それは、私に初めての友達ができてからしばらく後のこと。 何も言えなかった私、何もできなかった私と、彼が友達になってからのこと。 彼が声をかけてくれたから、彼の(そして一応、私の…)幼馴染の彼女も、 私の二人目の、そして初めての同性の友達になってくれた。 「いい調子ですね、古見さん。これなら、一年生の終わりには30人友達ができるかも…」 彼は私に携帯を返しながら、そう励ましてくれた。 なのに。 私の口は「ありがとう」のたった五文字すら言えない。 私の友達作りをずっと手伝ってくれている、彼の顔をまともに見ることもできない。 震える手で彼との筆談用ノートを開き、慌てて書きなぐった字で、ようやく礼を言うことができた。 一分一秒でも書くのが遅れたら、もう二度と彼が私のそばにいてくれなくなるような気がした。 ノートの字を見てにっこりと微笑む彼の顔を横目で見て、やっと許された気持ちになった。 そんな彼の肩に、いつの間にか近づいていた幼馴染の彼女が、体重を預けてもたれかかる。 「相変わらずもどかしいことしてるね、古見さんも只野くんも。そんなんじゃ残りが集まるまでに卒業しちゃうよ?」 そう言いながら彼女はノートを摘み上げ、ぺらぺらとめくっていく。 彼女の言うことは、正しい。 いまだに直接お礼を言うこともできない私は、二人に頼ってばっかり。 こんな私に彼が愛想を尽かさずにいてくれること自体、夢じゃないかと思えてくる。 あのとき、下足箱で初めて声をかけてくれた彼が、同じクラスで、初めての友達で… まるで奇跡のような出会い。 こんな時間が、いつまでも続いてくれたら…なんて、本末転倒な我侭が心の中で暴れてる。 猫のように彼に絡みつく彼女みたいに、私も人付き合いがうまければいいのに… 彼女のことが、うらやましい。 彼女のことが、うらやましい。 中学のときに同級生だった彼がまた同じ学校で、同じクラスだったことに、ボクは内心小躍りするぐらい嬉しかった。 普通を装う普通まみれの普通じゃない彼の、普通じゃない普通の中学時代を知ってるのは、ボクだけだと思ってた。 数え切れないほどの人と知り合って、友達になって、態度も声色も使い分けて… 仲良くするために必死で息切れしそうなとき、彼の何の変哲もない顔を見ると、すごく安心できた。 でも、そんな自分を認めるのが恥ずかしくて…あの時は男として、つるんでいた。 同性だから、同級生だから、幼馴染だから…そんな言い訳を重ねながら、彼の優しさに甘えていた。 普通まみれの彼が普通をやめようとしたときも、色々吹き込んで、おだてて、一緒に馬鹿なことして… 彼が普通のままであってほしいと、自分の我侭で何度も彼に恥をかかせてきた。 でも、彼が封印したいそんな思い出も…ボクにとっては大切な宝物。 なのに。 悔しかった。宝物を横から掠め取られたような気持ちになった。 彼が高校に入って初めて作った友達は彼女で、ボクじゃなかった。 ようやく女として彼と向き合おうと思ったのに、ボクよりずっと綺麗で、誰もが振り向く彼女が、隣にいる。 普通な彼がそんな女性といること自体、なにかあるはずなのに、その理由を考えることさえ、つらかった。 彼から友達作りを手伝ってると聞いてようやく腑に落ちたけど、自分が手伝うのなんてごめんだった。 彼女は昔会ったときと同じように無愛想で、周りの凡人なんて屁とも思ってないように見えた。 ボクの幼馴染も友人も、彫刻みたいにそこに突っ立ってる彼女の姿に魅了される。 その瞬間、ボクは彼女の魔力に惑わされないたった一人の裏切り者にされてしまう。 そんな彼女が、彼の優しさに甘えていることが、昔の自分を見るみたいで苦しい。 彼の普通さのべールに隠れた非凡な優しさに触れていいのは、ボクだけだと思っていたのに。 彼は彼女に友達が百人できるまで、協力すると言った。 彼がその約束を果たした瞬間彼女を放り出すなんてありえないと自分が一番よくわかっていたけど、 少しでも早くそれが達成されれば、彼がその呪いから開放されるような気がした。 ありとあらゆる人脈を使って、彼女の友達候補と、その情報を集めた。 彼に、ありがとうと言って欲しくて。さすがなじみだな、と褒めて欲しくて。 でも、彼の笑顔は、ボクに向いたものじゃない。 彼の優しさだって、いつかはきっとなくなってしまう。 彼の優しさだって、いつかはきっとなくなってしまう。 そんなことはわかっているのに、まだ、もう少しだけ…そばにいて欲しい。 彼は、私の初めての友達。だから、一緒にいても、おかしくは、ない…はず。 夏祭りの…彼と二人きりの時間は、いつもよりずっと楽しかった。 彼はなぜ、私に付き合ってくれるのだろう。 こんな口下手で、緊張しいで、周りから変な目で見られている私と… ううん、そんなことはわかってる…彼が、誰よりも優しくて、いい人、だから… でも私は、そんな彼の優しさが、このまま続けばいいと思った。 もし私が余計なことを言って、彼の手が私から離れたら、また一人に戻ってしまう気がした。 だから、夏祭りの日も…本当はもっと二人でいたかったのに、みんなでいる時の方が楽しい、なんて素振りをした。 特別な人であってほしいのに、友達のままでもいて欲しい。 あの約束を果たすまで、彼が隣にいてくれればいい。 高校生活のあいだ、この関係がずっと続けばいい…そう思った。 携帯のアドレス帳が友達の名前で埋まっていくたび、彼との距離も縮まる気もした。 でも、もしそれで彼との関係が壊れたらと思うと…怖かった。 だけど、この心の中でゆらゆらと動いているのは、もしかしたら…友情とか感謝じゃなくて、もっと、別の―― 「古見さん、そういうのやめときなよ。初恋って実らないって言うしね」 長名さんから届いたメールは、そんな私の浮ついた心を一気に引き戻す。 わかっている。初めてできた友達との距離感を、私が見誤っているだけ。 助けてくれる彼への感謝の気持ちを、恋慕と取り違えているだけ。 彼の方も自分を好いてくれていると…思いたいだけ。 だけど。 こうして彼と一緒に、同じ方向を向いている間は、彼が隣にいてくれる。 私の他愛ない夢のため、必死になってくれる彼を見ていられる。 ずるい女だと、自分でも思う。 ずるい女だと、自分でも思う。 彼女の友達が増えていくほど、彼との距離が縮まっていくほど、やるせない気持ちになる。 自分が必死になって情報を集め、彼女の友達作りの手伝いをするたびに、二人の仲は深くなる。 自分で自分の首をゆっくりと絞めているような息苦しさがつきまとう。 彼はどこまでもお人よしだから、きっと最後まで彼女との約束を果たす。 彼は律儀な人だから、きっと友情と愛情の垣根を踏み越えたりはしない。 彼は優しいから…ボクも彼女も、甘えたくなる。 そんな彼を、たった一日で三年も縛り付ける彼女が恨めしかった。 自分だって、彼と仲良くなったのは出会ったその日だったのに。 三年間、ずっと勝手に心の休憩所でいて欲しいと思い続けていたのに。 だから、彼女の友達が50人になって…折り返し地点だと喜ぶ二人を見て、心が締め付けられた。 彼の方はちゃんと友達であり続けようとしているのに、彼女の方から領域を侵犯するなんて、許せない。 「古見さん、そういうのやめときなよ。初恋って実らないって言うしね」 冗談のつもりで彼女に送ったメールを見ていると、不意に涙がこぼれてきた。 独り占めしたいから。彼を縛るのは自分であって欲しいから。 そんな気持ちが彼女にばれたらと思うと、背筋がぞっとする。 ボクと彼女は友達なのに、彼が間に挟まると永遠に近づけなくなる気すらする。 彼女が男の子相手に、あんな顔をするのはきっと生まれて初めて。 だってあの目、あの表情は、かつてのボクと一緒だから。 かつてのボクが越えられなかった一線を、越えようとする彼女の足を引っ張らずにはいられなかった。 彼は君だけのものじゃないぞ、と言ってやりたかった。 自分のものでもないのに。 自分のものでもないのに。 彼と知り合ってから、携帯のアドレス帳にも、手帳の連絡先にも、友達の名前が並ぶようになった。 私をずっと励まし、支えてくれる彼は、一人、また一人と友達が増えるたび、自分のことのように喜んでくれる。 幼馴染の彼女も、私のためにずいぶんと協力してくれている。 二人の力がなければ何もできなかった私も、本当はやればできるのだと慢心したくなる。 でも、それは二人と出会えたから。 あの日彼と知り合えて、友達になると言ってくれたから。 昔、ちゃんと話すこともできなかった彼女との間を、彼が取り持ってくれたから。 こんな駄目な私と周囲の皆との間に、二人が立ってくれたから。 私の夢がどんどん現実に近づいて、ちゃんと向き合ってくれる人も増えて、学校に通うのも楽しくなって。 これはきっと、私が望んでいた理想通りの高校生活。 だけど…彼との約束は、直に終わりがきてしまう。 百人まであと何人と、彼が喜びながら指折り話しているのを聞くと、死刑執行日を宣告されているみたい。 百人の友達より、あなたと、長名さんさえいれば充分だって、伝える勇気がない。 ああ。せめて、この時間が終わらなければいいのに。 彼と秘密の作戦を共有して、彼女が知恵を授けてくれる、この日常が続けばいいのに。 「ほら、ちょうど百人目の番号ですよ!ついにやりましたね!」 百人分の連絡先を感慨深そうに眺めながら、彼は笑う。 三年生の三学期も終わりに近づいた頃、滑り込むようにして百人目の友達ができた。 色々あったけど、これでようやく彼女の呪いも解けて、ボクのよく知る彼が帰ってくると思っていた。 ボクも彼女も、彼が自分と同じ大学に行くと信じて疑わなかった。 彼はきっと、ボクたちとこの先も一緒にいてくれると勝手に思っていた。 彼女も彼の手を離れ、対等な友達としていてくれると期待していた。 また三人で、同じ時間を過ごせると…そう、思っていた。 だけど。 彼が進学先に選んだのは、有名でも無名でもない、普通の大学。 偏差値が高くも低くもない、普通の大学。 変わった学部も特殊な設備もなんにもない、ごく普通の…大学。 ボクたちの学校のレベルを考えれば、明らかに吊り合っているとは言えない。 ボクも彼女も、てっきりもっと上を狙うのだと思って、必死に勉強したのに。 でも、大学生としてみれば…多分彼のレベルは、どこまでも、「普通」なんだ。 あんなに長い間彼と一緒にいたはずなのに、ボクも彼女も、彼の非凡な普通さを読み誤っていた。 きっと、彼はそのまま普通に大学を出て、普通に就職して、普通に老いて、死んでいく。 その間、彼はごく普通の相手と結婚し、ごく普通の子供や孫ができるのだろう。 普通じゃないボクたちの恋焦がれる普通の彼は、ボクたちには絶対手の届かない存在なんだ。 「おめでとう…これでもう、古見さんも大丈夫ですね」 そう言って、笑ってくれる彼の顔は達成感と、私への賞賛に溢れている。 裏表のないその笑顔を、直視できない。 「ありがとうございます、只野くん。本当に、ありがとう」 こうして彼といられる最後の日なのに、私の口はそんなことも言えない。 三年間一緒にいてくれてありがとう、これからもよろしくお願いします、とそう伝えたい。 でも、誰よりも優しい彼を、これ以上私の我侭に付き合わせるなんて。 彼の優しさを、自分だけのものにしたいなんて。 私はそんな身勝手なことを、言える立場じゃ…ない。 「はは、結局…最後まで筆談、続けちゃいましたね」 彼の優しさに甘え続けて、自分の口で直接気持ちを伝えようとしなかった。 ノートを間に挟んで、彼のまっすぐな目と向き合うのを避けていた。 長名さんも、相変わらず飄々として、彼との別れを気にしないような振りをしている。 本当は、彼と別の道を進むのがつらいのに。すぐにでも、彼に抱きつきたいぐらいなのに。 「ありがとう、なじみ。お前にはずいぶん助けられちゃったな…」 「いいよ、そんなの。古見さんはボクの友達でもあるんだしね」 照れるように彼女は、自分の髪を指にくるくると巻きつける。 違う。彼女が彼に付き合ってくれたのは、私を助けてくれたのは、彼が好きだから。 幼馴染としてじゃなくて、恋人として一緒にいたいと、そう思ってる。 彼女も私の大切な友達。彼女の想いを、私が踏みつけていいはずがない。 私より三年早く恋していた彼女の想い人を、横から奪っていいはずもない。 誰よりも多くの友達のいる彼女にとって、一番大切な存在である彼を… だけど、彼女は自分から彼に想いを伝えられない。 冗談交じりのアプローチじゃないと、彼をまっすぐ見られないから。 そうやって、自分に言い訳をしないと、彼の優しさを受け止めきれないから。 私と、一緒… 私なんかが、あの二人の間には、立てない… 自分から関係を壊してしまうようなことも、言えない。 二人の高校生活を、私の勝手な願いで、かき乱してしまった。 三人でいられる素敵な時間は、これで終わり。 ノートの最後のぺージの「好きです」の書き付けは、結局見せられなかった。 これを見せたら、彼はきっと…一生、私に呪われて生きていくことになってしまう。 彼を喜ばせるために私に協力してくれた彼女を、裏切ってしまう。 初めての、同性の、友達を…傷つけて、しまう。 百人友達を作るのが夢だったのに、それはもう、叶ってしまった。 皆等しく私の友達なのに、一人目と二人目はきらきらと眩しいぐらいに特別な存在。 その二人との大切な絆を、私は壊しちゃいけない。 この胸に空いた穴は、私の我侭で、彼を縛ろうとした代償なんだ。 「おめでとう…これでもう、古見さんも大丈夫ですね」 そう言って、彼女に笑いかける彼の顔は満ち足りて…どこか、寂しそうでもある。 裏表のないその笑顔を、直視できない。 「ありがとうございます、只野くん。本当に、ありがとう」 相変わらず、彼女はノートに書いた礼の言葉を、彼に見せる。 でも、それは…彼女が口下手だからじゃない。どもりだからでもない。 好きな相手だからこそ、本当に想っているからこそ、口では言えないんだ。 ボクと、一緒、だな… 「はは、結局…最後まで筆談、続けちゃいましたね」 違うんだ。彼女は、君に好きだって、直接言いたいんだ。 友達じゃなくて、恋人になってくださいと、自分の口から、そう言いたいんだ。 君は、絶対に自分から古見さんに想いを打ち明けたりしない。 友達の一人でしかない自分を、彼女の特別な存在にしようとはしない。 約束を違えて、自分から友達をやめるなんて、ありえない。 だから…ボクは彼女の友達として、彼女が想いを伝えられるように…手伝わなきゃいけないんだ。 引っ込み思案な彼女が、たった一度きりの勇気を振り絞れるように。 でも…そんなことを考えると、胸が張り裂けそうにつらい。 自分で自分の恋心にとどめをさす勇気は、ボクには…ない。 「ありがとう、なじみ。お前にはずいぶん助けられちゃったな…」 「いいよ、そんなの。古見さんはボクの友達でもあるんだしね」 いつも通りの笑みで返そうとしても、思うように顔が動いてくれない。 ボクが手伝ったのは、誰よりも君のためだったと打ち明けたい。 彼女のお守から解放されておめでとう、と皮肉も言ってやりたい。 そんな言い方は、彼が一番嫌いなものだって知ってるくせに。 五百万人の中のたった一人に、これだけ心を締め付けられるなんて。 たった一人に、自分の気持ちを全て背負わせようだなんて。 たった一人でいいから、ボクのためにずっと隣にいて欲しいだなんて。 飄々とした態度を装ったつもりでも、すぐにボクの心は彼を絡め取ろうとする。 彼にとってのボクは、ただの、中学の同級生。 色んな秘密を知っている、一緒に馬鹿をやった悪友。 彼女の夢を叶えるために、三年間つるんでいた仲間。 からかうようにアプローチしても、彼は冗談と本気の区別がつかない。 ボクと彼女の心の中までちゃんと見通しているのに、自分への気持ちだけは都合よく見えない。 ボクが幼馴染として彼と接している限り、彼はずっとボクの幼馴染でしかない。 彼にとっての大切な人は、ボクじゃない。 ボクにとっての特別な幼馴染は、ボクにとっての大切な人にはなってくれない。 この胸に空いた穴は、ボクの我侭で、彼を縛ろうとした代償なんだ。 卒業式の後、二人で一年生のときの教室に忍び込み、机の間をゆっくりと歩く。 彼女も、チョークを摘んだ手をじっと見つめている。 「あはは…お互い、ふられちゃった、ね…これで、初恋失敗同盟結成だ」 「そうですね、なじみ、さん…」 ボクの喉も、彼女のチョークを握る手も、こみ上げるものをこらえてぷるぷると震える。 彼女の心の中が透けて見える気がする。 きっと、ボクの心も彼女に筒抜けなんだ。 「彼、察しが…悪い、か、ら…ごめん、ちょっと…」 「ええ、ほんとう、に…」 彼のいない教室で後ろの黒板に向かって二人で並んでいると、涙がどんどん溢れてきた。 顔を両手で覆っても、後から後から顔中の水分が流れ出てくる。 横で座り込んでる彼女と抱き合って、大声でわんわん泣いた。 同じ気持ちを共有したもの同士、互いの心の穴を気遣うように、彼への想いを交換しあうように。 終礼のベルが鳴る。 泣き腫らしてぐじゃぐじゃになった顔を向かい合わせながら、私と彼女は立つ。 「ね、硝子ちゃん…大学でも、よろしくね」 「こ、こここ…こち、こちら、ここここそ…なじ、なじ…み…さん」 この三年間を共有しあえる、親友ができた。