私は彼女に嘘をついている。 サクラバクシンオー。URAファイナルズスプリント決勝戦で見事勝利をつかんだ彼女は、次の目標を中長距離に定め、 年明けよりトレーニングを再開していた。 その矢先彼女は軽度の肉離れを起こしてしまった。恐らく昨年の連戦に次ぐ連戦での疲労も溜まっていたのだろう。 私の判断ミスだった。幸い症状は軽度だったため1ヵ月程の治療で十分な回復が見込めるとの診断結果となった。 症状が少し落ち着いてきたころ、彼女は商店街の福引で引き当てたという温泉旅行券を私の前に差し出し、湯治も兼ねて温泉へ行きたいと申し出てきた。 彼女の若さ、ウマ娘の驚異的な肉体治癒力、アイシングが効果を発揮し気づけば肉離れの炎症はかなり抑え込まれていた。 温熱療法に移行すべきかを検討していた時期だったこと、ケガへの後ろめたさがあった点から、彼女の提案には、私も同意した。 ただし、彼女の性格を考慮する必要があった。旅先で走り回られケガが悪化しては元も子も無いため、 移動は全て車椅子で行うことを条件にした。 この条件に対し、彼女は特段不満もなかったようだった。やや意外であった。 -- 彼女は湯治旅を楽しんでくれているようだった。風情のある旅館のあちこちを見ては次々に感想を述べ嬉しそうに話す。 その姿はいつものように明るく、ケガによる精神的な不安なども無いように思えた。 その姿を見て、私も安らぎを感じた。 夕食を終えいつものリハビリメニューの時間となった。リハビリを軽く終えた後、私はソファに座る彼女の脚部に異常が無いか細かに確認しつつ、 あわせて彼女に軽いマッサージを行う。私は、視線こそ目の前の彼女に集中していたが、私の意識は、彼女に向けてはいなかった。 ある一つの事に、思いを巡らせていた。 私は、彼女に嘘をついている。 『結果的に嘘になってしまった』という言い方が正しいのかもしれない。彼女の適正距離の事だ。 中長距離だって彼女ならいつか走る事ができる。私はそう信じていた。 トレーナー契約をした当初も、至って真面目にその可能性を信じていた。 甘かった。 スプリントの覇者として彼女が大成した今、いざ中長距離を目標とした練習を開始したが、 そこに待っていたものは、重い現実だった。 壁は、目の前に、高く、高く、聳えていた。 中長距離向けペース走で表示されたタイムが冷酷な言葉を発する。お前達が目指すものは永遠に手に入らない。 無視し歩むのならば構わないがそれは欺瞞でしかない。この数字が明確な根拠だと言わんばかりに、 ナイフのように鋭く、冷徹に、私達へ忠告した。 私は、彼女に事実を伝えるべきだ、といつからか考えるようになった。 だがこの現実を彼女に伝えたらどうなるだろうか。 2年以上も彼女を付き合わせた上で、だ。 一度きりの競技人生を台無しにされた。 この嘘つきめ。 信じていたのに。 恥知らずの大人が。 許せない。 と、彼女が知る限りの怨嗟の言葉が私に投げつけられるだろう。 トレーナー契約も解消となり、彼女と歩んできたこの道のりを最後まで歩むことは決して叶わないだろう。 当然の報いだ。 だが辛いのは私ではなく彼女の方だ。彼女の笑顔に一生癒える事の無い傷をつける事になるかもしれない。 彼女に及ぼす影響だけがただただ気がかりで、ずっと、言えずにいる。 だが、もはや虚構でしかない夢をいつまでも彼女の前にチラつかせ続けるのは悪魔の所業でしかない。 本当の手遅れになる前に一刻も早く伝えるべきなのだ。 それが、私がトレーナーとして負った責任に対し最低限行うべき事なのだ。 そして、それは今でなくてはならない。 普段のトレセンの生活の中で何度も彼女に話を切り出す事を考えた。 何度も言おうとしたが、一度も私の口から言葉が出てくる事はなかった。 この、やや特異な非日常である湯治旅の場でならば。と、私は考えている。 きっと口を開く事ができる。伝える事ができる。 その結果、この旅が彼女にとって辛い、思い出したくもない思い出に変わってしまうかもしれない。 しかし今を逃しまたトレセンに戻った後、私は言えるだろうか。きっと、私は口を閉ざしてしまう。 彼女と共に歩んできた、あの見慣れた風景の中で、彼女が悲しみ崩れ落ちる姿を見る事を、 体が拒否しているのかもしれなかった。 明日の朝にはこの湯治旅も終わりを迎える。 今しかない。 今、伝えよう。1分でも、1秒でも、早く。 『自分には、君に中長距離を走らせる力が無かった。本当にすまない』と。 私は決心した。 -- 「…ひとつ聞いて貰えるかな」 私は床に片膝をついた姿勢でソファに座る彼女の足をマッサージしながら切り出した。 「はい!どうぞ!」 聞き慣れた、彼女の明るい返事が返ってくる。 「なんでも!仰ってくださいトレーナーさん!」 太陽のような眩しさすらある笑顔だ。どうか。この笑顔だけはどうか救えないだろうか― 思わず彼女の顔を見る。彼女が泣いているように見えた。 いや… 泣いているのはきっと私だ。 私の視界が急激にぼやけはじめている。 涙が出てくる。私が泣いてどうするのだ。 涙を止めようと思ったが、思えば思うほど止まらない。 きっと今の私は、あまりにもひどい顔をしているのだろう。 ぼやけた視界の中で、彼女は笑顔で私を見つめている。 私の言葉を、待っている。 覚悟を決め、私は口を開いた。 ・・・ はい!サクラバクシンオーです! 今!わたしは!トレーナーさんと初の旅行中!湯治旅にバクシン!バクシン!しています! ですが、トレーニング中のケガを療養する事が目的なので、あまり激しく動いたり走ったりすることは、 お医者様にもトレーナーさんにもNGとされています。少し物足りないですが、仕方ありません! でも旅館でトレーナーさんが私を乗せた車椅子を引いてくれたり、車椅子を離れ歩行している時に歩行の補助をしてくれたりと、 私のために常にアレコレ気配りをしてくれています。なんだかおヒメサマにでもなったような気分です!エッヘン! ふとトレーナーさんの顔を見ます。チラリ。むむ、おお!スマイルスマイル!良かったです! ここに辿り着く前まではなんだか思い詰めたような顔をしていたのですから!安心致しました! 優しいトレーナーさんに、私のケガの責任を今も感じさせてしまっているのかもしれません。 タイヘン、タイヘン申し訳ない限りです。 -- 楽しい時間はアッという間にすぎてしまいます。 夜になりました。トレーナーさんから言われた通りの入浴方法でお風呂にも浸かりました。 トレーナーさんと一緒においしいおいしいお夕食も頂きました。 そしてリハビリの時間です。出先でもできる簡素なリハビリメニューをトレーナーさんは次々指示してくれます。 一通りメニューを消化し、最後にトレーナーさんのメディカルチェック兼マッサージの時間です。 私がソファに座っている状態でトレーナーさんが床に片膝を立て、入念に足の状態をチェックしてくれています。 そのマッサージの心地よさといったら! 私は余りの気持ち良さに思わず目を閉じます。 このまま寝てしまうかもしれません。グー。 オット!トレーナーさんを前にして居眠りするところでした。あぶないあぶない。 いけません。何か考え事でもしてみましょう。 考え事―。 題材はすぐに思い浮かびました。 未解決の、題材。 -- 昨年のURAファイナルズ決勝。私は後方から迫るニシノさんと並んでゴール。写真判定で私が1着となりましたが、 正直に言えばゴール直後、私は敗北を覚悟していました。 ニシノさんはレース後、私の勝利を精一杯称えてくれました。私も模範的優等生としてニシノさんに可能な限り感謝の意をお伝えしました。 ですが私はニシノさんに勝った気など全くしませんでした。勝利した私に去来した想いは悔しさ。惨めさ。 あと1mでも距離が長かったならば私は負けていたに違いありません。 あの日の事を思い返すと胸が熱くなります。 再戦し、雌雄を決したい―。 最近、ふと思うことがあるのです。 私は…スプリントの世界で生きるべく生まれたウマ娘だったのかと… -- 昨年のクリスマス前。短距離戦で負ける事を疑っていなかった私は、当時こう思いました。 もし私がURAファイナルズを制したとして次に何をするのでしょう。 私はそこで終わり? トレーナーさんは新たな目標を見つけ、私を置いて次のステージへと行ってしまう? ふとそんな思いが頭をよぎりました。 気づくと私はトレーナーさんへのクリスマスプレゼントとして立派なシステム手帳を買っていました。 買ってすぐに包装紙を破き中身を取り出し、手帳に中距離、長距離のレース日程をひたすらに書き殴っていきました。 そして、手帳をトレーナーさんに渡しました。 クリスマスの日、トレーナーさんは私の差し出した手帳を見て、笑顔でうなずいてくれました。 私は安心しました。中距離、長距離を目指す事にではありません。 これでトレーナーさんがまだ私の元を離れないと知って安堵したのです。 ですが新たな距離でのトレーニングの準備が進むにつれ安心は恐怖へ姿を変えました。 中距離以上で私に必要とされる能力が欠如していることが、トレーニングで徐々に浮き彫りとなってきたのです。 トレーナーさんの焦燥、この状況を打破しようという苦しみが、すぐ近くにいる私にもひしひしと伝わってきました。 私は言いました。いえ、言うつもりでした。 『トレーナーさん、私、短距離を―』 ですが実際に口に出てくる言葉は全く違うものでした。 『トレーナーさんを、信じていますから―』 トレーナーさんと出会ってすぐのころは、輝かしい中距離、長距離の世界へ導いてほしいという思いから、 常々、その言葉を口に出してきました。 でも、今、私が放った言葉は『嘘』です。 この距離の才能が無い事を知った彼に、 見放されるかもしれない。 逃げられるかもしれない。 その恐怖に耐えられなくなった私は、彼にとって呪詛とも言える言葉を持ち出したのです。 トレーナーさんの逃げ道を奪い、束縛することで僅かな心の平穏を得ようとしたのです。 『トレーナーさんを、信じていますから―』 なんて卑劣な言葉。模範的優等生、模範的学級委員長などの言葉を常々言っている自分が、心底嫌になりました。 常に学級委員長として模範的な存在として自らを疑わなかった自分が嫌になったのはこれが生まれて初めての事でした。 -- 私は、まだ彼に嘘をつき続けています。 でも、もう、これ以上は嫌でした。トレーナーさんが日々傷ついていくのを見るのが耐えられないのです。 どんな形でも構わない。最後まで私を見届けてもらいたい。 伝えたい言葉は、それだけでした。なのに、一歩が踏みだせない。 怖いのです。 嘘に身を隠そうとする自分が、嫌でした。 伝えたい。この想いを。 伝えたい。勇気を振り絞って。 伝えたい。きっかけが、ほしい。 ・・・ 「…ひとつ聞いて貰えるかな」 と、ソファの下で床に片膝をついて熱心に私の足をマッサージしてくれているトレーナーさんがぽつりと一言。 私は一瞬にして我に返りました。 トレーナーさんが、居る。 トレーナーさんが、居る。目の前に。 トレーナーさんが、居た。こんな近くに。 「はい!どうぞ!なんでも!仰ってくださいトレーナーさん!」 頭で考えるより早く瞬時に言葉が口から出ていました。 ん?なぜでしょう。いつの間にか、両の眼から涙を流しているトレーナーさん。 なぜでしょうか。私の目からも突然、涙が溢れ出てきた気がしました。 でも気にする暇はありません。 静かにトレーナーさんが話し始めました。 「うん…最後まで、どうか、聞いてほしいんだ」 いつも一生懸命なあなたの言う事です。 なんだって聞きますとも。 あの日あなたに感じた何かを信じて ここまで来たのです。 なんだって聞きますとも。 そして決めました。 あなたのお話を聞いた後、 勇気を出して言うことにします。 ずっと、ずーっと、 これからも一緒に歩んで行きたいのです。 私の大好きな、トレーナーさんと。 私の大切な、トレーナーさんと。 ・・・ 私の想いはすべて言葉に乗せ、彼女に伝えた。 私の力不足がこの事態を招いた事。 責任は全て自分にあること。 トレーナーを辞めるつもりであること。 私の言葉をすべて聞き終えた彼女は、私の顔は見ず、俯き、ボロボロと涙を流し始めた。 覚悟した。彼女から浴びせられる数々の罵声を。 だが、彼女が取った行動は、俯いたまま、自らの顔を手で覆っただけだった。 続けて、嗚咽まじりの、言語の体を成していない言葉で彼女は何やら話し始めた。 彼女が何を喋り始めているのか、何を言っているのか、全くわからなかった。 想定外の事態に私も困惑する。立ち膝でいた私は立ち上がり、 ソファに座る彼女の肩をつかみ、彼女の名前を呼び、 彼女の顔を覆う手を払った。 涙で、鼻水で、ぐしゃぐしゃになった彼女の顔が現れる。 その口から洩れる微かな声。何を言っているのかが分からない。 彼女はずっと同じ言葉を繰り返していたため、 最終的になんとか単語を聞き取ることができた。 『二人で』 『スプリント』 『一緒に』 彼女の言葉一つ一つを繋げた時、私は心臓に杭を打たれる想いがした。 彼女は、もう既に、覚悟ができていたのだ。 愚かだった。 今、この場で、ようやく私の口から出した言葉の一つ一つは、 彼女を切り刻む凶器として作用したのだ。 手が、足が、体が、自らの起こした凶行に震えだした。 彼女は涙を目に溜め、呼吸を荒げ、今にも叫びだしそうな顔で、私を見つめている。 その表情は、青ざめている。 恐怖に怯えるような、初めて見る彼女の顔だった。 伝えなければ。彼女に。 言わなければ。彼女に。 とっさに、言葉が出た。 「最後まで、君のトレーナーでありたい」 取り繕いの無い、本心だった。 彼女はソファから飛びあがると私の胸に顔を埋め、再び声を上げ泣き出した。 「はい」 彼女の返事を聞いて、全身の力が抜けた。 震える手をなんとか制御し、彼女の体を支えられるように、彼女の肩を掴む。 だが、涙が止まらなかった。 涙はどうしようもなくこみ上げてきた。 彼女も同様だった。 ただ、泣く事しかできなかった。 二人で寄り添うように、泣き続けた。 夢を追い続け、その最果てで見た絶望に。 夢を追い続け、その最果てで得た希望に。 二人で、泣き続けた。 … 涙を流し尽くし、二人が落ち着きを取り戻した時、既に部屋の時計は深夜1時を回っていた。 そろそろ自分の部屋に戻るよ、と彼女に伝えた。 彼女は既に泣き止んではいたが、無言で両腕を私の背中に回し、私の体にしがみついている。 離れようとしない。私の体を拘束する腕に、グッと力が入る。 離れたくないですと彼女は言った。 一度は落ち着きを取り戻した彼女の涙が、また止まらなくなりそうな気配すら感じたため、 私は、この部屋を出る事をあきらめる事にした。 彼女の布団の隣に、余っていたもう1組の布団を敷いて、 今日は、彼女の掌を隣で握っているからという事で、 ようやく彼女は納得してくれた。 横になった彼女が、私の手を握り、少し離れたで横になる私の顔を見て、口を開く。 「トレーナーさん、私達、ずっと一緒ですよね」 ああ。 彼女の顔を見て答える。彼女は微かな笑顔を浮かべた。 「明日からまた、バクシン!ですね!」 そうだな。 夜遅いからもう静かにね。とも添えて、端的に答える。 数秒の間があった。気づくと、彼女は安らかな寝息を立てていた。 疲れていたのだろう。私の手を握る彼女の力も次第に弱くなっていった。 彼女の顔をもう一度見る。 夜を照らす月あかりのような、静かな寝顔がそこにあった。 … 夢を見た。 彼女が、サクラバクシンオーが、スプリントで閃光の輝きを放つ。 人々は熱狂する、歓喜する、ターフ上の彼女に喝采を送る。 トレーナーとして、私も彼女にできる限りの声援を送る。 応援していて、なぜか涙が止まらなかった。 なぜ涙が出てくるのか、分からなかった。 嬉しいからなのか。悲しいからなのか。分からなかった。 彼女は圧倒的な力で1着の栄光を掴む。 ウイニングランに臨む彼女を見た。 彼女は、彼女がいつも見せる満面の笑顔で、私達の声援に応えていた。 人々は熱狂する、歓喜する、ターフ上の彼女に心からの喝采を送る。 私の頬を流れ落ちる涙は、いつしか止まっていた。