@ 私はこの時間がたまらなく嫌いだった。 彼の女性みたいに細長くて綺麗な指が伸びて、静かに盤面の駒を滑らす。 私にはそれが音も無く摺り足で踏み込んで放たれた必殺の刃のようにさえ感じていた。 たっぷりと時間を掛けて敗着を悟った私は、会稽の恥に内心歯噛みしながら我が人生で最も厭うべき台詞を口にした。 「…負けました」 ああ、将棋とはなんて美しく、そしてひどいゲームだろう。 いつだって終わりを告げるのは敗者の降伏宣言だなんて。自分から負けを認めるのは心から血が噴き出そうになる。 私の投了を聞いたトレーナーは盤面の向こう側で穏やかに微笑んだ。 そう。いつもこういう笑い方をする人だ。冬の陽気のような、清潔感とほんの少しの寂しさが漂う笑顔。 「また攻めを急いでしまったね、グラス。  それまではとても手堅いのに攻めへ転じると苛烈な一方で隙が出来る。なんというか君らしいよ」 「…あらあら。それはどういう意味でしょうか〜?トレーナーさん」 努めてにこりと笑って答えたが、まるで自分のレース運びの話をされているようで内心むっとしていた。 この人と空いた時間にこうして将棋を指すようになったのはだいぶ前のことだが、まだ一度も勝てていない。 切っ掛けは何だったか…乗り物での移動中の暇潰しだった気がする。 盤も駒も無く、タブレットのアプリだった。誘われた私は和やかに応じつつも、負ける気はまるでしなかった。 父母が触れさせてくれた日本文化の中にも将棋はあって、あっという間に強くなった私は殆ど負けたことが無かったのだ。 余裕を持って電子の駒を指した私だったが、結果は見るも無惨な完敗だった。 ぞっとした。ふと気がついたら詰んでいた。攻めていたと思っていたらいつの間にか逆転していた。 その時自分でもどうかと思うくらい悔しかったのはよく覚えている。 牙を持たない人だと思っていたトレーナーの背中が急に大きく見えたことも。 「あの…トレーナーさん、よろしければもう一局お手合わせ願えませんか?  レース後の疲れを抜く期間とはいえただ何もしないというのは物足りなくて」 「いいよ。こっちもレースが終わったばかりですることがあまり無くてね」 駒を並べ直して再開する。ぱちぱちと盤を駒が叩く小気味良い音がまたトレーナー室に響き出す。 私の指した手でトレーナーが考え込みだしたところで私はこっそりと盤から目を離した。 私はこの時間がたまらなく嫌いだった。 トレーナーがじっと盤の上を見つめている。 こめかみに人差し指と中指、顎に親指を添えて頭を支え、ゆっくり小刻みに体を揺すっている。 駒の運びを考える時にトレーナーが無意識にしているポーズだ。この格好に私はいつも見入ってしまう。 この時のトレーナーの表情は私をいつも側で支えてくれる優しい人の顔では無い。 戦う人の顔。手加減なんて無い。私をこてんぱんにやっつけようという、冷徹で無慈悲な狩人の顔つきになる。 どく、どく、どく。心臓の音がやけにうるさい。頭がぼう、として視界が急速に狭まった。 盤面に集中すべきなのにどうしようもなく邪念が堰を切って流れ込んできた。 なんて───艶めかしい。 普段は絶対に見せてくれない顔。牙と爪をぞろりと揃えた、狡猾で重厚な獣の表情。 優しくて、我儘を聞いてくれて、私の心に寄り添ってくれる人の、恐ろしくて胸がぎゅっとなる獰猛な一面。 初めてそれを見た時、一瞬で心を鷲掴みにされた。もっと見たい、もっと知りたいと渇望でひりついた。 恍惚。陶酔。それと奇妙な喪失感。得も言われぬ感情が胸中を満たして溢れかえる。 この人は誰よりも私のことを案じて一緒にいてくれるから、てっきりそれで相手のことを分かった気になっていた。 私、まだこの人のことを全然知らない。いいえ、いつだって自分のことばかりで知ろうともしなかった。 その日の夜は瞼を閉じるとあの表情が浮かんで仕方なかった。結局否定できなかった欲望はこれだ。 ───もっとこの人の色んな表情が見たい───。 「───グラス?お〜い、どうしたんだ?」 「…あ…いえ。少し考え事をしていて。すみません、私の番ですね」 いつの間にかトレーナーは指し終わっていて怪訝な顔で私を見ていた。 何事も無かったように顔を取り繕って盤の上へと視線を戻し、動揺を胸の奥にひた隠した。 隠せた、はずだ。冷や汗なんて掻いてないし、顔も紅潮なんてしていない。だから大丈夫なはずだ。 私はこの時間がたまらなく嫌いだった。 負けず嫌いから何度も何度も挑んでいるだけ。 だからこんなのは嫌いだということに自分の中でしておかないと、取り返しのつかない矛盾と感情に気づいてしまいそうだったから。 A 荷物を運ぶのを手伝ってくれないか、と彼が私に頼むのはごく自然のことだった。 その証拠に、私の目の前を行くトレーナーの歩調はやや不揃いだ。 床を突く杖の音だけが規則正しく響き、彼の少しゆっくりとした歩みを支えていた。 確かに彼の身体を考えれば、一抱えもの重たい荷物を抱えて行き来するのは楽ではないだろう。 悪いねグラス、という招きの声と共に踏み入った彼のトレーナー用宿舎の部屋は想像とは違っていた。 「ご覧の通りの男部屋だ。見てもあまり気持ちの良いものではないと思う」 「そう…ですね。確かに少々予想外ではありました」 落ち着いていてすっきりとした人だから、きっと部屋も整理整頓されていて綺麗なのだろうと思っていた。 果たして蓋を開けてみればそこにあったのはインクの匂いがする混沌だ。 所狭しと段ボール箱が居並び、まるで片付けられた形跡が無い。殺風景とは違う意味で生活感が薄い。 服や食器などはきちんと仕舞われているせいで住居というよりは学園の資料室を想起させた。 「今お茶を淹れるよ。その辺に座っていてくれ。生憎と安い玄米茶ぐらいしか無いが…」 「あ、いえ。お構いなく、トレーナーさん」 遠慮している間にも彼は流しで薬缶を火にかけだしていた。 仕方ない。私は部屋の中央にぽつんと鎮座していた机の椅子に腰掛けた。 机の端には小さな置き時計とポータブルのテレビなんかが置いてあって申し訳程度に生活臭を漂わせている。 そもそも机を囲んで置かれた4脚の椅子のうち2脚は既に先客が我が物顔で居座っているのだ。 椅子に腰掛けているぱんぱんになるまで紙を貪った段ボール箱の中身に、手持ち無沙汰だった私はつい視線を向けていた。 紙束に記載された文字やグラフをつらつらと視線で追っていた私は、気がつくと雑にクリップで留められたそれを手に取っていた。 「これって…」 「ああ、それか。君と同じレースを走るかもしれないウマ娘たちの直近のデータだよ。  もっと簡潔に纏められればいいんだけど、調べ始めるとつい欲が出てしまうね」 薄く微笑みながら湯呑を私と自分の前に置いたトレーナーが左足を庇う少しぎこちない動きで椅子に座る。 そちらに意識を振り向けられず、私は分厚い紙の束を1枚1枚捲って目を通していた。 記載された無機質な数字と文字の羅列からは、ずしりと重く鈍い鉄の匂いがした。 ゲートが開いた直後の傾向。コーナー毎のタイム。道悪の場合の走りの変化。挙げればキリが無い。 目眩がしてくるようなデータの海だった。凄まじい研究の痕跡がそこにはあった。 ふと思い当たり、私はぎょっとして顔を上げ、部屋を見回してしまった。 無造作に積み上げられ、まるで我らこそが部屋の主だと主張しているような段ボール箱たち。 ひょっとしてそれらに全部、“これ”が詰まっているのか。 積み重ねられた時間。築き上げられた思惟。引き換えにしたもの。それを知る部屋の壁がまるで重力を放つみたいに私を圧迫している。 気がついてみると、確かにトレーナーがレース前の私にくれる助言は少ないながら常に的を得ていた。 それに助けられたことだって、一度や二度じゃない。 「トレーナーさん…もしかして、私のレースのたびに皆さんのことを調べているのですか…?」 「うーん…まぁ、そういうことになるかな」 「私のために…?」 「いや。それは半分当たっているけれど、完全な答えじゃない」 湯呑を啜るトレーナーを私は強い眼差しで見つめ、無言で言葉の続きを催促した。 エルは「グラスが思い切り睨みつけると大抵の人はたじろぐんデスよ?」と言う。私の視線にはそういう力があるらしい。 けれどトレーナーはまるで臆する様子も無い。私の目を真っ向から穏やかに見つめ返し、そして微笑んだ。 「勝ちたいから、やってるんだ」 ───ああ。 すとんと腑に落ちた。 このあまりにも膨大な量のテキストの全てが違和感なく私の中で受け入れられた。 そうだ。何を当たり前のことを。 私が誰にも負けたくなくて、レースまでに万全を期すべくトレーニングを粛々と行うのと何が違う。 私はお淑やかな大和撫子を志しておきながら、内面はどうしようもなく浅ましい負けず嫌い。 そのトレーナーが虫も殺せないような線の細い印象の優男だからといって、私に負けず劣らずの負けず嫌いではない道理がどこにある。 私は安心したような、ワクワクするような、そんな奇妙な気分になりつつようやく差し出された湯呑を手に取った。 じわりと指先に伝うのはトレーナーの温かい気遣い。 「…私にとっては大変ありがたい話ですが、この様子ですとそう遠くない内に部屋がパンクしてしまいますね」 「耳の痛い話だ。そろそろ要らない資料は処分してしまわないといけないね」 「ええ。ですので私がお手伝いします。早速次の週末からお邪魔しますね」 「え?」 いつも落ち着いている彼にしては珍しい、少し驚いた表情に内心くすりと微笑みながら、私はにこりと笑って言った。 「その代わりといってはなんですが…私のお気に入りの茶葉を置かせてもらっても、構いませんね?」 B 段ボール箱の封を破って整理をしていたら、何やら小綺麗な小箱が日用品に混ざって掘り出された。 正体を確かめようと蓋を開けてみると、果たして現れたのは予想外の品だった。 「指輪…綺麗…」 思わず小さな溜め息が漏れた。 小粒だが美しくカットされたダイヤモンドの乗った金の指輪だ。 まるきり新品という様子ではない。そう長くはないが一定期間身につけられていたような、微かなくすみがあった。 「指輪?…ああ、そんなところにあったのか」 テーブルについて私の持ってきたお弁当をつついていたトレーナーが意外そうな声を上げた。 自室なのでいつもの白いワイシャツに飾り気の無い黒いズボンという格好では無い。 部屋着にしているらしい、量販店で買ったと思われる安物のTシャツに七分丈のパンツ。 左足の方の裾から伸びているのは右足と同じ人間の足首では無く、無骨な金属の棒だった。 「それなりに値の張るものと見受けますが、どういうものなのですか?」 「ん…前の奥さんとの結婚指輪だよ」 「…へえ」 なにか、自分でもよく分からない感情がぬらりと心を撫でていった。…今は正体を確かめないことにする。 「奥様がいらっしゃったのですね。知りませんでした」 「もう数年前のことだけれどね。学生結婚だった。  見栄を張って何ヶ月分ものバイト代を注ぎ込んで買ったんだ。若気の至りというやつかな」 平然とそう言ってトレーナーは青菜のお浸しをばりばりと咀嚼した。 美味いよ、と言う彼にありがとうございますと生返事をしつつ、整理の手を止めて指輪をしげしげと眺める。 あまり自分のことを語らない彼の生々しい部分へ急に触れた気になって、どうも集中出来ない。 ただ、のんびりと私の弁当に舌鼓を打ってあれも美味いこれも美味いと言っているトレーナーに何故か腹が立った。 「そうなのですか。まだ手放していないというのは…その人のことがまだ忘れられないだとか、そういう?」 つい意地悪な気持ちになってそんな私らしくない詮索をしてしまったのはそのせいだ。 彼は痛いところを突かれたという素振りもなく、箸の動きを止めてふぅんと唸った。 「…いや、そう複雑な理由は無いよ。彼女のことを今も嫌ってないのはその通りだけれどね。  だけど続かなくなってしまったんだ。繋がっていた根っこのところが切れてしまったから」 トレーナーは左足を軽く叩いた。 膝から下まで生身では無くなってしまった、機械の脚。彼のかつての選手生命を断ってしまった要因。 初めて見た時ぎくりとしてしまったことを思い出した。 「だから今もそれを持っていることに深い意味は無い。きっとお互いにね。  いや…そこまで重要な品物では無くなってしまっている、というのが正しいかな。少なくとも未練は無い。  あまり気に留めずに手元に置いていたけれど、処分する時が来たらきっと処分してしまうんだろうね」 「…そうですか」 不思議な安堵感を覚えながら私は小箱の蓋を閉じた。 この短い遣り取りの中に大人の恋の残り香が漂っていた。 ドラマや小説の中のフィクションでは無い、かつて本当にあった物語の残滓の香り。 トレーナーはさり気なく口にしたけれど、きっと語ることの出来ない話もたくさんあるのだろう。 いくら周囲から大人びていると言われても、私は所詮まだ中等部の小娘だ。 その全てを察することが出来るほど多くの経験を積んではいなかった。 ───けれど。 私は段ボール箱に向き合って床に腰掛けたまま、トレーナーの方を向いて言った。 「トレーナーさん。でしたら私が貰ってもよろしいですか?」 「その指輪をかい?」 「はい。特にすぐ処分する予定が無いのでしたら。  ひと目で気に入ってしまいました。宝石というのはこのように一瞬で女の心を奪うものなのですね」 「うーん、とはいえそれなりに値のするものだし、かつては結婚指輪だ。軽い気持ちで渡すわけにも…」 と、悩んだトレーナーがふと手をぽんと打った。 「次のGTを君が獲ったら譲る、というのはどうだろう。  お祝いで渡すにはやや複雑な代物だが、それでグラスがよければ。それで構わないかな」 「はい。二言はありませんね?」 「もちろんだ」 頷いて私の弁当箱に顔を突っ込む作業を再開したトレーナーを前にして、私の心は勇み立っていた。 この感じはよく知っている。自分の腹の中で飼われている負けず嫌いの虫が騒ぎ出して、居ても立っても居られない時の感覚だ。 今、これが無性に欲しい。別にそれでトレーナーと私の関係が変化するとかそういうことでは無い。 ただ、この指輪をかつてのトレーナーのものではなく、私のものにしてしまいたい。 次の重賞に対する並々ならぬ決意を秘めて、私は小箱を元の場所に戻した。 C 明かりがついていなかったので、誰もいないかと思っていたトレーナー室を青白い光がぼんやりと照らしていた。 真っ暗な部屋の中でテレビの液晶だけがぴかぴかと光って動画を再生している。 音量は絞られていたぶん、外の雨音が部屋へ染み込むように響いていた。 昨日の出走ギリギリまで持ちこたえた天候はレース終了直後に決壊し、日を跨いだ今になっても降り続いていた。 「トレーナーさん?」 ぽつりと私が投げかけた言葉に対し、僅かに間があって返事があった。 「ああ、グラスか。こんにちわ」 「はい、こんにちわ。でも、テレビを見るなら部屋の電気をつけてはいかがでしょう」 「うん…」 部屋に入ってきた私に対し、彼はテレビの前のソファに腰掛けたまま振り返っていた。 生返事をしてすぐさまテレビへと視線が戻る。 その後姿を見ると電灯のスイッチを入れて光を浴びせかける気になれず、私はトレーナーの横へと腰掛けた。 テレビが再生していたのは、案の定昨日のレースのリプレイだった。 最後の直線、200メートル。スペちゃんが物凄い末脚で先頭を突っ走る。 必死で追いかけた。動画の中の私が距離が縮めていく。追いつける。追いつけたと思った。 ───審議の結果、ハナ差で私はスペちゃんに届かなかった。 トレーナーがリモコンを操作し、動画をレース開始まで巻き戻す。再びレースが始まった。 何度繰り返し再生したところで私が2着に終わるのは変わらないのに。 私はちらりとトレーナーの横顔を伺った。 頬杖をついた無表情。眉間に皺が寄っているということも無い。 ソファにも義足の方の左足を投げ出しただらしない格好で座っていて、つまりはリラックスしている。 ただ、目だけが爛々と光っていた。駆け抜けるスペちゃんと差せなかった私を殺すような鋭い視線で見ていた。 …ふと、私は問いかける。 「トレーナーさん、もしかして昨日からずっとこれを見ているんですか?」 「うーん。あんまり寝付けなくてねぇ」 まるで何でも無いことのように、ぼそりといつも通りの穏やかな調子でトレーナーは言った。 嘘だ。平気そうなのなんて見せかけだけだ。 延々とレースの内容を再生する目は何一つ満足していないと叫んでいる。 悔しくて悔しくて悔しくて、内臓がひっくり返るほど悔しくて、全力疾走の後で疲れ切っているのにまるで眠れなかった昨晩の私と同じように。 私にとって“そういう”ところは本来隠すべき部分だ。 いつでも泰然と、たおやかに、倦まず澱まず。理想とする大和撫子たる姿であり、剥き出しにするなんて以ての外。 「そうですか。私も歯がゆくて歯がゆくて堪りませんでした。  今こうして映像を見ていてもあまりの屈辱につい目を逸らしたくなるほど。許せません…何よりも、負けた自分が」 けれど、その時は驚くほど素直に感情が口をついて出た。微塵も隠そうとは思わなかった。 彼の言葉を引き出すことが、何よりも優先された。小刀で心を裂いてそれを刻み込むのがすべきことだと思えた。 「うん。君もそうか。僕も昨日からずっと考えている」 唐突にぽつりとトレーナーが言った。 「僕は君にどうすべきだったのか。君に勝ってもらうために、何が足りなかったのか。  トレーニングの内容か。かけるべき助言か。それとも調子のバロメーターの調整を間違えたのか。他に見落とした要因があったのか。  このハナ差を埋めるために必要なものは何だったのか。繰り返し、考えている」 「…はい」 動画の中の無様な私を然と見つめながら頷いた。 2着。名だたるレースの2着だ。堂々たる成績だと、そう捉えて喜ぶウマ娘もいるだろう。それはそれでいい。 でも私たちは違う。これは敗北だ。はっきりと私はスペちゃんに負けた。例えハナ差でも1着と2着はあまりにも遠い差だ。 それを血を吐くくらい悔しく感じる負けず嫌いの私に、このトレーナーは同じくらい強烈な感情で応えてくれている。 何が何でも勝ちたいという、それが私にはただ苦しくて、ただ嬉しかった。 「戦うというのはこういうことだよ」 「…はい」 「何度倒れても砕け散ったものを拾い集めて、一から組み直してまた進み続けるってことだ。  君はここまで順調にやってきた。だがこれより先に挑む以上、無傷ではいられない。その覚悟をするということだ。  僕は勝利の美味さはあまり教えられないけれど、敗北の苦さだけは嫌というほど教えてあげられるつもりでいる」 「…はい。それでこそです。  自分で決めたことは譲らない。変えない。拘り抜く。そんな偏屈で頑固なウマ娘には必要なことだと思います」 口にしながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。音が鳴らないように気をつけながら。 ああ。今この瞬間も嫌というほど思い知っているとも。 果てを目指すと謳いながら、トレーナーにあんな敗北の姿を見せてしまった。 こんな自分と共に歩んでくれるトレーナーがその敗北をこれほど悔しがってくれているだけで、血の涙を流す思いだ。 あなたに見せたい自分は、彼方まで無窮の強さで向かっていく力強いウマ娘でありたい。 レースは甘い世界ではない。きっとこれから何度もこんな敗北の土の味を舐めるのだろう。 けれどその苦さに慣れない自分でありたい。負けに慣れず、何度だって火を噴くほどに悔しいと感じられる、いつまでもそんな競技者でありたい。 …ふと、横に座っていたトレーナーが机の上を滑らせて何かを私の前へと運んだ。 離れた手のひらの中にあったものは、敗北のショックで私自身忘れていたあの約束の小箱だった。 「これ、指輪の…。ですがトレーナーさん。これは勝利した時に頂くという約束で」 「そうだね。どうする?」 そう問いかけられてすぐには意味が把握できず、一瞬思考が空白になった。 ややあって、私はふうと溜息をつく。…酷い人。私も大概な女だという自覚はあるが、それよりもっとずるい。 本当に悪いトレーナーだ。私なんてまだまだ若造に過ぎないと何度も思い知らされる。 「いただきます。大事にしますね」 「うん。今のグラスならそう言うと思ったよ」 小箱を手にする。あの時彼の部屋で手に取った時よりだいぶ重量が増したような気がする。 きっと気のせいでは無いだろう。あの時「ください」と言った時とは、この手のひらに収める理由が少し増えてしまったから。 その後はふたり並んでもう一度昨日のレースを目に焼き付けた。一言も発さなかった。 ようやく部屋の電灯を点けたのはその後のことだ。 昨日の今日ということで休養もトレーニングの内と厳命され、軽めの内容で軽く身体を動かしてその日は寮へ戻った。 夜、枕元で指輪を眺めた。 エルに見つかって囃し立てられたのでアームロックを極めて黙らせたけれど、本当は別に恥ずべきものではないのだ。 ただ、私の未熟の証というだけ。それが手にとって眺められるカタチで手元にあるというだけ。 いつかこれに見合うだけの不撓不屈のウマ娘になれますように。 いつか私を信じてくれるあなたにとって誇れるウマ娘であれますように。 指輪の上のダイヤモンドは台座の部分と違って僅かな曇りも無く輝いていて、その光はまだ私の目には眩しかった。