【テイオーとゆめのおわり】 無敗の三冠、会長…いや、皇帝シンボリルドルフとの直接対決の末の勝利、そしてURAファイナルズ優勝… ボクの脚に故障が見つかったのは、全部終わってからだった。 トレーナーはぼろぼろ泣いて、無理をさせすぎたんだって、俺がもっと気を配れていればって、ずっと自分を責めていたけど。 ボクには自分の終わりがなんとなーくわかってたんだ。 だから、脚のことで涙は出なかった。 それと、多分…もう、走ることなんてどうでもよくなっちゃったんだと思う。 あの時のボクは走ること以上に、トレーナーのことが… 結論から言うと、ボクたちは何もかも投げ出した。 リハビリの甲斐あって、少しは歩けるようになった頃、ボクはトレーナーに言った。 「もういいんだ。全部投げ出してさ、トレーナーと一緒に…普通のヒトみたいに生きたいんだ」 「もう走れないボクとでも、一緒に生きてくれる?」 そんな問いに、トレーナーは。 泣いてたかな、笑ってたかな。 弱みにつけ込んだみたいで、ちょっと嫌な気分だったけど。 トレーナーの真意はわからないけど。 頷いて、一緒に頑張っていこうって、言ってくれた、その事が何よりも嬉しくて、涙が出たのを覚えてる。 それからは、意外とあっさりしたものだった。 …あ、でも…引退手続きをして、パパとママに挨拶に行ったり、家を決めたり、あとあと、賞金の受け取り手続きとか…結構バタバタしてたかも? それと…もう見ることもないだろうトレセン学園を見て、ちょっと泣きそうになったりしたけど。 あと!この時思ったのは、頑張って走ってよかったなってこと! ほら、何かを決めるって時にお金に余裕があるって、素晴らしいことだから! 今、ボクたちは片田舎の、ちょーっといい家で!ふたりで暮らしている。 トレーナーは普通の会社員になったみたいで、似合わないスーツを着てる姿がちょっと面白い!いつかサマになる日が来るのかな。 詳しいことは話してくれないけれど、サラリーマンって結構大変だなあって言ってたっけ。 トレーナー業の方が大変そうなのになあ。男の人はよくわからないや。 …あと、もうトレーナーじゃないのに、やっぱりトレーナーって呼んじゃうんだ…全然治らないんだよね、これ… …で、トレーナーが働いてるってことは、ボクがお家のことをやってるってことなんだけど… やっぱりボクは無敵のテイオー様だから、なんだってできちゃうんだよね!ふふん! あと、最近思ってるのは、誰かに尽くすっていうのも、意外と悪くないもんだなあってこと! ボクが走っていた頃、トレーナーはボクに、あんなに、いっぱい尽くしてくれてたんだから、ちゃんとお返ししないとね。 そんなことを思いながら夜ご飯の準備をしていると…あれ、車が止まったみたい。すごく近くで。 バタンッ、ピピーッ、車の鍵が閉まる音。 小走りして玄関に向かう。 ああ、今日も帰ってくる!トレーナーが! だからボクは、今日も! 耳を立てて、尻尾を振って、とびっきりの笑顔で言ってやるのだ! 「おっかえりーぃ!」 【テイオーと侵入作戦】 がちゃり。 合鍵で鍵を開けたら、なるべく音を立てないようにドアを開ける。 なんでって、まだ朝7時だから! 実を言うと、今日はトレーナーとお出かけする日!…と言っても、午後からなんだけどね。 まあ、待ちきれなくてトレーナーの部屋に来ちゃったってわけ。でもでも!こういう日はいっつもボクが起こしてあげてるんだけどね?ふふん! それに休日のトレーナーは寝ぼすけだし、約束忘れてないか心配だし…あと、準備とか手伝ってあげたいし!ほら…寝起きのコーヒー淹れてあげたりとか! 色々考えながら部屋に入ると…ありゃ、トレーナーったらぐっすり寝てる。 でもこれはボクの計算どーり!トレーナーは休日大体10時くらいに起きるんだよね! にしし!上手くいきすぎかも?やっぱりボクって無敵かも?自然と笑いが出てきちゃう! 「それじゃ、失礼しまーす…」 小さな声でそう言うと、ボクはトレーナーの寝ている布団に潜り込んだ。そう、全てはこのためなのだ。 お手伝いしてあげたいとか、心配とか、そんなのウソなのだ。ボクは悪い子だ。でも… トレーナーの匂いが体を包んでいく。それだけで頭がぼうっとして、それで、ふわふわっとして… 最初は何ともなかった匂いが、こんなに好きになってしまうなんて。 「ぅ…あ…」 じわり、お腹の下のほうが熱くなる。ああ、今ボクがどうなってしまってるのかわかる。 別に、頼めば一緒に寝てくれるんだろうけど…いや、それだって嬉しいんだけど!…でも…ボクはこの、こっそり忍び込んで楽しむってことも、それはそれでクセになってるみたいで… 気付けば、まだ寝ているトレーナーに抱きついてしまっていた。 ふわふわした体に、敏感になった全身に、追い打ちのように。 ぐり、とボクの脚に固いものが当たる。 顔が、全身が熱くなる。わかってる、朝だもんね。生理現象だもん。こういうものなんだってわかってる、けど。 ずっと前、前も布団に忍び込んで、それを見て…その、勝手にしたことがある。我慢できなかったんだ。すっごく…その、よかったけど、怒られちゃって…その後しばらくおあずけをくらったのを覚えてる。 「っは……う…」 だから、我慢するんだ。ダメだぞボク。ダメだぞワガハイ。耐えるのだ〜… 匂いでわかる。トレーナーも最近してないんだ。我慢してるんだ。だから、ボクも我慢して、それで… そう、そうだよ。きっと今日のお出かけの後は、いっぱいしてくれるはずなんだから。いや…ボクがやろう。明日動けなくなっちゃうくらい、ぐっちゃぐちゃにしてやるんだから。 紛らわそうとしても、頭の中は真っピンクが散りばめられたまま。 「………テイオー…」 ぽつり、と聞こえたその一言の後。 妄想だけが駆け巡るボクの頭に、眠っているはずのトレーナーの手がぽんと置かれた。 「え?」 ただそれだけで。それがトドメになって。 「あ……っ」 ぱちり、と何かが体の中で弾けるような感覚とともに、ボクは意識を失った。 「はっ!」 目が覚める。 あれ?隣にトレーナーがいない? 「おー、起きたか」 あれれ?トレーナーの声? ばっ!とベッドから出ると、コーヒーを2杯持ったトレーナーが目に入る。 急いで時計を見ると…あれ、11時…? もしかしてボク、思いっきり寝ちゃってた? 起こしに来た側がこんなにぐっすり寝るとはなーと笑うトレーナー。なんだよなんだよ!笑うことないじゃん! そう言ってむくれると、ニヤニヤしながら悪い悪い、だって。ふん! 差し出されたコーヒーを受け取って、二人でソファに腰掛ける。と、聞き忘れてた! 「ちゃんと甘いやつだよね?」 「ああ」 「トレーナーのは?」 「ん?こっちも甘いやつだよ、一緒だ」 へへへ。一緒だって!一緒のコーヒーだって!トレーナーが甘いの飲むなんて珍しい! 思わず上機嫌になって、ニヤっとしちゃう。トレーナーは変な奴だな、って言いたそうな顔で見てくるけど、もー!乙女心がわかってないなー! 二人でコーヒーを飲むだけの、ゆったりした時間。あー、と言ってトレーナーが口を開く。 「そういやテイオー、すごい寝言言ってたけど…」 ドキ! ももももしかして、あの妄想が口から出てた? 曖昧だった記憶が一気に戻ってくる。言葉にすらしたくないのに!恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい! 鼓動が早くなって、顔に熱が集中していくのが分かる。ああ、ボクもうだめかも… 「ゴールドシップと自転車で海底まで行ってたみたいだったが…」 あれ? よかった。違うみたいだ。 ていうか、なんでそんなことになってるんだよ! 「どうした、そんなに顔赤くして」 「なななんでもないよっ!!いやあゴルシったら夢の中まで変なことやってるんだからははは!」 やれやれ、といったポーズでそう言うと、トレーナーもふふふと笑ってくれる。 そんな時間が過ぎていく中、フーと息を吐いてトレーナーが切り出す。両手を大きく振り上げて。アレはトレーナーが何かを決めた時のポーズ! 「よーし!もう昼だし、今日は飯も外で食べるか!」 「ほんと!?ボクねー!今日は和食な気分!」 きっと今日も、楽しい日になるんだ。 笑みがこぼれる。 お昼ご飯を食べて、たっくさん遊んで!あと…えへへ、夜も。 そう、今日はお出かけ!大好きな、ボクだけのトレーナーと! 【テイオーと雨】 いつからだっけ。 トレーナーのこと…こんなに意識するようになったの。 お出かけの帰り、雨の降る中。 トレーナーの車の助手席で、そんな事を考え始める。 トレーナーなんて、誰だっていいって思ってたのに。 ちゃんとボクを叱ってくれたとき? ダービーの後、ずっと脚を治そうと尽くしてくれたとき? ちゃんと俺と向き合って欲しいだなんて、恥ずかしいこと言ってきたとき? もしかして、最初から? 最近なんてもう、トレーナーが他の子を見てるだけで、心がイガイガして…落ち着かなくて… ボクのトレーナーなのに、他の子なんて見なくていいはずなのに。 だから、いつもがんばって気を引くんだ。 自信たっぷりに、テイオー様って感じに。 だって、こんなこと思ってるの…バレたくないもん。 でも、気づかれちゃってたりするのかな。 トレーナーは大人だもんね。 まあ、その時は…その時かな。 でも、何があっても…これからも…ずっーと一緒に頑張っていくんだもん。 ねえ、そうだよね。 ボクだけのトレーナー。 ずっとボクだけを見ててくれるよね。 ずっとボクと走ってくれるよね。 あの時のセンセンフコクを、二人でホントのものにするんだよね。 だって、ボクのトレーナーは、キミしかいないんだから。 「えへへ」 運転席のトレーナーに向けて、ちょっと笑ってみせる。 今のボク、どんな顔してるのかな。 心地よかった雨音が、少しうるさくなった気がした。 【テイオーと敗れた帝王】 ボク今、どんな顔してるんだろう。 昼間なのに布団を頭まで被って、自分を振り返る。 脚に怪我が見つかったのは、ダービーの後。 菊花賞は無理だなんて言われて、泣いたのを覚えている。 そんな困難を、トレーナーと二人で乗り越えた。 菊花賞に勝って、三冠ウマ娘になるはずだった。 勝って、圧倒的に勝って、とびっきりの笑顔でトレーナーの元に帰るはずだった。 そうはならなかった。 ボクは負けた。 ボクは負け続けた。 奇跡の復活なんて、なかった。 菊花賞に始まり、春の天皇賞でマックイーンに。ジャパンカップでカイチョーに。有馬記念で… …もう、思い出したくない。やめよう。 あの怪我以来、ボクは1度も怪我をしなかった。 だから、怪我のせいじゃない。ただ…そう、ただただ負けていただけ。 でも、ボクが負けてもトレーナーはボクを責めたりしなかった。 それどころか、もっと頑張っていこうって、次は勝って見返してやろうって、そんな事ばかり言うんだ。 だから、ボクもそれに答えてあげたくて、必死に前を向こうとしてた。 トレーナーはいつもボクの勝利を信じてくれてたから。 それが嬉しかったから。 それが苦しかったから。 だから、もうやめることにした。 そう決めた時、ちょっとだけ楽になった。 心はずっと前に、折れていたんだろう。 次の日。 今日はトレーニングの日…だったかな? もう、どうでもいいことだけど。 いつものように合鍵でトレーナーの部屋へ入る。 「おはよ」 早いなー、と部屋の奥で返事が聞こえた。 ガサゴソ何かやってるみたい。 ボクは静かにふたり分のコーヒーを淹れる。片方は砂糖をたっぷり。 ふたつのカップを持って、ソファに腰掛けた。 そして、一言目。 「ねえトレーナー」 体が震える。口が重い。 トレーナーがいつになく真剣な顔でボクの隣に腰掛ける。 ああ、いつものボクじゃないって気付いてくれてるのかな。 「…これからのこと、なんだけど」 「……あの…もう…ボクさ、勝てないし…辛いしさ!トレーナーもそうでしょ?勝てないウマ娘の専属なんて嫌だよね、つまんないだろうから…それで…」 涙が出る。なんで? 諦めたはずなのに。決めたことなのに。 言葉が出てこない。スラスラ出てくるように頭の中で練習したのに。 「もう、走りたくないんだ…」 その言葉だけを、なんとか絞り出す。 涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すように俯いて、ああ、顔を見られたくない。 少しの沈黙の後、そうか、と頭を撫でてくれるトレーナー。 無理をさせたな、俺の期待が重荷になったかな、ぽつりぽつりと寂しそうな声。 違うのに。悪いのは勝てないボクなのに。 俺が悪かった、俺がお前を勝たせてやれなかったんだって…もうやめてよ。 自分が惨めになっちゃうよ。 「ボク、トレーナーと離れたくないよ…」 自分を責めるトレーナーを見てると苦しくなって、トレーナーの言葉を遮るようにそんな事を口走った。 ―無理だ。 走らない、走れないウマ娘とトレーナーが一緒にいる理由はないんだから。 「一緒にいてよ」 ――無理だ。 ボクはもう、走らないんだから。 「…ひとりは嫌なんだよ」 ――――嫌だ。 だって、ずっとボクを支えていてくれたのは… 「トレーナーがボク以外のトレーナーになるなんて…耐えられないよっ!」 何もトレーナーに返せていないくせに。 「ボクだけのトレーナーでいてよっ!」 わかってるのに。 我儘ばかり湧き上がって、溢れ出す。 いつの間にか、雨が降り出していて… 気付けばボクは、トレーナーの腕の中にいた。 抱きしめて、これからの事はふたりで考えていこうと言ってくれたトレーナー。 俺はずっとテイオーのトレーナーだからって言ってくれたトレーナー。 あの時、トレーナーも泣いてたよね。 すっごく暗い気持ちになったけど、でも。 ふたりで同じ傷を付け合えたような気がして、同じものを背負えた気がして、嬉しかった。 ていうか、ボクたち好き同士だったんだね。 なら、もっと早くやめちゃえばよかったかな。えへへ… それにあの日、トレーナーと…初めてひとつになった日。 ボクはやっぱり、この人無しじゃ生きていけないって思ったんだ。 きっとトレーナーもそうだよね? トレーナーの人生にも、ボクが必要なんだよね? 今日も雨。 ふたりでぴったりくっついて、ぼーっとテレビを見ていた。 もうずっとトレーナーの部屋から出ていない気がする。 苦いだけだと思ってたブラックコーヒーも、最近ちょっと好きになった。 あれからのボクのことは、トレーナーが上手く誤魔化しているみたい。 いつかバレちゃうんだろうな。 マックイーン…会長…みんな、どんな顔するんだろうな。 まあ…もう、どうでもいいかな。 隣に座るトレーナーが、どうした?と首を傾げる。 腕に抱きついて、にししと笑ってみせる。 「なんでもないよー」 ボクはまだ、笑えてるよね? トレーナーがつけてくれた首の傷を、そっと撫でた。 ――この幸せは、長くは持たない。 わかってるよ。 でも、その終わりがくる日までは。 ボクたちはずっと一緒だよね、トレーナー。 【テイオーと合鍵】 「合鍵?」 「そう!合鍵だよ!」 頬をぷくーっと膨らませて、ソファに座ったテイオーは言う。 「いっつも遊びに来てるんだからさー、そろそろくれてもいいじゃん!」 ふむ、合鍵。 つまりテイオーは、俺の部屋の合鍵が欲しいということなのか。 確かに、最近のテイオーはトレーニングが休みの日は、この部屋…俺の部屋で過ごすことが多いようだ。 「マックイーンもスカーレットも…あとカイチョーも!自分のトレーナーの部屋の鍵持ってるって言ってたんだよー」 「ほー」 「ほー、じゃなくてさあ!このままだとボクだけ遅れちゃうよー!」 …何に遅れるというのだ。 「みんな最近レースの調子も良くてさあー…ボク負けたくないんだよ〜!」 いや…だが、その気持ちは分からない訳でもなかった。 自分も子供の頃に似たような経験がある。 みんなが持っているものを自分が持っていないとか、みんなやっていることを自分だけやっていないとか。 そういうものに焦燥感だとか、疎外感を覚えてしまうのは恐らく自然な事だ。それを遅れちゃう、と表現したのだろう。 それにマックイーン、スカーレットとそのトレーナーと言えば、学園内でも有名な…いや、悪名高いとも言うべきか、その、バカップルであった。…会長さんは少し意外だが。 ああ、そういうものへの憧れもあるのだろう。背伸びしたい年頃、という訳だ。 なんだ、可愛いものではないか! それに、テイオーはいい子だ。悪用するような真似はしないだろう。 となれば、どれどれ。確かスペアキーがあったはず… 「合鍵もそうだけどー、マックイーンたちなんてその辺のベンチでチュ〜なんてやってるし…ボクたちももっとねー…そうそう、ちょっと見ちゃったんだけど、カイチョーなんてこの前さあ…ん?」 「ほれ」 鍵を手渡す。まあスペアはもう1つあるし、とりあえず俺の手元に2本あれば安心だろう。 「あーっ!鍵!いいの!?」 「ああ、悪いことに使うなよ」 一応、釘を刺しておいた。 わかってるって〜、とニヤニヤしながら答えるテイオー。満足してもらえたようで何よりだ。 「むっふふ〜!やっとこれでいつでもトレーナーに会いに行けるんだね!」 「じゃあじゃあ、毎日朝起こしに行くね!あとは朝ごはんも作ってあげる!あとはね〜…」 何やら色々してくれるつもりのようだ。 朝に強いタイプではないので、ちょっとありがたいかもしれない。 いつになく上機嫌なテイオーに、なんだかこちらまで笑みがこぼれる。 「あ、そうそうトレーナー!」 「ん?」 「もし知ってたら、そのー、アレなんだけど」 どこかばつが悪そうに、そわそわとこちらへ歩いてくるテイオー。 「なんだ?」 「外泊許可ってさ、トレーナーの部屋に泊まります、って書いても許可が下りるんだよ」 思わず、返事が途切れる。それはつまり。 「どういうことか、わかるよね。トレーナーは大人だもんね」 気づけばテイオーは目の前に立っていた。…頬を赤く染めて。 …もしかして俺は、まずいことをしてしまったのか? 「ボク…夜も行くから。だから…」 俺の腰に手を回して、テイオーは微笑んだ。でも、その目は。 「…えへへ!これから楽しみだね、トレーナー」 合鍵を貰っているらしいウマ娘たち…なるほど、そういう訳だったのか。しかし…気付くのは遅かった。 トウカイテイオー…彼女は、俺が思っていたよりも… 【テイオーと合鍵 つづき】 「おはよ!」 目を覚ますと、隣からテイオーの元気な声が聞こえる。 「…ああ、おはよう」 「ふふん、トレーナーはねぼすけだね」 …なんだ、まだ6時半ではないか。ではもうひと眠り… わざとらしく目を閉じる。 「あーー!もう!寝ちゃダメだよ〜!今日は平日だよ!ほら起きて起きて!」 「わかったわかった」 そんなやりとりをして、二人でベットから出る。こんな朝にも慣れたものだ。 テイオーに合鍵を渡してやってからだいぶ経った。 ここ最近は週の半分以上、ふたりで朝を迎えている気がする。 「朝ごはん、何にしよっかな〜」 たたた、と軽やかにキッチンへ向かうテイオー。 最近暖かくなってきたとはいえ、朝はまだ少し寒い。 「…あー、先にシャワー浴びた方がいいかな」 「あれ?昨日夜浴びなかったか?」 「だってほら、昨日は…」 …ああ、そうだった。 あの後、そのまま寝てしまったのか。 「あー…」 「…思い出した?ちょっとやりすぎちゃったかな…ゴメンね、えへへ」 まあお互い楽しんでいたし、幸い疲れを持ち越してはいないようだ。 「…ね、一緒に浴びちゃおっか!背中流してあげる!」 「あー、うん。そうするか」 「いえーい!決まり!んじゃさ、お返しにボクの髪洗ってよ!」 …なんというか、俺はそんな生活に、想像以上に慣れきってしまっているようだった。 テイオーの髪を乾かしながら、朝食を考える。 卵とベーコンと何があったか…うん、簡単なものでいいだろう。 テイオーは髪を乾かしてもらうこの時間がやたら好きなようで、尻尾が絶え間なくふわふわと揺れている。 それにしても…何度見ても綺麗な髪だ。 「トレーナー、ボクの髪の扱いも慣れてきたね」 褒められているようだ。 「そうか?」 「うんうん!最初は任せたの失敗したかなーって思うくらいだったもん」 「…そんなにか」 ……少しショックだ。 「うまくなったもんだよ!これからも精進したまえ〜♪」 ご機嫌な帝王様だ。 …結構、頑張っていたつもりなのだが。 自分の髪も乾かし終えて、ふたりでキッチンへ戻ってくる。 「で、ご飯はどーするの?」 「トーストと目玉焼き…とベーコンでどうだ?」 「おっけー!んじゃトーストとコーヒーの用意だけお願いね!」 「おう」 大抵この分担になる。 情けない話だが、調理という面では圧倒的にテイオーの方が手際がいいからだ。 「ふふふーん♪ふふふふーん♪」 テイオーの鼻歌。 じゅわ、と卵に火が通る音。 ふわりと香るコーヒーの匂い。 その全てがなんてことない朝を彩っていく。 「ごちそーさま!」 食べ終わって、コーヒーをひと口…ほんのり甘い。テイオーが砂糖を入れたのだろう。うん、甘い。 …テイオーの方はそうでも無いようだ。 「やっぱりもうちょっと甘い方がいいよお…」 「自分で調整したんじゃないのか?」 「うう…トレーナーと一緒にしようと思って…」 「俺はブラックばっかりだからなあ」 「んもー!ほらほら、砂糖足すからさ!トレーナーも入れて!」 半ば強引に、俺のコーヒーにだばだばと砂糖が注がれていく。 …まあ、最近は甘めのコーヒーも悪くないと思えるようになってしまったが。 「トレーナー!ボクの靴下知らなーい!?片っぽないんだよー!」 「知らーん!」 「もー!どこいったんだよー!」 着替えながら、そんなやりとりをして。 朝食の片付けをして、歯磨きをして…着替え終われば、後は部屋を出るだけ。 こちらの準備が終わる頃、テイオーは玄関で腕を組んで待ち構えていた。 「よーし、今日もがんばっていくよ!トレーナー!」 「おー」 「もっと元気だして!」 「おー!!」 「…うむ!よろしい!いくぞー!」 にっこり笑うテイオーと、手を繋いで学園へ向かう。 なんてことはない、ふたりの朝。 【テイオーと消えたトレーナー】 トレーナーが学園を去って、1年が過ぎようとしていた。 あれ以来、ボクはレースに出ていない。 出る理由がなくなってしまったのだ。 無敗の三冠を成し遂げ、名だたるG1レースを制し、カイチョーとの直接対決にも勝った。帝王は、皇帝を超えたのだ。 ふたりなら最強だった。最高だった。 ずっと、最強でいるはずだった。 目指すところがなくなっても、このヒトの為に走ってやろうと思えたヒトだった。 あの時のボクには、それしかなかった。 それが全てだった。 でも、トレーナーは消えた。それが現実だった。 噂を聞いたが、地元に帰って結婚したのだと言う。 …嘘だ。きっと。 家族が体調を崩したとか、そんな理由で少し帰っているだけなんだ。 だって、そんな素振りは見せなかったじゃないか。 休みの日はいっつも遊んでくれた。トレーニングが長引いても、ずっと見ていてくれた。 他のヒトに構う時間なんて無かったはずなんだ。 毎日、自分に言い聞かせる。 トレーナーは帰ってくる。 またボクと走ってくれる。だから… …トレーナーに貰った部屋着の裾を強く握りしめて、ボクは今日も無理やり眠った。 次の日。 久々に出かけることにした。 …鏡を見れば、なかなかに髪が伸びていた。まあ、当たり前だけど。切っていないんだから。 ジャージ以外で外に出るのなんて久々だ。 服を漁る。…明るい色の服は嫌だ。 髪を下ろしたまま、適当な服に着替えて外に出た。 …太陽が眩しい。 そういえば、どこへ行くかも決めないで出てきてしまった。 …いつもジョギングしているコースを、たまにはのんびり歩いてみようか。 見慣れた景色だ。 何も変わりはない。 気付けば、レース上の前にいた。 …懐かしい。 今日はレース日のようだ。どれどれ、少し見ていくとしようか。気晴らしくらいにはなるだろう。 そんな中。 「あ、あの!」 背後から声をかけられた。 「え?」 「……テイオー…か?」 聞き間違えるはずがない。だって、この声は… 「……トレー…ナー……?」 「ああ!やっぱりテイオーだ…よかった!なんだよ!髪なんか伸ばして!見逃す所だったぞ!」 トレーナーだ。帰ってきたんだ。 久々に、景色に色がついた気がした。 「あの…結婚したって…聞いたんだけど…」 レース場を離れたボクらは、並んで公園のベンチに腰掛けていた。 「…ああ、そうだよ。あー、その…急にいなくなって、済まなかったな」 薬指に、キラリと光る指輪が見えた。 …ホントは、ずっと見えていたはずだったのに、見えないふりをしてたんだろう。 「話自体は前からあったんだけど…その、まあ…お見合いだったんだけどな、急に呼び出されて…」 「…いいよ、そんなこと…その、おめでと」 「…あー…えっと、トレーニングはまだ続けてるのか?ほら、最近レースにも出てないみたいで…」 「うん…トレーナーに貰ったメニュー…ひとりでずっとやってるよ」 「な…新しいトレーナーに付いてもらってるんじゃないのか!?」 …やっぱり、それが普通なの? そんなの無理だよ。 「…そんなことよりさ、トレーナーは…どう…なの?…うまくやれてるの?」 「あ、いや……うーん、それがなあ…」 ああ、聞かなければよかった。だって。 「家ってのもめんどくさいもんだ。そもそも、結婚だって親が決めた事だから…なんというか…」 …やめてよ。 「…ホントに、テイオーとふたりでいた頃が懐かしいよ。楽しかったよな」 …やめてってば。 「また一緒にトレーニングして…レースに出て…テイオーが走ってる姿を見てさ…週末はゲーセン行ってさあ…」 「…走ろうよ」 堪えていた言葉が溢れ出す。 「また走ろうよ!一緒にさあ…!」 「辛いなら全部捨てちゃえばいいんだよ!ボクならそんな思いさせないよっ!」 「テイオー…」 「…おねがい……ボクを、また帝王にしてよ…」 その日。 ボクらは小さなホテルで一夜を明かした。 奪ったのだ。 トレーナーは悪くない。 ボクが、トレーナーを奪った。 ボクのものにするために。 ボクがまた、走るために。 ――だから、ボクが。 ボクが、トレーナーを笑顔にしてやるんだ。 ずっと、笑顔でいさせてやるんだ。 ふたりで笑うんだ。 今のボクは、真っ黒だ。 …でもきっとトレーナーも、真っ黒だ。 「ゴメンね、トレーナー。ボク…」 「…いいんだ。いつかこうなると思ってたんだ」 「え…?」 「……今日、こっちに来てよかったよ」 「トウカイテイオー復活!奇跡の復活!伝説のコンビがここに復活!」 地鳴りのような歓声が、心臓にまで響いてくる。 何時ぶりのレースだっただろう。 ボクは勝った。圧倒的に。 走る楽しみを思い出した脚が、全身が、震えていた。 視界の端に走ってくるトレーナーが見えて、緊張が解ける。 今のボクの隣にはキミがいる。 ずっと、ふたりで走っていくんだ。 昔のようにポニーテールを揺らして、ボクはトレーナーに駆け寄る。 ―――ああ、やっぱり! 「ボクたち二人だとサイコーだねっ!」 大歓声の中、ボクはトレーナーに口付けをした。 ―――そう、全ては。 真っ黒になったボクたちが、また輝くために。 【テイオーと嫉妬】 「トレーナーってさ、今までにカノジョ…いた事あるの?」 ある休日。 ワガママ言って連れてきてもらった砂浜を歩きながら、ボクはそんなことを聞いてみた。 ちょっとした好奇心だった。答えてくれなくてもいいと思ったけど… 「ん?おー、あるよ」 あっさりと答えてくれた。 「へー!意外!」 「…テイオー、そりゃどういう意味だ〜?」 おっと、口が滑っちゃった。 「んもー!じょーだんだよじょーだんー!」 とはいえ、ボクのトレーナーは特別カッコいい訳じゃないし、愛想もあんまりよくないし… こんなヒトに惚れる物好きがいるんだなあって、本気で思ったのはナイショ。 「そのこと、もっと聞いてもいーい?」 「まあ、いいけど…面白いもんでもないぞ?」 「いいのいいの、今日はトレーナーのことを教えてもらいに来たんだから!」 「そうなのか?」 「そうなの!」 「じゃあ、うーん…どこから話したもんか」 意外なことに、トレーナーは色々細かく話してくれた。 どんな出会いをして、どこに行ったとか何をしたとか…その、どんな別れかたをしたか…とか。 時々寂しそうな目をするトレーナーを見て…ちょっと辛くなってきちゃった。 恋って、マヤノが言ってたみたいな…キラキラしたことばかりじゃないみたい。 大人の味、ってやつなのかな? 「大人しいな?」 「え?」 「いやさ、わざわざ聞いてきたから…もっとキャッキャしながら突っ込んでくるのかと」 「…茶化せるようなお話ばっかりじゃないでしょ?」 そう言ってみた。でも、ホントは違う。 なんだか胸が痛くて。 …多分、その…認めたくないんだけど。 これが、嫉妬ってやつなのかな。聞かなければ良かったかも。 少しの沈黙の後、トレーナーはハハハと笑って、ボクの頭を撫でた。 「…昔のことだからな、もう何とも思ってないよ」 「でも…」 「それに、今はテイオーがいるからな」 ボクの気持ち…もしかして、見透かされてる? 何故だかわからないけど、ぷっ、と吹き出してしまった。 「あーあ!やっぱり、トレーナーは大人だなー」 「おお、大人だぞー。大きなヒトだ!」 …やっぱりそうでもないかも? 「…まあ、テイオーのお陰でな、今俺は人生でいちばーん幸せだぞ」 火がついたように顔が熱くなる。 「だから、これからもよろしくな」 「んもー…トレーナーって、時々平然とはずかしーこと言うよね」 じゃあ、ボクからもお返ししてやろう。 「じゃーあ…これからずーーーっと幸せでいさせてあげるから、病める時も健やかなる時も、ボクと一緒にいること!」 「テイオーお前…どこでそんな台詞を…?」 「にっしし!これからもよろしくね!トレーナー!」 そう言って、思いっきりトレーナーを抱きしめた。 よし。来週のお休み、連れてってもらうところは決まったぞ。 暗くなり始めた水平線を見ながら、そう思った。 これからトレーナーの思い出を、ぜーんぶボクとの思い出で上書きしてやるのだ。 もうキミは、ボクのトレーナーなんだから。他のヒトとの思い出なんか、寂しくなっちゃう思い出なんか…いらないはずなんだから。 うんうん、とひとりで頷いた。 …まあ、ホントのことを言えば、ボクはトレーナーの今までなんてどうでもいいんだけど。…負け惜しみなんかじゃないやい! だって今トレーナーの隣にいるのは、ボクだから! ――そして。 これからもずっと、ボクだけだから。 「トレーナー!来週はねー…」 【テイオーと独占力】 …トレーナーがまた他の子を見てる。 それに気づいたのは、トレーニング終わり…クールダウンの最中だった。 まったく、しょーがないトレーナーだ。 今まで何度もそんなことがあった。そして、その度に注意してあげてるのに。 キミは誰のトレーナーなの?キミが見るべきなのは誰?…って風に。 でも、もう我慢の限界。 今日は許してあげないんだ。 ぜーーーったい許してあげないもん。 だから、ちょっと意地悪してやることにした。 トレーナーを反省させてやるんだ。 今日のボクは、本気なのだ! 「ねえトレーナー」 声を低くして、なるべく冷たい声色で、後ろからトレーナーに声をかける。 「…おおテイオー、クールダウンは終わったか?なら今日はそろそろ…」 「また他の子見てたでしょ」 「え?あ…」 「…いっつも言ってるのに、直らないよね」 「う…む、すまん…」 「……ホントはボクのトレーナーなんかやりたくないんでしょ?だから他を見て…」 「な…何を言ってんだ、そんな訳…」 「じゃあなんで直してくれないのさ」 ふふふ、効いてるみたい! …でも、まだまだ!これはトレーナーへのお仕置きなんだから。 「もういいよっ…ボクを見てくれないトレーナーなんて…いらない」 「…待ってくれテイオー!これは君のために…」 「もうトレーナーなんかどっか行っちゃえっ!」 言った! 言っちゃった! ちょっと言いすぎたかな? でも、お仕置だもん。このくらいで良いはずなんだ! 何度言ってもわからないトレーナーには、一度強く言ってあげないとわからないもんね。 えへへ。 これできっと反省するだろうな。ふふん! テイオー様、ごめんよ〜って謝ってくるだろーな! ボクだけ見てくれるようになるだろーな! 心の中で勝ち誇りながら、ニヤニヤが止まらない。 …って、あれ…?トレーナー…なんだか思ったより暗い顔してる? ………ていうか、泣きそう…!? 「…わかった……じゃあ、近いうちに他のトレーナーに変わってもらおうか」 …えっ。 「テイオーが俺に不満を抱いているのはわかったから…その、本当に…すまなかった」 「あ…えっとー…その、ボク…そんな……」 「…ごめんな、テイオー…俺は君の気持ちも考えず…」 …あれ?あれれれ?ボク、そんなつもりじゃ… 「…でも、残念だ…少しでも君の夢の手助けができたらと、そう思っていたんだが…」 ちょーっと意地悪しようとしただけなのに…こんな事になるなんて… トレーナーが変わる…?そんな…… 「………うわぁぁああん…トレーナあぁ……ごめんなさいぃ……」 気付けば、じわりと涙が溢れ出して… ボクは、泣いてしまっていた。 「…なんだ、そういうことだったのか」 あの後泣き出してしまったボクは、抱っこされる形でトレーナー室まで戻ってきた。 …そして、今回のことを素直に話した。 どうやらトレーナーの方は、ちゃんと意図があって周りを見ていたらしくて…ボクは… 「ぐすっ…ごめんね、トレーナー……うぅ…」 「…ハハハ、まったく…本当に愛想尽かされたかと思ったぞ」 …そんな訳ないじゃん。それは、声にはならなかったけど。 それを示すように、トレーナーの腕の中で、ぶんぶん、と首を大きく横に振った。 少しゴツゴツとした手が、優しく頭を撫でる。それが、いつもより嬉しくて。ごめんなさいって気持ちでいっぱいになって… ボクは、より強くトレーナーに抱きついた。 「…でも、ボクだけ見ててほしいんだよ」 散々泣いて泣き止んだボクは、最初にそう言った。 「トレーナーがどっか行っちゃいそうで…怖いんだもん」 …だって、ボクのトレーナーはキミしかいないんだ。 ボクの夢を叶えてくれるのは、ボクをトウカイテイオーにしてくれるヒトは…キミしかいないんだもの。 「…どこにも行かないよ」 ボクの目を見て、トレーナーは言う。 「俺は、トウカイテイオーの…キミだけのトレーナーだからな」 「…そんなこと言って、どーせまた他の子見るんでしょ〜?」 「う…!いや、だから…それはだなあ…」 「にしし!…わかってるよー」 それはきっとボクの為なんだって、わかってる…けど。 「でも、なーんか心配だから…これからも聞くからね」 「キミが本当に見るべきなのは、誰?って!」 【テイオーと略奪】 トレーナーにカノジョがいることを、ボクは知っていた。 校門前で。 街角で。 駅で。 …見かけたから。2人でいるところを、何度も。 匂いがしたから。ウマ娘じゃない…ヒトの匂いが。 綺麗なヒトだった。落ち着いた雰囲気で、スタイルのいい…大人のヒト。 幸せになって欲しいと思った。 トレーナーには、感謝していたから。 トレーナーがキミでなければ、今のボクはいなかったと思うから。 無敗も、三冠も…今までの勝利の全てが、トレーナーのおかげだと、そう思えていたから。 何より、トレーナーのことが好きだったから。 だからトレーナーに、彼自身に、幸せになって欲しいと思っていたはずだった。 でも、それは。その気持ちは。 ―――たぶん、嘘だった。 ある日。 トレーナーの異変に気付くのは、簡単なことだった。 …部屋に戻って問い詰めてみれば、長らく付き合ったカノジョさんに別れを切り出されたのだと言う。 レースのことを、ウマ娘のことを、トレーナーという職を、これ以上にないほどこき下ろされて。トレーナーをやめないなら、二度と顔を見せるなと。 「……俺は…お…れは…どうすれば…よかったのかな…」 トレーナーの目から、ぽろりと涙が落ちる。 「……もう、死にたい…」 トレーナーがどんなヒトかは知っているつもりだった。だから、そんなヒトを傷付けた、そしてウマ娘とレースを罵倒した相手が許せなかった。 でも、ボクはそれ以上に。 …弱ったトレーナーが、ひどく美しく見えた。 可愛いと思った。可哀想だと思った。このヒトが好きなんだとわかった。だから、生きて欲しいと思った。 …ボクのために生きて欲しいと思った。ボクも、トレーナーのために生きたいと思った。そして… ―――ボクのモノにしたいと、思った。 ああ、それが…ボクがずっと抱えていた、本当の気持ちだったんだろう。 あんなに頼りになるトレーナーが、涙を流して、ボクの前でぼろぼろと泣き崩れていった。 そんなトレーナーを優しく抱きしめて、ボクは一言ずつ、語りかける。 「よしよし、だいじょうぶだよ」 頭を撫でる。いつも、トレーナーがボクにしてくれていたように。 「…がんばったね、トレーナー」 「これからは…ボクがトレーナーのことをずうぅーーっと支えてあげる」 「ボクがトレーナーの生きる理由に…ぜんぶになってあげるから!」 「だから…トレーナーもボクのぜんぶになってくれる?」 泣き声だけが、部屋に響いていた。 そして、長い沈黙はトレーナーの声で破られる。ボクを痛いほど抱きしめて、絞り出すような声で、トレーナーは言った。 「…ああ……ああ………テイオーは俺の…全てだ……」 その言葉を聞いた瞬間、ぞくり。 全身が震えて、体がしあわせで満たされて…ふたりの心が、繋がった気がした。 ボクの胸で泣くトレーナーが愛おしくてたまらなくなって、ボクは。 …ボクは、トレーナーとひとつになった。 奪い取ってやったのだ。あの女から。 ある日の生徒会室。 久しく行っていなかったこの場所に、ちょっとした用事で寄ることになった。 「なあテイオー…キミは…」 …カイチョーと話すのも久々だ。 「…どうしたの?カイチョー」 「いや、変わったなと思ってね」 「そうかな?…ちょっと大人になれたかも!にしし!」 「うむ……君の目は、そうだな…いや、本当に…キラキラしていたな…だが今は…」 カイチョーの言葉が止まる。 「…今は、なに…?」 「……いや、それが本当の君だとしたら…」 「…ああ、いや…気にしないでくれ、私は次のレースでも…キミが全力を発揮できることを願っているよ」 「…うん、ありがと!カイチョー!」 それだけ言って、生徒会室を出た。 …そう、ボクは強い。強くなくちゃいけない。 だって、今のボクには…大切なトレーナーがいるんだから。 トレーナー室の扉を開く。 「トレーナー!おまたせっ!」 おう、と手を振ってくれたトレーナーの元に駆け寄った。 トレーナーの膝の上へ、向かい合うように座って…口付けをした。いつものように。 「今日も一緒にがんばろうな」 そう言って、頭を撫でてくれる。心底、安心したような顔で。 「むふふ〜…がんばるぞー!」 ああ、今日も生きててよかったな。 トレーナーが生きててよかったな。 「…ね、トレーナー……どこにも行っちゃヤダよ」 キミがいなきゃボクは、ボクがいなきゃキミは… …ねえ、マヤノ。 これが恋ってやつなのかな。 ボクはもう、お子ちゃまじゃないよね。 ……ねえ、カイチョー。 キミにとってトレーナーとは?って、そんな課題があったよね。 えへへ…やっと、わかったよ。 ボクにとってのトレーナーっていうのはね… ――――ボクの、全てだよ。 その後。 ボク、トウカイテイオーは…URAファイナルズを制し、現役ウマ娘たちの頂点となった。 それでも、挑戦は続く。 だから今日もトレーニングをしながら、走りながら…ひとつ思う。 昔は考えもしなかったけど…ボクも、いつか走るのをやめる日が来るんだろう。 あの日、トレーナーを抱きしめなければ、何も言わなければ、今頃…不安だったんだろうな。 でも、今のボクはだいじょうぶだ。 だって、トレーナーがいるから。 ボクのために生きてくれるキミがいて、そしてボクは、キミのために生きると決めたから。 「トレーナー!どうだったー!?」 「いいタイムだー!流石だな!」 「ふふーん!あったり前じゃん!ボクは無敵のテイオーさまだぞよ!」 「よーし、じゃあ無敵のテイオー様!もう一本いくか!」 「おっけー!よーし!ちゃんと測っててよねー!」 再び駆け出す。…足が軽い。 ああ、きっと。この先どんなことがあっても… ふたりでいれば、絶対に…ボクたちは幸せだよね。 【テイオーとけっこん】 「よーし、じゃあみんな一旦集まってくれー」 かつてトウカイテイオーと駆け抜けた数年間も懐かしいものとなった。 俺はこのトレセン学園で自分のチームを受け持つまでになり、そして今もトレーナーを続けている。 「今日のトレーニングは以上だ…じゃ、コーチから一言頼みます」 「ああ、わかった」 コーチと呼んだ彼女は、ウマ娘である。 腰ほどまである髪をふわりと揺らし、威厳のある口調で、チームの皆へと厳しくも優しく、言葉をかけていく。 自分で言うのも何なのだが、このチームは強い。そしてそれは、彼女のおかげでもあると、自信を持って言える。 「…えー、ボ………私からは以上だ、これからも皆で切磋琢磨していくように」 「…ありがとう、コーチ。では、今日は解散!」 おつかれさまでした!と元気な声をかけられながら、俺も引き上げる準備をした。 「…つっっかれたあ〜〜〜」 車に戻ってくると、助手席の…さっき、コーチと呼んだ彼女は、ため息と共にそう言った。 「お疲れ様、コーチ」 「もー…ふたりなんだから名前で呼んでよぉ」 「…ああ、悪い悪い!お疲れ、テイオー」 「うむ、よろしい!…トレーナーもお疲れ様!」 いそいそと髪を束ね、ポニーテールを作る彼女の指には、キラリと輝く銀の指輪。 そう、彼女はトウカイテイオー。 かつて共に走った相棒であり… 今の…妻である。 「…えへへ!やっぱりボク、こっちの方が落ち着くな〜」 「うん、テイオーって感じだ」 「でしょ!」 テイオーは今、こうしてたまに学園に来ては、ウマ娘たちへコーチをしてくれているのだった。…それと、俺が浮気しないように監視するという意味もあるのだとかなんとか。 ――かつて、トウカイテイオーは夢を叶えた。 無敗の三冠に始まり、皇帝シンボリルドルフを超え、URAファイナルズまでも制してみせた。 そんな彼女がレースの舞台から去ると言った時は…当たり前だが、大騒ぎになった。 トウカイテイオーはこれからどうするのか?なぜレースを引退するのか?トレーナーはどう思っているのか? 数え切れないほどの取材が来た。 そして、彼女はその全てに、ただ一言…笑ってこう答えたのだ。 「ボクはね、今のトレーナーのお嫁さんになるから。だから、レースはもうおしまい!」 …後から聞けば、彼女は自分の脚の限界を感じていたらしい。彼女は、何度も怪我を乗り越えてきた。それが体への負担になっていることを、テイオー自身も理解していたのだろう。また、それと同時にもう満足してしまったのだと言う。…それは、どちらも納得出来る話であった。 あの頃のテイオーは、「荒らす」という言葉の方が似合うほどのスケジュールで、数々のG1レースを制していったのだから… それから、しばらく経って。 トウカイテイオーの結婚、そして引退というニュースが広まりきったある日。 …俺は、思い切って聞いた。 「なあ…俺が断ったら、どうするつもりだったんだ?」 そんな質問に、テイオーは笑顔でこう言った。 「え、だって…断らないでしょ?」 「キミはボクのトレーナーなんだから、ずーーっと一緒でしょ?にしし!」 …まさに帝王。なんとも強いウマ娘であった。 実の所…もちろん、断るはずがなかった。今まで出会った誰よりも同じ時間を共にし、理解し合えている相手なのだから。 その後、両親への挨拶、そして改めてプロポーズをして…俺たちは結ばれた。 同時に、人気、実力ともに絶頂期で引退したトウカイテイオーというウマ娘は、まさしく伝説となったのだった。 そして、今。 「たっだいま〜!」「ただいまー」 「えへへ、おかえり!」「ああ、おかえり」 一緒に家に帰ると、そんなやり取りをするのが日常だ。 「あ、お皿とって!」 「今日は残り物祭りだよ!…ごめんね?」 ふたりで夕飯の準備をして。 「今日、ほら、あのー…金髪の…あの子ばっかり見てたでしょ」 「…ダメだよ、もうキミはボクの旦那さんなんだから…注意すること」 …夕飯を食べながら、こうしてテイオーに詰められて。 「たまにはお風呂、一緒に入ろ!ふふふ、ボクが背中流してあげるぞよ〜」 ふたりで、風呂に入って。 …学園にいる時とは、まるで別人のようなテイオー。大人になった…のだろうか? 「…あ、なんかしつれ〜な事思われてる気がする〜」 「ね、ボク…今日はこれでしたいんだけど…」 一通り済ませて寝室でくつろいでいると、そう声をかけられた。顔を赤くしたテイオーが持っていたのは… …かつて着ていた、学園の制服だった。 …残酷な話だが、テイオーはあまり変わっていない…外見的な意味で。身長もそこまで変わらなければ、胸もあまり大きくならなかった。だから、あの頃の服も…違和感なく着られるようだ。 コーチをする時に髪を下ろしているのも、一人称を変えるのも…皇帝ルドルフへの尊敬のひとつでもあり、同時に大人っぽく見せるためのせめてもの抵抗なのだろう。 …しかし、制服か。なんというか。 この前はかつての勝負服で…その、した気がする。思えばその時もコーチに来てくれた日だった気がするが… 「うーん…テイオーって、意外と……アレだな。スケ…」 「その先は言っちゃだめ!……うう…」 …真っ赤になって、俯いてしまった。 「…今夜は覚悟してよ」 …ああ、長い夜になりそうだ。 目覚めると、胸の上でテイオーがすうすうと寝息を立てていた。 ちゅんちゅんと聞こえる鳥の鳴き声をよそに、起こさないように時間を確認する。 …8時。あのテイオーを相手にした割には意外と早く起きたものだ。 幸い、今日は休日…もう一眠りするとしよう。 しかし…学園では鬼コーチとも呼ばれ、尊敬され、かつてのシンボリルドルフを思い出させるような時すらあるテイオーであるが、家にいる間はこのようにふにゃふにゃとしている。…なんとも不思議な気持ちだ。彼女は確実に成長した、それに寂しさを覚える時もあるのだが… 「…むにゃ…トレぇナぁ……こんにゃくは…ハンドルなんだよぉ……」 訳の分からない寝言が聞こえた。 …どんな夢を見ているのだろう。耳がぴこぴこと揺れている。 「……ゴルシ!!…」 うーん。 …いや、テイオーは…きっとこの先もテイオーのままなのだろう。そう思って、目を閉じた。 【テイオーとおわかれ?】 ボクは、ホントの意味で…帝王になった。 帝王になって、皇帝を超えた! それも、トレーナーが一緒に居てくれたおかげ! 最初はトレーナーなんて誰でも…なんて思っていたけど、ボクのトレーナーは…今のトレーナーにしか務まらない。だから、この先もずっとトレーナーと走っていきたい! 街に出かけた帰り、ボクはトレーナーにその思いを打ち明けることにしたのだ! 「ねぇねぇトレーナー!新しいボクの夢、聞きたい?」 「お、なんだ?新しい夢ができたのか?」 「うん!ボクの新しい夢はね〜…これからもトレーナーと、ずぅーーっと一緒に走ること!」 えへへ、言っちゃった〜!きっとトレーナーも喜んでくれるよね! 「…ああ、そのことなんだが」 「なーに?」 「テイオーには…来週から、新しい担当が付くことになったぞ」 「…え?」 …そんなはず無い。だって、キミはボクのトレーナーなのに。ボクはずっとキミと一緒に走るって決めたのに。じゃあ、トレーナーは別の子の担当になるの?そんなの… 「……あはは!…もう、トレーナーったら冗談きついよ〜」 トレーナーは、真剣な顔を崩さなかった。 「う…嘘だよね?ね?…ねぇ!?」 「いや、俺の方も新しい担当がもう決まっているんだよ」 「う、うそだ…ヤダよ……だって…ボクは…」 「新しいトレーナーもとても優秀な方だ。きっとテイオーはもっと強くなれるぞ」 優秀?強くなれる?…そんなのどうでもいいよ……ウソ、じゃ…ない…の? じゃあ、ボクの夢は…もう… 「…そっか、じゃあ…バイバイだね」 「ああ、残念だが…」 「もういいや。走るのも…飽きちゃったし、ね…」 「…えっ?」 「やめるね…全部。今までありがと」 「あ…えっと…」 「ううん!いいんだ…だって、ボクはトレーナーと一緒じゃなきゃ…意味ないしさ」 「あー…っとテイオー、その…」 「…ずっと一緒だって、そう思ってたの…ボクだけだったんだ…えへへ、ごめん…勘違いしてたみたい」 気付けば、涙が止まらなくなっていた。 前が見えない。 いつも一緒だった…いつも支えてくれた…いつも遊んでくれた…もう会えないトレーナーの顔…見たいのに。 「新しい子のとこでも…がんばってね、おう…えん……しでるがら……」 「……うぁぁあっ……うっ……うう……」 もう、立っていられない。つらくて、たまらなくなって。 「…すまんテイオー!全部ウソだ!ちょっとからかってみたかっただけなんだ!」 ……………え? 「……もう…トレーナーなんか、キライだもん」 抱き抱えられてトレーナー室に戻ってきたボクは、トレーナーの腕の中でそう言った。 ホントはキライなんかじゃないけど…今はキライ。きらいきらいきらい。 「悪かったよ…ちょっとした悪戯心だったんだよ〜」 「…ふーんだ」 「あー、本当に…ごめんなテイオー…キミの気も知らず…」 「…もっと撫でて」 わしゃわしゃ、とトレーナーの手が髪を撫でる。 それだけなのに、ちょっと満足してしまったのが悔しくて。ボクは、抱きしめている腕の力をちょっと強めてやった。 「よしよし…いででで!テイオーちょっと…強い!力が!」 「あわわわ…ごめん!」 すぐに慌てて、力を緩めた。 「…変なウソ、つかないでよ」 「ははは…ごめん」 「笑い事じゃないよぉ!」 「ご…ごめんなさい……でも、俺も不安だったんだよ」 「…結局、走っているのはテイオーだから…俺は観客に…テイオーに、認めてもらえているのかなって」 …そうだったんだ。なんだか、遠回りした気分。 「…しょーがないトレーナーだなあ」 「よしよし!…誰が何と言おうと、ボクのトレーナーはキミしかいないよ」 トレーナーの頭を撫でてあげた。なんだか新鮮。 「…ありがとう、テイオー」 「うむうむ…では、キミは誰のトレーナーなのかな?わかってると思うけど、一応ね」 「俺は…トウカイテイオーのトレーナーだ。これからもずっと」 「にしし!ごーかくっ!」 泣いて泣いて、泣き止んで落ち着いたボクは、改めてトレーナーと向き合い、もう一度。 「じゃーあ、改めて言うね」 「ボクの夢は、トレーナー一緒に…ずぅ〜〜〜〜っと一緒に走ること」 「…トレーナーの夢は、なーに?」 ドキドキしながら、そう聞いた。 「ああ、俺の夢も…テイオーと一緒に、ずっと走っていくことだ」 嬉しい。ああ、やっぱり嬉しい。トレーナーもボクと同じ気持ちだったんだ! 「よろしい!…最初からそう言ってくれればよかったのにー」 「ごめんごめん、もうしないよ」 ニヤニヤしながらそう言うトレーナー。…もー、わかってるのかなあ。 でも…えへへ、聞けてよかった! 「ではトレーナー君!新たなテイオー伝説へ、共に駆け出すぞよ〜!」 ボクの、ボクらの夢は…まだまだ終わらない。