ある日。とある噂が耳に入った。 『トウカイテイオーのトレーナーが辞める』 噂の出処も定かではない、くだらない噂だ。 それに、少しでも彼女とそのトレーナーの事を知っていればわかるんだ。 人をどこまでも惹きつける彼女と、そんな彼女を誠実にサポートするトレーナー君。 今のこの二人に、そんな事は起こりえない、と。 ……正直に言うと。初めの頃は、トレーナー君の方には不安があった。 地方から来た期待の新人と言えば聞こえは良い。 だが、悪く言えばこの中央では何の実績も無いという事。 それに、だ。 常に何かを迷っているような、自信を感じない表情をしているのだから、私としても困ったものだった。 彼女が、物足りないトレーニングメニューに追加を頼む時なども、そうだった。 その行いの正否がわからないから、自分の選択を信じきれない。決断しきれない。 頼りない男だった。トウカイテイオーと共に居るには、幾分力不足ではないか。 ……だが、今はどうだ。 努力と経験を積み、彼女を支え、私と同じ三冠ウマ娘になるという夢を叶えたのだ。 もはや誰もが、彼女に彼というトレーナーが付いている事に、疑問を持たないだろう。 新進気鋭の彼女と共に成長し、見合うトレーナーになったのだ。 故に、流れてきた噂も意に介さなかった。 所詮は噂。実際に彼女から聞けば、否定が返されるだろう。 『トレーナーがどっかに行っちゃいそうなら、ボクが走りで取り返してみせるからね!!』 考えて、少し笑ってしまう。言いそうなものだろう? それに噂というのは、いずれ興味も薄れ、消えていく物だ。 だから、初めて噂の存在を認識したその日も、私はいつも通り会長としての執務を果たしていた。 ……だから、間違えたのだ。 そうだ。今の彼女にとって、彼は担当トレーナーというだけではない。 もし、ただのトレーナーであったなら。私が想像したように、噂にも笑いながら堂々と構えられただろう。 ……しかし。 彼女が泣いて喜びながら私に伝えてくれた事を、そのまま反映させたなら。 トウカイテイオーの愛する人であり、トウカイテイオーを愛する人だ。 ……ただのトレーナーではなく、もっと大切な存在。 噂とはいえ、それを失うかもしれない不安は……。 それは……彼女には重すぎたのだ。 「カイ、チョー……」 生徒会室にやってきた彼女を……今にも折れてしまいそうな彼女を見るまで。 ……私は、気づけなかった。 「無いですね」 呼び出された彼は、私の問いに迷う事無く言い切った。 その表情は、出会ってすぐの彼と被る事は一切無い。 困ったような眉も、焦りが窺えた目も。 全て消え去って、今ここに立ち、毅然と言う。 「俺は、テイオーの担当を辞めるつもりはありません」 「……そうか」 頼もしい言葉に安心したせいか、溜息を零してしまった。 「あの噂は、事実無こ……まぁ、絶対有り得ませんよ」 ……返答次第では、私も取れる手段を取らせてもらうつもりだったが……それも杞憂で終わったようだ。 椅子の背もたれに、少しだけ背を預ける。 きっと、彼女も同じ事を聞いただろう。 それに対して同じように返した。だが、それだけでは不安を拭い切る事が出来なかった。 自分を前にして返された否定では、足りない。 ……彼女の望む答えは、自分の居ない場所でしか得られないのだから。 ともあれ、良かった。 これで彼女も落ち着くだろう。 もうじきレースも控えていた筈。しっかりと万全を期して、挑んで貰いたいものだ。 「……では、失礼いたします。テイオーの今日のトレーニングを考えなければならないので」 私の態度を見て、話が終わったと考えたのだろう。 彼は私に背を向け、そそくさと扉へ向かう。 「……待て」 ドアノブを掴むところまで行った彼の背に、待ったを掛けた。 ……彼は、初めの頃とは見違えた。 見違えたが故に、聞いておきたい事がある。 「君は今、何を目指している」 彼が何処へ向かうつもりなのか。彼女が夢を叶え、次なる夢に向かうこの瞬間。 ……何処まで、彼女と共に在る事を見据えているのか。 それが知りたかった。 「……初めは、彼女に追いつきたい。なんとか、勝たせてやりたいと思ってました」 私に背を向けたまま、彼は語る。 「次は、彼女の寄る辺になれたら、と。俺なんかが良いと言ってくれたテイオーに応えたいと思ってました」 彼が語る、二つの目標。その二つとも、過去形。 「……では、今は」 浮かんだ疑問を、そのまま口にしている途中で、彼が振り向いた。 ……その表情は、自信に満ちて。だけどほんの少しの羞恥が混じった、優しい笑顔で。 「俺は、ただ──」 「ふぅ……」 彼が出て行った後。もう一度、今度は深く、背もたれに背を預ける。 目を閉じて。彼の言葉を反芻し、私の口から再度その想いを吐き出す。 「……ただ、幸せに笑うテイオーの、側に居たい……か」 あの言葉は間違いなく、本心から出た物だ。 それを見極められぬほど、曇った目をしていない自負はある。 ……だが、そうか。 「という事らしいが、どうかな?」 目を閉じたまま、机の下に向かって問いかける。 ……が、返事が無い。 いつまで経っても……と言うには短い時間だが、一向に返事が返ってこない。 仕方がないので、目を開けて、すぐ側を見下ろす。 ……彼女は、抱えた膝の間に頭を埋めて。体育座りの姿勢のまま固まっていた。 「ズルいよぉっ……もぉ……!」 小さく聞こえてくる言葉と、パタパタと動く尻尾は、満足できたという証明だろう。 先程まで怯えていた彼女のそんな様に、思わず笑ってしまった。 ……これにて、一件落着。 視線を上げ、振り返って見た窓の外は、快晴だ。 今の私の、心のように。 あぁ、きっと。 足元の彼女も、同じように。 ……待て。 エアグルーヴの調査によると、テイオーと彼の間になんらかの認識の齟齬があるとは知っていた。 だが、今の彼の言葉。表情は。 「……まさか」 気づいていないのか? 彼女から向けられる好意に彼が気づいていないのではないか。そう、エアグルーヴは語っていた。 「……テイオー」 しかし、これは。 トレーナーとしてだけで、あんな言葉を口にできるわけが無い。 あんな……心から愛おしい存在を想うような表情を浮かべられるわけが無い。 「話がある」 彼自身が、気づいていないのか? 「いや、今じゃないんだ」 テイオーからのそれではない。 彼が、テイオーへと向ける……。 「……私が彼と、もう一度話をした後で……いいかな?」 確かめなければならない。 このすれ違いが、本当にすれ違いなのかどうか。 ……もし、私が考えている通りならば。正せる物なのか、どうか。