__________________ …お兄さん。 『うん?』 私、大きくなったらトレセン学園に通おうと思ってます。 『さっきも言っていたね』 そしてお兄さんはトレーナーになるのが夢だとおっしゃっていました。 『そうだね』 だから…もし、もしもですよ? 私が無事入学できて、その時お兄さんに担当が誰も居なかったら―― 私だけの専属になってくれませんか、お兄さん。 ――それは幼い日の懐かしい記憶。 結局叶う事のなかった、けれど私にとってはとてもとてもとてもとても大事な約束の想い出。 だって――だって、彼が実際に手を取ったのは。 __________________ すぅ、すぅ、と私の膝枕の上で静かに寝息を立てて眠るのはキタちゃんのトレーナーさん。 私の大事な親友と二人三脚で三年間走り続けて、見事URAファイナルズ優勝の栄光を勝ち取ってみせた、キタちゃんにとってかけがえのないパートナー。 そして、"今のところは" 私のわがままに付き合ってくれている偽りの恋人。 「ダイヤちゃん」 ――トレーナーさんの寝かしつける事に夢中になるあまり、部屋に誰か入ってきたことに気づかなかったみたい。 そちらを見なくても、声を聴くだけで誰だかはすぐにわかる。 だって、その声の主とは昔からずっと一緒だったから。 キタちゃん。 私の大事な親友。 「……トレーナーさん、よっぽど疲れていたみたい。キタちゃんがURAファイナルズを優勝してからずっと忙しそうだったものね」 クリークさんから膝枕術を教わったかいがありました。そうでなければこの寝顔をこの特等席で見ることはかなわなかったかもしれません。 教わっている間、クリークさんのトレーナーさんが目の前で赤ちゃんみたいに彼女にあやされている姿は少々……そう、少々怖かったけれど。 「見て、トレーナーさんったら寝顔もかわ「ダイヤちゃん」…どうしたのキタちゃん。なんだか怖いよ」 キタちゃんの方を見る。 顔は俯いていて表情が良く見えないけれど、この部屋唯一の扉を背にして私たちの前に立つ姿はなんだか凄みを感じる。 まあ、そうなったのは私のせいなのだけど。 「今朝の事、嘘じゃなかったんだね……冗談だと思ってたのに」 「こんな笑えない冗談、キタちゃんに言えるわけないよ」 嘘だ。 本当はお兄さんとお付き合いしているわけではない。 彼は私の嘘に付き合ってくれているだけだ 「……嘘だったら、よかったのに」 「……」 ――本当にそうであればよかったのに。 「ねえ」 キタちゃんが私に顔を向ける。 その顔は怒りと悲しみと――何か大切なものを取られた様な苦しみがないまぜになった感情と涙でぐちゃぐちゃになっていた。 あの時の私みたい。 「ねえ、ダイヤちゃんは私がトレーナーさんの事をどう思ってるのか知っていたでしょ?! なのに、なのにどうして…」 知っている。 だって、キタちゃんはどんな事も私に話してくれたから。 キタちゃんのトレーナーさんに送るプレゼントはどうしようとか、二人でカラオケに行ったときデュエットを歌って恥ずかしかったけど嬉しかったとか、URAファイナルズで思わず抱き着いてしまっただとか。 あのくじびきでもらえる高級温泉旅館に二人きりで行った事も、全部。 「…最初からだよ」 「最初から?」 そう、最初から。 __________________ 彼があの時の『お兄さん』である事は、入学してすぐに学園内をうろつく姿――敷地内を練り歩く様子は正直不審者みたいでした。実際何度か警備の方に取り調べを受けていましたし――を一目見た時にすぐ気づいた。 そしてお兄さんが、まだトレーナーになりたての新人で、まだどのウマ娘とも担当していない事。 特例で新人ながら、一人の専属トレーナーとなる事を許されているのだと調べ上げた時――これはきっと、運命なのだと思った。 正直、今すぐ胸の高鳴りに従ってすぐ目の前に出てしまえばよかったと今でも思っている。 でも、そんなはしたない真似はしたくなかった。私は。彼の方から私を見つけだして声をかけてほしかった。 恋に恋い焦がれたあの時の私は、あくまでもお兄さんからの言葉を待つお姫様気分だったのだ。 ――それがいけなかった。 そう、私のお兄さんは私の事を忘れていた。 どうしてだかはわからないが、幼少期の記憶を覚えていないのだと――そう彼が教えてくれたのは、本当に最近になっての事だ。 正直、そんな事はどうでもよかった。 「あっおにい――「約束だ。俺の担当になってくれ、キタサンブラック」…………え?」 「―――はいっ! よろしくお願いします、トレーナーさん!!」 どうして? 約束って何? 約束したのは私なのに。 私がずっと先なのに。 どうして? なんで、お兄さんの隣に立っているのがキタちゃんなの? __________________ 「お兄さんは結局思い出さなかったけど……それでもいいの」 「今度こそお兄さんを絶対に逃さないから」 「ねえ、ダイヤちゃん……いったい、何を言ってるの?」 「――ごめんね、キタちゃん」 私はその質問に答える事無く、眠っているキタちゃんのトレーナーさん――『お兄さん』の唇と私の唇を重ねあわせた。 それはこの上なく明確な、キタちゃんへの敵対行為だった。 「んっ……ちゅっ……」 思ったよりもケアが行き届いているのか、彼の唇は柔らかい。 乾燥に弱いから保湿には気を使ってるって、お兄さん言ってたな。 「……やめて」 ファーストキス、こんな形であげるつもりじゃなかったのだけれど。 でも、いいよね。どうせ最初から、全てをお兄さんに捧げる気だったのだから。 お兄さんからの反応はない。 本当に疲れがたまっていたらしい。口は無防備にも薄く開いている。 ゆっくりと舌で唇と唇をかき分け中に入れて……それでも反応はない。 本当に無防備ですね。 「んっ……お兄さんの味がします……れろ……甘くないのに甘いです……ちゅっ……」 「やめて……やめてよ……ダイヤちゃん、お願いだから」 懇願するキタちゃんの声が聞こえるけど、もう止まらない。 止める気もないけど。 「……ふっ……はふ……大好き、大好きですっお兄さん、お兄さんっ……んっ……ずっと……ちゅっ……ずぅっと愛してます……っんぅ」 「……っ!!」 バンッと扉を荒々しく開けて、まるで逃げるようにキタちゃんは行ってしまった。 ……ふふっ。 「もっとしていたかったですけど続きはまた今度ですね…」 ____________________________ 「貴方の事はずっと知っていたんです。黙っていたのはキタちゃんが気にすると思ったから……キタちゃんは優しい子だし、トレーナーさんの事を好きだからそれを知ったら遠慮してしまうと思って」 「それに、こんな酷い人の事なんて忘れてレースに集中しようって思ったんです……幸い、私の今のトレーナーさんは……その、ちょっと変わってますけれど、とてもやさしくて実力も確かな人ですから」 「……」 返事はない。それでもかまわないと彼女は言葉を続ける。 「でも、ダメでした」 「トレーナーにはなってもらえなかったけど。……私のことすら忘れていた酷い人ですけど」 「でも……でも、それでも好きなんです。好きで好きで好きでずっと胸が張り裂けそうだったんです」 「キタちゃんからあなたの話を聞くたび嫉妬していました。キタちゃんとあなたと三人でお出かけした時、キタちゃんが居なければななんて、そんな酷い感情が常に頭の中にありました」 「あなたと二人きりで話をする機会に恵まれる度に――ずっとこの時間が続けばいいのにだなんて考えていました」 「それでもなんとか押し留めていたんですけど――URAファイナルズ決勝。あれが全ての契機でした」 「――私の前を走って見事栄光を勝ち取ったしたキタちゃん。二位だった私。…………キタちゃんに言葉をかけるトレーナーさん」 「……偶然にも全てがあの時と似たような状況でした。覚えてますか? トレーナーさんがレースに勝ったキタちゃんをスカウトした時、私は二位だったんです」 「あの時になにもかもがぐちゃぐちゃになりました。あの時みたいな思いをするのはもう嫌でした」 「だから私決めたんです。トレーナーさんの身も心もキタちゃんから奪い取るって」 「キタちゃんは泣いてましたし、もう仲直りできないかもしれませんけど……もう、あんなの嫌なんです」 「……お返事、待ってますからね、キタちゃんのトレーナーさん……いいえ、お兄さん」 「ああいいましたけど、できればお兄さんから来てほしいです――もちろん、いやといっても逃がしませんけどね」 「……」 「どんな形にしろ待ってますからね、約束ですよ――今度は忘れないでください」 パタン、と扉が閉まる音が室内に響く。 「……俺は、どうしてそんなことを忘れていたんだ」 「……どうして、何も思い出せないんだ……っ」 「……俺は……俺は、どうすれば」 男の声が虚しく部屋に響く。 ――当然、答えは返ってこなかった。