トレーナーとの初対面は、専属トレーナーがついたというボクの浮ついた心を一瞬で凍らせるようなものだった。 顔合わせで部屋に入ったボクをテーブルに座った人物が射抜くように見つめる。 「お前がトウカイテイオーか」 エアグルーヴよりも冷たい目をする人を初めて見た。じっとこちらを観察する目つきは生き物に向けるものじゃない。 まるで、そう、自分が使う道具がちゃんとしたものか確かめるような目だった。 「キミが、ボクの、トレーナー…?」 否定して欲しいとうっすら思いながら問いかける。 「そういうことになる、"皇帝"シンボリルドルフ打倒を掲げる無謀なウマ娘だと聞いているが、本気か?」 返ってきたのは肯定する返事と、どこか挑発するような質問。 「もちろん、本気だよ!もしかして疑うの?」 「いいや、だが私から言わせてもらえば不相応だ。無敗の三冠バ、伝説の七冠バ相手によく言えたものだな。」 「確かにカイチョーは凄い!でも絶対に追いついてみせる!ボクをトレーニングしてくれるの?くれないの?!」 ボクはカッとなって怒鳴ってしまった、まるで浅はかだと嘲笑われたようで。でも、それでも瞳の冷たい光は揺れもしない。 「するさ、仕事だからな。契約上まずは3年間お前を担当することになる。だが途中でお前が嫌になったら辞めてやってもいい、という契約だ。 つまりお前が諦めなければ私も諦めない。言っておくが楽な道ではないぞ、トウカイテイオー。皇帝を超えると豪語するなら、お前は血反吐を吐きながら走り続けることになる。 それでも尚構わないというのなら、私の手を取るといい。警告はした。まだお前には別のトレーナーを探すチャンスがある。」 気遣いなんてかけらも感じさせない。本当にこの人はボクを限界まで追い込むことだろう。でも、それぐらいしなきゃ、会長は追い抜けない。だからボクは手を伸ばした。 「覚悟は出来ているようだな。今そっちに行く。」 トレーナーは立ち上がることなく、腰のあたりに両手をやって、車輪を転がしながらこっちに向かってきた。 そこでやっと気付いた、ボクのトレーナーは、車椅子に乗ってたんだ。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「まず、お前にはシンボリルドルフに勝っている点が一つもない。」 顔合わせの後すぐ、車椅子の上で手を組んだトレーナーは、ボクを見上げながら淡々と告げてきた。 「あるとすれば伸びしろだけだ、それ以外は身体能力、技術、センス、心構え、全てにおいて劣っている。」 「ボクの何がわかるのさ、会ったばかりのくせに。」 トレーナーがわざとらしく大きなため息をつく。 「わかるさ、担当する相手の事は下調べしてある、それに、私もかつてはアスリートだった。」 「アスリート、って…人間の?」 「競技で走るのがウマ娘だけだと思っていたか?規模も人気も比べ物にならないのは事実だがな。 それでもお前とシンボリルドルフとの間に絶対的な差があることぐらいわかる。それを埋めるのが私の仕事だ。」 「ならトレーニングに行こうよ、今すぐ。ボクは絶対に会長に勝ちたいんだ。」 「落ち着け、感情を乱すな。私生活すらそんな様で、レース中にペースを保てると思うか?」 そう言われると、ボクは黙り込むしかない。つい睨むように見てしまうけど、トレーナーは平然とその視線を受け止める。 それが余計にボクを苛つかせる。視線の高さは下からなのに、どこまでも見下されているように感じてしまう。 「トレーニングウェアに着替えてこい、先にコースで待っている。」 そんなボクを放って、トレーナーはさっさと部屋から出ていってしまった。 ボクは出来る限り急いで着替えて、練習用コースに走った。遅れたらきっとまた何か言われる。 「とう!!」 ついでにボクの実力を見せつけてやる良い機会だと思って、柵を飛び越えてトレーナーの目の前に着地してやった。 少しは驚くかと思ったけど、それどころか、渋い顔をしてこっちを睨みつける。 そして、パチ、パチ、パチ、とひどくゆっくりとした拍手をしながら、呆れた声を出した。 「その無駄な行動は何の意味があるんだ?ウマ娘の脚力を見せつけたかったか?それとも大事な脚を痛めつけて自分の可能性を絶ちたかったのか?」 何を言われたのか一瞬わからなかった、そして、それが明らかな侮蔑だと理解して、ボクの心がかあっと熱くなる。 どうしてこんなこと言われなきゃいけないんだ、ボクはトウカイテイオー!会長を超える最強のウマ娘なのに! 「違う!ボクは無敵の帝王だ!こんな柵ぐらいどうってことない!」 ボクは怒りに握りこぶしを震わせながら怒鳴った。トレーナーの視線が更に冷える。 「忠告しておく、人体もバ体も一瞬の気の緩み、不幸な事故、少しの無理で壊れ、多くは二度と戻らない。 健康なままで居たいなら、二度とこんなことはするな。私のように一生車椅子になりたいのなら別だが。」 トレーナーの脚、車椅子のステップに乗ったままぴくりとも動かないそれを見せられると、ひどく不安な気持ちになる。 何があったのか、どうしてトレーナーになったのか、それを聞くのもはばかられて、ボクは目をそらしてまた黙り込むしかなかった。 「よろしい、まず走り込みからだ。コースを5周だ。5周で全力を振り絞るように配分しながらだぞ、では行って来い。」 ストップウォッチを手に、何の感情も見せない声。ボクはそれに従うしかなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「ではスタート。」 トレーナーがストップウォッチを押すと同時にボクは走り始める。全力で5周、全力疾走を続けろってことじゃなくて、走りながら脚を溜め、最後にスパートをかけてゴールしろってこと、だと思う。 ……⏰…… 「よし、ゴール!ねぇねぇ、どうだった?」 「まだ余裕があるな、5周追加。」 「えぇー?!」 ……⏰…… 「はぁっ……はぁっ………。」 「まだいけるな、3周行って来い。」 「うぇーっ!?」 ……⏰…… 「すぅー……っ……はぁー……っ……はぁ……っ……さん、しゅ………はし…た、よ……。」 「すまんな、見てなかった、もう一度3周。」 「………………。」 ……⏰…… 「ぜぇ……ぜぇ………はぁ……も、むりぃ………。」 もう何周走ったか覚えていない、肺も足も痛くて、息も苦しい、心臓が跳ね回ってる。今終わりと言われても部屋まで帰れる気がしない。 「それは残念だ。もう1周行こう。」 トレーナーは平然と追加してくる。文句を言おうにも、息を整えるだけで精一杯。また走るなんて出来るわけがない。 「聞こえなかったか、もう一周だ。」 「……む、りぃ……。」 「皇帝を超えるんだろう、この程度で音を上げるのか?お前はレース中でもスタミナが切れたら立ち止まって『もう無理です、走れません』と言うのか?」 いつかウマ娘虐待で訴えてやる、と無表情にこちらを見つめるトレーナー睨みつけ、歯を噛み締めて走り出す。 息が上がる、足が上がらない、学園で習ったフォームにカイチョーのを少し真似したボク流の走り方は欠片も残ってないのがわかる、でも、走り続けるためにはそうするしかなかった。 ふらつきながらラインまでたどり着いて、そのまま芝生に倒れ込む。汗が雫になって顔を伝っていく。 風邪をひいた時みたいに熱を持った体に、冷たい芝生が心地よかった。 「ようやっと限界のようだな。覚えておけ、それがお前の体力の限界だ。私が限界まで走れと言ったらこの状態を指す。そこまで体力を振り絞れ。 だが、『限界を超えよう』などとは考えるな。あと一歩で体を壊す、それが限界というものだ。 今日はこのぐらいでいいだろう、帰って明日に備えて体を休めておけ。」 ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返すボクに一方的に伝えると、トレーナーは車椅子の車輪を回して背を向けようとした。 なんで初日からこんな目にあわなきゃいけないんだ!この虐待トレーナー!それに、どうしても聞いておかなきゃいけないことがある! 「ま……ま、ってよ………。」 内臓が全部出てきそうになるの感覚をこらえながら、声を絞り出す。 「なんで……柵を…飛び越えたのは……だめ、で……はぁ……こんなに、はしらせ…る…のは……いい、のさ………!」 ムジュンしてる、倒れるまで走るほうがどう考えたって健康に悪い。現に足はガクガクだし、目がチカチカする。 毎日こんな練習を続けていたら、カイチョーに勝つ前に死んでしまう。 「簡単なことだ。お前が倒れているのは私の管理下でそこまで追い込んだから、しかし柵越えはお前の独断だ。 走っている最中に限界に達していたら止めていた。 だから安心しろ、私の管理下にある限りお前は故障しない、いいや、絶対にさせない。 3年間、お前は体力の限り走り続ける。皇帝を超えられるかはお前の頑張り次第だ、どうだ、楽しみだろう?私は楽しみだ。質問はもうないか?明日からのメニューを組まねばな。」 それは生き地獄って言うんじゃ……。ボクはとんでもないトレーナーを選んでしまったのかもしれない、少しだけ後悔しながら、平然と芝生を車輪で踏みながら去っていくトレーナーの背中をボクは見つめるしかなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 二日目からのトレーナーは人が変わったみたいにトレーニング方法を変えてきた。 まず事前に入念な準備運動と柔軟、途中で適宜休憩時間を取って、合間ならいつでも水分補給をしていい。 どうしても払えない違和感。 「トレーナー、実は双子?昨日と入れ替わってたりしない?」 「なんだ藪から棒に。」 呆れきった冷たい目つき。ああ、間違いなく昨日と同じトレーナーだ、こんな目が出来る人そういない。 「昨日はお前の限界を見極めたかっただけだ。私の仕事はお前を鍛えることで、壊すことじゃない。 だが定期的にやるぞ、限界は伸びる、特にお前ぐらいなら伸び盛りだ。きちんとトレーニングを積み重ねれば出来なかったことが出来るようになっていく。」 「そういうものなの?」 「そういうものだ。休憩終わり、練習データを見たが、お前の脚質は先行が向いている。昨日最初に走った5周もそれを意識したものだな? シンボリルドルフと同じ土俵で勝負するなら中遠距離が主戦場になるだろう。ならばスタミナは当然のこと、スパートでバ群から抜け出すためのパワーも必要だ。 よってその2点を重点的に鍛える。レース中の位置取りやスパートの速度もおいおい仕上げていくが、まずスパートが十全に出来るようにする。 お前の実力ならそこを補えばメイクデビューで敗因はほぼなくなるだろう。」 分厚いバインダーをめくりながら、すらすらと本を読み上げるようにボクに説明するトレーナー。 あれ、ボク褒められた?ほんのり最後に褒められた?このトレーナーに? 「ねえ、ほんとに昨日と同じ人?聞き間違いじゃなかったら、ボクのこと、褒めた?」 「私を何だと思ってるんだ、担当を苛めるのが趣味の人非人だと?」 「うん。」 反射的に答えると、バインダーがおでこに降ってきた。痛い!重い!思わずおでこを押さえながらうずくまる。 「私は過大評価も過小評価もしない、可能な限り事実だけを言う。お前の実力ならこのままトレーニングを続ければメイクデビューで負けることはほぼ無い。」 この人にプラスの感情は無いんだろうか、今の所ボクを馬鹿にするか無感情かの声しか聞いてない。 その言い方と言葉に引っ掛かって、立ち上がりながら問い詰める。 「ほぼってなにさー!そこは絶対って言ってよ!」 「勝負に絶対はない、シンボリルドルフにはあるかもしれせんがお前はそうじゃない、だから"ほぼ"だ。」 「ふんだ!絶対勝ってみせるもんね!」 「実際に走ればわかる、ほら、走ってこい。」 ストップウォッチを手にしっしっと手で払うトレーナー。 評価してるならもっときちんと褒めてくれたっていいじゃないか!やっぱりこのトレーナーとは合わない! ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― トレーナーとの日々は流れるように過ぎて、ボクは何度も『限界』を試し、その度により長く、速く走れるようになっていった。 確かにボクはトレーナーがつく前よりずっと力がついた。でも、それをトレーナーは喜んでくれない、まるで流れ作業のようにノートに記録をつけるだけ。 そして、ついにメイクデビュー戦。ウマ娘のキャリアの第一歩、ボクはそこに今向かおうとしている。 別れ際のトレーナーの言葉は「今までやってきたことをやれ。」 それだけだった、もう少し励ますとかあると思う。だからボクは少しだけ不安だった。 ボクは無敵のテイオー、だからいきなり躓くわけにはいかない。絶対に勝たなきゃいけないんだ。 なのにトレーナーはいつも通りの無感情な言葉しかくれない。 確かに併走した相手に負けることはほとんどなかったし、トレーナーの言う通りに訓練してきた。 でも最後までトレーナーは『絶対勝てる』とは言ってくれなかった。 ボクは無敵のテイオー、今日は一番人気だし、絶対に勝てる! でも、本当に、ほんの少しだけ、不安だよ、トレーナー………。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― メイクデビュー戦。ウマ娘のキャリアの第一歩、ここでの順位に大した意味はない、トレーナー達が実戦での実力を計るため、あるいはデビューするウマ娘達の顔見せの場という意味合いが強い。 だがそうは言っても、贔屓の娘には勝利して欲しいものだ。 トレーナー用の席の一番後ろ、最も高い位置で、組んだ手の上に顎を乗せて食い入るようにゲート内の自分の担当バを見つめるトレーナーに声をかけようと歩み寄る。 「ごきげんよう、生徒会長。大事な一戦なので目が離せずこのまま失礼。」 声をかける前に、ひどく平坦な声が向こうからかけられた。 「なぜ私だと?」 「ウマ娘のトレーナーはいても、競技用蹄鉄をつけたまま来ない、そして私に声をかける相手は限られる。 テイオーについては心配ない、実力を発揮すればほぼ勝てる。」 足音だけでそこまで推量するとは大した推理力だ。あるいは人間関係の希薄さが原因かもしれない、普段からこの気迫では声をかけづらいだろう。 正直、このトレーナーの学園内での評判は悪い、だがそれも仕方ないだろう、口ぶりから誰かと打ち解けようという意思が全く感じられない。 「ほぼ、というのは取らないのだな。テイオーが愚痴っていたよ。絶対勝てると言ってくれないと。」 「勝負に絶対はない、それが私のモットーだ。」 「もっと楽観的なモットーを持つことをおすすめしよう。君のトレーニング方針に口を出すつもりは毛頭ないが、今のやり方は少し厳しすぎるように感じる。」 「優しくすれば、甘くすれば強くなれると?」 まるで太陽は西から昇る、とでも言い出した相手へ向けるような対応。 強くなるには厳しく辛い練習を重ねるべき、というのがトレーナーの考えなのだろう、確かにそれも必要だ。 「考えて欲しい、彼女はまだ中等部、元々の性格もあってもっともっと褒められたい盛りだ。 君の対応ではモチベーションが上がるどころではない。それに、月に一度のペースで体を引き摺るように帰ってきて、そのまま泥のように眠る日もあると聞いている。 そんなトレーニングについてきている彼女に労いの言葉はかけているか?本人は覚えはないそうだが。」 ゲートが一斉に開き、ウマ娘達がスタートを切った。まずは団子状態、そこから逃げ戦法を選んだであろう二人が突出する。 湧き上がる歓声と対照的に黙り込むテイオーのトレーナー。多少時間が経ってから、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。 「出来るようなったことをきちんと指摘した。さっきも練習通りにやればいいと言ってきた所だ。」 ため息をつかなかったことを誰か褒めて欲しい、いや、褒められるべきはテイオーだ。 私達とさほど年も変わらないというのにどこまでも不器用なこのトレーナーに、テイオーは私に勝ちたい一心で付いてきたのだ。 「それで十分だと?それはな、言葉が不要なほど互いを知り、信頼しあった莫逆之友でのみ通用する方法だ。 言っておくが君の気持ちはテイオーには伝わっていないぞ、今走っているのは彼女が元々持ち合わせていた自信と、空元気の賜物だろう。」 「だからペースが崩れる。」 バ群が逃げ、先行、差し、追い込みの四集団に分かれる、テイオーは先行だが掛かり気味で、逃げの集団に混ざり始めている。焦っているのだろう、無理もない。 勝てると信じる理由が足りていない、レース経験がない中、トレーナーに最後まで曖昧模糊な言葉しかもらえなければそうもなる。だから脚を溜め切ることが出来ず、少しでも前に出ようとしてしまう。 「君はもっとテイオーを信頼すべきだ、嘘を吐きたくないという気持ちはわかる、だが、それで不安を現実にしては元も子もないぞ。」 「タイムは想定より落ちるが、勝つ。」 「その信頼を直截簡明に示してやってくれ。贔屓目というわけではないが、私のことを絶対視して挑もうとすらしない娘が多い中、打倒皇帝を公言する彼女を、私は気に入っている。」 最後のコーナーを曲がって、全員がスパートをかける、その中をぐんぐんと進んでいくテイオー。 トレーナーとしての腕は確かなのだろう、明らかにテイオーは実力をつけている。だが、それだけでは足りない。 能力だけで勝てるほど勝負の世界は甘くない、トレーナーとの信頼関係、やもすれば愛情となり得るほどのそれが必要不可欠だ。 「テイオーをよろしく頼む。まずは、この勝利にどうのこの文句をつけず、褒めるところから、な。」 押し黙ったトレーナーを残し、私はトレーナー席を後にした。場内に実況の声が響く。 『一着はトウカイテイオー!着順以上の強さを見せつけた見事な勝利です!』 それに紛れて、ウマ娘の耳でなければ聞き取れないような声量で「感謝する。」と一言。 そうでもしなければ謝意の一つも伝えられないとは、随分とシャイなトレーナーだ。テイオーは苦労するだろう。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――