トレーナーとの初対面は、専属トレーナーがついたというボクの浮ついた心を一瞬で凍らせるようなものだった。 顔合わせで部屋に入ったボクをテーブルに座った人物が射抜くように見つめる。 「お前がトウカイテイオーか」 エアグルーヴよりも冷たい目をする人を初めて見た。じっとこちらを観察する目つきは生き物に向けるものじゃない。 まるで、そう、自分が使う道具がちゃんとしたものか確かめるような目だった。 「キミが、ボクの、トレーナー…?」 否定して欲しいとうっすら思いながら問いかける。 「そういうことになる、"皇帝"シンボリルドルフ打倒を掲げる無謀なウマ娘だと聞いているが、本気か?」 返ってきたのは肯定する返事と、どこか挑発するような質問。 「もちろん、本気だよ!もしかして疑うの?」 「いいや、だが私から言わせてもらえば不相応だ。無敗の三冠バ、伝説の七冠バ相手によく言えたものだな。」 「確かにカイチョーは凄い!でも絶対に追いついてみせる!ボクをトレーニングしてくれるの?くれないの?!」 ボクはカッとなって怒鳴ってしまった、まるで浅はかだと嘲笑われたようで。でも、それでも瞳の冷たい光は揺れもしない。 「するさ、仕事だからな。契約上まずは3年間お前を担当することになる。だが途中でお前が嫌になったら辞めてやってもいい、という契約だ。 つまりお前が諦めなければ私も諦めない。言っておくが楽な道ではないぞ、トウカイテイオー。皇帝を超えると豪語するなら、お前は血反吐を吐きながら走り続けることになる。 それでも尚構わないというのなら、私の手を取るといい。警告はした。まだお前には別のトレーナーを探すチャンスがある。」 気遣いなんてかけらも感じさせない。本当にこの人はボクを限界まで追い込むことだろう。でも、それぐらいしなきゃ、会長は追い抜けない。だからボクは手を伸ばした。 「覚悟は出来ているようだな。今そっちに行く。」 トレーナーは立ち上がることなく、腰のあたりに両手をやって、車輪を転がしながらこっちに向かってきた。 そこでやっと気付いた、ボクのトレーナーは、車椅子に乗ってたんだ。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「まず、お前にはシンボリルドルフに勝っている点が一つもない。」 顔合わせの後すぐ、車椅子の上で手を組んだトレーナーは、ボクを見上げながら淡々と告げてきた。 「あるとすれば伸びしろだけだ、それ以外は身体能力、技術、センス、心構え、全てにおいて劣っている。」 「ボクの何がわかるのさ、会ったばかりのくせに。」 トレーナーがわざとらしく大きなため息をつく。 「わかるさ、担当する相手の事は下調べしてある、それに、私もかつてはアスリートだった。」 「アスリート、って…人間の?」 「競技で走るのがウマ娘だけだと思っていたか?規模も人気も比べ物にならないのは事実だがな。 それでもお前とシンボリルドルフとの間に絶対的な差があることぐらいわかる。それを埋めるのが私の仕事だ。」 「ならトレーニングに行こうよ、今すぐ。ボクは絶対に会長に勝ちたいんだ。」 「落ち着け、感情を乱すな。私生活すらそんな様で、レース中にペースを保てると思うか?」 そう言われると、ボクは黙り込むしかない。つい睨むように見てしまうけど、トレーナーは平然とその視線を受け止める。 それが余計にボクを苛つかせる。視線の高さは下からなのに、どこまでも見下されているように感じてしまう。 「トレーニングウェアに着替えてこい、先にコースで待っている。」 そんなボクを放って、トレーナーはさっさと部屋から出ていってしまった。 ボクは出来る限り急いで着替えて、練習用コースに走った。遅れたらきっとまた何か言われる。 「とう!!」 ついでにボクの実力を見せつけてやる良い機会だと思って、柵を飛び越えてトレーナーの目の前に着地してやった。 少しは驚くかと思ったけど、それどころか、渋い顔をしてこっちを睨みつける。 そして、パチ、パチ、パチ、とひどくゆっくりとした拍手をしながら、呆れた声を出した。 「その無駄な行動は何の意味があるんだ?ウマ娘の脚力を見せつけたかったか?それとも大事な脚を痛めつけて自分の可能性を絶ちたかったのか?」 何を言われたのか一瞬わからなかった、そして、それが明らかな侮蔑だと理解して、ボクの心がかあっと熱くなる。 どうしてこんなこと言われなきゃいけないんだ、ボクはトウカイテイオー!会長を超える最強のウマ娘なのに! 「違う!ボクは無敵の帝王だ!こんな柵ぐらいどうってことない!」 ボクは怒りに握りこぶしを震わせながら怒鳴った。トレーナーの視線が更に冷える。 「忠告しておく、人体もバ体も一瞬の気の緩み、不幸な事故、少しの無理で壊れ、多くは二度と戻らない。 健康なままで居たいなら、二度とこんなことはするな。私のように一生車椅子になりたいのなら別だが。」 トレーナーの脚、車椅子のステップに乗ったままぴくりとも動かないそれを見せられると、ひどく不安な気持ちになる。 何があったのか、どうしてトレーナーになったのか、それを聞くのもはばかられて、ボクは目をそらしてまた黙り込むしかなかった。 「よろしい、まず走り込みからだ。コースを5周だ。5周で全力を振り絞るように配分しながらだぞ、では行って来い。」 ストップウォッチを手に、何の感情も見せない声。ボクはそれに従うしかなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「ではスタート。」 トレーナーがストップウォッチを押すと同時にボクは走り始める。全力で5周、全力疾走を続けろってことじゃなくて、走りながら脚を溜め、最後にスパートをかけてゴールしろってこと、だと思う。 ……⏰…… 「よし、ゴール!ねぇねぇ、どうだった?」 「まだ余裕があるな、5周追加。」 「えぇー?!」 ……⏰…… 「はぁっ……はぁっ………。」 「まだいけるな、3周行って来い。」 「うぇーっ!?」 ……⏰…… 「すぅー……っ……はぁー……っ……はぁ……っ……さん、しゅ………はし…た、よ……。」 「すまんな、見てなかった、もう一度3周。」 「………………。」 ……⏰…… 「ぜぇ……ぜぇ………はぁ……も、むりぃ………。」 もう何周走ったか覚えていない、肺も足も痛くて、息も苦しい、心臓が跳ね回ってる。今終わりと言われても部屋まで帰れる気がしない。 「それは残念だ。もう1周行こう。」 トレーナーは平然と追加してくる。文句を言おうにも、息を整えるだけで精一杯。また走るなんて出来るわけがない。 「聞こえなかったか、もう一周だ。」 「……む、りぃ……。」 「皇帝を超えるんだろう、この程度で音を上げるのか?お前はレース中でもスタミナが切れたら立ち止まって『もう無理です、走れません』と言うのか?」 いつかウマ娘虐待で訴えてやる、と無表情にこちらを見つめるトレーナー睨みつけ、歯を噛み締めて走り出す。 息が上がる、足が上がらない、学園で習ったフォームにカイチョーのを少し真似したボク流の走り方は欠片も残ってないのがわかる、でも、走り続けるためにはそうするしかなかった。 ふらつきながらラインまでたどり着いて、そのまま芝生に倒れ込む。汗が雫になって顔を伝っていく。 風邪をひいた時みたいに熱を持った体に、冷たい芝生が心地よかった。 「ようやっと限界のようだな。覚えておけ、それがお前の体力の限界だ。私が限界まで走れと言ったらこの状態を指す。そこまで体力を振り絞れ。 だが、『限界を超えよう』などとは考えるな。あと一歩で体を壊す、それが限界というものだ。 今日はこのぐらいでいいだろう、帰って明日に備えて体を休めておけ。」 ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返すボクに一方的に伝えると、トレーナーは車椅子の車輪を回して背を向けようとした。 なんで初日からこんな目にあわなきゃいけないんだ!この虐待トレーナー!それに、どうしても聞いておかなきゃいけないことがある! 「ま……ま、ってよ………。」 内臓が全部出てきそうになるの感覚をこらえながら、声を絞り出す。 「なんで……柵を…飛び越えたのは……だめ、で……はぁ……こんなに、はしらせ…る…のは……いい、のさ………!」 ムジュンしてる、倒れるまで走るほうがどう考えたって健康に悪い。現に足はガクガクだし、目がチカチカする。 毎日こんな練習を続けていたら、カイチョーに勝つ前に死んでしまう。 「簡単なことだ。お前が倒れているのは私の管理下でそこまで追い込んだから、しかし柵越えはお前の独断だ。 走っている最中に限界に達していたら止めていた。 だから安心しろ、私の管理下にある限りお前は故障しない、いいや、絶対にさせない。 3年間、お前は体力の限り走り続ける。皇帝を超えられるかはお前の頑張り次第だ、どうだ、楽しみだろう?私は楽しみだ。質問はもうないか?明日からのメニューを組まねばな。」 それは生き地獄って言うんじゃ……。ボクはとんでもないトレーナーを選んでしまったのかもしれない、少しだけ後悔しながら、平然と芝生を車輪で踏みながら去っていくトレーナーの背中をボクは見つめるしかなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 二日目からのトレーナーは人が変わったみたいにトレーニング方法を変えてきた。 まず事前に入念な準備運動と柔軟、途中で適宜休憩時間を取って、合間ならいつでも水分補給をしていい。 どうしても払えない違和感。 「トレーナー、実は双子?昨日と入れ替わってたりしない?」 「なんだ藪から棒に。」 呆れきった冷たい目つき。ああ、間違いなく昨日と同じトレーナーだ、こんな目が出来る人そういない。 「昨日はお前の限界を見極めたかっただけだ。私の仕事はお前を鍛えることで、壊すことじゃない。 だが定期的にやるぞ、限界は伸びる、特にお前ぐらいなら伸び盛りだ。きちんとトレーニングを積み重ねれば出来なかったことが出来るようになっていく。」 「そういうものなの?」 「そういうものだ。休憩終わり、練習データを見たが、お前の脚質は先行が向いている。昨日最初に走った5周もそれを意識したものだな? シンボリルドルフと同じ土俵で勝負するなら中遠距離が主戦場になるだろう。ならばスタミナは当然のこと、スパートでバ群から抜け出すためのパワーも必要だ。 よってその2点を重点的に鍛える。レース中の位置取りやスパートの速度もおいおい仕上げていくが、まずスパートが十全に出来るようにする。 お前の実力ならそこを補えばメイクデビューで敗因はほぼなくなるだろう。」 分厚いバインダーをめくりながら、すらすらと本を読み上げるようにボクに説明するトレーナー。 あれ、ボク褒められた?ほんのり最後に褒められた?このトレーナーに? 「ねえ、ほんとに昨日と同じ人?聞き間違いじゃなかったら、ボクのこと、褒めた?」 「私を何だと思ってるんだ、担当を苛めるのが趣味の人非人だと?」 「うん。」 反射的に答えると、バインダーがおでこに降ってきた。痛い!重い!思わずおでこを押さえながらうずくまる。 「私は過大評価も過小評価もしない、可能な限り事実だけを言う。お前の実力ならこのままトレーニングを続ければメイクデビューで負けることはほぼ無い。」 この人にプラスの感情は無いんだろうか、今の所ボクを馬鹿にするか無感情かの声しか聞いてない。 その言い方と言葉に引っ掛かって、立ち上がりながら問い詰める。 「ほぼってなにさー!そこは絶対って言ってよ!」 「勝負に絶対はない、シンボリルドルフにはあるかもしれせんがお前はそうじゃない、だから"ほぼ"だ。」 「ふんだ!絶対勝ってみせるもんね!」 「実際に走ればわかる、ほら、走ってこい。」 ストップウォッチを手にしっしっと手で払うトレーナー。 評価してるならもっときちんと褒めてくれたっていいじゃないか!やっぱりこのトレーナーとは合わない! ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーナーとの日々は流れるように過ぎて、ボクは何度も『限界』を試し、その度により長く、速く走れるようになっていった。 確かにボクはトレーナーがつく前よりずっと力がついた。でも、それをトレーナーは喜んでくれない、まるで流れ作業のようにノートに記録をつけるだけ。 そして、ついにメイクデビュー戦。ウマ娘のキャリアの第一歩、ボクはそこに今向かおうとしている。 別れ際のトレーナーの言葉は「今までやってきたことをやれ。」 それだけだった、もう少し励ますとかあると思う。だからボクは少しだけ不安だった。 ボクは無敵のテイオー、だからいきなり躓くわけにはいかない。絶対に勝たなきゃいけないんだ。 なのにトレーナーはいつも通りの無感情な言葉しかくれない。 確かに併走した相手に負けることはほとんどなかったし、トレーナーの言う通りに訓練してきた。 でも最後までトレーナーは『絶対勝てる』とは言ってくれなかった。 ボクは無敵のテイオー、今日は一番人気だし、絶対に勝てる! でも、本当に、ほんの少しだけ、不安だよ、トレーナー………。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― メイクデビュー戦。ウマ娘のキャリアの第一歩、ここでの順位に大した意味はない、トレーナー達が実戦での実力を計るため、あるいはデビューするウマ娘達の顔見せの場という意味合いが強い。 だがそうは言っても、贔屓の娘には勝利して欲しいものだ。 トレーナー用の席の一番後ろ、最も高い位置で、組んだ手の上に顎を乗せて食い入るようにゲート内の自分の担当バを見つめるトレーナーに声をかけようと歩み寄る。 「ごきげんよう、生徒会長。大事な一戦なので目が離せずこのまま失礼。」 声をかける前に、ひどく平坦な声が向こうからかけられた。 「なぜ私だと?」 「ウマ娘のトレーナーはいても、競技用蹄鉄をつけたまま来ない、そして私に声をかける相手は限られる。 テイオーについては心配ない、実力を発揮すればほぼ勝てる。」 足音だけでそこまで推量するとは大した推理力だ。あるいは人間関係の希薄さが原因かもしれない、普段からこの気迫では声をかけづらいだろう。 正直、このトレーナーの学園内での評判は悪い、だがそれも仕方ないだろう、口ぶりから誰かと打ち解けようという意思が全く感じられない。 「ほぼ、というのは取らないのだな。テイオーが愚痴っていたよ。絶対勝てると言ってくれないと。」 「勝負に絶対はない、それが私のモットーだ。」 「もっと楽観的なモットーを持つことをおすすめしよう。君のトレーニング方針に口を出すつもりは毛頭ないが、今のやり方は少し厳しすぎるように感じる。」 「優しくすれば、甘くすれば強くなれると?」 まるで太陽は西から昇る、とでも言い出した相手へ向けるような対応。 強くなるには厳しく辛い練習を重ねるべき、というのがトレーナーの考えなのだろう、確かにそれも必要だ。 「考えて欲しい、彼女はまだ中等部、元々の性格もあってもっともっと褒められたい盛りだ。 君の対応ではモチベーションが上がるどころではない。それに、月に一度のペースで体を引き摺るように帰ってきて、そのまま泥のように眠る日もあると聞いている。 そんなトレーニングについてきている彼女に労いの言葉はかけているか?本人は覚えはないそうだが。」 ゲートが一斉に開き、ウマ娘達がスタートを切った。まずは団子状態、そこから逃げ戦法を選んだであろう二人が突出する。 湧き上がる歓声と対照的に黙り込むテイオーのトレーナー。多少時間が経ってから、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。 「出来るようなったことをきちんと指摘した。さっきも練習通りにやればいいと言ってきた所だ。」 ため息をつかなかったことを誰か褒めて欲しい、いや、褒められるべきはテイオーだ。 私達とさほど年も変わらないというのにどこまでも不器用なこのトレーナーに、テイオーは私に勝ちたい一心で付いてきたのだ。 「それで十分だと?それはな、言葉が不要なほど互いを知り、信頼しあった莫逆之友でのみ通用する方法だ。 言っておくが君の気持ちはテイオーには伝わっていないぞ、今走っているのは彼女が元々持ち合わせていた自信と、空元気の賜物だろう。」 「だからペースが崩れる。」 バ群が逃げ、先行、差し、追い込みの四集団に分かれる、テイオーは先行だが掛かり気味で、逃げの集団に混ざり始めている。焦っているのだろう、無理もない。 勝てると信じる理由が足りていない、レース経験がない中、トレーナーに最後まで曖昧模糊な言葉しかもらえなければそうもなる。だから脚を溜め切ることが出来ず、少しでも前に出ようとしてしまう。 「君はもっとテイオーを信頼すべきだ、嘘を吐きたくないという気持ちはわかる、だが、それで不安を現実にしては元も子もないぞ。」 「タイムは想定より落ちるが、勝つ。」 「その信頼を直截簡明に示してやってくれ。贔屓目というわけではないが、私のことを絶対視して挑もうとすらしない娘が多い中、打倒皇帝を公言する彼女を、私は気に入っている。」 最後のコーナーを曲がって、全員がスパートをかける、その中をぐんぐんと進んでいくテイオー。 トレーナーとしての腕は確かなのだろう、明らかにテイオーは実力をつけている。だが、それだけでは足りない。 能力だけで勝てるほど勝負の世界は甘くない、トレーナーとの信頼関係、やもすれば愛情となり得るほどのそれが必要不可欠だ。 「テイオーをよろしく頼む。まずは、この勝利にどうのこの文句をつけず、褒めるところから、な。」 押し黙ったトレーナーを残し、私はトレーナー席を後にした。場内に実況の声が響く。 『一着はトウカイテイオー!着順以上の強さを見せつけた見事な勝利です!』 それに紛れて、ウマ娘の耳でなければ聞き取れないような声量で「感謝する。」と一言。 そうでもしなければ謝意の一つも伝えられないとは、相変わらずシャイなトレーナーだ。テイオーは苦労するだろう。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― メイクデビュー戦にボクは勝利した。他の娘たちには悪いけど、ボクは無敵のテイオー!負けるはずがなかったんだ! カイチョーは喜んでくれるだろうか、ボクのファンや、マヤノ、みんなはきっと喜んでくれる、でも、多分トレーナーは…。 ウィナーズサークルから戻ってきたボクをトレーナーが待っていた。 多分、掛かってしまったことを責められる、次の予定を言われて、明日からいつも通り。 「テイオー。」 「うん。」 いつもならすぐ飛んでくる改善点が、トレーナーの口から出てこない。 何度も口を開けたり閉じたりして、顔を横にふる。躊躇ってる?トレーナーが?いつも言いたいことを容赦なくぶつけてくるトレーナーが? そして、ようやっと出てきた言葉は、ボクの予想外のものだった。 「…見事な走りだった。」 「…えっ?」 思わず何度も瞬きしながらトレーナーの顔を見つめる。褒めて、くれた? 目を白黒させてボクが状況を理解できないでいると、苦い顔をしながら続ける。 「何度も言わせるな、見事な走りだった。初陣でこれだけ出来れば上々だ、お前には期待している。」 「えっ、えっ、えっ?」 トレーナー、ボクが走ってる間に変なものでも食べたの?マヤノ曰く『きっと血管にケロシンが流れてて、心臓はビス止めなんだよ!』らしいあのトレーナーに何が起きたの? 「あの、と、トレーナー…? 「………かがめ。」 「う、うん。」 混乱しながら、トレーナーの前でかがむ。トレーナーの顔が正面になる。ボクを褒めているのに、何故か顔は眉間にシワが寄っている。 「お前はよくやっている、私が課しているメニューは決して軽いものではない。 だがお前は、文句は言うが、サボったことも手を抜いたこともない。偉いぞ。」 トレーナーの手がボクの頭を撫でる、バインダーやチョップで叩く時は何の遠慮もしないくせに、こんな時は壊れ物を扱うみたいにおっかなびっくりな手付きだ。 レースが終わって落ち着いていた胸のドキドキがまた膨れ上がって、体の奥が震えているような感じがする。 「トレーナー!ボク、もっと頑張る!もっともっと勝って!カイチョーより凄いウマ娘になるから!」 気づけば、トレーナーの手を握っていた。 「ああ、お前ならなれる。……"絶対に"な。」 ウィニングライブで呼ばれるまで、ボクの体温がトレーナーの手と混じり合うまで。 トレーナーはずっとボクを見つめながら、手を握っていてくれた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーナーの様子はメイクデビューの日から明らかに変わった。 今まで練習をしても何が出来たか、何が出来なかったかしか言わなかったのに、必ず一言褒めてくれるようになった。 あの日は嬉し過ぎて気にならなかったけど、落ち着いてみると妙な話だ。マヤノに聞いてみたら『わかっちゃった!』とだけ言ってその先は秘密だって。 『気になるなら本人に聞いてみたら』と言われても……。 ……⏰…… そしてもう一つ気になることがある。 「はぁ……はぁ……トレーナー、タイムは?」 「コンマ以下だが縮まっている。良い調子だ、偉いぞ。」 「トレーナー……今日それ聞くの4回目なんだけど………。」 「……………。」 トレーナーの褒め言葉、パターン少なくない?偉いぞ、よくやったな、いい調子、期待している、よくやったな、あ、2回目だこれ。 とにかく毎回褒めてくれるんだけど、同じ言葉を何度も繰り返されると、なんというか……。 「トレーナー、もしかしなくても、無理してない?無理に褒めなくていいんだよ?」 そう、無理しているようにしか見えない。その証拠にただでさえ無感情で平坦な声から抑揚すら失われて、機械かミホノブルボンが喋ってるみたいだ。 「……お前は褒められるの値する働きをしている。そう考えたまでだ。」 考えを変えてくれたのは本当なんだろう、でもこんな無理をするのは自分からじゃなくて、きっと誰かから言われたから。 「トレーナーって、嘘下手だね。別に怒らないから、言ってみて。」 「……私はお前を信頼していた、評価していた、そしてそれはわざわざ言葉にせずとも伝わっていたつもりだった。  だが、シンボリルドルフからそうではないと知らされた、そして『言葉にして示せ』とも言われた。  だから私は、伝えたかった。お前はよくやっていると、お前を信じていると。  しかし……上手くいっていないようだな、すまない。」 大きくため息を吐きながら、頭を振るトレーナー。実はずっと信頼してたっていうのは嬉しいけど、だからって。 「カイチョーに褒めろって言われたからメニュー一個一個褒めてるの?トレーナーって見た目の割にあんまり頭良くないんじゃない?」 「頭が固いとはよく言われる。」 「そんなんじゃボクも嬉しくないよ!だからさ、トレーナーがよく出来たって思った時に褒めてよ、それに悪いことも言わないように我慢してるでしょ。  そりゃ褒められたら嬉しいけど、お世辞を言って欲しいわけじゃないし、トレーナーはボクを勝たせたいんでしょ、そういう遠慮されたらやだよ!」 「そうか、わかった。なら今後無理に褒めるのは辞める、指摘もこれまで通りに戻そう。だが私の基準では逆戻りする可能性がある。  お前からのサインは何かないか、自分で上手く出来たと思った時なんか、私に褒めてもらいたい時だ。」 「んー、じゃあさ、トレーナーの前でかがむから、そしたら頭撫でて、凄いぞテイオーとか偉いぞテイオー、って言ってよ。」 そして屈んで見せる、丁度この間のレースの後みたいに。 「なんだそれは、まぁわかった。それじゃあ次のメニューは「ちがーう!今やってるでしょ!ほら!ボクが屈んだらどうするの!」 ぐいぐいと頭をトレーナーの胸に押し付ける。車椅子のオイルと金属、タイヤの匂いが混じったトレーナーの香りがボクの鼻に届く。 「わかった、この間はよくやった、偉いぞ、テイオー。お前ならシンボリルドルフを越えられる。絶対だ、お前なら出来る。」 頭をこの間より少しだけ強く撫でられる。指先からはインクと紙の匂いがして、指の付け根や手のひらにタコがある、きっと毎日ボクのために書類を書いたり整理しながら、自分でトレーニングを続けているんだ。 「えへへ、ありがと。じゃあ、今度はボクの番。トレーナー、ありがと。おかげでボク、勝てたよ。」 名残惜しいけどトレーナーの手から抜け出して、今度はボクがトレーナーを撫でてあげる。 トレーナーも偉いのに、凄いのに、誰も褒めてくれない。むしろあんまり好かれてない、他のトレーナーと話したりしているとこも見たこと無いし、友達からも『いじめられてない?』なんて心配されてる。 だからボクが褒めてあげないと、トレーナーは凄いんだって、頑張ってるんだって、次のレースも勝って、みんなにそう教えてあげるんだ。 「お前の実力だ、私の仕事はそれを引き出しただけ、トレーナーとして当然のことだ、褒められるようなことじゃない。」 「いいからいいから。それよりトリートメントしてる?髪傷んでるよ?ブリーチ入れるより手入れちゃんとしなよ。」 トレーナーは栗色の髪は前髪だけ一房白くなっている、まるでウマ娘の流星のように。人間なのに、真似したのかな。 「生まれつき何故かそこだけ白いんだ、陸上で下手に成績を残していたからな、おかげでウマ娘もどきなんて言われたこともあったよ。」 「えっと、ごめん…。」 「気にするな、それより、次のレースだ、来年1月末の若駒ステークス、そこで調整しつつ仕上がり具合を見る。その順位次第で皐月賞に挑む、クラシック三冠の一冠目だ。  まずはシンボリルドルフの蹄跡を辿る、つまり無敗の三冠バを目指す。だが勝てるレースだけ出るような弱気な真似もするつもりはない。  勝てるギリギリのレベルのレースに出場する、楽が出来るとはゆめゆめ思うなよ。」 声を低くして凄んで見せても、撫でられながらだと全然怖くない。 それに、トレーナーはボクがそれに勝てると思って予定を組んでるんだ、だったらボクがやることは全力で走るだけ! 「おい、いい加減に手をはなせ、見られている。」 「えー、いいじゃーん。トレーナーも可愛いとこあるんだって皆に知ってもらおうよ。」 パチン、と手に痛みが走って反射的に引っ込める。デコピンされた! 「そんな必要はない、さっさと走り込み行って来い。ついでに掛かり癖が付く前にペース配分を矯正するぞ、コーナー毎に目標タイムを設定するから誤差5秒以内で走るように。」 「はーい。」 手元のバインダーからメモを1ページ取り出して渡してくる、この通りに、体内時計だけを頼りに走る。 正直難しい、でもやり甲斐たっぷり、トレーナーがストップウォッチを構えて合図を出す。 そうしてボクは走り出した。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― テイオーは若駒ステークスを3バ身の差を付けて堂々の一着でゴールした、そして迎えた皐月賞。 私は関係者席に向かった。いつも通り席の一番後方から自分の担当バを見つめている人物が目当てだ。 「気にかけていただいているようで恐縮ですな、会長。」 私の足音を覚えてしまったらしく、今度は近づいただけで声をかけてきた。 感覚鋭敏、本当に人間なのだろうか。 「お前もアスリートならわかるだろう、後方確認のためにわざわざ振り返っていてはスピードが落ちる。 誰がどこで走っているか、追い上げてきているのか、ペースを保っているのか、分かるようになった方が有利だからそう訓練した。それだけだ。」 「なるほど、粒粒辛苦の賜物というわけだな。ところで、君の意識改革には成功したようで何よりだ。」 「…………感謝している。」 「これは驚いたな、この前は聞き間違いかと思うぐらいの声だったというに、はっきりと言えるようになったか。」 「言葉にしなければ伝わらないと、教わったからな。」 ゲートの中で開くのを待つテイオーの顔には、これから始まる勝負に対する昂りはあっても焦りは見られない。ほんの数ヶ月で随分成長したものだ。 「……………パレスタインの婆様は元気か?」 思わず片眉が上がる、思いがけない名前が出てきた。 「元気だったよ、君が飛び出して3年後に、大往生だった。」 「そうか。ついでがあったら私の分も花を供えてやってくれ。」 ゲートが開く、ウマ娘達が一斉にスタート、まだ団子状態。 「君から家の話が出るとは思わなかった、縁を切ったと以前インタビューに答えていたが。」 「こっちはそのつもりだったからな。孤立無援、私は私として、ウマ娘の家系とは関係なくただの人間として走りたかった。」 団子がそれぞれの脚質に合わせた4つの集団に分かれる、普段通りのレース展開、だが一つ違うのはテイオーが先行集団から頭一つ抜けていることだ。 掛かっているのではない、単純に彼女のペースが逃げ集団に匹敵するほどなのだ。 シニア級、皐月賞の舞台でこの実力に仕上げてくるとは。 「結局何の意味も無かった、陸上レースといえばウマ娘、人間の競技を見るのはごく一部の物好きだけ。この構図は変えられなかった。  全てを失った所をトレセンからのスカウト、お前の差し金か?」 「無私無偏でなかったといえば嘘になる、だが優秀なトレーナーを学園が求めていて、君がそれに値する人材だというのは確かだ。  テイオーの仕上がりを見れば分かる。」 「元から持っていた力を引き出しただけだ、大したことじゃない。」 第四コーナー回ってスパートに入る時点ですでにテイオーは先頭、そのままぐんぐんと後続を引き離していく。全く振り向く気配はない、代わりに耳が周囲を見張るようにグリグリと動いている。先程聞いた技術を仕込んだのか。 それを背もたれに体を預け見守るトレーナー、勝利を確信した態度。 「謙遜も過ぎれば不遜になる、君は自分の力を「誇れ、と?私はな、ルドルフ。未だにウマ娘が憎いよ。今最後尾を走っている者でも、全盛期の私と比べ物にならないほど早い。  ウマソウルとかいうわけのわからない代物に、生まれついた肉体だけで、血反吐を吐きながら鍛えた人間の先を簡単に行ってみせる。」 呻くように吐き出した声には苦悶が滲んでいる。状態を屈め、顔の前で祈るように手を組む。 「テイオーは良い生徒だ、素直で、飲み込みも早い。だが、足をへし折って私と同じようにしてやりたいと思う時がある。  そんなトレーナーがどんな誇りを持てと言うんだ?」 懺悔する罪人のように、トレーナーは胸の内を吐き出した。 私はスカウト候補に上げたことに一抹の後悔を覚える、だがそうしなければ今頃生きる理由の全てを失ったトレーナーは廃人のようになっていただろう。 ここで謝罪などすれば侮辱することになる、私が言うべきは。 「……君をそんな窮地に追い込んだのは私だ、いくらでも恨んでくれて構わない。」 憎まれ役として、激情を向ける的になる。 「いいや、お前には、むしろ感謝している。私の、私が育てた、私の全てを注ぎ込んだトウカイテイオーが、絶対の皇帝たるウマ娘を下すのを、この目で見られるんだからな。  楽しみにしておけ、お前の絶対を打ち破るのは、トウカイテイオーだ。」 『早い!早すぎる!トウカイテイオー大差でゴールイン!一着はトウカイテイオー!ルドルフが成し遂げたあの無敗の皐月賞制覇、トウカイテイオーもその軌跡をたどってみせました!』 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「換えの用意、ですか?」 トウカイテイオーさんのトレーナーさんが珍しく私に声をかけてきた。普段はデスクにやってきて最低限の事務的な会話しかしない人なので呼び止められて廊下で話すというのは初めてだ。 「はい、いい加減寿命が近い、酷使している、というわけではないですが、やはり学園に来てからは比じゃない。」 うーん、と私は少し悩み込む。必要な書類形式は思い出せたが、申請から実際に換えが届くまでには時間が必要だ。 「見立てでは何時頃必要になりそうでしょうか?」 今度はトレーナーさんがしばらく考え込んで 「日本ダービーまで保てば御の字というところでしょうか、色々回ってみたのですが、手の施しようがないと断られまして。」 「それなら十分間に合うと思います、必要書類をお渡ししますので、一緒に来ていただけますか?」 「ありがとうございます。ああ、テイオーに聞かれると気にしそうなので、伝えないようにお願いできますか。」 「かしこまりました。」 後ろから付いてくるトレーナーさんの車椅子の車輪の音を聞きながら事務室へと向かう、確かに車輪やフレームからわずかに軋む音が聞こえる。 車椅子の交換が必要になる時は近いだろう。 ボクは呆然としてトレーナーから渡されていた宿題を床に落とした。 でもそんなことはどうでもいい、換え?寿命が近い?日本ダービーまで? トレーナーは車椅子だから足が動かないのは知ってた、でも他の場所は平気だと思ってた、でも、違ったんだ。 日本ダービーまでじゃ二冠だよ、ボクなら絶対カイチョーに勝てるって言ってくれたのに、途中で投げ出すつもりなの? なんでそんな大事な話をなんでもないことみたいに言うんだ!トレーナーはいつもそうだ、大事なことも、そうじゃないことも同じように話す、平坦で、冷たくて、温かいのは手のひらぐらい。 でも、どうすればいいんだろう……。ボクはお医者さんじゃないし、トレーナーももう手がないって……。 ……⏰…… 走っても走っても頭のモヤモヤが取れない、日本ダービーが終わったらトレーナーは死んじゃう。 代わりのトレーナーなんてついても、意味ないよ……。 「テイオー、身が入らないようだな。やる気が無いとは思えん、何があった?」 何があった?何かあったのはトレーナーじゃないか!ボクには秘密にして自分だけでなんとかするつもりだ!ボクはそんな子供じゃないのに! 「トレーナーのせいだよ…!」 言ってしまった、せっかくトレーナーがボクのために黙っててくれたのに、ボクは立ち聞きしちゃって、それで集中できないのをトレーナーのせいにしてる。最低だ、ボク……。 「どういうことだ?」 「トレーナーの体、もうボロボロなんでしょ……、日本ダービーまでもてばいいって、たづなさんと話してるの……聞いちゃった……。」 「ん……?」 「もう寿命だって、手の施しようがないって……それで、代わりのトレーナーを準備してるんでしょ……そんなのボク、やだよ………。トレーナーと一緒に三冠バになりたいよ……。」 これまで我慢してきたのに、胸の奥から悔しさと寂しさがこみ上げてきて、目元が熱くなって視界が歪む。 「ん、ん……?」 「ボクならカイチョーを越えられるって、トレーナーと一緒ならって、思ってたのに……話が違うじゃん……。」 「ちょっと、ちょっと、待て。何の話だ?」 「だから、トレーナーがもう寿命だって、手の施しようがないって……。さっき廊下でたづなさんと話してたじゃん!」 しばらくじいっとボクの顔を見ながら、眉間にシワを寄せて考え込んでいたトレーナーは、ああ、なるほど、と小さく呟いた。 「テイオー、お前は勘違いをしている。私の体は足以外は概ね健康だし、代わりのトレーナーなど探していない。」 え…?じゃあさっきたづなさんと話してたのは? 「ど、どういうこと?もう一回言って?」 「私は健康で、代わりのトレーナーなど探していない。私が換えを探していたのは車椅子だ。もう長いこと使っていていい加減ガタが来ている。修理も難しいというから新品の申請をしにいったんだ。」 「じゃあなんてボクには秘密って…!」 「車椅子が消耗したのは学園に来て芝生の上を走るようになってからだ、それをお前に知られたら気を揉むをと思ったんだが、逆効果だったようだな……。はぁ。」 ため息を付きながらトントン、と車椅子のアームレストを叩くトレーナー。じゃあボクが泣きそうなほど心配したのは無駄だったの?! 「なんだよそれー!!取り越し苦労もいいとこじゃん!!」 「そうなるな、全く、知らないうちに疲労でも溜まっていたのかと思ったぞ。まだ何かあるか?ないなら今度こそしっかり練習してもらう。」 「変な気遣いでボクを心配させた埋め合わせ、考えといてよ。」 半目でトレーナーを睨む。ボクの勘違いもあるけど原因はトレーナーだ。責任も当然トレーナーにある。 「わかったわかった、今度飯でも奢るからそれでいいだろう。ほら、続きだ。」 「はーい、もう隠し事はなしだからね、トレーナー!」 なんだか急に体が軽くなった気がする、鼻歌でも歌い出しそうなぐらい明るい気分で、ボクは坂路ダッシュを再開した。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 『トウカイテイオー、菊花賞を残し二冠達成!そして秋の京都へ伝説は引き継がれていく!』 先行グループから差しきってゴール、この数ヶ月でボクの走り方が出来てきた感じがする。今まで出来てなかったわけじゃないけど、トレーナーのおかげで、もっとかちっとボクに噛み合うような感じだ 二冠だから指を二本立てながら、ウィナーズサークルからトレーナーの待つ控室へ戻る、足取りはレース後とは思えないほど軽い、つもりだったけど。 「あれっ。」 足がもつれて転びそうになる。疲れてるのかな、やっぱゆっくり行こっと。 「トレーナー!二冠目取ってきたよ!」 「ああ、見ていたよ。おめでとう、期待以上の働きだった。」 この人って生まれてから少しでも喜んだことあるんだろうか?いつも通りの無表情と無感動な声、もう慣れたけど。 だからボクは屈んで頭を差し出す、G1優勝に言葉だけじゃ足りない。 「ん。偉いぞテイオー、よくやった。」 そうすればトレーナーは優しく撫でてくれる、タコと擦り傷でゴツゴツした手が優しくボクの頭を撫でる。 ……⏰…… 三冠目の菊花賞、そこでも、それまでも絶対に負けられない、無敗の三冠バにボクはなるんだ! だから、足がちょっと痛くてもへーき!トレーナーはボクの体調を見てもうメニューを組んでる、それを崩すわけには行かないんだ! その日は朝からずっと土砂降りの雨が降っていた、不良になったダートコースを走ってパワーをつける。いつもなら何の問題もないメニュー。 踏み出す足がズキズキと痛む、カッパの下で歯を食いしばって耐えながら走る、必死で走る。ボクは無敵のテイオー!どんな時でも、絶対に走るのを止めないんだ! もう少しで一周、トレーナーの所へ戻れる、そう思った瞬間、足が滑った。いつもならすぐに立て直せるのに、足の痛みがそれを邪魔してバランスが崩れる、つこうとした手も泥の中に沈む。 あ、まずい。 視界が回転して、遠くに学園の校舎が見える。転んだと気付くのに少し時間がかかった。 「テイオー!!!」 トレーナーの叫び声が、すぐそばのはずなのにどこか遠くから聞こえた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 目を開けたら、見慣れない天井、鼻をつく薬品の匂い。足の痛みは和らいでいた。顔を動かすと、保健室のベッドに寝ているのがわかった。 トレーナーがすぐ近くで、顔をしかめてボクを見下ろしている。怒られるのかな、失望されるのかな、ごめんね、ボクのせいで。 「……足は疲労骨折寸前、かなり痛みがあったはずだな、何故黙っていた?」 「それは……。」 「私は、それほど信頼出来ないのか?」 「違う…。」 どうしてボクよりトレーナーが苦しそうな顔してるの、ボクのせいなのに。怒ってよ、ボクのせいだって。 「私は、体調不良を相談するに値しない存在か?」 「違うよ!」 「なら何故、黙っていた?」 「菊花賞で、勝ちたかったから……。トレーナーの組んだメニューをこなしたかったから…。」 「その菊花賞だが。」 まるで氷のように冷え切ったトレーナーの声。 「無理だ。」 その一言がまるで氷山のように、ボクの心の中にずしりと落ちてきた。 「お前にはまだ来年がある、それを見越して別のプランを練っている「嫌だ。」 「嫌だ、菊花賞に出る、勝って、三冠バになる。」 「医者の見立てだ、従え。」 トレーナーの声はいつもの平坦なものに戻っていた、それが余計にボクを苛立たせる、一緒に見ていた夢だったのに、どうしてそんな簡単に諦められるの? 「絶対に嫌だ、ボクはまだ走れる!ちょっと痛いぐらいなんてこと「テイオー!!」 今度はトレーナーの怒鳴り声がボクの言葉を遮った。 こんな感情を込めた声、初めて聞く。トレーナーも驚いたみたい、気まずそうに目を伏せる。 「……お前には、私のようになって欲しくない。」 沈黙を破ったのはトレーナーの声。 「でも、ボク、諦めたくないよ……。トレーナー…。お願い……。」 トレーナーの手を握る、声と同じように、何かを堪えるように細かく震えている。 ボクはトレーナーに残酷なお願いをしている。きっとトレーナーが車椅子になった原因と近いことをボクはしようとしている。他ならないトレーナーにその手助けをさせようとしている。 「……最大限休養に努めろ、トレーニングの許可が出てから菊花賞に向けて仕上げる。どう見積もっても期間はギリギリだ、今までの比じゃないハードワークになるぞ。  お前の足がそれに耐えられるかわからん、分の悪い賭けだ。乗るか?」 とてつもなく苦い顔をしながらだけど、トレーナーは案を出してくれて、ボクはそれに頷いた。 ごめんね、トレーナー。辛い思いさせてるのはわかってる。でも、ボク達の夢を、叶えたいんだ。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――