしちゃだめですアイテっ!? またチョップ!?」 「阿呆、そんなことするか。俺ももうそろそろ一旦戻るよ、何か欲しいものがあったら買ってくるけど」 「あ、じゃあリンゴがいいです! ほら昔兎さんに切ってくれたでしょ!」 「ははっ、分かった。作ってあげるよ」 「ヤッター!」 そうしてトレーナーさんが部屋から出ていった後、私は満足げにまたベットに体を預けました。いつの間にか苦しさなんかどこかに行っていて、なんだかすぐにリラックスできます。 いやぁしかし、私のせいでどうなったか焦りましたが、ギリギリ上手くいっていたみたいで何よりです! ここから二人のG1幸せ杯がスタートして、トレーナーさんはすぐに昔のようにお姉ちゃんといた時のような笑いをお姉ちゃんに向けてくれるでしょう。そして私はそれを見てやっと安心… 「ひゅう」 あれ? 何だろう息が苦しい。 「ぜひ」 どうしよう、また息が苦しくなっちゃった。 〇 「解任要求…!?」 「うむ…」 理事長室で私は、理事長から見せられた一枚の紙を見て呆然とするしかありませんでした。 それはマチカネフクキタルの専属トレーナーを外すべきだとする他トレーナーさん達の意見書でした。 「呆然。この前のトレーナー会議で議題に上がったらしい、この頃のマチカネフクキタル不調続きと、チームに所属していない専属トレーナーながら他のウマ娘への指導、それらを鑑みて彼にはフクキタルをまともに指導する気がないのだと」 「そんなっ、そんなこと…」 確かにここ一か月半ほどのフクキタルさんの評価は前と比べてずんと落ち込んでいました。レースでもトレーニングでも見てわかるほどにスタミナが落ち込んでしまっていて、このままではアリマの結果も目に見えていると言われているほど。ですが、あまりにも急すぎます。 「承知。たづなの考えていることは分かっている、純粋な心配から来る者もいれば、恐らくは他トレーナーはこの際彼を解任して、フクキタルを自分のチームなどに入れ込もう。と考えている者もいるのだろう。後者が煽って利用しているのかも」 つまりは、彼の席を横取りしてフクキタルさんのトレーナーになることで、自分の価値を高めようとするトレーナー達がいるということです。彼女の素質は本物であり、結果も残しています、アリマだってもう確定しています。アリマ記念の結果がどうあれ、そのレースに出場したというだけでもそれはトレーナー達の中では大きな箔として見られます。あとは適当に走らせて、結果を残せればよし、残せなかったときは違う誰かに押し付ける。トレーナー達もウマ娘たちと同じように競争社会の渦に身を投じているといっても過言ではありませんが、ウマ娘さん達とは違って実力ではなく、愚かにも姑息さでのし上がろうとする者もいるのです。そういう者は早々としてこの学園を去るものですが、去らぬ者は質が悪く生き残るもの、許せません。 「か、彼は? 彼はなんと…」 「当然っ。断固拒否の姿勢を見せている。またスーパークリーク、サクラバクシンオー、ナリタタイシン、ミホノブルボンなどのトレーナー達からの猛反発もあり、強制執行の行使などは認められいないが、このようになものが次は署名入りなどで来た場合は…他の指導をしているのは事実であり、そして彼は味方が少ない…」 「そんな…」 彼女は理事長です。責任のある立場の人間として、自分の意志だけでは決められないことがあります。しかし、これは幾らなんでも酷すぎることではないのでしょうか。 「断腸。私も彼女を知る立場として、応援したいが…」 秋月理事長は窓の外から見える景色を見つめて少し項垂れてしましました。頭の上の猫がにゃあと悲し気に鳴きます。 無力感だけが、部屋の中を包んでいました。 23 私の前にはいつも優秀なお姉ちゃんがいました。学校のテストでいい点数とっても、先生はさすがはあの子の妹さんねと褒められ、学校のレースで一位をとっても周りからはお姉ちゃんみたいに早かったねと言われ…でもそれでもお姉ちゃんのことが大好きで誇らしかったのは変わりませんでした。 だって事実、お姉ちゃんは私なんかよりも美人で、頭もよくて、脚も速く、そしてもう将来の相手を捕まえてたんですから、私が勝てる要素なんて一つもなくて嫉妬心とかさえ沸いてきませんでした。強いて言えば占いとか幸運グッズの数ぐらいで家族への迷惑度では優ってた気はします。 お姉ちゃんがトレセン学園のスカウトされて、さらにお姉ちゃんの名前は広がって行き、名前を出すとまずあぁあの子の、と言われました。学校でもお友達は私を囲んでお姉ちゃんの話題ばかり。家族の期待の目もお姉ちゃんに向けられていました。それも誇らしいはずなのにどこか苦しくて、胸が詰まったような感じがしていました。誰も私を見てくれていないような一人ぼっちのような気がして。 でも不思議と初めてお姉ちゃんと離れ離れになった男の子だけは、いつも通り平然とした様子で、私に絡んでくるのでした。私もいつも通りに彼を嫌っていましたが。 「お姉ちゃんから頼まれたからって、いちいち私をお世話しようとしないでいいから! いい加減ウザい!」 「そんなこと言いながら、一人で原っぱで走ってコケて怪我して、人の背中に乗っているウマ娘は誰でしょーねー」 「ふんぎゃろー!」 ある日の夕方、小さな私は彼におんぶされながら彼の頭をポコポコと叩いていました。密かにお姉ちゃんみたいにレースの練習をしてて一人で勝手に転んで、膝をすりむいて、泣いて、結果男の子に見つかったのでした。 いやいや言いながらも結局おぶってもらい、嫌だったり恥ずかしかったりでずっとむくれていていました。 「お前さ、お姉ちゃんの走り方真似してただろ。危ないからやめなさいよ、あれはお姉ちゃんみたいに足がすらーっとした奴がやるの、おチビじゃ無理無理」 「ぎょっ!? 何で分かって…って別にいいじゃん! かんけーないでしょ、アンタには! もういい歩く!」 「いやごめん、今のはこっちが完全に悪い、言葉が悪かったよ。その、言いたかったのは、自分の走り方でいいってこと。いつもタタタターって走ってるでしょ、それでいいんだよ」 「でも、それじゃあお姉ちゃんみたいに速く走れないじゃん…」 「別にお姉ちゃんみたいに速くなくていいじゃないか。自分らしく速ければそれでいいと思う、元気でうるさくて縁起がいいとババババ―ッと走っていって…そうすればいつかお姉ちゃんに勝てるかもよ」 「お姉ちゃんに…?」 いつもと違って優しい声でそう言ってくれた男の子は、照れ臭そうに笑いました。お姉ちゃんといつも一緒だった人が、私がお姉ちゃんに勝てると言ったのがそれがなんだか可笑しくて、なぜだか嬉しくて背中に顔を埋めたのを覚えています。 「お姉ちゃんのトレーナー、目指してるんでしょ」 「あぁ、見てなさいよおチビちゃん。こちとらプロになって、お姉ちゃんをお前んちのテレビで流してやる。そりゃまぁ…最短コースの高専もすげぇ難しいし受かるか分かんねーけど…」 「じゃあ、それがもしダメだったら。私のトレーナーにしてあげてもいいよ…お兄ちゃん」 「えーやだぁー」 「ふんぎゃろぉーー!!」 そうして二人で騒いで帰った夕暮れ道で、私はお姉ちゃんの真似をするのはやめて、感じていた息苦しさもどこかに行ってしまったのでした。 「ぜぇ…! ひゅう…ひゅう…!」 「フクキタル、これ以上は無茶だ。いったん休憩しよう」 「いえ…んぐっ…まだ、まだいけます…行けますから…ぜぇ、ぜぇ、ぜひ…」 喉に蓋をされたような息苦しさに、膝をつくとトレーナーさんが慌てた様子で駆け寄ってきました。同じく遠くで見ていたタンホイザさんやターボさんも駆けつけてくれます。 私が倒れた時から続いている、この原因不明の呼吸困難は一か月半が経過しても治る兆しは寄ってきてくれる気配はありませんでした。ウマ娘の体は分からないことも多く、病院の先生もお手上げで心因性かもしれないとだけ言われました。 気の楽になるお薬なども進められましたが、レースを走る身としてはそれは出来ない選択肢です。ドーピングに引っかかっちゃいます。 この息苦しさは私から特にスタミナを根こそぎ奪いました。緊張からでしょうかレースなど走るときに特に呼吸困難が起きやすくて、踏ん張ろうとも踏ん張れず結果的にスピードもがた落ち、もともと差し気質の私ですからこれは致命的ですが、先行や逃げにしても結局スタミナ切れで落ち込んでしまいます。勝てるはずのレースに勝てない、大吉が出たはずなのに勝てない。スズカさんの併走についていけない、誰の練習にもついていけない。 でも何より嫌だったのは、トレーナーさんが悪く言われることです。トレーナーがフクキタルをダメにした、無茶な練習法をさせた、挙句の果てにタンホイザやターボに乗り換えようとしている。 何を勘違いしたのか何も知らない人が私なら救ってあげられるとスカウトみたいなことをしてきちゃう、何も知らない子が酷いことをされたねと言ってきて、何も知らない奴らが才能を潰したと彼を責め立てる! 何様のつもりだ! 何を知っているんだ私たちの! スカウトの時みたいに掌を返したようにやってきて、最初から見てくれたのはトレーナーさんだけだったじゃないか! シラオキ様が選んだ人をバカにするな、私の運命の人をバカにするな! でもまぁ! タンホイザさんは最初噂などに遠慮してトレーナーさんから離れていってしまうのではないかとドキドキしちゃいましたが、私やトレーナーさんを心配してくれて、お手伝いをしてくれたりしてくれて順調にトレーナーさんとの距離も縮めていってるようで、ぬふふそれは怪我の功名もとい不調の功名です、ふふふ、エンジェルラブキタル…ぜひ。 とは言っても、いつまでもトレーナーさんを不名誉な言葉に晒していくわけにも行けないので、不調を抱えながらも練習に励んでいるのですが上手くいきません。普段はらくらく…まぁトレーナーさんの練習は容赦ないのでヘトヘトで済んだトレーニングを半分もこなせず、休むことになってしまいます。どうしてアリマも近いというのに…私のせいでトレーナーさんを悲しませるわけには…。 「フクちゃん。休憩しないとまた倒れちゃうよ、少し休もう? ね?」 「フクキタ…」 「いいえ、いいえ…! 大丈夫…ひゅう、ひゅう…ですから! まだまだ、もう一本! 今日のラッキーナンバーにも届いて…ぜひ…」 「フク、無理だ。本当に危ない、お願いだから休んでくれ。走り方もお前らしくない、もっと…」 「大丈夫ですからっ! これ以上皆さんにご迷惑を…はぁっ、はぁ…! ひゅう…かけるわけには、行きませんっ、から!」 ぐっと足を力を入れて、コースをもう一周走ります。例え呼吸が不完全でも私にはトレーナーさんから鍛えられた根性があります、根性と幸運があれば何でもできる! えぇ、できますとも、今日の私は大吉なんです! トレーナーさんも幸せにならなきゃいけないんです! 「フクちゃん! お願い待って!」 その時後ろでタンホイザさんが追いかけてきました。ぞわっと体が冷たいものに包まれます、後ろからお姉ちゃんが、お姉ちゃんの走りがやってくる。そう思うと足に力がいつも以上に入ってしまいます、ダメ追い付いてこないで、追い抜かないで、負けたくない。 あれ、負けたくない? 何ででしょう、お姉ちゃんに勝てるわけがないのに、どうして負けたくないなんて思っちゃうのでしょう? 可笑しいですね。 そう思うと、脚が地面じゃない所を蹴った気がして、いつの間にか視界がぐるりと廻った気がして、ゴンっと頭が揺れた気がして、お兄ちゃんの声が聞こえた気がして。 目の前が真っ暗になったのでした。 24 トレーナーさんの声にもならない叫びがコースに響きました。 内ラチに頭をぶつけて動かなくなっているフクちゃんを見て、私は走りを止めてただ立ち尽くしたままで何もできず何も言えず、トレーナーさんが必死に走って私を追い抜いても一歩も足を踏み出せませんでした。 「フク! フクキタル! あぁダメだダメだダメだ…フク!」 倒れたフクちゃんに縋りつくようにしながらトレーナーさんは頬を叩いて呼びかけますがピクリとも動きません、どれだけ勢いよくぶつかってしまってのかラチはひしゃげてしまっていて、血が…私が追っかけてしまったから? フクちゃんは私から逃げるようにスピードを上げちゃっていた、私が走ったから…。 「お願いだ、目を開けてくれ…置いていかないでくれ…こんな、どうして…神様…」 「うわあー! フクキタが、フクキタルがー! 誰か助けてーー誰かっうえっ!?」 その時、ターボが大声で泣き声混じりで走ってくる後ろで誰かがターボを追い抜いたかと思うと、見慣れた緑の服が稲妻のようにブレて、トレーナーさんのところで止まりました。たづなさんでした、声をかけつけて来てくれたようです。 「はぁ…はぁ…フクキタル…さん! …っ、頭を、ぶつけて…!」 「たづなさん…走っている途中で、転んで…どうすれば、僕はどうすれば…」 たづなさんへと顔を上げたトレーナーさんお顔は今まで見たこともないぐらい弱弱しくて、手も声も震えていました。まるで一人ぼっちで雨に打たれて自分が何処に行ったらいいのか分からない子供のように、ボロボロなのです。 それを見た彼女も両手を握りしめて震え、崩れ落ちるようにフクちゃんの近くに座り込みましたが、一つ地面を叩くとまた立ち上がったようでした。 「もう、二度と、二度と…! トレーナーさん、しっかりしてください! 見たところ出血は転んで切ったものです、揺らさずに声をかけ続けて!」 「あ、あぁ…あぁ…」 「ターボさん、タンホイザさん! コース外にある救急箱を持ってきて、一人は横にある直通電話で保健室のお医者さんに救急車を呼んで、すぐ来てもらうように行ってください! 早く!」 「はっ、はい! ターボ!」 「うん! 早くー!」 たづなさんから声をかけられて、やっと私は動くことができました。ターボと一緒に走っている後ろで、たづなさんはトレーナーさんが声をかける横でハンカチでそっとフクちゃんの傷口を抑えてくれていました。 それからはもう必死で、コース外に設置されてあるボックスから救急箱をターボに渡して、備え付けの電話で叫ぶように話して、お医者さんが他のウマ娘さんから運んでこられて、救急車が来て…みんなでフクちゃんとトレーナーさんが乗った救急車を見送って…。 やっとそこで緊張が抜けていった気がして、一人へたり込んじゃって。どんどん涙が溢れてきました。 「ふ、フクちゃん。大丈夫かな…私が、私が追いかけちゃったから…どうしよう、フクちゃんが…ひぐっ、死んじゃったら、ぐすっ、うぇぇぇぇ…・」 「マチタン…」 「タンホイザさん、大丈夫ですよ、大丈夫…」 そんな私にそっとたづなさんが優しく抱きしめてくれました。 「で、でも、あんなにラチもへこんで…」 「あれは元々壊れやすい素材で出来てるんです。誰かがぶつかってしまっても、簡単にひしゃげてクッションになってくれるように。こういう時の為に近くにホットラインも救急箱も欠かさず置いています。皆さんの迅速な行動のお陰で、出血もそこまでひどくありませんでした。絶対助かります」 「本当? ホントに?」 「えぇ、絶対…」 そう言って頭を撫でてくれたたづなさんに、私は何だか安心してしまったまた涙があふれ出てしまって、たづなさんに抱き着くように泣いてしまいました。ターボも優しく私の背中から抱き着いてくれます。優しい子です。 「それより……」 ふとたづなさんは周りを見ていました。そこには騒ぎを聞きつけた人やウマ娘たちがざわざわと噂をしていて、それが全部フクちゃんのトレーナーさんに対する決して良くない言葉だと分かりました。 「いつかやると思っていた」「わざとではないのか」「そこまでして切り捨てたかったか」「ハードトレーニングは昔からだった」「彼の失態だ」「最低」遠慮なしに呟かれる言葉が聞こえてくるのが嫌で、私は耳を塞ぎたくなってきました。違うあの人はそんな人じゃない、私が…。 「なんでそんなこと言うのっ!!」 耳がキーンとするような大声に目を向けて見ると、ターボが周りの人たちの前に立っていました。両手を振りながら飛びながら怒っています。 「そこののっぽ! 周りで見てただけの癖に何でトレーナーがいなくなってから悪口を言うの! 言いたいことあるなら直接言えばいいじゃん! そこのふとっちょ! なんでトレーナーが悪いの! 誰も悪くないもん! 何で誰もフクキタルのこと心配してくれないの! マチキタが今怪我してるんだよ! あんぽんたん!」 それがあまりにも大きな声だったのか、それとも何か言い返そうとしたらその鋭い歯で噛みつかれそうだったのか、周りの人たちはみんなどこかに散ってしまって、フクちゃんを心配した友人たちだけが残ってくれました。 「ツインターボさんは…強いですね」 「えへへ、そうでしょ! えっへん!」 ふんっと胸を張るターボに私達はいつの間にか笑いかけていました。本当に強い子です。 〇 たづなさんが言ってくれた通り、フクちゃんは脳震盪と跡も残らない数針ほどの傷だけで命に別状はありませんでした。それを病院で聞いたとき私はホッとしてまた泣いちゃいました、えへへ。聞くところによると、コースの整備やケガの防止策はたづなさんと理事長さんがずっと推し進めて実現したものらしくて、きっと死んでしまったあの子のようなことを繰り返したくないと思った二人の思いがフクちゃんを救ったんだと思います。ありがとう、本当にありがとう…。 一日した後、フクちゃんへのお見舞いが許可された、私は早速ターボと一緒に病院に駆けつけました。フクちゃんはお友達がいっぱいいるので途中でいろんな人と合流しながら一気にみんなで押しかける形になってしまって、病院の人たちから目を丸くして見られちゃいました。あはは…すいません…。 トレーナーさんは、一人フクちゃんが目覚めるまで前に倒れた時と同じように隣で手を握ってくれていたみたいで、彼の彼女への愛情深さが伺えます。でも、私だって向ける愛情深さでは負けているつもりはありませんよ、むん! でも今だけはフクちゃんに譲ってあげます。えへへ、勝負は公平じゃないと、だもんねぇ。 「こんなにお友達がいるって凄いなぁフクちゃん…。スズカさんと初めてお話ししちゃった…やっぱり強者の貫禄があるなぁ…あっ、トレーナーさん!」 みんなでフクちゃんの病室の近くに来ると丁度、トレーナーさんが出てきました。そのままこちらに歩いてきます。 「フクちゃんはどうですか? …………トレーナーさん?」 でもトレーナーさんは私を見て、少し笑って「お見舞いありがとう」と言ったきりそのまま私たちの横を歩いて行ってしまいました。あの人なりに落ち込んでしまっているのかな、と思って声もかけらず、かといって不思議な顔をしたままフクちゃんの部屋に入るわけにもいかないので、みんなで笑顔でドアを開けてなだれ込むと、フクちゃんはベッドから身体だけ起していて、こちらを見てニッコリといつものように笑ってくれました。 「わぁーーっ! いきなりみんなで入ってきたからびっくりしましたよーーっ! んもぅ〜さすがの私もオドロキタル! お騒がせしましたホントに!」 「わぁ〜ん! よかったフクちゃぁ〜ん! ごめんねぇ〜!」 「どわーっ! タンホイザさん! 抱きしめられるとくるちい…! でもありがとうございます、ターボさんも、タンホイザさんも、おかげで命拾いしましたよ〜! 心配せずともこの通りピンピンしてます、明日には退院ですって!」 「よがった〜! ほんどに〜! さっきトレーナーさんにすれ違ったよ、お見舞いありがとうって行ってた!」 「そうなんですか!? トレーナーさんが外にいたんですか? 中に入ってくればいいのに、恥ずかしがり屋なんですかねぇ。顔も見せてくれないなんて」 「…………えっ? 今さっき中にいたよね?」 「ん? どゆことですか?」 えっ? ……えっ? なんだか話が理解できなくなっちゃいました。さっきトレーナーさん、病室から出てきてたよね? 「もう、すごい心配したんだから。呼吸の方は大丈夫、苦しくない?」 「スズカさーん! いやぁ、これが全く! どこかに行っちゃったぐらい胸がスッキリしてるんです! いつでも走れますよー!」 わーいと両手を上げるフクちゃんの首に、見たことがある指輪がぶら下がっているのに気が付きました。フクちゃんのトレーナーさんが大事にしていた、死んでしまった恋人さんのおもちゃの指輪。なんでフクちゃんが持っているの? 「ふ、フクちゃん…その指輪…」 「あっ、これですか! 死んじゃったお姉ちゃんの指輪なんです! 先ほどお見舞いに来てくれていた学校関係者の人から、貰ったんです! お姉ちゃんの知り合いみたいでずっと預かっていたって!」 「えっ……? 関係者って……お姉ちゃん…?」 「どこかのトレーナーさんだとか! お姉ちゃんの知り合いさんだったみたいで、親切ですよね! ずっと大切に持ってくれたみたいなんですよ! 怪我をしたとき偶然知ったみたいで、いやぁこれも怪我の功名でしょうか、こんなところでお姉ちゃんに巡り合うなんて!」 「トレーナーさんのこと、覚えてないの…?」 「えっ、あっ、いやぁ〜それが……その…頭を打っちゃったからでしょうか。お顔とかもろもろが思い出せず…お医者さんが言うには何でか分からないと…まぁ此処まで二人三脚一緒に頑張ってきたことはちゃんと覚えているので、お顔を見れば一発で思い出せますよ! ええ! じゃないとトレーナーさんに申し訳が立ちません!」 周りの皆もその言葉に戸惑いを隠せないようでした。まさか、そんな、そんな、そんな。 そんな。そんなのって。 25 小さいころ、私にはお姉ちゃんがいました。 とっても優秀なお姉ちゃんで、頭が良くて美人で、とてもカッコよくていつも私の前を走っていて私の誇りであり、目標だったんです。 私が勝てるのはまぁ精々占いの種類とか、幸運グッズの数ぐらい、あと家族への迷惑度も。おてんばでした本当に、えへへ。 でもお姉ちゃんは事故で死んでしまって、その背中には永遠に追いつけなくなって…でもシラオキ様のお告げで、私もトレセン学園へと入ることになって、試験にも合格して、私には持ったないぐらいのお友達も出来て、私は幸せ者です! まぁ練習中に頭を打って病院にゴーしちゃいましたが。危ない危ない、死んでしまっては天国のお姉ちゃんに何と言われるか。 「ん…?」 私が目を覚ました時は前にも見た知らない天井。窓を見るともう日はすっかり落ちていて長いこと気絶してしまっていたようです。 「フク…?」 ふと声が聞こえたと思って、隣を見て見ると男の人がこちらを覗き込んでいました。手が暖かいなと持ったらなんと、私がその人の手をぎゅっと握ってしまっているではないですか。 「ほぎゃーっ! すいませんすいません! これは失礼なことを!」 「どこも痛む所はないかい? すまない、僕が無理やりでも止めていれば…こんなことには…」 「いえいえ、そんなことは…お気になさらないでください! えっと、その…お医者さんですか?」 私がそういうと男の人はひどく驚いたようにじっと私の目を見つめてきました。何か悪いこと言っちゃたのでしょうか、あ、もしかして研修医さんだったとか? 「あの、もしかしてお気に障ることでも言っちゃいました…?」 「い、いや…ごめん。お医者さんを呼んでくるよ」 そう言って、彼は病室から出ていきました。すぐにお医者さんが来て、彼と共にいろいろと質問を投げかけてきました。 小さいころの話とか、学校の友達の話とか、トレーナーさんの話だとか、そう! トレーナーさん! なんてことでしょう今の今までトレーナーさんの事が頭からマチカネ吹っ飛びタルしていました!なんという恩知らず! あんなに一緒に頑張ってきてくれたのに! 私が調子に乗ったときも見捨てずにいてくれて、札幌記念時も…時も…えーっと何を話したんですっけ。 ……大変です、トレーナーさんの顔が思い出せません。どうしましょう、あんなにお世話になったのに! 私の話を聞いてお医者さん達は脳震盪が原因の記憶障害かもしれないと言ってくれましたが、詳しいことは何もわからないということでした。 落ち込んでいる私に男の人は優しい言葉をかけてくれて、また次の日に会おうと言ってくれました。優しい研修医さんです、きっと将来は立派なお医者さんになることでしょう。 まぁ次の日になっても記憶は戻ることなく、しかも男の人は研修医さんでもなく学校の関係者さんでしたが。 「きっとお顔を一目見ればすぐにぜーんぶ思い出すはずなんですが! あぁ〜どうしましょう、トレーナーさんはきっと何てやつなんだと原末するに違いありません〜〜!」 「大丈夫だよ、きっと笑ってすましてくれるさ。いつもの事だろうってね」 「えへへ、あ、ありがとうございます…なんか方向性の違う信頼ですが。まぁきっとそうでしょう! はい!」 「息は? 苦しくないかい?」 「あっ、そういえば! あんなに息ができないくらい苦しかったのに、スーッと息が吸えます! 不思議です! そもそも、なんであんなに苦しかったんでしょう!」 「そうか…」 私がそういうと彼はホッとしたように笑顔を見せました。そう言えば彼はなぜ私をこうやって心配してくれるのでしょう? どなた? 「僕は…………学園でトレーナーをしていていてね。実は君のお姉さんと知り合いだったんだ、君の名前を聞いてもしやと思ってね」 「お姉ちゃんの!? 男の人の知り合いもいたんですね!」 「あぁ、まぁ…学校でも彼女は交友関係は広かったからね。それで預かっていたものがあるんだよ」 そういうと男の人は、首から一つのネックレスを取り出しました。先にはおもちゃの指輪がぶら下がっています。 「これ、お姉ちゃんが持ってたおもちゃの指輪…! どうして!?」 「事故の時これだけが学校に残されていてね、家族に渡す機会がなくて。ずっと僕が持っていたんだ、君に返すよ」 「お姉ちゃんの…………あれ?」 彼はおもちゃの指輪を私の手に渡そうとしたものの、暫く私の手の上で固まっていました。手が震えていて、奥歯を噛みしめて何かを必死に耐えようとしていて、苦しそうに見えました。それほどに手放したくないものだと私にはすぐに分かりました。きっとずっと本当に大切にしてくれたのでしょう。ようやく彼が私に指輪を渡してくれたのはその数分も後でした。おもちゃの指輪は昔のようにピカピカです。どうしてお姉ちゃんはこんなおもちゃを大事に持っていたのでしょうか? 「あの、本当に貰っても良いのでしょうか。お姉ちゃんのでもそこまで大事にしてくれたのなら…」 「いやいいんだ…元あるべきところに帰るべきなんだよ」 そうすると廊下から病院なのにワイワイと声が聞こえてきました。聞き覚えのある声が沢山、私の大事なお友達たちです。 「お見舞いのようだね。お邪魔してはいけないな、僕はもう行くよ。お大事にね」 「あっ、はい…あの、トレーナーさん!」 椅子から立ち上がって帰る彼の背中に声をかけると、彼はびくっと肩を跳ね上げました。 「えーっと、トレーナーさん…なんですよね? その、ありがとうございました。私なんかにずっと付き添ってくれて! きっと指導してもらえる子は幸せ者ですね! 優しい人がついてくれて!」 「…………そうでもないさ」 彼はそのまま振り返らずに病室から姿を消しました。あの人の担当さん、どんなウマ娘なんだろうなぁ、きっと真摯に育ててもらって強いんだろうなぁ…。 そう思っていると、友人たちがドアを開けて私を見たので、私もそんなことは頭の隅に追いやって、ニッコリと笑顔を返したのでした。 〇 これで彼は追い詰められた。 今日のトレーナー会議で、フクキタルのトレーナーの解任要求の署名が行われ殆どのトレーナーがそれに同意した。彼女の怪我が反対派を押しつぶすほどに賛成派を後押ししたのだった。 私はというとサインはできなかった。別に彼の味方がしたかったわけじゃない、ただ彼の空虚なあの笑顔がどうしても記憶にこびりついている。 心を殺しているような笑顔、本当に周りが言うように自分の欲の為に担当を切り捨てるような人が、あんな笑顔をすることができるのだろうか。私はあの人の事を理解したいわけではない、だが分かっていることがある。彼は優しいということだ。 「なんで……賛成しなかったのですか……?」 トレーナー室でミークが不満げに聞いてきた。当然だろう、私が反対したとあればいらぬ噂が立つ。いろいろと下らない噂。 しかし噂は噂、言葉は言葉、こん棒で殴られたわけじゃないのにどこが痛くなる? 「フクキタルさんを、彼から離して良いものか。そう思いまして」 「いいに…決まっています……あの人は……そうされても仕方ないことをしました……あの人は、連れ添った担当を…捨てようとしたのです…」 「本当にそうでしょうか」 「えっ……?」 「そもそも、彼女を切り捨てるならもっと前に良いタイミングがあったはずです。メディアにも叩かれて、他トレーナーからも評判は悪かった。でも彼はそうしなかった」 机の鉛筆をくるくると回すと、ミークはさらにその目に圧をかけてきた。こういう表情は彼女には珍しい、怒っているような、困惑しているような。しかし彼女にも少し思い当たることがあったのでしょう。 「言っている意味が……分かりません……」 「つまり、彼は切り捨てようとしたわけではなく、彼女の為に行動した結果がこれなのではないかと」 「私に……言ってよかったですね……正気を……疑われます。そんなこと……あり得ない……」 「あり得ないかはどうか、話を聞いてみないと分かりません」 「正気を……疑います……、会う、というのですか……あの人に……どうせつらい思いを……」 「会います。どうせ……」 そうしていると、ざわめきと共にトレーナー室のドアが開かれました。 「あっちからくるでしょうから」 そこに立っていたのは、思っていた通りあの人でした。 26 「よく…ここに……顔を出せましたね」 ミークが怒りで震えた声を出した。目の前の男の顔面を数センチほど陥没させちゃいけない理由を必死に頭の中で浮かべているようだった。もしここに私がいなくて、開けっ放しのドアからチームの娘たちがこちらを覗いておらず、すぐ横に成人男性一人分が入るような穴と土とシャベルがあれば確実にミークは行動に移しただろう。 「ドアを閉めていただけますか」 反して私はミークほど怒りは湧き上がっていなかった。もっとも彼に怒りを感じないというわけではない、彼がここに来ることは予測できていたから耐えられたからで、もし心構えも出来ず、誰も見ていなくて、すぐ横に成人男性一人が入りそうな穴と土とシャベルがあれば確実に行動に起こしていただろう。 だってそうだろう、次に彼から出てくるだろう言葉は虫が良すぎるし、ミークだけではなく聞いた全ての人間がどの面を下げてそんなことを言うのかと憤慨する言葉なのだから。 「お願いがあってきました」 彼は入り口で覗いていたウマ娘たちを一瞥することもなくドアを閉めると頭を下げた。 「フクキタル、マチカネフクキタルを…桐生院さんに担当してもらいたいんです」 「この……っ!」 ミークが思わず拳を握りしめて一歩を踏みしめたので、私はその手を握って椅子に座らせなければいけなかった。 「貴方は……いったいどんな神経をしているんですか……自分が捨てようとした担当を……私のトレーナーにお願いしたい……? 頭かち割って中身を見てみたいです……」 本当に彼女がそうしそうな勢いだったので、私はロープを用意した方が良かったかなと思い始めた。 「自分がどんなに恥知らずで、厚顔無恥で、最低な男かというのは分かっています。だが、頼める人は桐生院トレーナーしかいないんです。俺が知る中で信用できるトレーナーは貴方しか、いませんから」 自惚れではないが、それは知っていた。ずっと前から彼は人づきあいがお世辞にも上手いとは言えないタイプだからだ。だから私が彼から去った時は本当に彼は友人という者は一人もいなかっただろう、だからフクキタルさんが彼と楽しそうに親しく話せていた時は驚嘆と嫉妬が同時に沸いたことを否定はできない。 そう、フクキタルさん。思えばあの子はあの人にとって最初から特別だったのだろう。 「では……さっさと帰ってください……貴方が手放したのでしょう……またあなたは捨てたんだ……逃げ出したんだ!」 「ミーク。……それは誰の為ですか? タンホイザさん?」 「トレーナー……!」 「まだ受けるとはいっていません。だがまず理由が聞きたいのです、貴方の行動は矛盾がありすぎます。お聞かせください、私にはその権利があり、貴方にはその義務がある」 彼は少しばかり躊躇したようですが、それが前提条件だと分かったのだろう。ぽつりぽつりと話し始めた。 彼女との出会いから、彼女と死んでしまったあの子の関係、タンホイザさんとのこと、彼の行動が全てフクキタルさんの願いによってもたらされていたこと。 それらをすべて聞いたとき。今にも飛び出しそうだったミークは呆気に取られて背もたれに体重を寄せるだけになっていた。 予想していたとはいえ、私も同様だった。そこまでとは、そこまで彼女を思えるのに、なぜ彼は死人しか思えないと自らに絶望しているのか。 彼は阿呆だ、バ鹿だ。フクキタルさんも同様だ、お互いそこまで思い合って、自分の事は想えないとは。 「それで、フクキタルさんを私がチームに入れたとして。貴方はどうするんですか? 結局の所、貴方が去ったらフクキタルさんは笑顔どころではなくなると思いますが」 私がそういうと彼は何故だか笑った。渇いた笑いだった、砂漠の中でオアシスを見つけたと思ったら蜃気楼が見せた幻だったような、抱いた希望が全て絶望に変わった時の、どうしようもなくなった人間の笑いだった。 「それは大丈夫だと思います」 「……どうして? 自分が……フクキタルさんから……絶縁でも、申し込まれましたか……それなら……納得ですが」 「そうだったら、良かったんですが。フクは俺の事を全部忘れてしまったんです」 「忘れて…?」 それはフクキタルさんが記憶喪失になったという話でした。ピンポイントに、彼の事だけが記憶からなくなったという、とても信じられない話。 「不思議でしょう? でも、それであの原因不明な呼吸困難もなくなったんです、きっとまたあの様に走ります。俺が彼女を苦しめていたんですよ。俺が…ハハハ、本当に俺は、どうしようもないトレーナーなんです」 彼はまた笑った。だが私もミークもとてもそれが嘘だと怒る気になれなかった。彼の目が今にも信じたくないと叫びだしだしそうだからだった。 渇いた笑いとその目のアンバランスが私にはとても恐ろしく、彼を放っておいたら何をするのか分からなかった。怖かった。 「ですから、お願いします。俺ではフクキタルを苦しめるだけなんです。俺じゃあ……だからお願いします…お願い、します。前のトレーナーの事は、噂のままに聞かせてください。そっちの方がい、そっちの方が忘れたままになりやすい」 彼はそうやって頭を下げました。 ミークは信じられないという目で彼を見ました。 「た、タンホイザさん……タンホイザさんは……どうなるんですか?」 「俺から……話します」 「そういう……ことを……言っているんじゃありません……! また逃げるんですか……! 誰もかも置いて、一人だけ、逃げるんですか……! 貴方はどれだけ人の心を、傷つければ済むんですか……!」 「…もう、誰も……お願いします」 「ふざけないで……!」 「ミーク」 椅子から立ち上がってミークが詰め寄るのを、私はまた手を掴んだ。ミークは邪魔すると投げ飛ばしますよという目で私を見つめましたが、私がお願いというと、また不満げに椅子に腰を下ろしました。 「分かりました。お受けします」 「トレーナー……!」 「…ありがとう、ございます」 「ただし条件があります」 私の言葉に、彼は私の目を見た。そう、条件がある、今の彼なら何でも言うことを聞くのだろう。私と復縁しろとでもいったら喜んでやるのだろう。恐らく死ねと言えば死ぬのだろう。 だがそんな楽な方に進ませてたまるか、私にだって思いがある、意地がある。復縁もいらなければ、彼の命もいらない。 私はトレーナーだ、因縁のある相手のとはいえ、困っているウマ娘さんは無視できない。私は人間だ、一度情を結んだ相手が目の前の人がこのような状態になって放っておけるほど、無情ではない。そして彼の話を聞いた。ミークだって怒ってはいるが、このまま二人をそのままにしてはいけないと理解しているだろう。 だが苦しんでもらう、そうしないとどちらとも理解できないだろう。そうまでしないとこの人はいつまでたっても理解できないだろう。 私も、前には進めないだろう。だから条件がある。 「チームのサブトレーナーになってください。それが条件です」 27 フクちゃんのお見舞いを済ませた後、私は一人公園のベンチでぼーっと空を見ていた。 そうでもしないといろいろと衝撃的な情報が詰め込まれすぎて、破裂しそうなくらいパンパンになっている頭を落ち着かせられない。これ以上何か知らされたら、頭に穴が開いてどこかに飛んでっちゃうのは疑いようもない。 フクちゃんが、記憶喪失。トレーナーさんの事だけをすっぽりとその頭から抜き出したかのように、あの人だけを忘れていた。なんで? そんなにあの人の事を忘れたかったの? どうして? 思えば、私がトレーナーさんとおしゃべりしたり一緒にいるときにこちらを見ているフクちゃんはニコニコ笑顔だったけど、その目は何処か違う何かを見ているようだった。いつでもそれが何かなんて気づけたはずなのに、いや、私は気づいていたはずなのに気づかない振りをしていた。それがなんだか聞いたとき私たちの関係がバラバラになってしまいそうで、心がズタズタになってしまいそうで。 だってトレーナーさんの幸せが私の考える幸せとは全く違うなんて、そんなことになったら私はどうすればいいのだろう? それが嫌で先延ばしにして、目の前の幸せ、彼が振り向いてくれるという幸せに浸った結果が、突きつけられた答えだった。トレーナーさんが想っている死んでしまったあの子は、フクちゃんのお姉ちゃん。 フクちゃんは私を通して、自分のお姉ちゃんを見ていたんだね。そしてトレーナーさんは…トレーナーさんはきっとフクちゃんの為に、私と一緒にいてくれたんだ。だってあの人は死んじゃった人と私は違うって言ってくれたから。言ってくれたから。 空の青と白がぼやけて、混ざり合った。泣いちゃダメだって思っても、あふれ出てきてしまう。 私はみんなの期待に応えるためならどんな努力だって辛くない、それが何処にでもいる普通な私ができる精いっぱいの事だから。でも誰かの期待に応えるために恋をしろだなんて、辛すぎる、私の恋だけは私だけの為に叶えたい。それはどんな普通の女の子でも特別な女の子でも、女の子だけではなく男の子だって、そうしたいはずなんだ。 でも私が恋した人は、そうではなかった。誰かのために恋を…………恋、してくれたのかなぁ。それさえも分からない。 「マチターン! 大変だぁー大変大変!」 ふと公園全部に聞こえるぐらいの大声が響いたかと思うと、遠くからターボが手を振ってこちらにやってきていた。慌てて涙を拭うとしゅばっとターボが私に飛びついてきた。 「た、ターボ? 先に学校に戻ってるんじゃあ…」 「ぜぇ、ぜぇ…叫んだせいで息がぁ…ひーひー、えっとね、えっとねターボ、聞いたんだ。マチフクのトレーナーがね、担当辞めちゃうって!」 「えっ……?」 私の頭の中でパーンと破裂したようなような音が聞こえた気がした。頭に穴が開いたのかもしれない、ターボが掴んでくれてくれるから飛んでっちゃわないだけで。 「な、なんで…?」 「わかんないけど、とれーなーかいぎ? で決まって、マチフクの担当辞めなきゃいけないから、その前に自分からって! 学校の人たちから聞いた! わかんない、なんでターボが大変だったねって言われるの?」 私のせいだ…私がトレーナーさんに無理を言ったから、私が周りの噂なんか気にしないでトレーナーさんがどう思ってるかも分からないで一緒にいたから…フクちゃんの事も考えずに…そうだフクちゃん。どうしてフクちゃんの担当を降りるなんて言うの? 止めるのなら私たちの指導をやめた方がいいのに…いや、違うんだ。フクちゃんの為だから私たちのトレーニングも止めなかったんだ。そして今トレーナーさんは自分のせいでフクちゃんが不調になったと思って離れようとしてる、でも離れてからそれから、それからどうするの…? 違う、違う、フクちゃんが息ができなくなったのは私のせいなんだ…消えるなら私の方なのに…。トレーナーさんに言わなきゃ、トレーナーさんはフクちゃんから離れないでくださいって、貴方のせいじゃないって。 どうしてそんなにフクちゃんの事が好きなんだったら、好きだって言ってあげないの、どうして今になって、今になって気づいていしまったの…こんな…こんな…。 「ねぇマチタン! トレーナーにやめないでって言いに行こうよ! フクキタが可哀そうだよ!」 「う…うん……」 ターボが手を引っ張ってくるけど、私の身体はベンチから離れることはなかった。不思議に思ったターボがさらにグイグイと手に力をれるけどそれでも腰は浮かなかった。 「マチタン…? 早くいかなきゃ…」 「ごめん…ターボ…一人で、いって…」 「えぇー!? なんでなんで!? ターボ一人じゃみんな聞いてくれないもん! 何言ってもみんな頭撫でてくるんだよ!?」 「ごめん…ごめんね……でも…私、恐い…会いたくない…」 恐い、恐い。あの人からもういらないと言われるのが怖い。本当は何の感情も私には向けていなかったと知るのが恐ろしい。あの時の口づけで心が満たされたのが私だけだったなんて信じたくない。今までの全てが無意味だったなんて耐えられない。 「で、でも…トレーナーが…マチタン、トレーナーの事好きじゃなかったの? 分かんないよ!」 「私だって分からないのっ!」 ビックリするぐらいの大声が出て、ターボは小さな悲鳴を上げて私の手を離した。目からはとどめようとした涙がもう堰を切ったように流れて、頬を流れていった。 「もう、何も…わかんない! わかんないの!」 「マチタン…」 「もう、頭の中グルグルで、好きとか嫌いとか、フクちゃんとかトレーナさんとか、どうすればいいかわからないの! 行って、行ってよ! 一人にしてっ!」 私がターボを見ると、ターボはウルウルと目に涙をためて、嗚咽を堪えているようで。やってしまったと後悔した、こんな優しい子に怒鳴り散らしてしまうなんて…。 「あ…ご、ごめんね…ターボ。ごめん…大声を出すつもりじゃなくて…その…」 「ひぐっ…ぐすっ…マチタンのあんぽんたんーー!」 手を伸ばそうとしたけど、ターボはそれより先に走っていってしまって。私はまた公園で一人になった。周りはとても静かで世界で私だけになったみたいで、思わず膝を抱えて、止まらない涙だけを感じた。 「どうしよう…ぐすっ、うぇぇ、うぇぇぇん…」 こんな時少女漫画だったらきっと主役や友達や、新たな出会いが、雨に濡れた私に傘をさすようにやってきてくれるのだろう。だがそんなことはありえないと、私は知っていて。それが悲しくて。 そして本当に誰も来ることはなくて、私はただ泣いた。どうすればいいのかわからずに泣いた。 28 返事は明日聞きます、それ以上は待ちません。嫌だというのならばフクキタルさんの話は諦めてください」 と桐生院トレーナーは言った。 フクキタルを迎え入れてくれる代わりの条件、それは自分がサブトレーナーになること。 そんなバカな、と思った。それでは意味がない、フクキタルから離れないと何も意味はないのだ。 俺が、俺が彼女をこんなにしてしまったというのに。俺にはもう彼女の隣にいる権利も何もないというのに。なぜ桐生院さんは俺とフクキタルを近づけようとするんだ。 お願いだ、やめてくれ。彼女がまた走れなくなるなんて思いたくない、フクには笑ってほしい。あの子が泣くと胸が苦しくなる。苦しむ姿を見ると、自分の胸が張り裂けてバラバラになりそうになる。 俺達が一番好きだったのは、あの子の笑顔だ。あの明るさが、泣き虫でも泣いた後すぐに笑うあの朗らかさが好きで、あの子の周りには笑いが溢れていて、二人とも憧れた。 「あの子はきっと特別な子なの」 と遠い日に彼女は言った。 「私には持てっこないものをいっぱい持ってる。お友達もいっぱい、将来が気になるほど脚も速い、明るくて…私もこうなりたいって憧れる」 「でも妹ちゃんはお姉ちゃんに憧れてるってずっと言ってるぞ。そういうならそっちだって、あの子より脚も速い、美人、頭もいい、自分では気づかないもんさ」 「それに、将来の旦那さんもいるしね。うふふ、これ、誰にも負けない自慢よ? 貴方とならずっと笑える自信があるの、本当に」 「あー…その、うん。俺も、僕も。しかしコレ、中学生がする会話かなぁ」 「いいじゃない。幸せにしてね?」 その時の彼女の笑顔は本当に素敵だった。綺麗すぎて、眩しすぎて目を逸らしてしまうほどに。 この子と一生一緒にいれて、そしてその特別な妹が自分の妹にもなることを神様に感謝した。そして神様を恨んだ。 桐生院さんのトレーナー室から出て行って、他のウマ娘の軽蔑の視線を受けながら学校のコースが見えるベンチに座る。遠くのコースでは誰かの練習風景が見える。彼女の笑顔のように眩しい太陽は、どんどん雲に隠れていった。もうすぐ雨が降りそうだ。 ふといつものように胸にある指輪に触ろうとして、今はもう無いことを思い出す。 あの子がさえいれば何もいらなかった頃に戻りたい。あの子が僕の全てだった、隣で笑ってさえくれれば何もいらなかった。何もいらない、何も欲しくない、ただあの子が僕の手を繋いで微笑んでさえくれれば。 何故あの時自分はあの子を送り出してしまったのか、あの子の妹と同じく必死に引き留めればあの子は死ぬことはなかったのに。 何故、葵に一言愛していると言えなかった、そうすれば彼女が傷つくこともなかった。何故タンホイザと親しくすることを拒否できなかった、そうすれば彼女を傷つける未来はなかった。何故フクキタルに……そうすれば彼女は……。 誰かを傷つけることしかできない、自分には誰かと心を通わせることなんて許されない。もはや自分にはあの子を想う資格さえない。 だが、フクキタルだけは、フクキタルだけは幸せにしなくては、しかしそのための条件はとても飲めない。また彼女を傷つけることになる。 どうすればいい、桐生院トレーナーには妥協案なんて通じないだろう、芯の強い素晴らしい女性だ。 手で顔を覆うと、ぽつりぽつりと雨が降ってすぐに土砂降りになってきた。遠くのコース上のウマ娘たちが急いで屋根の場所に走っていくのが指の隙間から見えた。 「フクキタトレーナー!」 ふと、その大雨の中を突っ切るように遠くから声が聞こえた。ツインターボだ、こちらを見つけて必死に走ってくる。雨に濡れるのも構わずに。 「トレーナー! 止めちゃうの! なんでなんで!」 彼女が息を切らしながら俺の膝にタックルした後の第一声がそれだった。誰から聞いたのかと思ったが今や俺とフクキタルの事は校内中の噂だ。誰から聞いても不思議ではなかった。 「やだよ! ずっとフクキタと一緒だったんでしょ、嫌じゃないの! ずっと二人でやってきたんでしょ!」 「ターボ、風邪をひく。早くどこか濡れない所に行きなさい」 「やだやだ! まだ教えてもらってないもん、本当は一緒が良いんでしょ!」 「ターボ…今回の事は俺が悪いんだよ。いや今回の事も、だから学校からやめなさいって言われてその通りにしなきゃいけないんだ。俺にはもうフクキタルと一緒にやる資格はないんだ」 「わかんないわかんない! フクキタトレーナー嫌じゃないの!? 何で嫌だ―っていわないの! フクキタが可哀そうだよ!」 「わかってくれターボ、彼女にとってはいいことなんだ。俺がいなくなったら、彼女は元通りに走れるんだよ。俺の事は忘れたほうがいいんだ。一番良いんだ。ターボも元の速いフクキタルの方がいいだろ?」 「良くない! 良くない! そんなの元のフクキタじゃない! トレーナーじゃない! みんな、みんな笑ってたもん!」 「じゃあ、どうすればいいんだっ!」 「ぴっ……」 「どうすればいいんだ! 俺がいたらみんな傷つける、傷つけてしまうんだよ。フクは幸せになれないんだ、俺がいたら! じゃあもう消えるしかないだろ!? それ以外どうすればいいんだよ!」 思わず出してしまった大声が響いてすぐに雨音に飲み込まれた。しまったと思ってターボを見ると、涙が雨に交じってあふれ出していた。 また、また傷つけてしまった。最低だ、彼女にいう事ではないのに、この子は何も悪いことはしていないのに。 「ターボ…ごめん。ごめんよ、大声を出すつもりなんてなかったんだよ。ただ、分からないんだ……ごめんよ……」 「みんな……みんな、分かんないって……マチタンも……泣いて……ひぐっ……幸せって何なの?」 ターボはこぼれる涙も拭いもせずに俺を見た。逸らせないほどに真っすぐ見た。 「幸せってなに…? ターボ分かんなくなっちゃった…みんなといた時は幸せじゃなかったの?」 「ターボ…」 「トレーナーはずっと幸せじゃなかったの? フクキタといた時も、マチタンといた時も、ターボといた時も…?」 「ち、違う。違うんだよ、俺の幸せじゃなくて…フクの…みんなの…」 「みんなじゃないのにトレーナーはみんなの、フクキタルの幸せがわかるの…? トレーナーって神様なの…?」 「…………ぁ」 「ターボ、分かんないよ…」 そのままターボは走ることなく、とぼとぼと背を向けて歩いて雨に溶けるように見えなくなった。 みんなの幸せ、俺の幸せ、フクの幸せ、僕の幸せ。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、自分が何処に座っているかも分からなくなって、雨の音さえも聞こえなくなって、耐え切れなくなって思わずその場で大声で叫んだ。 声もならない声で叫んだ、合わせるように雷が落ちて声を包み込んだ。それでも、ただ叫んだ。 29 「どうして僕の事が好きって言ってくれるの?」 と幼いころにあの子に聞いたことがある。 あの子と最初に出会ったのは新生児用のベッドからだろう、物心ついたときはもう親同士が仲良く自分達を合わせていてずっと一緒だったから、お互い誰かも思わなかった。ただもう一人の自分のような感覚がしていた。 お互いが男の子女の事意識し始めたのは小学校の三年生ぐらいからだろうか、いつも手を繋いでいたのがなんだか急に恥ずかしくなって離そうとしたけれど、彼女はすぐに強く繋ぎ直した。静かな子だったけれど、自分に対してはお茶目でストレートに感情を出してくれた、妹が生まれてからはよりそれが暖かくなった。きっと妹ちゃんのお陰なんだろうなと思っていた。 「うーん、分かんない」 彼女は少し考えるとそういって笑った。分からないのにどうやって好きになるんだろうと考えていると、ぽかんと口を開けた自分に気づいたのだろう、くすくすとあの子は笑った。 「だってわかんないだもん。でも一緒にいるとなんだか幸せ―って思えるの、お母さんに聞いたら、それはあの子の事が好きだからよって。だから好きっていうの、言葉にするのが大事なんだって」 「でも…わかんないのに?」 「わからなくてもいいんじゃないかなあ、だって頭いいお父さんお母さんだって知らないんだから、私たちが分かりっこないもの。考えてもわからないことはかんがえない! ねぇ、私の事は好き?」 「えっと…好き…」 「じゃあそれでいいじゃない。好きっていえるんだから、じゃあデートしよ!」 そう言ってあの子はまた僕の手を握った。その時の自分はよくわからないままに幸せだったのだろう。きっと大人になったら分かるのだろうと思っていた。 雨と雷が音をかき消す中で叫びながら、自分はなぜそんなことを思い出しているのだろうと、不思議に思った。 ターボの言葉が頭の中を巡っていた、叫べば叫ぶほどにあの子の思い出とターボの言葉が交差する。ついに声がかすれて、滝のような雨に打たれながら地面に膝を下して這いつくばると、波紋を立てる水たまりに自分の顔が見えた。 酷い顔だ、そういえばこの頃は一睡もできない日々が続いていた。 「幸せってなんなの?」 ターボの言葉がまた頭の中で響いた。僕の幸せは君だった、君さえいれば幸せだった。僕の好きだった、君が全て持って行った。 「トレーナーはずっと幸せじゃなかったの?」 またターボの言葉が聞こえてくる。君を失ってからは幸せの意味を無くした。でも、わからない。葵と過ごした日々は自分は不幸だったのか、フクキタルといた時は不幸だったのか、タンホイザと出会って不幸だったのか。 君がいないから不幸だったのか? 君の影を追ったのは不幸だったからか? 違う、それだけは違う。それだけはわかる。 「みんなといた時は幸せじゃなかったの?」 君の事を忘れるのは不幸なのか、君を思い出すことは幸運なのか。 僕は空っぽだ、フクキタルと札幌記念で約束したときそう思った。君がいない僕は空っぽだ。思い出にすがるしかできない。 だけど、みんながいて不幸ではなかった。それだけは分かる。幸せかどうかはわからない、だが幸せ者だったのだろう。 だが、自分は周りを不幸にしかできなかった、周りのものを傷つけることしかできない。 「みんなじゃないのにトレーナーはみんなの、フクキタルの幸せがわかるの…? トレーナーって神様なの…?」 声が響いて、胸を探ってもうない指輪を探す。指輪は君に語りかける、君とつながる唯一の手段だと思っていた。 どうすればいい、あの子は言葉にするのが大事といった。大雨が降り注ぐ空を見る。 「愛している」 空を見てかすれた声で言ってみた。十年以上ぶりに君に愛を伝えて、声が震える。 「君がいなくて辛い。僕の全てだった、どうして死んじゃったんだ」 雨の音が少しだけ小さくなった。 「辛い、苦しいよ。何を見ても君を思い出してしまう、でも君を忘れないと他の人なんて愛することなんて出来ないんじゃないかと思ってしまう」 遠くで光が見えた。 「でも、君を忘れたくないんだ。どうしようもないだろう? わからない、わからないんだ。君を想ったまま誰かを愛すなんて、君を忘れないまま誰かを想うなんて、許されるのだろうか。そんな浮気者を、君は愛してくれるのだろうか」 ふと太陽と青空が雲の隙間から見えた。光が自分を包んでいるようだった。 「僕は自分勝手だ! 阿呆で、最低でどうしようもない軽薄で軟派な男だ! どうすればいいかもわからない、でも、わからないまま、自分勝手な幸せを…! 探しても、いいのかな…もう一度、君といた時のような…」 誰かがそっと自分の頬を指先で撫でた。目を向けると、あの子が立って笑顔を向けている。あの時のままで。 「あ…………」 瞬きすると、もうあの子は消えていた。代わりに目から流れた涙が撫でた指先をなぞるように流れて水たまりに波紋を広げた。 あれは、自分が見た許されたいという幻か、それとも本当に……分からない、だけど、考えてもわからないことは考えない。そうだったね。 「愛している」 とめどなくあふれ出す涙が、逆に体を軽くしたようだった。 遠くではまた大雨が見える、また降られる前にやることをやりに行こう。 〇 「彼は…本当に…やると思いますか…?」 窓に打ち付けてくる雨を見ながら、私は呟きました。 「賭けですね。分の悪い賭けです」 「私としては……負けてくれた方が楽で……いいです……」 「ぐすっ…」 「あっ、ツインターボさん。大丈夫ですか、体冷えていませんか?」 トレーナー室では私のトレーナーが泣いて歩いていたというツインターボさんを拾ってきてタオルと着替えで暖めていました。 「大丈夫…ありがと…ぐすっ」 「ターボさん……あの男には……もうあまり近づかない方が……」 「うるさい! きっと元気になるもん! 元のトレーナーになるもん!」 うるさいって…その着替え提供したの…私なのに…。 「ターボは信じてるもん。きっとトレーナーは元気になって、みんなをマチタン…あっ!マチタン! どうしようこの雨なのに公園に!」 ウルウルと目を潤ませながら前を見るターボさんは何処か真っすぐで、それがなんだか昔の私たちを思わせるようで。少し胸が痛みました。 どうせ無駄なのに、信じて何かが報われるならずっと前に信じて二人を見守り続けていた私は今こうしてここにいない。というかマチタンとは誰なのでしょう。 「迎えに行かなきゃ!」 「ターボさん……走ろうとしないでください……また濡れます……」 ターボさんがドアまで走っていくのを止めていると、ふとトレーナー室の前がまたざわざわとし始めて、ドアが開いた。 目の前にはあの人が立っていた。全身がびしょぬれで。それはざわつくはずだ。 「あなた……」 思わず目を丸くする私のトレーナーと目元を赤くしたあの人と目が合いました。ひどい目ですが、何処か光が見えました。 「サブトレーナーの話、受けさせてください」 30 私のお姉ちゃんは昔から手のかからない子だったらしく、私の面倒を見てくれながらもレースも速いし、勉強も出来るしで文武両道! とても優秀なお姉ちゃんでした。 そんなお姉ちゃんが一度だけ家に帰ってこなくて家族を心配させたことがあります。真面目なお姉ちゃんですから家族に何の連絡もなしに遅くなるなんてことは考えられず、家族総出で心配になって探しに行きました。お父さんなんかは警察を呼ぼうとしていました。 私が走りながら探していると、お姉ちゃんは川の近くで何かを必死に探していました。 「お姉ちゃん、何を探しているの? みんな心配してるよ」 と近くで声をかけると、お姉ちゃんは涙を流していました。大事なものをここで落としたとお姉ちゃんは言いました。それを見つけるまでは帰りたくない。と。 その様子がまるで私がお母さんやお姉ちゃんに我儘を言っているときのようで、私は何とかしてあげたくて、ふと占いで使う番号付きの鉛筆をなむなむほんにゃかはんにゃかと祈りぽーいと投げてみました。 お姉ちゃんはそんなもので見つかりっこないと言いましたが、落ちた場所を探ってみるとビックリ。おもちゃの指輪がそこにありました、それを見せるとお姉ちゃんは大層喜んで私を二つ折りにするぐらいぎゅーっと抱きしめて何度もありがとうと言ってくれました。 一緒に手を繋いで帰るときも、お父さんたちに謝るときも、ご飯を食べるときも、お姉ちゃんは私にありがとうと私の占いは凄いとずっと褒めてくれて、もしかしたらそれで私は占いにどんどん詳しくなったのかもしれません。 そしてそのお姉ちゃんの指輪は、今では私の元に。凄い運命です、これもシラオキ様の思し召しなのでしょうか。人生ウマ生どうなるかわからないものです。 「…………あれ?」 明日は退院できる病室で、指輪を眺めながらお姉ちゃんを思い出しているとふと思い出したことがありました。 「そういえば、これもう一つ持ってる……」 そうです、もう一つそっくりの物を持っていた気がします。大事に箱に入れて、保管していました。そうだ、お姉ちゃんが死んじゃったあと墓参りに行くと指輪が置いてあったんです。 私はそれを誰かがもしくはシラオキ様などの神様的な存在が届けてくれたのだと思って、持ち帰ってそのまま大事に箱の中にしまって、トレセン学園にも持ってきていたんです。 んんん? でもそれでは可笑しい、お姉ちゃんの指輪が二つあることになります。スペア? だったらあの時あんなにならないでしょうし…あの男の人は嘘をついていたわけでもなさそうですし…あのお墓の指輪は一体誰のだったんでしょう? むむむむん? あいたっ、なんだかズキっと来ました。頭じゃなくて胸の奥が。 〇 上から下まで隙なく雨でぐっしょりのまま、あの人は頭を下げていました。 あんまりに唐突だったので、私もミークも呆気に取られて、持っていたマグカップを危うく落としそうになりました。ツインターボさんだけはパッと目を光らせました。 私が考えていたのは明日ギリギリになって酷い表情で現れて、苦痛と共に此処を去るか、苦痛を持って受け入れることを決めたこの人だったのだが、その予想はどちらとも外れのようらしい。 「フクキタトレーナー! あの、ごめんね…置いていっちゃって…風邪ひいてない?」 ターボさんが気まずそうに近づいていくと、彼は顔を上げてじっと見つめ、誰も思ってもみない、想像できた人間がいたら恐らくそれは人間ではないではないと言うべき行動に出た。 「えっと、トレー…わっ」 「ありがとう」 ターボさんを抱きしめたのだ。力強くその胸に抱きしめた。おかげで折角着替えた着替えがまたしっとりと濡れてしまっているが、私もミークもそれどころではなかった、ついにマグカップが地面に落ちて割れはしなかったがカーペットが珈琲で滲んだ。 「あ、え、ひゃあ…」 「ありがとう、ターボ。雨も降っていたのに発破をかけに来てくれて、元気が出たよ。風邪、引いてないか?」 「う、ぅん…トレーナー冷たい…」 「おっと」 彼は慌てて離れると微笑んで、ターボさんの頭をくしゃりと撫でた。私たちが分かったことは二つ、何があったのかは知らないが彼はまるで別人のようにどこか明るくなったことと、コーヒーのシミを抜くには苦労するだろうということ。 「トレーナー、前のトレーナーとなんか違う…元のトレーナーに戻るっていっちゃったけど…嘘ついちゃった」 「どんな面下げて言えるのか分からないが、その、なんというか、開き直ったんだ。可笑しいかな?」 「ううん、前もいいけどこっちの方がいい!」 微笑ましく笑い合う二人を見ているのもいいが、いい加減蚊帳の外になってきたので私は咳ばらいを一つしてあの人とターボさんの注目をこちらに向けさせた。ミークはまだ口を開けたままだ。 「それで、サブトレーナーになる覚悟ができたわけですね。貴方に何があったのかは知れませんが、しかも元気になったみたいで」 皮肉っぽく言った私に、彼は「はい」と言うとまた私の目を見つめた。やはり何かが目の中で煌めている、まるで長い長い夢からやっと覚めたような人のように。 「俺はどうしようもない男です、わからないことを考るのをやめて、ただそれを言葉にしようと開き直るのにこんなに時間がかかった。本当に阿呆なやつです、ただもう一度、厚かましく、もう一度初めからやり直したいと思ったバ鹿なやつです」 「初めから…?」 「今までの事を、貴方をミークを傷つけたことを、水に流して貰おうなんて考えていません。だけど、もし少しでも許してくれるなら、もう一度だけチャンスを欲しい。もう一度、貴方達と笑い合えることを許して貰えるのなら。俺をサブトレーナーとして、フクキタルを、マチカネタンホイザを、ツインターボを受け入れてほしい」 そうか、この男は開き直ったのか。なんという人だろうか全く、こちらの計画やら気持ちやらも考えないで、逆に私に問いかけをしている。なんという男だ、ちゃっかりフクキタルさん以外も受け入れるようにお願いもしてきている。 厚かましさを絵に書いたらこの人が描かれるだろう。ミークなんて、まだ口を開けている。まったく、此処まで恥知らずに頭を下げられては断るこっちが悪者のようだ。もっとも観客なんて誰もいないが。 困った、全く困った、此処まで困ったのは貴方と初めて会ったとき以来だ。 「まったく…それで私たちが許さないと言ったらどうするんです? また逆戻り?」 「許して貰えるまで、なんでもします」 「では……さっさと……出てってください……」 「そうですね、出てってください。……書類は後で送りますから、番号変わってませんよね?」 雨が止んだ外を見ながら手をひらひらとさせるミークに続いて私も手をひらひらとすると、彼は少しだけ涙を溜めてまた大きく頭を下げた。 「……はい!」 「あ、ターボも出ていく!」 「あなたは……その服……洗濯して返してください……」 「はーい! あっ、マチタンーー!」 慌ただしく出ていくターボさんを追いかけるようにして彼も姿を消すと、また廊下の方でざわざわとチームの子たちの声がした。 それを聞きながら、私はため息を吐いて背もたれに体重を預けた。ミークも同じようにしながら、自分の脚を見つめている。 「何をいまさらと怒って怒鳴るかと思ったんですが、静かでしたね」 「そうしようと……思ったのですが……あまりにも恥知らずなことを言われて……思わず舌が動きませんでした」 「ふふ。さてと、書類を用意しなくちゃ。チームの皆と上手く行けばいいですが…また、初めから、か」 「慣れ合う……つもりはない……ので……嫌うウマ娘が一人ぐらいいないと……調子に……のります……というか……まだ嫌い……です、私は……あんな奴」 「それもそうですね。ふふ、ミークはやっぱり昔から優しいですね」 ふいと顔を逸らすミークに笑いながら、机の書類にサインをしているとふとミークがぽつりと漏らした。 「でも、もし……未来で……砂粒一つ分ぐらいの……可能性の、話ですが……いつか、また、みんなで靴を……」 「行けますよ、きっと」 ミークはどれだけ言っても、あの靴を変えなかった。きっとそれは彼女の一筋の願いだったのだろう。大きな憎悪の感情と裏表の関係にあるもの、もう一度、と。 今日は豪雨という予報だというのに、もう空には青空が見え始めていた。 31 雨が随分と私を打ち付けた。雷が私に随分と怒鳴った。 それでもただベンチで何処にも行かず、何処にも行けず、ただ膝を抱えてた。此処から動くのはでっかい崖の先から一歩踏み出すよりも勇気が必要で、そして何でもない私にはそんな勇気がなかった。 学校に帰りたくなかった。フクちゃんのトレーナーさんの顔を見るのが怖い、あの人の目を見るのが恐い、もう私には何も興味がないと私はもう必要ないというような空っぽな目が。ごめんと謝れるのが恐い。 もう一緒にいられないと、何もかも自分が悪いと言われるのが恐い。 もう一度フクちゃん会ったときどうすれば、泣かせちゃったターボに、トレーナーさんと向かい合ってどうすればいいかわからない。雨に打たれて頭も体も冷えているのに、何にも浮かばない。 「ぐすっ…何やってたんだろう…私…」 ふと空を見ると遠くには雲の切れ間から光が見えた。向こうでは晴れているのかな。もう少しだけ耐えれば、こっちも晴れるのかな。そんなことを想いながらまた一人膝抱えていると、ふと雨が本当に止まったように私に打ち付けるのをやめてくれた。 「あれ……?」 不思議に思って顔を上げると、私に傘をさしてくれている人がいる。茶目っ気たっぷりに傘の内側は青空がかかれていて、私を濡れないようにしている代わりに自分が濡れていた。よく知っている人、私が恋をしてしまった人。 「トレーナーさん…」 「やぁ」 トレーナーさんは少し気まずそうに、申し訳なささをたっぷりに私を見た。会いたくない、会いたくないからここにいたのに、向こうから来てしまった。誰も来てくれやしないと思っていたのに。あなたは残酷だ、聞きたくない言葉を聞かせに来たんだ。そっとしてくれればいいのに、でも、二度と顔を見たくないと思っていても、こうしてあってしまうと胸の奥が熱くなってしまう。なんて私は単純なんだろう。 だからそれに気づかれたくなくて、私は膝に顔を埋めた。見られないように。 「タンホイザ、ごめん。俺の我がままのせいで君を傷つけた。俺は君の心を利用した、フクキタルの為に…ごめん、顔を見たくないだろう。当たり前だ、本当なら君に思いっきり殴られても文句は言えない」 謝らないで、聞きたくない、何も聞きたくない。だってもう貴方に私は必要ないんでしょ。だったら少しでも、いい思い出に浸らせて。雨に濡れさせて、涙を隠せるように。 弱まってきた雨だけが聞こえる静寂が包んで、トレーナーさんはそれをすぐ破った。 「なぁタンホイザ。その、怒りたくなったらいつでも殴っていい、けど一つ言いたいんだ。その、カレーは好きか?」 「………………えっ?」 彼の口から何かわからない単語が出てきたような気がして、私は思わず顔を上げた。この人は今、カレーって言った? カレー? なんで!? 「俺、特にカツカレー好きなんだ。でもさ、アレ結構カロリーがあってさ、担当にカロリー制限をしろって言ってるやつがそんな好きに食べるわけにもいかないからさ。そんで結局フクキタルが占いで選んだ奴を食べてる、だから朝、占いが俺の好物を出しますようにってちょっと思っているんだよ。始めにあったころ、カツカレー食べてたよな、タンホイザ」 「えっと、その…うん…誘惑に、負けちゃって…学食の美味しいし…好き、だとおもうけど…あの時、私のカツカレー見てたのって…?」 「羨ましいと思ったのは事実だな。はは、まぁこれで一つ共通点ができた、うん」 トレーナーさんが少し恥ずかしそうにはにかむと、私の目をじっと見た。トレーナーさんの眼は何処か前と違っていて、苦しさとか悲しさじゃなくて、何処か希望があって…私がそれから目を逸らせずにいると傘を持ってない方の手を私に見せてきた。 その手は寒さとは違う何かで震えていた。 「見てくれ、こんなに手が震えちゃって。心の声というか、自分の事を誰かに伝えるのが受け入れてくれるだろうか、どんな顔するだろうかって、こんなに怖くてドキドキするなんて思ってもみなかった。タンホイザはずっとこんな思いをしながら伝えてくれてたんだな」 ありがとう、とトレーナーさんは言って私の手をそっと握った。どっちとも雨で冷えちゃったのか、お互いの手は冷たくてでもすぐにじんわりと暖かくなってきた。 「厚かましいお願いだけど。あぁ、今日はもう厚かましすぎて、本当に鉄面皮になっているんだろうな俺の顔って。でも、君が許してくれるなら」そういって彼は右目から雨ではない水滴を確かに一滴流した。「もう一度、俺と出かけてほしい。もう一度最初からお互いの事を知り合うチャンスを貰いたい。今度は俺のこともたくさん知ってもらいたいんだ、君に」 なんと、なんと本当に、本当に厚かましい人なんだろう。散々私を都合よく利用しておいて、今更最初からなんて。ゲームじゃないんだ、はじめからを選択したらハイ、最初から。なんてことはありえないんだ。 まったくミークさん言ったことがやっと分かった。まったく、何て男の人だ! ウマ娘の敵だ! でも、でも、でも、本当に、本当に、本当に、フクちゃんの為じゃなくて、私の為に私を見てくれるというのなら、言い方は悪いけど、なんだか性悪に聞こえるけど、それは私にとっても、とっても、勝ち目がある……ってことなんだ。今までのレースをチャラにして、本当に彼が私を好きになってフクちゃんか私か、はたまた他の誰かと悩んでくれるのなら。それは立派に恋のダービーじゃないか。 そう思ったらいつの間にか、あんなに重かった一歩が踏み出せて、いつの間にかトレーナーさんに抱き着いていた。 「すけこまし…女たらし…女の敵…今度は……今度は……トレーナーさんがリードしてくださいね……美味しいカレー屋さん、知ってますから」 「あぁ、わかった…ありがとう」 胸の中に沈みこませるように、頭に手を回してくれるトレーナーさんを感じて……何かが終わった。 でもそれは恋とか、関係とかじゃなくて、ただそれは雨が降り終わったというだけのことで、私達は顔を上げると相合傘をしながら歩いて行った。もう涙は流れていなかった。 「車でターボが待っている」 「ターボ…あぁ〜酷いこと言っちゃった、謝らなきゃ……ちなみにこれってトレーナーさんの傘?」 「あぁ、随分前雨に降られたときこれしか傘が売ってなくて、捨てることも出来ずそのまま使っている。変かな」 「ううん、可愛いなーって」 もう雨も止んだので傘をさす意味もないけれど、私は傘の中で引っ付くようにして歩いて行った。これは抜け駆けだろうか、まぁいいでしょう! レースと違ってファンファーレからスタートってわけにもいかないんだし。 32 「えっと、その〜あなたが…私のトレーナーさん…ホントに?」 「元だけどね、明日から君の所属は桐生院のチームになる。自分の悪い噂は今話した通り」 シラオキ様も是にはビックリ桃の木と申しますか、今朝お姉ちゃんを指輪を渡してくれたトレーナーさんがやってきたと思えば、なんと私のトレーナーさんだというのです。元らしいですが。 つまり私が恩知らずにも忘れてしまっているトレーナーさんということですが、むむむ、本当でしょうか…全く少しも記憶の欠片にもピクリとも来ません。ホントにホント? 私としてはこう、顔を見たらビビッと来て、一気に記憶がぱあーっと戻ってくるような神様センキューダスヴィダーニャ! と想像していたのですが…本当に? 「申し訳ないが、本当なんだ」 目の前の男の人は私の心を見透かしたかのように申し訳なさそうに笑いました。ますます怪しい、今朝とはまるで別人な雰囲気なのがさらに怪しいです! もしかしてこうぬるっと私の担当に付こうとしているのではないでしょうか! ぬるぬるっと! 「な、なぜ……最初に会ったときに言わなかったんです? その時に言えばよかったのに」 「正直に言うと、君から去ろうとしていた。君がこうなったのは俺のせいだからだ。そして面の厚い鉄面皮」 ほら怪しい! とてもベリー怪しいですシラオキ様! 私の中のフクキタアラームが警報を鳴らしています、この人は信用できません! そもそもなーんでピンポイントで忘れているのですか! ホントはどこかにホントのトレーナーさんがいるのではないのですか! というか私をほっぽいて他の人を見ていたってどーいうことですか! 信じられませんよギャース! 「ちゃんと証拠もあるし、過去話だっていろいろできる。というか、君の子供のころから知ってる、例えば君が隣の家でなってるリンゴをだるまに似てるからってとろうとして」 「ふんぎゃーっ!」 ぼんっと投げた枕が彼の頭に当たって椅子ごとひっくり返りました。だが気にしない! 気にしません! なぜそのことを知っているですか私の恥ずかしい過去を! 分かった、お姉ちゃんから聞いたんだどうやってかは知らないけど、知り合いって言ってたし! 分かりました! この人は、いやこの男は私の天敵です! きっと先祖代々から続く不?戴天の仇の類に違いありません! 悪霊退散、悪霊退散! 「貴方なんか知りません! さっさと出てってー!」 でも何だろう、とても懐かしい。 〇 「ダメだった」 「外から聞いていましたけど…あれは〜…ちょっと〜…」 トレーナーさんの車の助手席で私はふぅーっとため息を吐く彼に苦笑いを浮かべた。後ろではターボが焼肉焼肉と飛び跳ねてて、ちょっとシートベルト付けていても危ない! 車が揺れちゃってる! 「ちょっと心を昔に戻しすぎたかもしれない」 「なんで、写真とかを持って行かなかったの…? 小さいころの写真とかあったりするんじゃあ…」 「やっきにく! やっきにく!」 私の言葉にトレーナーさんは運転しながら遠くを見ていました。ターボ危ない、跳ねないでぇ! 「少し怖かったのかもしれない、また呼吸困難が始まったらと。写真も全て実家に置いてきたし、だからじりじりと近づいてみようと思ったけど。嫌われたみたいだ、しかしふふ…」 あんなに仲が良かったフクちゃんから嫌われたというか拒否されたというのにトレーナーさんは少し笑っていた。ぽかんと見つめちゃってると、彼は私に悪戯っぽい笑顔を見せた。 「昔を思い出したんだ。よくあんな風に追い回されていた…そう考えると、また一からでもいいかもしれない、ふとした時に思い出してくれれば、そう思ったんだ。記憶も大切だが、アリマ記念も近い…そっちに集中させたい気持ちもある」 「やっきにくー!」 「も、もうターボ! 危ないからぁ〜! ちゃんと座って!」 「はーい!」 といいながらやっぱりターボは膝に手を乗せながらぽんぽん飛び跳ねていた。確かに焼肉は楽しみだけど、楽しみだけど! トレーナーさん大丈夫かな… 「でもいいんですか? その、奢ってもらえることになっちゃって…」 「ホントはフクも来れたらよかったけど。タンホイザや桐生院さん達から受け入れてもらえただけでも奇跡だ、これ以上求めたら本当に面の顔の厚さが戻らなくなる。それにチームへの入部記念でもあるし」 「チーム?」 ターボもその言葉が気になったのか、ひょこっと座席から顔を出した。 「正しくは桐生院さんのチームだけどね。タンホイザとターボも一緒にチームに入れてもらえるように今日何度目かもわからない図々しさで頼んできた」 「桐生院トレーナーのチームに…?」 「ターボ、チームに入るの!?」 「俺もサブトレーナーになって、フクキタルの近くで見させてもらえる。練習を見てきたが君たちの才能もレースに対するも情熱も本物だ、正直に言って他の知らない奴に渡すなんてしたくない」 いやっ、言い方…言い方が…その、なんというか…。言葉に遠慮がなくなったなぁこの人…いろんな意味で…。しかし、ということはトレーナーさんが本格的に私たちのトレーナーになってくれるんだ…サブってついてるけど、トレーナーはトレーナーだよね。 そう思うとなんだか嬉しくなってしまった、さんざん迷惑かけちゃったけど。それでも嬉しいことは嬉しい。 「今日最期の図々しさを発揮します…ついてきてくれるか?」 「もっちろーん! じゃあターボ、トゥインクルシリーズ出れるんだ! やったー! やっきにくー!」 「しかしターボの希望通りに焼肉したけど、よかったのか?」 「えっ、あっはい! もちろん! 連れてもらえるだけで!」 はい!正直に言って焼肉は好きです! ヤキニクスキホイザです! だが、大丈夫かなぁ…モリモリ食べれないよねぇ…こう、女の子の気持ち的に…うぅ、ターボが羨ましい…。 「お出かけの時はオシャレな場所にするか、あ、いやカレー屋だったか」 「あっ、いやそれはっ……カレー屋さんはいつでも行けますし…」 さっきのシーンを思い出して私は何だか激辛カレー食べたように顔がぼっと熱くなる。へーきな、ヘーキな顔してこう…もしかしてドキドキしてるのは私だけとか…? 「ん、そうか。じゃあそっちにしますか、いや、緊張するなぁ、ほらタンホイザ美人だから」 あぁぁぁ…あぁぁぁ…なんなんだろうこの人はぁ…。なんでそう悪戯っぽい笑顔をするのぁぁぁ…。 「えーマチタンとデートするのー! いいなぁーターボも一緒に連れてってー!」 「だーめ、デートだから二人っきりなんです」 あぁぁぁ……。 「じゃあターボも!」 「ははは、わかった。練習頑張ったらな」 「わーい!」 ……その、なんというか…。拒否がなくなったなぁこの人。これ、早くスパートかけた方がいいんじゃあないでしょうか…絶対。ウマ娘の敵めー。 だからフクちゃん、早く思い出してね。じゃないとレース前にスパートかけちゃうから。 33 「どうして泣いてるんですか?」 酷く見覚えのある道で小さい子が泣いていました。その泣き声があまりにも大きくて、私のフクキタイヤーが壊れそうなので私は蹲って泣いてる子へとかがんで聞いてみました。 「お姉ちゃんが、死んじゃった」 その子は言いました。 「それは…………辛いですね。どこのおうちの子ですか、送ってあげますよ」 「いなくなっちゃった」 「えっ……」 そう言ってこちらを見た女の子の顔を見て、私は思わず後ずさって尻もちもついていました。その女の子は私にそっくり、というか小さな私そのものだったのです。これにはビックリです。ということはこれは…夢? 明晰夢? シラオキ様の御告げ!? 「お兄ちゃんもいなくなっちゃった…!」 「お兄ちゃん…? お兄ちゃんって誰です? 私にはお姉ちゃんしか姉妹はいませんよ…?」 「帰ってきてよ、寂しいよぉ…一人ぼっちはやだよぉ…。もう大嫌いなんていわないから、いたずらもしないから!」 「何を言ってるの…? ねぇ…」 「一人にしないで!」 小さな私の叫びに思わず耳をペタンとさせて目を閉じました。すると目から涙が滝のように零れだしてきて、目を開けると小さな私は何処にもいなくて…そこでやっと分かりました。 ここには最初から小さな私なんかいなくて、泣いている私しかしなかったのだと。 「んえ…」 電車がトレセン学園の近くを示す駅名を繰り返しながら停車する揺れで私は夢から目覚めました。周りの人たちはこっちを覗き込むように見ていて、その原因が大量の涙と涎であることに気づいた私は慌ててそれを拭って閉まりそうになっている扉から電車の外へと飛び出しました。 いやぁー恥ずかしい恥ずかしい…大多数の人にあんな寝顔を…しかしあの夢は何なんでしょうか。私は昔からあまり見た夢を忘れない体質ですが、今回のは特に台所のしつこい汚れのように脳にこびりついているといいますか、どうにも見たことのない夢です。お兄ちゃん、一体誰なのでしょう。私には兄なんて一人もいなかったはずですが。 疑問に思いながらすこし歩くと、すぐにトレセン学園が見えてきます。たった一日二日しか離れていないというのに、なんだか入学当時のように新鮮な気持ちのようで私は門でいつものように立っているたづなさんに元気よくご挨拶したのでした。 〇 うん、不味い、非常に危ない、雰囲気が! フクちゃんのトレーナーさんが桐生院トレーナーさんのチームのサブトレーナーになるということで、引っ張られるように私たちもチームに入部することになった。 桐生院さんは話してみるととてもいい人で、ようこそと笑ってくれた。ミークさんも…ちょこっと気まずいけど笑顔を向けてくれて、フクちゃんのトレーナーさんには思いっきり嫌そうな顔を向けていた。 しかし忘れていたけど、桐生院さんのチームってとっても入部したい人が多くて、他の人気チームと同じく選抜レースとかあるくらい人気なんだった! そこに一応は桐生院さんが引き抜いたという建前ということできたものの、レースも何もせず入ってきた中等部二人。そして一緒に来たのはおそらく学園の中で悪い意味で知らない人はいなくなっちゃったトレーナーさん。なんというか、注目されるなという方が無理っていうか…。 「というわけで、彼は今日からサブトレーナーとして私のチームに配属になりました。主に未出場組の指導や、出走組には私と共同指導に当たってもらいます。それとマチカネフクキタルさん、マチカネタンホイザさん、ツインターボさんが新しくチームに加わりました。仲良くしてあげてくださいね、特にフクキタルさんはよく皆さんも知っているでしょう、お互い学ぶことが多いはずです」 よろしくお願いしますと元気よく皆さんは挨拶してくれましたが、その視線はちょっと怖くて主にフクちゃんのトレーナーさんに注がれちゃっていました。とても心配です…ターボはすぐにみんなに可愛がられていました、こっちは安心…。 練習は付いていけるかな…と心配だったけどそれは平気だった。というか、とても似ていた。フクちゃんのトレーナーさんが前に組んでくれた練習メニューにそっくりで、お陰ですぐになれることができた。むん! だけど何で? そう思っていると、休憩時にトレーナーさんと桐生院トレーナーがコースを眺めながら話しているのをたまたま見てしまって、私は自分でも分からないまま近くの藪に潜み、ウマ耳を立てて傍で会話を盗み聞きしてしまった。うぅ、罪悪感がぁ…でも気になる…こう女の子の予感が…! 「今朝フクキタルさんを迎えに行ったと聞きました」 「電車で行くので結構と拒否されましたよ。今日こっちで会ってもふん! と鼻息で追い返された」 「それにしては何だか嬉しそうですね」 「ははは、これでも傷ついていますよ。でもなんだか懐かしくて」 そういってトレーナーさんが笑うと、桐生院トレーナーはそうですか。と、呆れた声を出したようでした。 「それにしても、人数が多いですね。ビックリしました」 「ええ、貴方と違って、誠実で、人気も、ありますから。こちらとしても驚きました、タンホイザさん達の様子から察するに、昔から変わっていないのですね」 「そういう桐生院さんも、変わっていないようで」 「覚えていますか、トレーナー白書14冊目の5章」 「基礎は続けることにこそ意味がある」 そういうと二人はくすくすと笑い始めました。何でしょう、何でしょう、この大人っぽい関係は! 羨まし…じゃなくて、一体前にどんな関係が…!トレーナー白書ってなに!? 「あの男……」 ふと横を見ていると隣でミークさんが凄い目で二人のトレーナーさんを見ていました。いつの間に…。 「…妙な気分です。すべてが変わってしまったのに、何も変わっていなかったときと同じように私たちはこうやってここにいる。最も全てがあの日のようにとは行きませんが」 「トレーナー白書3冊目の12章」 「いくら年月が経っても変わらないこともある、ですか。ふふ、えらくキザっぽくなりましたね」 「はは、貴方から学んだ教えは全て忘れたこともありません。貴方はいつでも俺を助けてくれた、そんなあなたを俺は…」 「いいんです。許すとか許さないという問題じゃなくて、私も貴方も逃げた。ただそれだけなんですから。そしてあなたはここにいる、もう一度と。じゃあ私もこういうだけです、もう一度と。笑い合うために」 そうしてお互い静かになって、桐生院さんから立ち上がりました。 「それに、貴方は私から学んだと言いましたが、私も貴方から学んだことは忘れた事はないんですよ。貴方はいつでも私とミークを助けてくれました、そのことも。お互いのトレーナー白書の初めの言葉、覚えています?」 「ええ、もちろん。もうそろそろ時間ですね、いきましょうかトレーナー」 「えぇサブトレーナー」 そう言って二人はまたコースの方へと歩いて行きました。私はそれを見送ってやっと立ち上がって周りを見渡しました。ミークさんも静かに立ち上がります。 「トレーナー白書の初めの言葉…?」 「支え合い、助ける…生涯のライバルを見つけること」 「うぇっ?」 ハッピーミークさんは一言そういうと、何処か悲しいやら嬉しいやらわからない表情のままどこかへと歩いて行きました。 遠くではターボが手を振ってこっちに来るのが見えました。もうそろそろ休憩の時間も終わりのようです。 34 彼の言う通り、記憶をなくしたマチカネフクキタルさんは呼吸困難もなくなっており、その体調には何の問題もなくなっていた。 不安の一つだった、アリマ記念の出場にも不安はなくなったが、懸念事項はまだある。 その一つが、フクキタルさんの記憶喪失。いろいろと聞いてみたが、かなり器用に自身のトレーナーに関することだけが消えている、しかし自分が走ったレースの事は覚えている。記憶を一冊の本とするならば彼の部分だけが虫食い穴によって消えているかのようだ。 もう一つが、フクキタルさんが彼を嫌っているということ。別に彼が嫌われようともどうにも思わないが、どうにも違和感がある。ミークのような覚えのある嫌い方ではなく、よく分からないがとにかく嫌い。という理由のない拒否反応。まるで子供が気に入らないからという理由で相手を侮蔑するような、そんな嫌い方。 もしかしたら、記憶を取り戻したくない心がそうさせているのだろうか。それか、崩れたパズルのピースをもう一度組み立てるように、昔の記憶を取り戻している結果か。 それにしてもあそこまで拒絶されても毎日挨拶に来ては、彼女から何かしら投げつけられる我らがチームのサブトレーナーは感心するほど健気である。その健気さをもう少し早く発揮していれば此処までこじれなかっただろうに。 もっともそういう器用なことができる人ではなかったからこういうことになっているわけだが。過去系なのは今はまぁとても器用な男になっているからである、それはもう器用に自分の感情を伝えてくる。 十年以上にわたる複雑な工程を経て変わった今の彼を形容するのは、単純な一言で済む。女たらし。これだけ。 「と、トレーナ〜! 助けてください〜!」 その証拠に、練習の合間に私が彼の様子を見に行ってみると、部室前のベンチでチームの一人のウマ娘を膝枕しながら手をマッサージしている。足には氷。 哀れな毒牙にかかった子は私を見ると、慌てて手をぶんぶんと振って起き上がろうとするが、彼の人差し指が彼女の頭を抑えた。周りには他のウマ娘たちの視線が囲んでいる、照れていないのは彼だけだ。 「違うんです〜! サブトレーナーがいきなりこうしてきてー! ただ足が痛いって言っただけなのに! やっぱり噂通りの人ですよこの人ー! セクハラで突き飛ばしますー!」 「安心してください、普通のマッサージ…あー、彼なりの普通ですが」 「じゃあ何で足の筋が痛いだけなのに手をマッサージするんですかぁ〜!」 「人間もウマ娘も、体は全て繋がっているものなんだよ。歯車で出来た時計のように神経から筋肉繊維、内蔵系から器官系、全てが繋がってる。特に脚は第二の心臓と言われるように、特にいろんな場所に繋がっている。逆に言えばいろんなところが足に繋がっているわけだ。少し足が晴れていたから、違う場所からアプローチ。膝枕は少し首を高くするため。痛くないかい?」 「どっちかっていうといい気持ちですけど…」 彼は笑って言った。ミークへのトレーニング後のマッサージなどは彼が良く担当していた。彼は感がいいから不調の兆しを見つければすぐにそれを取り払う。揉み返しもなく、違和感もない。私が徹底的に鍛えて、彼が徹底的に治す。それが私たちだった。 しかしまぁトレーニングでもどこか苦しそうな顔をしていた人が、にこやかにやるようになったものである。女の敵め。 「君のここのチームはみんな立派だ、入りたての君の焦る気持ちも分かるが。桐生院トレーナーは君たち一人一人の事をちゃんとみて、練習メニューを組んでる。もっと自分のトレーナーを信用して秘密のトレーニングはほどほどにね。だがその意志は立派だよ、頑張り屋さんは応援したい」 そういって彼女のおでこで一つ指を押すと言っていいよと笑うと、マッサージを受けた子は飛び起きて一気に距離を取った。 「これに懲りず、痛くなったらまた気軽に」 彼が言い終わる前に彼女はぼんっと顔を赤くすると一気に走り去っていってその子に他の子が続いた。どうやら足の痛みはもうないらしいかった。 あぁミーク、代わりにこの人を殴ってくれませんか。 「すいません、お待たせしました。怪我をしそうな子を見るとほっとけなくて」 「そうでしょうね」 含みたっぷりに言ってみたが、彼はいつものように笑顔を見せるだけだ。この男は全く器用になった。そのことについて文句を連ねたいが、それよりも重要な案件がある。 「フクキタルさんの事で御相談が」 「フクの…? 走りに不調が!?」 「落ち着いてください。不調ではありません、練習でも貴方がちょくちょく見に来ていましたから分かる通り体に異常はありません。とにかくこっちへ、今ミークとちょっと併走を行ってもらっています」 そういって私が彼をコース連れて行くと、丁度ミークとフクキタルさんが走っていた所だった。ミークが前に出て、フクキタルさんが追いかける形だ。末脚を発揮して追い上げる。凄まじい追い上げだが、しかしミークの方が先にゴール。 見物人は大盛り上がり、初代王者のミークと良い勝負をしただけでもアリマが楽しみだとほめたたえる。ミークがフクキタルさんに笑顔を向ける、フクキタルさんは悔しがりながら笑顔を返す。そして周りにも手を振る。 周りはみんな笑顔だ、真顔でそれを見ていた彼を除いて。 「ふと彼女の走りに違和感を覚えまして。どうですか?」 「走り方が変わっている」 彼は静かに言った。そうこれが一番の懸念事項だった。 「あれは彼女の姉の走り方だ。あの子はもう一つ忘れてしまっている」 歯を食いしばって彼は地面を見た。拳が震えている。 「自分の走り方を」 35 「いい加減に……してくださいー!」 ぽーんと投げた悪霊撃退用折り畳み型だるまがサブトレーナーさんの頭に当たり、ぱっかーんと弾けました。だるまの方が。 追いかけていたサブトレさんはぶへっと言うと仰け反ってそのままダウン。全くなんというしつこいトレーナーさんでしょうか。いえ、元トレーナーさん! 桐生院トレーナーさんのチームに異動となって、はや一週間、失ってしまった記憶についていろいろ分かったことがありました。 一つは本当にあの怪しい男の人が私の本当のトレーナーさんだったということ、どうやら記憶を失う前の私とは随分と仲が良かったようです。 並べられたトロフィーや、二人で映っている雑誌や新聞に載った写真のスクラップ、机の上の額縁に収まったツーショット。記憶を失う前の私は一体何を考えていたのでしょう、いやきっと他の人が言うように騙されていたのでしょう。 シラオキ様だって間違えることがあるということでしょうか、それとも私がシラオキ様の御告げを無視したりしちゃったんでしょうか。とにかく、彼が私を蔑ろにしたのは確かなようで、噂通りの人間というのはハッキリバッチリ確かなようでした! 全く私を蔑ろにしちゃうとは! しかも相手はタンホイザさん! お姉ちゃんに瓜二つなウマ娘、まぁ気持ちは分かりますが! お姉ちゃんみたいに美人ですし、元トレーナーさんはお姉ちゃんの事を良く知っているようですから! 私がお姉ちゃんに勝てるわけはありませんからしね! ですがやられた方としてはふんぎゃろー! ……そういえば私はタンホイザさんと仲良しですが、どうやって知り合ったんでしたっけ…? それはそれとして、何の因縁か元トレーナーさんは私の所属するチームのサブトレーナーとなっており、毎日毎日調子はどうだやら、どこかおかしいところがないかなど一々聞いてきています。なんとたらたら未練なんでしょうか、もしやもう一度私を引き抜こうとしているのでしょうか! とにかく信用は全くしていません。 今日もやってきた来たと思ったら、何を考えているのか走り方を変えようと言ってくる始末。だるまさんが割れるわけもここにあります! 「あいてて…待ってくれ、フクは忘れているかもしれないが、それは元々の走り方じゃないんだ。それじゃあ勝てない!」 「ぬぬぬ…気安くフクだなんて呼ばないでください! そう呼んでいいのは友人だけです! それにどう走ろうと私の自由でしょう、事実エースのミークさんとだってよく走れたんですし」 「あれは良く走れたんじゃなくて、何とか追い付けたというんだ。あの走り方で行けたのは組みあがった基礎があるからで、走り方としてはそれを全部殺してしまっている。あれは君には不向きなんだ」 「何を言ってるんですか、あれは私が一番尊敬するウマ娘さんの走り方なんです。きっとあの人様に走れば誰にも…」 「君のお姉さんだろう?」 ふふんと自信たっぷりに語っていたつもりでしたが、彼の言葉で息がぐっと詰まってしまいました。お姉ちゃんの走り方を知っている…? 知り合いって言いましたけど、私だってずっと小さいころから眺めていたから真似できるのに…どうして…? 「お姉さんの走り方じゃ、君に会わないんだ。あれはもっと足が長くスラッとして、もともとの関節が柔らかめでないと、それをするにはもうフクキタルは関節の部分で」 「ふんぎゃろー!」 もう一つだるまを投げてぱっかーんとサブトレさんの頭で弾けさせました。ぶべっと言って彼は今度こそ沈黙したようで、私はずんずんと脚に怒りを込めて歩いて行きます。 まるで人をというかウマ娘を短足の肉だるまみたいに言ってくれちゃってまぁ! 今日が凶だったらあなたの命運は途切れていましたよ! それに、間違っているわけはありません。お姉ちゃんの走り方さえできれば、私はもっと早く走れるんです、ずっと昔からそうやってきたんです。来たはずなんです。 全く失礼な人です、嫌いです。大嫌いです! シラオキ様に今度遠ざけるようにお願いします! 〇 「フクちゃんの走り方が変わった…?」 練習後、部室で少しため息がちなフクちゃんのトレーナーさんの言葉を聞いて私は困惑していた。長椅子に座っている彼の膝にはターボが寝転んでいて、その尻尾の手入れをしてもらっているのでどちらかというとそちらに困惑しています。そういう事もしてもらっていいんだ…。 「あぁ……」 丁寧にブラシで砂が絡まったターボの尻尾を綺麗にしながら、トレーナーさんはまたため息をついた。その、やけに手慣れてますね…? フクちゃんにやってあげてたんですか…? 「でも、走りを見ましたけど…大丈夫ーって感じだったような…ミークさんの併走にも付き合えてましたし…」 「それは今までの基礎があるからだよ。土台がしっかりしてるから少し無茶しても走れるが、アリマ記念のような強豪たちには通じない、フクは占いに頼ったりするけど、あぁみえて全部を占いのせいにはしない努力家だし、自分の向き不向きだってしっかりと分かる子だ。子だった」 そう言ってトレーナーさんは悔しいのかぐっと歯を食いしばったみたいだった。その手はターボの尻尾を濡れタオルで優しく吹き上げて、ついでにすきばさみでちゃきちゃきと伸びている毛を整えていっている。頭と体で違う思考ができちゃう人なのかな…。 「トレーナーさん…大丈夫…?」 それはある意味ターボの尻尾がという意味でもあった。だってノールックでスパスパ切っていくだもん…。 「ごめん。大丈夫だよ…ただ悔しいんだ。俺は別にいい、だけどフクキタル自身が自分の今までの努力とかを否定しているような気がして…フクキタルはフクキタルの走り方が一番なんだ。自分のお姉ちゃんを真似なくたって、十分立派なんだ」 「お姉ちゃんの走り方…」 「そう、初めにタンホイザに教えた走り方。あんな感じの走り方で、軽いストライドで…」 「なるほどぉ…トレーナーさんはそっくりな私にフクちゃんのお姉ちゃんの走り方をそっくり真似させてたんですね…ほほぉう…」 私がじとーっとした眼で見ると、生暖かいドライヤーと渇いたタオルで優しく乾燥させていたトレーナーさんの手がピタッと止まった。完全にやってしまったという顔をしている。 「いや、違う。いや違わないかもしれないが、あれは本当にタンホイザにその走り方がピッタリだから教えただけで、そういうつもりは! 確かに君はあの子に似てるから引っ張られたかもしれないが! あれはすらりとした長い脚と柔らかめの関節があってこそで、タンホイザはそのどちらとも当てはまっていたからで!」 「トレーナ〜、ドライヤーが熱いぃ〜」 「あっ、ごめんっ!」 そういうトレーナーさんを見るのは初めてかもしれない、なんというか自分が焦っているとか辛い部分とかを全く見せない人だったからとっても新鮮。こういう顔ができる人だったんだ。なんだか可愛い。 へへぇ、私の脚すらりとしてるんだ…。えへへ。 「……すまない」 「えへへ、怒ってないですよ。走りやすいし、タイムも縮まりましたし、私の為に辛い思いをして教えてくれたんですよね。むしろ感謝したいです」 「タンホイザ…」 私を見るトレーナーさんの眼がうるっとして、それを誤魔化すように彼はターボの尻尾にいい匂いがするスプレーを吹きかけながら櫛で梳いていった。あんなに練習後ぼさぼさだったターボの尻尾がなんてことでしょう、艶々して尻尾が揺れると一本が一本が見えるぐらいサラサラだ。 しかしこんなに涙もろい人だったんだなぁ。今度感動系の映画に誘っちゃおうかな、どうなるか見て見たいな。 「よし、ターボもういいぞ」 「ありがとトレーナー! うぉーすっげー! 見てタンホイザ凄いサラサラ!」 「うんうん、凄いねぇ。とっても綺麗!」 ぴょんと飛び跳ねてグルグルと自分の尻尾を追いかけるように回るターボを見ながら、私はトレーナーさんの隣に座ると彼の膝に頭を乗せた。 「タンホイザ…?」 「悪いと思ってるんだったら、じゃあ私の尻尾もお願いしようかなぁ〜って。これでお相子ということで! えへへ…どうでしょう?」 私がちらっと視線を向けると彼はまた少し涙を拭いて、私の頭をそっと撫でた。 「……ありがとう。君は本当に素敵な女の子だ」 帽子、帽子をかぶりたい。頭に被せたい、顔が。同じこと他の子に言ってたりしてそれはそれで別にギルティ! 女の敵! ウマ娘たらし! こういう言葉を吐いて平気なんでしょうかこの人は! 「あーあと…その、何だろう。ターボと背が違うから足の方を向けてもらった方が…」 「あっはい…」 いそいそと態勢を変えている途中に、ターボがトレーナーさんの顔を見ていった。 「あれ? トレーナー耳赤い?」 あぁぁぁぁぁ…。普通に照れてたぁぁぁ…。照れるぐらいなら言わなきゃいいのにもぉぉぉ…いや言って欲しいのは欲しいけどぉぉぉ…。顔が合わせられなくなる……いや脚を向けるからいいかぁ…。 あーー! どうにもしまらないなぁ…! 36 「わっせ、よっほ! 今日のラッキコースは神社や神社〜やればラッキー、いけるぜレース〜! 当たるも八卦、当たれば儲けフクフクフクフクフクキタル〜」 ラッキーアイテムであるまん丸お月様が夜空にありがたーく出ている冷たい夜、私は神社に続く長い石段をぽんぽんぽんっと何段飛びかで関節を伸ばすようにしながら走っていました。 理由はもちろん自主練です! 運だけに頼ったらシラオキ様に怒られますからね! 日々の努力をツミカネフクキタルすることも重要なのです。今日のラッキコースとラッキーアイテムも揃えて完璧! 正に未来の大吉にレッツゴー!な状態です! そういえば実家の神社にもこんなに長い石段がありました。お父さんお母さんのお仕事を見に行くついでに、そのながーい石段をお姉ちゃんと一緒にじゃんけんしながら登っていくのがお約束で、私が勝てた時には神社でおみくじを引くと絶対に大吉だったんです。 でも、一回調子乗ったせいで踏み外しちゃってその時はお姉ちゃんから大変怒られました、ハイ。でも、その時は傷一つなくて…そういえば何でケガしなかったんでしょう? 「チ・ヨ・コ・レ・イ・トうちゃく!」 「お疲れ様」 「ぎゃぼーーーん!?」 私が石段を登り切って一息をつこうとすると、ベンチに座ってあのサブトレーナーさんがストップウォッチ片手に声をかけてきました。まさか誰かがいるとは思っていませんでしたし、しかもそれがあのサブトレーナーさんだったので私は思わず飛び跳ねて叫んでしまいました。 「君には桐生院トレーナーから直接、練習時間外での個人練習は禁止と言われてたんじゃないかな」 「な、なんでここにいるんですか貴方が!」 「今さっきサイレンススズカから教えてもらった」 なんとっ!? 確かにこっそり自主練に行くときにスズカさんにばったりあってしまいましたが、ケーキとの交換券をわいろとして黙ってもらったはず…! 「彼女はケーキ二個の報酬でこちら側になっている。それも忘れていたみたいで助かった」 ほんぎゃーー!? いつの間にスズカさんを買収してたんですか、というかじゃあスズカさんケーキ三つ食べてるじゃないですか!? なにをちゃっかり両得してるんですか! 「此処で良くトモのトレーニングにしていた。君の走りにピッタリだった。一段一段ずつ踏みしめて登っていって、レース中の歩幅も足の上げ方も、基本はここから掴みを得たんだ」 「また本当か嘘かもわからない、どこかに行っちゃった記憶の話ですか! いい加減にストーカー行為として報告しますよ!」 「すればいい。だがその走り方だけはやめてもらう、その為にここに来た」 「もう! なんでそうやって私の邪魔をするんですか! お姉ちゃんの走り方を真似して何が悪いって言うんですか!」 「君らしくないからだ。苦しそうに走るなんて君じゃない」 その言葉に私はぐっと喉から声が出なくなりました。苦しそう? なんで? お姉ちゃんの走りが苦しいはずがありません。この人は一体何を言ってるのでしょう。お姉ちゃんに私なんかが叶うはずがないんです、そのお姉ちゃんの走りが苦しいなんてあり合えないんです。 「私が苦しい? そーんなことあるはずがありません、むしろ楽しいくらいです! だってお姉ちゃんを目指せるんですから!」 「君はお姉ちゃんになることが目標だったのか?」 また喉から声が出なくなって、私はキッっとトレーナーさんを睨みつけました。なんでこう、この人は私の心にずかずかと踏み込んでくるんですか、何も知らないくせに、何も知らないくせに。 「では感情的じゃなくて、効率的な話をしよう。記憶を失う前の君はさっきも言った通り、一段一段ずつ走って昇っていった、それにモモを上げて。今回は君は数段飛ばしで昇った、あの子の走り方をするために大股に慣れようとしたんだろうが。だが、前のに比べてタイムが随分と落ちている、わかるか? 君の脚でストライドはスタミナがぐんと落ちるんだ」 「だから、だから何ですか…練習すればそんなのは…」 「無理だ。君に意地悪するためにいってるんじゃない、関節の柔らかさというのはある意味才能なんだ。それこそ、体が整う前に幼少期からずっと念入りにしてもなお、人によっては限界があるように。フクキタル、君には無理なんだ」 「……っ! だから何なんですか! 私はこれで走りたいんです、これが一番速いんです! これじゃないとダメなんです!」 「どうして?」 どうして? どうしてって、それは…それは…私が… 「自信がないんだろう? 君はお姉さんには勝てない思ってる、自分にはなんにもないと」 私の心を読むようなその言葉に私の頭の中で何かがプツンと切れる音がしました。 「うるさい! うるさいうるさいうるさい! そんなの言われなくなって分かってる! 分かってる一番私が! 私は何もないって! だからこうしてお姉ちゃんの真似をするしかないんだ! あなたは何なんですか! 何でずっとそんなこと言ってくるんですか! 何も知らないくせに、何も知らないくせに!」 「知ってるよ」 「えっ……?」 彼の言葉に、私のマグマのように吹き上がる怒りが一気に戻っていくのを感じました。知ってる? 何を? 彼はただあいまいに笑いました。悲しそうな、泣き出しそうな。 「君が小さい時から知っている、君はずっとお姉ちゃんと一緒だった。君が泣いたときや、笑ったとき、怒った時、お姉ちゃんと一緒に俺もいた。君がお姉ちゃんに隠れて走った練習をしたことや、家の近くの木の上を秘密基地にしていたことなんかも」 木の上の秘密基地…それは、それは…お姉ちゃんにも行ったことがない私だけの秘密だったはず……いや、違います。確か一人だけ、一人だけ知っていた…頭が痛い、胸が痛い、誰? 誰? いやだ、思い出したくない…。 「何のためにと言ったね、それは君が大事だからだ。何よりも」 彼は真っすぐな目をして私に近づいてきた。その目、どこかで見覚えがある。痛い、頭が痛い。息が苦しい、見ないでその目で私を見ないで。 「前に俺は君の幸せを勝手に決めてつけて、フクキタルさえも傷つけた。だから今回は自分の幸せだけを図々しく優先する。君が大事だからだ、何もないなんていうな! 君の笑顔にはいろんな人が救われている、君の姉や俺だってそうだ。君の明るさにはみんな憧れてる」 「ち、違う、違う…」 「お姉ちゃんの走り方じゃないと速くないなんてありえない! フクの走り方はこっちが見ていて気持ちよくなるぐらいで、大吉が出ればそれはもう最高だ。そして走った後の幸せそうな顔はこっちまで幸せになる。ファンのみんなもそう言っている。だから苦しんで走ってほしくない!」 違う、私には何もない、何もない。何もないはずなんだ…ふと記憶に大きなレース場で大勢のファンの皆さんに手を振っている光景が映し出される。でも私の視線は一人の男の人に、目の前の男の人に。違う、そんなはずはない、そんなはずは…。違う、違う。 「フクを、お姉ちゃんが大好きだった、フクを俺も大好きだからだ! 君が怪我したときはこの世の終わりだと思った、だから二度とと、二度と怪我をさせない。だから、怪我をするような無理な、走り方をしてほしくない」 言わないで、言わないで、そんな言葉をかけないで。息が苦しい、あなたは違う…違う…私じゃないんだ、私じゃなくて…タンホイザさんと…お姉ちゃんと…。あれ、可笑しいな、お姉ちゃんはもうとっくに死んじゃってるのに。 「あっ…」 ふと足にガクッときて、私の身体が後ろ向きに倒れていきました。柵に手が届かない、脚に、脚に力が入らない、無理に石段を上がりすぎてとっさに踏み込めない…そして世界が回転して私の名前を呼ぶ声が聞こえると、目が真っ暗になりました。 少しの衝撃が襲って…でもどこにも痛みはありませんでした。恐る恐る目を開けると、階段の途中で彼が私を抱きしめていました。私を飛び出すように抱き留めて、代わりにかばったのだと、すぐに分かりました。 「えっ…あっ…サブトレーナーさん…!? な、なんで…あ、頭から血が…!」 「大丈夫、かすり傷だよ。言っただろう、二度とケガさせないって…怪我はない?」 「そ、それはこっちのセリフです! も、もう…!」 慌ててハンカチで血を拭い、上のベンチまで連れて行くとゆっくりと彼を降ろしました。彼はありがとうと笑うとハンカチで頭をちょいちょいと抑えて平気だよと言ってきました。何でそんなに笑えるの、なんで…。 「どうして、そんなに…私を…」 「何回も言っただろう、君が大事だからだ、何よりも。あぁ、結構恥ずかしんだぞ、これ言うの」 「なっ、なっ…み、水買ってきます! そこを動かないでくださいね、安静に!」 「はは、ありがとう」 また真っすぐに私の目を見た彼には何の偽りも下心もないように見えました。本当にないんでしょう。本当に、本当に私が大事なんだと言っているようで私は何だか頬が熱くなって、でも私のせいで怪我をした彼に申し訳なくて背を向けてしまいました。あぁありがとうでも言えればいいのに、なんだかなぜだか恥ずかしい…とりあえず水でも買って消毒を…。 そう言えばそう、小さいころもこんなことがあった気がします、石畳の近くで遊ぶなと言われたのに調子に乗って、脚を滑らせて…その時も…そうだ、お兄ちゃんがかばってくれて、その時もお兄ちゃんは怪我を…。お兄ちゃん? お兄ちゃん、お兄ちゃん、そんな、私、私。 「お兄ちゃん?」 私が振り返ると、お兄ちゃんはベンチに横たわっていました。 「お兄ちゃん…?」 ただ横たわったまま静かに微笑んで、何も返してはくれませんでした。血がぽたりとベンチから地面に垂れました。 37 「どうしたの?」 「えっ?」 あの子の声が聞こえて目を開けると、バス停のベンチだった。どうやら肩を借りてしまっていたらしい。彼女は僕の頬を突っついて優しく笑った。 緑の山々と田んぼの青々が優しい一本道、セミの鳴き声と照り付ける太陽、焼けるアスファルトの匂いと揺らめく陽炎。いつもと変わらない夏の景色なのにひどく懐かしい、なんだかずっと夢を見ていた気がする、長い長い夢を。 「ずっと寝てたんだよ。もう、重たかったんだから」 「ご、ごめん…」 「じゃあ交代ね」 そういうと、次は彼女が僕の肩の方へと頭を乗せた。そのまま手を繋いでくる。 何てことはない、いつもの毎日。足りないのはあの子がまたこれを見てふんぎゃろと文句を言ってくることぐらいだろうか。そういえば今日は見ない、珍しくお姉ちゃんに引っ付いてないみたいだ。 「なんだか君と手を繋ぐのは久しぶりな気がする」 「もう、寝ぼけてるの?」 「そうかも。妹ちゃんは?」 「やっぱり寝ぼけてる。今日は二人っきりっでお出かけって言ったじゃない。バスに乗って、二人でお出かけ…遠いところまで。ねぇどこ行きたい?」 「君が行きたいところが、俺の行きたいところだ。知ってるくせに」 それは本心だった。彼女が行くところは決まって自分も楽しめたし、彼女がやることは絶対に自分も好きになれた。もちろん僕が好きなことは決まって彼女も好きだった。僕にとって彼女はもう一人の自分だった。もしかしたらお互いを好き合っているのは、ある意味ナルシズムの一種なのかもしれないと思うくらいに。 「うふふ、じゃあ楽しみにしててね」 そういうと彼女はまた笑った。バスはまだ来ないようだった、バス停の時刻表に視線を映すと文字はかすれて何も読めない。何処からきて何処に行くのさえも。でもいい、君と一緒ならどこでも怖くはない。 「バス遅いね」 あの子は言った。そうだねと笑顔で返す。 照り付ける太陽が眩しいほどなのに、なぜだか暑くもなんともなかった。 〇 フクちゃんのトレーナーさんが意識不明となってからもう一週間が経った。 トレーナーさんは管に繋がれながら、ただ眠っているように、良い夢を見ているように穏やかな顔で目を閉じていて、声をかければすぐに目覚めていつものように笑ってくれると思ってしまうぐらい。 でも私が声をかけても、ターボが泣きじゃくって体をゆすっても、瞼を開けてくれなくて、それが私達に現実を突き付けてくる。 脳にダメージが、とお医者さんは責任者として駆けつけた桐生院トレーナーにそういったみたい。どうなるかは全く分からない、話を聞いた桐生院さんは私達にそういった。 明日何事もなく起き上がるかもしれなければ、それは十年後になるかもしれない。数ヶ月後いきなり容態が悪化して死んでしまうかもしれなければ、数時間後にそれが起こるかもわからない。 あの人は生死の境目に立っている状態なんだって、そういった。 私は練習後に毎日あの人のお見舞いに来ている、本当は一日中見守っていたい。けれどそれじゃあ彼が起きた時に何してるんだーってガッカリされちゃうから。彼が目覚めるまでに数秒でもタイムを縮めて、頑張ったなって褒めてもらうんだ。むん! でもやっぱり寂しい、たった一週間なのにふとした瞬間にいやな思いがよぎってしまう、もし一生起き上がらなかったら、もし明日あの人が…死んじゃったらと思うと涙があふれ出てきて止まらなくなる。 ターボは元気、元気で落ち込んだ時に私を励ましてくれるけど、やっぱり不安のようでふとした時に泣いてしまって私に抱き着てくる。ターボは強くて本当に優しい子だ。 桐生院さんはやっぱり大人の女性で、私達を毎日励ましてくれて練習も考えてくれる。ミークさんの方が心配だって言ってたけど、夜トレーナーさんと座っていたベンチに一人だけ座って膝を抱えていたのを見かけた。 ミークさんは、いつも通りでした。ただふとした時にベンチに座って頭を抱えてしまって、桐生院さんが背中をさすりながら励ましていた。辛くないはずがないんだ、ミークさんだって彼の事を知っているんだから。 そしてフクちゃんは…授業と練習中以外は部屋に閉じこもっていて、誰とも一言も話そうとしてくれない。トレーナーさんのお見舞いにも行ってないみたい。 フクちゃんに会いに行ってトレーナーさんは怪我をしたって聞いた。だから自分のせいだと思っているんだって思う。 声をかけてあげたい、慰めたいけど、どうすればいいのか分からない。お姉さんを失って次は、トレーナーさんを失うかもしれないというその恐怖と、絶望に、何と言えばいいのか。 手術中というランプが光っている扉の前で、蹲っているフクちゃんを見た時も、私達は何も言えなかった。真っ暗な瞳から涙を流して、お兄ちゃんとだけ呟いた彼女に、誰も、何も、言えなかった。 フクちゃんは残酷にもその時にトレーナーさんの記憶を思い出しちゃったんだ。その苦しみは誰にも分ることはできない。 そして呼吸困難も、またフクちゃんに襲い掛かっていた。昨日までらくらくにこなしていた練習についていけずに、何度も膝をついていた。それが、また彼女の心にひびを入れてしまっている。 どうすればいいのか、どうしたら彼女は笑ってくれるのか、誰にもわからない。だってフクちゃんの事を一番知っていたのはトレーナーさんだったんだもの。 そうして今日もトレーナーさんのお見舞いに病院に来ている、今日こそはとすぐに消える希望を抱いて。 「あれ?」 「む?」 そんな時だった、理事長さんにばったりと合ったのは。 「感謝。彼の見舞いに毎日きてくれるようで」 「あ、いえそんな…理事長さんはどうして?」 お見舞いの帰り道、近くの公園で暖かいあまあまのコーヒーを飲みながら二人でベンチで座った。うわぁ、私学校で一番偉い人と気軽にコーヒー飲んじゃってるぅ…。 「うむ。責任者としての立場…というのは表向きで、実は彼には縁があってな」 「なるほどぉ…」 なるほど、また女の人…理事長さんは女の子だけど! どうやらあの人は女の子の縁には事欠かさないみたいです。まったく、バケツ一杯分の女の子の涙でもかけてあれば目覚めるかなぁ。そうなら私がすぐに貯めてあげるのに。 「あ、いやいや否定っ! 彼自身との縁じゃなくてそうだな…フクキタルの姉の縁と言えばいいだろうか」 「フクちゃんの…お姉ちゃん?」 意外な人が出てきて私はぽけーっと理事長さんを見てしまいました。 「肯定。まだ幼いころ、私は良く前代に連れていかれてトレセン学園へと来ていた。次にここを背負うのは私なのだと、そういう使命感を持って私も脚を運んでいた」 理事長さんは遠くの景色を、でも瞳には思い出を映しながら私に話してくれた。 「だから大人も私には敬語を使っていたし、なんだか生徒達も遠慮がちに遠巻きにされていた。まぁ寂しかったと言えば寂しかった、友達はいなかったし、家族は仕事で忙しくて一人だったからな。その時私に声をかけてきたウマ娘がいた」 「それがフクちゃんのお姉ちゃん…?」 「そう。何を言い出すかと思えば彼女は『一緒に遊ぼう』と言ってきた。思わずぽかんとしてしまった! はっはっは! 今でも鮮明に覚えている。そのあと彼女は私の手を引っ張って一緒に走ったり木に登ったり、他の友達と遊んだりした。そうすると、それを見た生徒達は私にも親しくしてくれるようになって…いつの間にか一人ぼっちではなくなった。彼女は…私の姉のような存在だった…」 「理事長さんのお姉ちゃん…」 きっとフクちゃんのお姉ちゃんは一人ぼっちの子が放っておけなかったんだろう、素敵な人だったんだなぁ…だってトレーナーさんが大好きになる人だもの。あ、でも顔は私に似ているんだ…なんだか変な気持ち、どんな人だったんだろう、もっと知りたいな。 「よく彼女から、故郷にいる恋人の話は聞いた。その時になると普段は冷静だった彼女も熱がこもって止まらなくなって子供ながらに嫉妬したものだ。必ずとっちゃやだよと言ってきたものだから、誰が取るか、こっちが取ってやると。ははは、子供ながらに恥ずかしい思い出だ」 まだ私より年下と思うんですけど…と大人びた理事長さんに思ってしまうのは許してください…。でもそうか…彼女もトレーナーさんの事大好きだったんだなぁ…。 「だけど、それと同じくらい妹の話もよくしてくれた」 「フクちゃんの…」 「そう。明るくて、笑顔が可愛くて、いつも一緒だったと言っていた。恋しいとも。そして…彼女は妹に憧れていると話してくれた」 「憧れてる?」 「妹が走ったり、笑ったり、占ったり、いろんなことをするとみんな明るく笑うんだそうだ。場の空気が一気に明るくなって、暗い空気もどこかに行ってしまう。それが凄くて憧れていたと…そしてそれは彼女が学園に来た時にわかった。笑顔ッ! とはまさにあんな顔を言うんだろう、みんな彼女の周りには笑顔が溢れていた。彼女が憧れるのも当然だ」 「そうですね…フクちゃんと話すと暗い気持ちがぜーんぶ飛んでいっちゃってました」 トレーナーさんといたフクちゃんの笑顔を思い出す。とても素敵なこっちまで笑っちゃうような笑顔、そうだ、みんな彼女の笑顔が好きだった。でも、今は…。 「理事長…私、どうすればいいんでしょう…私、フクちゃんにもう一度笑ってほしい。でもそう思うたびにどうすればいいのか分からなくなるんです、だってフクちゃんを笑わせていたのはいつもフクちゃんのトレーナーさんだったんですから…」 「…わからない、でも分からなくてもよいことはある」 「ですよね…えっ?」 想ってもみない言葉に理事長を見ると、扇子をばっと開いて私に笑顔を向けました。 「なぜならば、私達はフクキタルのトレーナーではないからだ。だけどトレーナーじゃないとフクキタルは笑わないということではあるまい。考えて、考えて、考えぬいても分からないことはある。そういう時は太鼓を打ち鳴らして攻めて可なり!」 「えーっと、その…それはどういった意味で…」 「突撃っ! つまり、当たって砕けろということだっ! いつまでも悩んでいるだけじゃ事は起こらない。レースに走ってそこで、分かることがある…違うか?」 理事長の上に乗っている猫ちゃんがにゃーおと力強く鳴いた。それ以上に理事長さんの眼は爛々と燃えていて、私に勇気を与えてくれているのだとすぐに分かった。 そう、そうだよね、やってみなくちゃ分からない…。考えてもわからないことは、考えない。トレーナーさんもそう言っていた。 フクちゃんに、フクちゃんに笑ってもらいたい。そしてトレーナーさんを一緒に待ちたい! きっと目覚めてくれると信じて、だって私たちはそう同じ恋のダービーの出走者なんだから! 「理事長さんっ!」 「むっ!?」 「ありがとうございます! 行ってきます!」 「うむ!」 理事長さんにお礼を言って走り出す。もちろん、法定速度以下で。 待っててねフクちゃん、砕けに当たりに行くから! 38 いくら時間が経ったのか、彼女とベンチでお互い体を寄せ合っていると遠くから揺らめく陽炎の中からバスがやってきた。 「あぁ、バスが来た」 彼女がふぅとため息交じりにバスを見た。車の窓からはいろんな人が乗っているようだったが、ヒト、ウマ娘共に老人が多いみたいだった。みんな不思議とこちらを見ている。まるで次の乗客はどんなやつなんだろうと値踏みするように。 「みんな、どうしたんだろう? なんでこっちを見てるんだ?」 「お似合いのカップルだって思ってるのかも?」 「そうかなぁ、どう見てもお姫様と従者って感じにしか見られないと思うけど」 「私にとっては王子様だから問題なーし」 これって何処に行くんだ? と彼女に聞こうとしたけど、その前に口を閉じた。何故だかバスを見ているとそれがなんとなく何処に行くか分かったからだ。安らぎで満ち溢れている場所、もう別れの心配なんてありえない場所。僕達の約束の場所。 「…………」 「大丈夫? ほら、行こう?」 でもそれがなんだか自分でも分からないぐらい怖くて足踏みしていると、彼女が手を握ってくれた。すると心がすっと楽になった気がして何も怖くなくなってくる。 そうだ、いつだって彼女といれば何も怖いことなんてなかった。この子さえいてくれればこれからも何も怖くない。勇気が湧いてくる。 強く手を握り返してお互い笑顔を向けると、プーッという音がしてバスのドアが開いた。 〇 私のとって占いとはいろんな意味を持ちます。 昼食の決定、一日の指標、人生の選択、自分を助けるために、友人を助けるために、悩みを聞くために、悩みを聞いてもらうために、幸運を呼ぶために、悪運を遠ざけるために。 私が唯一持っている長所ともいえるのかもしれません。こんな私でも誰かの役に立てるんじゃないかって、お姉ちゃんの指輪を見つけたときからお姉ちゃんに持っていない物を自分が持っているのだとそう思えたんです。 でももう、必要ありません。開運グッズなんかもいらない。 お守りも、依り代人形も、プリンのカップも何もいりません、何も意味がない、私は自分で自分の運命を捨ててしまったから。だからなんの意味もないんです。 自分の一番の幸運を切り離した私にはもはや、大吉なんて訪れるはずがないのです。もう、私には何の価値もありません。 私は運命の人を裏切った、それを選んでくれたシラオキ様も裏切った。私はシラオキ様にトレーナーさんをお兄ちゃんをどこかにやってくれと頼んでしまったんです。自分の翼を千切った鳥は一体どうやって飛べというのでしょうか。 「うぅ…」 真っ暗な自室で布団にくるまりながら必死に泣かないように食いしばる、食いしばるけど涙が出てくるのは止められません。私はなんてことを、なんてことをしてしまったのでしょうか。 見るものすべてが辛い、空の青さも、好きだった料理の匂いも、誰かが走る姿も、頬を撫でる冷たい風も、何をしてもお兄ちゃんとの日々を思い出して、それがもう二度と来ないかもしれないと考えるのが怖くて何もできないのです。 お兄ちゃんが眠る病室に行きたい、でもどんな顔をしていけばいいのでしょう。すべては自分のせいだというのに、自分のせいでお兄ちゃんを傷つけて、みんなも傷つけたというのに。私にはそんな権利なんかない。 私はみんなを不幸にするだけだった。そう、全て、全て失敗、お兄ちゃんを幸せにしようとした計画も、私自身によってすべて壊れてしまいました。私はお姉ちゃんを失っただけではなく、お兄ちゃんを自分のこの手で…みんなも不幸に…。 「うぅ…うえぇ…」 泣く権利もないというのに、流しても流しても涙が止まらない。お兄ちゃんはどうやって耐えていたのだろう。 死なないで、行かないで、お兄ちゃん。 「ひっく…」 「フクちゃん!」 そうしていると、部屋のドアが大きくドンドンドンと叩かれる音と共にタンホイザさんの声が聞こえてきました。 タンホイザさん、お姉ちゃん、そう彼女も私は不幸にしてしまいました。そんな彼女は優しく毎日私の部屋の前の扉に来て声をかけてくれます。でもそんな優しい彼女に私は、何と言えばいいのでしょう。何も言えない、何も話したくない。私には優しい言葉をかけられるような価値もないというのに。 「むぅー…えい…えい…!」 ふと、タンホイザさんが何やら気合を入れるような声が聞こえてきていました、ドアの前でそれは不味いとか、少し落ち着こうとかそんな声も聞こえてきます。 「むんっ!!」 めぎゃっという音が響いたかと思うと、部屋のドアが金具と共に部屋の中まで飛んできて音を立てました。 「へ…?」 思わず布団の隙間からドア…ドアがあった方に視線を向けるとふんっと鼻息を漏らしながらタンホイザさんがドスドスと入ってきました。 「た、タンホイザさん…ど、ドアをけ破ってきたんですか…!?」 思わず声が出て、一週間ぶりに私は他人に口を開きました。しかも話したくないと思ったばかりのひとに。タンホイザさんは私を見ると布団を剥いで私をキッっと睨みつけています、普段の彼女の様子とはまったく違いました。何を言われるのでしょうか、いえ、何を言われても当然の私です、もう私は彼女から殴られて溜飲を下げてもらうしか価値のないウマ娘ですから。彼女にしてきたことを想えば、殺されたって仕方がありません。 「お肌に悪いっ!」 「……へ?」 ですがタンホイザさんから出てきた言葉は私が予想もしていないものでした。お肌? お肌ってこのお肌…? 「こんな暗いところにずっといたらお肌が痛む! さんさんのお日様を浴びないと、目にも悪い!」 「あ、あの…タンホイザさん…?」 「女の子には大敵だよ! それにご飯も全然前みたいに食べてない! トレーナーさんが起きた時に怒られるよ!」 「……っ! 何をしに来たんですか…」 「砕けに当たりに来ました!」 トレーナーさんと聞いて思わず、膝を抱えるとタンホイザさんは胸を張ったように言いました。えっ、砕ける前提で…それ当たり損…。 私が分からない言葉に混乱していると、タンホイザさんはそっと私に目線を合わせました。 「ねぇ、フクちゃん。私ね、トレーナーさんが好き」 「…はい」 「カッコいいし、優しいし、私の事よく見てくれるし、可愛いところもあるし、ちょっと悪戯っぽい笑顔も好き。今はちょっと〜いろんな女の子に優しさを振りまいてるからそこはどうにかしないと〜って思ってるけど」 タンホイザさんは何も恥ずかしがることなく、でも少し頬を染めてそう言いました。あぁ、やっぱりこの人には勝てない、私のせいで傷つけたのに、トレーナーさんを嫌いなっても仕方ないのに、やっぱりトレーナーさんはタンホイザさんといた方が幸せになるんだ。息が苦しくなってくる。 「フクちゃんは?」 「……えっ?」 タンホイザさんの真っすぐな目が私を捉えて離しませんでした。このウマ娘さんは何を…そんなこと、そんなこと言ってもしょうがないのに。 「フクちゃんはトレーナーさんのこと好き?」 「それは…一人の人間として尊敬はしますが…そんな、私には…」 だから嘘をつく、思ってもみないことを口にする。だって私にはあの人を好きになる資格さえないのだから。息が、苦しい。 「本当に? 本当にそうなの? じゃあ私トレーナーさんをとっちゃうよ、独り占めにしちゃうよ?」 「……っ、ご自由に、どうぞ…私には、何も関係、ありませんから…」 「本当に? ねぇ、フクちゃん、本当に心の底からそう言っているの? 私全部聞いたよ、全部フクちゃんの願いだったんだよね! そうしたいのはフクちゃん、トレーナーさんが幸せになってほしかったからなんでしょ! 自分を放っておいてそこまでできるのって、本当に相手のことが好きじゃないとできないんだよ!」 やめて、やめて、息が苦しい、息ができないんです。やめて、放っておいて、それが一番なんです。やめて、息が。 「私は本当にトレーナーさんのことが好きなんだよ!?」 「うるさいなぁ! わかってますよそのくらい!」 どこかで止められていた息が一気にダムの放流のように大声となって飛び出しまして、部屋の響かせました。 「好きですよ! ずっと好きです! 彼が、お兄ちゃんが! 初恋の人です! あの人がお兄ちゃんって気づく前も好きでした、お兄ちゃんって気づくときには本当に運命はあるんだって信じたぐらいにもっと好きになりましたよ!」 同時に滝のように流れてくる涙と共にタンホイザさんへと言葉をぶつけました。止めようと思っても止められませんでした。耳の奥がビリビリとして、喉がゴロゴロと震えて、それでも止められませんでした。 「でも、ダメなんですよ。どうしてもダメなんです! だって、だって…お姉ちゃんが先にお兄ちゃんを好きになって、お兄ちゃんはお姉ちゃんを好きになったんですから…! じゃあどうすればいいんですか…どうにもできないじゃないんですか、私なんか、私なんかお姉ちゃんに叶わないんですから…じゃあ応援するしかないじゃないですか…お姉ちゃんにそっくりな、お姉ちゃんになれるタンホイザさんを…それが、お兄ちゃんにとって一番の幸せなんですからぁ…!」 「フクちゃん…」 最後には嗚咽混じりになった私にタンホイザさんはそっと腕を回してぎゅっと抱きしめました。お姉ちゃんとは違う、お日様の匂いがします。 「タンホイザさん…?」 「ねぇ、フクちゃん、私はお姉ちゃんにはなれっこないよ。だってお姉ちゃんじゃないもの…それにね、誰かが誰を先に好きになったなんてそんなの関係ないの」 「ふぇ…?」 「みんな、みんな自分の恋には自分勝手なんだから。そうじゃなきゃみんな、生きてるみんな新しい恋なんてできっこない。幸せなんて見つけっこない。フクちゃんはお兄ちゃんの一番の幸せって言ったけど、本当に? お兄ちゃんに聞いたの? それがあなたの幸せなんですか?って」 「そ、それは…」 「誰も人の幸せなんてわかりっこない。だから、幸せですか? ってみんな聞くの。自分の幸せが誰かの幸せにもなれているかって…ねぇ、フクちゃん今幸せ?」 「ううん…ぜんぜん…」 「じゃあフクちゃんの幸せって?」 「私の幸せは…お兄ちゃんが幸せになって…」 そうするとタンホイザさんはぎゅっと私を抱きしめる力を強めました。 「ううん、それはフクちゃんがお兄ちゃんになってほしい幸せ。フクちゃん自身の幸せは? 自分勝手でもいいから、どうしたら幸せ?」 私の、幸せ。私だけの幸せ…。お兄ちゃん…私の中にいろんな思い出が沸き上がりました。小さいころ、学園で出会ったとき、彼の笑い顔、私を頭を掴む手、撫でてくれる柔らかさ。 「私は、私は…お兄ちゃんと手を繋ぐ時が幸せ…その背中に抱っこされたときも…撫でられたり、言葉をかけられた時も…ずっと一緒にいれたらそれだけで幸せ。ありがとうって伝えたい、あなたのお陰でいつも大吉ですって伝えたい……大好きだって伝えたい…。そうしてお兄ちゃんさんからも大好きって言われたら…それだけで、幸せ…」 「うん、うん…」 「お兄ちゃん、お兄ちゃん…タンホイザさん、ごめんなさい…酷いことしたのに、いろんなことしたのに…私、私、お兄ちゃんを、お兄ちゃんを他の人に渡したくない…! 大好きって言われたい…!」 「うん…私も。じゃあライバルだね、私達は同じレースを走るライバルだ」 タンホイザさんは私の涙をぬぐいながら、私に笑ってくれました。いつの間にか、涙は止まっていました。でも、お姉ちゃんに私なんかがお姉ちゃんに…。 「フクちゃん、お願いがあるんだけど」タンホイザさん私の手を引いて起こしていいました「併走に付き合ってくれる?」 39 マチカネタンホイザさんが今すぐ併走をしたいとトレーナー室に来たのは、丁度お宅のポニーちゃんがドアを蹴破ったみたいなんだけど、と寮長から連絡が入ったのと同時だった。 そんな感情に任せるような思い切ったことをするような子とはまるで思ってもみなかったので、さて怒るべきか、それとも下手に刺激して自分もドアと同じ目に会う前にとりあえず諫めるべきかと悩んでいると、すぐ後ろにフクキタルさんの姿が見えたのでフジキセキさんに「弁償します」 とだけ言って携帯を切って、すぐさまコースの予約をごり押し気味に取ってきた。快く予約の時間を少しだけでも譲ってくれたライスシャワーのトレーナーに感謝を。ヒットマンだ刺客だと言われていて風貌も正にそんな感じな人でも、中々に優しい人だ。 「フクキタルさん…大丈夫でしょうか…また呼吸困難が…再発しているのに…」 二人がコースに並ぶ姿を外で眺めていると、噂を聞き取ったのかミークが隣で心配そうにつぶやいた。その表情は私たちが初めて出会ったころの少し弱弱しい部分が出ていた。 元々彼女は誰よりも優しいウマ娘だ、だからあの人から起きなくなってしまってから今まで彼に言った言葉に自分が押しつぶされそうになっている。もっと優しくしてあげればと深い後悔が襲ってくるようだった。まったく眠っていないで早く起きてきてほしい。これではサブトレーナーを雇った意味がないではないか。 「今のフクキタルさんでは、併走にもついていくのがやっとか…おそらく先行のタンホイザさんに引き離されて追い付けずに大差を付けられるでしょう」 「そう…ですか…トレーナー…あの人は…フクキタルさんの声を…聴けば……起きてきてくれる……でしょうか……」 「大丈夫、きっとまたあの憎たらしい顔を見せてくれますよ。大丈夫、ミーク、あなたのせいなんかじゃない」 「はい…」 すこし肩を震わせるミークをそっと抱きしめてると、ふと携帯の電話が鳴った。病院からだった。 ギャラリーの歓声が聞こえてくる、併走が始まったようだ。ぽつりと雨が一粒私の頭に降り注いだ。 〇 併走をしようと言われて、ボロボロになったドアを置いてけぼりにしながら、状況が理解できないままに彼女に手を引かれていくと、いつもは予約で満杯なコースの間に滑りこみ、いつの間にやらギャラリーがこちらを注目しており、芝の上でタンホイザさんとジャージを着ながら並んでいました。 「ねぇ、フクちゃん」 隣でタンホイザさんが言いました。 「私が勝ったらトレーナーさん、貰っちゃうから!」 「えっ?」 「信じてるから」 一瞬笑ったその顔が昔のお姉ちゃんの顔にそっくりで、私の脚が凍り付くのを感じました。重い、恐い、お姉ちゃんに、お姉ちゃんに勝てるわけがない。私にはもう幸運も寄ってこないのに…。 そう思っているといつの間にかスタートピストルの音が響いていて、タンホイザさんが飛び出していました。慌てて脚を無理くり動かして後を追いますが驚異的な出遅れ、タンホイザさんの後ろ姿があんなにも遠い。 それに息が苦しい、息ができない、自分の手と足が自分のものじゃないみたいにいうことを聞いてくれない。苦しい、苦しい…足を止めたい。でも、でも… 「お兄ちゃんを…渡したり、なんか…」 ぐっと足が動いて前へと進んだような気がする。少しだけタンホイザさんの背中が近づく、だけど近づくたびに近づきたくないって思ってしまう。その背中が走り方がお姉ちゃんそっくりで、それが恐い、小さいころ一度も追いつけなかったお姉ちゃんが恐い。 動いてた足がまたすくむ、息も苦しい、今まで私はどうやって走っていたのだろう、どうやって…分からない、分からない、なんでお姉ちゃんを…追い越したいって…。 ぽつり、ぽつりと今まで快晴だったというのにいつの間にか雨が私のおでこを叩きました。縁起が悪い、縁起が悪い、雨はどんどん強くなっていって、私たちの体を打ち付けています。それでもタンホイザさんはスピードを緩めたりしませんでした。どうして、どうして、やらなくたって勝つって分かるのにどうやって…。お姉ちゃんみたいに速く…。 それが分からずにぎゅっと目をつぶるしかなくて、私はただどうやって息をするか考えられないようになりました。いつものように。 『別にお姉ちゃんみたいに速くなくていいじゃないか』 その時、ふと、どこかで声が聞こえたような気がしました。トレーナーさん、お兄ちゃん…。 『自分らしく速ければそれでいいと思う、元気でうるさくて縁起がいいとババババ―ッと走っていって…そうすればいつかお姉ちゃんに勝てるかもよ』 子供のころあの原っぱで…お兄ちゃんはそう笑いました。そうだ、そうだったね…私の、私の走り方。それは私らしく、私だけの…わからないことはわからないままに運任せで、でも勢いよく走って、それでお兄ちゃんが笑ってくれて。 お兄ちゃん、私戻れるかな…あの夕暮れ道のように、戻れるかな。もう一度だけ、最初から…。お姉ちゃんに勝てるって言ってくれたお兄ちゃんの為に、勝とうと思った私の為に。 「フクちゃん」 ふといよいよ大雨なのに、タンホイザさんの声がはっきりと聞こえました。私が目を凝らすとタンホイザさんはしかし前を向いたままで…。 「フクちゃん」 しかしもう一度聞こえてきた声に耳を傾けるとそれはタンホイザさんがいる前ではなくて私のすぐ横からで、そちらに視線を向けるとそこには、お姉ちゃんがいて、私の隣を走っていました。 それ以上お姉ちゃんは何も言うことなく、あの時のように優しく笑って、そのまま私を追い抜いてタンホイザさんと被ったかと思うと、次はタンホイザさんが一気にそのお姉ちゃんの殻を破るように一気にスパートをかけて速度を上げていきました。 タンホイザさんはお姉ちゃんの走りをさらに一段階、進化させたのだと、そう直感しました。だけど、だけど。 「タンホイザさんっ…!」 負けたくない、負けたくない、負けたくない…! あれが何か、私が見た幻覚なのか、それとも神様がくれたチャンスなのかそれは分かりません。だけど、だけど、だけど! 今度こそ、今度こそ、今度こそ! お姉ちゃんには、タンホイザさんには。もうお兄ちゃんを好きな人には…! 「負ける…っ!」 自分でも信じられないくらいに、息が肺の中に充満してくるのを感じました。力がみなぎって、前がはっきりと見えてきます。タンホイザさんの背中が見える、近づいていく。ゴールまでもうない、だけど、まだ! 「もんかぁぁぁっ!」 一気に息を吐いて、がむしゃらに走る。走って走って走って、背中を超えるために、もう、負けないために。お兄ちゃんに大好きと伝えるために。 雨が止んだ気がして、ゴールを抜けた時、タンホイザさんは私の背中を見ていました。 そのまま息も絶え絶えに倒れ込んで空を見上げると、太陽が私と目が合いました。あんなに雨が降っていたのに、もう雲は遠くの向こう。 「フクちゃん! 大丈夫!?」 慌ててタンホイザさんが駆けつけてきて、私を見下ろしてくれたおかげで太陽にを遮ってくれました。私が笑顔を向けると、タンホイザさんは雨の代わりに涙で私のほっぺを濡らします。 「フクちゃん…!」 「ありがとうございます…タンホイザさん…それに、お姉ちゃん…」 ぎゅっとタンホイザさんがまた私を抱きしめてくれました。太陽のいい香り…もう、息は何処も苦しくはありませんでした。こんなに空気が美味しいと思えたのは初めてでした。 「これで、トレーナーさんを貰ったりしちゃー駄目ですよ…」 「えっへっへー、まぁそれはトレーナーさんが決めるってことでぇー…これでライバルだ!」 「えー!? でもまぁ、いいですね。ライバル! でもこれで一点リードということで!」 「えー!?」 お互い涙を見せながら笑い合いました。あの大雨でいっぱいいたギャラリーは散ってしまっていました。ターボさんとミークさんと桐生院さん以外は。ターボさんって本当にいい子です。 心配させちゃいけないので、急いでも彼女たちの元に戻っていくと、桐生院さんは慌てたようにこちらに来ていました。もしかして大雨の中で無茶に走るなと怒りに来たんでしょうか、それは、それは不味いです。トレーナーさんは桐生院さんだけは怒らせるなっていったのに! それはもう、鬼神のような恐ろしさと聞きます…! 「フクキタルさん、タンホイザさん!」 でも桐生院さんはもっと違う、焦り方をしていました。見たこともないくらいに、手まで震えています。そして彼女は震えた声で私たちに言いました。 「彼の、彼の容態が…! 急変したと!」 40 バスの扉が開いた後も、彼女はただ空をぼんやりと見ていて僕が声をかけても何も答えてくれなかった。 それが数分も続いたので流石に怖くなって彼女の肩に触れると、ハッとしたようにようやくこちらを見てどこか嬉しそうに笑った。 「どうしたの?」 「嬉しいことがあったの、とっても」 彼女の髪の先から雨も降っていないのに雨粒がぽつりと落ちて、アスファルトの上ですぐに蒸発した。 「どうしたお前さん達、はよう乗らんと後がつかえる。わしは早う婆さんに会いに行きたいんじゃ」 バスの中にいる老人の一人が僕達に声をかける、老人だけじゃなくバスに乗っている全員が自分も同じだと抗議の目を向けていた。バスの運転手もこちらをじっと見ている。 「待たせちゃってるみたい。行こっか」 「あぁ」 彼女が僕の手を握ったままバスの中に入って、また微笑んだ。だけど、いつも笑ってた女の子は手を引こうとせずに、ただ少し自分にも視線を合わせようともせずに目を伏せた。こんな彼女を見るのは始めてだ。 ちょうどそれは、僕がバスの入り口に足を一歩踏み入れていたところだった。 「私の事、好き?」 当たり前のことを彼女は聞いた。 「好きじゃなかったときがなかったぐらいに」 当たり前のことを僕は言った。 ふとどこかから声が聞こえた。 〇 彼の容体が急変した。そう聞いて一番早く飛び出したのはミークさんでした。 桐生院さんが私達に伝えに来ていた時にはもう走っていっていて、私たちも遅れてびしょ濡れのままで飛び出していきました。 ウマ娘専用レーンにはとても感謝しなくてはなりません、車よりも早く病院へと駆けつけることができるのですから。ターボさんもタンホイザさんもそして私も、制限速度ギリギリまであがる息も構わずに走りました。ただみんなお兄ちゃんの事を考えていて、苦しいとかそんな思いが入り込む余地がなかったのです。 病院に到着しても、できる限り速度を落として謝りながら廊下を走ると、ミークさんが見えました。お兄ちゃんの病室の前でへたり込んで手で口を押えていました。 「ミークさん…お兄ちゃんは…」 「いや…いや……やだ…………兄さん……行かないで……」 ミークさんの視線の先には、お兄ちゃんがいました。周りにはお医者さんとナースさん達が急いで声をかけたり、注射を打ったりしながら声をかけていました。 病室の心電図からはただ一定の高音だけが鳴りびいていて、お兄ちゃんはただ眠っているように、もう起きないと私たちにわからせるようにただ、安らかに…。私たちがただそこから一歩も動けずにいると、お医者さんが私たちを見て視線を床に向けてから腕時計を見ました。 「とても、残念なことですが…」 「いやだ!」 ターボさんが叫んで、お医者さんを押しのけてお兄ちゃんの胸に縋りつきながらまるで、寝坊している人を起こそうとしているように揺らし始めました。 「やだ、やだ! トレーナーはまだ生きてるもん! 死んでなんかない! すぐに、すぐに起きて、元気になってまたターボの練習を見てくれる! そしてまたみんなで一緒にご飯食べて…みんなで笑って…だからほら、すぐだよ、きっともうすぐ…目を開けて…おはようって、笑っておはようって…そうでしょ…? ねぇマチタン、そうでしょ? トレーナー、死んでなんかないよね…?」 「ターボ…」 ぼろぼろと大粒の涙がターボさんの大きな瞳から流れ出して、タンホイザさんは彼女を抱きしめると自身もまた嗚咽を漏らしてついにはターボさんとお互い支えるように床に崩れ落ちました。 ミークさんも涙をこぼして、私だけがただ茫然と立っているだけになりました。まるで地面がなくなったように足元の感覚が消えて、よろよろと自分が歩いている感触もなく気づくといつの間にかお兄ちゃんの顔を見下ろせるところまで来ていました。 「お兄ちゃん、私ね…ずっと伝えたかったことがあるんです。自分なんかじゃ無理だって、そう思って、諦めてたけど…聞いてくれますか…?」 胸に下げていたお姉ちゃんの指輪をそっとお兄ちゃんの胸に置いて、私は彼に伝わるように震える声を何とか絞り出しました。 「大好きです、お兄ちゃん。貴方がいるだけで、私はずっと幸せなんです。だから帰ってきて…もうお別れなんて、嫌だよ…」 涙が溢れてきて、お兄ちゃんの顔を濡らしました。 「お兄ちゃん…」 〇 「お兄ちゃん」 聞き覚えのある声に後ろを振り向くと、妹ちゃんがバス停の中のベンチに座って泣いていた。いつの間に来ていたんだろう。 自分を呼びながらただ泣いている。またかけっこでもして転んだんだろうか、それとも自分達の事を聞きつけて止めに来たんだろうか。 「あらら、また妹ちゃんが泣いている、しょうがないなぁ全く…」 泣いているあの子へと向かおうとすると、腕が引っ張られた。見ると彼女はバスから動こうとせずにただこちらを悲し気な表情で見ている。 「どうしたの? 君を呼んでるんだから、行かないと後が恐いぞーまただるまを投げつけられる」 「呼んでいるのは貴方。わかってるでしょう?」 確かに、とても珍しいことに彼女の妹は自分を呼んでいるようだった。しかもとても珍しくお兄ちゃんと言ってくれている、とても上機嫌じゃないと言ってくれないのに。 「でも、ほら慰めないと。あれは何かとても悲しいことがあった時の泣き方だ。あれは開運グッズを壊しちゃったとき並だ、ほら行こう…」 「私は、行けないの」 「なんで、どうして? 喧嘩した? それなら…」 「わかるでしょ?」 彼女が微笑んで、その目の端から涙を落した。彼女が随分と小さく見える、手も小さく…いや、違う…そうか、俺が大きくなったんだ。 「…そうか、そうだった」 「こんなに背が高くなるのね、さらにカッコよくなってるし」 「君に、追い付こうとしたんだ。俺より背が高くて、綺麗だったから…」 お互いバスの入り口で笑い合う、笑い合って同じぐらい涙を流した。 「一緒に…バスに乗ってくれる?」 その願いに、自分は答えられなかった。行きたくなかったわけじゃなかった、だけど行けなかった。後ろで泣いている女の子がいたから。 それも彼女も気づいているのだろう、頷いて、また微笑みを向けてくれた。 「さっさと無理やり乗せちゃえばよかったかなぁ。いや、あの子が来なかったら乗せてましたよ」 「嘘だね。ホントは待っててくれたんだろ、ほら君は妹にとっても優しいから」 「どーだろーねー? ギリギリだったんだよ、ギリギリ。あんまり待ってくれないから…」 彼女が運転席を見ると、運転手は不満げに腕時計を叩いていた。それを見てまた二人で笑う。 ひとしきり笑った後、お互いの目を見つめ合った。いつも二人でいた時のように。 「じゃあ、サヨナラだね」 「いいや、さよならじゃないさ」 「えっ?」 「またね。って言おう。だってほら、いつになるかわからないけどまた会えるんだし。もう俺は天国に行けないだろうから何十年、何百年になるかわからないけど…絶対また君に会いに行くよ…絶対」 「うん、うん…」 バスから脚を降ろすと、彼女の顔がそっと近づいて自分の唇と重なった。あぁ、どれくらいぶりだろう。あの時のままだ。 「じゃあ、長生きして、幸せになってね? うんと、お話聞かせて…待たせる分、いっぱい。そしたら少しの浮気ぐらい大目に見てあげる」 「あぁ…あぁ…! ごめんよ、一緒に行けなくて、ごめんよ……愛してるよ、ずっと…」 「ふふ泣き虫さん…またね」 彼女はあの時のように微笑んでバスの席へと座ると窓から俺を見た。 「すいません、お待たせしました」 「いいんじゃよ、此処にいるみんなはみーんなお嬢ちゃんを羨ましがっとる」 「そうそう、こんなところまで見送りに来てくれる人なんてそういない、運転手さんも大目に見てくれるわい」 バスはそうやってワイワイと笑う声を響かせながらプーっと音がしてドアが閉まるとそのまま遠くの陽炎の中に消えるまで走っていった。俺はそれをずっと見ていた、消えるまでずっと。 「さてと…」 そうして泣いている妹ちゃん、フクへと向き直る。そっと頭を撫でると、彼女は潤んだ一目で見た。全く、いつまでたっても手のかかる子だ、そこが可愛いんだが。 「どうしたんだ、フクキタル?」 〇 ふと、ぴこんという音がしたと思うと、もう一つ、もう一つとその音が多くなってきました。 部屋の皆が顔を上げて、そちらを見ています。泣いていたターボさんもタンホイザさんもミークさんも、お医者さんもナースさんもその波長を出し始めた心電図をただ見ていました。もちろん私も。 それに私が目を奪われていると、ミークさんが声を上げました。そうするとふと、私の頭を誰かがそっと撫でました、優しい、優しい覚えのある手…。 撫でてくれている人に目を向けると、うっすらと目を開けて、私に微笑んでくれていました。 「どうしたんだ、フクキタル…?」 お兄ちゃんはそういいました。 41 大きいレース前の地下バ道というのは、特にG1級のものになると歓声がバ道の壁を震わせて、いろんな人の声がまとまって、まるで大きな怪物の唸り声のように聞こえてきます。 限られた者しか聞くことができない、選ばれし者達が通り抜ける怪物の口。皆これを真正面から受け止めて、そして勝負の地というか芝をその足で踏みしめるのです。 そして今日はアリマ記念、集まったファンの皆さんの声によっていっそう恐ろしさを増す唸り声を選ばれたウマ娘さんたちが意を決して前に進んで行く中、私はぽけーっとしてただ突っ立っていました。 恐かったわけではなく、ただ本当にぽけーっとしていたのです。緊張もありましたが、あぁ、本当に私はここに立てているのだなぁと、嬉しさやらなんやらで、脳がショートしているのだと思われます。 いろんなことがありました、いろんな人と出会いました、いろんな心と通じ合いました。いろんな思い出が死んだわけじゃないのに走馬灯のように流れていて、ウマ娘さんがバ道の光の先に呑まれていくごとに、オォォォォとまるでご馳走を食べて満足げに唸る怪物の声のように響いてくる、ファンの皆さんの声援がなんだか遠くに聞こえます。 「こら」 「ふんぎゃっ!?」 聞こえたところで頭をむんずと掴まれて、私は思わず尻尾をピーンとしてしまいました。後ろを向かなくても分かります、トレーナーさんです。正しく言えば桐生院トレーナーさんのチームのサブトレーナー兼私たちの事実上のトレーナーさんです。ややこしいですね! いやまぁ私のせいでもあるので深ーく反省していますが。しかしどうあろうと私のトレーナーさんはただ一人! よって役職は関係なくトレーナーさんなのです。 「もうみんな行ってしまったぞ。どうしたんだ」 「ふふふん、此処まで見送りに来てくれたってことは、理由はお分かりなんでしょう?」 「うーん、ずっと前はここの独特の音が不吉で恐いって竦んでいたから、また恐くなっちゃったか?」 「ふんぎゃーっ! 不吉とは言いましたが別に竦んだことはありませんよ!? 違います思い出してたんです、今までのこと!」 「ははは、わかってるよ。からかったんだ」 「もう! …なんだか、本当にアリマまで来ちゃったんだなぁって。本当にいろんなことがありました、いろんな人に迷惑をかけちゃって…」 「そう言うなら俺もいろんな人に迷惑をかけて、助けてもらったよ」 「えへへ…お互い迷惑かけっぱなしですね。その人たちのためにも今日は勝ちますよー私は! もう運気もむんむん来てますからね!」 「あぁ、信じてるよ」 少しの沈黙の後、お互いの顔を見つめ合って微笑み合うと、そのまま私はトレーナーさんの胸に飛び込みました。 「トレーナーさん、ですから、ですから…あのぅ…そのぉ…運の後押しが欲しいなーっていいますか…ほら、なんというかお呪いといいますかぁ…え、えへへ…」 もう胸がとくんとくんうるさくて、口からおみくじがだーっと出そうでしたが私は何とか言い切りました。言い切りましたとも、耳はぴくぴく、尻尾はばたばた、顔はまっかっかで恰好なんてつきっこありませんでしたが! 「いいのか? そういうのってタンホイザ達が抜け駆けだーって怒る気がするぞ。変な言い方だが…トロフィーになっている身としては」 「い、いいんですよ。レースに勝つために必要なんですから。ほらこれはトレーナーとしての励ましと一緒です! …ダメ?」 私が顔を上げると、もうトレーナーさんの顔は近くに来ていて、私がひゃあと声を上げる前にそれが塞がれました。 ぼんっと頭から煙が出るような音がすると、トレーナーさんは微笑んで顔を半分を隠すような大きなグルグル巻きの瓶底メガネをかけました。これは私とタンホイザさんと、あとミークさんで相談して退院祝いに上げたメガネなのでした。 まぁ、所謂対策です、ハイ。ちなみにちゃんと来福効果ありです。 「まったく、フクにそんな顔をされたら断れないって昔から知っているだろ。」 「ひゃ、ひゃ、ひゃい…いやあの、私が思ってたのはこう、おでことかだったんですけどぉ…あのぉ…」 そういうとトレーナーさんは眼鏡越しに顔を真っ赤にしたようで、手をひらひらとさせながら顔を逸らしました。 「……さぁみんな待ってるぞ、さっさと行ってこい。デートはそのあと! ゲートは七番だ、今日の運勢はどうだ?」 「知ってるでしょ」私は何だか落ちそうなほっぺたを支えながら、笑いました「お兄ちゃんがいれば、いつだって大吉です」 そう言って私は地下バ道を走り抜けて、怪物の口を超え光に包まれました。外では快晴の空の下観客席一杯のファンのみなさんからの精一杯の声援が聞こえてきます。 ファンファーレが聞こえて、ゲートの中に入ると、一転してレース場は静寂に包まれます。 めいっぱい息を吸って吐く、感触が残っている唇を撫でる。 気力十分、練習十分、体調十分、元気全開、ゲートは七番、いつだって大吉、そして一番の開運のお呪い。これはもう、勝っちゃうしかありません。 「さぁ〜行きますよにゃーさん」 ゲートが開く音がしました。さぁ、運命の向こうへと駆け抜けましょう。 42 雲一つない青空、ぽかぽか陽気の太陽、涼しい風、青々とした芝、掛け声をかけながらランニングをする生徒達、なんという練習日和。こんないい日にはむむんっ! と気合が入っちゃうというもの。 「もう…一本……行きますよ……」 「ぜぇ、ぜぇ…! ひぃ、ひぃ…ちょ、ちょっとまってぇ…い、息が…」 まぁ早速その気合は今にも使い果たされそうなんですが…デビュー戦が近い私は、特別にハッピーミークさんとの併走によって練習の追い込みにかかっていました。 でもやっぱりミークさんは速くて、そしてスタミナもある。さすがは大先輩、私がむんっならミークさんはぶいっでかなりの経験と実力の差が開いていることを実感してしまいます。 いい勝負できるフクちゃんはやっぱりすごいなぁ…でも負けていられません。いろんな意味で。 「フクちゃんとトレーナーさん、今日帰ってくるんですよね。もう飛行機乗ったのかなぁ?」 ぽたぽた落ちる汗をぬぐいながら、青空を見上げるとミークさんは不機嫌そうにふんっと鼻を鳴らしました。 「タンホイザさんの…デビュー戦に向けて…根を詰めるといったばかりなのに……休暇を取るとは…救いがたい男です…」 「あはは…まぁまぁ、溜まっていた休暇を取るタイミングは此処ぐらいしかないっていってましたし、ほんの二日程度ですから。練習には支障なんかありませんよぉ」 「そうそう、練習メニューもバッチリ事前に組んでいますからね」 「うひゃあ!?」 ぬるっと後ろから現れた桐生院トレーナーさんに尻尾をピーンと張りながら声を上げると、彼女はくすくすと笑ってもうお昼だから休憩をしましょうと言ってくれました。良かった、あと一本でも走ったら流石に口からいろんなものが吐き出されそうでした! 「しかし、休暇でもあのメガネを…くくっ…ふふふ…貴方達よく思いつきましたね。あんな瓶底の…ふふふ…」 でっかいグルグルメガネをかけたトレーナーさんを思い出したのか桐生院さんは肩を震わせてしまった。毎回トレーナーさんの顔を見るたびにツボに入って吹き出してしまっていて、本人曰く何度見ても慣れないとのことです。気持ちは分かるなぁ、だってあまりにもぷぷっ…似合っていないんだもん。 「あれぐらいしないと……無駄に……犠牲者が増えます……」 「確かにそれはそうですね、彼は無駄に顔がいいですから。特に目に」 「目に色気がある……何回も聞きました……それ……耳にタコができるぐらい……ウマ耳なのに……」 「うふふ、だったら私も久しぶりに聞きましたよ。ミークの兄さん呼びあたっ!? 指でドスドスしないでください脇を! ごめんなさいあははは!」 笑いながら逃げ回る桐生院さんと手をシュシュシュと動かして追い回すミークさんの背中を眺めながら、私はまた青空を見て息を整えるために息を吐いて、ふと前の事を思い出していた。 『気にすることはありませんよ』 それはミークさんから昔のトレーナーさんと桐生院さんの事を聞いて、少しドギマギしてしまったときのことで。思い切ってあの人の事を好きなんですと言った私に彼女はそう言ってくれた。 『今はそういう関係でもありませんから。まぁ言われた方は難しいかもしれませんが、私は気にしていません。むしろ彼に関わるウマ娘さんたちが心配といいますか』 『その…でも、桐生院さんはまだトレーナーさんの事好きだったり…』 『そうですね。好きかも、ちょっぴり。多分彼も同じ気持ちだと思います』 『えぇ!?』 『でも、その好きって感情をいい思い出として、また別の幸せの道しるべにできるのが大人なんです、忘れ去る必要なんてない。だから私は彼に貴方が嫉妬するぐらい幸せになってあげますとそう宣言したぐらいで、ふふ。それよりも、ミークをマークした方がいいかもしれませんよー?』 『へ? 何でミークさん?』 『だって、ミークは昔は彼の事を兄さんと呼んでいましたからね。彼が良く妹を思い出すとよくかまってあげていましたから、昔は私の為に諦めてくれていたようですが。また兄さんと呼んでいるようですし、もう結婚できる年齢ですしね? あぁみえて、情熱的ですよー彼女は』 『え…? えー!?』 その時の桐生院さんの笑顔は素敵で正に大人の女性で、すっごく憧れた。このレースに負けた時の心意気も。負けたって良いってわけじゃないけれど、きっとこの恋は負けたって悲しいだけではない、私の幸せの一部になるのだということを彼女は教えてくれた。 「タンホイザさーん? どうされました? あいたたた、ミークもう許してぇ!」 「あ、はーい! いやぁミークさんがいつからあの人の事を兄さんと呼び始めていたのか気になってあいたたたぁ!? わーこっちに来たぁ! あはは!」 「どす……どす……」 標的を変えたミークさんに追われながら、三人で笑って食堂へと向かうと風が私を包んだ。涼しさの中に暖かい風が混じっている、春の兆しだ。 春が来れば夏が来る、夏が来れば冬は近い。当たり前のことだけど、同じ季節は二度とは来ない、あの人がいて、フクちゃんがいて、みんながいる。きっと楽しい一年になる。 そして心臓さんが疲れ果てるぐらいにドキドキが続く一年にもなっちゃうだろう。楽しみだ。 あぁ、早く帰ってこないかな。デビュー戦に勝って、またデートに連れて行って貰わなくちゃ。 〇 春の兆しが訪れるけれども、やはり北の故郷はまだまだ寒い! トレセン学園の時の格好のまんまで来たらもう寒いこと寒いこと、コゴエルフクキタルでずびびっと鼻からおみくじが出ないようにしながら私は墓の前に立っていました。 墓石に刻まれているのはお姉ちゃんの名前、その前でお兄ちゃんは静かに祈りをささげて、壊れないように箱に入った指輪をそっと置きました。 「君の分と俺の分が入ってる。また会える日まで無くさないように…ここに置いておくよ。ずっとこれなくてごめん、次からはちゃんと顔を見せるよ」 お兄ちゃんはそういって立ち上がると、私に微笑みをむけました。 「行こうか」 「はい!」 元気よく挨拶して福を呼ぶ笑顔の幸せビームを送ると、そっとその手が私の頭を撫でて、ジャケットをかけてくれました。温かいしいい匂いがするし、とても福が来来な気持ちになります。 お兄ちゃんには久しぶりの故郷でした。故郷から飛び出してから十年以上一度も帰ってきていなかったようですから、お兄ちゃんの両親はとても驚いていて、私の両親もとても驚いて、でもどちらともとても喜んでくれていました。 故郷はいいものですね。久しぶりにお兄ちゃんの部屋にお邪魔して、お姉ちゃんとの一緒の部屋にも行って、いろんな思い出巡りをしながら思い出話をするともうあっという間に帰る日で、その帰りにお姉ちゃんのお墓参りに来たのでした。 「お姉ちゃん、また来るね」 そう言ってお墓にお別れを告げて、お墓の長ーい階段を下った先にある、バス停のベンチで二人、バスを待っているとふとお兄ちゃんが周りを見回していました。 「どうしたの?」 「いや、何でもない。ちょっと前に見た風景にそっくりだなって思っただけだ」 「ふーん…? ねぇ、お兄ちゃん覚えてる? むかーし、お姉ちゃんとお兄ちゃんが結婚式ごっこしてたの」 「あぁーやったなぁ。ふふふ、まだ小っちゃかったフクに神父さん役やらせてたなぁ、何もわからないままあの子が言っていた言葉を繰り返していた。今思えばどっちが神父かわからないなありゃ、あのおもちゃの指輪、その為に買ったんだったなぁ」 「ふんぎゃろー! と言いたいところだけど、まぁ時効としましょう。そ、それですねぇ…」 そっと私はベンチでお兄ちゃんにぴとりと、さらに尻尾もぐるりとすると、さらにさらに両ひとさし指をぐるぐると回して、顔を伺いました。お兄ちゃんは顔にハテナマークを浮かべながら私を見ています。瓶底メガネを見ると笑いがこみ上げるのでちょっこと外して。 「その……もし、もし…ほら、トレセン学園は恋愛禁止だから、みんな答えは卒業まで待つってルールだからずっと先になるけど…もし勝ったらだけど…」 顔のいろんなところからおみくじが出そうになったけど、私は何とかお兄ちゃんを見つめました。お兄ちゃんもしっかりと私を真面目に見つめてくれていました。 「…私、まだまだ自信たっぷりってわけじゃなくて、お兄ちゃんに胸を張って幸せにするー! なんて言えないけど…でも、私はお兄ちゃんと一緒にいれれば絶対に幸せになれる! って自信がある! んだけど……どうでしょうか?」 「俺もだよ」お兄ちゃんはそっとまた私の頭を撫でてくれながら言いました「俺もフクキタルがいるだけで幸せだ。フクが勝てなくたって、兄妹になっても、それは変わらない…これだいぶ図々しいなぁ。つくづく俺は地獄行きだ」 「その時は私が天国から釣り糸でも吊るして釣りあげてあげる」 「それは助かる」 そう言って二人で身を寄せ合うと、すぐに近くでプーッという音が鳴り響きました。 顔を向けているととっくにバスは来ていて、窓からは遠足にでも着ていたのでしょうか小学校の低学年ぐらいででありましょう小っちゃい子たちがみーんなこっちを見ていました。 皆さん口々にフクちゃんだーフクキタルちゃんだー、隣の人だれーとはしゃいでいます。ぬっふっふ、私も有名人、いや有名ウマ娘になったものです! 「乗りますか」 「乗るか」 二人で手を繋いでバスに乗ると、子供さんたちはまたワーッとはしゃいでくれました。 「わー、ほんとにフクちゃんだー! すごーい! ねーねー、私もフクちゃんみたいに速く走れるかな!」 「ばか、フクキタルちゃんはアリマ記念で一番になるくらい凄いんだぞ、なれっこないよ」 席に座っていたウマ娘ちゃんと男の子が一緒に立ち上がりました。 「ぬっふっふ、なれますとも! その秘訣をお教えしましょう!」 「えーほんとー!?」 お二人は口をそろえて言いました。 「それはー、自分を支えてくれる人を見つけること、お友達を大事にすること、ありがとうって気持ちをちゃんと伝えること。そうすれば幸せがやってきて、辛い時でも練習を頑張れます! そうしたら〜〜きっとあなたも素晴らしい走りが! あ、それと上手くプッチンできたプリンのカップは取っておくと、ほぎゃああ! 冗談ですからトレーナーさん! 頭を掴まないでぇー!」 アハハとバスの中で笑いが起きて、車内は賑やかになりました。 ウマ娘ちゃんと男の子はお互い目を合わせると、席に座ってぎゅっと手を繋いだようでした。それを見て私とお兄ちゃんも目を合わせて微笑みます。ふふふ、お二人に福が来ますように。 バスはゆっくりと発進していきました。私たちが故郷とは違う、帰るべき場所へと向かうために。 遠くに見える山々の雪はとけて、ゆっくりと花は芽吹いていきます。 また新しい春がやってくる、とても忙しくて、楽しい春になるでしょう。そして楽しい夏になるでしょう、そして秋に、冬に…。 「お兄ちゃん、幸せ?」 「幸せだ。フクは?」 「うん、幸せ」 そして巡る季節の中で私の幸せはここにある。いつまでも、これからも。 お姉ちゃん、私、幸せだよ。