一枚の絵が掛かっている。人によっては視線を向けた途端、目を逸らしてしまうだろう。 第一、それは場の雰囲気にあまりに似つかわしくなかった。ここは老若男女の訪れる場、 人々が憩いを求めて、あるいは日々の糧を求めて――訪れるような商業施設には、 裸体の女三人と、同じく裸体の男が笑顔で描かれている絵は望ましくあるまい。 そしてまた、明るく華やいだ暖色系の色使いは、電灯も点かない廃墟にあったととろで、 描かれている女たちのにこやかな表情と共に、滑稽さをも重ねた不気味さを生んでいた。 武勇伝作りのために。ただの興味本位。動画撮影。廃虚に足を運ぶ理由は様々だ。 そうして訪れたものたちは、目の前に現れる女たちのあられもない姿に、 下卑た視線を向けることも忘れ、ぞっ、とするようなおぞましさを覚える。 絵は、何も一箇所だけにあるわけでもなく――階段を登ったり、角を曲がったり、 何気なしに視線を振った先に、必ず一枚は掛かっている。どれも同じ構図ではない。 あるときは、三人が閲覧者に向けて笑いながら、男に乳房を揉まれて並ぶ絵だったり、 逆に、丸々むっちりとした尻を、画面の外側にいる思しき男に向ける構図だったりする。 彼女らが心の底からの親愛を“彼”に向けていることは、数枚見るだけで十分読み取れた。 大衆の目を引く何かを見つけられないなら、自分でそれを作るのが一番早い―― 人はそうして、自ら手を汚すことを選ぶ。演出された嘘を流すことに慣れてしまう。 かつての彼女たちも、あるいはそういった人間のうちの一部だったかもしれない。 よほどの情報通なら、絵の中で男に甘えるように絡みつく茶髪の女の名だとか、 長い金髪をいじましく指でくるくる巻きつつ寵愛をねだる別の女だとか、 もう一人、少し引いたところで恥ずかしそうにしながら手を引かれる銀髪の女だとかの、 それぞれの名前を言い当てることもできただろう――失踪事件の当事者の名として。 女たちはその男一人に対して、甲斐甲斐しく尽くしているようであった――絵を見る限り。 性行為の瞬間を描いた絵では、必ず三人が揃って彼との行為に及んでいる。 挿入を受ける一人の他に、二人は男の身体に裸体を絡みつけて甘えて、 また別の絵では、自分の番が来た悦びに打ち震え――他はそれを微笑ましそうに見守る。 時には、男の性器を竿と玉、二人がかりで舐めているその裏で、 尻穴を舐める銀髪が股の間から覗いたりも。赤裸々で爛れた性の姿が、そこにはある。 彼女らは世間から身を隠したとは思えぬほどに、幸せそうに男に奉仕していた―― なればこそ、黴と埃と錆の臭いの漂う廃墟に、それだけの春画のあることはおかしい。 訪れる何者かに、女たちの現状を見せつけるかのように、執念く絵は現れるのだ。 絵の赤は、暗闇の中でも目を引きつけるようにぎらぎらとした生気に満ちている。 そこだけが、何か別のものを直に塗りたくられているかのような立体感だ。 誘惑に駆られて顔を近づけたものたちは――すぐに、鼻に付く鉄の臭いに顔をしかめる。 滴るような艶めいた赤。それは女たちの白い肌の下に流れる生命の赤である。 膨大な数の絵画、その面積と等しいだけの赤が、この空間では消費されているのだ。 不気味さに来訪者が入り口に足を向けると――必ず、三人が足を開いて、 純潔の証を、彼に捧げている絵が目に飛び込んでくる。やはりそこに見える赤は、 今にも腿を伝って降りそうなぐらいに生々しく、同時に毒々しくもある。 そして自分がこの廃墟に閉じ込められたことを悟るが否や、 まるで取り憑かれたように、他の絵をも探して回るようになるのであった。 足音は自分のものだけ。どこかからの水漏れの音や、瓦礫の崩れる音こそあれど、 孤独を振り払うほどのものは何もない。そこに、幸福に満ち満ちた女たちの絵が映る。 それは破滅への一本道だと、恐怖に麻痺した理性は警鐘を鳴らすのだけれども、 人はそうして、無為に闇の中を彷徨えるほどには強くできていないのである。 初夜から順々に、女たちが彼に仕込まれて性的に育っていって―― 手、胸、口、髪、腋、足の指に至るまでの一切での奉仕を身に着けていく様は、 誰か縋るべき相手を求めてふらふらと廃墟を歩き回る己の姿と酷く重なる。 やがて、最初に見た――三人が胸を揉まれながら微笑む絵の前にやってくると、 自分はこの場所から永遠に出られないのだ、との思いが強くなる。 けれども――改めてよく見ると、それは全く同じ絵であるとは言えなかった。 女たちの体つきは、男との濃密な時間の中で雌としての才能を花開かせて、 乳房も一回りは大きくなっていたし、腰や尻回りの肉付きもよくなっている。 何よりその手には、一本ずつ妊娠検査薬が握られているのだ――赤い縦線の浮かんだ。 男は絵の中で女たちの乳房だけでなく、腹部をも丹念に優しく撫でてやる。 そこに自分たちの子がいるのだと、見るものに祝福を要求するかのようだ。 彼女らは、妊娠によって張った胸をお互いに揉みほぐし合ったりして、 同じ男の種で孕んだもの同士、実に睦まじく支え合っているようであった。 腹部の膨らみは、次第にくっきりと目立つように描かれ始める。 妊娠初期の間は、どの女も膣での性交を避けて胸やら尻やらでの行為の絵が多く、 前の解禁が、彼女らの安定期を示していることは統計を取るまでもないこと。 そして乳首の色も、後の絵ほど濃くなっていき、乳輪の広さもそれに比例する。 いつしか迷い人は、女たちがこの廃墟にて雌としての幸福を得たことを、 本人たちに会うまでもなく知り――祝福し、妬み、己の狂気に恐れを抱く。 出ること、帰ることよりも、三人の孕み女たちに会いたい、とそう感じている自分に。 重たそうに揺れる乳と臨月胎の迫力は、それが静止画であることを忘れそうなほどだ。 波打つ肉と肉、飛び散る汗、こぼれ落ちる甘い嬌声と切なく自分の番をねだる声―― 見ているうちに、それが本当に目の前に再現されてくるかのような筆さばきは、 ここが廃墟ではなく、あるいは画廊か何かであったかとも錯覚させてくる。 身重の三人を、男は何の容赦もなく犯し――膣内に精を吐き出す。 その生臭い体液の臭いが、鼻の奥まで入り込んでくるかのようであった。 男が――恐らくはこれらの絵の作者である――彼がこれだけの連作を描くのに、 一体どれだけの時間と熱意とを、そこに注ぎ込んだのであろう? 破瓜、受精、妊娠、とくれば、当然その次――出産の絵を見たくなるのが人の性だ。 だが大きく膨らんだ胎で淫蕩に耽る三人の絵は膨大な数があるのに、 こと出産となると、それが一向に目の前に現れてはこない。 足を棒にし、血走った目で瓦礫に服を掻き切られながら探し求めた先にようやく、 産婦たちがぱんぱんに膨らんだ胎で、顔をしかめながら――お互いに手を握り合い、 息と力を合わせて、最大の難事に向き合おうとする絵が見えてくる。 しかし羊水の一滴一滴までをもつぶさに観察し描ききったと思われるそれの中に、 赤子の頭らしきものは見えない。生命の蠢きがそこには感じられない―― 出産途中の、赤子の姿を確認できるものはこの廃墟のどこにも見受けられない。 ただ、三人が産後の弛んだ腹で呆然としながら、臍の緒をぶら下げる姿のあるだけだ。 後産にて胎盤をひり出した絵はあれど――それが繋がっていた先のものが、ない。 女たちは黒ずんだ乳首からぼとぼとと母乳を垂れ流し、甘ったるい白の川を肌の上に引く。 それを飲む権利を有した赤子たちの不在のまま、男はそれを旨そうに啜っている。 女たちも、我が子の行く末を全く気にしてもいないようぇあった。 その次に目に飛び込んでくるのは、彼女たちが赤い何かを波々と注いだ容器を抱える絵。 そこから溢れ出しそうなほどの立体感――激しい嘔吐感を催す、新鮮な血の臭い。 なければ作ればいい。その単純な事実に気付くと――これまでの赤の出処が見えてくる。 女たちはただ――彼に“赤い絵の具”を提供するためにここにいるのだ、と。