ナイスネイチャの視線の先、抜けるような青空を背景によく磨かれた爪がある。  彼女自身のものだ。  右手をかざしている理由はなんとなく手持無沙汰になったから。  どうしたの。  声をかけられ視線を戻すと、二バ身ほどの距離で彼が振り返っていた。  両手に大きな紙袋をぶら下げながらも平然としている。 「なんでもないでーす」  小走りに駆け寄り、半歩後ろについていく。  そうして現実に戻ればショッピングモールの喧騒が飛び込んでくる。  休日。買い物客もそうでない者も合わせてごった返していた。  ネイチャたちも先ほどまでその群衆の一部であり、用事を終えた今は役目から解放されようとしていた。 「トレーナーさん」  問いかけに合わせ見上げる。彼は背が高い。頭一つ分ほどの差があり、並べば親子と見紛うほどだ。  幸い年齢はそれほど離れてはいない。と、自然にそこまで考えてネイチャは眉間にしわを寄せた。  烏滸がましい。  何故なら彼はあくまで自分のトレーナーだ。専属と言えば聞こえはいいが、関係性が変わるわけでもない。  今日だって蹄鉄を買うからと理由をつけてついてきてもらったのだ。 (とはいえねぇ…)  内心期待が無かったわけではない。が、今はそれすら持ち得ない。  本来休みだというのにきっちりネクタイまで締めたスーツで現れた彼を見たとき、ネイチャはどんな顔をしていただろうか。  ウマ娘としての自分と、少女としての自分。  ネイチャはどちらも自覚している。  レースに勝ちたいけれど半ば諦観していること、期待すればするほど落胆は色濃く影を落とすこと。  それはそのまま彼への想いに通ずるものがある。  淡い期待。もっと別の言葉に言い換えても良いが、正直それは恥ずかしい。  それに、と自身に言い含める。 (どうせ……ネイチャさんじゃね…)  ため息。  するとこちらの言葉を待っていた彼が視線を周囲にめぐらせた。  そして、モールの中でも一際密度が高い一角に目を留め、言う。  疲れたなら少しお茶でも飲もうか。  またため息。  察しが良すぎる。担当として当然のことと言われそうなくらいこちらを良く見ていた。  ただ違うのは疲れているのは身体じゃない、心だ。 「またまた〜ホントはトレーナーさんが休みたいだけなんじゃありません?」  からかうような言葉を口にしつつ、実のところ後悔していた。  これで「じゃあ帰ろうか」などとなっては折角の…折角の……なんだろう。  デート? それともただの買い物?  そんなネイチャの心境をよそに彼はふと表情を和らげる。  ばれたか、と照れ笑いを見せた。  そういうとこなんですけど。 「で、それからどうしたのさ」 「別に……お茶飲んでケーキ食べて…終わり」  ネイチャは窓の外を見つめながら事実を口にした。  夜のため、ガラスは半ば鏡のように頬杖をついた彼女たちを写している。  夕食を終えて閑散とした食堂。窓際のテーブルに三つの影が集まっていた。  主なため息の発生源であるナイスネイチャとはちみつドリンクを啜るトウカイテイオー、そして 「それのどこが不満なんですの?」  自前のティーセットで紅茶を嗜むメジロマックイーンである。  ネイチャは最初はテイオーだけに愚痴ろうと思っていたのだが、おまけがついてきた。  このところ互いをライバル視している二人だけに、ネイチャの話からのけ者にされるのを嫌がったのかもしれない。  はてさてそんな中でネイチャは昼のお出かけのくだりを話し終えたところであった。 「どこがって……」  問われ、ネイチャは口ごもる。確かに起こった事象だけを見れば、 「だって普通にトレーナーとデートしたんでしょー? ボクもよくするよ」 「特に問題があったようには思いませんが。私のトレーナーも同じような感じですわよ」  そうなのだ。  傍から見れば円満なトレーナーとウマ娘の関係そのもの。 「そうなんだけどさぁ」  左手の指先で飲み終わった紙コップを弄びながら、腑に落ちないもやもやとした気持ちを落ち着かせようと試みる。  テイオーたちからすれば当たり前のやりとりに思えるのかもしれない。  けれどネイチャにとっては物足りない。    視線を手元に落とすと艶の良いラメの入った爪がある。テイオーがそれに気づき、 「あーネイチャ大分気合入ってたんだ」  言われ、顔を上げた。にやりとこちらを見る二人。  自覚している。ただ彼に会うために、明日の練習までに落とさなくてはいけないネイルを仕込んだ。  彼が似合っているよと言ってくれた。  こちらから催促したわけではない。  しかし別れ際、紙袋を受け取るときに、さりげない口調で口にした。  それ可愛いね。ネイチャに似合ってる。  思い出すとパタパタと忙しなく尻尾が動き、耳がむず痒いような収まりが悪いような。 「ネイチャさん」  マックイーンが両手でカップを包むように持ち、耳を少し前に倒した。 「お顔、真っ赤ですわよ」 「ホントだー。大丈夫ネイチャ?」  言葉とは余所にからかうような二人の調子が腹立つようなくすぐったいような。  ほんの少しだけ優越感を抱きつつ、この話はもうおしまいと打ち切った。 「ですが」マックイーンはカップの縁をハンカチで拭いつつ言う。「私たちの本分はレースに勝つことですわ」  努々それをお忘れなく。  立ち上がり、去っていく。 「そうだねー。ボクが負けたらトレーナーも悲しむだろうし」  その後をテイオーが追いかけ、並ぶ。  二人の眼には何が見えているのか。  そしてネイチャは自分が何を求めているのか。 「どうなのネイチャさん…」  ガラスの中の彼女は何も答えてはくれなかった。  そりゃ嬉しいに決まってるよ。 「アタシがレースに勝つと嬉しい?」  そんな問いかけに彼は当然とばかりに頷いた。でも仕事だからでしょ、そんな疑念がよぎる。  するとトレーナーは腰をかがめてネイチャに目線を合わせてきた。  真っ直ぐにこちらの眼を見据えてくる。 (近くないっ!?)  突然のことに一歩を下がろうとした彼女に彼は少しだけ強い口調で。  怪我だけはしないでほしい。決して無茶はダメだ、と。  いつもより思いのこもった言葉に、嬉しさと同時にネイチャは嫉妬を覚えた。  おそらく以前に担当の怪我を経験したのだろうなどと勘ぐってしまう。  自分以外のウマ娘の影を見出してしまったことに落胆しつつ、 「分かった…だから……ちゃんと言うこと聞くから」  私だけを見て。  その一言だけはどうしても喉から絞り出せなかった。  ずっと背中を見ていた。  彼のこともそうだ。練習の終わり、立ち去る彼をいつまでも見送った。横に並ぶ勇気はなかった。  ずっと背中を追っていた。 「さぁラストの直線に差し掛かる! 先頭はメジロマックイ―ン! トウカイテイオーが追いすがる!!」  跳ねる泥。ぶつかる肩。届かない後ろ姿。 「ナイスネイチャが飛びだした!! 届くか!? マックイーンは以前先頭脚色は衰えないっ!!」  何で。  どうして。  頑張ったのに。  先にゴールする彼女たちを滲む視界で捉えていた。横に並ぶ機会はなかった。  2500mの距離を走り終え、芝生に倒れ込む。  大の字に天を仰ぎ、観客の興奮冷めやらぬ声に全身を浸す。  ただそれは彼女に向けてのものではない。  否、一部はそうかもしれない。でも殆どは主役に向けてのものだ。  分かっている。  だからこそ。 「……くっそぉぉおおおおおっ!」  彼女の叫びはしかし歓声にかき消される。  レースは終わったのだ。  重い身体を引き摺って控室へと脚を向ける。  地下バ道に入ると、声をかけられた。  立ち止まる。けど、顔はあげない。見られたくなかった。こんなぐしゃぐしゃな表情を。情けない姿を。  お疲れ様。  それでも彼は構わずネイチャの肩に手をかける。  痛いほど唇を噛み、震えをこらえきれずにネイチャは額を彼の胸に預けた。  両手は自然とシャツの胸元に伸び、掴む。 「う…ぐぅ……あぁぁ…」  嗚咽。涙と汗と悲しみと悔しさ。全てをない交ぜにした感情が暗い地下に反響する。  どれくらいそうしていただろうか。  いつの間にか彼の腕はネイチャの背に回り抱きしめる形になっていた。  頑張ったね。  言われ、首を振る。それじゃダメなんだ。他にも頑張っている子はたくさんいる。それだけじゃ。 「どれぇなあざぁぁん……」  勝ちたかった。勝ってみせたかった。  貴方のウマ娘はこんなに立派だと。  でもできなかった。それが全て。  抱きしめる力が強くなる。温もりと嗅ぎ慣れた彼の香りと。  音。  耳が動き、彼の胸板にくっついた。聞こえる。早い鼓動。  緊張してる?  顔を上げた。雫が頬に落ちる。それが涙と理解するのは彼の表情を判別できるようになってから。  ありがとう。震える声で彼は言った。頑張ってくれてありがとう。無事に帰ってきてくれてありがとう。 「……そんなの」  こっちの台詞だとは言えなかった。  そして彼の口が続けて言葉を紡ぐ。不甲斐ないトレーナーで。  そこから先は言わせない。  精一杯の背伸び。  ラストスパートで酷使し力が入らない脚を奮い立たせ、ネイチャは項垂れる彼の首に手を伸ばす。  掴んだ。引く。 「ん……!?」  唇に柔らかい感触と思いきや、期せずして歯が当たって音を立てる。  彼の驚き見開いた目が、潤んだ瞳越しに確認できた。 「……んっ」  ほんの数秒だけの接触でネイチャの方から身を引いた。 「帰ろ、トレーナーさん」  手を伸ばす。呆けた表情の彼が握り返す。 「アタシ次も頑張るよ」  レースは終わった。けれどネイチャにはまだ先がある。  今度は彼だけの一番を目指して。  それだけはあきらめない。  以上がネイチャの結婚式で流れたマーベラス☆な馴れ初め動画でした!