【二度目の告白】 告白をしたのは、ナイスネイチャだ。 卒業を前にして、トレーナーとの別れを意識して、気持ちだけでも伝えておくべきだと思った。 大人と子供だ。受け入れられるわけがないと、そう思いながらも告白をした。 トレーナーは告白されて目を丸くし、嬉しそうに表情を緩め、すぐに悲しそうに目を伏せて、たっぷり30秒以上の沈黙を経て彼女を抱きしめた。 まさかまさかの結果にナイスネイチャは驚きを隠せず、息を詰まらせる。 そんな彼女にごめんと彼はささやいた。そして、夢が醒めたらまた、とも。 要するに、ナイスネイチャはフラれたのだ。 今のお前は夢見る子供なんだと諭されて。 卒業後のナイスネイチャはトレーナーとしての道を選んだ。 ブロンズコレクターとかいう名誉なんだか不名誉なんだかな称号をそっくりそのままひとつのメソッドに組み替えて、トレセン学園に戻ってきた。 彼は地方への出向のため、そこにいなかった。でもそれも悪くはないと今なら思える。 かつての自分のように諦め癖の強いウマ娘を必勝とはいかずとも、勝てる時に勝たせることはできるようになって、そう感じた。 自分とトレーナーの間にあった歳の差を大人の側から見て、あのころの自分のわがまま加減に気づいて苦笑してしまう。 迷惑だった、とまでは思いたくないけど。あの人は多分、困っていたんじゃないかな、と。 地方への出向でウマ娘のチームを指導していた彼がトレセン学園に戻ってきたのは、ナイスネイチャが最初の担当ウマ娘を学園から送り出した頃の話。 たまに近況報告の手紙のやり取りをしていたが、直接会うのは卒業以来だ。 笑顔で再会を喜び、どうせならあの時は出来なかったことをと、2人で飲みに行く。 色んなことを話した。トレーナーとしての勉強のこと。受け持ちのウマ娘のこと。楽しかったこと。悲しかったこと。思い出話もたくさん。 色々話して、ナイスネイチャは静かに想う。 ──アタシ、まだこの人のこと、好きでいるんだな。 トレーナーとしての勉強の最中にはトレセン学園とは違い、当然ながら同年代の男もいた。 同期の中には付き合ったり、別れたりという話もあった。 ナイスネイチャがそれに乗れなかったのは、男を見る目が厳しかったからだ。 自分を育てたトレーナーほどに、自分に寄り添ってくれる人なんていなかった。 なんて自分本意なんだろうと自己嫌悪に陥ることもあったけれど、だからこそ再会には期待していた。再燃ではなく、鎮火の方面で。 既に寄り添われる側ではなく対等なトレーナーとして彼を見た時に、やっと初恋を終わらせられるんじゃないか、なんて。バカな女だ。 好きなものは好きなのだ。 理屈をつけて恋人を作ろうとしなかったのは彼がまだ好きだったからだ。 仕草の中にかつての癖を見つける度に、目が合う度に感じる優しい視線に、酒気に弾む声色がネイチャと呼ぶ度に。 ナイスネイチャは自分がこんなにも酔っていたのだと自覚する。 大人になんか、そう簡単になれはしないんだと。 少しだけ、肩を近づけた。 彼はきょとんとした顔でナイスネイチャを見る。 もう少し、顔を近づけてみた。 びっくりした顔になって、上体が遠ざかる。 肩に手を置いて、身を乗り出してみた。 次の瞬間には、彼の指がナイスネイチャの額を弾いていた。 突然のデコピンに色気のない悲鳴を上げた彼女は、泣きそうになる自分を抑えながら頬を膨らませる。 まだ夢見がちなんだなと、いつでも大人な彼は言った。 夢くらい見たいように見させてよと、まだ子供のままな彼女は言った。 困ったような彼に拗ねて見せて、多分これで終わりだとそう思った時、彼の右手が頭を撫でた。 現役時代でも数えるほどしか触れてくれなかったその手の感触は優しく髪をすいて、前髪をかき分ける。 いつの間にか滲んでいた目尻の涙が拭われて、次の瞬間にナイスネイチャは優しく抱き寄せられていた。 その感触はかつての告白の場面を彷彿とさせ、そして実際その時と同じ言葉を彼は口にした。 「──夢が醒めたら、その時にまた」 そのあと、2年を一緒に過ごした。 一緒にチームを立ち上げて、彼がチーフで自分がサブにつき、ウマ娘を育てていく生活。 背中を押される学生時代とはまた違う、隣で助け合って前に進む日々。 その中で子供みたいな恋慕は緩やかに醒めていき、一緒にいることで良いことも悪いこともあって。 ナイスネイチャは現実を見るようになって、ようやっとこの人じゃなきゃ、ではなくこの人となら、と思えるようになった。 そしてある日、小さな箱を渡された。やっと言える、なんて前置きと共に。 「いつでも、いつだって。君はオレの人生の一番だよ」とかいうキザったらしいセリフに落とされて、ナイスネイチャは頷いた。 プロポーズの言葉は……彼から。 【三番目の幸せ】 ナイスネイチャには自分より大事なものがある。 かつての青春時代を支えてくれたトレーナー、10年近くが経った今では夫となった人のことである。 ずっとずっと、ナイスネイチャ自身よりもよっぽど彼女のことを大事にしてくれた人。 彼はナイスネイチャのことを人生で一番大事な存在だと公言してはばからない。 だからナイスネイチャは、そんな彼のことを人生で一番大事にしてあげたいと思ったのだ。 ナイスネイチャのために自身のことを蔑ろにするかもしれない彼を、彼自身より大事にしてあげたいと。 そういうふうに誓い合って結婚した。永遠を誓った。 ナイスネイチャはナイスネイチャの人生の二番目になった。 2人が子宝に恵まれたのは結婚してすぐのことだった。 特に不調や異変があったわけではないが、ある日突然にナイスネイチャは自分の変化を察して、自分のお腹のことを確かめた。 検査キットは当たりを示し、すぐに産婦人科でそのお墨付きをもらう。 びっくりして、嬉しくて。その日のうちに報告すると、彼はナイスネイチャが思うより遥かに喜んだ。 というかワナワナと震え出し、まだ動くはずもないお腹にそっと抱き着いてきたりした。 仕方ない、という表情でその頭を撫でたが、でもそうやって子供のことを感じられるのは出来るのは男親の特権だからと羨ましくも思った。 つわりは酷くはない。 吐き気は全くなかったが、産休に入ったあたりから鼻が敏感になった。 ミントやシトラスの匂いを避けるようになったが、少し嬉しかったのは何も言わずに彼がミントの香りの制汗剤を変えたことだった。 ただ、何故か女性向けの花の香りのものに変えたせいで担当のウマ娘たちにからかわれたらしい。少し笑ってしまった。 かと思えば運動不足解消のための散歩や階段の登り下りに、彼は神経質なほど付き添ってきた。 そんなに怖がらなくてもと諭してみれば、彼は「ただでさえ壊れそうな女の子に、もっと繊細なものが宿ってるから」と不安そうに呟いた。 そんなものかなと思いつつ、20代も半ばで女の子なんてと恥ずかしいやら嬉しいやら。 予定日が迫ってきて、ナイスネイチャは実家に戻って出産に備えることにした。 だいたいこれぐらいと言われた予定日の範囲が、彼の受け持つチームの地方遠征の日程の終わりに少しだけ被っているからだ。 彼はますます不安そうだったし、商店街の顔馴染みもお見舞いに来てくれた彼のチームのウマ娘たちもトレーナーは残った方がいい、なんて口を揃えて言っていた。 発破をかけるようにそれらを突っぱねたのは、若いウマ娘たちの走りのひとつひとつが大切なものだと身を持って知っているからだ。 ありがたいことに実家では母や地元の商店街の面々に、驚くほど歓迎された。 あのネイちゃんに子供が、と泣き出されることまであった。 その反応を見たのもあるだろうが、先に産まれたら映像付きで通話してあげるからと言い含めてようやく彼は遠征に出る覚悟を決めたらしい。 母に結婚の報告をする時を思い出すほど入念なお願いをして、その後おもむろにお腹の子を撫でて話しかける。 「パパ、急いで帰ってくるからな。お前は急がなくていいぞ」 言葉に合わせて、とん、とお腹の中の奥から響く音。 返事したのかな、かもなと顔を見合わせて、笑顔が漏れた。 驚くべきことに、陣痛が始まったのは帰ってきた彼の顔を見た瞬間だった。 叫び出したくなるほどの痛みがあって、実際冷や汗も涙もだらだらと垂れていたし、なんなら記憶も朦朧としていた。 後から聞いた話ではあるけれど、ナイスネイチャは何故かしきりに「ウチの子は天才かもしれない」と繰り返していたらしい。 多分、赤ん坊の聞き分けの良さにびっくりしていたからだろう。 そんなナイスネイチャの手を握りながら、彼は出産中ずっと返事してくれていたと母に聞かされて顔を赤くする羽目になった。 そんなこんなで人並みのドラマの下に、目一杯の祝福を受けるべくして受けた我が子を抱き上げて、ナイスネイチャは人生の順番が入れ替わったのを感じる。 「ねぇ、トレーナーさん」 結婚以来、2人の時はほとんど使わなかった呼び方を久しぶりにした。 「今まで……結婚してからさ。アタシの人生の一番はトレーナーさんだったけど、そうじゃなくなっちゃった」 薄情な宣言だったけれど、それでもまだしわくちゃな顔の赤ん坊を抱いていると、そう思ってしまう。 愛する我が子が一番、愛する夫は二番に。 そんな言葉にも彼は笑い、結婚してから何度も触れてくれたように優しく頭を撫でてくれた。 指は前髪をかき分け、露わになった額に唇が落とされる。彼はそのまま赤ん坊のことも撫でて、同じように額にキスをした。 「親になるって、オレも初めてだけどさ。多分そういうもんだよ」 それでいいんだよ、と言われて。そうなのかな、とすんなり受け入れる。 そうしてナイスネイチャは、ナイスネイチャの人生の三番目になった。 でもそれはきっと、世界で一番幸せな三番目だった。 【恋のお弁当箱】 寮の調理場を借りてお弁当を作った。 自分の分ではない。いや、自分の分も作ったけれども。 正確に言えば自分のお弁当を作った余りという口実でトレーナーに渡すために、お弁当は作ったのだ。 自分をURAの大舞台に連れて行ってくれたトレーナー。 事あるごとに彼が口にした励ましや後押しでナイスネイチャにはほんの少しの自信が芽生え、そしてその自信は彼女にこのような行動を取らせていた。 お弁当を作る、までは良かったがその後に続かないあたりは筋金入りの及び腰が顔を出しているわけだが。 「こ、このお弁当、マーベラス食べるかなー。あはは……」 日和った。 自分のことながら情けないが、しかし理由はちゃんとある──そう、茶色いのだ。 普通、女の子が気になる人に作るお弁当といえば、もっとこう……可愛らしい色合いをしているはずだ。多分。 緑黄色なキレイなお弁当を渡す光景を、ナイスネイチャも最初は想像していた。ただメニューの組み立てを間違えた。 メインの唐揚げは仕方ないとして、卵焼きが少し焦げたのが痛い。 アスパラベーコンも思ったよりアスパラの緑があまり残っていない。しんなり味が染みていて美味しいのだが、染みた分だけ彩りが逃げてしまっている。 あとは副菜に切り干し大根を選んだのは、明らかに大きなミスだ。 少し前に食べたくなって作ったものの余りがちょうどいい隙間埋めになったのだが、明らかに女学生のチョイスではない。 それでも唐揚げはきちんと自分で衣薄めのベタつかないものを揚げたし、卵焼きは事前調査からしょっぱい味付けにして作った。 悪あがきにレタスを敷物にしてみたが、唐揚げとベーコンの油を吸ってしんなりしたレタスには色合いをごまかすほどの力はない。 結果として、おかずの茶色と白米という育ち盛りか!? と言いたくなるようなお弁当になったわけだ。 これが本当に自分の余りなら問題なく渡しただろう。 トレーナーだって喜ぶだろうし、味に自信もある。むしろ見た目は笑い話になるからプラスじゃなかろうか。 でも違う。これは自分の分の余りじゃない。余りなのは見栄えが悪いものを詰めた自分の分だ。 このお弁当は、トレーナーに感謝と、いくらかの好意を伝えるためのもの。 ようするに、ナイスネイチャはトレーナーに少しでも自分をプラスに見てほしくて、お弁当を作ったのだ。 その目的であんまりにも女の子らしくないこのお弁当を渡す勇気は、ナイスネイチャにはなかった。 「あ゛ー、手癖で料理するんじゃなかった……てか、何で3日前のアタシはタッパーいっぱいに切り干し大根作ったの? バカ丸出しじゃん……」 3日前の自分を軽く罵倒しながら肩を落とすナイスネイチャだったが、不意に背後に気配を感じてのろのろと振り返る。 そこではマーベラスサンデーが黙ってナイスネイチャの手元を覗き込んでいた。 いつもなら騒がしいのに、と思いつつナイスネイチャはタッパーと菜箸を手に取る。 「ネイチャ、お弁当作ってるの?」 「そだよー。ほーら、マーベラスー。お食べー」 「うん? あーん」 切り干し大根をマーベラスサンデーの口へ放り込んでやる。 もぐもぐと口が動きもう一度口が大きく開く。なんとなく面白くなってもう一度切り干し大根を、今度は具の人参多めにして放り込んでやる。 味わうかのように目を閉じて咀嚼するマーベラスサンデーは、やがてパッと目を開けて叫んだ。 「マーベラスッ………!」 「えっ。どういう感情のマーベラス?」 「ネイチャ、これすっごくおいしいよ! お料理上手だね!」 「あ、感動のマーベラスね。って、いやいや、大袈裟な」 言いながら自分でも食べてみる。まあ、普通の味だ。家庭の味、お袋の味と言い換えていいだろう。 実家の店での酒のつまみというと、こういう大量に作れて少しずつ出せる料理になる。イコールで晩ごはんのおかずにもなる。 つまり慣れ親しんだ味だった。 「お弁当2つ作ったの?」 マーベラスサンデーは2つのお弁当箱を見て、笑顔になった。 若干生暖かい視線を感じて、ナイスネイチャは迷った。察している相手に、日和った態度を見せていいものかと。 勇気の天秤は、とりあえず逃げに傾く。 「まあ、そうだけど。あー、うん。久しぶりに作ったから余っちゃったんだよねー。……いる?」 マーベラスサンデーがすごい顔になった。 いつもキラキラ輝くような笑顔の彼女から、一瞬で温度が失われた。 天秤がすごい勢いで元に戻った。 「と思ったけど、2回に分けて自分で食べようかなー……」 マーベラスサンデーの瞳から輝きが消えた。 ナイスネイチャは恐怖した。ヤバい。 天秤はもう片方に勢いよく傾いた。 「……がんばってトレーナーさんに渡すから。それでいいんでしょ!?」 笑顔のマーベラスサンデーからマーベラスのお墨付きをいただいた。 「この弁当、めちゃめちゃうまいよ」 昼休みのトレーナー室でお弁当箱を押し付けてみれば、トレーナーは思ったよりもあっさりと受け取ってくれた。 断る理由もないのだから当然といえば当然だが、喜んで食べてもらえたことでナイスネイチャはホッと胸をなで下ろす。 「チャーハン作ってくれた時も思ったけど、ネイチャは料理上手だな。切り干し大根とか味染みてて嬉しくなったよ。男の一人暮らしじゃ煮物なんて食わないからなぁ」 密かに、ナイスネイチャは机の下でガッツポーズを取った。よくやったと3日前の自分を褒めてやりたい気分だ。 不意に煮物がうまい女はモテるという話を思い出した。 10代女子のモテ要素としてはどうだろうと呟く自分がいたが、最終的には相手が20代だしセーフの結論に至る。 「なんならこれからもたまに作ってこようか? 外食ばっかりじゃ、ほら。身体に悪いじゃん」 勢いに乗って攻めてみると、トレーナーは嬉しそうな顔をした。 「それは嬉しい、けど……指導者の立場からすると貰ってばっかりってのもな」 「じゃあ、トレーナーさんの料理と交換にしてみる?」と詰めると、「料理下手だからな。あんま器用じゃないのは、トロフィー見たらわかるだろ?」と躱された。 だめか、と思ったところで逆に「できることなんて、まあ何か奢ってやるくらいだな」と攻められた。 ナイスネイチャは目を丸くして、思わず「じゃあそれで」と返した。 その日の夜、ベッドの中でこれが定期的なデートの約束になることに気付いたナイスネイチャは布団の中で無駄に身悶えることになるが、それを見ないだけの情けがマーベラスサンデーにはあった。 【ソーマトロープ:1】 お腹の底から響いて心を揺らすような歓声に呑まれて、ナイスネイチャはそっと目を閉じた。 ゲートインを済ませて、ゲートが開くまでの僅かな時間。 レース本番寸前のナイスネイチャは、そっと静かに自分の中に意識を沈めていた。 思い返すのは、子供の頃から今まで応援してくれた人たちの顔だ。 スナックを切り盛りする母の女手一つで育てられたナイスネイチャだが、寂しさや孤独を感じたことはほとんどない。 店の常連や地元の商店街の面々が、子供が孫のようにナイスネイチャの面倒を見てくれていた。 自分が人の好意に甘えることが得意になったのは、間違いなく幼少期の生活に影響が残っているからだろう。 トレーナーの応援のことも、最初はそういうものと同じように受け取っていた。 好意を向けて、向こうも返して来る。それで完結するものだと。 だけども向けた好意以上に、返せる以上にトレーナーは好意を返してくれる。 ナイスネイチャの器では収まらないほどに、彼は期待する。 ナイスネイチャの勝利を、未来を。 怖かった。やめて、と叫びたい時がいくつもあった。 期待しないで欲しい。悔しさを暴かないで欲しい。 G3で勝って、G2で勝って、でもG1レースでは勝てなくて。それでも君が一番だと言われて。 こんなふうに走り出したい気持ちなんて、そっとしておいて欲しかったのに。 目を開いた。 歓声はフィルターを通したように遠く、頭の中は走り終わった後みたいに騒がしい。落ち着けていないし、息が苦しい。 自分の本気が、何にも報いることができないものだと知られるのが怖い。 ナイスネイチャは、自分が何にもなれない無力な存在だと知るのが怖かった。 トウカイテイオーの背中を追って、ライバルのことを見て、本気を出すと決めて。 自分が持っているものを見つめていくうちに、自分の持っているもの全てに自信が持てなくなって。 泣き出して、走りたく無いと喚いて。 そんな情けない姿も受け入れてくれた人に、失望されたく無い。 たまに、夢に見る。悪夢だ。 このまま勝てず仕舞いで、敗北の責任を取ったトレーナーと離れ離れになる未来の夢。 勝たせてやれなくてすまなかったとだけ言い残して去っていく背中を追いかけられずに、夢から覚める。 もしそんなことになればきっとナイスネイチャは立ち上がれない。もう走れなくなる。 あの人が積み上げてきた三年を無駄にしたことに対する自責を抱えて生きていくなんて、そんなことは出来ない。 でもそれは、悲しいことだが、トレセン学園ではよくある話だ。 よくある話だから、ただのモブを自称していたナイスネイチャだってこの結末を迎えるかもしれない。 想像が心の付け根の辺りを締め付ける。冷たい血が、早鐘のような心拍で全身に巡る。 頭痛が引いた。荒い呼吸が整う。エンジンが唸るように、肺が大きく酸素を取り込んだ。 だけど隣のゲートからの気配も、見えていたはずの太陽も、芝の調子も。 何もかも消えていく。 不意に歓声が耳の奥まで響いた。 視線をやれば、見覚えのある顔が観客席から手を振っていた。 横断幕まで掲げられていて、少しだけ力が抜ける。 不思議なことに縁のある商店街の面々は、合流して一団として観客席にいることが多い。 誰が取りまとめているんだろうと思いながら手を振ると、一団の中に赤毛のウマ耳が見えて目を見開く。 母が大声をあげて手を振っていた。 『ネイチャは走ればいいの』 いつだったか、耐え切れなくなって母へ電話をした時のことを思い出す。 こぼした不安に対して返ってきた答えは単純で、だから深く突き刺さった。 『子供が大人に遠慮も気遣いもするもんじゃないよ。余計なこと考えて負けたら、それこそ顔向けできないでしょうが』 視線をさらに彷徨わせた。ターフ脇の柵の向こうにいた、トレーナーと視線が合う。 どこまでも真っ直ぐに信じてくれるその視線は、ナイスネイチャの心の柔らかいところに突き刺さる。 そこに走る僅かな痛みから熱い血潮が溢れるようにして、全身の痺れが払われる。 自然と不敵な笑みが漏れて、次の瞬間には開いたゲートの先へと足を踏み出していた。 走れるうちに走ろうと思う。あの人の隣にいるからには、一番の自分でいなければならない。 今だけはあの人が信じるアタシになろう。アタシが思うより、もっと輝いている理想のアタシ。 そんなものどこにあるのかはわかんないけれど、走らなきゃ有り無しの前に終わっちゃうんだ。 だから、今は走ればいい。後のことは、後に考えることにした。 アタシが目指す場所は決まっている。 あのくすんだ偽物みたいな金色へ……アタシにとっての一番をくれる人のところへ! 【ソーマトロープ:0】 ゲートが開いた。 16人のウマ娘が一斉に駆け出していく。 わっと花開くように歓声が広がる。 飲まれてしまうことは分かっていたけれど、小さな声でつぶやいた。 「……行け」 後方集団の中、黒にクリスマスカラーのアクセントが加わった勝負服が見える。 地味で目立たない勝負服と本人は言っていたが、むしろふわりと広がる黒いスカートのシルエットは晴れた馬場ではよく目立つ。 彼女こそがナイスネイチャ、オレの育てたウマ娘だ。 「行け、行け……」 作戦は指しだから、後方に位置していることは問題ない。 圧倒的な才能があれば先行や逃げを選べるのにと彼女は嘯くが、その指し脚は間違いなく"素晴らしい素質"だ。 常に次の100メートルでいい立ち位置を得られるように考え続け、そして一瞬の隙間を見抜いて駆け抜けていく。 それが安定して出来なければ指しで三着を取り続けるなんてことは出来ない。紛れもなく彼女は天才だ。 ナイスネイチャはそれを認めないだろうし、認めても小粒だからと謙遜するかもしれないけれど。 「見てる、見てるぞ。大丈夫だ、ネイチャ」 輝くような末脚だと、一目見て思った。惚れたと言っていい。 ナイスネイチャの走りに注目したのは、直前に彼女と出会っていたからなのは確かだ。 それでも、その走りを見て目を惹かれたから。彼女以外は目に入らなかった。 一位も二位も眼中にない。全てのレースが終わっていないことも無視した。 他のウマ娘にフられた連中になんか渡さない。彼女はオレが育てる。 そう決めて声をかけた。 「見ろ。そうだ、前を見ろ。考えろ、ペースを維持しろ」 光景が巡る。 ナイスネイチャを勝たせるためなら何でもしてきた。 トレーニングのプランを立て、勝つ為の方法を考え、他のトレーナーやウマ娘に頭を下げて併走や練習の機会を作る。 彼女の反応を受けて大幅だろうがなんだろうが方針を修正し、それに伴って準備や手間は莫大に増加したが、そこには寝食を削ってでも時間を充てる。 彼女のファンになってくれた人たちと連絡を密に取り、随所で応援をしてくれるよう頼み込んだりもした。 まず間違いなく、ナイスネイチャはオレが彼女の地元に足を伸ばして直に応援をお願いしてきたことを知らない。 そうしなくてもきっとあのお母さんなら応援には来ただろうけど。 それでもそこまでした理由は、彼女に必要なのが甘やかな夢の先にある自信だと思ったから。 万難を排して彼女を歩ませ、栄光へ手が届く位置まで彼女を持ち上げるつもりだった。 それが、今の自分にできているだろうか。 ヘロヘロの、折り紙のトロフィーはカバンの中にしまってある。 思い付きで渡したそれに、ナイスネイチャは思いの外喜んでくれた。 だから渡す。ナイスネイチャのためじゃない。こんなことしか出来ない自分への慰めだった。 トレーナーという立場は、時にあまりにも無力だ。 ターフに立つ彼女の横にいることもできず、泣き出す彼女の不安を晴らしてやることもできない。 専属になる前、インターンや研修の時にいろんなウマ娘の練習を見ていた時にはそんなことは感じなかったのに。 鼻っ柱を折られて、残ったのはこんなふうに祈ることしか出来ない惨めな男だった。 「行けネイチャ、行ってくれ、勝って……今だ、勝てぇ!!」 コーナーを曲がるナイスネイチャが、するりとバ群に潜り込んだ。 首が下がり、ストライドが伸びる。ナイスネイチャが走る。 ああ、ナイスネイチャ。君はまだ、光を目指して走っているつもりなのか? こんなにキラキラと輝いて、みんなが君の駆け出す瞬間に歓声を上げている。 君が求めたものがここに、全てあるんだ。なのに君は目の前だけを見て走っている。 目の前の背中を目指すだけじゃない。今はその背中の先にあるもののために。 どうかオレのことも連れて行ってくれ。その輝きの先へ。 上がる。 彼女の足が上がる。順位が上がる。ペースが上がる。ボルテージが上がる。 辛い顔をしている。歯を食いしばり、目を見開いて、流れる汗をそのままに。 美しかった。あの日、見惚れた彼女の姿よりも遥かに美しい。 ハナ差で競っていたらしい一位と二位が、ナイスネイチャの追い上げの気配に息を呑んだ。一瞬視線を背後にやっている。 ナイスネイチャは見ていない。そんなものは見ない。もう迷っていない。 駆ける。上がる。抜く。逃げる。 ゴール板を、誰よりも先に駆け抜けた。