●闇バクシン 嘘つき。 とうとうこの言葉を言ってしまった。 トレーナーさんの言うとおりにバクシンを重ねた私は国内の短距離を制覇し、ようやく中長距離のレースへと挑み始めた。 でも……結果は芳しくない。 未だ優勝はなく、入着がギリギリ。 たまに実績稼ぎのように短距離レースに出走しては優勝して、中長距離では敗北。 そして……先日は短距離でも負けを喫し、中距離では10着以下に沈んでしまった。 トレーナーさんの指導で根気よく勉強を重ねたおかげで、バクシンだけじゃうまくいなかいことなんて、自分でもわかってきた。 それでも彼は「バクシンにスタミナとパワーを追加すれば大丈夫だ!」と明るく励ましてくる。 ……嘘つき。それならなぜ最初から長距離へのトレーニングを組んでくれなかったの。 トレーナーさんへの信頼と裏切り、自分の気持ちと体がバラバラで、めちゃくちゃになりそうだった。 不調と敗北の末に出た言葉だった。 一度口から出た後は、止まらなかった。 夕闇迫るトレーナー室で学級委員長の名前を捨てて、彼をなじった。 あなたを信じていたのに。私の気持ちも知っているんでしょう。それも含めて信じていたからついてきたのに! それでも彼は私の、バクシンの可能性を信じていると訴えてくる。そんなこと、あるわけがないのに。 彼をなじり、そして迫った。私を信じているなら今すぐ私の気持ちに応えて欲しいと。それぐらいできて当然でしょう、と。 初めての夜は涙でぐちゃぐちゃな顔で迎えた。 彼の首筋には出血するほどの噛み跡がいくつも残った。 寮長のフジキセキさんには悔しくて公園で泣いていたと、嘘をついた。 ……嘘つきは、私だった。 ……それからしばらくして、少しずつ長距離でも1着を得られることが増えてきた。 大舞台での結果はまだない。トレーナーさんは嘘つきのままだ。 でも私はもう気にしていない。 負けるたびに外泊許可を取ることにも、ずいぶん慣れた。 ●同棲稍重ネイチャ トレーナーさんと二人で努力を重ねた結果、私はいくつかの重賞レースで優勝することができた。 一時期囁かれたブロンズコレクターなんて不名誉な通り名も払拭されて。 でも最大のレースでは勝ちきれなくて。 アタシらしいよねと苦笑いしたまま引退、学園を卒業した。 引退後、アタシはトレーナーさんと借りた学園近くのアパートで一緒に暮らし始めた。 トレセン学園から斡旋される解説の仕事を受けたり、商店街でパートをしたり。 ささやかだけど満ち足りた、分相応な生活を私は彼と歩み始めた。 それを見かけたのは偶然だった。 かつて何度も彼と通ったウマ娘専門スポーツショップ、そこで彼と彼の担当ウマ娘が楽しそうに話をしているのを。 思わず隠れてしまった。そして学園に戻るところまでつけてしまった。 仕事のついでに寄ったふりで一年ぶりに訪れたトレーナー室には、慣れ親しんだ彼の匂いに混じって若い娘の香りが漂っていた。 同じ生活圏にいれば嫌でも彼女のことは耳に入る。 才能あるウマ娘であること。それを見出した彼が熱烈に口説き落として担当になったこと。 デビュー戦、そして第二戦でも勝利をして頭角を現しつつあること。明るくて前向きでカワイイこと。 一度アタシが機嫌を悪くしたこともあって、彼は家では彼女の話をしない。でもその真剣な横顔がいつもあの娘のことを考えていることはわかっていた。 アタシの時も、そうだったから。 彼との深い繋がりが欲しかった。絶対に切れない、誰にも負けない繋がりが。 この勝利だけは譲れなかった。 自分よりも何歳も年下の小娘に醜く嫉妬していることなんてわかっていた。彼のアタシへの気持ちが揺るぎないことも。 でも、それでも。 アタシの要望で選んだ、二人だと少し狭めのベッドの中で彼の背中にしがみつく。 毎日念入りにシャワーを浴びてくれる彼からはあの娘の匂いはしない。 彼はアタシの動きを察して、枕元の小箱に手を伸ばした。 「……今日は、いいから」 家族を増やすことは家計の問題と、彼が担当ウマ娘とゴールインしたことへの外聞からもう少し先にしようと約束していた。 アタシから言い出したその話を、アタシが一方的に破棄しようとしている。 「心配かけさせてゴメンな」 彼はアタシに向き合って、優しく抱きしめてくる。 彼の首筋に歯型が残るくらい噛み付く。背中に爪を立てる。 この時間がある限り、アタシは負けない……。 倒錯した幸福に満たされながら、アタシは彼の腕の中で甲高く泣いた。 ●ワルノブルボン ラップタイムを意識するように、ペース配分を忘れずに。 規則正しい動きで体を動かす。マスターに教わったように。 「……ブルボン、もうやめよう、こんなことは」 マスターが苦しげに顔を背けた。 「なぜですか?マスター。この行為によって明らかにパフォーマンスの向上が確認されています。現に先日の2000mでも快勝することができました」 最初はぎこちなかった動きも、今ではずいぶんと慣れた。マスターと平然と会話ができるくらいに。 「推測……この行為によってマスターと一体感を得ることが心身のリラックスに、そして私の女性機能の安定にポジティブな効果をもたらしていると思われます」 マスターが顔を歪める。 「そうじゃない。レースだけじゃない。君の人生が、駄目になってしまう」 「……マスターの人生も、ですか?」 私の言葉に、マスターは顔を覆った。力なくもがく体を動かぬように押さえつける。日頃鍛えているウマ娘の力からすると、傷つけないように加減するほうが難しいくらいだ。 ……あなたが私に教えてくれたのです。周期的に起きるモヤモヤの沈めた方を。何もわからず、一人では上手くできない私に、すべてを。今更やめようだなんて……許されるものではありません。 軽く、喉に噛み付く。 彼の生殺与奪は私が握っていると、わからせるように。 ふいに、マスターが体を震わせた。 「……深部にて熱源を確認。これで週末のレースも完璧です。お疲れさまでした、マスター」 マスターは顔を覆ったまま、低く呻いた。 手を離すと床に押さえつけていたマスターの肩が酷く鬱血していた。つい力を入れ過ぎてしまったらしい。その味が知りたくて、舌を這わせた。 「……膨張を確認。マスターに余力があるようならもう一回、よろしくお願いします」 返事はない。私はそれを待たずに再び体を動かし始めた。 ●ストーカーグラス 座学が終わり、ジャージに着替えてトレーナー室へ。 ちょうどトレーナーさんは不在のようです。私はいつもの日課をこなすことにしました。 ハンガーにかかったままの上着を手に取り、襟元、胸元、袖口など、満遍なく匂いを嗅ぎ取ります。 ウマ娘の嗅覚は普通の人のそれよりもかなり優れているので、服についた匂いである程度のことがわかるものです。 トレーナーさんがやってきました。 礼儀正しく挨拶した後で、彼の体スレスレまで顔を近づけて周囲を回ります。トレーナーさんは最初ぎこちなくされていましたが、ようやく気にならなくなったようです。 ……またお昼にラーメンを食べられていますね。これで今週3回目です。万全にコーチングをしてもらうためにも、食生活には気をつけて欲しいものです。 これは……あの女性トレーナーの匂いです。何の用だったんでしょうか。ハッピーミークさんに聞いておかないと。 あとは……エル。……何なのでしょうね。問い詰めざるを得ません。 その他様々な情報を得てから、私のトレーニングは始まります。 ……今日も充実したトレーニングができました。 トレーナーさんは何かお仕事があるようで、学園の奥に向かわれました。 好機です。 少し疲れた足を全力で動かし、トレーナーさんの家へ向かいます。 担当ウマ娘たるもの、専属トレーナーの住所を抑えておくのは当然のことでしょう。 幸運にも密かに複製することのできた鍵を使って家に入ります。 ……家に問題はないようです。 私のコーチングの邪魔になるような女性の気配などもありません。 コンセントの奥に仕込んでおいたものも正常に稼働していました。 トレーナーさんのベッドに転がり、少し休憩します。 スマホの追跡アプリをチラリと見るとトレーナーさんはちょうど学園を出たようです。名残惜しいですがお暇しないといけません。 グリグリと頭を枕にこすりつけてから、私は足早に家をあとにしました。 夜、自分のベッドに入ってからスマホにイヤホンを繋げます。専用アプリを起動するとくぐもった音が聞こえ始めました。 「……またグラスの髪がある……なんでだ?……それにこの香りも……あー駄目だ駄目だ。溜まってんのかな、俺……」 しばらくするとわずかに水っぽい音が聞こえ始めました。 「エル。まだ起きてますか?」 同室のエルからの返事はありません。どうやら寝ているようですね。 イヤホンから聞こえてくる音を聞きながら慎ましく自分を慰めた後、眠りにつきました。 明日も元気にトレーニングができそうです。 ●将来設計ブルボン 月日が経つのは早いもので、トレセン学園に入学してから6年近く経過しました。 日々のトレーニングとマスターの指導のおかげで無事、父との夢であった三冠を達成。 その後、幾度も大舞台で成果を上げることのできた私は、周りの言うとおりステータス『幸せ』なウマ娘なのだと思います。 しかし、ウマ娘の輝ける時間はあまり長くありません。私も怪我や故障が避けられず大きなパフォーマンスの低下が発生。マスターとの話し合いの結果、引退を決意することになりました。 「はい、引退セレモニーはその日程で問題ありません。来てもらえると『喜び』パラメータが大きく上昇……嬉しい、です」 マスター曰く昔に比べてかなり社交性が向上したとのことで、普遍的な言い回しにも慣れてきました。 『ところで、卒業後のことは決まっているのか?』 父の問いに私のデータベースが即時データを抽出します。 「はい、現在5件の講演会の予約が、また、学園から基礎トレーニング教室を受け持ってもらうよう依頼を受けており、受諾する予定です」 『そうか……ところで、その、トレーナー君とは上手くいっているのか?』 「?……『上手くいっている』の具体的な内容が不明です。回答困難。ただ、マスターと私の信頼関係に問題のないことは確かです」 電話口からため息が聞こえました。父の求める回答ではなかったようです。推論エンジンをフル回転させます。 『男女として、という意味だよ。何か卒業後の約束などしていないのかね?』 男女?約束?データベースに総検索をかけますが、一致するものは見当たりません。 「何もありません」 『……彼はそんなに甲斐性なしには見えなかったんがな……ブルボン、お前も年頃だ。ウマ娘としてレースを走り終えてもまだ人生は続く。古臭い考えかもしれないが結婚も含めた将来設計を考えてみなさい』 それからしばらく彼を逃すと不味い、母を見習ってなど父の話が続いた後、電話が切れました。 ……男女?パートナー?将来設計?結婚?……マスター? 自分がわからないことはマスターに聞くのが一番ですが、父から強く止められたので別の方に聞くことにしました。 『ただいま子育てバクシン中!サクラバクシンオーです!!』 久しぶりに聞く彼女の声は電話口からでも高い活力を伺えます。 「お久しぶりです。サクラバクシンオーさん。お忙しいところすみません」 『いえ、お構いなく!ちょうど寝かしつけたところですから!!あっ、声が大きすぎました!少し控えさせてもらいます!』 サクラバクシンオーさんは私より早めに引退されました。私同様に短距離の才能に逆らうように長距離に出走、非常に苦労されながらもついには長距離で一つの栄冠を手にされました。しかし直後に治療困難な故障が見つかったそうです。 『もう学級委員長でも優等生でもなくなるんですよね……』と悲しげにつぶやく彼女が、『最後にバクシン的悪いことをしてきます!』と立ち直った後、卒業後すぐに専属トレーナーと入籍。呼んでいただいた結婚式でわずかに膨らんでいるお腹を見た時に計測された衝撃値は、データベース内でも非常に高い値と記録されています。 『どういったご用件でしょうか!?私、学級委員長……ではなくなりましたが、一人の優等ウマ娘として何でも相談にのらせていただきます!』 ほぼ変わらない声量で彼女が続けた。 「ありがとうございます。では質問その1、サクラバクシンオーさんはなぜご自分のトレーナーさんと結婚されたのでしょうか?」 『ちょわっ!?』 しばし無言のあとに発せられた声は先程より声量が落ちていました。 『そ、それはですね……長年私を支えてくれて、夢を叶えてくれたあの人に……い、一番の好意を抱いたからですっ』 なるほど。よくわかります。私もマスターに同じような感情を抱いている気がします。 「質問その2、サクラバクシンオーさんはどのように結婚を申し込んだのでしょうか?」 『ちょわわっ!!?』 その後、私は彼女から『逆バクシン』や『夜のバクシン』など、かつて聞き及んだことのないメソッドを聞かせていただきました。 あまりにも衝撃的でステータス『混乱』が発生、一部記録に失敗したほどです。 しばらく情報を整理した後、私はトレーナー室に向かいました。 部屋にいたマスターは私を見てなぜかぎこちない笑みを浮かべました。これは、ステータス『緊張』でしょうか。 「ブルボン、君に大事な話が……」 小さな小箱を手にマスターが近寄ってきます。今です。 私はマスターをソファに突き倒しました。そのまま唇を奪います。ここまでは完璧です。 「マスター、愛しています。結婚してください」 目を白黒させるマスターは、呆けた表情で「はい」と答えました。 「了承を得ました。ありがとうございます。続いてオーダー『逆バクシン』を実行します」 何かを言おうとするマスターの口を再び唇で塞いで、彼のシャツを引き裂きました。 ●攻めネイチャ トレーナーさんと努力を積み重ねて、ようやく1着の座を掴めるようになった最近。 といっても、まだ大舞台での成果はないけれど……。 彼の指導のおかげでコツコツと実力と自信がついていくのがわかった。 順風満帆。地味なアタシにもこんな充実した気持ちになれる日が来るなんて。 ……そんな充実した日々の最中。アタシは偶然それを見かけてしまった。 喫茶店の窓際から、少し離れたところに座るトレーナーさん。 そしてその向かいに座る、美人と言っても差し支えのない、同年齢の女性。 つい身を隠すことすら忘れて、歩道の真ん中で見入ってしまった。 衝動が抑えられずに、喫茶店にそっと入る。 向こうから見えないカウンター席に身を潜めるように座り、耳を傾けた。 こういう時、ウマ娘で良かったなと思う。それと同時にそうじゃなかったら良かった、とも。 二人の会話の内容は、端的に言うと、カップル関係の精算中だった。 バリバリのキャリアウーマンで出世街道バクシン中の彼女。そしてまだ実績もほとんどない駆け出しのトレーナーさん。すれ違う時間が増えて、自然消滅寸前。 かなりアタシの想像が入っているけれど、多分そんな感じ。 トレーナーさんは今受け持っているウマ娘を自慢する。きっともっとすごいウマ娘になる、自分と彼女とで頂点を目指すのに夢中だと。 とてつもなく恥ずかしい。頬だけでなく耳の先まで真っ赤になりそうだ。 それと同時に冷たい痛みが心を突き刺す。その人に自慢するために、アタシと一緒に頑張ってるの……? そんなトレーナーさんの言葉をつまらなさそうに(アタシの妄想だ)聞く彼女さん。 最後の言葉は「来週、あなたの家にある荷物を取りに行くから」だった。 彼女さんが去った後、トレーナーさんが大きなため息をつく。そして吹っ切るかのようにいつものキビキビとした動きで喫茶店を出ていった。 ……アタシはしばらく立ち上がれなかった。 いろんな感情がぐるぐるして。自分の思った以上にトレーナーさんが心の中を締めていて。 薄々気づいていた気持ちを正面から見てしまって。 これは、恋心だ。たぶん。 次の日からは、自分でもわかってしまうくらいズタボロだった。 寝不足、肌荒れ、偏頭痛……珍しくトレーナーさんに注意されてしまった。 彼はいつも通り、特に傷ついて凹んでいる様子もない。 アタシばっかり悩んでいるようで、腹立たしくなってくる。誰のせいでこんな事になってるのかと。 「トレーナーさんってさ、彼女とかいるの?ちょっとネイチャさんに教えてくださいな」 彼を傷つけたくて、自分も傷つく言葉を無理やり笑いながら繰り出した。 トレーナーさんが一瞬、小さく息を吸ったのがわかった。 「いたよ。でも、この間、別れたんだ。ちょっと住む世界が違ってね」 めちゃめちゃ痛い。聞かなきゃよかった。 「ど、どど、どんな人だったの?」 自分でも声色が隠せていないのがわかる。もうやめて、アタシ。 「すごい自信家だったよ。俺の助けなんかいらない人だったな……あっという間に置いてかれちゃってさ。って、担当ウマ娘にこういうことを漏らすのは教育者として失格だなー……」 そんなことない。そう言いたかったけれど声が出なかった。 「ゴメンな。俺の調子が悪いからネイチャも調子を落としてたんだろ。もう未練はないし。また心を入れ替えて頑張るから」 「ほ、ほんとそう!トレーナーさんが最近不調だからアタシも困ってたっていうか」 トレーナーさんは何度も謝ってくれた。その姿が情けなくて、ちょっと笑えて。ついつい調子に乗ってしまう。 「もー、さ、彼女がいたら調子が上がるくらいなら、ネイチャさんがちょっとくらい相手してあげますって」 ……しまった。やりすぎ。掛かりすぎ。心の奥底で彼がフリーになっていることを喜んでいる自分がいるのを忘れていた。 トレーナーさんが、さっきよりも呼吸を乱した。顔が赤くなっているのが見える。 すぐ、冗談ですよって言いたかったけど、言葉が出なかった。 それだけは嘘を付きたくなかった。トレーナーさんの指導で培った勝負感が、今が攻め時と囁く。 彼がこの空気を吹き飛ばす前に、私は彼に体を近づけた。 ●一人うまぴょいエルコンドルパサー 枕を噛み締めながら、できる限り声を殺します。でも荒い吐息が漏れるのは止められないデス。 「ふぅ、うっ!」 自分の敏感なところをそっと撫でるだけで十分。それなのに体が震えるくらいに快感が走ります。 体が仰け反って布団を跳ね飛ばしそうになるのを必死に我慢。 ……あの人ならどんな感じに触れてくれるんだろう……。 妄想と快楽、その抑制、全部がゴチャ混ぜにしながら、エルは意識を飛ばしました。 「……またやっちゃったデス」 手の平までべっちゃりと濡れた右手を眺めて、エルは後悔の溜息を漏らしました。今週で3回目。しかも全然治まらないデス。 しっかりとタオルを敷いたおかげでシーツが汚れるのは避けられたものの、この籠もった強烈なメスウマ娘臭はどうやっても消せません。 グラスにバレてなきゃいいけど……。 そっとベットから降りてタオルを洗濯に出しに行こうとしたところで、暗闇の中、向かいのベットからジトッと眺めているグラスと目が合いました。 「バレるに決まってるでしょう。気づかないふりをするのも限界です。……週3は、多すぎます」 窓を開けて換気をして。ベッドの上で正座をしながらグラスの説教を受けます。 「何で薬を飲まないんですか」 ウマ娘は普通の女性よりも、周期的に……エッチな気持ちになります。なのでそれを抑える薬があって、困った時はそれを飲んで学園生活を送っています。 「あれを飲むとエルのパッションも抑えられちゃうんデス。飲みたくないデス」 あの薬を飲むと妙に気持ちが落ち着いて、全然調子が出なくなります。エルがエルじゃなくなるのには耐えられません。 「エル。私の快眠のことも考えてください」 「でも〜」 グラスの背中に青いオーラが見えました。目が怪しげに光ります。ヤバいデス。 「……では、一回で満足できるような慰め方をしましょう」 「!!?」 「エルは誰のことを想って慰めてるんですか?」 「そ、それは……そんなこと絶対に言えないデス!」 まあわかってるんですけどね、と言いながらグラスは話を続けました。 「その人の来ている服とか、匂いのついたものを手に入れると良いですよ」 「!!?!?」 「それを嗅ぎながらするんです」 「??!!?」 「恋い焦がれるウマ娘なら誰でもやってることです……たぶん、絶対」 確かにウマ娘は普通の人よりも匂いに敏感デス。好きな人の匂いを嗅ぎながらできれば、気持ち良いに決まってます。でも、そんなこと……。 「汚して入れ替えたりとか、やり方はいくらでもあります」 仄暗い眼光を灯したグラスの話を聞きながら、夜が過ぎていきました……そのせいで寝不足デス。 グラスが自分のトレーナーさんのシャツを詰めた大きなタッパーを自慢気に持ち出してきて、ドン引きしたのは絶対内緒デス。 結局次の日のトレーニングはイマイチで、トレーナーさんに注意、というか心配されてしまいました。 様子見と言って軽いジョギングに付き合ってくれたトレーナーさんの汗の匂いが、気になってたまらないデス。 モヤモヤとしたままトレーナー室に戻るとトレーナーさんはおらず……彼のウェアの上着だけが残されていました。 グラスの話がわずかに頭を過ぎったと同時に、エルはそれに手を伸ばしていました。マスクがズレる勢いで鼻に押し付けます。 あ……ヤバいデス。これは駄目なやつデス。駄目なっちゃうやつデス……。 「うぅ〜、臭いデース。ほんと臭い……」 眼の前がチカチカするくらい濃厚な彼の匂いに翻弄されます。これがミ・アモール・デ・ミ・ノビア……。 「……そんなに臭いのか……」 気付いたらトレーナーさんがショックを受けて佇んでいました。 血の気が引くのがわかりました。エル、変態だと思われてしまいます。変態なんかじゃないのに。 「こ、これは、これは、グラスが悪いんデェース!!」 上着を持ったまま、トレーナー室を飛び出しました。 「……というわけで持ってきてしまったデース」 「エル。」 結局その日はそのままアトミコな夜を迎えて(グラスは外泊しました)、怪鳥完全復活デース! トレーナーさんには新品のウェアをプレゼントと言って贈りました。 それ以降トレーナーさんが制汗剤をやたらと使うようになったのは、エルとしては極めて残念デス。 ……同じ型のウェアはもう準備済み。 来月が待ち遠しいデス。 ●ミホノブルボンねんね(レス) トレーニング中に軽く足を捻ってしまったあの日から、私は変わってしまいました。 何事もなかったかのように振る舞って見せる私をすぐ抱き抱えて、保健室へ連れて行ってくれたトレーナーさん。 父以外で今まで経験したことのない逞しさと頼りがいから、つい隣りにいてくださいと甘えてしまったのです。 ……そこから櫛の歯が欠けるように、私は彼に甘えるようになりました。トレーニングが終わった後、トレーナー室に行くのが始まりです。 勉強を教えてください、甘いものを食べさせてください、顔を拭いてください、足を揉んでください……。 今日はマスターにしなだれかかるようにして長椅子に押し倒して、胸に顔を押し当てました。彼の匂いをスーッと深く嗅ぎます。 「マスター……ねんねさせてください……」 ●悪い子ライス 急いでやってきたトレーナー室で、ジャージを手元に置いて、お兄さまが来るのを待ちます。 こんなイケナイことをするの、ずいぶん悩みました……今でもやめようかどうしようか、迷ってます。がんばれライス、がんばれ……。 遠くから足音が聞こえてきました。この音は、お兄さまに間違いありません。 制服をそっと上下とも脱ぎます。身に着けているのはこの間は買ったばかりの、大人っぽい下着だけ。まだジャージは着ずに、着替えている途中のように上着だけ手にして……。ドアが開きました。 「ライス、来てたのか……って、ゴメン!!」 部屋に入ってきたトレーナーさんはライスが下着姿だったことに気づいたのか、慌てて出ていきました。 成功です。ライス、お兄さまに見られちゃいました。見てもらっちゃいました。ライスはだめな子じゃなくて、悪い子です……。 見られたことの恥ずかしさと、見てもらった達成感で、頭がぐるぐるします。 ……ライス、本当に悪い子になっちゃいそうです。 きっかけは勝負服を作ってもらった時でした。 試着した時の感動、これを送ってくれたお兄さまへの感謝の気持ちは今でも思い出せます。 その時に専門のデザイナーさんに言われたんです。 「う〜ん……ライスちゃん、せっかくだから下着もこだわってみない?シンプルなのも素敵だけど、この暗くてシックな色に似合う下着を着たら、もっと良くなるわ」 ライスはそういうのに詳しくなくて、白のブラジャーとスポーツブラしか持っていません。 その後、ウマ娘はみんな勝負服の時は下着もこだわってることを聞いて驚きました。 「ウララの勝負服はジャージだから、スポブラしてるよ!」 「ウ、ウララちゃん、声が大きい……」 ダートで強くかったウララちゃんは芝のレースも出始めたけど、なかなか勝てずに落ち込んでいました。 でも、最近何だか調子が良さそうです。それから、トレーナーさんと一緒に温泉に行った後くらいから、すごく大人っぽくなった気がします。 「あ〜でも……トレーナーさんとお出かけする時は、勝負下着かな〜」 ウララちゃんが艶やかに微笑みました。昔はこんな表情したことなかったのに……ドキッとします。勝負、下着?勝負服用の下着のことかな? 「そうだ!次のお休みに、一緒に買いに行かない!?カッコいい勝負服なんだから、やっぱり下着もこだわろうよ!きっとライスちゃんのトレーナーさんも喜ぶよ!」 お兄さまも、喜ぶ……?私はその言葉を聞いてウララちゃんと買い物に出掛けました。 「キレイなの買えてよかったね!ライスちゃん!」 「ありがとうウララちゃん。ウララちゃんのも……すごく、その、キレイだったよ」 ……すごくエッチでした。あんな下着、いつ着るのかな。 「えへへ。トレーナーさん喜んでくれるかなぁ〜……ライスちゃんもトレーナーさんに見せてあげたら?」 「えっ!?は、恥ずかしいよ!」 あんな大人っぽい下着、お兄さまに見せるなんて……ライス、ものすごく恥ずかしいです。でもすごくドキドキします。 「絶対喜ぶと思うんだけどなー……そうだ!こんなのどうかな!?ちょっとだけ、見せてあげるの!」 トレーニング中、お兄さまがちょっと落ち着いていないのがわかります。 ライスは汗を拭くために、わざと大きくジャージを捲くりあげてみました。 お兄さまの視線を感じます。恥ずかしい……でもお兄さまがもっともっとライスを見てくれるようになりそうで……はしたないけど、癖になりそうです。 またウララちゃんにいろいろ教えてもらおうかな。 ●理事長の一日 起床ッ! トレセン学園理事長職の朝は早い。惰眠を貪るわけにもいかず、目覚ましが鳴る前に勢いよくベッドから飛び出す。 たづなに叩き起こされることもあるが……勝敗的には2対8くらいだろうか。まだ差し返せるペースと言えよう。 しっかりと朝食を食べて学園に向かい、登校してくる生徒たち、出勤して来るトレーナー達を眺める。 私はこの時間が好きだ。楽しそうな者もいれば苦しそうな者もいる。 ともかく皆が未来に向かって必死に進もうとしているのがわかる。私がこの学園を守り育てねば……という意義と活力をもらい、職員朝会に赴いた。 執務ッ! 昼頃からは外部との折衝や打ち合わせが多くなるので、朝のうちに書類仕事は済ませてしまう。片付かなければ夕方に回して……残業だ。 まずは予算関連から。正当なものは学園の予算から、気になるものは私費を投じて対応する。最初から出費を絞るなどという行為は三流ッ! ……美浦寮に穴が空いた。ついでに壁が薄いので改築したい……穴は補修ッ!壁は保留ッ!年頃のウマ娘ばかりだから喧しいのは仕方がない。寮長の手腕に期待しよう。 トレーニング機材の購入……これとこれは許可ッ!これは面白そうだから私財で購入ッ!これは却下ッ!成人男性サイズの拘束具なんて何に使うのか。興味があるが危険な気配がするので却下しておく。 続いて生徒やトレーナー達からの意見書、陳情書など。何気ない意見が深刻な問題を孕んでいることもあるので注意ッ! ……外泊届けが多い。保留ッ!若いウマ娘達の行動にブレーキなど不要ッ!……まあ、これも寮長の手腕に期待だ。 ……トレーナーの私物(特に衣服)の紛失が多い。保留ッ!今は春、ウマ娘達が血気盛んになる時期だ、そういうこともある。警備を増やすと回答して何もしないことにする。 ……トレーナーの首筋に傷が目立つ。医療体制の拡充(薬箱の配備)。許可ッ!自由に伸び伸びと高めあって欲しいとはいえ、いくらかは外聞も気にしないといけない。傷などは極力隠して欲しい。 ……風紀の乱れに付き、○○○の配布希望。却下ッ!暗に推奨するかのような直接的な対応は下策ッ!責任は各々が取るべし。 最後に新規トレーナーの採用について。優秀なトレーナーはまだまだ足りていない。 推薦文と履歴書をチラ見し、志望動機の作文(2000字、手書きのみ可)を開く。鼻先に近づけてひと嗅ぎ、そして不採用の書類入れに投げ込んだ。これを5回繰り返した。不作ッ! 「あの……理事長……お言葉ですがせめて内容を読んであげては……」 隣で控えていたたづなが声をかけてきた。 「そのようなことは不要ッ!こんなつまらない匂いをしている者が優秀なトレーナーであることは皆無ッ!」 作文を一枚を取り出してたづなの鼻先に掲げた。 「……確かにそのようですね。でも一応読んであげたらどうでしょうか」 しぶしぶ目を通すがやはり結果は変わらない。立派なウマ娘を育てたいなどという凡庸な言葉だけでもう不採用確定ッ!トレーナーとウマ娘は二人三脚一心同体で育つものだ。育てるなどという片手落ちな意気込みだけでは不足ッ! 「終了ッ!まだ打ち合わせまで時間はあるな。我が学園の将来有望な者達を眺めに行こうではないか!」 たづなを引き連れて、私は意気揚々と理事長室を後にした。 ●シラオキシステムインストールミホノブルボン こんばんわ。マスター。ミホノブルボンが0時5分をお知らせします。 このままではバッドステータス『寝不足』が発生する恐れがあります。早めにベッドに入ることを推奨します。 なぜ私がマスターの部屋にいるか、ですか? それはマチカネフクキタルさんよりインストールしていただいた『シラオキシステム』のおかげです。 このシステムは素晴らしいです。この世のすべてが分かります。分かりました。 寮を抜け出す方法も、外壁の登り方も、ガラスカッターの使い方もすべて『シラオキシステム』が解決してくれました。 この周期的にムラムラする気持ちを解消する方法も、今にわかることでしょう。 マスター、なぜ少しずつ私から離れようとしているのですか?彼我の距離50cmから1mに拡大……これで0cmですね。 あっ、マスター、動かずに。静かに、静かにしてください。 『シラオキシステム』曰く、「ここで人を呼んだらお互いどうなるかわかってるよね」だそうです。……落ち着かれたようですね。安心しました。 ……マスターはまだシャワーを浴びられていないようですね。これはウマ娘にステータス『誘惑』を付与する非常に危険な匂いです。 今後のためにも、匂いを上書きさせてください。マスター。これにより危険度が低下するはずです。 今すぐ『ベッドの上で服を脱ぐ』というオーダーを実行してください。抵抗は無駄です。……素晴らしい。やはり『シラオキシステム』は偉大です。 続いてオーダー『天井のシミを数える』の実行をお願いします。 ●しっとりバクシン トレーナーさんの指導の通りに国内の短距離をバクシン制覇した私。 ああ、このまま私は騙されたままなのでしょうか……でも委員長的に優駿とも言える成績ですしそれも悪くないでしょう!と自分を納得させつつあった中。 トレーナーさんはとうとう私に中長距離のためのトレーニングを施し始めました。 彼は私の夢を決して忘れていたわけではなかったんです。その方針を知ったときは嬉しさがバクシンして、委員長的にNGなハグをしてしまったくらいです。 しかし夢の実現は簡単にバクシンできるわけではありませんでした。トレーニングを重ねてもなかなか中長距離の体、足にはなりません。 周りから奇異の目で見られつつ中長距離のレースへの出走、そして敗北の日々。 軽度の故障……そして今日、再び故障の気配がありました。保険室で見ていただき、診断内容をトレーナーさんに報告するためトレーナー室に戻る途中。 その会話が耳に入ってしまいました。 「……君の指導方針は目に余る。この国のトップに君臨したスプリンターを潰す気かね?」 盗み聞きなど学級委員長的にNG!耳を塞ごうとしますが、手が動きません。 この声は、学園のトレーナーのまとめをされている方のものです。何人も優秀なウマ娘を担当された、偉いトレーナーさんだそうです。 「君だって分かっていたから短距離で結果を出させたんだろう。それを今更罪滅しのように長距離に挑戦させるなど……担当ウマ娘の夢を叶えることと現実に幸せを掴むことは必ずしも一致しない。このままでは彼女は夢に押し潰されて不幸になるのではないかね?」 そんなことはありません!あなたに私達の何がわかるんですか!私達は必ず栄光を掴みます!そうですよね、トレーナーさん! 今すぐ部屋に飛び込んで、そう言いたかったです。しかしトレーナーさんからの返事はありませんでした。 「しかもまた故障を抱えたようだな。トレーニングメニューも見させてもらった。よく考えられている。しかし、それだけで距離適性を乗り越えて結果を出せるようになるほど、この世界は甘くはない」 そんなことわかっています!それでも、優等生が諦めるなんて! 「ウマ娘とトレーナーの契約は神聖なものだ。他人が口出しすることではない。だが、これ以上故障などが繰り返されるようなら、学園から契約の破棄に関する話が出るだろう。私はそのような提案に賛同はしたくない。……今一度、彼女と話し合いなさい」 私と、トレーナーさんの契約がなくなる……?そんなこと……。 声の主が部屋から出てきました。私は逃げることも隠れることもできず、彼に目を向けます。私が話を聞いていたことに気づいたのでしょう。私が何かを言う前に、彼が口を開きました。 「君も優等生を名乗りたいのであれば、自分のトレーナーに重荷となる夢を背負わせるのはやめなさい」 優等生にふさわしくない。トレーナーさんとの別れの可能性……私はその場でしゃがみ込んでしまいそうでした。 心を落ち着けて、笑顔を作り、トレーナー室に入りました。 「ただいま戻りました!保険医さんの診断によると軽度の炎症のようです!リハビリプランをお願いします!」 夕陽の少し差し込む部屋で、トレーナーさんの表情は逆光になって見えません。いつもより覇気のない返事、前回の故障時と同じようなリハビリメニューの提案。 私の笑顔を見て元気を出してください!すぐ治ります!大丈夫です!諦めず頑張りましょう!いろいろな言葉が頭をめぐりますが、口から出た言葉は全く違うものでした。 「私は、トレーナーさんとの契約を破棄して、離れ離れになる気なんてありませんから!」 トレーナーさんの手を掴み強引に引き寄せます。 「トレーナーさんは私をここまで立派に育てて下さいました!学級委員長に十分ふさわしい結果を得たと思っています!でも、自分の夢だけでなくトレーナーさんの夢も叶えてこそ、優等生というものでしょう!トレーナーさんの夢は何ですか!?」 グッと顔を近づけます。一瞬怯むトレーナーさん。 彼は、君の夢を叶えることだ、と言いました。 「それなら、私、今度は世界レベルのスプリンターに向けてバクシンしたいと思います!バクシンバクシン!」 でも……と口に出したトレーナーさんの肩に額を当てました。 「……私、トレーナーさんを苦しめるような夢は追いたくありません。トレーナーさんとずっと一緒に走っていたいんです。……お願いします」 彼の手を抱えるように握りました。自分の手の震えがトレーナーさんの手に伝わってしまうのがわかります。 額を、顔を擦り付けるよう彼の肩に強く押し当てました。顔を見られるが怖い。優等生であろうとして、それを叶えるために専属トレーナーになってもらったのに。ここまで一緒に頑張ってきたのに。それを自分から裏切ろうとしています。 ……失望されるのが、一番怖い。 いつの間にか自分の夢よりも彼の存在が大きくなっているのはわかっていました。それを晒して失望され、距離を置かれるのがたまらなく怖い……。 私の震えを止めるように、トレーナーさんは片手で私を抱き寄せてくれました。ポンポンと背中を叩かれます。体から力が抜けていくのがわかりました。 しっかり休んでから、世界を目指そう。トレーナーさんはそう言ってくれました。その声色に後悔や後ろ髪を引かれる気配はありません。 であれば、私も俯いてなどいられません。相手は世界。今まで以上に慎重に、大胆にバクシンを重ねて行く必要があります。 でも、今は、このままで……。トレーナーさんの腕の中で顔が緩んでいくのを感じながら、彼の心音を聞き続けました。 ●おしおきグラス 自室の椅子に座ってふぅ……と一つ、大きなため息をつきました。今日の出来事から、考えないといけないことが色々とあります。 「エル。自分の専属トレーナーが自分との大切な約束を破ったとき、あなたならどうしますか?」 私の様子を伺っていたのでしょう。妙にビクビクしていた同室のエルが、さらに大きくビクつきました。 「エ、エルのトレーナーさんはエルとの約束を絶対に破らないデース」 「例えば、の話です。例えば、エルの愛用の激辛ソースの中身がトレーナーさんの手ですり替えられていた、とか」 「それは許せまセーン!関節技の刑デス!」 エルは不思議なポーズをしました。たぶん何かのプロレス技なのでしょう。 「体罰。暴力ですね。なるほど」 エルは私の言葉を聞いてビクッと体を引きました。 「グラス、怖いデース……。あと、ウマ娘の力で普通の人に暴力を振るったらとんでもないことになりマース……」 顔が強張っていたでしょうか。いけませんね。大和撫子たるものいつも微笑んでいなくては。 「冗談です。でも体罰……体罰ですか……」 咀嚼するように何度かつぶやいてみました。 数ヶ月前、トレーナーさんと契約をしてから3年が過ぎたある日、私達はお互いの気持ちを打ち明けてめでたく恋仲になることができました。 匂いで意識させるなど散々仕込みを入れた甲斐があった……ではなく、私の純で一途な思いが彼に通じたのだと思います。 それから幾分か逸脱したことはあるものの、基本的に清く正しく隠れて交際を続けられていると自認しています。 来週末に行われる大切なレースで気合いを入れるために、お互い禁欲して挑みましょうと約束し合う、そんな節度ある仲なのです。 それなのに……。昨日トレーナー室に漂っていた匂い……信じられません。 バレないと思ったのでしょうか?この数年間、あなたの匂いばかり嗅いで過ごしてきた私を舐めすぎです。 私だって我慢しているのに……これはとてつもない裏切りです。その場で怒りが噴出するのを必死で抑え、その熱をすべてトレーニングに捧げました。減量も完璧です。自分でも信じられないくらい仕上がっていると思います。 もはや敵はいないでしょう。 そして、その確信の通り、私はレースで大差をつけて勝利することができました。 ウィニングライブを終えて、インタビューを受けて。日が沈みつつある中、二人で学園に帰ってきました。 トレーナー室に戻り、用意しておいた取っておきのキャロットジュースを開けました。祝勝会は明日。今晩は二人だけのささやかなお祝い会です。 「おめでとう、グラス。ここ一週間の追い込み、そして今日のレース……鬼気迫るものがあったよ。最高のレースだった。君のトレーナーであることを誇りに思うよ」 「ありがとうございます。それもトレーナーさんの指導のおかげです」 お互いを褒め合い、しばらくは談笑した後、会話が途切れました。 「トレーナーさん、私、1着を取ることができました。そろそろごほうびをいただいても良いですか?」 「あ、ああ…」 トレーナーさんが顔を少し赤らめて立ち上がり、ゆっくりと手を伸ばしてきました。それをするりとくぐり抜けて、彼の体を掠めるように周囲を回りまました。私の匂いが纏わりつくように。 「おすわり」 「え?」 「おすわりしてください」 私の二回目の言葉が聞こえるよりも早く、トレーナーさんは床に正座していました。我ながら良く仕込んだものです。惚れ惚れします。 背中に回って彼の肩に手を掛け、耳に顔を近づけました。 「先に一人でスッキリされてしまうなんて……気持ちよかったですか?」 トレーナーさんの体が震えました。それを上から押さえつけます。 「しばらくトレーナーさんはおしゃべり禁止です。ごほうびの前に、まずはおしおきから……上を向いて、目をつぶってください」 言うことを聞くように、動かないで、などは言う必要がありません。 身にまとっている布地を一枚脱いで、彼の顔にかぶせました。レース、ライブを通して履いていたものです。自分でも躊躇うくらいの濃厚な匂いを纏っています。 これは流石にキツいでしょうか……いいえ、私が手塩にかけて育てたトレーナーさんです。きっと大丈夫でしょう。……ほら、やっぱり。 「トレーナーさん、すごくお元気ですね。今晩はたっぷり楽しめそうです」 彼の目の前に回って、布地をたくし上げました。 「前を向いて、目を開けてください。……わかりますね?」 布地が顔から落ちた後に目にした光景に対して、彼は何も言うことなく、顎を上げました。 ●発情ネイチャ 朝起きて、自分の体に妙な熱がこもっているのに気づいた。目を開いて見慣れた自室を眺める。周囲のコントラストが上がったように鮮やかに映り、匂いまで視覚的に感じる。 「あー、またこの時期ですか……」 アタシは唸った。いつもの薬を飲んでおかないと。 ウマ娘は周期的に、動物で言う発情に近い状態になる。発情と言っても獣のようなものじゃない。ちょっと感覚が鋭敏になったり、感情の起伏が激しくなったり。体がうまく動かせなくなったり。個人差があって、アタシは……結構重めの方だった。 医学の進歩はすごいもので、症状を抑える薬もある。これも好みの差があって、本気でレースをするウマ娘は飲みたがらない子が多い。心が落ち着きすぎてしまうのだ。 アタシはそのバランスがいつも悩ましくて……トレーナーさんと契約して1着を目指すようになってからは、走りの調子優先で軽めのものを服用するようになっていた。 年齢が上がったからだろうか。あまり効果がないように感じる。ふわふわとした気持ちで座学を受けて、カフェテリアに行くと普段感じない情報量に圧倒される。 「どうしたのネイチャ?ちゃんとお薬飲んでる?」 「飲んでるんだけど、あんまり効いてないかも。もう少しキツいやつ飲めばよかったかな」 トウカイテイオーが心配そうに覗き込んでくる。ウマ娘同士だと、匂いでだいたい分かる。 テイオーの匂いも、よく分かる。いつもなら分からないこと、分かりたくないことまで。 ……なんでこの子、専属トレーナーの匂いをこんなに纏ってるんだろ。もしかして!?変な想像が脳裏をよぎって、顔が赤くなった。 「無理しないほうがいいよー。トレーナーさんに言って休ませてもらったら?」 「そうしようかな」 妙にお腹が減っているけれど我慢して大盛りくらいに抑えたハンバーグ定食を食べながら、アタシはぼんやり答えた。 トレーナー室に入った途端、さらに世界が輝き始めた。部屋にある長椅子に座って雑誌を読んでいるトレーナーさんを中心に視界が渦巻く。お昼ごはんはカレー。らっきょう多め。少しアタシの匂いがする。それから……男性の体臭。……恥ずかしい匂い。 「ネイチャ?今日のトレーニングは15時からだけど……」 「ちょっと、調子が悪くて……」 ダメだ、ここにいちゃいけない。アタシは暴力的な感覚に振り回されつつある中、何とか理性を保って言葉少なに答えた。 トレーナーさんはウマ娘のことをよくわかっている。これだけで通じるだろう。 「あ、ああ。ゆっくり休んで調子を整えて欲しい」 「うん、じゃ……」 退室する際に足がもつれてふらつく。それをトレーナーさんが抱きとめてくれた。 「ネイチャ、大丈夫か?」 「ん……」 胸元の濃厚な匂い。ヤバい。視界がチカチカする。数年前のニュースが脳裏をよぎる。ウマ娘が専属トレーナーに暴力。全治1ヶ月。その被害の内容に何が含まれているのか、学園のウマ娘なら誰でも知ってる。この欲望をぶつけてしまったらアタシも彼も終わってしまう。でもそれを上回る魅力が……。 震える腕をトレーナーさんの背中に回そうとしたところで、視界が真っ赤になって意識が落ちた。 目が覚めると、保健室のベッドの上にいた。まさか!?と思い体を撫で回す。 「起きたかしら?」 引退したウマ娘の保険医さんが声をかけてきた。 「あなた鼻血を出して倒れたのよ。専属トレーナーさんが抱きかかえて連れてきたわ」 お姫様抱っこでね。フフ、と笑いながらその妙齢の保険医さんは微笑んだ。恥ずかしい……。 「体調に合わせて薬は飲みなさいよ。年齢が上がるとキツくなるときもあるから」 保険医さんは薬を枕元に置いた。アタシが普段飲んでいるものよりも2段階ぐらい上のやつ。 「それから、これ。いろいろ理由をつけて脱いでもらったわ。あなたからクリーニングして返してあげて」 手渡されたそれを受け取った途端、視界がきらめく、鼓動が早くなる。 アタシの鼻血のついた、トレーナーさんのシャツだった。 「あ、ここではしないでね。まだ日も高いし、寮に人あんまりいないでしょ。そこでね」 無神経でおせっかいな保険医だ。睨みつけるも人生経験豊富なウマ娘にはかなわない。アタシは薬とシャツを握りしめて、足早に寮に帰った。 ●ゲロ甘トレマク トレーナーさんと一心同体の躍進を続け、念願の天皇賞制覇も果たし。 その後も長距離レースでもメジロの名に恥じない成果を出し……そしてそろそろ引退、卒業の迫るある日。 メジロ家では親族を集めた食事会が開かれました。そこで発表されたのはメジロに属するあるウマ娘の婚約について。恥ずかしそうに、幸せそうに報告する彼女を見て、私も心が暖かくなります。私も、こんな風にあの人と祝福を……。 想像の翼が羽ばたきかける最中、ほんのわずかに視線を感じました。常に感じ続けた、問われるようなプレッシャー。 ……マックイーン、あなたはどうなの?です。私も成長したもので、この圧力すら心地よく感じます。 「マックイーン君は、引退後はどのような予定があるのかね?」 私は自信を持っていくつかの予定やレース関連の仕事について答えました。そして、生来の負けず嫌いからか、つい、勢いでその言葉が出てしまいました。 「……私もお付き合いさせていただいている男性がおります。近いうちにご紹介できるかと思いますわ」 食事会がさらに華やいだものになりました。 「いやー彼女に続いてマックイーン君まで。優秀なウマ娘が続けて婿取りとは、メジロ家も安泰ですな」 その後、お祖母様までも相手がどのような人なのか知りたいなど話が盛り上がりました。 良いタイミングで、メジロ家のウマ娘にふさわしい、めでたい、完璧な報告ができたと思います。 ……彼、トレーナーさんに一切話を通していないことを除いては。 彼との関係を思い返してみました。 メジロ家にふさわしいという点ではOKでしょう。彼にその覚悟がなければ私の輝かしい偉業もありえませんでした。 この間一緒にカラオケに出かけたのはカラオケデートですわ。二人で温泉旅行も行きましたし……そういえばあの言葉はもはや告白です。 少し前にはトレーナーさんのお部屋で一緒にスポーツ観戦もしましたし……あれはラブラブカップルでよくあるおうちデートでしょう。その時聞いた言葉などは間違いなくプロポーズではないでしょうか? ただ、どれも確認はしていませんし、返事もしていません。 「外堀……外堀を埋めて確約を得なければなりません」 私はつぶやきました。 不安になったので先達に相談することにしました。 「なになに?マックイーンがボクに相談なんて珍しいじゃん」 あまり人気のないカフェテリアの片隅、正面に陣取ったトウカイテイオーの左薬指には指輪がキラリと輝いています。 なんと、こともあろうか、この無敵のテイオー様、昨年専属トレーナーと学生結婚を果たしたのです。前代未聞の出来事でしょう。 本人は「ボクは無敵のテイオー様だよ?」で押し切り、理事長も承認ッ!祝福ッ!(?)されたらしいので表立っては誰も何も言えません。 「その……テイオーがトレーナーさんにプロポーズをいただいた経緯を聞いてみたくて……」 何度も耳にしてはいたのですが、大半は聞き流していたのでよく覚えていませんでした。 「えーそんなこと聞きたいのー?恥ずかしいなあー」 その後は怒涛のノロケ話でした。まとめると……。 「あのね、トレーナーの部屋のベッドの上でね、トレーナー、ボクのこと好き?って聞いたらね、好きって答えてくれてね。結婚したい?って聞いたら結婚したいって言ってくれてね。じゃあ今すぐ結婚しようよって言って隠してた結婚届を出したらトレーナーったらものすごく汗かいてね。でもサインしてハンコ押してくれたんだ。トレーナー、ボクのことがめちゃくちゃ好きだからしょうがないよねー」 ……なんでしょうかこれは。全く参考になりません。 散々喋り尽くしたあと、テイオーはニヤッと笑いました。 「マックイーンはさ、トレーナーさんのプロポーズを待ってるの?」 「なっ!」 「攻めなきゃダメだよー。いくらステイヤーって言ってもさ、そろそろ差しにかからないと追いつかないんじゃない?」 こちらを煽ってくる余裕の顔が腹立たしくて仕方がありません。 トレーナー室に向かうと真剣そうにトレーナーさんが資料を読んでいました。 「何の資料ですか?」 問いかけても返事がありません。そっと後ろに回り込むと……来季の選抜レースを受けるウマ娘の資料のようです。どの娘もスラリとした足を出した姿の写真が添付されており、若々しく可愛く見えます。私も負けていないはずですが、それでも敵愾心が生まれてしまいます。 「若い子ばっかり見てますわね」 「うおっ!驚かさないでくれよ……選抜レースに出る子達だからもちろん若いよ。……来年はマックイーンもいないし、新しく担当を持たないと……」 私はいなくなり、新しい娘が入る。当たり前のこととわかっていますが、心に荒波が立つのを抑えられません。 「この子とかどうでしょう?良い足をしてますわ」 彼の肩に顎を載せて資料を覗き込み、あえて自分と正反対の娘を選んでみました。 「スプリンターか……マックイーンでの実績からステイヤーの育成を期待されてるんだよなあ」 もちろん新しい挑戦もしてみたいけど、とトレーナーさんは笑いました。……この人は、私の気持ちをわかっているのでしょうか。私があなたと離れるのがどれほど寂しいのか……あなたは同じ想いじゃないのですか? 恨み口が零れそうになります。こんなことしている場合ありませんのに。攻めなきゃ、というテイオーの顔が頭をよぎりました。震えそうになる口から決意の言葉を出そうと思った途端、彼が振り向きました。 「新しいウマ娘を立派に育てて、誰からも文句の言われないような、メジロの名にふさわしいトレーナーになったら……結婚して欲しい。マックイーン」 あまりの衝撃で言いたいこと、考えていたことをすべて忘れてしまいました。 嬉しい……涙が溢れます。私ははいと返事をしようとして……。 気づきました。 これからスカウトするウマ娘が立派になるまで最低3年はかかるでしょう。それまで私を待たせるつもりでしょうか。 緊張と期待を目に浮かべながら、私を見つめてくるトレーナーさん。この人は、いつもどこか少し抜けているのです。 ……まさかテイオーを倣うことになろうとは……私は彼の手をギュッと胸元で握りました。常人なら痛みが出る程度に。 「ダメです」 「いててっ……えっ?」 「今、結婚して欲しいと言ってください」 ●攻めハヤヒデ 「ラスト3本!」 小雨の中、カッパを来たトレーナー君が声を上げる。私はそれを聞いて再び走り始めた。 季節は梅雨。午後から雨が降り始めるのも想定通りだ。ウマ娘のレースは天候に関係なく行われる。良バ場、悪バ場関係なく力を発揮できるようにならないといけない。 今日は悪バ場を想定したトレーニングにちょうどよい機会だった。 「少し体を綺麗にしてくる。30分後にトレーナー室で振り返りのミーティングをしよう」 トレーニング後、ぐっしょりと濡れたジャージのまま学園の更衣室へ急ぐ。寮に戻る時間は惜しい。 同じように悪バ場のトレーニングをしていたウマ娘で混んでいる更衣室の空きを見つけ、着替える。本当はシャワーも浴びたいが、混み合いすぎてて使えそうにない。髪の毛をセットする時間も足りない。 毛髪量の事もあってか、誰かに言われたわけでもないが、私は他のウマ娘より体臭が濃いのではないか……と自認していた。 トレーナー君の前で、匂いを振りまくわけにはいかない。彼の前ではできるだけ綺麗でいたかった。もしも臭いなどと思われたら……などと考えるのも嫌だった。 着替えの入った鞄から制汗シート、制汗スプレーを出そうとして、両方とも空なことに気づいた。まさか、こんな手落ちがあるとは。予想外だ。 予備は寮にあるが、今から取りに行くには時間が足りない。自分から約束しておいてそれを破るなど言語道断。仕方がないのでハンドタオルで体を拭くだけ拭いて、更衣室を出た。 「姉貴。……更衣室は混んでそうだな」 トレーニングが終わったのだろう。私と同じようにずぶ濡れになった妹がちょうどやってきた。 「ブライアン。ちょっと、こっちに来てくれ」 廊下の隅の方へ向かう。 「……私、臭くないか?」 怪訝そうに私を見る妹。しばらくして、ニヤッと笑った。 「全然。姉貴はいい匂いだよ。きっとトレーナーも気にしないはずさ」 「なっ!トレーナー君は関係ないだろ!」 妹はニヤニヤ笑いながら更衣室に消えていった。 トレーナー室に入ると、濃い彼の匂いを感じた。 蒸し暑い中、雨具を着ていた彼は少し体を拭いたくらいらしい。全く。ウマ娘の鋭敏な嗅覚のことも考えてほしいものだ。 トレーナー君の匂いに落ち着かない気持ちのまま、プリントを広げている彼の前に座った。 「さて、今日のトレーニングの振り返りだが……」 話し始めてトレーナー君の顔を伺うと、どういうわけか、彼は呆けたような顔をしていた。 「?……トレーナー君、聞いているのか?」 「……いい匂いだ」 彼は零すように呟いた。その瞬間、お互いの顔が赤くなる。 「ご、ごめん!なに言ってるんだ俺!」 「っ!!……気をつけろ!セクハラだぞ!」 「本当にごめん!」 その後は少し距離をとってミーティングを続けたが、お互い全く的を得ない話が続いてグダグダになって終わった。 ……全く、最悪のミーティングだった。寮に帰ってシャワーを浴びながら振り返る。 今後はこんなことがないように常に鞄には制汗グッズの予備を入れておいて……と決めると同時に、あのときの彼の顔と言葉が浮かんでくる。 『いい匂いだ』 私が?いい匂い? 匂いの一因になっているだろう、毛髪量の多いくせ毛をしっかりとドライヤーで乾かしていく。鏡の前に置いていた制汗スプレーの予備を、私は衝動的にゴミ箱に捨てていた。 ……そうだ。トレーナー君が不快感を覚えていないのであれば、彼を匂いに慣らしてしまうほうが合理的ではないか?そうに決まっている。 普段彼の匂いでドギマギしている私なのだ。たまには彼が困るのも悪くないだろう。 明日も再び雨。私は顔に、自分でも気づかない微笑みを浮かべていた。 ●後輩当て馬ネイチャ トレーナーさんのスカウトを受けてから3年とちょっとが過ぎた。 アタシは彼の指導のおかげでいくつか勝利をあげたけど……結局、最後の大舞台前に怪我をしてしまった。 全治2ヶ月、完全復帰には半年弱。 もうこのまま引退、卒業かなという空気を周囲が、そしてアタシ自身も漂わせつつある中、トレーナーさんはまだ諦めていないようだった。 毎日アタシの足の調子を見て、リハビリメニューを考えている。真面目な人だ。 そんな彼を茶化すこともできず、結局アタシはウマ娘の花道となる引退レースで優勝を目指すことにした。 トレーナーさんはアタシを担当した成果が認められたのか、学園の勧めでもう一人ウマ娘をスカウトした。今やチーム持ちのトレーナーだ。 怪我した脚に負担をかけないマシントレーニングを終えたあと、チームの洗濯物の詰まった洗濯かごを持ち上げる。脚の痛みはもうほとんどない。 洗濯物を干したあとは飲み物を用意してトレーニング用のトラックへ向かう。 我ながら所帯じみた所作だと思う。クラスメイトから「奥さんみたい」と言われたこともあったり。誰の?誰のかな……えへへ。 トラックの中では後輩がのびのびと走っていた。少しフォームが崩れ気味だけれど、それでも綺麗だ、と思う。才能の煌めきがアタシでもわかる。さすがトレーナーさんがスカウトしただけある。 「太ももが下がってきてるぞ!もっと腕を振れ!」 トレーナーさんの声が響く。この瞬間、彼の視線を、声を、指導を独占している彼女が羨ましい。可能なら今すぐ走って、彼の視線を奪いたい。 脚が疼く。こんなに走りたいと思ったのは久しぶりだった。 軽く小走りをして、彼に近づいていく。よし、問題なし。 もう少しペースを上げても……。 「ネイチャ!走るな!」 後輩から奪い取った視線は厳しく、得られたのは怒声だった。しっぽがピンと立ち、その場で立ちすくんでしまう。 駆け寄ってきたトレーナーさんは問答無用でアタシのジャージをズボンをまくり上げ、治りつつある脚をペタペタと触った。 「骨や腱が正常に癒着し終えた今の時期が一番大切なんだよ。無駄な負荷はかけないように」 「ごめん……」 なんでアタシはいつもこうなんだろうか。一番になりたいのに、三番以下の迂闊な言動ばかりで。情けなさで涙が出そうになるけれど、ここで泣いたらみっともなさすぎる。 「も、もう結構回復してきたと思ったからさ〜、ネイチャさん、ちょっと試してみたくなって……その、ごめんなさい」 顔をそらして早口で弁解した。 それにしてもトレーナーさん、足触りすぎ。叱られて心配されている最中なのに、ゾクゾクしてしまう。 そんなアタシ達を、立ち止まった後輩が遠くから眺めているのが見えた。 叱られた上、後輩のトレーニングを邪魔してしまった。沈んだ気持ちを抱えながらトボトボと寮に帰るところで後輩に呼び止められる。 「ネイチャ先輩。トレーナーさんが呼んでました。トレーナー室で待ってるそうです」 「?……わかった。ありがとう」 いつも真面目にハキハキとしゃべる彼女が、何かを躊躇っている。 「どうかしたの?」 「あの……私、トレーナーさんのこと……」 えっ、ちょっと待って!?そういうのナシじゃないの!?まだスカウト受けて1年も経ってないのに……焦りで視界が歪みだす前に、彼女が言葉を続けた。 「トレーナーさんのこと、トレーナーとして尊敬していますけど、男性としては魅力を感じてませんから」 普段から恋バナとかしない子が、そっぽを向きながら言い切った。 「私は、私を一番に見てくれる人が良いなって思います。……失礼します!」 彼女は走り去ってしまった。 真面目な後輩にまで気を使われてしまった。恥ずかしすぎる。アタシの気持ちが彼女にバレてるのは薄々気づいていたけれど、面と向かって言われるとは……このまま消えてしまいたい。 その上これからトレーナーさんに何か小言を言われるんだろう。気が重い。 トレーナー室に入ると開口一番、トレーナーさんはさっき大きな声を出したことを謝ってくれた。 「……もしかして、俺がネイチャを焦らせてるかな?今更かもしれないけれど、引退レース……負担だったか?」 最初は気乗りしなかったけれど、今はそんなことない。早く脚を治して走りたい。トレーナーさんに、アタシはまだ一着を取れるってところを、見せてあげたい。……まだアタシのトレーナーだって、みんなに見せつけたい。 「トレーナーさん。アタシ、また一着になりたい」 彼はうなずいた。これからもトレーナーさんの一着でいたい。そんな恥ずかしいことはとても言えなかったけど、気持ちの欠片は伝わったのかもしれない。トレーナーさんは私の手を握ってくれた。そして優しく励ましてくれる。 最近、スキンシップが増えたような……ドキドキするからあんまり触らないで欲しい。嘘だ。もっと触れてほしい。 彼の手が髪の毛まで伸びる。あ、ダメ……。 廊下から足首が聞こえてきたので、アタシはすぐ体を引いた。彼が名残惜しい顔を見せる。 「失礼します」 後輩が入ってきた。忘れ物か何かを取りに来たらしい。 彼女はアタシ達をジッと見つめたあと、意地悪く微笑んだ。 「ネイチャ先輩の体に悪いことは、しちゃダメですよ」 二人して絶句した。この子、想像以上の逸材なのかもしれない……。トレーナーさん、見る目ありすぎない? 次のレースまで、ゴールを迎えるまで、気の抜けない日々が待っている予感がした。 ●逆ぴょいミホノブルボン こんばんわ、マスター。ミホノブルボンが0時15分をお知らせします。 マスターの挙動からバッドステータス『混乱』を確認。原因をスキャン中……。不審な点は見当たりませんでした。 ブルボンセキュリティシステムは今日も完璧です。異常検出率は驚異の175%を記録しています。 なぜまたトレーナーさんの部屋にいるのか、ですか?それは先日の『うまぴょい』後、私のパフォーマンスの向上が認められたためです。あの時確認されたステータス『興奮』『快感』は非常に良いものでした。従って今晩もよろしくお願いします。 なぜ逃げようとするのですか。落ち着いて下さい。この間のように強引な『逆ぴょい』はしたくありません。先日首筋に噛み付いて作った傷については謝罪したいと思います。 しかしあれは他のウマ娘に対する効果的なマーキングであることもご理解ください。 騒音などについてはご安心下さい。警備はすでに風紀委員会の手によって買収済みだそうです。……風紀委員会がおかしい、ですか? データベースからトレセン学園風紀委員会について検索……『学園所属のウマ娘の情動を学園外に及ぼさないことを第一目的とする。そのためには学園関係者に対する多少の人権侵害も許容する』とあります。 おかしいところは何もありません。 マスターのステータスの『鎮静』『諦観』への移行を確認。ご協力感謝します。 シャワーは不要です。重要なエッセンスである『臭気』パラメータが減少してしまいます。 ……それは何でしょうか。薄さ0.01mmのゴム被膜であることを確認。 オーダー『不退転』を実行します。 (ビリィ!) このような逃げ腰な『うまぴょい』などありえません。最高のパフォーマンスを得るためには隙間なく一心同体となる必要があります。 ……マスターからの激しい抵抗を確認。そういうことはせめて手順を踏んで、ですか。なるほど。仕方がありません。オーダー『生ぴょい』を『ゴムぴょい』にダウングレード。 しかしアップグレードからは逃れられないことをお忘れなく。 それでは、今晩もよろしくお願いします。 ●リハビリトレーナーバクシンオー バクシンに次ぐバクシン。 トレーナーさんの指導の通りに短距離レースに出続けた私は、短距離において無敵のウマ娘となりました。 しかし、あれ、もしや、これは……と思いつつも充実した数年を過ごし。その後次世代のスプリンターに連敗したとき、私は引退を決意しました。 自分で言うのも何ですが私のような尋常でない記録を持つウマ娘は引退後、講演会や解説などで引っ張りだこのはずなのですが……。 関係者一同から「バクシンオーさんの解説は、その、個性的で……」とゴニョゴニョ言われてしまい、あまり仕事がありません。 進路に悩んだ私はトレーナーさんに相談。「バクシンオーは笑顔が魅力的で見ていると元気が出るから、人を励ます仕事が良いんじゃないか?」と顔が赤くなるようなアドバイスを頂いて。 私はウマ娘専門のリハビリトレーナーになることにしました。 トレセン学園の関連専門学校に数年通い、知恵熱を出しながら資格を得て。 ようやくトレセン学園での勤務が始まりました。トレーナーさんが今や先輩であり同僚なのは、自分が成長した気持ちになれます。 トレーナーから依頼を受けたり、トレーナーのいない故障したウマ娘にリハビリメニューを組んだり、手助けをしたり。そんな日々を過ごすにつれてこの業界の残酷さと厳しさを思い知らされます。 もはやウマ娘の故障は当たり前のようなものです。現役時代は気にしていませんでしたが、面倒を見るようになるとその異常さを実感します。 怪我で回復せずに引退、学園を去るウマ娘も珍しくありません。 それと同時に私がどれだけトレーナーさんに大切にされていたのか、わかりました。 彼は今や気鋭のチーム持ちトレーナーです。長所を伸ばすのが得意と有名で、チームには個性の強い特化したウマ娘ばかりが所属しています。 そして、彼のチームからウマ娘を預かることはほとんどありません。故障するウマ娘が少ないのです。 稀に来るウマ娘はぶつくさと「長距離を走りたいのに中距離にしか出してくれない」とこぼしていましたが、何かうまく褒められて結局中距離ばかり走っているそうです。私の頃と変わっていません。 昔、ごく短期間だけ長距離のためのトレーニングをこなしたことがあります。 その時見たトレーナーさんの苦悩に満ちた顔、その本当の理由が、今になって分かります。 あのまま私が長距離に向けてバクシンしていたら、どうなってたのか……。 「はい!足を大きく上げて!バクシン!バクシン!」 自分の領分ではない荒野へ踏み出し、壊れ、痛みに堪えてリハビリをこなす後輩たちを笑顔で励ますのも、時には疲れを感じます。 「トレーナーさん!トレーナーさん!こっちです!トレーナーさーん!」 混雑した居酒屋で、大きな声で彼を呼びます。トレーナーだけど、もう君のトレーナーじゃないよと苦笑しながら彼が席に来ました。 疲れたときはこうやって彼とお酒を飲みます。私も大人になったものです。 「トレーナーさんは何を頼まれますか!?ビールですか?ビールですね!バクシン的駆けつけ三杯ですね!店員さん!店員さーん!こっちにビール三杯とタコワサと枝豆と焼き鳥盛り合わせと刺身盛り合わせを!バクシンバクシン!」 彼にペースが早いと止められつつ、担当するウマ娘の話をしながら、私はあっという間に酔いつぶれてしまいます。お酒に弱いのです。 トレーナーさんにおんぶされて、学園のトレーナー寮に帰ります。 思春期の頃から嗅ぎ慣れた彼の匂いはとても落ち着きます。そして以前よりもドキドキします。 「トレーナーさん。私が学級委員長にふさわしいウマ娘になれなかった責任を取ってください……」 朦朧とした頭のまま、彼の耳元でささやきます。彼が体を強張らせるのがわかります。その拍子に落とされないように、ギュッと抱きつきます。 「……私を、大切にしてくださって、ありがとうございます……」 それを聞いて、彼は力を緩めました。 責任なら、取るよ。必ず。 その返事を聞いて私は安心して目を閉じました。 ●マタニティーブルーネイチャ その日は朝から調子が悪かった。 妙に熱っぽかったり、食欲がなかったり。 でもそれほどひどいものじゃないし〜と思って商店街のスーパーでレジのパートをしている最中。 「んっ……」 急な吐き気。アタシはレジから慌てて離れてトイレに向かい、吐いた。 「……当たりだ……」 学園の卒業、レースウマ娘の引退から3年。 彼、トレーナーさんとの入籍から2年後のことだった。 パートは早退し、夕方に依頼されていた学園内レースの解説については急遽代理をお願いした。 アパートに戻り、干したままの洗濯物を取り入れぬまま、ソファに寝転んで鬱々と過ごす。 彼にどう報告しようか……彼は絶対に喜んでくれる。それはわかる。 私自身はどうだろう。嬉しい……よりも不安が先立つ。 吉事なのに、素直に喜べない自分が嫌だった。母親になる資格がないと言われているようで。 こんなアタシで大丈夫なのかな……。 目が覚めるとすでにトレーナーさんが帰ってて来ていて、サラダを盛り付けていた。 「あ……ごめん、アタシ、寝ちゃってて……」 いいよいいよと言いながら夕食の準備をするトレーナーさん。彼の優しさは卒業してからも変わりがない。 少し前みたいに、そっと背中に抱きついて彼の匂いをいっぱい嗅ぎたかった。 でも、今はそれができない。 今まで好きだった彼の匂いに抵抗感があった。言葉にしたくないけれど……気持ち悪い。 匂いに敏感なウマ娘だと珍しくないことだと聞いたことがある。 望んでいたはずなのに、お腹の中の子供が彼とアタシの間を引き裂こうとしているようで、それが凶事の前触れのようで……怖い。 結局アタシは彼に言えないまま、数日が過ぎた。味覚が変わり、食欲がなく、えずき、トレーナーさんと同じベッドに入るのが苦痛な日々が続き……とうとう私はパート先で倒れてしまった。 商店街の人達が大げさに驚いて、ウマ娘のことならトレセン学園!ということなのか、私は学園の保健室に運び込まれてしまった。……なんで? 「お久しぶりです。ネイチャさん、ご自身の体のことはご存知ですか?」 保健医さんの言葉にアタシは頷いた。 話を聞いたトレーナーさんが保健室に駆け込んでくる。何人もの若いウマ娘の匂いを漂わせて。 保健室の外には心配そうに、そして興味を隠せない顔で何人かウマ娘が覗き込もうとする。彼のチーム所属のウマ娘達だ。私も顔を合わせたことがある。 中には重賞レースで連勝するような優秀なウマ娘もいたり……。 アタシの中で何がぷつりとキレた。 「アタシが!どんな気持ちで!お腹に赤ちゃんを!」 かつてないほどの声量で、支離滅裂で八つ当たりな罵詈雑言を彼に浴びせた。 呆然としている彼を枕で殴りつける。保健医さんが止めようとして諦めたのか、ドア外にいる子達を引き連れて出ていったのが視界の隅に写った気がした。 「責任取って!責任取ってよ!」 もう十分取ってもらってるのに、アタシは子供みたいに泣き喚いた。 トレーナーさんはただただ謝り倒していた。 それから数日して、つわりはパタッと終わった。それと同時に彼の匂いも気にならなくなった。 食欲が止まらない。現役時代を超える勢いでご飯がすすむ。 「おかわりが欲しいかな〜」 「……もう炊飯器が空だよ。もう一度炊かないと……」 「じゃあカワイイカワイイあなたのお嫁さんのために、何か作ってくださいな」 あれ以来アタシは自分でも驚くほど図太くなった気がする。 トレーナーさんは母は強しと苦笑しながら、エプロンを身につける。 きっと大丈夫。アタシは自分を、そしてこの子を安心させるように、ほんの少し膨らんだお腹を撫でた。 ●イヤーキャップ外しサイレンススズカ 夕日が窓に差し込む時間、トレーニング後の後片付けやおしゃべりなどで騒がしい校舎を足早に抜けて。 クールダウン直後の火照った体のまま、トレーナー室を目指します。 部屋の前についたら一呼吸置いて。私はイヤーキャップを外しました。 ウマ娘の聴覚は一般の人よりも高音域で優れていて、敏感です。そのため、雑音の多いところなどは苦痛を感じることがあります。 それを抑えるのがイヤーキャップです。 成長すると慣れて大丈夫になるウマ娘がほとんどですが……中には神経質ゆえにずっと愛用している子もいます。 私は昔から混雑したところが嫌いで、意識を集中させるために自室以外ではほとんどイヤーキャップを外すことがありませんでした。 一瞬の喧騒に包まれた後、トレーナー室に入ります。トレーナー室は防音が優れているのか、外からの音はあまり聞こえません。もしかすると、他チームからの偵察対策などもあるのでしょうか。 これからトレーニング後の振り返りミーティングです。先に戻っていたトレーナーさんが今日のタイムや直近でのパフォーマンスの変化などをまとめた資料を手に話を始めました。 彼の声がいつもより大きく響きます。心地良いです。 トレーナーさんの側で常に指導を受けて、もう3年も経ちました。 プライベートでも何度かお出かけしたこともあるので、彼の声色、そこに含まれる意味は概ね分かります。 ……これはオーバーワークに関する不安、心配。でもまだ軽め。これは、期待。ちょっと高め。そして少しけしかける気持ち。良いでしょう。逃げたりなんかしません。 音声、匂い、視線、振る舞い……トレーナーさんの発する情報すべてを逃さないように集中します。走っている時に次いで好きな時間です。 「ラップタイムを見せてもらってもいいですか?」 トレーナーさんが差し出してきたプリントを受け取る時、うっかりを装って彼の手に触れます。 一瞬の発汗。あとに続く説明の声にはわずかな乱れ。……最近はこういうことも、楽しみになってきました。悪いことでしょうか? プリントに記載されている数字の説明を受けつつ、覗き込んできたトレーナーさんの鼻先をかすめるように、耳を動かしてみます。 彼の呼吸が乱れるのがはっきりと分かりました。呼気が私の耳にあたります。あっ……これは……すごく良いかもしれません。ちょっと平静を失いそうになりました。 レース同様にこのままスピードを上げて、見たことのない景色を見に行ってしまいそうです。 でも、まだ我慢です。私の彼に対する気持ち、その自分なりの走り方はまだ見えていません。 あと少しで輪郭を掴めそうな気配があります。ですから、その時を待っていてくださいね。 再び声に乱れの走ったトレーナーさんを見て、私は微笑みを浮かべました。 ●引退ライス ライスがお兄さまとトレーナー契約をしてから、もう3年以上経ちました。 最近はどれだけがんばってもあまり勝てなくなってしまって……そろそろ引退、卒業を考える時期です。 最後まで頑張って指導してもらったお兄さまに申し訳ないです。 これからは、卒業後の進路を考えなきゃいけません。がんばれライス、がんばれー……。 ライスも最後の方はファンがいっぱい増えて、みんなを幸せにできる、祝福されるウマ娘になれました。 でも、同年代のテイオーさんやマックイーンさんみたいなすごいウマ娘にはなれませんでした。 彼女たちみたいなキラキラしたウマ娘なら引退後もレースに関わるお仕事もあるそうです。それはライスには難しそうです。 本当はお兄さまにいっぱい相談したいです。 でも……お兄さまはライスをレースウマ娘として最後までしっかり育ててくれました。その上さらに将来の相談までするのは違うかなって、ライスは思っています。 最近、お兄さまは選抜レースのことを良く調べています。次に担当するウマ娘を探しているみたいです。それを見るたびに、胸がキューって締め付けられるように痛くなります。 お兄さまとの別れが近づいていること、もう、ライスのお兄さまじゃなくなってしまうこと……それを考えると、すごく、すごく寂しくて悲しいです。 「ブルボンさんは、どうされるおつもりなんですか?」 カフェテリアで会ったミホノブルボンさんは、ライスと同じ頃に引退する予定です。彼女とご飯を食べながら、進路を聞いてみました。 ブルボンさんは少し沈黙した後、ご自身の立派な胸元に手を伸ばして、制服の中から目立たないネックレスを引っ張り出しました。その先には指輪が通されています。 それを手のひらに乗せて、幸せそうな笑みを浮かべました。 「先日、マスターにプロポーズされました。マスターと結婚してから考えようと思っています」 「えっ!お、おめでとうございます」 「ありがとうございます」 ふいに、「いいなあ、ライスも……」という言葉が出てしまいました。ライス、何を言ってるんでしょうか。その気持はずっと内緒にするつもりでした。 「ライスシャワーさんも、ご自身のトレーナーさんがお好きなんですか?」 「えっ、その、ライスは……ライスのトレーナーさんは、お兄さまだから……」 しどろもどろな言葉しか出てきません。 「私も、最近まで自分の気持ちがわかりませんでした。何をすれば良いのかもわかりませんでした。でも、自身を正確に把握して、対策を考えて行動に移せば自ずと道は開けます」 その後、ブルボンさんは自分が参考にしたという本を紹介してくれました。 「ライス、引退レースの件だけど……ライス?」 「あっ、うん。ライス、聞いてたよ?」 ブルボンさんが教えてくれた本を深夜まで読んでいたせいで、寝不足になっちゃいました。 でも、ブルボンさんがあんな……その……エッチな本を読むなんて……しかも参考にしたなんて……ブルボンさんを見る目が変わってしまいそうです。 お兄さまは苦笑して、もう一度説明してくれました。それからしばらくして……その質問がありました。 「ライスは、引退後はどうするつもりなんだ?」 「……ライスは……」 お兄さまと一緒にいたい。まだまだ、ずっと一緒にいたい。そう言いたかったです。 でも、そんなお兄さまを困らせるようなことは言えません。 ライスはもうだめな子じゃないです。お兄さまのおかげでそれは卒業できました。次は、お兄さまの迷惑にならないように、お兄さまから卒業しないと……。 「実は、ライスが引退した後、チームを作ろうと思っているんだ。そこで、ライス……もし興味があるならチームのサポートトレーナーをやってみないか?」 お兄さまの話によると、引退直後のレースウマ娘がチームの指導のサポートをしたりするお仕事があるみたいです。そのトレーナーの指導方針がよくわかっている元担当ウマ娘がなることもあるようです。 「珍しいことじゃないんだよ。まあ、そんなによくあることじゃないけど……」 お兄さまは恥ずかしそうに言いました。きっとライスのために、いろいろ調べてくれたんだと思います。 涙が出てきました。ライス、だめな子を卒業したのに……違う意味で、だめな子になっちゃいそうです。お兄さまにダメにされちゃいそうです。 泣く私の前でオロオロとするお兄さまに、勢いよく抱きつきました。 「ぐっ……」 勢いがつきすぎていたのか、お兄さまが苦しそうな声を上げました。でも、構いません。 「ライス、嬉しい!そのお仕事やってみたい!」 「そ、そうか……俺もライスと一緒に仕事ができて嬉しいよ」 お兄さまが頭を撫でてくれます。ライスはお兄さまの胸に顔を押し当てて、溢れ出る涙を吸い取ってもらって。匂いをたっぷり吸い込みました。 自分の、ブルボンさんみたいに立派じゃない胸を精一杯押し付けます。 ……だめな子じゃなくなったのに……お兄さまが、またライスをダメにするんだよ?その責任は、取ってもらおうかな……。 ライスの中で小さな悪魔が目覚めた瞬間でした。 ●ツインターボギャンブル 「ある種、才能のあるウマ娘なんだ。もし可能なら、お前のほうで目をかけてやってくれないか?」 地方でのトレーナー時代に世話になった先輩トレーナーからの頼みだった。 その時はそこそこ前向きな気持だった。やや古臭いものの骨太なトレーニング理論と、それに則したウマ娘とのコミュニーケーションの取り方。彼からはトレーナーとして大切なことを教わった。 先輩の担当するウマ娘は地方で大活躍とまではいかないものの、しっかりと成績を残した。そしてどのウマ娘もレース引退後、立ち止まることなく社会に出ていった。 「レースが終わっても人生は続く。そこまで考えてやるのが一流トレーナー」というのが先輩の口癖だった。 それに、彼の目にかなったウマ娘なのだ。加えてここは中央、トレセン学園。生半可なウマ娘は入学すらかなわない。ここに来れるだけでもレースウマ娘のエリートの卵とも言える。 ……ある意味、残酷なことに。 なんだ、あれは。 選抜レースでの彼女の走りっぷりを見てそう思った。場内がどよめく先行っぷり。 まさか、天性の逃げウマ娘なのか?と心を踊らせてしばらくした後の、場内のため息が重なる大失速。結果は9着。 ペース配分のペの時も、レース戦略のレの時も全く感じられない走りっぷり。子供なのか? 「ターボね、ツインターボって言うの!すっごい早いウマ娘になるから!」 子供だった。彼女は負けて悔しそうにしながらも、トレーナーが話しかけてきたことが嬉しかったらしい。すぐ切り替えて笑いながら自分を紹介した。 「トレーナーは、ターボをスカウトしに来たんでしょ!?」 流石に個性的すぎる走りとその結果を見たせいか、彼女に声をかけるトレーナーは自分を除いて誰もいなかった。そして、自分も、少し話がしたかっただけだ。 「いや、その……」 「ターボの走りがわかるなんて、やっぱりトレセン学園のトレーナーはすごいな!ターボ、スカウト受けてもいいよ!」 キラキラした目で自分を見つめてくる彼女に、返す言葉を失った。 自分が前に受け持ったウマ娘のことを思い出す。結局彼女は怪我から復帰できず、引退してしまった。その前はGUで2勝。その前は……。 トレセン学園はウマ娘の競争も熾烈だが、トレーナーの競争も熾烈だ。結果が出ないとすぐクビになる。だから有望なウマ娘にはスカウトが集中する。 「……君の走りは面白いよ。心が踊った。でも、契約はもう少し君のことを知ってからでいいかな?」 「えぇ〜〜……ターボすぐデビューしたいのに……」 目をウルッとさせて耳としっぽがしなだれる。可哀想だけれど、こちらも人生を掛けているのだ。甘い算段で物事をすすめるわけにはいかない。 「トレーナー契約はできないけれど、週に何回か、調子とトレーニングメニューを見てあげるよ。そして次の選抜レースの結果を楽しみにしている」 「わかった!ターボ、やるから!大噴射するから!」 変わった歌を歌いながら、彼女は走り去っていった。 「先輩……あんなウマ娘、どうしろって言うんですか……」 思わず独り言がこぼれた。 他の有望なウマ娘の調査と並行して、ツインターボの面倒を少し見る。 我慢の効かない先行型。たまに本人曰く「噴射」が出ると凄まじいスピードが出る。しかしどうやっても最後まで保たない。歩幅が小さく、最高速が伸びにくい。 小さな体はスタミナをつければ有利そうだけど、どうにもそれがあまり伸びる気配がない。軽いせいか、妙に頑丈。 総じて、癖が強すぎる。しかし、その爆発的なスタートダッシュは人を魅了させるものがあった。 気づいたら、「どうやってツインターボを勝たせるか?」ということで頭がいっぱいになっていた。 ……不味い。このままでは彼女と心中する羽目になる。 「来週の選抜レース、ターボ絶対勝つから!見ててよね!」 「選抜レースは再来週だよ」 「えぇ〜……そうだっけ?」 先輩の言葉が頭をよぎる。この子を最後まで幸せにできる指導ができるのか?至難の業だろう。 いっそのこと、この走りの魅力だけでこの子をデビューさせるか。 ウマ娘の中には、レースの成績が振るわなくても、ファンが多くて人気を維持し続けている子もいる。一部のウマ娘やトレーナーから白眼視される存在だ。かく言う自分も、それをあまり快く思っていない。 しかし、そういったウマ娘がトゥインクルシリーズの一部を支えているのも事実だ。 人気重視の出走と、育成方針……。 「トレーナー!ターボの話聞いてる!?次は絶対に噴射するからね!」 まだ君のトレーナーじゃないよと答えながら、結論を探し続けた。 選抜レース。ツインターボは5バ身差で大勝した。 噴射が成功したらしい。そして、人気の高いウマ娘がみな牽制し合った結果だった。 「ターボ勝ったよ!これからよろしく!トレーナー!」 有無を言わせぬニコニコ顔で報告してくる彼女。これを断れるほど、自分の心は強くない。 牽制し合うウマ娘の出そうなレースを選んで、魅力ある走りを見せつける……想像以上に困難で、トレーナーにとって戦略的で……面白いかもしれない。 構図がうまくハマればとんでもなく愉快なことになるだろう。その先に何が待っているのかなんて……知るものか。 気づいたら、俺は彼女と握手をしていた。 「よろしく。ツインターボ。これから一緒に、最高に面白いレースをしよう」 彼女は特徴的なギザギザの歯を見せながら快活に笑った。 ●ダスカブラ 朝起きて、パジャマから制服に着替える。 下着もナイトブラから、普通のブラジャーに着替えるのだけれど……。 「ぐっ……キツい、わね」 またブラジャーがキツくなってしまった。お気に入りのやつだったのに。半年で着れなくなってしまうなんて、普通あるの? ここ1ヶ月ほどごまかしごまかし使ってきたけど、そろそろ窮屈で苦しくて、走りにも影響が出てきている。 仕方がない。一応買っておいた体格の大きいウマ娘用のスポーツブラを手にした。色はグレー。地味でおしゃれじゃなくて、全然好みじゃない。カッコ悪い。 トレーニング中はジャージだし、汗で下着が透けたりチラ見えしてしまうことだってある。そんなところを見られて、トレーナーに「ダサいの着てるな」とか絶対に思われたくない。……そもそも見てくること自体がダメだけど。 何でもベストを、1番を目指す。それがアタシだ。 結局アタシは窮屈なお気に入りのブラジャーを身につけた。 「スカーレット!そこからスパート!全力出して!!」 トレーニングコースでトレーナーの声が響く。普段は自信なさそうな声色なのに、トレーニング中の声は真剣、手抜きのない本気だ。 いつもそうなら、その、もっとカッコいいかもしれない。でも、それがトレーナーの良いところかも。 彼の声を聞いて姿勢を低く、足の回転を早める。腕の振りも大きくして……上半身が辛い。ブラ紐が肩を、脇下をキツく締め上げる。 これ、絶対跡が残りそう、痣になるんじゃ……でも、そんな心配を振り払ってペースを上げる。 その瞬間、パチンと小さな音が聞こえた。一気に上半身が自由になる。 あっ……。 アタシはゆっくりと足を止めた。 「スカーレット!どうかしたか!?」 トレーナーが心配して駆け寄ってくる。私は胸を抱え込んだ。 「……何でもない」 「急に止まったのに何でもないわけが……」 「何でもないったら!今日は調子が悪いから早退する!」 胸を抱えたまま、顔を見られないようにうつむいて寮に走った。 情けない。本当に情けない。下着のことなんか気にして、トレーニングを二の次にして。馬鹿みたいだ。 1番に考えるところを間違えてる。こんなので本当の1番になれるわけがない。 涙が浮かびそうになるのをグッと堪えて、自分の部屋に戻った。案の定ブラジャーの金具はへし折れていた。上半身にはうっ血したブラ紐の痕。 ブラを脱いで、ゴミ箱に投げ入れて。そのままベッドに仰向けになってしまった。 しばらくして、机の上に置いておいたスマホから通知音が響いた。 メッセージアプリには、トレーナーからの少し長めの心配の言葉が並んでいた。 うっかり既読をつけてしまったけれど……返信せずに放置した。恥ずかしくて、自分がカッコ悪すぎて、何を書けばいいのかわからなかった。 「ふぃ〜今日もつっかれた〜……って、ビビらせんなよ!」 暗くなった中明かりもつけずにベッドに寝転がってたアタシを見て、帰ってきたウオッカが声を上げた。 「……珍しいじゃん、俺より早いなんて。どっか痛めたのか?」 アタシは答えずに寝たふりを続けた。それがバレることも、バレてることもお互いわかっている。 「なんだよ!俺がせっかく心配してやったのにさぁ!……あ〜もう俺、飯行くから!」 ウオッカが電気を消して部屋から出ていった。アタシはノロノロと起き上がって、スマホを手にした。 『今日はごめんなさい。体調は元に戻りました。明日からはちゃんと走ります』 それだけ返事をして、再びベッドに倒れ込んだ。 気に入らないスポブラも、慣れてくれば愛着が湧いてきた。あんな無様なことはもう二度としない。そう心に決めてトレーニングに精を出して。 数日後。アタシはちょっとした相談事があって早めにトレーナー室を訪れた。 ノックをしても返事がない。留守かな? 失礼しまーす。と声を出しながらドアを開けると、トレーナーは机で何かの雑誌を熱心に読んでいた。 「アンタ、いるのならちゃんと返事しなさいよ」 「えっ!?スカーレット!?」 トレーナーが慌てて雑誌を閉じた。怪しい。 「何読んでるの?」 彼が本をしまおうとするのを素早く、無理やり取り上げた。現役レースウマ娘のスピードとパワーに勝てるわけないでしょ。 「……な、何よこれ!?」 トレーナーが目にしていたのは、若い女性用下着のカタログだった。モデルにはウマ娘もいて……ところどころ、ページにドッグイヤーが入っている。 変態!最低!見損なった!……その言葉を吐き捨てる前に、気づいた。 これは、アタシのためだろう。トレーナーはアタシのことを1番良く見ている。きっと気づいていたんだ。 「……これ、どこで手に入れたのよ」 普通の男性が買うには恥ずかしい雑誌だ。 「スーパークリークを担当しているトレーナー経由で……」 彼女も、アタシと同じかそれ以上にバストが大きい。そういうの、わかってるんだ?ふーん……。 「で?どれがオススメなの?」 「え?」 「選んでくれてたんでしょ?それとも何?エッチな目的で見てたの?」 そんなわけない!と精一杯否定するトレーナーを笑って。二人で下着のカタログを眺めた。顔が赤くなるのを止められない。何やってんだろアタシ。 それはダサすぎ。そんな色は絶対にナシ!ところでアンタはどれが好みなのよ……などなど言いまくって。トレーニングの時間を大きく削ってしまった。 その後、アタシは最新式のスポーツブラと、何とか彼の好みを聞き出して選ばさせた白いレースのブラジャーを注文した。 時々、トレーナーの視線を胸元に感じることがある。彼も男だから、仕方がないってこと? 一瞬の怒りの後、くすぐったさがそれを中和する。アタシも大人になったってことなのかな。 彼の好みのブラジャーは、まだ着けたことがない。週末はトレーナーと一緒に新しい蹄鉄を見に行く予定だ。その時に、着てあげても良いかも。 週末のことを脳裏に浮かべる最中、彼の声がコースに響く。アタシは快適に走り始めた。